山県有朋の情報(やまがたありとも) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


山県 有朋さんについて調べます
■名前・氏名 |
山県有朋と関係のある人
西園寺公望: 明治36年(1903年)、伊藤が山県有朋らの策謀で政友会総裁を辞任せざるを得なくなり、西園寺は伊藤の指名によって即日政友会総裁となり、枢密院議長を辞任した。 賀古鶴所: その後、内務卿山県有朋の知遇を得ると1888年(明治21年)山県渡欧の際同行し、翌年までドイツに留まりベルリン大学で耳鼻咽喉科学を修めた。 奥田瑛二: るろうに剣心(2012年、ワーナー・ブラザース映画) - 山県有朋 増田順司: 二百三高地 愛は死にますか(1981年、TBS / 東映) - 山県有朋 木戸孝允: 明治4年(1871年)7月9日、木戸邸に大久保利通、西郷隆盛の他に、西郷従道、大山巌、山県有朋、井上馨らの薩長要人が集まり、廃藩置県断行の密議が行われた。 久ヶ沢徹: 「最後のサムライ」(2015年) - 山県有朋 役 幸徳秋水: 馬蹄銀事件で秋水らを疎ましく思っていた山県有朋は、のちにロシア革命が勃発してから極秘に反共主義を進め、上杉の天皇主権説を基礎にした国体論が形成されていく。 室田日出男: らしゃめん(1977年、東映) - 山県有朋 小形満: るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚- (2023)(山県有朋) 内藤武敏: NHK特集 / 明治の群像 海に火輪を(1976年、NHK) - 山県有朋 賀古鶴所: ただし、1904年(明治37年)日露戦争に際しては山県有朋の申し出により軍医に復し、従軍中に陸軍一等軍医正に昇格した。 三津田健: 日本海大海戦(1969年、東宝) - 山県有朋 賀古鶴所: また、同小説に登場する天方伯爵は山県有朋がモデルとされる。 宮口精二: 海は甦える(1977年、TBS) - 山県有朋 役 佐々木味津三: 山県有朋の靴 (やまがたありとものくつ) 和沢昌治: 風雪 / 明治の元勲 山県有朋と伊藤博文(1965年) 江角英明: 獅子の時代(1980年) - 山県有朋 神山繁: 二百三高地(1980年、東映)- 山県有朋 役 永岡佑: 花燃ゆ(2015年) - 山県有朋 役 江守徹: 坂の上の雲(2009年、NHK) - 山県有朋 金田龍之介: 「明治の元勲 山県有朋と伊藤博文」(1965年) - 伊藤博文 小林久三: 軍人宰相列伝 山県有朋から鈴木貫太郎まで三代総理実記 光人社 2003 三島通庸: 同年9月、竣工し肇耕社で通水式を挙行、北白川宮能久親王をはじめ内務卿・山県有朋らが列席。 高松英郎: 巨人 大隈重信(1963年) - 山県有朋 役 高田稔: 明治天皇と日露大戦争(1957年、新東宝) - 山県有朋【陸軍大将、陸軍参謀本部参謀総長】役 賀古鶴所: 月1回、第2土曜日に山県有朋の支援を受けて飯田町の賀古邸と山県の椿山荘あるいは古稀庵で原則隔月に催した。 一坂太郎: 『山県有朋の「奇兵隊戦記」』洋泉社 歴史新書y 2013 猪野学: 八重の桜(2013年) - 山県有朋 役 北村西望: 戦前の作品は、「児玉源太郎大将騎馬像」「山県有朋元帥騎馬像」など勇壮な男性像かつ戦意高揚を意図した作品を多く手がけた。 |
山県有朋の情報まとめ

山県 有朋(やまがた ありとも)さんの誕生日は1838年6月14日です。山口出身の政治家のようです。

子役、事件、病気、兄弟、ドラマに関する情報もありますね。1922年に亡くなられているようです。
山県有朋のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)山縣 有朋(やまがた ありとも、旧字体:山縣 有朋󠄁、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の政治家。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。 内務卿(第9代)、内務大臣(初代)、内閣総理大臣(第3・9代)、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)を歴任した。 幼名辰之助、通称は小助、1864年以降は狂介。変名として萩原鹿之助の名も用いた。1871年以降に有朋の諱を称した。号は1871年まで素狂、以降は無隣庵主、含雪。 長州藩の蔵元付仲間だった下級武士の家に生まれ、学問と槍の稽古に励んだ。また山縣は明倫館の手子役時代に桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合い、槍術をさらに磨かんとした山縣は、同じく江戸での剣術修行を考えていた桂のすすめもあり、江戸行きに同行したので、江戸で宝蔵院流槍術を学ぶこととなった。練兵館の塾頭兼師範代になった桂と同じ道場に、長州藩の江戸藩校有備館からの特待生として井上聞多や高杉晋作が足を運ぶようになったため、そこで山縣も井上や高杉との知己を得た。長州藩主である毛利敬親が参勤交代で江戸にやって来ており、敬親の小姓を務めていた井上は、薩摩藩主島津斉彬の側近として働いていた西郷吉之助とも面識があり、山縣は井上を介してこの頃から西郷と面識を持つに至った。桂は当時、講武所に勤めていた村田蔵六(のちの大村益次郎)と深く交流を持っており、江戸の私塾で才覚をあらわしていた陸奥陽之助のことを聞き及んでおり、その関係もあって山縣は村田や陸奥との交流を持つに至った。 高杉晋作が創設した奇兵隊で軍監となり、戊辰戦争で転戦した。明治維新後の1869年に渡欧し、各国軍制を視察して1870年の帰国後に兵部大輔に就任。西郷隆盛とともに御親兵の組織と廃藩置県に尽力。 1873年の陸軍省創設で陸軍卿に就任。1878年にはドイツに倣った参謀本部を創設し初代参謀本部長に就任。1878年の軍人訓誡、1882年の軍人勅諭の起案、頒布にあたった。1882年には参事院議長、1882年に内務卿、1885年に第1次伊藤内閣の内務大臣に就任し、黒田内閣でも留任。1884年に伯爵、1890年に陸軍大将に昇進した。 1889年に第1次山縣内閣を組閣。軍備拡張をめぐり民党と対立し、自由党土佐派を切り崩して切り抜けた。 日清戦争では第一軍司令官として出征。1898年に元帥。同年の第1次大隈内閣瓦解後、第2次山県内閣を組閣。政党勢力の官僚機構進出を阻むため文官任用令改正、枢密院権限の拡大、軍部大臣現役武官制の制定などで官僚制を強化。また治安警察法の制定で台頭する労働運動に備えた。外交面では1900年の義和団事件では列強諸国から日本を防御するための派兵を行った。 日露戦争では参謀総長として指揮し、その戦功で1907年に公爵。最古参の元老として内政・財政は井上馨が、軍事面では山縣が元老内の最有力者となった。 大正期に原敬による政党政治の力が本格的に強まってきたのを受け、原敬の政党政治を容認し、協調路線をとることを判断した。 1922年に死去し、国葬に付された。 天保9年閏4月22日(1838年6月14日)、萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の蔵元仲間組の山縣三郎有稔(中村喜左衛門の子)の長男として生まれた。長州藩における蔵元仲間組は戦時には武具を運ぶ役柄のみであり、名字を名乗ることも、両刀を差すことも許されなかった。一般の武士より低い扱いを受けていた。母は山縣が物心つく前に病没した。有稔は手子役という、奉行所の下級職人であった。 幼いながらも長州藩校明倫館の手子役をしていた山縣は、この頃に桂小五郎(のちの木戸孝允)と出逢い、桂のもとで読み書きそろばんを学んだ。国学を学び歌を詠むなど、学問に優れていた。このころには撃剣・槍術などの武芸にも励み、長州藩内の宝蔵院流を学んでいた。その後、桂が江戸へ剣術修行に行く際に、江戸へと山縣も同行している。その後、江戸の宝蔵院流槍術を学んだ山縣は「槍の小助」として、江戸内外で槍の使い手としての名を響かせた。この江戸行きの時に、同じ長州出身者として長く生涯を共にする井上聞多(井上馨)や、奇兵隊創設者である高杉晋作、長州藩の軍師となる村田蔵六(のちの大村益次郎)と深く交流を持った。また他藩出身者の西郷吉之助(西郷隆盛)や陸奥陽之助(のちの陸奥宗光)とも、桂や井上らの紹介で親密な関係を築いた。 桂について長州に帰藩後、御徒目付の家来の横目役についた。幼馴染で親友である時山直八の知り合いである杉山松助らに松下村塾への入塾を勧められるも、「吾は文学の士ならず」として辞退した。 時勢を学ぶためとして、山縣を含む若者が京都に派遣されることとなった。その際に山縣は高杉と京都入りをしており、水戸藩の浪人から高杉を守るために自らしんがりを買って出ている。 文久3年(1863年)毛利敬親に日頃の忠義の篤さを賞され、終身の士分に取り立てられた。2月に再度京都へ向かい、滞在中は同じく京都に居た高杉晋作と共に過ごしていた。この頃に山縣は高杉から奇兵隊設立の相談を受けている。その後はリウマチを患って療養していたが、9月ごろからは高杉が創設した奇兵隊に合流し、奇兵隊総督高杉晋作のもと、実質的指揮官である軍監となる。 高杉と共に京都に上がった山縣は、奇兵隊軍監として初めて受け取った給料で祖母のための反物を購入した。しかし山縣家の祖母が、山縣から贈られた反物で作った着物を纏って入水自殺を遂げる。理由の分からない祖母の死を受け、山縣は後年までそのことを気に病んでいた。 高杉と山縣が京都にいる間に、長州では松下村塾出身者である久坂玄瑞らが外国船に向けて、藩の許可なく発砲するという事件が立て続けに起こっている。これによる報復措置として、翌年の元治元年8月に砲撃を受けたアメリカ・フランス・オランダと、海峡封鎖により経済損害を受けていたとしてイギリスが加わった4ヶ国による連合艦隊の襲撃を、長州藩は受けることとなった。久坂らは「幕府の命令に従った」と主張しているが、当時の幕府からは外国船から攻撃された場合においてのみ、反撃をすることが許されており、日本側からの攻撃は幕府も長州藩も認めてはいなかった。久坂らの独断による外国船への砲撃は本来ならば長州藩が罰されるところであったが、国内紛争を避けるために4ヶ国からの賠償金の請求は幕府が受け持つこととした。 元治元年(1864年)、長州藩では松下村塾出身者が独走をはじめ、軍を率いて上洛するという声が盛んになった。同年6月には池田屋事件が京都で発生。長州の藩論は慎重論であり、軍を動かすことは考えていなかった。しかし松下村塾出身者と藩主敬親の方針に反感的な一部の長州藩内の過激派分子が激高し、久坂玄瑞や入江九一などが京都に潜入した。7月19日には京都守護職の松平容保を殺して天皇を長州へ連れ去り、長州で攘夷を行うためと称して、久坂らは御所に向けて発砲。禁門の変が起こったが、久坂と入江らが率いる長州藩非正規軍は会津藩や薩摩藩の軍によって壊滅させられた。しかしその際に、久坂や入江らは逃亡を図るため京都の民間区画に放火し、火は京都中を焼き、数えきれないほどの無辜の京都市民が家財を失い、命を落とした。これを京都大火と呼ぶ。 8月には下関海峡を四カ国連合艦隊が襲撃した。この下関戦争で、山縣は壇ノ浦砲台で外国艦隊相手に応戦したが、装備で大きく差がついた外国勢に敵わず敗北している。さらに第一次長州征討をうけたことで、幕府に『無条件降伏』しようとする椋梨藤太ら俗論派が台頭した。それに対して幕府軍との講和を念頭に置きながら、もしやむなく開戦となった場合は徹底抗戦をするという考えを井上聞多は藩主に進言し、『武備恭順』という井上の論は藩論として定まった。しかしこれに対して、椋梨ら俗論派は井上の意見を臆病者の論であるとして、帰城途中の井上ひとりに大人数で夜襲をかけた。井上は持論であり藩論となった『武備恭順』という考えを進言した自身がまげるわけにはいかないと、あえて抜刀しなかったため、全身に多数の傷を負うこととなった。 井上が大怪我による療養に入った隙に、藩論を俗論派が抑えようとしたことに対して、高杉ら正義派は反発し12月に挙兵した(功山寺挙兵)。山縣は奇兵隊が暴発することを防ぐために、あえて高杉と同調して挙兵することは避けた。しかし俗論派によって正義派の前田孫右衛門ら(甲子殉難十一烈士)が斬罪にされたことで、奇兵隊をふくむ諸隊では反俗論派の声が高まった。翌元治2年(慶応元年、1865年)1月には山縣は奇兵隊を導入する形で高杉を支援することを決め、以降は俗論派との戦闘で次々に勝利を収め、正義派を勝利に導いた。しかし2月ごろから病気となり、副官である時山に奇兵隊を預けた山縣は一旦療養に入り、一ヶ月後に復帰している。療養前に山縣は、馬関の大富豪の娘であり、馬関一の美女と名高かった友子と結ばれている。山縣と友子は3年間、和歌を送り合って互いの想いを深めた仲であった。 慶応2年(1866年)の第二次長州征討では奇兵隊の実質的指揮官として、高杉の海軍と協力して小倉を占領する活躍を見せた。その後7月27日の赤坂・鳥越の戦いなどでは小倉藩兵の抵抗に苦しめられるなど、12月28日の和睦まで最激戦地の小倉口を戦い抜いた。高杉の死の床を最後まで守り、見届けたのは山縣であった。慶応3年(1867年)に入ると、山縣は薩長同盟について動き始めた木戸孝允の相談役兼護衛として京都と摂津の間で行動することが増えた。京都では薩摩藩の政治的主導者である西郷隆盛・大久保利通と面会するようになった。国父島津久光や家老小松清廉とも面会し、山縣に好感を抱いた久光からは「仇あればこれにて撃て」との言葉と共に短銃を贈られている。そのことに感激した山縣は、喜びの和歌を一首詠んでいる。 鳥羽・伏見の戦い後に奇兵隊本隊にも出陣の命令が下り、山縣は参謀福田侠平を従えて出発。また北陸地方・越後方面への出陣を命じられたことで山縣は戊辰戦争に加わることになった。これを受けて山縣は新政府内から戦局を政治的に見ている木戸や、年来の知り合いであり必要に応じて戦地へと向かう西郷との連絡を、今まで以上に深めることとした。 戊辰戦争(北越戦争・会津戦争)では黒田清隆・吉井友実・前原一誠とともに北陸道鎮撫総督・会津征討総督高倉永祜の参謀となり、奇兵隊を含む諸藩兵を指揮する立場に昇格した。ただし参謀である黒田と前原の個人的な憎み合いをはじめとする、薩長両軍の内部抗争が軍そのものの状態を最悪化させることが多々あり、我慢強い山縣が参謀を辞したいと口にするほどであった。閏4月19日に高田で軍を集結させると二手に分け北上、山縣と黒田は海沿いに進む軍監三好重臣が指揮する本隊と同行、もう1人の軍監岩村高俊率いる別動隊は内陸部へ進軍した。本隊は27日の鯨波戦争で桑名藩兵に勝利し、翌28日に柏崎を占領した。別動隊も小千谷を占領したが、そこで岩村をはじめとした隊長格が物見遊山気分で現地の女性に酌をさせながら膳を囲み始めた。女性を不当に扱い、一般の兵とは明らかに差のある食事をして、自ら戦地に赴こうとしない岩村らの行動に怒りを覚えた山縣は、時山と共に、食事をしている岩村たちに向かって軍馬で突っ込むという行動まで起こした。 奥羽列藩同盟が結成された後でも、戦争回避の為に新政府軍との話し合いに何度も足を運んでいた長岡藩家老河井継之助が山縣と講和決定の話し合いの場を持てるはずだった時にも、岩村は意図的に、山縣を他の戦地への救援に向かわせ、その間に河井と勝手に面会をした。山縣は河井と非戦の方向でほぼほぼ合意しており、その最終段階の話し合いのために来ていた河井を、岩村は侮辱して話も聞かずに蹴飛ばした。それでも河井は岩村の袴に何度も取り縋って、山縣との話し合いを求め、岩村に対しても非戦を訴え続けたが、岩村は一向に聞こうともせず河井に対して侮蔑と暴言と暴力を振るい続けた。岩村はどうしようもなくなった河井を追い出し、河井も戦もやむなしと涙をのんで決断する他なくなった。これにより『越(長岡藩)』を含んだ、奥羽越列藩同盟が結成されるに至り、戦禍は拡大することとなった。 越後口では国内で3台しかないガトリング砲のうち2台を所有していた長岡藩の家老河井継之助が率いる軍と友軍の桑名藩士立見尚文の前に苦戦を強いられた。5月13日の朝日山の戦いでは奇兵隊を率いた友人の時山直八を立見率いる雷神隊に討ち取られ、山縣は親友を失った悲嘆のあまり涙を流し、自らもここで死ぬと訴えた。膠着状態だった戦線は19日に本隊の三好による長岡城陥落で新政府側が有利になったが、7月25日に河井が長岡城を奇襲で奪還(八丁沖の戦い)、山縣はなすすべもなく西園寺公望総督(病気で辞職した高倉の後任)ともども撤退することとなった。長岡城を再度落としたのち、越後諸藩も降伏し、何とか越後の平定となった。それから東へ進軍して会津戦では高田方面へと進軍した。会津藩降伏に立ち会ったあと江戸へ下向、長州へ戻った。 明治2年(1869年)、維新の功によって賞典禄600石を賜っている。 明治2年3月、木戸や西郷に願い出ていた海外留学の許可が下り、6月28日に西郷の弟・西郷従道とともに渡欧し、フランス・イギリス・ベルギー・ドイツ・オーストリア・ロシア・オランダを巡遊した。翌明治3年(1870年)にアメリカ経由で8月2日に横浜港に到着した。 帰国後には兵部省のポストに就くよう勧誘されたが、当初は病気を理由として承諾しなかった。これは山縣の友人であった兵部大輔・前原一誠が直前に木戸と対立して辞表を出していたため、それに配慮してのことであった。当時の兵部省は、明治2年の山縣の海外留学中に長州の新政府幹部の1人でもあった初代・兵部大輔の大村益次郎が暗殺されたことで制度も滞ったままで、兵力も少ない皇居の護衛程度しか任務がない小官庁であり、兵部卿有栖川宮熾仁親王は名目上のトップで、実際は岩倉具視や木戸・大久保利通ら文官も強い影響力を持っていた。さらに兵部少丞の山田顕義との関係は希薄であり、仮に上官となっても服従させられるとは限らなかった。結局8月28日に山縣は兵部少輔に任命され、前原がまもなく辞職したことで、事実上の兵部省次官となった。11月には徴兵制のさきがけとして、畿内五カ国から兵を募る計画を立てたが、実現はされなかった。 山縣は各藩に分かれている軍事力を中央にまとめるため、薩摩に戻っていた西郷を政府へ呼び出す必要があると考えていた。明治3年12月、島津久光を東京に招くためとして岩倉が勅使として鹿児島に派遣され、山縣も随行した。鹿児島では大久保・川村純義・西郷従道とともに西郷を説得した。山縣は長州で木戸と面会した後、翌明治4年(1871年)1月末に帰京した。このころ木戸は廃藩置県実現の確信を得るに至ったが、それは山縣が薩摩から得た情報が元になっており、木戸は山縣に薩摩との連絡役を頼むなど、大きな信頼を寄せることとなった。2月には日田騒動の鎮圧に関与している。また廃藩置県後をにらみ、日本各地に旧藩兵を駐屯させる鎮台制度の調整を開始している。山縣と西郷従道は兵部省内の改革を進め、4月には兵部省内の部局を陸軍と海軍に分けている。 6月25日には太政官の大改革が行われ、ほとんどの卿と大輔が辞任し、山縣も兵部少輔を辞任している。6月29日には兵部少輔に再任された。また、7月1日には大久保や大隈重信・井上馨とともに、官制改正のための制度取り調べを命じられた。7月6日には西郷の元を訪れ、廃藩の説得にあたっている。7月14日、廃藩置県の詔が出た日に兵部大輔に昇進し、卿のいない兵部省のトップとなった。明治5年(1872年)2月27日、兵部省は陸軍省・海軍省に分割され、山縣は陸軍大輔となった。3月9日には山縣の上奏により御親兵が廃止されて近衛が設置され、山縣は近衛都督・陸軍中将にも任じられた。また3月には鎮台制度が開始されている。明治6年(1873年)1月の2鎮台増設とともに、東京軍管で全国徴兵の前段階としての新兵募集が行われている。 当時、奇兵隊で山縣の部下だった政商・山城屋和助は、兵部省を含む各省庁から借り入れをし、大きな利益を上げていた。また各省庁の官吏も山城屋から借金をしていた。しかし生糸価格が暴落し、輸出を増やすために洋行したが、派手に豪遊したことで噂になった。司法卿の江藤新平は調査を行い、山縣の排斥運動につながった。 従来から反抗的であった薩摩系将校たちが辞職を迫ったことにより、山縣は6月29日に辞表を提出した。辞表を受け取った明治天皇は西郷隆盛・従道兄弟に調停に入るよう命じた。調停の結果、山縣と従道が近衛都督と副都督を辞任し、西郷隆盛が都督となることで収拾を図ることとなった。 この後山縣が山城屋に帰国を求め、借金の返済を迫ったところ、山城屋は関係書類を焼却して陸軍省内で割腹自殺を遂げた。 薩摩派の山縣攻撃は更に強まり、明治6年4月に山縣は再度辞表を提出した。この際、陸軍大輔の辞任のみが認められ、陸軍中将の地位は保つこととなった。山縣なき陸軍の瓦解を恐れた西郷・大隈重信・井上馨らは、4月29日に山縣を陸軍御用掛として陸軍卿代理に任じた。6月8日には陸軍卿兼任を求められ、辞退したものの認められず、陸軍卿を務めることとなった。 7月から山縣は各鎮台巡視を行い、10月の明治六年政変に直接関与することはなかった。山縣は当時閣議のメンバーではなかったが、政変後の10月26日に帰京した際もなかなか木戸の元を訪れないなど煮え切らない態度をとり、木戸の怒りを買うこととなった。これは山縣が恩人である西郷との対立に消極的であったためと指摘する意見もある。 政変後の人事では山縣以外の卿はすべて参議となったにもかかわらず、木戸の反対により山縣のみ参議となれなかった。その後も大久保利通と伊藤博文、岩倉らはなおも山縣の参議就任を働きかけている。一方で陸軍省内での山田顕義派閥との対立が激化し、明治7年(1874年)2月に陸軍卿を辞任、近衛都督に就任した。2月22日には参謀局(後の参謀本部)が設置され、参謀局長に就任した。しかし立場は不安定であり、佐賀の乱や台湾出兵に関与できなかった。 しかし台湾出兵での西郷従道の独断出兵に不安を覚えた大久保は、出兵反対派であった山縣の再起用を考え、6月30日に陸軍卿に再任された。8月に大久保の推薦で参議に就任した。またこのころから一時険悪であった木戸との関係も修復される。 明治10年(1877年)2月に勃発した西南戦争では、当初大久保など政府中枢は西郷が加担することはないと考えていたが、山縣は西郷が騒動に与する考えはなくとも、情誼において私学校党の徒が必ず担ぎ出すと見ていた。山縣は陸軍卿兼任のまま、現場総指揮官である参軍に就任した。海軍側の参軍として川村純義も就任したが、陸軍が中心であった政府軍の戦略の中心を担うこととなる。錬度や士気で優る薩軍に対し、装備と物量・兵力で対抗して鎮圧した。また、電信を活用し分散した軍との連絡を取り合い、政府も海軍を使い薩軍の後方の鹿児島を襲撃させ制海権を掌握した。薩軍挙兵前の1月28日に、不穏な鹿児島情勢を警戒し、山縣は陸軍少輔大山巌や熊本鎮台司令長官谷干城に厳戒態勢を滞在中の京都から命じて、小倉の歩兵第14連隊から一個中隊を派遣して長崎港の防備を固めた。はたして薩軍は2月5日に挙兵、山縣は2月10日に太政大臣の三条実美の許可を得て大山に命じて近衛歩兵第1連隊・東京鎮台歩兵第1大隊・東京鎮台山砲兵第1大隊への出帥準備させ、大山は2月14日に薩軍鹿児島進発の報を受けて順次兵員を出動させた。熊本鎮台の兵が籠城する熊本城を攻めあぐねた薩軍は一部を残して北上、博多港から南下した援軍の政府軍と田原坂など周辺で激突した。 3月4日から政府軍は田原坂を攻撃したが、薩軍の果敢な襲撃と堅固な陣地の前では突破できず犠牲が増え、抜刀隊の投入などを経てようやく20日に田原坂を突破したが、東の植木から先は薩軍の抵抗で進めないままだった。こうしたなかで高島鞆之助が進言した別働隊編成案が閣議で採用され、征討参軍となった黒田清隆を指揮官として山田と川路利良が率いる別働第二旅団が編成された。3月18日から22日ににかけて別動第二旅団は熊本の南の八代に上陸、薩軍の抵抗を排除しながら北上、4月14日に熊本城へ入り包囲から解放した。それにより植木の薩軍は撤退、山縣の本隊も16日に入城を果たした。陸軍の山縣が敵と対峙している間に海路から黒田と山田が敵の背後を占領・牽制するという、奇しくも戊辰戦争と同じ状況が再現されたが、山縣と黒田の対立が激化したため、黒田は熊本城解放後に辞任、山田は山縣の下に属し従軍を続けた。 撤退する薩軍を追い政府軍は熊本城から東進、山縣は雌雄を決すべく熊本平野の南北に防衛線を張った薩軍と20日に激戦を繰り広げた(城東会戦)。関ヶ原の戦い以来の大会戦といわれ、双方が死力を尽くした城東会戦は北は大津から、南は御船まで政府軍と薩軍が拠点を奪い合う死闘となったが、山田の別働第二旅団が御船を落としたことが転機となり、ほかの戦線も次々と崩れ薩軍は撤退、1日で政府軍の勝利に終わった。以後、山縣は軍の指揮を執り、南の人吉から南東の都城、そこから北東の宮崎、北の延岡まで逃げる薩軍を追跡しながら鹿児島の分隊に援軍を送り、鹿児島を包囲していた薩軍の一部隊を蹴散らし、ほかの戦線にも部隊を送り薩軍を追い詰めていった。やがて8月14日に延岡を陥落させ、翌15日に北の長井村から延岡奪回を図った薩軍との戦闘にも勝利したが、17日夜から18日未明にかけ薩軍が脱出、長井村に包囲網を敷きながら薩軍に西の可愛岳を突破され逃げられる失態を犯し、部下に送った手紙で反省の気持ちを書いている。 態勢を立て直し薩軍追跡を続行、南下して薩軍に奪われた鹿児島へ進軍し、9月24日の最後の城山の戦いでは、1度逃げられた反省から幾重にも包囲網を張り巡らし、各旅団と打ち合わせを重ね慎重かつ詳細に包囲網の部署や攻撃地点などを定めた。また別の戦争終結も試み、直前の23日に西郷へ自決を勧める書状を送った。内容は、大義名分のない挙兵は西郷の意志ではなく周りの暴走ではないかと西郷の心情を慮ったうえで、これ以上犠牲者を出さないため西郷に自決を勧めたが、西郷が返事をしなかったため決戦となった。 政府軍は城山へ総攻撃をかけ、西郷が自決し戦争は終結した。西郷の遺体を検分した山縣は、任務を全うしたことを喜びつつも西郷の死に涙を流し悼んだとのちに回想している。戦後は恩賞として勲一等旭日大綬章と勲章・年金を与えられ、別荘・椿山荘を購入し作庭に取りかかった。 戦争で財政が枯渇し経費を節減したため、陸軍内には不満が蓄積するようになった。また、山縣は勲功調査委員として恩賞選定の責任者となっていたことも恨みを買う事となる。 翌明治11年(1878年)8月23日、兵士の待遇を悪くしたり恩賞を下級兵士に与えなかったりしたことが原因で近衛歩兵大隊の暴動(竹橋事件)が発生し、鎮圧された。しかし山縣への不満の声は高まり、ストレスに悩まされた山縣は「精神不調症」となり、9月半ばから11月7日まで転地療養を行う。 山縣は、竹橋事件の背景には自由民権運動の影響があると考え、この間の10月12日に、西周に起草させた『軍人訓誡』(軍人勅諭の原型)を陸軍へ配布し、軍紀の引き締めを図った。伊藤・岩倉らは山縣を傷つけない形で収拾を図ろうとし、内閣改造案の策定に取り掛かった。しかし、内閣改造が政府の弱さを晒すことになるという井上馨の反対も有り、西郷従道の提案で参謀局は独立して参謀本部が成立することとなった。12月7日に大山巌を参謀次長とする参謀本部が編成され、12月24日陸軍卿を辞任した山縣は参議のまま初代参謀本部長となった。このころ参謀局に在籍していた桂太郎は、山縣の腹心となっていた。翌年10月に山縣は、近衛都督の地位を参謀局長であった鳥尾小弥太に譲るが、後に彼は山縣らの批判者となる。 参謀本部を充実させる一方、山縣は1879年から翌年にかけて将校十余名と桂を駐在武官や語学研究生として清へ派遣し、兵役改革を調査をさせた。そしてその報告を受け、1880年(明治13年)11月30日 天皇に「進隣邦兵備略表」を上奏。 明治13年(1880年)には山縣と親しい大山巌が陸軍卿となり、陸軍の全権を山縣が握っていると評される状態となった。軍編成を鎮台から師団変更の検討など軍の整備も進めた。 明治十四年の政変では伊藤を支持し、黒田清隆の進める官有物払い下げの中止を求めている。 明治15年(1882年)1月に軍人の政治関与禁止を改めて記した軍人勅諭を制定。伊藤らから別の省の卿になることを求められるが、拒否して参謀本部長の地位に留まる。 明治15年(1882年)3月、伊藤が憲法調査のため外国へ旅立ち、参事院議長を辞任すると、山縣が参謀本部長を辞任して後任の参事院議長に就任。翌年8月に伊藤が帰国するまで在任した。参謀本部長は辞任したものの、参謀本部御用掛として参謀本部に強い影響力を残した。伊藤の帰国後は内務卿に転任。 明治17年(1884年)の華族令制定の際に華族に列して伯爵に除され、大山、桂、川上操六らと陸軍の改造・拡充を計画し、同年2月に大山陸軍卿が欧州視察に向かった後は、内務卿兼任のまま参謀本部長を勤める。大山が帰国した後も兼任は解かれなかったが、これは陸軍と参謀本部の自立を考える山縣にとって好ましい状態ではなかった。翌明治18年(1885年)12月22日、山縣の願いで参謀本部長の兼任は解かれた。同日に内閣制度創設で内務卿の名称が変わると、第1次伊藤内閣の内務大臣となった。三浦梧楼ら四将軍派、陸軍内若手の月曜会は山縣らの主導による軍拡に反対。また、予算上の問題から伊藤と井上が軍拡計画の再考を求めたことや、内部分裂を恐れて四将軍派の懐柔を提案したこともあり、山縣らの軍拡計画は明治26年(1893年)度まで延期となるなど一向に進まなかった。 明治19年(1886年)7月10日、桂陸軍総務局長は、監軍部の廃止と参謀本部の勢力抑制を目的とした検閲条例と陸軍進級条例の改正案を閣議に提出した。この条例には四将軍派の曾我参謀次長のみならず、明治天皇も裁可を渋った。また、三浦らも大山陸相を公然と批判し、これを受けた大山は「意見が通らなければ辞職する」といい、大山支持の薩摩軍人も揃って辞表を提出する騒ぎとなった。4月24日伊藤の説得で明治天皇は監軍を一つ残置すると修正させた後に、この条例を裁可した。陸軍首脳を公然と批判した曾我と三浦は閑職に左遷され、自ら辞表を提出している。一連の対立に際して山縣は表立って動いていないが、一貫して大山らを支持し四将軍派の排除に一役買った。 反対派がいなくなり陸軍改革も桂らの手で着々と進んだことにより、陸軍は山縣を中心とする派閥が形成されていった。 山縣は積極的に人材登用を行い、桂をはじめ児玉源太郎、岡沢精など同郷人や中村雄次郎、木越安綱ら他藩出身者も軍部へ取り立て、派閥を拡大していった。 軍拡と組織体制も整い、明治21年に師団への変更と参謀本部の改編が行われ、参謀本部は翌明治22年に参謀総長を長とする軍事組織へと改編が完了、のちに同様の組織として海軍軍令部も作られ陸海軍双方の参謀本部が完成した。 ただし、平常時で軍政に関わる事柄、特に予算関係は陸軍大臣が内閣と協議する慣例で、軍の中心は陸軍省にあり、参謀本部は完全に陸軍省から独立した部署には成りえていなかった。 明治18年1月に京都府知事北垣国道に疏水起工特許を下し、5年後の明治23年4月に挙げられた琵琶湖疏水竣工式に出席。以後も琵琶湖疏水との関わりは続き、のちに京都の琵琶湖疏水のほとりに別荘・無鄰菴を建てると、庭池に疏水の水を流してもらっている(これは京都市が疏水事業を推進した山縣への恩義からではないかとされている)。 内務大臣として地方自治の形成に尽力し、市制・町村制・府県制・郡制を制定した。内相就任前から地方制度に関する意見を政府に提出していた山縣は、市町村制の公布に際し、明治20年(1887年)1月から開かれた地方制度編纂委員会で委員長を務め、ドイツのお雇い外国人アルベルト・モッセ、同郷の青木周蔵・野村靖らを委員として、ドイツの制度を参考にした自治制を日本に合うように修正・定着する方針に決めた。 しかし、地方が財政難の中各地方長官が急激な制度改革に反対、元老院と大蔵省も反対した。山縣は制度実現に向けて明治21年2月までに立案・審議を終わらせ、4月25日にまず市制町村制が公布、明治22年4月1日以降に各地で順次施行、明治23年(1890年)5月17日に府県郡制も公布された(施行は明治32年(1899年)3月16日まで遅れた)。 地方財政の対応策として明治の大合併を推進し、明治21年末から明治22年末までに約7万から約1万5,000と町村の数が激減するほどの合併を実行したが、地方に妥協し実情に合わせて配慮したため、旧町村と新町村の財政が一本化されない、新町村に吸収されたはずの旧町村の区域が名前を変えて残り、実際の町村は分離されたままという中途半端な結果に終わっている。 山縣が地方自治に熱心に取り組んだ理由は、日本国民に政治の仕組みを地方政治を通して理解させること、および急進派や過激思想(特に自由民権運動)を政治から遠ざけ、穏健派を政治に迎え入れる意図があった。府県と郡の政治機関は官選の知事(郡長)と補佐する執行機関の府県参事会(郡参事会)、地方議会にあたる府県会(郡会)で構成され、市町村も同じ構造で市長・市参事会・市会が政治機関で、町村もそれぞれ町長(村長)・助役・町会(村会)を置き、等級選挙と複選制(間接選挙)を導入して富裕層の政治参加を図った。山縣の狙いは普通選挙を導入して混乱を招くより、等級選挙で地方の有力者の政治参加を望み、地方議会政治を通して彼らを行政事務に慣れさせ、政治家として成長した地方議員達がやがて中央へ進出、将来帝国議会で堅実に政治を行うことを考えていた。 この山縣の意図はあまりうまくいかず、府県会選挙をめぐり市町村会員選挙が混乱、明治32年に帝国議会との妥協で府県郡制施行の際に府県郡会の複選制と大地主参加を廃止、府県会は直接国税3円以上の納税者による直接選挙に変更され、府県も官選の知事に対して府県会の権力が弱いなど(代わりに府県参事会はある程度知事に制限をかけられた)、地方自治の発達につながらず当初の目的から後退した例が多かった。それでも府県会と知事が相互牽制して両者の関係を成り立たせ、郡には町村が難題を抱えたときに代議決権を持たせるなど、工夫を凝らして自治育成の方針を残そうと努力した。 自治を促しつつ国から地方へのコントロールも行える仕組みにも取り組み、国から地方への行政執行命令と国税徴収を通しての規制強化で、中央と地方の関係を構築させようと試みた。ただし、のちに山縣は方針を変え、府県郡制施行で知事と郡長の権限を拡大、山縣系官僚が郡を通して町村を統制したため、軍と並んで地方も山縣の派閥の根拠地となっていった。 明治21年(1888年)12月2日よりヨーロッパ各地へ視察旅行に出る。外国の地方自治制度と軍事および国会と地方議会の関係の調査が目的だった。フランスでは軍人政治家ジョルジュ・ブーランジェが大衆の人気を背景に打倒政府の首領に担がれたクーデター未遂事件(ブーランジェ将軍事件)を見聞、翌明治22年(1889年)2月11日の宮中での大日本帝国憲法発布式典には、フランス滞在中のため臨んでいない。伊藤も遊学しており、当時「シュタイン詣で」とさえ言われるほど日本政府の要人らがオーストリア・ウィーンの憲法学者ローレンツ・フォン・シュタインを訪れていたが、山縣も訪問している。ほかにイタリア、ドイツ、イギリスにも出かけ、ドイツでグナイスト、クルメツキ(ドイツ語版)、ビスマルク、ヴィルヘルム2世らのもとを訪問している。しかし山縣は外国語ができず、その国の事情を十分に知ることができないとこぼしている。また議会を見学した際には「空論を主張するものが声望を得る」と批判的な感想を持った。10月2日に帰国した。 旅行で山縣が得た知識・体験は中央で急進的な民衆運動が政治を混乱させていること、対照的に地方議会は平穏な状態を見て国会開設を否定的に捉えるようになった。 自治制に協力したモッセの師にあたるグナイストからは、町村は住民の自治を基盤とするドイツ制度でよいとしながら、それより上の府県レベルには導入すべきでなく、官選の知事の権限が強いフランスの制度を採り入れることを忠告され、帰国後に公布された府県郡制に反映された。また、かつて大久保利通にも教示したシュタインやクルメツキたちからは、それぞれ外交方針と議会操縦を学び、これは帰国後に山縣が第1回帝国議会で発表する「主権線」「利益線」の概念と議会支持者の形成などに活かされるようになる。 内務大臣 として「ロシアのシベリア鉄道竣工が、将来日本の国益に大きな影響を与えるもの」と危機感を募らせた山縣は、明治21年(1888年)1月「軍事意見書」を書いた。さらに、それを踏まえて明治23年(1890年)3月「外交政略論」を書いた。これら2点の論文は、山縣内閣の閣僚に提示された。 椿山荘庭園 - 1万8,000坪。富士山、筑波山、房総の山々を見渡す広大な庭。 無鄰菴庭園 - 3,100平方メートル(約940坪) 古希庵庭園 - 1万坪 青年期にリウマチを患い、30代から歯痛に悩まされ、その後の日清戦争でも戦地で胃腸の痛みに苦しむなど、度々病気に苦しんだ山縣は健康に気を使っていた。生活は規則正しく、質素倹約なものであった。午前6時の起床後はタオルで体を拭き、食後には槍を振るった。若いころは日本酒を好み大酒飲みであったが、60歳を過ぎたころから飲酒は夕食に葡萄酒3杯を摂る程度にとどめていた。松本順が提唱した『海水浴健康法』を取り入れ、小淘庵ではたらいに塩の湯を張って腰まで浸かり頭から毛布をかぶって汗をかくことで実践した。 衆議院議員を長く勤めた関直彦は山縣の食生活について「山県公は平素の食膳には必ず紫蘇の実の佃煮あり、温き飯に振り掛けて食せらるるを好まる」と述べている。 ドイツ帝国宰相ビスマルクと参謀総長大モルトケを深く尊敬していた。椿山荘の居室の暖炉の上には、ビスマルクとモルトケの銅像を飾っていたという。 明治30年代(1897年 - 1906年)には社会主義が勃興しつつあり、「社会」という言葉に対してさえも政府が敏感であったころの話である。第2次山縣内閣のとき、ある政府の役人が、日本の大学に社会学のようなものを置いてはいけないと言った。すると山縣は、一体どこで誰が社会学をやっているのかと問うた。それに対して、それは東京の文科大学で、建部という教授(建部遯吾)が担当してやっていると答えると、山縣は「建部がやっているのか。それならいいじゃないか」と言ったため、その結果、この時期の日本の最高学府において社会学が潰されてしまう危機を脱することができた。 山縣はこれと見込んだ軍人や官僚を要職に就けて見捨てることがなく、これが自然と「山縣系」ともいえる人脈を形成した。山縣は藩閥によって政治が行われることがないように心を砕いており、元幕臣である西周は軍人勅諭を出す際に、山縣が一番頼りにした人物である。また第二次山縣内閣期には原敬を抜擢をしようとしたが、これは本人が断っている。 派閥の形成は、山縣を深く知らぬ人物からは、元長州藩出身の人材ばかりを要職に就かせる手法にも映り、長閥として嫌う者も多かった。しかし、熊本県出身の清浦奎吾・山形県出身の平田東助・兵庫県出身の田健治郎など藩閥外の人物も多く抜擢している。十四年間秘書官として仕えた入江貫一は、はじめは容易に人を信用しないが、「一度信用されると思ひきつた信用をなさる性格」であると評しており、平井政遒も同意している。しかしこれらの山縣閥の中にも、鳥尾小弥太や桂太郎のように、後年になって山縣の敵対者となるものもいた。 尾崎行雄は山縣が門下の人々に情が厚く、また裏切ったものにも目をかけていたことが山縣派の結束力の高さに結びついたとしている。望月小太郎は山縣の世話でイギリス留学を行い、後に政党政治家となって尾崎とともに山縣と対立した人物であるが、山縣は終始好意を向けており、晩年には親密になったという。 同じ長州出身の伊藤博文と山縣の思考や、政治に対する姿勢は全く異なっていた。 どんな時でも冷静で理論的に発言をする山縣に対し、伊藤は私的な感情論でのみ物を言う性質が強く、意見がかみ合うことは滅多になかった。そもそも伊藤は維新が成る前から山縣を一方的に毛嫌いしており、山縣が言う事には一も二もなく何でも反対するのが伊藤であった。 伊藤は自らが推し進めた議会制が日本で初めて行われる際にも、自らの失敗となり、責任をとることを恐れて、山縣に内閣の首班を押し付けた。それでいて内閣人事については口を挟んで、山縣が第1回帝国議会の運営を失敗するように、伊藤は樺山資紀や榎本武揚、山田顕義をはじめとする山縣を妬み、失脚する事を望んでいる人員を閣内へと無理矢理に入れ込んだ。山田は北越戦争の時の時山の死について、顔を見れば山縣を悪しざまに罵る事で有名だった。また農省務大臣には長岡藩家老の河井継之助との講和を反故にした岩村高俊の実兄である岩村通俊が、伊藤の手によって席を得ていた。 伊藤の邪魔により、山縣内閣に入ることを断念せざるを得なかった井上馨が、せめて内閣をもう少し山縣の有利に動くようにと、当時アメリカに留学していた陸奥宗光を呼び返していた。陸奥も長年の旧友である山縣と井上の支えとなるべく、農商務大臣の席から岩村を実力でもって去らせた。岩村の頃から農商務大臣秘書官であった原敬は、賊の出だからということを理由に仕事を干されていたが、岩村を排した陸奥は原の能力の高さを見込み、自らの懐刀として議会へ臨んだ。ちなみに伊藤は陸奥を自身の手駒に出来ると思い、陸奥に話を持ちかけたことがあるが一蹴されている。 伊藤は自分に都合の良い時だけ人員を使い、要らなくなったら捨てるというスタンスであった。そのため伊藤が困った時があっても、誰も助けに入ることはなかった。反対に山縣は藩閥の境なしに、誰に対しても親切で面倒見がよく、そう簡単に切り捨てるということもしなかったので、自然と人が集まり、後に山縣閥と呼ばれる強固な集団が形成された。このような点においても、伊藤と山縣の違いが見て取れる。 山縣は古くから原を「屈指の人物」であると評価し、大阪毎日新聞の社長だった時代には主要国の駐在公使に抜擢しようと考えていたこともある。また松本剛吉への談話では、星亨、大浦兼武、田健治郎らと並べて「人格を貴び、やろうとすることはどんなことでもやろうとする人物」と評している。山縣は木戸孝允の目指していた国民全てが公正に参加できる議会制政治に対して、木戸存命中の頃から理解が深く、それ故に大隈重信らが掲げるような性別や資産による制限をかけた民権運動や、そうした制限を掲げ、それによって出来上がった政党というものは嫌っていた。原が政友会入りした後は政治上対立者となったが、原個人に対してはかなり好意的に接しており、山縣は原と協調路線をとることが何よりの良法と考えていた。原内閣成立時にも上機嫌であったという。 原は山縣の外国への慎重姿勢などを評価して、山縣が生きている限り日米戦争は起こらないと発言していた。 原は山縣の完全排除を望まず、宮中某重大事件で山縣が謹慎していた際にはその復帰を求めている。以降原への信頼を厚くした山縣は「原位の人間は只今では無い」「(辞表が受理されて平民に戻った後は)原と力を合わせて遣りたい」と述べている。 原が暗殺された際には非常に嘆き、「原と云ふ男は実に偉い男であった。ああ云ふ男をむざむざ殺されては日本はたまったものではない」と述べている。その後、病床で原を殺されたときの夢を見て、「何だ。馬鹿。殺して仕舞へ。馬鹿な。馬鹿な。」と叫んでいる。 当時、伊藤博文や大隈重信寄りの政治家や財界人は大抵、妾を置きたがった。対して山縣は井上馨や陸奥宗光と同じく、所謂『女遊び』というものを徹底的に嫌っていた。政治上話をしなければならない相手の招きによって、どうしても花柳界に足を運ぶ時があっても、そこの女性を『遊女』として見たり、扱ったりすることは決してせず、対等の存在として接していた。 友子夫人の没後、事実上の夫人となった吉田貞子のほか、山縣の後援で京都に茶屋を経営していた堀貞子は、花柳界というそこに囚われた女性だけでは抜け出すことのできない場所から山縣が保護した女性たちであった。花柳界というある種の牢獄の中には、外で勝手放題をしている男よりも実務能力が高かったり、政治や外交の理解が早く、商才もある女性が多かった。だが、彼女らの多くは女性であるというだけで売り飛ばされ、一生をそこで埋もれて終わらされてしまう世の中であった。そのような人生を送らせるにはあまりにも惜しいと思う女性が居れば、山縣をはじめ井上や陸奥は、店の言い値以上の額を叩きつけて、彼女らを保護していた。ちなみに陸奥の細君である亮子も花柳界出身だが、亮子の政治的判断や外交に対する切り返しに惚れ込んだ陸奥が、妻としてだけでなく政治的パートナーとして招いた相手である。 堀貞子によれば、山縣は「色気のないお方」で派手な遊びはせず、美しい人を見れば素直に「美人だなァ」と口に出して言うだけであったという。 山縣は政党政治家・デモクラシーを唱えるジャーナリズムにとって、デモクラシーを妨害する大きな壁、悪役と見られていた。大正時代に活躍したジャーナリスト鵜崎鷺城は、山縣が「狡猾」で「自分の勢力のために系統を広げ」、「陰険執拗」と極めて批判的に見ている。一方で徳富蘇峰は山縣を「穏健な帝国主義者」と評している。 明治の元勲として陸軍の基礎を作ったことから、軍部への影響力は大きなものがあった。山縣が当時の権力者の地位に上り詰められた背景には、原理原則を保持しつつ妥協も許容する自身のリアリストとしての側面と、人材の発掘と育成の妙があるといえる。 勝海舟 「あれは正直一方の男サ」 尾崎行雄
「方今第一流政治家中屈指の人物なるべし。然れども器局広大ならず、智慮深遠ならず、豪勇充足せざるがため、折角の親切もまま良果を得ずして、悪果を生ずるとあり。これ痛嘆大惜すべきなり」 「(伊藤博文、大隈重信、山縣の三人を評して)その人物を素裸にした値打ちから云ったならば山縣公が一番優れてゐたと私には感じられた」 「恐ろしく注意深い人で始終ものを二重にも三重にも考えたので山縣公は一生を通じてあまり大した失策がなく、公自身もそれを誇りとしていたようである」 「典型的な軍人で、必要と思われる以上に『軍人の面目』を重んじた」 三浦梧楼
「用心深い、堅固な人という事には、何人も異論はなかろう。その用心深い所に堅き根底が築かれている。伊藤や井上の及ばなかったのもここに存するであろう」 伊藤痴遊 「実践の上で、後世に伝わるほどの事はしておらぬが、それでも元帥になって、陸軍の首脳であったのは、実に不思議というべきである。しかしながら、謹厳寡黙、すこぶる重厚の人柄で、どことなく押手の利いた人であった。子分も永い間に沢山養って、陸軍のほうにも、また政治のほうにもすこぶる多くいて、その勢力は実に驚くべきものがあった。至誠という事において、他の政治家や軍将に異なり、極めて真面目に国家を想うていた事だけは充分に認められる。どうでもよいというて事に当るというような事はとてもできない人で、何の仕事についても一生懸命であったのは感服に値する」 石橋湛山は山縣の死を受けた大正11年2月11日に、『東洋経済新報』のコラム「小評論」で次のように述べている。山縣の政治権力を「国家を憂うる至誠の結果」と評し、宮中某重大事件での行動も至誠から出た行為と評している。一方で「世の中は停滞せざる新陳代謝があって、初めて社会は健全たる発達をする」ことを指摘し、「人は適当の時期に去り行くのもの、死もまた一の意義ある社会奉仕でなければならぬ」と評している。第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)4月14日には「週間寸信」において、中央指導部に対して政戦両略の妙を要求するとした上で、「冀くば山県元帥出でよ伊藤侯出でよ」と記している。 昭和天皇は、終戦直後の昭和20年(1945年)9月に、疎開中の皇太子・明仁親王へ宛てた手紙の中で、「明治天皇の時には、山県、大山、山本等の如き陸海軍の名将があったが、今度の時には、あたかも第一次世界大戦の独国の如く、軍人が跋扈して大局を考えず、進むを知って、退くことを知らなかったからです」と、陸海軍の名将として大山巌・山本権兵衛とともに山縣をあげている。 山縣は、政党政治否定、藩閥政治推進、社会運動弾圧の代表的人物として、歴史家から大きなマイナスの評価を与えられてきた。1961年に『山県有朋』を著した藤村道生は山縣が北清事変を「侵略の絶好の機会と見た」と表現し、「日本に比類のない軍国主義体制を作ることに成功し」「(山縣による官僚・軍閥が)日本を支配し続け、やがて暗黒の太平洋戦争に引きずり込む」と山縣と太平洋戦争を直接的に結びつけた表現をとっている。有馬学は明治から平成中期までになされた山縣論を分析して、山縣が個人的なパーソナリティーや政治姿勢およびその実像とは離れたところで、「近代日本の暗部」であり「否定されるべき存在」として「象徴化」「記号化」されて語られてきたとする。また有馬は明治末期から山縣の死の前後まで「否定の対象」として語られていた山縣が、大正11年の死から昭和前期にかけて「否定の対象としても忘れ去られ」「軍国主義者」「帝国主義者」「反動」「ファシスト的」「巨魁山縣有朋」など著しくマイナスの評価を与えられ続けたと指摘している。 また巨大な山縣閥を維持したことは「山縣自身の権力欲」にあるとみる向きも多く、鵜崎鷺城の言説以来藤村道生、岡義武らの研究者にも受け継がれている。 近年では別の視点から山縣の実像に迫る分析がジョージ・アキタ(George Akita)、伊藤隆らにより試みられている。伊藤隆は山縣について、下関戦争や三国干渉の苦い経験を経て列強への警戒感をもち続け、欧米人対アジア人の「人種戦争」を憂慮する「日中提携論者」であり、アメリカとも対立すべきでないと説く「外交的にきわめて慎重な姿勢」をとり続けた政治家であり、従来の軍国主義的イメージとは異なる人物だったと評している。伊藤之雄は日露戦争・シベリア出兵・北清事変において山縣が列強の意向を確認する慎重な動きをみせたことと、陸軍全体の統制を重視したことを指摘し、太平洋戦争への道は山縣の理想や精神を忘れた後継の軍人達によって開かれたとしている。 1870年(明治3年)8月28日 - 従五位 1872年(明治5年)12月12日 - 従四位 1873年(明治6年)11月15日 - 正四位 1884年(明治17年)12月27日 - 従三位 1886年(明治19年)10月19日 - 従二位 1895年(明治28年)12月20日 - 正二位 1922年(大正11年)2月1日 - 従一位 1877年(明治10年)11月2日 - 勲一等旭日大綬章 1884年(明治17年)7月7日 - 伯爵 1891年(明治24年)4月8日 - 銀製黄綬褒章 1895年(明治28年)
8月5日 - 旭日桐花大綬章・功二級金鵄勲章・侯爵 11月18日 - 明治二十七八年従軍記章 1898年(明治31年)1月20日 - 元帥 1902年(明治35年)
5月10日 - 明治三十三年従軍記章 1906年(明治39年)4月1日 - 菊花章頸飾・功一級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章 1907年(明治40年)
9月21日 - 公爵 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章(大正) 1916年(大正5年)4月1日 - 金杯一組・大正三四年従軍記章 1917年(大正6年)1月20日 - 御紋付銀杯 1920年(大正9年)9月7日 - 金盃一組 1922年(大正11年)2月3日 - 国葬(葬儀執行:同年2月9日) 1880年(明治13年)6月15日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章グラントフィシエ 1886年(明治19年)12月22日 - 1887年(明治20年)8月25日 - 1889年(明治22年)10月30日 ![]()
ドイツ帝国:赤鷲第一等勲章 1890年(明治23年)11月22日 - 1896年(明治29年)10月28日 - ロシア帝国:神聖アレクサンドル・ネフスキー大綬章 1897年(明治30年)5月7日 - 1899年(明治32年)6月14日 - 1906年(明治39年)4月5日 - 1908年(明治41年)3月12日 - 大韓帝国:金尺大勲章 1916年(大正5年)1月14日 - 1918年(大正7年)7月3日 - 『葉桜日記』児玉少介、1892年11月。 NCID BA31603274。全国書誌番号:41011558。 『わしの山集』山県伊三郎、1894年11月。 NCID BA31911797。全国書誌番号:41002213。 『懐旧記事』秋月新太郎記、丸善、1898年6月。 NCID BA54216696。全国書誌番号:40019026。 『含雪山県公遺稿』魯庵記念財団、1926年6月。 NCID BN04777128。全国書誌番号:43052499 全国書誌番号:54007369。 鶴本丑之介 編『越の山風』東京書房、1939年11月。 NCID BN05519026。全国書誌番号:46053613。 『陸軍省沿革史』松下芳男解説、日本評論社〈明治文化叢書 5〉、1942年12月。 NCID BN08758952。全国書誌番号:46043599 全国書誌番号:60011024。 大山梓 編『山県有朋意見書』原書房〈明治百年史叢書 16〉、1966年11月。 NCID BN02900041。全国書誌番号:66009109。 『山縣公遺稿・こしのやまかぜ』東京大学出版会〈続日本史籍協会叢書〉、1979年8月。 NCID BN06998897。全国書誌番号:80041277。
『山縣公遺稿・こしのやまかぜ』(オンデマンド版)東京大学出版会〈続日本史籍協会叢書〉、2016年3月。ISBN 9784130095389。 NCID BB21453911。全国書誌番号:22798100。 伊藤隆 編『大正初期山県有朋談話筆記・政変思出草』山川出版社〈近代日本史料選書 2〉、1981年1月。 NCID BN01165850。全国書誌番号:81014004。 尚友倶楽部 編『大正初期山県有朋談話筆記 続』芙蓉書房出版〈尚友ブックレット 憲政資料シリーズ 21〉、2011年12月。ISBN 9784829505458。 NCID BB07808391。 高橋是清、山県有朋『経済問題論争』千倉書房、1936年6月。 NCID BN12170353。全国書誌番号:46051324。 小川弘・旗野十一郎 編『策府』山縣有朋・谷干城閲、漆山類治、1884年2月。 NCID BA8634535X。全国書誌番号:40065095。 『近衛兵紀念碑』山縣有朋撰、長三洲書、皓月堂、1884年4月。全国書誌番号:40071221。 山県氏は清和源氏多田氏の流れとされているが明確ではない。家名はその祖が安芸国山県郡今田村に住んだことからとされる。父は蔵元付中間山縣有稔。母は中間・岡治助の娘。姉が2人おり、壽子は勝津兼亮に、雪子は森山久之允に嫁す。家紋は丸に三つ鱗。 昭和63年(1988年)放送の大河ドラマ『武田信玄』では、有朋を信玄の重臣「山県昌景の子孫」と紹介していたが(オープニングの映像)、直接の系譜関係はないのが定説である。 妻に山口県湯玉の庄屋の娘・友子。友子没後、妾だった元日本橋芸妓・吉田貞子 が事実上の夫人としての活動を行うようになったが、入籍や内縁の妻としての公表は行われていない。友子との間に7人の子をもうけたが、次女松子を除いて夭折したため、有朋には跡継ぎがなく、甥で姉壽子の次男・伊三郎を養子として迎える。伊三郎は枢密顧問官・逓信大臣・徳島県知事などを務めた。伊三郎の子・山縣有道は宮中に仕え侍従・式部官を務め、有道の子・山縣有信は栃木県矢板市長を務めた。 また伊三郎は、有朋の次女・松子と船越光之丞の三男有光も養子に迎えた。有光は侍従武官などを務め、山縣家分家として男爵を授爵された。 有光の大叔父、つまり実父光之丞の叔父にあたる隆義は、海軍大将を務めた。隆義の妻キミ子は元首相・加藤友三郎の一人娘で、山縣家は加藤家と親戚関係になる。 内事局長官・(内事局第一局長) - 国家公安委員会委員長・(国家地方警察本部長官) - 国務大臣国家公安委員会委員長・(警察庁長官) 建設院総裁 - 建設大臣 - 国土交通大臣 厚生大臣 - 厚生大臣・労働大臣 - 厚生労働大臣 内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁特別審査局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府特別審査局長) - 法務大臣・(公安調査庁長官) 文部大臣・(文部省社会教育局文化課長) - 文部大臣・(文部省社会教育局著作権課長)- 文部大臣・(文部省文化局長) - 文部大臣・(文化庁長官)- 文部科学大臣・(文化庁長官) 神社本庁総長(宗教法人化) 内事局長官・(内事局第二局長) - 国務大臣法務総裁・(法務庁民事局長) - 国務大臣法務総裁・(法務府民事局長) - 法務大臣・(法務省民事局長) 外務大臣・(入国管理部長) - 外務大臣・(出入国管理庁長官) - 外務大臣・(入国管理庁長官) - 法務大臣・(法務省入国管理局長)- 法務大臣・(出入国在留管理庁長官) 内閣総理大臣・(終戦連絡中央事務局長官) - 内閣総理大臣・(連絡調整中央事務局長官) - 外務大臣・(外務省連絡局長) - 外務大臣・(外務省国際協力局長) 表 話 編 歴 河野敏鎌 西郷従道 谷干城 西郷従道 山縣有朋 土方久元 黒田清隆 榎本武揚 井上馨 岩村通俊 陸奥宗光 河野敏鎌 佐野常民 後藤象二郎 榎本武揚 大隈重信 山田信道 伊東巳代治 金子堅太郎 大石正巳 曾禰荒助 林有造 平田東助 清浦奎吾 松岡康毅 大浦兼武 小松原英太郎 牧野伸顕 仲小路廉 山本達雄 大浦兼武 河野広中 仲小路廉 山本達雄 荒井賢太郎 田健治郎 岡野敬次郎 前田利定 高橋是清 山崎達之輔 内田信也 島田俊雄 石黒忠篤 千石興太郎 表 話 編 歴 山縣有朋 西郷従道 大山巌 大山巌 高島鞆之助 大山巌 高島鞆之助 桂太郎 児玉源太郎 寺内正毅 石本新六 上原勇作 木越安綱 楠瀬幸彦 岡市之助 大島健一 田中義一 山梨半造 田中義一 宇垣一成 白川義則 宇垣一成 南次郎 荒木貞夫 林銑十郎 川島義之 寺内寿一 中村孝太郎 杉山元 板垣征四郎 畑俊六 東條英機 杉山元 阿南惟幾 東久邇宮稔彦王 下村定 カテゴリ 表 話 編 歴 伊藤博文 山縣有朋 黒田清隆 松方正義 井上馨 西郷従道 大山巌 西園寺公望 桂太郎 ※桂太郎の元老としての地位には議論がある。 FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ イスラエル アメリカ 日本 ポーランド CiNii Books CiNii Research ドイッチェ・ビオグラフィー IdRef 山縣有朋 日本の内閣総理大臣 19世紀アジアの統治者 日本の元帥陸軍大将 元老 維新の元勲 日本の枢密院議長 日本の枢密顧問官 貴族院公爵議員 貴族院侯爵議員 大正時代の貴族院議員 明治時代の貴族院議員 在職中に死去した日本の貴族院議員 日本の司法大臣 日本の内務大臣 日本の農商務大臣 日本の陸軍大臣 明治時代の閣僚 日本の参事院関係者 19世紀アジアの軍人 20世紀アジアの軍人 19世紀日本の政治家 20世紀日本の政治家 日本の伯爵 従一位受位者 大勲位菊花章頸飾受章者 大勲位菊花大綬章受章者 勲一等旭日桐花大綬章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 功一級金鵄勲章受章者 功二級金鵄勲章受章者 銀製黄綬褒章受章者 大勲位金尺大綬章受章者 メリット勲章 聖マウリッツィオ・ラザロ勲章受章者 レジオンドヌール勲章グランクロワ受章者 聖マイケル・聖ジョージ勲章 聖アレクサンドル・ネフスキー勲章受章者 白鷲勲章受章者 (ロシア帝国) 小川治兵衛 茶人 日本庭園に関する人物 日本の神 (人物神 松門神社) 東京地学協会の人物 シベリア出兵の人物 日露戦争の人物 日清戦争の人物 西南戦争の人物 戊辰戦争の人物 長州藩奇兵隊の人物 松下村塾の人物 大日本帝国憲法関連の人物 国葬された人物 山口県出身の人物 長門国の人物 山縣公爵家 1838年生 1922年没 出典のページ番号が要望されている記事 外部リンクがリンク切れになっている記事/2021年4月 プロジェクト人物伝項目 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 PLWABN識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 DTBIO識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2025/04/06 13:15更新
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