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山本昌広の情報 (やまもとまさひろ)
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【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

山本昌広の情報(やまもとまさひろ) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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山本 昌広さんについて調べます

■名前・氏名
山本 昌広
(読み:やまもと まさひろ)
■職業
野球選手
■山本昌広の誕生日・生年月日
1965年8月11日 (年齢58歳)
巳年(へび年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
神奈川出身

(昭和40年)1965年生まれの人の年齢早見表

山本昌広と同じ1965年生まれの有名人・芸能人

山本昌広と同じ8月11日生まれの有名人・芸能人

山本昌広と同じ出身地神奈川県生まれの有名人・芸能人


山本昌広と関係のある人

ヘンリー=コトー: 左キラー(左投手に強い)で当時の巨人打線が苦手にしていた中日ドラゴンズの今中慎二、山本昌広をよく打っていた。


栁田昌夫: 初打点:1990年4月10日、対中日ドラゴンズ1回戦(明治神宮野球場)、3回裏に山本昌広から


中村武志: 最優秀バッテリー賞:2回(1993年 投手:山本昌広、1999年 投手:野口茂樹)


大塔正明: “中日ドラゴンズ・山本昌広のページ”. 2016年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。


星野仙一: 抑えの郭、鹿島忠、川畑の中継ぎ陣、米村明、山本昌広、上原晃の若手投手陣、彦野、立浪、ゲーリー・レーシッチ、落合、宇野、仁村、川又米利、中村の強竜打線が好調で、1点差試合が34勝15敗を記録した。


西本聖: 定岡は自分の仲間を集めて「サダーズ」を結成し西本と対戦、西本チームには彼を師匠と慕う、桑田真澄(当時巨人)、山本昌広、中村武志、立浪和義(以上当時中日)、平井正史(当時オリックスだが西本とは入れ替わりでの入団で共にプレイはしていない)といった彼が所属した球団にいた選手たちが集まった。


ジャック=ハウエル: 100本塁打:1995年7月23日、対中日ドラゴンズ17回戦(ナゴヤ球場)、6回表に山本昌広から逆転決勝3ラン ※史上182人目


石毛宏典: 中日との1988年の日本シリーズでは全5試合で遊撃手としてフル出場し、第1戦はセ・リーグ最多勝のタイトルを獲得した先発の小野和幸からソロ本塁打、第3戦は山本昌広からソロ本塁打・適時打、日本一を決めた第5戦では初回小野から適時二塁打、1点リードされた9回裏、リリーフエース郭源治からバックスクリーンへ起死回生の同点による昭和時代の最後の本塁打を打つなど活躍し、シリーズMVPを獲得した。


山本保司: この中日入団により、以前より中日に在籍していた投手の山本昌広はスコアボードでの表示が「山本昌」となった(山本保司は「山本保」)。


高木守道: 特に9月5日の対阪神タイガース21回戦ではトーマス・オマリーのソロ本塁打1点だけに抑えていた先発の山本昌広を7回で降板させたが(点数も7-1)、そこから後続のピッチャーが8回1点、9回に8点を取られ、大逆転負けを喫した。


星野仙一: 山本昌広をアメリカ合衆国への留学で才能を開花させ、先発の郭源治を抑え、遊撃手の宇野勝を二塁手、捕手の中尾孝義を外野手にコンバートするなど、チームカラーを一新する。


柳田浩一: 初打点:1990年4月10日、対中日ドラゴンズ1回戦(明治神宮野球場)、3回裏に山本昌広から


長嶋一茂: 留学時期は違えど同じ生原門下生である山本昌(当時は本名の山本昌広)らと共に葬儀に参列した。


山本昌広の情報まとめ

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山本 昌広(やまもと まさひろ)さんの誕生日は1965年8月11日です。神奈川出身の野球選手のようです。

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経歴、選手としての特徴などについてまとめました。引退、卒業、兄弟、事故、父親、現在、テレビに関する情報もありますね。山本昌広の現在の年齢は58歳のようです。

山本昌広のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

山本 昌(やまもと まさ、本名・旧登録名:山本 昌広〈やまもと まさひろ〉、1965年〈昭和40年〉8月11日 - )は、東京都大田区生まれ、神奈川県茅ヶ崎市出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)、解説者・評論家・スポーツコメンテーター。史上最年長勝利の投手記録を持つ。

現役時代の全ての期間において中日ドラゴンズに在籍したフランチャイズ・プレイヤーで、日本記録である実働29年間の大半を先発左腕として活躍し、6度のセ・リーグ優勝、1度の日本一を経験した。また、2006年にはNPB史上最年長、左腕に限れば世界最年長となる41歳でのノーヒットノーラン、2008年には同じく史上最年長での200勝を達成。2015年10月にNPB史上初となる50代での登板を花道に引退するまで「中年の星」と呼ばれ、注目された。

経歴

出生から中学卒業まで

1965年8月11日、男3兄弟の次男として誕生。生まれた時には体重が4,200gあった。出生当初の山本を見た看護師が「この子は相撲取りにするしかない」と言ったと、山本は母から聞いている。1歳の頃、当時東京都大田区にあった自宅アパートから転落して死にかけ、頭蓋骨陥没骨折により1か月の入院を余儀なくされた。その後も左の額の上から右の後頭部にかけて骨折の痕跡が残ったというほどの重症であり、事故が起こった際に医者は「今夜がヤマだ」と宣告したが回復を果たし、小学校入学前に脳波検査を受けた際には「異常なし」であった。1歳の頃から牛乳をジュース代わりに飲んで体を作ったと豪語するほどで、1日2リットル飲むこともざらであったといい、小学生になると牛乳が嫌いな友達はみな山本の元へ給食の牛乳を持って行ったという。山本の幼少期は、野球で遊ぶのが当たり前の環境で育った。

茅ヶ崎市立松林小学校・茅ヶ崎市立松林中学校出身で、中学に進学すると昼食は弁当持参で牛乳のみが配られるが、山本は牛乳が好きであったのでご飯との組み合わせでも平気で口にできたといい、このような牛乳好きが体作りに大きく貢献したという見方もある。野球チームに初めて入ったのは小学3年生の時。初めて試合を行ったのは4年生の時であるが、当時所属していた「緑ヶ丘グリーンタイガース」は『がんばれ!ベアーズ』に例えられるほどの弱小チームであり、ゴロは弾くわフライは落とすわで、結局0-36という大敗に終わった。山本はこの時を「それでも楽しかった」と振り返っており、同時に「ほかに楽しみがなかったからと言えばそうかもしれない」とも付け加えている。因みにその次の試合は0-10と失点数が大幅に減少しており、著書で「へたでもうまくなれる。そこが野球の楽しさでもあるのだから」と解説している。小学校6年生になると横浜市から茅ヶ崎市へ転居したが、そこで見つけた「ブラックサニーズ」では挫折し、エースにはなれなかった。中学時代は軟式野球部に所属しており、2年生の時にエースを張っていた同級生が腰を患ったため自身がエースナンバーを託された。中学校3年の夏、所属する野球部で神奈川県大会に出場し、日大藤沢高にスポーツ推薦で入学する。山本は後に「この活躍があってやっといくつかの高校からの勧誘を受けたが、それがなければ普通に受験をして学力に見合った県立高校に進学していた」と述懐している。

高校入学からプロ入りまで

日大藤沢高時代は推薦入部だけでも姓が「ヤマモト」の部員が3人おり、山本は出身中学が「松林中学」であったことから「ショーリン」と呼ばれていた。高校2年夏、高校3年夏共に、神奈川大会準々決勝敗退。特に前者の敗戦は2009年の時点では山本が「野球人生で最も泣いた試合」であった。2013年の第95回全国高等学校野球選手権大会優勝校・前橋育英監督の荒井直樹は1年先輩で、当時ともに8キロのロードワークをこなすようになってから力が付いたと感謝している。当時の日大藤沢高の野球部監督・香椎瑞穂に関して山本は「雑誌や本で突出した実績を調べたが、不思議と怖さはなかった。難しいことも言われなかった」という趣旨の人物評を出している。

高校時代は春・夏とも甲子園出場こそできなかったが、3年次・1983年夏の神奈川大会では「県下ナンバーワンの左腕投手」として注目されベスト8入りを果たし、日韓親善野球では神奈川県代表の一員に選抜された。

香椎は山本を同期の別の部員一人とペアで日本大学に推薦する。山本本人も高校卒業後は日本大学経済学部に進学し教師を目指すつもりでいた。その一方で阪神タイガースのスカウトと、近鉄バファローズのスカウトを務めていた佐々木恭介が山本を熱心に視察していたが、本人は入団しないつもりでいた。神奈川県高校選抜チームの一員として韓国高校選抜チーム相手に好投したことなどが評価され、1983年のドラフト会議で中日ドラゴンズから5位指名を受けた。指名を受けた直後は『神奈川新聞』の取材に対し「進学しか頭になかったし、指名されるなんて思ってもいなかったので驚いている。監督・両親とよく相談する」とコメントしていたが、香椎に「おまえならプロでやっていける」と激励を受け、また山本のプロ入団がペアで推薦されていた別の部員の進学に支障を来さないこととなったこと、父親が長野県出身の中日ファンだったことが最終的に大きな決め手となり「おやじが喜ぶ」と入団を決意した。当時の契約内容は契約金2500万円・年俸300万円だった。担当スカウト高木時夫。

山本はドラフト指名を受けた旨を教師から伝えられた当初は「地元・神奈川県の横浜大洋ホエールズじゃないんだ」という印象を抱いていたが、2013年に山﨑武司とともに共著として出版した『進化』(あさ出版)にて「ドラフトから30年経った今では中日に入ってよかったと思っているし、中日以外の球団だったらとうの昔に野球をやめていただろう」と述懐している。

プロ入り後

入団当時、野球解説者だった星野仙一(1987年より監督)は「背番号が34で左投げというから『金田2世』と期待してブルペンを見に行ったが、ただの大柄な男で、あまりに不恰好なモーションでコントロールもない。球も130km/h前後しか出ないからがっかりした」と語っており、1986年の秋季キャンプでも「いつになったら本気で投げるんや」と呆れたという。山本本人も「小松辰雄さんのピッチングを見て、とんでもない所に来てしまったと思った」と回顧している。大柄なだけで野球の才能に恵まれていないことは当の山本も自覚しており、自身がプロ入りできたのは左投げ投手であるところが大きいと後に振り返っている。

1986年シーズン終盤の消化試合で一軍初登板を果たした。翌1987年には開幕一軍入りしたが、4月14日の対広島東洋カープ戦でのナゴヤ球場一軍初登板で肘を痛め(のちに疲労骨折と判明)、その後登板機会がないままシーズンを終了する。1年目の防御率は27.00、2年目は16.20と、この数字から判断するに当時は山本が一軍の戦力になるとは自分自身を含めて誰も思っていなかった。

1988年2月、中日は業務提携していたロサンゼルス・ドジャースと同じベロビーチ(英語版)でキャンプを行い、山本ら若手選手5人が野球交換留学としてそのままアメリカに残ることになる。しかし、実情は中日がドジャースとの交流関係を保つために、その年の戦力にならない選手を選んで派遣する必要があったため、この立場は強化選手の指定などではなく、むしろ極めて戦力外通告に近いものと言えた。しかし同時に、山本の選出については「手足は長いし、体も大きい。巨体揃いの本場アメリカの指導者ならこういう選手の扱いに慣れている分、うまくいくかもしれない」という一縷の望みを掛けられた結果でもあった。

この年のオープン戦第1戦ではノックアウトされており、星野からは「死ぬまで走っておけ!」と命じられ、その日は2、3時間は走った。それからしばらくして、ドジャース傘下のマイナーリーグ (1A) のベロビーチ・ドジャースに所属することになり、チームメイトと帯同してフロリダ・ステートリーグ(1A)で試合を行うことになる。留学生という立場上頑張ったところで2Aへの昇格もあるはずもないためふてくされていたが、現地の選手たちが1Aで優勝するという目標を宣言していたことからふてくされていた自分を反省。そして、そこで前年に山本を指導していたドジャースの世話役・アイク生原との再会が人生の転機となる。生原からは投手の基本である低めへのコントロール、スローカーブの精度の向上、その他生活習慣を厳しく指導されたが、特に大きかったことは消えかけていた野球への熱意や楽しさを再び思い出させてくれたことであったという。

3月ころ、生原がドジャースの往年の名投手サンディー・コーファックスに山本のピッチングを見せたところ、「アイク、あのピッチャーはだめだよ。彼はサイドスローにするか、トラックの運転手になるか、どっちかにしたほうがいいんじゃないの」という評価だったという。また、これも3月、生原に連れられてロサンゼルス・ドジャースのフェルナンド・バレンズエラのピッチング練習を見に行くが、そのスクリューがあまりに衝撃的であったために「投げられる訳がない」と思ったという。その際、バレンズエラから投げ方を教わったが、理解できず習得できなかった。その2か月ほど後、チームメイトのメキシコ人内野手ジョゼフ・スパニュオーロが、試合前のキャッチボールでスクリューボールを投げていたのを見て投げ方を教えてもらう。自分で投げてみたところ、驚くほど球が曲がった。2日後、試合でも使ってみたところ、決め球として通用。さらにスクリューを投げるために手首を立てて投げるようになるとストレートのキレも増し、先発ローテーションに定着。ついには1Aのオールスターゲームまで呼ばれるようになり、それを見た対戦相手の数球団のスカウトが評価、メジャーリーグ (MLB) のロースター入りを正式に打診された(ドジャースからは打診がなかった)。しかし、山本の成長ぶりをビデオで見た星野が呼び戻すことを決定、リーグ優勝を実現するための戦力とするべく、当初1年間のはずであった留学予定が切り上げられた(ただし、星野自身は、「そのままメジャーでやらせてあげてもよかったが、球団社長の意向で」と発言し、あくまで自分の意思・判断ではないなどと主張している)。このため、ロースター入り・MLBデビューはならなかった。なお、山本昌はこの時点で自身のメジャーオファーを知らず、1988年のシーズン終了後に関係者に聞かされたという。ベロビーチ・ドジャースでの成績は、13勝7敗、防御率2.00。同じ3月、現地の歯医者で全身麻酔を打たれて丸1日眠り、それから2日間の安静を余儀なくされた。合計3日間ランニングすらしておらず体調も最悪な中で投手が底を尽きたため止む無く登板したが、延長12回から4イニングを投げて勝利投手になったというエピソードを残した。

帰国直後、当時の中日の投手が足りない状況だったこともあり先発の一角に加わると、スクリューや精度の高いコントロールを駆使して一軍で5連勝(なおかついずれも自責点0)を記録し、リーグ優勝に貢献した。その後、西武ライオンズとの日本シリーズでは第3戦の先発に抜擢され工藤公康と投げ合ったが、敗戦投手となった。

1989年、シーズン14登板目の5月27日の対読売ジャイアンツ戦で完封でシーズン初勝利。この勝利に山本は試合終了直後から涙を流し、後年最も思い出深い1勝に挙げている。しかし、9勝目以降なかなか勝ち星を得られず、星野から同シーズンオフにおいてのアメリカへの教育リーグ再留学を言い渡される。名誉挽回の10勝目と日本残留の最後のチャンスとして9月23日の対阪神タイガース戦に登板するも、味方の失策などが重なり、終盤に逆転負けを喫してシーズン9勝に終わり、やむなく留学する。ただ既に2桁勝利するしないに関係なく、球団側は留学させることを決定済で、航空機のチケット(エコノミークラス)は用意されていたといい、山本は渡航の際に自腹で差額を払ってビジネスクラスに変更した、と語っている。このオフの留学で、アイクと共にスローカーブの習得に励んだ。

1990年は前年の雪辱をバネに初のシーズン10勝を挙げた。プロ5年目にして開花したといわれたポテンシャルを発揮し、この年同じ左腕の今中慎二も10勝を挙げ、90年代共に左の2枚看板・Wエースとして中日投手陣を支えた。

1991年、開幕から先発ローテを守ったものの、中々勝ち星に恵まれず9月を最後に先発からも外れてしまう。ローテーション投手の中で1人負け越してしまい、チームも終盤広島に逆転され優勝を逃す。

1992年、恩師のアイク生原が永眠。精神的ショックは大きく、葬儀の場では棺の前で泣き崩れて立ち上がれず、同じく生原に世話になり同席していた長嶋一茂らに抱き起こされなければ立ち上がれなかったほどであった。棺には前年までのシーズン自己最多勝利数を更新した、11勝目のウイニングボールを納めた。最終的にチームは最下位に沈んだもののシーズン13勝を記録した。

1993年、ヤクルトとの首位争いの終盤に右鎖骨を骨折し、リタイアしたものの、シーズンは今中と並び17勝を挙げ最多勝を獲得した。更に最優秀防御率のタイトルも獲得した。オフ契約更改では初めて年俸1億円の大台に乗った。

1994年、シーズンを自己最多の19勝を挙げ2年連続となる最多勝と初の沢村賞を受賞した。思い出に残る試合として10月8日の巨人との26回戦(いわゆる10.8決戦)を経験している(ただし登板はせず、ブルペン待機であった)。

1995年、長年の勤続疲労から左肘、左膝を痛め4月末に一軍登録を抹消。6月半ばに復帰したが、約1か月間勝てず、この年は終始不調で6年続いていた規定投球回をクリアもできず、わずか2勝に終わる。

1996年、前年の故障の影響で4月末まで一軍復帰できなかったが、復帰後はシーズン最後まで先発ローテを守り、勝ち星こそ恵まれず2年連続で1桁勝利な上に負け越したが、2年ぶりに規定投球回をクリアした。なお、この年の7月14日のホームでの阪神戦で新庄剛志から3点本塁打を打たれた際に外角低めに投げていたのに中日のスコアラーのミスでど真ん中と扱われていたために星野の怒りを買い、さらに山本自身がど真ん中に失投したことを否定したため、「あんなやつ、やめさせちまえ!」と星野に油を注ぐ格好となった。結局、島野育夫ヘッドコーチと共に翌朝謝罪しに行ったが、星野は「なんかあったのか?」と自宅を訪れた2人に対してとぼけて許した。

1997年、前年チーム最多勝だった今中が怪我で離脱していたこともあり、初の開幕投手を任され、開幕戦の対横浜ベイスターズでは8回2/3を自責点2で勝利(ナゴヤドーム初の公式戦で、同球場で初めて勝利を記録)。直前に左太ももに軽度の肉離れを負ったが、恥ずかしさと申し訳なさから隠し通した上で開幕戦勝利を収めた。チームは最下位だったものの抑えの宣銅烈とともに奮闘し、18勝を挙げ、3年ぶり3度目の最多勝と初の最多奪三振を獲得。同年オフ3年契約、「2年間で合計20勝出来なかった場合は2000年度の年俸はダウン」の条項を組み込んだ契約を結ぶ。同年の活躍に加え、FA権を取得していたこともあってMLBの球団から声が掛かっていたが、結局は中日に残留している。

1998年、広島との開幕戦では2年連続開幕投手を務め、サンデードラゴンズに出演時に10勝を目標にしたが、42歳の相手先発大野豊との投げ合いに敗北、シーズン9勝9敗の成績で終わる。オフに罰ゲームとして立浪和義、大豊泰昭、益田大介、渡邉博幸、荒木雅博と中京競馬場を走ることになった。

1999年は4月に3勝を挙げ月間MVPを獲得。チームの開幕11連勝や11年ぶりのリーグ優勝に貢献したが、勝ち星に恵まれず8勝5敗。しかし、防御率2.96はこの年20勝を挙げた巨人の新人上原浩治や19勝を挙げシーズンMVPになった同僚野口茂樹に次ぐリーグ3位で、野口や川上憲伸・武田一浩とともに先発ローテの4本柱を担った。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは第3戦に先発したが城島健司に2点本塁打を打たれ敗戦投手になった。先述の1997年オフの契約どおり、累計20勝を超えず17勝に終わったことにより優勝チームの中で数少ない年俸ダウンとなったが、チームへの貢献度により少額のダウンで済んだ。

2000年は左の勝ち頭として3年ぶりの2桁勝利となる11勝を挙げる。防御率ではチーム全日程を終えた段階ではリーグトップに立っていたが、リーグ最終戦でヤクルトの石井一久に抜かれ、わずか0.004点差でタイトルを逃した。オフに年俸1億8000万円(現状維持)で契約更改。

2001年は3月30日の広島との開幕戦(ナゴヤドーム)で3年ぶりに開幕投手に抜擢され、7回1失点で勝利投手になった。だが、援護に恵まれない試合が多く、なんとか2年連続で2桁勝利をマークするものの、プロ入り初のリーグ最多敗戦で自己ワーストとなる13敗を喫する。オフに年俸1億8000万円(現状維持)で契約更改。

2002年は2年連続開幕投手になったが、味方の守備にも泣かされ6回途中5失点(自責点3)で敗戦投手になった。その後も勝ち星を挙げられず、4月末まで0勝4敗、防御率も7点近くと調子を落とし、4月28日に登録抹消された。6月2日の横浜戦(浜松)で復帰し、7回途中1失点でシーズン初勝利を挙げた。7月28日の阪神戦(甲子園球場)で3勝目(球団歴代2位(当時)となる147勝目)を挙げて以降は、8月11日の阪神戦(ナゴヤドーム)で自身の誕生日を白星で飾る、8月23日の横浜戦(ナゴヤドーム)で6回2/3までパーフェクトに抑える、9月21日の横浜戦(ナゴヤドーム)で1年ぶりに完投勝利を挙げるなど、5勝2敗と復調。9月3日の横浜戦(静岡・草薙球場)では8回1失点で勝利投手となり、杉下茂以来球団史上2人目となる通算150勝を達成した。しかし、開幕から中盤まで二軍落ちや中継ぎに配置転換などがあったため、自身2度目の6年連続続いていた規定投球回をクリアできなかった。オフの12月19日に1000万円減の年俸1億7000万円で契約更改。

2003年、開幕5戦目となる4月2日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)でシーズン初登板し、7回途中まで1失点に抑えた。4月23日の阪神戦(ナゴヤドーム)でシーズン初勝利を挙げた。8月13日の巨人戦(ナゴヤドーム)では現役最多(当時)となる巨人戦30勝目を挙げた。

この年は6月28日から自身7連勝を記録したものの、9月10日の広島戦(広島)で9勝目を挙げてからは勝ち星を挙げられなかったこと、勝利投手の権利を得て降板したが中継ぎ投手に勝ちを消された試合が多かったことなどもあり、2年ぶりの2桁勝利を逃した。また、15年続いていたシーズン完投試合は途切れた。それでも、1年間先発ローテーションを守って2年ぶりに規定投球回に到達し左腕では野口と並んでチームトップタイの9勝を挙げた。

先発した試合のチームの勝率が高かったこと(17勝9敗、勝率.654)、チームトップの156投球回を記録したことなどが評価され、オフの12月19日に2000万円増の年俸1億9000万円で契約更改。翌年はプロ21年目で自己最高年俸を手にすることとなった。

2004年、4月21日の阪神戦(ナゴヤドーム)で3年ぶりの完封勝利を挙げた。6月18日の横浜戦(ナゴヤドーム)で史上43人目の2500投球回を達成、6月26日の阪神戦(ナゴヤドーム)で球団最年長白星を挙げた。監督推薦でオールスターゲームに選出され、7月10日の第1戦(ナゴヤドーム)に先発した。7月21日の巨人戦(ナゴヤドーム)では3年ぶりに中4日で先発登板した。8月11日の巨人戦(ナゴヤドーム)に先発し、39歳の誕生日を白星で飾った。8月18日の阪神戦(ナゴヤドーム)で3年ぶりに2桁勝利を達成。この年は川上憲伸と左右のエースとしてチームを引っ張り、7年ぶりの11勝以上を挙げる13勝、リーグ2位の防御率3.15を挙げリーグ制覇に貢献した。この年は阪神から7勝を挙げた。

西武ライオンズとの日本シリーズでは第2戦と第6戦に先発し、2試合とも相手のエースである松坂大輔との投げ合いとなった。第2戦は5回途中5失点でKO(終盤に逆転し敗戦投手は免れる)、日本一に王手をかけた第6戦は5回まで1失点に抑えるも6回に和田一浩に逆転2点本塁打を打たれ、この回途中で降板。6回途中3失点で敗戦投手となり、日本シリーズでは結果を残せなかった。チームは翌日も敗れ日本一を逃した。

オフの12月9日に4000万円増の年俸2億3000万円の2年契約で契約更改。40歳になるシーズンから複数年契約を結ぶのは落合博満に次いで史上2人目、プロ入り22年目での年俸2億円突破はプロ野球史上最遅記録となった。

2005年は、球団史上最長となる在籍22年目で迎えるシーズンとなった。この年はシーズン通して調子の好不調が激しく、100イニング以上投げた年では初めて防御率が4点台に終わる。二軍落ちも経験するなど、不本意なシーズンとなった。

2006年、8月12日の阪神戦(ナゴヤドーム)で対阪神戦通算40勝を記録。この試合に勝ったチームは優勝マジック40を球団史上最速で点灯させた。9月9日の対広島戦で、新井貴浩から通算2000奪三振を達成。9月16日の対阪神戦(ナゴヤドーム)でプロ野球史上73人目(84回目)となるノーヒットノーランを達成、41歳1か月での達成は2019年現在においてもプロ野球最年長記録、左腕に限れば世界最年長記録である。許した走者は4回の森野将彦の失策による1人のみのNPB史上2人目となる無四死球ノーヒットノーラン、つまり、準完全試合だった。結果として森野の失策で完全試合の夢は潰えたことになったため、森野はひどく落胆していた。しかし、試合後のインタビューで山本は「あのプレーがあったからこそノーヒットノーランが達成できた」と発言している。また、試合中に9イニング目にマウンドに上がる際に森コーチに対して「ランナーをひとりでも出したら、岩瀬に代えて下さい」と山本は訴えたという。9月30日の対阪神戦(甲子園)でチームは首位ながら2位阪神が9連勝で2ゲーム差に縮められた試合で8回1失点と好投。40歳代としては若林忠志、村田兆治、工藤公康に次いで4人目となる2桁勝利を挙げた。10月15日の対横浜戦ではリリーフで登板し、自身1997年以来9年ぶりで当時のセ・リーグ最年長記録となるセーブを記録(41歳2か月)するなど、最終的に11勝7敗1Sを記録した。なお、9月30日の阪神戦の後に左肘を骨折していたのだが、それでも戦線離脱せずシーズン2試合、日本シリーズ1試合を投げていたことを後に本人が語った。また、規定投球回に到達したのはこの年が最後である。

2007年、開幕4戦目の4月3日の巨人戦(東京ドーム)でシーズン初先発したが、5回途中7失点で敗戦投手になった。4月17日の阪神戦(ナゴヤドーム)で3安打完封勝利を挙げ、200勝へ残り8勝と迫る。41歳8か月での完封勝利はセ・リーグ最年長記録。両リーグ通算でも若林忠志に次ぐ2位であった。この完封は、チームでは1人で達成したものとしてはこの年唯一のものでもあった。5月13日の巨人戦(東京ドーム)でシーズン2勝目を挙げたが、これがこの年最後の勝利だった。5月27日の対北海道日本ハムファイターズ戦では史上80人目の500試合登板を達成したものの8回5失点(自責4)と結果を残せず、この時点で2勝5敗防御率4.40の成績で、翌日登録抹消された。その後は一軍登録と抹消を繰り返す。9月25日の対巨人戦では自身のエラーも絡み5失点でKO、二軍落ち、そのままシーズンを終える(2勝10敗・防御率5.07)こととなる。日本ハムとの日本シリーズではチームが53年ぶりの日本一となったものの、自身の登板機会はなかった。本人いわく、このシーズンはどこにも故障が無いので成績的にも言い訳ができず、普通なら球団から年齢を理由に引退を勧められてもおかしくない状況であったが、200勝という目標に球団が理解を示してくれたため現役続投が許されたと後に回顧している。同時に、2008年も未勝利であれば引退しようと心に決めていた。

2008年、4月2日の対巨人戦での登板で、投手としては大野豊の22年を抜き、野手を含めても衣笠祥雄の23年と並ぶセ・リーグ最長の実働年数(プロ野球最長は2010年現在工藤公康の29年)となった。5月7日の対広島戦で6回を2安打無失点5三振に抑え、シーズン初勝利。5月14日の対東京ヤクルトスワローズ戦で史上26人目となる通算3000投球回を達成。8月4日、ナゴヤドームでの対巨人戦で完投勝利。プロ野球史上24人目となる通算200勝を達成した。中日球団投手の200勝達成は杉下茂以来51年ぶり、42歳11か月での200勝と完投勝利は共に史上最年長記録。200勝達成投手の中でも1年目が未勝利なのは史上6人目であり、5年目に初勝利を挙げたのは最も遅い記録。中日ドラゴンズの投手として初の日本プロ野球名球会入会(昭和生まれではない杉下は入会資格は無い。なお、後に岩瀬仁紀も250セーブを達成して入会を達成している)となった。8月24日の対巨人戦にて史上最年長完投記録を更新(43歳0か月)、史上最年長2桁勝利を記録。8月は4勝1敗の好成績を挙げ、史上最年長で月間MVPにも選出された。この年は43歳ながらチームトップの11勝を挙げる。10月2日、故郷の神奈川県茅ヶ崎市から茅ヶ崎市民栄誉賞が贈られることが決まり、その授賞式が12月27日に茅ヶ崎市総合体育館にて執り行われた。自著では後に「加山雄三さんや桑田佳祐さんといった超大物の芸能人を輩出した湘南の街で、おふたりともまだ受賞されてないというのに…」と謙遜するコメントを発表している。この年は規定投球回に到達できなかったが、最終的に11勝7敗、防御率3.16を記録。安定した投球でチームの先発投手陣を支えた。なお、シーズン2桁勝利はこの年が最後となる。

2009年、開幕から二軍での調整が続き、ウエスタン・リーグ公式戦では投球回数が合計で100イニングを超えている。6月に一軍に上がるが、先発した試合で打たれ再び二軍降格。9月11日にようやく一軍再登録を果たし、同日の対ヤクルト戦でシーズン初勝利。大野が持つセ・リーグ記録を更新する22年連続勝利を記録した。しかし勝利はこの1勝だけで一軍定着後自己最低の成績で終える。また、6年周期100イニング未満で終わるシーズンを3回経験する事となった。

2010年、春季キャンプ中に左肩肩甲骨付近を痛めて(肉離れとの報道もあり)二軍で開幕を迎える。6月に二軍戦で実戦に復帰するが、13日の試合で左足首を痛めて1球投げただけで降板する。その後は調整を続け、8月7日の対阪神戦で同年初登板。6回1失点で勝利投手となり、実働25年と自身の持つ記録を更新するセ・リーグ23年連続勝利を達成した。さらに9月4日の対巨人戦で完封勝利し、1950年に毎日オリオンズの若林忠志が達成した史上最年長完封勝利の日本記録(42歳8か月)と、2008年に自身が記録した最年長完投勝利記録を更新(45歳0か月)した。また、30回目の完封勝利は史上30人目であった。結局、この年は5勝を挙げ、中日の逆転リーグ優勝に貢献した。

巨人とのクライマックスシリーズファイナルステージの第4戦に先発。5安打無失点ながら4回1/3で降板。45歳2か月でのポストシーズン登板は自身の最年長登板記録(43歳2か月)を更新すると共に、1972年のダリル・スペンサーが持つ最年長出場記録(43歳3か月)も更新した。

2011年、工藤公康が西武を退団し、オフに現役を引退したため、山本昌がNPB現役最年長選手となった。キャンプ中に右足首を痛め、一軍、二軍ともに登板はなかった。9月23日、右足首の手術を受ける予定であることが報道された。同年12月7日の契約更改で同球団の減俸記録を超える60%減の提示にサインし、現役続行と9月下旬に手術が成された事、順調に回復し、既に練習を再開していることが報道された。

2012年、監督の高木守道が山本昌を復活させると明言し、自主トレ中に高木から開幕投手を告げられる。実際は吉見一起でほぼ確定していたが、山本の復活を奮起するためのものだった。この言葉で山本はハイペースで調整をするようになり、オープン戦で好投した。3月2日の広島とのオープン戦で2回を投げ終えて降板すると高木は握手で迎え、「昌、(開幕)3戦目な」と告げられた。開幕ローテーションに入っていることがモチベーションになったという。4月1日の開幕3戦目の対広島戦(ナゴヤドーム)で先発し5回を3安打に抑えた。46歳7か月の登板で、セ・リーグ最年長登板記録を達成。4月15日の対阪神戦でのシーズン初勝利は自身通算211勝目となり、この勝利で杉下の持つ中日球団の投手通算勝利記録に並び、同時に工藤の持っていたセ・リーグ最年長勝利記録・プロ野球史上最年長先発勝利記録を更新した。4月22日の対広島戦では、打者として一塁ゴロによる1打点を挙げ、打点のセ・リーグ最年長記録を46歳7か月で更新した(従来の記録は金本知憲の44歳0か月)。4月30日の横浜DeNAベイスターズ戦では7回を2安打無失点で勝利投手となり、杉下を抜いて球団最多勝となる通算212勝目を挙げた。杉下からは「ずいぶんかかったな」と言われ、「ここまでかかってすいませんでした」と報告した。その後は調子を落とし二軍で調整を続けたが、終盤に復帰し、10月3日の対阪神戦では中継ぎとして3回を投げ、勝利投手となり、工藤の持っていたプロ野球最年長ホールドポイント記録を更新した(47歳1か月)。山本は「高木監督の開幕投手という言葉がなければもう少しゆっくり調整していた。本当に感謝しています」と振り返った。

巨人とのクライマックスシリーズファイナルステージ第3戦で先発登板するが、5回2失点で勝利投手の権利を持ったまま降板するも直後に同点に追いつかれ勝利投手にはなれなかった。

2013年、プロ入り30年目を迎えてのシーズンでは、3月にインフルエンザを発症したが、調整を間に合わせ、開幕一軍入りを果たす。チーム開幕2カード目となる4月9日の対ヤクルト戦に先発し、6回を1安打に抑える好投で、同年の初勝利を挙げる。なお、この登板で実働27年となり、野村克也・中嶋聡を抜き、歴代記録の単独2位となる(同年中嶋も9月28日にシーズン初出場を果たして2位タイに並ぶ)。その後、8月28日の対ヤクルト戦で5勝目を挙げ、自身のプロ野球最年長先発登板とセ・リーグ最年長登板・最年長勝利記録を48歳0か月に更新し、打者としても5年ぶりの安打を放ち、セ・リーグ最年長安打・打点記録も更新した(従来の安打記録は山﨑武司の44歳8か月、打点は自身の記録を更新)。

2014年、開幕前からツーシームとカットボールの習得に努めるものの、その影響でスピンの効いた速球が投げられなくなり二軍戦でも打ち込まれるようになり、前述の2球種を使わない方向で再調整することとなった。49歳0か月で迎えた9月5日の対阪神戦(ナゴヤドーム)で先発で同年初登板、5回無失点で勝利投手となり、浜崎真二のNPB史上最年長試合出場記録(48歳10か月)とNPB史上最年長勝利投手記録(48歳4か月)などの最年長記録を更新した。

2015年、二軍春季キャンプでの調整を経て、3月3日に、教育リーグの対ソフトバンク戦(ナゴヤ球場)で救援投手としてシーズン初の実戦登板。先頭打者・上林誠知への1球目に、踏み込んだ右足をマウンドの土に取られたことから、右膝に異変を訴えて急遽降板した。さらに、降板後の診察で右膝蓋の靱帯に炎症が生じていることが判明したため、調整が大幅に遅れた。8月9日の対東京ヤクルト戦(ナゴヤドーム)では、先発投手として、およそ1年ぶりに一軍公式戦で登板。NPBの実働年数(一軍公式戦出場年数)で工藤・中嶋に並ぶ最長記録(29年)を達成したほか、この日が49歳11か月29日に当たることから、自身の持つNPBの最年長記録(登板・出場・先発)も更新した。しかし、登板中に左手の人差し指を自分のスパイクにぶつけたことから、左手人差し指の靭帯を損傷。結局、22球を投げただけで、2回表の途中に降板した。なお、この時の損傷はシーズン終了までに完治しなかった。この登板から2日後の8月11日に50歳の誕生日を迎え、NPB史上初となる50代の支配下登録選手となった。

50歳で現役を引退

2015年9月25日に自身の公式サイト上で現役引退を発表(ナゴヤドームでのレギュラーシーズン最終戦であった)。前日(9月24日)の阪神戦を観戦した際に、若返りを推進しているチームの現状を目の当たりにしたことを理由に挙げた。

2015年9月30日に名古屋市内での記者会見で、引退を正式に発表。50歳1か月26日で迎えた10月7日の対広島戦(マツダスタジアム)でNPB史上初の50歳出場・登板を果たしたことによって、現役生活を締めくくった。この試合では「打者1人」という条件で先発。先頭打者・丸佳浩を二塁へのゴロに打ち取った。12月2日付で、NPBから自由契約選手として公示された。

また、現役時代に一貫して着用してきた背番号「34」は2016年入団の左腕投手・福敬登に引き継がれた。「永久欠番にはこだわっていない。できれば、自分と同じ左投手に着用して欲しい」という山本自身の意向と、服部受弘の『10』と西沢道夫の『15』以外の背番号を永久欠番とみなさない中日球団の方針による。

中日球団では2016年3月5日のナゴヤドームでのオープン戦(対ヤクルト戦)を山本の「引退試合」として開催した。試合前日(3月4日)には1日限定で山本と選手契約を結ぶことが、球団およびNPBから発表された。中日の選手の引退試合がオープン戦で開かれるのは2014年の山﨑武司以来であり、日本プロ野球で引退試合のために選手契約を結ぶのも山﨑以来である。登録上の背番号は「0」であったが、試合には「打者1人限定」という条件の下に、背番号「34」のユニフォーム姿で先発。元・チームメイトの森岡良介から3球で三振を奪った。

現役引退

引退記者会見の際に、引退後の進路に言及。当面は野球解説者として活動する予定であることや「投げることは32年間精いっぱい勉強したが、ほかは素人。またユニホームを着るチャンスをもらえるように勉強したい」として、野球指導者を志すことを明かした。

2016年からは日本テレビ・中京テレビ・フジテレビ・東海テレビ・東海ラジオ・ニッポン放送の野球解説者や、中日新聞の野球評論家として活動。また、「日本経済新聞」でコラムの連載を開始した。さらに、1月29日からは『NEWS ZERO』(日本テレビ制作・NNN全国ネット番組)のスポーツコメンテーターを務めている。山本は、引退後初めてのレギュラー番組を同番組に決めたことについて、「昨年(2015年)のクライマックスシリーズや日本シリーズ期間中にゲスト解説者として出演した際に、番組スタッフによる情熱や協力体制に素晴らしさを感じた。『来年(2016年)もここでやりたい』と思ったので、自分で出演を申し入れた」と語っている。また、『スポーツサンデー』(テレビ朝日)などの番組にも、ゲストで随時出演している。

2017年12月に学生野球資格回復研修会を受けて、指導資格を修得。それに伴い、2018年2月から実弟の山本秀明が監督を務める母校・日大藤沢高校野球部の特別臨時コーチを務めている。

2019年からは、現役時代に一時バッテリーを組んだ矢野燿大の勧めで、矢野が一軍監督を務める阪神の秋季・春季キャンプ期間中に臨時投手コーチを2020年2月16日まで務めた。

2021年3月、自らのYouTubeチャンネル「山本昌チャンネル34」を開設した。野球・ラジコン関係を中心とした話題を取り扱う。

選手としての特徴

投球

投球フォームはスリークォーター。持ち球は最速143km/hのストレート、スクリューにカーブ、スライダーである。スクリューやカーブのキレが良かったのは股関節や膝関節が外に割れている骨格をしておりボールが上手く抜けてくれたからである、と山本本人が自著で分析している。入団時から山本を知る三木安司トレーニングコーチを始めとして当時の中日のトレーニング部門に携わった全員の意見として「野球選手としてはとても大成しないと思った」と言われるほどの骨格であったが、山本はそのデメリットをメリットに変えたのである。ワインドアップ時は両手でグラブを突き上げるように大きく振りかぶり、背を一杯に伸ばしてから投げる。指を舐めてから投げる癖がしばしば見られるが、スピットボールと見なされないようにユニフォームで拭いてから投げている。他に舌を出しながら投げるという癖もあり、これは高校時代に荒木大輔の投球時の表情を真似していたらいつの間にかついた癖だと話している(荒木自身は舌を出していない)。ストレートのスピードは常時130km/h台で、40歳を越えてなお、年齢を重ねるにつれて球速が上がってきており、43歳の時に東京ドームで出した143km/hが自己最速。ただ、「球速が出過ぎる時はストレートを投げたがって狙われ、打たれやすい」と周囲から指摘されている。 直球の球速は遅いが軟投派ではなく、BS-i(現:BS-TBS)『超・人』において、「僕は速球派です」と語っている。同番組によると2006年度の全投球のうちストレートが45%を占めており、松坂大輔の46%とほぼ同じであった(同番組で技巧派の代表として比較されていた下柳剛はストレートが8%)。

同番組で山本昌の直球の回転数を計測した結果、1秒間に52回転していた。通常の投手の1秒間の平均回転数が37回転、松坂が41回転、藤川球児が45回転であることから山本昌のそれは極めて高く、そのため球の落差が小さく、初速と終速の差も小さい。元巨人の清水隆行は、「日本で一番どころか日米野球で対戦したどのメジャーリーガーよりも速く感じる速球を投げていた」「左打者にとっては特に球の出所が見づらくなるフォームであるためより速く感じるのでは」と話している。

球種や球の強弱は捕手のサインに任せ、それに対してはほとんど首を振らなかった。

ボール半個単位の制球力が備わっていたが、これは「右打者のアウトハイからインローへと描かれるL字の斜め上のコースに行かないようにする」ことを心掛けていたことによる。2020年代になると所謂「立ち投げ」が主流だが、山本は現役時代、体重移動を使いたいという理由で軸足を沈め、靴の内側の方の紐穴辺りが土に付くようにしていた。「円で回す」肘の上げ方、腕の使い方をしていた。

2015年の日本シリーズの解説の折に工藤公康に挨拶した際、飯田哲也から「引退したから言いますけど」と断りを入れられながらも「ストレートの時は口をきつく閉じ、変化球の時は口が緩い(セットポジションの時は出ない)」と癖を指摘された。現役時代に広島から来たあるコーチからはストレートと変化球でワインドアップの大小が違うと指摘され、広島からヤケに打たれるシーズンがあったがこれで納得したという。

2009年の時点で日本球界ではノーワインドアップモーションが主流となっていたが、山本は「かっこいいから」とワインドアップモーションを好んで使用した。一方、ワインドアップがプロ野球から減っていったのは癖が出やすいからだと引退後に分析している。

現役時代には「締めただけで何十何.何キロと体重が分かる」という理由で、使い古したボロボロのベルトを使うことで体調管理していた。

大久保博元は「思ったより曲がる変化球は軟投派の打ち崩し方である流し打ちで対処できたが、その変化球が頭から離れなくなると135km/hのストレートが150km/hに感じるようになった。速球派だと思ってしっかり引っ張って打つようにしてから対処できるようになった」という趣旨の現役時代の対戦の感想を引退後に述べていた。また、現役終盤期の直前まで手が見えないように投げる出所の分かりづらいフォームについて大久保は「相当いろんなことをやってあそこのフォームにいきついたと思う」と山本の努力を感じ取っていた。

独特のセットポジションである。最近では主流なグローブを顔から離して胸の位置で構えるスタイルは「日本で私が始まりではないか」と本人が語っている。ベルト付近にセットすると投げる時に胸までグローブを挙げる作業を行う分モーションが遅くなるという考えから、予め胸まで腕を上げる構えを行っていた。これは、モーションが速くなるという利点だけでなく、顔から離して構える分つま先に重心が移るという利点もある。

投球のテンポが悪いため、同僚だった大豊泰昭は「今日はマサだから試合が長くなるな」と思いながら守っていたという。

打撃

通算153犠打は日本プロ野球の投手史上最多。2007年にはセントラル・リーグ公式サイトで「隠れた犠打王」として紹介されている。中学時代の野球部監督角田明との対談で山本は「バント職人と呼ばれた川相昌弘さんにもお前バントうまいって誉められたんですから」、角田も「星野仙一さんもテレビでの解説でお前のバントを褒めていたよ」と述べていた。しかし本塁打に関しては初打席から1209打席本塁打はなく、2014年当時で初打席からの連続打席無本塁打記録は現役では岡田幸文、松本哲也に次ぐ3位だった。自身、本塁打を熱望していたが果たせずに終わり、NPBで200勝以上を記録した投手の中で、無本塁打に終わった初の選手となった。

2024/06/26 12:50更新

yamamoto masahiro


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山本昌広
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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「山本昌広」を素材として二次利用しています。

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