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山崎照朝の情報 (やまざきてるとも)
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【5月19日】今日誕生日の芸能人・有名人

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山崎 照朝さんについて調べます

■名前・氏名
山崎 照朝
(やまざき てるとも)
■職業
格闘家
■山崎照朝の誕生日・生年月日
1947年7月31日 (年齢76歳)
亥年(いのしし)、獅子座(しし)
■出身地・都道府県
山梨出身

山崎照朝と同じ年に生まれた芸能人(1947年生まれ)

山崎照朝と同じ誕生日の人(7月31日)

山崎照朝と同じ出身地の芸能人(山梨県生まれ)


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山崎照朝

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山崎 照朝(やまざき てるとも)さんの誕生日は1947年7月31日です。山梨出身の格闘家のようです。

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ファイティングスタイル、人物などについてまとめました。卒業、兄弟、テレビ、引退、映画、現在に関する情報もありますね。現在の年齢は76歳のようです。

山崎 照朝(やまざき てるとも、Terutomo Yamazaki, 1947年7月31日 - )は、日本の武道家・空手家・キックボクサー・ジャーナリスト・歌手。空手道段位 : 七段。身長177cm、62kg。異名は極真の龍・天才。

空手道の一つの理想的な組手を、フルコンタクト空手で示したことにより、歴史に残る空手家だと評価されている。アメリカ合衆国の武道雑誌『ブラックベルト』にもその名は刻まれており、真剣を思わせる切れ味鋭い技で、自らは傷を負わずに対戦相手をバッサリ斬ってとるファイティングスタイルから、キックボクシングでも幻の名選手と評され、異なる格闘技で一時代を築いた強豪である。極真会館出身。

選手を退いてからは中日スポーツ・東京中日スポーツの格闘技評論家・ジャーナリストとして活躍し、ボランティアで空手を指導している。日本大学農獣医学部卒業

山梨県東山梨郡大和村(甲州市)で五人兄弟の第四子・次男として生まれる。空手を修行しようとしたキッカケは、山梨県立都留高等学校の入学式に番長グループから「身体がデカイのが気に入らない」と因縁を付けられたことだった。大人数に囲まれても頭を下げずにいたのでケンカになりかけたところに、中学の先輩が間に入ってくれてその場は収まったが、まともな学生生活が過ごせるか不安になっていた。番長グループの一人が空手使いだったことから、このとき空手道という武道があることを初めて知り、興味を抱いた。八王子市にある最も近い道場にその空手使いが通っていたことから、他を探していたところ、池袋にある空手道場の広告を見つけた。東京都に住んでいた姉へ遊びに行くことを口実にして、見学してみようと極真会館本部道場を訪問した。

その内容は基本稽古と移動稽古 のみであったため、山崎には何か強さに結びつかない割り切れないものを感じていた。更に2回見学し、同じ感想を持った。しかし、番長グループとの対決を想定していたので諦めきれず、これが最後と決めて4回目の見学をした。ここで初めて互いに突き・蹴りと何の遠慮もない攻防で、相手に直接打撃する自由組手を見て、まさにケンカだと思った。特に大山泰彦の動きに衝撃を受け、とっさに「こんな連中と戦ったらやられてしまう。こうなったら早く習った方が得だ」と思い、翌日に入会に必要な金額を姉から借りて、入門した。

極真会館は大山道場から刷新された直後だが、指導内容は大山道場時代からのものをそのまま踏襲していた。館長の大山倍達を筆頭に、大山道場時代からの師範代である石橋雅史・黒崎健時らが指導を行っていた。先輩には大山茂・大山泰彦・千葉真一・郷田勇三・藤巻潤・中村忠・加藤重夫・藤平昭雄・芦原英幸らがいて、共に稽古を重ねた。

当時は「空手なんて不良がやること」という風潮があり、両親が空手の修行に反対することはわかっていたので、入門は内緒にしていた。そのため、東京へ通う口実として「歌手になりたいから、東中野にある歌謡スタジオに行きたい」と頼んで了承をもらった。歌謡スタジオのレッスンは週2回のみだったので、他の曜日に内緒で道場に通うことや、池袋までの往復運賃と月謝などの金銭面で高校生の山崎には、空手の修行以前にそのやりくりで大変苦労した。元々空手の修行の口実で始めた歌謡スタジオには2年半通ったが、このレッスンは空手にもプラスになった。

授業が終わり列車に飛び乗り、片道4時間かけて池袋にある本部道場へ入れるのは早くても19時前である。当時、夜の部の稽古は18時30分から始められていたため、いつも基本稽古の途中から加わっていた。規定では21時に稽古は終わるのだが、この当時は時間通りに終わることはなく、21時30分や22時が普通であった。道場を22時過ぎに出て新宿を23時の列車に乗り、最寄の初鹿野駅に着くのが夜中の2時。路線バスも終わっており、歩いて帰って寝るのが真夜中の3時で、朝7時には起きて通学していた。普通の家ならとても許されない時間の帰宅であるが、山崎家は当時、川渕の家に両親と妹・弟が、兄と山崎は国道沿いの古い家に住んでいた。いずれ引越しをするまでの一時的な生活であったが、同居の兄の理解もあり、深夜の帰宅も両親には知られずに済んだ。

入門したては誰でも自由組手が一番恐ろしいと異口同音に言うが、山崎もそうだった。基本や型などは自分の肉体との闘いであり、自分自身の問題であった。しかし、組手は相手が技術的に山崎より数段上で、山崎が殴る・蹴るよりも、山崎の方が殴られ・蹴られるのは目に見えていた。油断していると顔面や金的に喰らってしまうのでそれ相応の覚悟で望むのだが、指導員の「これから組手をする」の言葉にいつも身震いしていた。大山倍達が「強くなるためには、相手を恐れてはいけない。目の前の恐ろしさを一つ一つ乗り越えて行かなければ人間も大きくならないし、技も身につかない。初めから黒帯より強い自信があるんだったら、稽古する必要がないではないか。おもいきりぶつかって身体で技を身に付けなさい。ケガは強い人ほどしない。ケガをするうちはまだまだだ」と励みの示教をしていた。山崎は稽古の度にどこかケガをして、足を引きずって帰っていた。しかし、大山の言葉にいつも新たな闘争心をかき立てられ、番長グループとのケンカが頭にあった時だったので、ここで止めたらケンカに負けるとおもい、組手に恐怖心を抱きながらも通い続けた。

番長グループとのケンカは、2年生のときに1回だけしてしまった。学校に下駄を履いてきたのが生意気だと難癖をつけられたのである。それまでにパーティ券やなんらかで金集めをする番長グループに、山崎は一切応じなかったから、番長グループは山崎に対して相当頭にきていた。今度は教室が閉ざされ、山崎以外は全て番長の仲間ばかりである。あまりの多勢に山崎は開き直り「1対1の勝負ができないのか」と言うと、何人か出てきたがそのうちの一人と対戦した。結果は相手が蹴ってきたところを後屈立ち で間合い を詰め、左手で相手の足を抱えるように持ち、山崎が腰投げで後ろに反り投げして終わった。これ以降、山崎が空手を修行している噂が校内で流れ、番長グループも手出ししてこなくなっていた。結局、卒業まで番長と決闘せずに終わった。

ケンカに負けたくない理由で始めた空手もこの頃には、山崎は稽古のおもしろさを感じ出していた。しかし、遠距離での道場通いの為、稽古量は仲間との差が常に広がっていた。「稽古時間が欲しい。もっと稽古に出たい」と焦っていた山崎に、大山倍達は「強くなるためには指導員が教えている時だけ稽古していても強くならない。空手の土台は基本稽古だが、この基本を支えるのが基礎体力なんだ。体力を作る稽古はどこにいたってできる」と助言した。道場稽古に週2、3回参加するのが精一杯だった山崎は、通えない日は地元で家業の農作業や、月謝や往復運賃稼ぎのアルバイトも兼ねて土工仕事を行い、それらが体力作りとなり、基礎体力の増強に繋がった。結果的に自らの身体を強靭にし、体重62kgと軽量であった山崎が無差別級の極真空手の直接打撃制で戦えた要因の一つとなったのである。

卒業後、東京で働きながらようやく毎日道場で稽古していたが、進学を決意して仕事を辞め、日本大学農獣医学部へ入学した。しかし、学生運動が激しくなり大学そのものが一時期閉鎖され、通学できない。友人は田舎に帰ったり、アルバイトしたりといろいろな過ごし方をしていたが、山崎は大山倍達の勧めもあり空手の稽古に専念することにした。今まで夜の部の稽古のみだったのが、一部の朝の稽古が終わる昼頃に道場に入り、バーベルなどで体力作りに精を出し、16時からの二部の稽古に出席。調子がよければ三部の夜の稽古にも顔を出し、帰宅するのはいつも23時頃という空手中心の生活が始まった。

この頃の極真会館は「黒帯を允許される者は百人入門したうちから一人いるかどうか」と云われる修行の厳しさだったが、山崎は白帯からいきなり茶帯に昇級。橙・青・黄・緑の各帯を飛び越えて、白帯から茶帯へ四階級特進した山崎のような者は稀であった。1967年4月15日には黒帯(初段)を允許。黒帯を締める人間は一握りと言われていた極真会館で2年半での取得は最短記録だった。同年10月10日に弐段へ昇進。その後、本部道場及び米軍のキャンプ座間で指導と自らの稽古を行なっていた。

1969年1月、TBS・日本テレビに続き、NETが『ワールドキックボクシング』を放映開始。NETはムエタイ選手や日本拳法空手道ら空手の各流派に出場要請をして選手集めをするほか、極真会館へも同年2月に参戦依頼をしてきた。大山倍達は当時の高弟から山崎・添野義二・及川宏を選出して極真ジム所属のキックボクサーとして参戦させ、彼らは「極真三羽烏」と紹介された。山崎は「目立つのが好きじゃないし、プロになるつもりはなかった。だがNETは沢村忠の30連勝をストップしたルンピニーランカーのカンナンパイ・ソントーンを、対戦相手に用意していることに心引かれ、『1,2戦のみだけではだめですか? キックボクシングがどういうものか知りたいし、そのカンナンパイと戦ってみたいのですが…』と大山館長にお願いした」と吐露している。極真ジムとして参戦していたので、セコンドには佐藤勝昭など門下生がサポートした。

山崎ら3名にとって、わずか2か月の準備期間で他格闘技のリングに上がることは無謀と言っても過言ではない。デビューするまでは、ほとんど本部道場内の地下道場とボクシングの荻窪ジムで練習していた。その頃の山崎は「俺は極真カラテ一筋。他格闘技は意地でも習わない」という考えだったので、まさに「空手対キックボクシング」の異種格闘技戦であった。山崎は「米軍のキャンプ座間の道場生には身長2m近く、体重が90kg以上の身体が大きい者ばかりが十数人いて、中にはボクシングをやっている道場生もいた。彼らを相手にして体力負けしない技を研究し、組手していたから、同じ体重なら絶対負けないという自信はあった。パンチもある程度慣れていたし、それが試合をする時に支えになった」と述懐している。大田区体育館でデビュー戦を迎えた山崎の対戦相手は、ムエタイのライト級6位のピサタン・ラートカモルであった。左前蹴りから右上段回し蹴りと繋ぎ、ラートカモルがよろめいたところを右ストレートで2R45秒でKO勝ちした。2戦目で希望していたカンナンパイとの対戦が実現する。試合開始後、山崎は第1戦と同様に前羽の構え で相手からの攻撃を待っていた。カンナンパイはしばらく様子を見ていたが、微動だにせずにいる山崎に痺れを切らし、右ローキックで攻撃してきた。山崎は左脛でブロック後、逆襲に転じる。左右の前蹴りをカンナンパイの鳩尾へ入れ、息を詰まらせ戦意を失いかけているカンナンパイに止めの右ストレートを打ち込み、1R1分33秒でKO勝利した。カンナンパイは「山崎のパンチは石で殴られたような強烈なものだった」と敗戦のコメントを残している。カンナンパイは試合後、あまりの山崎のパンチの痛さと硬さを信じられず「ヤマザキはグローブの中に石を入れている!」と抗議したほどである。

極真カラテが好きでたまらない山崎にとって、空手スタイルで勝てたことは大きな自信になった。しかしムエタイの速射砲のように繰り出すリズミカルなコンビネーションを体感し、空手とは違ったその素晴らしい技術に衝撃を受け、躊躇せず体得しようとした。そして日本の大学で初の『日本大学キックボクシング同好会』を結成して初代主将となる。同好会は後に部へ昇格し、1972年10月には全日本学生キックボクシング連盟が発足され、山崎は同連盟の設立に尽力した。同好会ではタイ人のトレーナーがいるジムへ通い、教えを請うた。特に回し蹴り・肘打ち・膝蹴りなどムエタイ特有の高度なテクニックを教わった。着実に自分の技として会得後、本部道場やキャンプ座間での積極的に組手で使い始めた。体重制のムエタイと無差別級の極真カラテの直接打撃制では相手の体格やレベルにより、戦い方も違ってくるため、必要に応じてムエタイの技を使い分けることで、組手のスキル向上に繋がった。

山崎はカンナンパイとの試合前に「勝っても負けてもこれ以上、リングに上がって戦わない」という約束をプロモーターとしていた。ところが、カンナンパイを1RKO勝利したことでワールドキックボクシングは、TBSの沢村忠、日本テレビの大沢昇に対抗すべくエースとして、山崎照朝に白羽の矢を立てたのである。「プロではない。プロになる気はない」という考えを周囲になかなか理解してもらえず葛藤していた山崎だが、キック界に生まれた新しいスターを周囲がほっとくわけもなく、プロモーターはその約束を無視するかのように再三、再四出場を要請してきていた。山崎は断り続けていたので、プロモーターはとうとう大山倍達に泣きついた。大山も相手が気の毒になったらしく山崎に「何回も私のところにきて、君が出てくれるよう何度も頼まれるんだが、出てあげたらどうかね」と言われ出場したが、その一方で大山は極真会館初のオープントーナメント全日本空手道選手権大会にも出場を命じた。

1969年9月、極真会館主催の第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会が開催された。参加選手は48名でA・B・Cとトーナメントが分けられ、それぞれ勝ち上がった選手同士で決勝リーグ戦を行う形式であった。選手権前の心境を山崎は「直接打撃は問題ないが、「オープントーナメント」と謳っている以上、どのような挑戦者がエントリーしてくるのか、気がかりであった。架空の敵を想定しながら稽古を続け、大山倍達館長も色々と細かいアドバイスをして下さり、大変参考になり何より心が落ち着いた」と振り返る一方で「何としても負けられない。私か添野義二か、どちらかが全日本のチャンピオンになると…。もし、我々極真カラテの黒帯が他流派や他の格闘技者に負けたら極真カラテはそこで終わってしまう」と、精神的重圧が相当なものであったことを認めている。

このプレッシャーに負けず、キックボクシングで使った前羽の構えや、円心の構えを対戦相手に応じて変え、従来の空手道にムエタイの技を加えた攻撃で、ほとんどの試合を一本勝ちした。中には、他流派と山崎の対戦がケンカ同様の展開となり、間に入り一旦中断しようとした主審の関川博明 が双方から突きをもらい、関川が失神してしまった試合もあった。決勝リーグ戦に進出し、残り2つのトーナメントから添野・長谷川一幸が勝ち上がってきた。この三者で行われ、添野を判定で優勢勝ち・長谷川には回し蹴りで一本を決め、優勝した。当時は「組手試合」の他に、厚さ2.8センチメートルの杉板を使用した「試割り試合」もあり、正拳3枚・足刀 4枚・手刀5枚・猿臂エンピ))4枚の計16枚で優勝をし、ダブルタイトルを獲得した。山崎はこの喜びを白帯時代に指導を受けた石橋雅史へ連絡し、謝意を示している。

全日本チャンピオンになった後、再びキックボクシングの試合のオファーがきた。二度と参戦するつもりはなかったが、盟友である添野義二の地元・所沢市での開催であった。添野とはキックボクシングの旗揚げからオープントーナメント全日本空手道選手権大会まで共に頑張ってきた友人であり、これまで彼には大変勇気付けられ共に汗を流した仲であったので快諾した。対戦相手には沢村忠を19回ダウンさせてKO勝ちしたムエタイのルンピニーフェザー級8位であるサマンソー・アディソンが選ばれた。「TBSに追いつき追い越せ」を目標にワールドキックボクシングを運営していたNETとしては、サマンソーをリングに上げ、当初の計画通り、団体のエースである山崎と対戦させ、TBSに並んだという印象を世間に与えたい目論見があった。山崎がサマンソーに勝てば、多少のタイムラグがあるとはいえ、沢村より強い男という称号が山崎に冠され、以降の開催が容易になるという狙いがあった。空手道のチャンピオンである山崎とサマンソーの対戦をスポーツ新聞でも派手な見出しで煽りたてた。

主催者側や周囲の盛り上がりとは正反対に大きなプレッシャーを感じていた。「今度の試合は、今までの試合とは些か違う。極真会館の看板を背負うことになり、全日本王者だから絶対に負けられない試合だ」と、何かに憑かれたように猛烈な稽古を繰り返し、試合に備えた。当日はテレビ解説のゲストに大山倍達も来場していた。ゴングの合図とともに、サマンソーが右ローキック、フック気味のパンチ、そして前蹴りと連続攻撃で仕掛けてきた。山崎はそれらを受けてサマンソーの体勢を崩し、パンチと蹴りで上下に散らしながら攻撃してサマンソーをコーナーに追い詰め、右ストレートを打ち下ろし1RKO勝ちした。大山の目の前で勝てたことは、山崎にとって過去のどの試合よりも嬉しかった。

この頃の山崎は沢村忠より強いと評価され、ムエタイのトップランカーは「山崎と戦うのは嫌だ!」と尻込みして恐れるほどの存在だったため、プロモーターやNET関係者は山崎をキックボクシングへ戻そうと、今まで以上に積極的に説得し続けた。山崎も大学卒業を間近に控えていたことや周囲の熱意にほだされ、それまでの考えを翻して第2回オープントーナメント全日本空手道選手権大会後にキックボクシングの専念を決意していた。課題だったパンチはボクシングの特訓を勧められ、年明けからジム通いすることを決めていた。その矢先の1970年3月末、NETは『ワールドキックボクシング』の放映を中止した。東京12チャンネルもキックボクシングへ参入し、キック戦国時代と呼ばれて4局視聴率争いにしのぎを削るブームだったが、NETは選手集め・マッチメイク・運営の手法で他局より杜撰であったことや、立ち上げ初期は極真ジムとして極真会館の全面協力と大山倍達自らプロモーションに関わっていたが、その一方で全日本選手権の準備に忙殺されていたことから、徐々に協力的でなくなったということも原因と云われている。山崎と極真の龍虎と謳われた添野義二は、「みんな真剣勝負でやっていたから。一時は『作り試合をしようか』って話にもなったけど、やらなかった」と選手が真摯に取り組んでいたことを証言している。契約の問題で一時的に東京12チャンネルのリングに上がったものの、最終的にはキックボクシングから引退した。戦績は10戦8勝(8KO)2敗。負けた相手は既に倒した者との再戦で、どちらも判定であった。

デイリースポーツ東京本社の編集局長であった近藤敬はキックボクサーの山崎を「1970年代、キックボクシングが格闘技ファンを魅了し、華やかな時代にNETグループのライト級選手として、精悍な若者がさっそうと登場。本場タイの強豪を次々に倒してたちまちスターになり、わずか1年で自らこの世界に別れを告げた。その幻の名選手こそ山崎照朝だった。キックボクシングに名選手を送り込み、極真カラテの強さを示せば、実戦を売り物にするこの一門の人気も上がる。山崎氏はこの使者の役目を100%果たし、更にキックボクシングで身につけたテクニックを空手にも生かし、全日本選手権でも安定した成績を収めた」と評している。

1970年6月14日、ヨルダンのフセイン1世の妻・ムナ王妃、フェリアール王弟妃一行が来日し、極真会館は滞在先である東京ヒルトンホテルへ訪問。演武会を催し、山崎と添野義二の組手を観た王室一行はその実力・迫力に驚嘆していた。同年の第2回オープントーナメント全日本空手道選手権大会では、再び決勝リーグ戦を山崎・添野・長谷川一幸の三者で争われた。山崎と添野の対戦は回し蹴りと突きとの応酬となったが、2回の延長戦(6分間)の後、山崎が下段逆突きを決めて添野に勝った。続いて長谷川との対戦では試合開始から約20秒が経過し、山崎が間合いを詰めてすり寄ってきたところ、長谷川が絡み倒して下段正拳突きをピタリと顔面に止め、一本となり山崎に勝った。長谷川は添野にも勝ち、長谷川の優勝。山崎は準優勝で終わった。

しかし第2回全日本選手権は閉幕後、「相手を投げ倒して決めにいけば、それで一本勝ちとする」というルールが問題となっていた。長谷川は添野にも「巻き倒しての決めの下段突き」で一本勝ちを得ている。他の試合でも同様な「倒して決めの下段突き」があまりにも多く、これがパターン化することを危惧して、次回の第3回全日本選手権から「『倒して決めの下段突き』は動きに少しの無駄もなく、スムーズな一連の流れによる一動作でも“技あり”まで」とルール改正された。1971年に大学を卒業後、中日映画社へ入社し、サラリーマンとして生活していくことになり、選手を引退した。

1972年2月にスペインのカルロス皇太子とソフィア夫人が来日した。カルロス皇太子は空手を習っていたことから、極真会館副会長の毛利松平(当時、衆議院議員)の仲立ちで演武会が催された。同月21日に大山倍達以下、大山泰彦・山崎・添野・鈴木浩平・三浦美幸・佐藤勝昭・磯部清次・大石代悟、ハワード・コリンズなど黒帯・茶帯約20名からなるメンバーが、赤坂の迎賓館に訪問。基本稽古から各種試割りのあと、第1回全日本選手権チャンピオンの山崎照朝と第3回全日本選手権チャンピオンの佐藤勝昭の模範試合が行われるなど、国賓であるスペイン皇太子夫妻の前で数々の空手の技を披露した。

同年の秋、選手を引退していたものの大山倍達の命令で第4回全日本選手権に2年ぶりに参戦。決勝リーグ戦進出を決める試合でコリンズと対戦する。戦前の予想では山崎が圧倒的有利と云われ、開始後、山崎が左右の強力な突きと荒々しい投げ技なども繰り出し、圧倒的な優勢で進んでいた。大山茂は「もし、コリンズが逃げなければ、山崎は倒すことができただろう。しかしコリンズはどうしても逃げ腰になってしまい、山崎が攻めても、すぐ場外になってしまう。誰が見ても文句なく山崎の勝ちだと思った。その時である。コリンズの右上段回し蹴りが首を捉え、山崎はガクっと膝をついてしまった。一瞬、コリンズも信じられないような表情をしていた」と試合経過を振り返っている。技ありを取られた山崎は残り時間に必死の反撃をするが試合は終了し、コリンズの勝利となった。コリンズは「山崎センパイに勝てたのは偶発的なもの。決して実力ではなかった。万にひとつの奇跡に近い勝ち方だった」とコメントし、山崎は「負けは負け。言い訳はできないよ」とそれぞれ語った。長谷川の試合も山崎有利という戦前の予想が外れた結果となり、両試合の敗因を大山茂は「技と精神の関係」、大山泰彦は「天才ゆえの欠点」と分析している。

1973年の第5回オープントーナメント全日本空手道選手権大会は決勝リーグ戦がなくなり、64人の選手が参加する1日のトーナメントとなり、決勝まで進めば6試合を行う形式となった。山崎はゼッケン64のシード選手でエントリーしていた。「組手試合」は、2回戦でムエタイのティラ・チャラカンボを左膝蹴り2連発から、間合いを取り直した直後に、ノーモーションから左ハイキック2連発でKO勝ち。準々決勝戦では3回戦を左上段回し蹴りで一本勝ちした芦原英幸門下の松友登喜良と対戦。松友は自分の間合いに持っていき攻撃したいが、山崎の変幻自在の構えから突き、蹴りと攻撃され、まともに技を出すことができない。中盤以降の松友は技を出すタイミングが見つからず、自身が下がる一方で頻繁に場外へ逃げたことから、5対0で山崎の判定勝ちとなった。その他の試合を含め、山崎は準々決勝までを華麗というほかはない技の冴えで対戦者を圧倒して、快調に勝ちあがっていた。

準決勝戦の相手は佐藤俊和。序盤から俊和が前蹴り・左上段回し蹴り・右中段回し蹴りで攻めてくる。山崎はそれぞれ受けた後、右ローキックから左右のハイキック2連発、左前蹴りと逆襲する。今度は俊和が右下段回し蹴りを出したが、それを山崎が左脛でブロックし、右のハイキックで逆襲しようとしたら、いきなり俊和が足を引きずり場外へ自ら出た。主審の中村忠が試合を中断して、リングドクターに俊和の右足を診断させる。ドクターは続行無理と進言。中村は山崎のT.K.O勝ちを宣言し、山崎は決勝戦に進出した。

決勝戦は佐藤勝昭を破った盧山初雄が対戦相手であった。試合開始後、山崎は円心の構え、盧山は前羽の構えで対する。山崎が間合いをつめ、右ローキックから左ハイキックの2連発、軽快なフットワークから左前蹴りを繰り出せば、盧山は右ローキック、右の正拳突きで逆襲する。盧山は右の三日月蹴りを出すが、山崎は左肘と左膝で挟み受けをする。山崎の蹴りに合わせる様に、盧山は中段に正拳突きを出す。盧山が突き、山崎は懐の深さで捌いて上段に蹴りを放つ。そんな緊迫した攻防に観客だけでなく、関係者のほとんどが息をひそめるように見入っていた。キックボクシングを体験した両者は、当時主流であった限度間合いからの攻撃ではなく、誘導間合いか相応間合いで積極的に攻防して、試合が終了した。判定に持ち込まれ、4対1で盧山が初優勝。山崎は惜敗したものの、選手権大会前の状況を知っている関係者は、山崎への賛辞を惜しまなかった。

主審を務めた大山茂は「技術的には盧山の左の掌底と、間合いを詰めた右の正拳突きが勝敗を決めた。山崎の技と盧山の精神力の対決のように見えた。もっとも盧山の前の手、左の掌底が再三、山崎の顔面をとらえたので、現在の選手権大会ならば完全に注意か減点になってしまうかもしれない。次の日の朝、本部道場の大山倍達館長の部屋で山崎と会った。山崎はニヤリと笑って『気合い負けでした』と言い、さらに『ダメージはありません』とも付け加え、私もそう思えた。この決勝戦は今なお、名勝負として人々の心に焼き付いていることであろう。この2人の試合の主審を務めた私は空手家冥利につきるといっていい」と語り、大山倍達、郷田勇三他極真関係者、各種マスコミも“これぞ極真空手の精華”と絶賛し、「完成された心技の激突が大観衆に勝敗の行方を忘れさせ、深い感動の世界に酔わせた」と、極真史上に残る名勝負として語り継がれている。試割り試合でも山崎の非凡さが出た結果となった。

会社勤めをしながら、十分に納得できる稽古を積めずギリギリまでやった山崎だが、限界まで来たと決断して大山倍達に道着を返した。結果的に第5回全日本選手権が最後の出場となったが、参加した選手権全てに入賞する安定した成績を残した。山崎は「空手をメシのタネにしようとは思わなかった。それは武道を汚すことだし、僕には多年培ってきた極真精神だけでよかった」と実にあっさりした引退であった。

中日映画社で短編映画・CMプロデューサーを経て、東京新聞の子会社でフリーペーパーを発行する東京新聞ショッパー社に勤務する傍ら、1980年から5年間、格闘技ライターとしてデイリースポーツ紙にレポートを執筆してきた。デイリースポーツ東京本社編集局長の近藤敬は「前向きで研究熱心。中身の濃いレポートの数々により、山崎教の信者は日増しに増えた」と語る。中日スポーツでも“コラム 撃戦記”を連載し、幅広い人気を誇っている。東京新聞ショッパー社大宮支社長・役員などを歴任して、2003年4月から北海道ワインの顧問に就任した。デイリースポーツの仲介で、全日本女子プロレスの新人や若手選手が合宿を行った際に臨時コーチとして指導したことがあり、一時期クラッシュギャルズの師匠として紹介されたこともある。

選手権大会から身を引いても、仕事に支障きたさない程度で極真会館本部道場で自主稽古を続け、合間に中村誠を指導したりしていた。取引先との挨拶時に名刺を出すと皆が「空手道を教えて欲しい。道場をやってくれ」と異口同音に言い出してきた。大山倍達に事情を話し了承を得て、1977年に極真会館の支部としてではなく、大宮に道場を構え、極真と謳えないかわりに、故郷の英雄・武田信玄の軍旗に記された風林火山を道着と帯に名をつけ、募集も特にしないで空手の指導を始めた。この道場には一時期、本部道場所属の川畑幸一・前田政利・毛塚慎一 ら、一部の門下生が出稽古に来ていた。松井章圭も初出場となる第12回オープントーナメント全日本空手道選手権大会の前に山崎の指導を受けていた。山崎も本部道場で実施される黒帯研究会 に顔を出して、何かと松井のことを気にかけるようにしていた。中村はその場で山崎から「ちょっと松井と組手してくれないか」と言われて松井に胸を貸し、山崎が「松井に目を掛けて個人指導していた」と証言している。

記者が本業である山崎は空手で生活の糧を稼ぐのではなく、場所代など経費の都合上から月謝は発生していても、自身はあくまでもボランティアとして、近所の子供たちと山崎を慕ってくる人たちに、自らが大山倍達という偉大な師から受け継いだ空手を教え続けている。1995年に風林火山から、NPO団体国際武道空手連盟 逆真会館と正式に一流派として発足したが、運営形態は変わっていない。2011年8月、これまでの形態から今後は指導者のみを教える空手研究会に替えた。

ファイティングスタイル

極真史上華麗なる技の使い手と呼ばれている歴代のチャンピオンは何人かいるが、本当の意味での華麗さ、美しさ、技の合理性、柔軟性、力みのなさなどで山崎の右にでるものはいないことから、華麗なる組手の体現者と云われ、誰よりも華麗であった。山崎の組手の強さと美しさは、決め手となる回し蹴りの強さ以前に、円の受けと昔ながらの空手の構えを完全に会得したところから、生まれたものである。当時の道場生は山崎と他の黒帯とを比較し、「山崎先輩と他の黒帯とは技の切れが違う。特に回し蹴りは一味も二味も違う。山崎先輩の蹴りは凄い…」と話していた。

山崎と添野義二が極真の龍虎という異名をつけられ、ライバル関係であった当時を知る高木薫は、ふたりの組手を次のように対比している。

どのような相手も倒す空手を目指していたため、試行錯誤しながら稽古していたことを次のように回顧している。

相手の力量に応じ、構えが変幻自在になる様は、円の受けと呼ばれた。大きくゆったりと「円心の構え」⇒「龍尾の構え」⇒「上下の構え」⇒「弓受けの構え。」⇒「鶴足立ちの構え」と円を描きつつ変化させ、いつの間にか間合いを詰め、相手に自分のペースで技を出させない試合運びをした。第5回オープントーナメント全日本空手道選手権大会の準々決勝までの対戦相手は、山崎が「円の受け」で追いつめて、相手の攻撃を待ちながら自らも攻撃をする。しかし対戦相手はほとんど技を出すタイミングを逃し、まれに出しても受けられた直後に攻撃される。この繰り返しで対戦相手は、頻繁に場外へ逃げるはめになっていた。構えで山崎は「中心は物理的な身体中央の急所が集中するライン。重心は首からまっすぐ下に落ちるラインで動きの要。重心が安定しなくては戦えない」と中心と重心を非常に重要視している。

鳩尾を狙う正拳突きは正確無比で、貫手も使いこなしていた。映画『地上最強のカラテ』では、その貫手でスイカを粉砕するシーンを観ることができる。

松井章圭は山崎にひるむことなく攻撃を続けようとしたが、山崎は半歩下がり道着の乱れを正して「さあ、こんどはこっちからゆくぞ」と言った。松井めがけて、想像を超えたスピードと正確さで急所を攻め抜く、山崎の多彩な技が放射状に飛び込んできた。松井は鳩尾に前蹴りを喰らい息が詰まりそうになるとなったところに、中段突きが突き刺さり、回し蹴りと連繋してくる。間合いが詰まったところを足払いで倒され、この繰り返しが数分間続いた。松井の痛みは極限を超え、道着は一気に汗でびしょ濡れになり、息はあがり方向感覚も鈍りはじめ、ただ立ち向かっては殴られ蹴られして倒されるという繰り返しが、永遠に続くかと思えていた。薄れてゆく意識の中で松井は「あやつり人形にされてるようだな…」と感じていた。(→ 松井章圭(証言4)へ続く)

適当な間合いからの前蹴りは定評があり、盟友の添野義二も「あいつの前蹴りは凄い」と認めていた。山崎は自身の前蹴りを次のように語っている。

一度狙ったらはずすことはないという伝説の回し蹴りは、蹴り足が相手の首にからみつき、この蹴りを喰らった者は一瞬体が宙に浮き、空中で体が水平になってから床に叩きつけられたという。極真史上では様々な回し蹴りの使い手が輩出されたが、その破壊力と技の華麗さで山崎をしのぐ空手家は未だ現れていないと評されている。山崎の蹴りは極真会館の選手権大会ルールだけでなく、キックボクシングのリングでもその必殺性は実証済みで、極真ルールに沿った戦いの中から生まれた蹴りではなく、どのようなルールの中でも生かせる、最も基本的かつダイナミックな蹴りであり、引きが速くスピードがあったので、相手は構えた状態のまま蹴りこまれていた。

上記で山崎は回し蹴りを中心にしたコンビネーションを語っているがキックボクシングでは「対角線上の攻撃・上下に技をちらす・縦横のコンビネーション」を重視している。

対角線上の攻撃

上下に技をちらす

縦横の攻撃

これら3つを複合的に組み合わせれば、何通りも攻撃パターンができる。山崎はムエタイを教わりながら、これらも同時に会得して自らの空手に生かしていた。

充分両足の瞬発力を生かして上体のリードも上手く使い、鋭い切れのある膝蹴りだった。山崎の技全般にいえることだが、体全体を使って技を出しているからこそ、ひとつひとつの技に切れがある。キックボクシングの経験を生かし、完全に首を掴まえ死に体にしてからの膝蹴りも使っていた。

相手からの突き・蹴りを流すのではなく、肘で弾き、膝で受ける。もしくは肘・膝で挟むように受けることで、攻撃した方がダメージを溜めていく痛め技になっていた。

松井章圭は前羽の構えの山崎と向かい合ったが、隙などない。意を決して攻撃に移った。左右の突きの連打をフェイントにした左右の中・上段回し蹴り・跳び前蹴り・跳び後ろ蹴り。着地してからの跳び膝蹴りと連続攻撃を矢継ぎ早に続けた。山崎は松井の技を受けるだけでその音のみが会場に響き、「ウウッ」と松井の呻き声が重なるのだ。攻撃側の松井の手足は、みるみるうちに腫れあがっていく。山崎に受けられるたびに攻撃する側が傷つけられるという、攻防一体になった山崎の独特の受け技であった。(→ 松井章圭(証言1)へ続く)

大山茂(証言3)

と分析している。

既述の貫手での試割りの他、映画『最強最後のカラテ』では男性を直立させ、頭にリンゴをおき、3本のタバコをくわえさせた。その状態から山崎は、右の上段前蹴り・左右のハイキックと連発で1本ずつタバコを蹴り落とし、続けざまに跳び上がり、右上段後ろ回し蹴りでリンゴを割り落とす妙技を披露している。

第5回オープントーナメント全日本空手道選手権大会で、厚さ2.8センチメートルの杉板を使用した「試割り試合」では正拳4枚・足刀7枚・手刀6枚・猿臂エンピ))7枚の計24枚で優勝した。組手で優勝した盧山初雄は15枚で準優勝だったから、圧倒的大差といっていい。第2回オープントーナメント全世界空手道選手権大会でウィリー・ウィリアムスが計26枚と記録更新したが、山崎と僅かに2枚しか違わない。身長196cm・体重100kgのウィリーと山崎を比較して考えれば、山崎の試し割り技量がいかに傑出したものかわかるだろう。

人物

謙虚と温厚な人柄で非常に思いやりを持ちながら、凛としてストイックで男気のあるサムライであると云われ、極真ファンのみならず、稽古を共にした門下生の中にも心酔者が数多い。極真カラテに対する思いはとても強く、著書『無心の心』の印税全額を極真会館へ寄付している。中村誠と三瓶啓二が覇権を争っていた時代に「彼らに勝てるか?」と問われて、「中村? 三瓶? 仮に僕が全盛時代に当たったとしても、彼らが勝つでしょうね」とあっさり認めたが、「それは選手権大会ルールの中で戦った場合です。もしルールに縛られず、昔の本部道場内での組手稽古に立ち戻ってというなら、ある程度自信はあります」と回答した。

同期や友人は添野義二・及川宏・鈴木浩平で、鈴木は「山崎と組手をした時、ここだけの話ですが、私は苦し紛れに彼の金的をつかんで彼を振り回してしまいました。当時はこれで引き分けです。私がオープントーナメント全日本空手道選手権大会に出場した時、いろいろなアドバイスをしてくださった事、とても感謝しています」と回想している。

キックボクシングへの参戦は2戦のみで、それ以上はでないと約束していたにもかかわらず、既述したとおりプロモーターからの再三再四の参戦要請がきていた。頑なに断り続けた理由をこう語る。

大山倍達はその晩年まで、相手が誰であろうと直言する性格の山崎を折に触れては総本部に呼び寄せて、組織運営の方法などについて懇談していた。その山崎を大山は「多くの弟子の中でも山崎照朝君は、常に極真の精神を忘れず、真面目に生きている。彼は何をするにしても、常に原点に返って正しく見直し、着実に自己の道を歩いている。彼の過去の実績を振り返ってみても、輝かしい足跡を残している。私は、考え方や物の見方、接点の合わせ方など、全ての点における彼の生き方に大いに賛同する」 と評している。

「極真門下で尊敬している人は?」の問いに三浦美幸は、

と答えている。

出会いから憧れへ

佐藤勝昭が受けた影響

真樹日佐夫は山崎の佐藤勝昭への指導ぶりを、

と評している。

真樹日佐夫は大石の山崎に対する憧れぶりを、

と述べている。

中村が第8回オープントーナメント全世界空手道選手権大会の全日本選手団監督に就任し、代表選手の合宿が行われた時に取材で訪れていた山崎に選手達を叱咤激励してくれるよう、中村はお願いしたこともあった。山崎は「小よく大を制するに必要なことは、精神で負けないこと。私たちの時代は大山倍達総裁の看板を背負って絶対に負けない、負けたら腹を切るという気持ちで向かっていきました。前回はフランシスコ・フィリォ選手に王座を奪われてしまったが、今回は是非取り返してほしい。ぜひ頑張ってください」と鼓舞激励した。

山崎との組手を終えた松井は「山崎先輩の組手は、間合いに入ったら何か恐ろしいことが起こることが起きることを予感させる」と畏怖していたが、稽古を終えて山崎は松井に「技」「構え」「攻防一体の組手」の重要性を伝授した。帰宅した松井は風呂に入るために衣服を脱いで身体を鏡で見ると、山崎の攻撃で鳩尾や肝臓など人体の急所に傷跡が正確に付いており、「凄い、山崎先輩は。引退されてから7年も経っているはずだ。それなのにこんなに技の威力を保っておられるなんて…。しかも技は鞭がしなるように柔軟で伸びがある」と、相変わらずの強さを維持し、変わらない稽古を積んでいる山崎に、松井は少なからず感動していた。松井は後輩である柿沼英明や佐藤竜也 などを伴って、山崎の元へ出稽古に通うようになった。

「山崎先生の話はいつも歯切れがよい。そして男前でかっこいい」と“伝説の空手家で大先輩”と自身のブログで敬意を表している。

2024/05/17 23:17更新

yamazaki terutomo


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