川上音二郎の情報 (かわかみおとじろう) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]
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阿南健治: 恐れを知らぬ川上音二郎一座 The Fearless Otojiro's Company(2007年) 村松梢風: 『川上音二郎』 上、太平洋出版社、1952年2月。 朝香じゅん: 組替え後、自身最後の新人公演となる『夜明けの序曲』でも主役・川上音二郎を演じる。 鳥海浩輔: 明治東亰恋伽 〜ハヰカラデヱト〜(川上音二郎) 堀内敬子: 2007年度に、第33回菊田一夫演劇賞(『コンフィダント・絆』のルイーズ、『恐れを知らぬ川上音二郎一座』の伊東カメの役の演技に対して)及び、第15回読売演劇大賞優秀女優賞(『コンフィダント・絆』の演技により)を受賞した。 川上貞奴: 1891年(明治24年) 川上音二郎と結婚。 小原雅人: 恐れを知らぬ川上音二郎一座 The Fearless Otojiro's Company(2007年) 鎌苅健太: 英雄のうそ(2014年7月18日 - 21日) - 川上音二郎 役 村松梢風: 『川上音二郎』 下、潮出版社〈潮文庫〉、1985年1月。 村松梢風: 『川上音二郎』 上、潮出版社〈潮文庫〉、1985年1月。 鳥海浩輔: 明治東亰恋伽(川上音二郎) 川上貞奴: 1899年、川上音二郎一座のアメリカ巡演に同行した。一座の巡演に関する報道にはこれまで誤りが多く、現在分かっている限りの真相は、井上理恵著『川上音二郎と貞奴 世界を巡演する』(社会評論社2015)に明らかにされている。 今井朋彦: 恐れを知らぬ川上音二郎一座(2007年11月-12月 シアタークリエ 作・演出:三谷幸喜) - 飯尾床音 役 江見水蔭: しかしそうした中でも、1903年には欧州公演から帰朝した川上音二郎に口説き落とされシェークスピアの『オセロ』を翻案、『正劇 室鷲郎』。 岡本綺堂: 1908年に二代目市川左團次の明治座での「革新興行」で川上音二郎の依頼で「維新前後」を書く。 山田風太郎: 三遊亭円朝、大山巌・捨松、田山花袋、川上音二郎・貞奴、坪内逍遥が登場)は明治15年から17年、『地の果ての獄』(主人公は愛の典獄といわれた有馬四郎助。 小林隆: 恐れを知らぬ川上音二郎一座 The Fearless Otojiro's Company(2007年) 川上貞奴: 1894年、自由民権運動の活動家で書生芝居をしていた川上音二郎と結婚した。 山本嘉一: 満18歳を迎える1895年(明治28年)、川上音二郎率いる新派の「川上音二郎一座」に入団する。 三谷幸喜: 2007年、芸術座の後継劇場となる「シアタークリエ」のこけら落し公演『恐れを知らぬ川上音二郎一座』の作・演出を担当した。 堀内敬子: 恐れを知らぬ川上音二郎一座(販売:東宝ビデオ 2008年) 佐藤アサト: 恐れを知らぬ川上音二郎一座 朝香じゅん: 1982年8月、『夜明けの序曲』 - 津坂幸一郎、新人公演:川上音二郎(本役:松あきら) *新人公演主演 堺雅人: 「恐れを知らぬ川上音二郎一座」(2007年11月 - 12月、シアタークリエ) 鳥海浩輔: めいこい音声劇場 シチュエーションCDシリーズ3 寝かせて欲しいか? 〜川上音二郎編〜 ユースケ・サンタマリア: 年末には新設される劇場シアタークリエでのこけら落とし公演「恐れを知らぬ川上音二郎一座」の座長を務めた。 瀬戸カトリーヌ: 恐れを知らぬ川上音二郎一座(2007年) 三田芳裕: 明治時代には川上貞奴がこの地の芸者置屋「濱田家」の養女となり、後に、俳優川上音二郎の妻となった。なお川上音二郎の生家は福岡出身の芳裕の妻啓子の実家のすぐそばにあり、縁がある。 村松梢風: 『川上音二郎』 下、太平洋出版社、1952年3月。 鳥海浩輔: 明治東亰恋伽 トワヰライト・キス(川上音二郎) |
川上音二郎
川上 音二郎(かわかみ おとじろう)さんの誕生日は1864年2月8日です。
著作、家族などについてまとめました。現在、結婚、母親、事件、家族に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
川上 音二郎(かわかみ おとじろう、文久4年1月1日〈1864年2月8日〉- 1911年〈明治44年〉11月11日)は、筑前黒田藩(福岡藩)出身の「オッペケペー節」で一世を風靡した興行師・芸術家で、新派劇の創始者。川上の始めた書生芝居、壮士芝居はやがて新派となり、旧劇(歌舞伎)をしのぐ人気を博した。「新派劇の父」と称されている。 幼名は川上 音吉(かわかみ おときち)。上方噺家としての名跡は浮世亭 ◯◯(うきよてい まるまる)。号は歎水。 1864年(文久4年)、筑前国博多中対馬小路町、現在の福岡市博多区対馬小路に生まれた。福岡藩主黒田氏の郷士及び豪商・川上専蔵の子。論語や孟子を学び、旧制福岡中学校の前身に進学するが、継母と折り合いが悪く、1878年(明治11年)、家を飛び出し大阪へ密航。見つかるが出奔し東京へ行った。 無銭飲食で追われつつ東京にたどり着き、口入れ屋・「桂庵」の奉公人に転がり込むが長続きせず、吉原遊廓などを転々とする。 1883年頃から、「自由童子」と名乗り、大阪を中心に政府攻撃の演説、新聞発行などの運動を行って度々検挙された。1883年9月13日、内務省より集会条例第6条違反で1年間政治演説を禁止された。1885年に講談師の鑑札を取得。自由民権運動の弾圧が激しさを増した1887年(明治20年)には「改良演劇」と銘打ち、一座を率いて興行を行った。また、落語家の桂文之助(後の二代目曽呂利新左衛門)に入門、浮世亭◯◯(うきよてい まるまる)と名乗った。やがて世情を風刺した『オッペケペー節』(三代目桂藤兵衛作)を寄席で歌い、1889年(明治22年)から1894・95年(明治27・28年)の日清戦争時に最高潮を迎えての大評判となる。 1891年(明治24年)、泉岳寺にある赤穂義士の墓が荒れ果てているのを見て、貧者救済の名目で寄付をした。同寺は「首洗いの井戸」を整備した。 川上一座は書生や壮士ら素人を集めたもので、書生芝居、壮士芝居と呼ばれた。1891年(明治24年)2月、書生芝居を堺市の卯の日座で旗揚げ。同年、東京の中村座で「板垣君遭難実記」などを上演。東京でもオッペケペー節が大流行した。川上は1893年1月1日、鳥越座の初日をまえに突然神戸からフランスへ渡り、2か月ほどの短い間だがパリの演劇事情を視察した。 1894年、郷土の先輩である金子堅太郎の媒酌で、人気芸者の貞奴(本名:小山 貞)と結婚した。伊藤博文が貞奴をひいきにしており、伊藤博文の三羽カラスといわれた金子堅太郎に媒酌の役目が回ってきたとも。 1894年、日清戦争が始まると、いち早く戦争劇「壮絶快絶日清戦争」(9月浅草座で初演)を仕立てた。続いて川上は朝鮮半島に渡って戦地の状況を実見し、それをもとに「川上音二郎戦地見聞日記」を上演。これらの戦争劇は大評判となった。 翌1895年、歌舞伎座の舞台で「威海衛陥落」を上演した。歌舞伎の殿堂に素人あがりの役者が出るのは異例のことであり、劇通の人々を驚かせた(市川團十郎は、川上が歌舞伎座の桧舞台を踏んだことに激怒し、舞台を削り直させたと言われる)。同年末には、泉鏡花の小説を舞台化した「滝の白糸」を浅草座で上演。 1896年(明治29年)7月2日、 東京市神田区に川上座を開場した。この時期の詳細は、海外資料豊富な井上理恵著『川上音二郎と貞奴 明治の演劇はじまる』に詳しい。 1898年(明治31年)3月と8月、第5回総選挙と第6回総選挙に出馬し、ともに落選。資金繰りの為に川上座を手放す(この詳細は不明)。 妻・姪・愛犬とともに、築地からボートに乗り下田市までいく。そこからまた修繕したボートにのり、翌1899年に神戸に到着する。 1899年(明治32年)、渡米して現地で興行を行う。このとき、妻・貞奴が舞台に立つことになった。シカゴやボストン、サンフランシスコなどで甚五郎や道成寺などを披露し、東洋の珍しい演劇として話題を集めた。ニューヨークでは、アルフォンス・ドーデ原作の『サッフォー』を日本版に翻案した芝居も演じた。これは、近くの劇場でイギリスの女優オルガ・ネザソール(Olga Nethersole)が『サッフォー』(en)を演じたところ、猥褻を理由にニューヨーク悪徳弾圧協会やニューヨーク母親クラブなどから非難を受け、逮捕されるという事件が起こったことを受け、この騒ぎを利用して話題を集めるために音二郎が急遽一晩で作り上げたもの(?)。ネザソール版と逆に純愛話に仕立てたところ、ネザソールを弾圧した人々から賞賛を受け、それまで3日かかったのと同じ数のチケットが1日で売れた。貞奴は貴婦人協会に招かれ、女優クラブの名誉会員に選ばれた。第一回海外巡業については、井上理恵著『川上音二郎と貞奴 2 世界を巡演する』(社会評論社2015年)に詳しい。 1900年(明治33年)には、日本通で知られるロンドンのアーサー・ディオシーの歓迎を受け、彼の友人の舞踏家ロイ・フラーや女優サラ・ベルナールに紹介され、フラーの支援を受けて パリ万博で公演し、米国興行に続いて人気を博した。翌年、いったん帰国したあと、再びヨーロッパに渡り、1902年に帰国した。欧米巡業中、1902年(明治35年)11月1日に大日本帝国の俳優として初めて勲章を授与される。フランス大統領エミール・ルーベより官邸のエリゼ宮殿にて、オフシェー・ド・アカデミー三等勲章(現・芸術文化勲章)を授与。オフシェー叙勲、外国人に贈られる最高章を授章した。 1903年、日本で初めてのセリフ劇『オセロ』を日本バージョンで上演する。以後、『ハムレット』『ヴェニスの商人』などを積極的に上演し、歌舞音曲のない演劇を日本に定着させようとした。川上は「新派の祖」ではなく、「日本の近代演劇の祖」という存在になる。(井上著『川上音二郎と貞奴3 ストレートプレイ登場する』(2018年)に詳しい) 1908年(明治41年)興行師として成功し、現在の大阪市中央区北浜四丁目に洋風の劇場・帝国座を開場する。同時に帝国女優養成所を創設。また、1910年(明治43年)には博多区千代に洋風劇場の「博多座」(初代)を建設している(詳細不明)。 1911年(明治44年)、急性腹膜炎により11月4日から昏睡状態となり、11月11日に貞奴の願いにより運ばれた帝国座の舞台上で死去。享年48。「汽車が眺められるところに」という音二郎の遺言により、当時博多駅が近くにあった承天寺に葬られる。 著作中村藤吉 編「当世新版オツペケペー」『三遊れん新作落ばなし』三友書房、1891年7月、7-10頁。 NCID BA74503544。全国書誌番号:41013339。 『新作オッペケペーぶし』片田長治郎、1891年8月。 NCID BB20232495。 『新歌オッペケペイぶし』 第2号、澤久治郎、1891年8月。 NCID BB2023251X。 『俳優泣せ松操藤の仇浪』岡安平九郎、1891年12月。全国書誌番号:41004250。 『オッペケペーぶし』山崎暁三郎、1892年2月。全国書誌番号:20000067。 『薔薇の花 自由艶舌』山田都一郎速記、駸々堂〈講談速記 第4集〉、1893年11月。全国書誌番号:41013353。 『自由の妹と背』丸山平次郎速記、駸々堂、1894年8月。全国書誌番号:41013350。 『自伝音二郎・貞奴』三一書房、1984年11月。 NCID BN04802666。全国書誌番号:85021016。 家族子供は男の子が一人あるというが、川上の子かどうかは定かではない。姪のツルを子供のようにかわいがった。アメリカ興行にも連れていったが、金銭困窮から現地の日本人に養女に出す。青木鶴子と改名し、女優になり、早川雪洲と結婚した。 2024/05/22 18:11更新
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