山本鼎の情報(やまがたかなえ) 洋画家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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山本 鼎さんについて調べます
■名前・氏名 |
山本鼎と関係のある人
小杉放庵: その後、絵に対する考え方の違いから1917年(大正6年)に二科会を、1920年(大正9年)には日本美術院を脱退し、1922年(大正11年)に森田恒友、山本鼎、倉田白羊、足立源一郎らとともに春陽会を創立する。 古田将士: 熱き炎の旅(1988年、TX) - 山本鼎 村山槐多: 5月、上京する途中、画家を志すきっかけを作ってくれた従兄の山本鼎がこのころ暮らしていた長野県小県郡神川村大屋(現・上田市大屋)の山本家(鼎の父が1898年〈明治31年〉から医院を開いていた)に立ち寄って1か月ほど滞在し、多くのスケッチや水彩画を残す。 鈴木三重吉: また紙面に児童の投稿欄も設けられ三重吉や白秋、山本鼎が選評にあたり児童尊重の教育運動が高まっていた教育界に大きな反響を起こした。 村山槐多: 母方の従兄に山本鼎(画家)と嶺田丘造(官僚)、はとこに黒柳朝(随筆家)がいる。 横山隆一: また当時、日本の漫画界では山本鼎、石井柏亭らファインアートの画家による「コマ画」制作が盛んな時期であり、これらの持つ叙情性やユーモアにも大きな影響を受ける。 恩地孝四郎: 1918年には山本鼎、織田一磨らの日本創作版画協会発起に協力し、1919年1月の展覧会開催に尽力した。 石井鶴三: 再興院展に「力士」を出品、二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞、明治の末年から山本鼎と交流を深め、創作版画の先駆者として知られるようになり、1918年、日本創作版画協会を結成、1919年、木版画『日本風景版画集』第9集(東京近郊)を、1920年、木版画『日本風景版画集』第10集(日本アルプス)を刊行した。 石井柏亭: 1907年(明治40年)、山本鼎とともに美術雑誌『方寸』を創刊(ドイツの「ユーゲント」等を念頭に置いたといわれる)。技法的には山本鼎ほど多角的ではなかったが、水彩スケッチの感触を生かした木版風景画を多く残している。 木下杢太郎: 1908年(明治41年)、年初に新詩社を脱退し、暮に筆頭発起人として、白秋、勇、および、美術雑誌『方寸』同人の石井柏亭・山本鼎・森田恒友・倉田白羊らと、『パンの会』を立ち上げ、美術家たちと詩人たちがそこで若さを爆発させた。 長原孝太郎: 山本鼎は長原に対して、「近代的眼光」(近代的知性=批評精神)と優れた表現力とを兼ね備えた日本で最初の漫画家である。 村山槐多: 7月28日 母方の従兄である画家・山本鼎が渡欧の途次槐多の家(※山本鼎の年譜での住所は上京区寺町通今出川上ル5丁目西入ル桜木町1番地になっていて、1900年の住所とは違っている)に滞在し、槐多に画才を見出し、油彩道具一式を与えるなどした。 |
山本鼎の情報まとめ
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山本 鼎(やまがた かなえ)さんの誕生日は1882年10月24日です。愛知出身の洋画家のようです。
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代表作、業績などについてまとめました。現在、卒業、結婚に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
山本鼎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)山本 鼎(やまもと かなえ、1882年〈明治15年〉10月14日 - 1946年〈昭和21年〉10月8日) は、日本の版画家・洋画家・教育者。 愛知県額田郡岡崎町(現・岡崎市)出身。16歳からは長野県上田市に住み、美術の大衆化、民衆芸術運動のなかに身を投じた。長男は詩人の山本太郎。画家で詩人の村山槐多は従弟。 1882年(明治15年)10月14日、愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市)に父一郎、母たけの長男として生まれた。間もなく、漢方医の父が医師資格取得に必要な西洋医学を学ぶため上京、一家は東京浅草区山谷町に移住した。小学校を卒業した鼎は、浜松町の木版工房で桜井暁雲(虎吉)の住込み徒弟となり、版画職人として自立する道を歩み始める。鼎16歳のとき、父が長野県小県郡神川村大屋(現上田市)に医院を開業、一家は移住、鼎にとって上田は第二の故郷となった。 1901年(明治34年)に木版工房での9年間の年季奉公を終えた鼎は、他人の下絵を彫るだけの職人に満足できず、1902年(明治35年)、東京美術学校西洋画科選科予科に入学した。在学中の1904年(明治37年)、与謝野鉄幹主宰の雑誌『明星』に刀画「漁夫」を発表、海辺の人々の生活感を滲ませたこの作品のリアリズムは、複製技術を主体とする、従来の版画にない新鮮さを示し、新進気鋭の版画家として注目された。それは、絵師、彫師、摺師の三者を一人で行う画期的な創作版画であった。1906年(明治39年)に東京美術学校西洋画撰科を卒業した。1907年(明治40年)、鼎は創作版画を奨励し、若い美術家や作家たちの創作拠点とすることを目的として石井柏亭、森田恒友と美術文芸雑誌『方寸』を創刊。資金難の中、雑誌の発行は困難を極めたが、1911年(明治44年)の終刊までに35冊を発行、美術・文芸の分野に独特の地歩を築きあげた。卒業後、鼎は雑誌にさし絵や文章などを書き活躍を始めた。 1908年(明治41年)12月、鼎は『方寸』を母体として、発起人の一人として「パンの会」を発足させた。石井柏亭、森田恒友、倉田白羊などの『方寸』同人と、北原白秋、木下杢太郎らがメンバーであった。1910年(明治43年)3月下旬から「上田朝日新聞」に、スケッチと文章による葉書通信『尋常茶飯録』の連載を始めた。北原白秋との親密な文学的交遊をうかがわせるエピソードとして興味深い。1911年(明治44年)、自ら東京版画倶楽部を開設し、そこからの刊行となった「草画舞台姿」というシリーズは、坂本繁二郎との共作で、従来の浮世絵版画の形式を追った作品であった。鼎は同誌に木版、石版、ジンク版などによる作品60点のほか、俳句、詩、評論、随筆などを発表している。 1912年(明治45年)7月、鼎は石井柏亭の妹、光子との結婚を石井家から拒絶されたことが発端で、パリへ旅立った。木版画を製作し、絵 を描き、エコール・ド・ボザール(美術学校)のエッチング科へも通うが、貧困の生活が続き、モデルのフランス女性が、あまりの寒さにストーブを焚いてくれと言っても、石炭を買う金が無く、手のひらでその肌を時々暖めてやりながら絵を描くこともあったというエピソードが残っている。一方滞仏中、島崎藤村との親しい交友関係ができ、藤村の『新生』に登場する画家・岡は山本鼎をモデルにしている。後に鼎は、フランスで得たものは、「リアリズム」であったといっている。 1916年(大正5年)6月、鼎はロシア経由で帰国の途につく。モスクワでは領事館の世話になり、帰国の旅費を得るため六カ月ほど滞在するが、この間、農民美術蒐集館を訪れ、児童創造展覧会も鑑賞した。モスクワ滞在中、北原白秋と懇意な青年と会い、白秋の妹、家子との縁談を紹介され、帰国した翌年(大正6年)二人は結婚する。またモスクワ時代には留学中であった片上伸とも出会い、以降も親交が続く。 1918年(大正7年)には、戸張孤雁らと日本創作版画協会を設立。日本画、洋画と並ぶべき版画の独自性を主張するなど今日の創作版画の隆盛をもたらすことに貢献した。(「版画」という語は鼎の造語であるといわれている。「平凡社、世界大百科事典」)また同年、小県郡神川小学校で「児童自由画の奨励」の講演を行ったことを契機に、子供に自由に描かせる自由画運動を推進することになった。1919年(大正8年)には、農民美術練習所を開講し、終生農民美術振興に献身することになった。また、鼎は描きやすい画材の研究をかさね、クレパスを考案したことでも知られている。1921年(大正10年)頃より、夫婦で国柱会に入信。 山本の郷里の知り合いが星野温泉の支配人をしていたことから、帰国後の第一作「温泉道」を軽井沢で描いて発表したところ、富岡製糸場の所長から申し出があり、軽井沢のアトリエを進呈された。所長は、偶然軽井沢で画作に励む山本を目撃し、その真摯な姿勢に感激したゆえの好意だったという。 鼎は、フランスへ渡った当時借金生活を送ったが、その後も農民美術の事業などで莫大な負債をかかえ生活は苦しかった。晩年は脳溢血で倒れ、療養生活を送った。1946年(昭和21年)10月8日、腸捻転を病み手術後に死去。享年65。鼎の墓所は江戸川区一之江の国柱会墓所にある。 代表作「漁夫」 木版画 1904年 「デッキの一隅」 木版画 1912年 「野鶏(ヤーチー)」 木版画 1912年 中国の娼婦を描いている 「ブルトンヌ」 木版画 1920年 ブルターニュ地方の女性を描いている 山本鼎最後の木版画
![]() 漁夫
![]() デッキの一隅
![]() ブルトンヌ
業績鼎の自由画教育運動と農民美術運動は、1916年(大正5年)フランスからの留学の帰途、ロシアで見た児童画と農民工芸に注目、さらにトルストイが始めた農民学校の話に感激して、日本においても実行しようと始めたものであった。旧来の手本を模写させるだけの美術教育を批判、子供に自由に描かせる必要性を説いた自由画運動と、農閑期に工芸品を作り、副収入を得ると同時に、美術的な仕事を通して、農民の文化と思想を高めようとする農民美術の運動によって、鼎は大正デモクラシーの先駆者の一人として位置づけられている。 自由画教育運動児童画の教育を改革しなければならないと考えた鼎は1918年(大正7年)、日本創作版画協会を設立、会長となり、自由画教育運動を展開した。この運動は全国的に教育現場で迎えられた。長野県では当時盛り上がっていた自由教育・個性教育思潮もあり、自由画教育運動は急速に普及した。1919年(大正8年)4月、長野県小県郡神川小学校で開かれた第1回児童自由画展覧会には長野県下から1万点弱の作品が寄せられ、7千人を超える児童が鑑賞した。1920年(大正9年)、「自由画教育の要点」を中央公論8月号に発表。同年12月26日、北原白秋らと日本自由教育協会を結成。児童の自由な感性を重視する芸術教育は、現在まで影響を及ぼしている。 農民美術運動第一次世界大戦後の疲弊した農家の生活を安定させるため、農閑期を有効に生かすことによって農民の生活に生き甲斐と誇りを持たせるために計画されたのが、農民芸術運動である。1919年(大正8年)12月、神川小学校の教室を借用して農民美術練習所が開所し、練習所の作品は三越で展示即場会で出品され好評を博した。農民美術練習所は翌年は、鼎とともにこの運動に携わった金井正の蚕室に移り、1000円ほどの建築費で小さな青い屋根の工房を完成させた。 1923年(大正12年)には日本農民美術研究所が新築され、本格的に講習が行われるようになった。また、農民美術生産組合が組織されるなど、その運動は着々と成果をあげながら、昭和の初期には長野県各地のほかに、東京、岐阜、京都、千葉、神奈川、埼玉、福岡、熊本、鹿児島などでも作品が生産されるようになった。現在も全国各地に物産品として民芸品が作られているが、これらのかなりの部分がこの農民美術運動に影響を受けたものである。徳川義親が北海道八雲町で始め全道に広まった木彫りの熊は、この農民美術運動とアイヌ工芸とが結びついて生まれた混合文化といえる。 民藝運動の創始者・柳宗悦は、農民美術がロシアなど西洋文化を模倣しており日本の伝統工芸を顧みていないことに批判的であった。 2024/06/17 16:46更新
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yamagata kanae
山本鼎と同じ誕生日10月24日生まれ、同じ愛知出身の人
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