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早川雪洲の情報 (はやかわせっしゅう)
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【6月29日】今日誕生日の芸能人・有名人

早川雪洲の情報(はやかわせっしゅう) 俳優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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早川 雪洲さんについて調べます

■名前・氏名
早川 雪洲
(読み:はやかわ せっしゅう)
■職業
俳優
■早川雪洲の誕生日・生年月日
1889年6月10日
丑年(うし年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
千葉出身

早川雪洲と同じ1889年生まれの有名人・芸能人

早川雪洲と同じ6月10日生まれの有名人・芸能人

早川雪洲と同じ出身地千葉県生まれの有名人・芸能人


早川雪洲と関係のある人

古川緑波: の映画化)における「良心的な日本軍人」役のスクリーン・テストで最終候補に上がるが、結局その役は、早川雪洲が演じることとなった。


ヘンリー小谷: ここには青木鶴子、トーマス・栗原、早川雪洲もいた。


古川ロッパ: の映画化)における「良心的な日本軍人」役のスクリーン・テストで最終候補に上がるが、結局その役は、早川雪洲が演じることとなった。


田中路子: アジアの嵐 Tempête sur l'Asie (1938) Rio Films(仏)制作 早川雪洲と共演


マコ岩松: 早川雪洲以来、長年にわたってハリウッドで活躍を続けて成功した日本人(日系人)俳優として知られていたが、当時のアメリカ人がイメージする中国人・日本人の役が多かった。


上田吉二郎: 1934年(昭和9年)、京都・太秦発声映画で早川雪洲主演の『荒木又右衛門 天下の伊賀越』に出演。


寄山弘: 独学で演技を学び、1933年から1936年まで早川雪洲劇団に参加。


ロバート=スタック: 早川雪洲、山口淑子が共演した日本が舞台の『東京暗黒街・竹の家』では、大々的に行われた日本ロケにも参加している。


大島渚: 1990年代には早川雪洲とルドルフ・ヴァレンティノの関係を題材にした『ハリウッド・ゼン』の製作に着手。


田中路子: 女優として、また恋多き女性として、早川雪洲やカール・ツックマイヤー、リヒャルト・タウバー等、多くの演劇人らと交際を続ける中、ドイツ人のシャンソン歌手で俳優・演出家ヴィクター・デ・コーヴァ(ドイツ語版)と運命的な出逢いを遂げ、1939年(1941年とも)にマインル2世と離婚、同年にマインル2世を仲人に迎えデ・コーヴァと再婚する。


アーネスト=フェノロサ: その後、広重についての本を本名で出版したほか、不幸な結末を迎える日本女性を主人公としたロマンス小説"The Breath of the Gods"(フランス人の恋人のために自殺する日本女性の話)、"The Dragon Painter"(夫の出世のために犠牲となる日本女性の話)を出版し早川雪洲や青木鶴子主演で映画化もされた。


牧嗣人: 、監督ジャン・ドラノア、1942年、フランス - Maki名義、(早川雪洲が演じる)"Ying Tchaï"の秘書役


ジェラール=フィリップ: 京マチ子、田中絹代、三益愛子、山田五十鈴、池部良、木下惠介監督、早川雪洲ら日本映画界のスターたちも歓迎会に出席し、そのときのフィリップの印象について、高峰秀子は雑誌『映画の友』1954年1月号の記事で『逢へば逢ふ程、自然だし、見れば見る程、優雅だし、話せば話す程、そのデリカシイにはただただ感心するばかり、(中略)言ふなれば、「気に入っちゃった」である。


デビッド=リーン: 戦前からチャップリンと並んで国際的に有名だった日本人俳優早川雪洲や、イギリスを代表する俳優アレック・ギネス、ハリウッドでも指折りのスター俳優ウィリアム・ホールデンなど、世界各国から豪華キャストが集結した本作は、ビルマの奥地であるジャングルでの撮影など過酷を極めたものだったが、公開されると大ヒットし、その年の全世界年間興行成績で1位を記録する。


田中路子: ヨシワラ Yoshiwara (1937) Les Films Excelsio(仏)制作 早川雪洲と共演


クローデット=コルベール: 1950年の戦争映画『三人の帰宅(英語版)』では日本人俳優早川雪洲とも共演し商業的にヒット、彼女の晩年の代表作の一つとなった。


阿部豊: 友人に誘われ演劇学校に通い始め、そこで撮影所が日本人エキストラを募集していることを知り応募、早川雪洲と青木鶴子主演の『神の怒り』に端役で出演する。


石波義人: スイスファミリーロビンソン(海賊クアラ〈早川雪洲〉)※ソフト版


ナンシー梅木: なお、この年の助演男優賞にはやはり日本人の早川雪洲(『戦場にかける橋』)がノミネートされていたが受賞者は『サヨナラ』でミヨシの相手役であったレッド・バトンズであった。


川上音二郎: 青木鶴子と改名し、女優になり、早川雪洲と結婚した。


トーマス栗原: 1912年(明治45年)、27歳のときに映画俳優養成所に入り、エキストラとして映画出演後、トーマス・H・インスと契約を結び、早川雪洲、青木鶴子、木野五郎らと日本を題材とした映画に出演した。


嵐寛寿郎: この役は当初早川雪洲が演じる予定であったが、諸事情により早川が降板。


阿部豊: 終戦時の宮城事件を描いた1954年(昭和29年)の『日本敗れず』では、自らプロデューサーもこなし、早川雪洲に阿南惟幾陸相役(映画での役名は川浪陸相)をオファーした意欲作だったが、興行的には振るわなかった。


ウィリアム=ホールデン: 『トコリの橋』では淡路恵子、『戦場にかける橋』では早川雪洲、『第七の暁』では丹波哲郎と競演をしている。


高岡智照: アメリカに渡り、ロンドンへ行くが、知人であった早川雪洲のアドバイスでパリに移る。


マコ・イワマツ: 早川雪洲以来、長年にわたってハリウッドで活躍を続けて成功した日本人(日系人)俳優として知られていたが、当時のアメリカ人がイメージする中国人・日本人の役が多かった。


田中路子: 1950年には、早川雪洲に対し、1937年の在仏時に渡した毛皮や宝石の代金4万ドルの返還を求めて裁判を起こした。


ヘンリー大川: 1957年頃に芸名をヘンリー大川とし、同年デヴィッド・リーン監督の『戦場にかける橋』で助監督を務めながら、早川雪洲、勝本圭一郎と共に軍人役で出演する。


名寄岩静男: 涙の敢闘賞の受賞を確定した時、日本人ハリウッドスター早川雪洲が花道を引き上げる名寄岩へゆで卵を20個手渡したという。


メイ牛山: 夫の牛山清人(別名・ハリー牛山)は1899年(明治32年)長野県諏訪市豊田小川に生まれ、1917年(大正6年)に父をたよって単身渡米、ハリウッドで早川雪洲の弟子として働くも俳優としては芽が出ず、メイキャップ担当に転身。


早川雪洲の情報まとめ

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早川 雪洲(はやかわ せっしゅう)さんの誕生日は1889年6月10日です。千葉出身の俳優のようです。

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キャリア、私生活などについてまとめました。映画、テレビ、現在、卒業、父親、事件、家族、結婚、趣味、母親、事故、解散、ドラマ、引退、離婚、再婚、子役に関する情報もありますね。

早川雪洲のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

早川 雪洲(はやかわ せっしゅう、英: Sessue Hayakawa、1886年6月10日 - 1973年11月23日)は、日本の俳優、映画監督、映画プロデューサー、脚本家。本名は早川 金太郎(はやかわ きんたろう)。アメリカ合衆国を中心に日本、フランス、イギリスなどで活躍した国際俳優で、アメリカとヨーロッパで主演男優としてスターダムにのし上がった最初のアジア系俳優だった。サイレント映画時代の1910年代から1920年代初頭にかけて、ハリウッドで最も人気のあったスターのひとりであり、エキゾチックな美貌と性的に魅力的な悪役というタイプキャスティング(英語版)で、公然と人種差別が行われていた時代にアメリカ白人女性の心を掴み、ハリウッドで最初の男性セックスシンボルのひとりとなった。恋人や悪役の主演を始め、出演する映画は120本以上に及んだ。

千葉県で生まれ育ち、1907年に21歳で単身渡米し、ロサンゼルスの日本人劇団で活動したあと、1913年にハリウッドで映画デビューした。1915年に『チート』でトップスターの地位を確立し、白人女性を誘惑する悪役の日本人役でマチネー・アイドル(英語版)として人気を獲得した。その一方で、アメリカで排日運動が高まっていた背景もあり、日本人社会からは雪洲の役柄が反日感情を助長するとして強く非難された。1918年からは自身の映画会社ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション(英語版)でプロデューサー兼主演俳優として活動したが、1922年に反日感情の高まりのためハリウッドを離れた。その後は私生活での女性問題や第二次世界大戦など波乱な人生を送りながら、1960年代までの半世紀にわたり欧米や日本で映画、舞台、テレビに出演した。キャリア後期の代表作『戦場にかける橋』(1957年)の捕虜収容所所長役は、雪洲の最も有名で高く評価された演技となり、第30回アカデミー賞では助演男優賞にノミネートされた。妻の青木鶴子もまたハリウッド草創期に活躍した映画女優である。

1886年6月10日、早川金太郎は千葉県朝夷郡千田村(1889年に七浦村に合併、現在の南房総市千倉町千田)611番地に、父・與一郎(よいちろう)と母・か祢(かね)の6人兄姉の三男として生まれた。兄姉は上から順に、長兄の音治郎、長女のトキ、次女のいろは、次男の寅松、三女のとくはである。早川家は江戸時代に庄屋を務めた裕福な家で、明治時代にはテングサなどの海藻を扱う海産物商、鮮魚出荷や回漕業、雑貨や酒の小売商などを営む網元となり、地元では「千田の与一」と呼ばれた。與一郎は地域の顔のような人物であり、七浦村の初代村長も務めた。早川家は千田村から4里ほど離れた和田村(現在の南房総市和田町和田)に住む「和田の鉄砲」と呼ばれた網元の根本家と、漁場をめぐる争いを長い間続けていて、根本家からの襲撃に備えて、宿子と呼ばれる若い漁師を20人以上も寝泊まりさせ、家の周りには高さ約4.5メートルもの石塀を張りめぐらしていた。

厳格な人物だった與一郎は、槍の名手で武道を好んだことから、宿子や子供たちに剣道を奨励した一方で、自宅に私塾を設けて宿子たちに勉強をさせた。金太郎も父の命で剣道を習い、宿子たちと修身や四書五経などを学んだ。1892年に金太郎は七浦小学校尋常科に入学したが、当時は宿子たちから「ぼんぼん」などと甘やかされており、その姿を見た與一郎は息子を甘やかしてはならぬと考え、金太郎を厳しくしつけた。父のしつけの中で金太郎を最も悩ませたのは、毎朝20個ものランプの掃除をひとりでさせられたことである。金太郎はこの苦役をなるべく避けるため、毎日のように仲間たちと遊んでいた戦争ごっこで負けた組の子たちに、罰としてランプ掃除をさせ、その報酬として黒砂糖を一匙ずつ与えた。金太郎はその土地の子供たちの餓鬼大将となり、両親からも「喧嘩には負けるな」と言われ続けていたが、小学校1年生ぐらいの時には、朱鞘の刀を抜いて父に凄んでいた不審な男を追い払ったことがあり、これには與一郎も度肝を抜かれたという。

金太郎は七浦高等小学校に進学したが、父の命で海軍大将になるのを将来の目標に定め、小学校卒業後の1901年、当時海軍軍人を目指す少年たちが集まっていた東京の海城学校(現在の海城中学校・高等学校、金太郎の編入の前年に海軍予備校から改称していた)に編入した。金太郎は東京市神田区東龍閑町に下宿し、そこから海城学校に通い、放課後には剣道を習った。夜は正則英語学校(現在の正則学園高等学校)に通い、英語は当時最も成績のよい教科となった。他校の生徒とは殴り合いの喧嘩を頻繁に行い、それを見かねた叔父に「殺伐な男になっちゃいかん」と言われ、いとこと一緒に華道と茶道を渋々習わされたこともあった。この頃、金太郎は徳冨蘆花の小説『不如帰』を読んで感涙し、これが舞台化されると学校をさぼって観に行った。

1904年、海城学校を卒業した金太郎は江田島の海軍兵学校を受験し、1次試験の学科試験は合格した。しかし、2次試験の体力テストを控えた夏の帰省中、海で素潜りをした時に鼓膜が破れ、化膿して顔の半分が腫れ上がった。耳の炎症はなかなか治らず、頭半分を包帯でぐるぐる巻きにした状態で体力テストの会場に行き、「耳に疾患があるのに軍人が務まるわけがない」として不合格となった。海軍大将の夢を完全に閉ざされ、父親を失望させてしまったと感じた金太郎は、ある夜、実家の蔵の2階に閉じこもり、東郷平八郎の肖像の前で短刀で腹を切った。野上英之によると、金太郎の切腹未遂は、今日考えると子供っぽい直截的な行為と発想だが、幼い頃から喧嘩に負けると父に「腹切って死んでしまえ」などと怒鳴られていた背景があったため、この成り行きは十分理解できるものであるという。切腹行為は吠えだした飼い犬に気付いた家人に発見され、金太郎は一命をとりとめたが、傷が回復するまでに5週間もかかった。困り果てた與一郎は、金太郎を高塚山の禅寺にしばらく預けた。

1907年3月3日、房総半島の白浜村(現在の南房総市白浜町)の沖合で、横浜港に向かっていたアメリカの大型汽船ダコタ号(英語版)が座礁する事件が起きた。金太郎の住む七浦村の村人たちも総出で救助をしたが、英語を学んでいた金太郎も通訳のようなことをして手伝い、外国人の乗船者たちが収容されている寺や学校を自転車で駆けまわって、彼らの苦情や注文に対応した。自伝によると、外国人がチキンを食べたいと注文してきたため、村人に「鶏を煮て出せ」と指図して食べさせ、おかげで村中の鶏がいなくなってしまったという。300人以上の乗客や乗組員は全員救助され、病院船の博愛丸で横浜へ送られたが、金太郎も通訳としてこれに同行した。

この出来事は、海軍入りの夢が破れて悲観していた金太郎に刺激を与え、アメリカへ渡るという新たな目標を与えるきっかけとなった。渡米を決めた理由について、自伝では「遊学」のためと述べているが、複数の史料では「ダコタ号の船長から、アメリカ行きを勧められたため」と記されており、地元では「ダコタ号の乗客だった若いブロンドの女性を追っかけようとしたため」という言い伝えもある。また、アワビ漁業に従事するためカリフォルニア州へ出稼ぎの経験がある長兄の音治郎が、あまりにも無軌道な金太郎をもてあまし、その将来を案じて、アメリカ帰りの地元の名士の小谷仲治郎に相談を持ちかけ、その勧告と世話でアメリカ行きが決まったという証言もある。

與一郎は金太郎の渡米計画に強く反対し、ふてくされた金太郎は毎晩酒を飲んで暴れた。か祢はそんな金太郎を見かねて、2、3週間(2、3日という説もある)かけて父を説き伏せた。ようやく納得した與一郎は、金太郎にアメリカへ行くなら「法制経済をやれ、そして政治家になれ」と命じた。別れが近づいた日、金太郎は與一郎に「一寸悪いことをされたら一尺にして返し、反対に一寸良いことをしてもらったら、一丈にして返せ」「とにかく10年間辛棒せい。10年間がんばっても成功しなかったら、再び日本の土を踏むな」と忠告された。そして與一郎から「男の魂と思って持っていけ」と、昔に與一郎に凄んだ男を追い払った時に使った大小の朱鞘の刀を授けられた。ダコタ号座礁からわずか4か月後の7月10日、金太郎は日本郵船の安芸丸に乗り、横浜港からアメリカへ向けて出航した。宿子たちは高塚山に登って狼煙をあげ、家族は海岸で木を燃やして、金太郎の船出を励ました。

1907年7月25日、金太郎はワシントン州シアトルに到着し、アメリカへの第一歩を踏み出した。金太郎はアメリカにいる知人を頼ろうと思い、シアトルから連絡船に乗ってサンフランシスコへ向かった。自伝によると、サンフランシスコに到着したのは夜12時半で、船長に波止場は危険だから一夜を明かしてから下船するようにと言われたが、金太郎はそれを無視し、船内で意気投合した自称柔道4段の日本人と勝手に下船したところ、すぐにピストル強盗に出くわし、自称柔道4段が警官を呼びに行っている間に、金太郎がひとりで2人の強盗を投げ飛ばしたという。サンフランシスコに到着した金太郎は、他の日本人と同じように皿洗いや農場の作男などといった下働きの仕事に就いた。

1908年11月9日、金太郎は與一郎との約束にしたがって勉強をするため、シカゴ大学の家庭勉学学部(ホーム・スタディ・デパートメント)に入学した。與一郎は入学の8日前に71歳で亡くなったが、金太郎が日本からの便りでそれを知ったのは翌1909年夏のことだった。金太郎が入学した家庭勉学学部は、在学で働くことを許可され、大学構内に来られない学生が、大学から渡される教材を用いて自宅で勉学する学部であり、現代の通信教育にあたる。入学当時の金太郎は、サザン・パシフィック鉄道の停車場構内にあるレストランで給仕として働いており、後に雪洲の弟子となる青山雪雄はその姿を見かけたという。

金太郎は入学当日から政治経済学原論第一専攻科目と、政治経済学原論第二専攻科目を受講し、1909年12月23日に履修を終えた。金太郎の学籍記録には、政治経済学原論以外の科目を履修した記録が全くなく、また学士号や博士号を取得したという記録もなかったことから、金太郎がシカゴ大学に在籍したのがわずか1年1か月余りに過ぎず、卒業はしていないと考えられている。しかし、後年に雪洲は「シカゴ大学を卒業した」と言い続けている。また、自伝では、大学在籍中にアメリカンフットボールのチームに所属していたと主張しているが、大学側にそのような記録は残っていない。その後、金太郎はアイスクリーム製造業に手を付けたり、メキシコの物件を扱う不動産会社に就職したりするも満足はせず、3、4年間も先の見えない苦しい生活を送り、兄宛ての手紙には「口には出せないほどの辛酸をなめた」と述べている。

キャリア

アメリカ時代:1911年 - 1922年

自伝によると、金太郎が俳優になったのは、ロサンゼルスの日本人街リトル・トーキョーにある日本劇場で芝居を見たのがきっかけだという。その芝居は藤田東洋が座長の日本人劇団の公演だったが、金太郎は内容があまりにも古臭いと感じたため、藤田に会って文句をつけ、もっと新しい芝居を自分にやらせてほしいと申し込んだ。そこで金太郎が提案したのは、台詞を暗誦できるほど愛読した『不如帰』の舞台化であり、それまで芝居の経験がないにもかかわらず、自身が主人公の川島武男を演じると意気込んだ。金太郎がその場で台詞を暗誦してみせると、藤田は感心して話に乗り、金太郎がロサンゼルスで手に入れた原作を脚色し、自身の主演で上演することになった。この公演は評判を呼び、自信をつけた金太郎は俳優になる決心がついた。

その後、金太郎は藤田の素人劇団の一員となり、日本で見た芝居を思い出しながら脚本を書いては主役を演じ、ロサンゼルスやサンフランシスコ、シアトルなどのアメリカ西海岸の都市にある日本人街を公演して回った。1911年には羅府文芸協会の設立者に名を連ね、文芸劇のためにイプセンやシェイクスピア、トルストイの作品を日本語に翻訳した。しかし、芝居だけで十分に生活することはできず、氷運びなどの仕事をして生活費を稼ぎ、寝る間を惜しんで芝居の稽古や脚本の勉強をした。自伝で「この時は舞台にたっても早川という名前ではなくて、ほかの名前を使ってやっていた」と述べているが、中川織江によると、金太郎は素人劇団で在原狂夫(ありはらたけお)という芸名を名乗っていたという。この芸名は在原業平から「在原」をとり、『不如帰』の主人公の武男に音をそろえて「狂夫」にしたと考えられている。

やがて金太郎は日系人向けに芝居を打っているだけでは飽き足らず、アメリカ人相手に芝居をやろうと考え、メルヒオール・レンジェルの戯曲『タイフーン』の上演を企画した。この作品はパリで暗躍する日本人スパイのニトベ・トコラモが良心の呵責で破滅するまでを描く悲劇で、ヨーロッパやアメリカで上演されて高い成功を収めていたが、それらの舞台では白人が日本人を演じていたため、金太郎は本物の日本人が演じることで他との差別化を図ろうとした。金太郎は自らプロデューサーとなり、資金集めやキャスティングも自分で行い、1913年に開幕すると大きな成功を収めた。中川によると、金太郎が早川雪洲という芸名を名乗るようになったのは、『タイフーン』の公演からだったという。自伝によると、金太郎は西郷南洲を尊敬していたことから、はじめはそれに因んで「北洲」という芸名を名乗っていたが、そのうち同名の人物がほかにいることが分かったため、北には雪が積もっていることから「雪洲」を名乗ったといい、室町時代の禅僧雪舟のことは知らず、関係はないとしている。

雪洲が舞台で活動していた頃、アメリカ映画はロサンゼルスのハリウッドが新しい映画製作地となり、多くの映画関係者がそれまでの映画産業の中心地だったニューヨークからハリウッドへ移ってきた。そんなハリウッド草創期に活躍したニューヨーク・モーション・ピクチャー・カンパニー(英語版)(NYMPC)の映画製作者のトーマス・H・インスは、雪洲を映画界にスカウトした人物とされている。自伝によると、『タイフーン』の公演3日目にインスが観客として見に来ていて、芝居が終わったあとに楽屋を訪ね、「『タイフーン』を映画化しないか」と誘ってきて、映画出演の契約を結んだという。しかし、1914年に雪洲が兄に宛てた手紙によると、1913年10月にNYMPCの社長に認められて、俳優としてではなく、脚本家として月給300ドルで雇われたという。その後、雪洲は俳優としてインスと契約を結んだと考えられている。

サンタモニカ近くにインスヴィルと呼ばれる広大な撮影所を構えていたインスは、当時のアメリカ白人社会で日本や日本人が神秘的でエキゾチックな対象として関心を持たれていたことに注目し、日本を題材とした映画を作るため、インスヴィルの敷地内に日本人村のオープンセットを作り、日本人の俳優を集めていた。インスのもとに集まった日本人俳優には青木鶴子、トーマス・栗原、ヘンリー・小谷、木野五郎などがおり、雪洲もこの中に加わった。雪洲はインスの日本物映画の1本目で、鶴子主演の短編映画『おミミさん(英語版)』(1914年)の相手役で映画デビューした。それからもエキゾチックな日本文化を見せることに主眼が置かれたインスの日本物映画に欠かせない人材として、10本以上の短編映画に出演した。これらの映画で共演が続いた鶴子とは、1914年5月に結婚した。

雪洲の最初の長編映画出演作は、桜島の大正大噴火を題材にした『火の海』(1914年)である。この作品では鶴子演じるヒロインの父親を演じ、当時のアジア人俳優の中で最も高額の週500ドルのギャラが支払われた。インスが映画化を提案した『タイフーン(英語版)』(別表記『颱風』〈タイフーン〉)(1914年)は、雪洲の2本目の長編映画として作られ、かつ雪洲の映画初主演作となった。中川によると、製作順では『セレクト・シン』(1914年)が実質的な雪洲の主演第1作であるが、興行的に成功するかどうか不安だったため、『タイフーン』のあとに公開されたという。『タイフーン』は興行的成功を収め、トコラモを演じた雪洲も観客の間で大評判となり、『ミルウォーキー・ニューズ』の記事では初めて「スター」と呼ばれた。インスも高まる雪洲の人気に注目し、彼を売り出そうと主演作品を立て続けに公開した。当時の雪洲は日本人だけを演じたわけではなく、『ラスト・オブ・ザ・ライン(英語版)』(1914年)でスー族の酋長の息子を演じるなど、何本かの作品でインディアン役で出演している。

1915年3月、雪洲はインスとの契約が切れるとともに彼のもとを去り、配給会社のパラマウントと提携して長編映画を製作していたジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー(以下、ラスキー社と表記)と4年の専属契約を結んだ。週給は1000ドルで、半年ごとに500ドルがプラスされたが、これはエッサネイ社と契約したチャールズ・チャップリンの週給1250ドルや、フェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニーと契約したメアリー・ピックフォードの週給1000ドルとほぼ同額であり、当時の名前で観客を呼べる映画俳優の週給が200ドルから300ドルだったことを考えると破格なものだった。

同社で4本目の出演作となるセシル・B・デミル監督の『チート』(1915年)で、雪洲は国際的なトップランクのスターとなった。雪洲が演じたのは、プレイボーイでお金持ちの日本人美術商のヒシュル・トリで、有閑夫人を借金のカタにとり、自分の所有物である証として彼女の肌に焼きごてを押し付け、最後には白人の制裁を受けるという非道な悪役だった。雪洲は有閑夫人を演じたスターのファニー・ウォード(英語版)の相手役であり、助演としての出演ではあったものの、作品はラスキー社史上最高の12万ドルの興行収入を稼ぐ大ヒットとなり、雪洲の人気は一気に高まった。とくにアメリカの白人の女性観客には、雪洲のエキゾチックな容貌や色気、残忍なキャラクターが、それまでに味わったことのない魅力となり、雪洲はたちまち女性観客から熱狂的に支持されるマチネー・アイドル(英語版)となった。雪洲の演技力も高く評価され、『ニューヨーク・タイムズ』は「ウォードは偉大な女優となるためには、悪役を演じた日本人男優(雪洲)をよく観察すべきだ」と述べた。

しかし、『チート』は日系アメリカ人社会で大きな物議を醸し、残忍な日本人として描かれる雪洲の役柄が不正確であると非難された。当時のアメリカでは黄禍論が浸透し、アメリカ人にとって日本は曖昧な不安や脅威の対象と思われていた。とくに西海岸では排日運動が高まりつつあり、1913年にはカリフォルニア州で日本人の土地所有を禁じる外国人土地法が制定された。そんな背景があり、排日ムードにさらされている日系人は、『チート』を白人たちの反日感情を助長する「排日映画」と見なし、以前よりも差別排斥が酷くなることを懸念した。『羅府新報』は12月24日付けの記事で、雪洲を「排日俳優」「売国奴」と呼び、26日付けの記事では「在米同胞が常に米国社会に親和しようと努力しているのに、早川は臆面もなくこれを破壊した」と批判した。雪洲は27日にロサンゼルスの日本人会に出頭して聴取を受け、29日付けの『羅府新報』に次のような謝罪広告を発表した。

それでも波紋は収まらず、白人不良青年団や悪童による日本人迫害や、白人雇い主による日本人の解雇などが続き、アメリカ各地では日本人会を中心とする上映中止運動が広がった。ハリウッドで活躍した俳優の関操によると、当時の全米では約30団体もの「雪洲撲殺団」が作られたという。雪洲は覚悟を決めて遺書をしたため、ロサンゼルスの自宅から撮影所までの道を、標的にならないように自動車ではなく歩いて通った。日本本国でも政府が在米日本大使館を通じてデミルに正式に抗議し、右翼団体が雪洲を「日本人の残忍さを誇張して世界に恥をさらした売国奴」と呼ぶなどの騒ぎとなり、『チート』は国辱映画とされて国内で上映禁止となった。それ以後、雪洲は「国賊」というレッテルを貼られ続けることになり、日本からは毎日、罵倒する内容の手紙が大量に届いたが、それらは鶴子が処分していた。

雪洲はラスキー社(フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー(英語版))との契約のもとで、1916年に4本、 1917年に7本、1918年に5本の映画に主演し、そのうち数本で鶴子と共演した。どの作品も興行成績が良く、雪洲はダグラス・フェアバンクス、ジョン・バリモア、ロスコー・アーバックルなどと並ぶ同社のドル箱スターとなり、1917年には週給が7500ドルになった。雪洲は『チート』で築かれたイメージ、すなわち表向きには魅力的であるが、裏では白人女性を誘惑して脅威を与える悪役の日本人という役柄を、『クラさんの心(英語版)』(1916年)や『極東の招き(英語版)』(1917年)などの作品で演じ続けた。

その一方で、『黒人の意気(英語版)』(1916年)のインドの王子、『ジャガーの爪(英語版)』(1917年)のメキシコの山賊など、日本人以外のさまざまな非白人も演じた。

しかし、雪洲を含むハリウッドの日本人俳優は、しばしば排日映画と見なされる作品に出演して日系人の非難の的となった。1917年9月18日には「白人俳優に伍して劣らざる地位を保ち、排日映画を防止する事」という趣旨のもとで「日本人活動写真俳優組合」を設立し、雪洲が理事長に就任した。この団体は、1914年12月に雪洲が声をかけて結成した「日本人活動俳優倶楽部」を改組したもので、50人以上の組合員が在籍する有力団体となった。理事長の雪洲は、日本人俳優の生活の安定を支えるために惜しみなく支援した。当時のエキストラの日当は平均2、3ドルで、アメリカ人のエキストラでさえもそれで満足していたが、雪洲は「日本人エキストラは全員日給を5ドルにせよ」と賃上げ運動を呼びかけ、交渉を成立させたこともあった。

1917年、アメリカは第一次世界大戦に参戦し、政府は増大する軍事費を賄うために戦時公債の自由公債(英語版)を発行した。雪洲はアメリカ戦時公債発売委員に推薦され、日本人最高記録となる6万ドルもの公債を購入し、さらに友人知人にも盛んに公債の購入を勧めた。雪洲はフェアバンクスやチャップリンなどのハリウッドのスターと同じように公債購入キャンペーンに熱を入れたが、スターたちの公債売上高が公表されたこともあり、雪洲たちは競うようにして公債を売り、ハリウッドの中で2番目の売上げを記録した時があったという。1918年には公債の購入を促進するプロパガンダ映画『バンザイ(英語版)』(1918年)を製作した。

1917年の冬頃、雪洲はシカゴ大学時代からの友人のキャナリーに誘われて、彼の父親や実業家のドーバンたちとディナーを共にし、その翌日にキャナリーから「父が100万ドルを出すから、自分の映画会社を立ち上げてみないか」と提案された。キャナリーの父親は石炭鉱山を経営する富豪で、スターとして活躍していた雪洲に目を付けていた。ディナーはキャナリーたちが雪洲の人間性を確かめるために設けたものであり、人を見る目がよいドーバンが「雪洲は人をごまかすようなこともないし、大丈夫、仕事を忠実にやるだろう」と太鼓判を押したという。雪洲は友人から意見を聞いたり、採算や将来性などの点で調査をしてみたりしたが、ちょうどその頃に新しくできた映画配給会社ロバートソン・コール社(英語版)が作品配給の全面協力を申し出てくれたこともあり、自身の映画会社設立への決意を固めた。

1918年4月に雪洲とフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーの契約が切れ、4月中旬に自身の映画会社「ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション(英語版)」を設立した。これはマイノリティの役者が制作会社を経営する初めてのケースとなった。スタジオは旧トライアングル社のD・W・グリフィスの撮影所を買い取って改築し、300人以上の従業員を抱えた。雪洲は主演とプロデューサーを務め、場合によっては脚本や編集も兼ね、睡眠時間を削ってまで死に物狂いで働いた。ハワース・ピクチャーズで製作兼主演した作品は計22本で、1本あたりの予算は15万ドルだった。雪洲が稼ぐギャラは週給1万ドル以上に達した。作品の半数以上はウィリアム・ワーシントンやコリン・キャンベルが監督したが、雪洲は彼らに注文を付けたりして監督業にまで関与した。

映画研究者の宮尾大輔(英語版)によると、雪洲が自身の映画会社を設立した本質的な理由は、それまで映画スターの地位を保つためとはいえ誤った日本人のイメージを与えられ続け、日本人から非難を受けることに不満があったからだったという。実際に雪洲は、1916年に『フォトプレイ(英語版)』誌のインタビューで、「(『タイフーン』や『チート』での役柄は)我々日本人の性格に忠実ではない。それらは人々に日本人について誤ったイメージを与えている。私は本当の我々を明らかにする映画をつくりたい」と発言している。宮尾は、「スターの地位を維持することと愛国的感情との間で苦悩した早川は、自社を設立することでその解決を図る第一歩を踏み出した」と述べている。

1919年の『恩に感じて(英語版)』(別名『彼の負債』)では、負傷した自分を介抱した白人女性(ジェーン・ノヴァク(英語版))に好意と恩誼を抱き、危害を与えたその婚約相手である男性を赦す決断と、超え難い人種の壁が描かれた。

雪洲がハワース・ピクチャーズ時代の作品で演じた役柄は、ラスキー社時代のような魅力的な悪役ではなく、良心的で人情のある献身的な善人というものであり、最初の数本ではすべて日本人役しか演じず、役名も従来の「トコラモ」「ヒシュル・トリ」などの不自然な名前ではなく、「アキラ」「ユキオ」などの正確な名前にした。宮尾によると、これらは雪洲がスターの地位を作り上げるために与えられてきた従来のイメージを捨て、正確な日本人の性格を表現しようと努めたことを示しているという。同社での代表作『蛟龍を描く人(英語版)』(1919年)は、鳥海美朗曰く「本当の日本をアメリカに示したい」という雪洲の意気込みが凝縮された作品である。この作品はアーネスト・フェノロサ夫人のメアリー・M・フェノロサ(英語版)の長編小説が原作で、雪洲は狩野派絵師の後を継ぐ天才画家を演じた。映画史研究者の板倉史明は、雪洲がこの作品で「日本や日本文化に対する奇想天外な誤解や偏見を軽減できると期待した」と考え、「自己犠牲的な行為」や「儒教的な人物造形」で日系人観客を満足させつつ、「アメリカ人観客の異国趣味を満足させる」ような商品価値を兼ね備えていたと分析している。

こうした雪洲の試みは実を結び、献身的な日本人を演じてジェーン・ノヴァクと共演した『薄暗の寺(英語版)』(別名『黄昏の寺院』)(1918年)は、『キネマ旬報』で「我々同胞から失はれた雪洲氏の名誉と信用を挽回する為には絶好な映画」と評されるなど、日本本国や日系人社会から好意的な反応を受けた。しかし、アメリカ人には受け入れられず、『ムービング・ピクチャー・ワールド(英語版)』誌の『薄暗の寺』評では、より寡黙で神秘的で冷酷無情な雪洲の方が好きだと言われた。

やがて雪洲は会社を経営する以上、興行収入を上げなればならないこともあり、役柄がラスキー社時代のそれに戻っていき、日本人以外の非白人を演じる機会も再び増えた。そういった中で中国人の役に扮し、ドリス・ポーン(英語版)と再共演した『伝説の祭壇(英語版)』(1920年)は、雪洲の最も良い演技を示し、最近作の中で「遥かに優れた作品」という評価を受けた。宮尾は、雪洲主演映画による利益を見込むロバートソン・コール社の要求、自分たちが抱くイメージに忠実な役柄を望むアメリカ人観客の欲望、アメリカ社会に浸透していた日本人に対する固定観念、スターの地位を維持したい雪洲自身の野心により、雪洲の「愛国的な思いは犠牲にされ、映画スター早川雪洲の一定のイメージ作りが再開された」と述べている。

1918年、雪洲は鶴子とともに当時流行していたスペインかぜに感染し、数日間寝込んだが、この時に母親のか祢もスペインかぜに感染し、11月17日に73歳で亡くなった。この頃からハリウッドの日本人俳優が相次いで日本へ帰国するようになり、雪洲は日本人活動写真俳優組合の理事長として、組合主催で壮行会を開くなどして彼らを見送った。1920年には日本で新たに設立された松竹キネマの関係者がハリウッド視察に訪れ、雪洲に「松竹で輸出映画を作ってくれないか」とオファーしたが、多忙な日々を送る雪洲は断った。1920年もハワース・ピクチャーズは好調に回転し、雪洲は足かけ3年も不眠不休で働いたおかげで、キャナリーに会社設立時の出資金100万ドルに利息100万ドルを足して、2倍の200万ドルにして返済することができ、それを機に社名を「ハヤカワ・フィーチャー・プレイ・カンパニー」に改名した。同年9月には日米親善や在米日本人のアメリカ化などに尽くすために「一百会」を設立し、自ら会長に就いた。

1920年代に入ると、アメリカでは第一次世界大戦後のナショナリズムの高揚の中、反日ムードがますます濃くなっていた。ロサンゼルスの街でも排日を呼びかける宣伝カーが走り、それは雪洲の自宅の前にもやってきた。そんなアメリカで雪洲の人気は徐々に低下し、スターの地位を維持することが困難となっていった。さらに雪洲の成功を面白くないと思う白人も少なからずおり、雪洲の身辺は次第に不穏なものになり、そんな雰囲気は撮影現場でも漂っていた。そのような背景の中で、雪洲は最も脂の乗りきっている時期を過ごしていたにもかかわらず、ハリウッドに対する不信や不安、そして身の危険を感じるようになった。

そんな雪洲が直面したのは、自社の作品を配給していたロバートソン・コール社との関係悪化だった。

1921年3月、ロバートソン・コール社は映画製作に乗り出し、雪洲の会社と合併することを持ちかけた。自らの原作で、ベッシー・ラヴと共演する『スワンプ(英語版)』(別名『沼』)(1921年)を撮影していた雪洲はこの話しに応じた。雪洲には100万ドルもの死亡保険がかけられており、もし雪洲が死んだ場合、保険金は雪洲の会社に入る仕組みとなっていたが、ロバートソン・コール社は合併により保険金は自動的に自分たちに譲られると解釈し、受取人の名義を自分たちに変えるよう要求した。雪洲は強くこれに反発したが、それで揉めている最中に虫垂炎をこじらせた。症状がかなり悪化していたにもかかわらず、ロバートソン・コール社は雪洲の保険金目当てで手術を先延ばしにしたため、あとでその事実を知った雪洲は憤慨した。何日経っても手術が行われず、4月8日に検査をすると一刻を争う危険な状況であることが判明し、緊急手術をしたが、腸壁が丈夫で腹膜まで膿が回らなかったため一命をとりとめた。

5月12日に雪洲は退院し、6月から転地療養と称してアメリカ東部を旅行した。6月25日にはニューヨーク・ヤンキース対ワシントン・セネタースの野球試合で始球式を務め、ベーブ・ルースと握手を交わし、その2日後にはホワイトハウスでウォレン・ハーディング大統領と面会した。雪洲が長兄に宛てた書簡によると、この東部旅行は「新しい境地を自分の活動天地に求めよう」という目的があったという。大場俊雄は、東部旅行がやがてハリウッドを離れることになる雪洲の転機の前兆であり、映画俳優から舞台俳優へ活躍の場を広げることを意図した下見旅行だったと指摘している。

1922年、雪洲は合併後の新生ロバートソン・コール社のもとで、中国が舞台のアン・メイ(英語版)、ベッシー・ラヴと共演する新作『朱色の画筆(英語版)』(1922年)の撮影に入った。すでに保険金の受取人の名義はロバートソン・コール社に移されていたが、この作品では大地震で町が壊滅する大がかりなシーンがあり、同社は撮影中に事故が起きる可能性もあるとして、雪洲の死亡保険にさらに100万ドルを追加した。大地震のシーンは、3月11日のクランクアップ当日に撮影されたが、自伝によると、雪洲は撮影現場の見物人が異常に多く、その中に白衣を着た人も何人かいたため、いつもと様子がおかしいことに気付いたという。撮影するシーンは、雪洲と中国人がパゴダの前で格闘し、その最中に発射されるピストルの音とともに、地震でパゴタが向こう側へ倒壊するというものだった。ところが、雪洲は撮影開始直前、知人の美術監督に「パゴダのセットは向こう側にではなく、雪洲の方に倒れる」と忠告された。雪洲は恐怖心を抑えながら撮影に臨んだが、合図となるピストルの音がした途端、パゴダのセットは本当に雪洲の方へと倒れ始めた。雪洲はすぐに「走れ!」と声を張り上げ、他の俳優たちと大急ぎで逃げ出し、そのおかげで怪我人は出なかったという。

雪洲は自伝で、このセットの倒壊事故は、雪洲の多額の保険金を手にするためにロバートソン・コール社の社長が仕組んだものであると主張し、「あのときは日本人排斥が盛んなときで、実に迫害を受けた。そのどさくさまぎれに日本人の私など撮影中の事故死ということで、殺したって平気だろう、殺して200万ドルとる、という謀略をめぐらしていたのが事実だ」と述べている。中川も、この事件が「会社ぐるみの確信犯的な公開殺人計画」だったと述べている。この事件で雪洲はハリウッドと決別することを決意し、事件から1週間後の3月17日に行われたロバートソン・コール社社長主催のパーティーの席上で、その決意を発表した。

この言葉通りに雪洲は自身の映画会社を解散し、ハリウッドを後にした。それから約2か月後の6月29日には、妻と渡米後初めて日本へ一時帰国した。この頃の日本では、雪洲はハリウッドで成功したスターとして大きな注目を集め、映画ファンだけでなく一般大衆からも英雄視された。雪洲は至るところで熱狂的な歓迎を受け、東京駅では雪洲夫妻をひと目見ようと大群衆が押し寄せたという。その一方で「国賊」「売国奴」のレッテルが拭い去られたわけではなく、歓迎と同じくらいに不歓迎の声も多く、雪洲夫妻は不歓迎団体や抹殺社を称する団体に付きまとわれ、常に不安と恐怖がついて回った。横浜港に到着した時には歓迎の嵐と反対の怒号が入り混じる騒ぎとなり、帰国直後の歓迎会の最中には撲殺団のメンバーが「雪洲国賊!」と叫びながら乱入する出来事も起きた。雪洲は郷里の七浦村にも戻り、地元の人々から大歓迎を受けたが、日本を離れる間際の8月16日に兄の音治郎が亡くなり、滞在期間を延ばして葬儀に参列したあと、8月28日に喪服姿のままアメリカへ戻った。

国際的な活躍:1922年 - 1944年

ハリウッドと決別した雪洲は、ニューヨークへ出て舞台俳優に活路を見出し、フレッド・ド・グレザック(英語版)作の『タイガー・リリー』という芝居を上演することにした。雪洲はブロードウェイでの舞台経験がなく、演技力も未知数だったため、まずは1923年1月からデラウェア、ピッツバーグ、アトランティックシティなどの東海岸の都市で公演を重ねた。ところが、公演は好成績を収めるには至らず、1月26日付けの『羅府新報』はアトランティックシティでの上演が「観衆は期待を裏切られたほどの出来」だったと報じた。その結果、『タイガー・リリー』は3週間の都市公演で事実上打ち切られ、ニューヨークで日の目を見ることは叶わず、雪洲はブロードウェイの劇場に出演することが生易しいことではないことを痛感した。

それでも雪洲は諦めず、ニューヨークで新しい芝居の題材を探していたところ、フランスの映画会社のフィルム・ダール(フランス語版)から、クロード・ファレールの小説が原作で日露戦争を舞台にした国際的大作『ラ・バタイユ』(1923年)で主役の日本海軍将校を演じるオファーを受けた。契約を結んだ雪洲は「アメリカでは人気が落ちたが、ヨーロッパではまだまだいける」と自信を深め、1923年7月に将校の妻役で共演が決まった鶴子とフランスへ渡り、パリで熱狂的な歓迎を受けた。『ラ・バタイユ』は雪洲の力が働いたおかげで、フランス海軍の協力により本物の軍艦を動員して撮影された。作品はパリで2年間も上映が続くほどの大きな成功を収めたが、日本では国辱的な描写があるとして、原形をとどめぬほどに編集されたものが公開された。アメリカでもロバートソン・コール社によって改変が行われ『The Danger Line』(1924年)のタイトルで公開された。

その後、雪洲はパリの劇場カジノ・ド・パリ(フランス語版)で1幕の短い芝居『神の御前に』(1923年)に出演し、連日大入り満員のヒットとなった。雪洲はヨーロッパでもすっかり人気者となり、イギリス国王ジョージ5世からは王室主催のコマンド・パフォーマンス(英語版)での芝居の指名を受けた。1923年11月にロンドン入りすると数万人の群衆に出迎えられ、チャップリンが凱旋帰国した時よりも熱狂的な歓迎ぶりだったと報じられた。雪洲が上演したのはウィリアム・アーチャーの戯曲『サムライ』で、12月13日にロンドン・コロシアムで国王の天覧を受けた。舞台は高い評判を呼び、約7か月にわたりイギリス各地で巡演して、その間には2本のイギリス映画『愛国の軍使(英語版)』と『Sen Yan's Devotion』で主演し、青木鶴子と共演した。また『ラ・バタイユ』に続くフランス映画『犠牲(フランス語版、英語版)』(1924年)でも主役を演じ、ロジェ・リオン(フランス語版)と共同で監督を努めた。

1924年末に雪洲は再びパリへ戻り、しばらく遊びほうけていたところ、パリのナイトクラブで知り合ったニューヨークの大劇場主リー・シューバート(英語版)から『ラブ・シティ』という舞台で主役の中国人を演じる話を受けた。単なるスターから演技力で評価される俳優へと転身したいと思っていた雪洲は、一度は失敗したブロードウェイで自分の力量を再び試すため、約2年を過ごしたヨーロッパを離れ、1925年夏にニューヨークへ戻った。『ラブ・シティ』はこれまでにない長台詞が多く、完璧な演技が求められたため、雪洲は稽古中にプレッシャーで胃炎を患い、ひどく痩せてしまったという。舞台は翌1926年1月からブロードウェイのリトル・シアター(英語版)で上演されると成功を収め、雪洲の舞台での演技も正当に評価された。

『ラブ・シティ』の成功で、雪洲はニューヨークに腰を落ち着け、そのあとに自身初の小説『バンディット・プリンス』(1926年)を出版した。この小説はハーバード大学で学ぶ中国の王子が主人公の恋物語で、雪洲はその一部を脚色する形で次の舞台『馬賊の王子』を自作し、1926年6月にニューヨークで上演した。舞台は評判を呼び、雪洲はすぐに日米の俳優10数人を集めて一座を組み、1927年までニューヨーク、フィラデルフィア、シカゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコなど全米各地で『馬賊の王子』を巡業した。1928年には自ら脚本と演出を兼ねた新作舞台『笑へる男』の全米巡業を行ったが、この舞台の評判も上々で、映画化の話も持ち上がり、翌1929年に自身初のトーキーとなる『大和魂(英語版)』として公開され、ルシール・ローテル(英語版)と共演した。すでに映画界はサイレントからトーキーへ移行し、多くのサイレント映画のスターがトーキーに適応できずに銀幕から消えていったが、雪洲はヨーロッパ時代から舞台俳優として台詞の経験を積んでいたおかげで、トーキーに適応して映画出演を続けることができた。

1930年4月、後述するアメリカの女優との醜聞に見舞われる中、経済人らの招きを受け、雪洲は2度目の日本帰国を果たした。帰国後の最初の仕事は、自らのためにアメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコとアクメッド・アブダラー(英語版)が書いた中国人が主人公の戯曲『天晴れウオング』の舞台化で、9月1日の帝国劇場を皮切りに神戸や京都など全国で巡業し、1933年まで公演が続く大ヒット作となった。翌1931年も帝国劇場で複数の舞台に出演したが、古巣のパラマウント・ピクチャーズから映画『龍の娘(英語版)』(1932年)の出演依頼を受け、再びアメリカへ渡った。ワーナー・オーランド(英語版)主演のフー・マンチュー シリーズ第3弾で、この作品で雪洲はイギリスで活動する日本人探偵を演じ、アジア系女優で当時最も人気のあったアンナ・メイ・ウォンと共演した。

1932年、雪洲は3度目の帰国をした。当時の日本において雪洲は最大級の大物として扱われたため、雪洲にとって日本は排日の空気があるアメリカよりも居心地がよかった。雪洲は松竹キネマで自身初の日本映画となる『太陽は東より』(1932年)を監督兼主演し、相手役には人気女優の田中絹代を抜擢した。この作品を撮り終えたあとは活動の主力を舞台に移し、東京や大阪の劇場を行き来しながら、岡田嘉子が相手役の『続篇・天晴れウオング』(1932年)、水谷八重子が相手役の『女人哀詞・唐人お吉物語』(1933年)、伏見直江が相手役の『バッド・マン』(1933年)、青年歌舞伎公演『シラノ・ド・ベルジュラック』(1934年)などに出演した。1934年には早川雪洲劇団(早川雪洲新進座)を旗揚げし、渋谷の自宅の離れを稽古場にして数人の劇団員を住まわせたが、そのひとりには堺駿二がいた。

この頃の雪洲は仏教に関心を寄せるようになり、1935年には自らが盟主となって「日本仏教劇協会」を結成し、その第1回公演として自作の釈迦の一代記『大釈尊劇 四海の光』を日本劇場で初演した。舞台は好評を博し、大阪や名古屋、九州、四国など日本各地を回り、さらには朝鮮や台湾、中国まで巡演した。しかし、雪洲のマネージメントをしていた人物が公演の収益を持ち逃げして行方をくらましてしまったため、舞台が連日大入り満員だったにもかかわらず、興行的には大赤字になったという。

舞台活動と並行して映画出演も続けており、楠木正成を演じたJ.O.スタジオ作品『楠公父子』(1933年)、水谷八重子と共演した新興キネマ作品『唐人お吉』(1935年)、日蓮を演じた『国を護る者日蓮』(1935年)などの出演作がある。日独合作映画の『新しき土』(1937年)では、主演の原節子の父親役を演じた。しかし、映画出演の本数は少なく、脇役を演じることも多かった。野上はその理由について、当時の雪洲が相変わらず大物扱いされたものの、日本映画で集客力の見込めるような魅力的なスターではなく、その点では大河内傅次郎や長谷川一夫などの新しいスターにかなわなくなっていたことを指摘している。その代わり雪洲は舞台で一座を組むことにおいては魅力的なスターであり続け、舞台の面白さは映画とは比較にならなかったこともあり、映画よりも舞台の方に熱を入れていた。

1936年、雪洲はフランスの映画会社からモーリス・デコブラ(英語版)原作、マックス・オフュルス監督の『ヨシワラ(フランス語版)』に出演する話を受け、大晦日に家族を残して日本を離れ、ニューヨーク経由でフランスへ渡った。『ヨシワラ』は吉原に身を売った娘と某国海軍士官との悲恋物語で、雪洲は娘に密かな思いを寄せ、なんとかして吉原から救い出そうとする人力車夫を演じ、娘役の田中路子と共演した。日本には戦前輸入されていたものの上映が禁止され、戦後になって公開された最初のフランス映画となった。

この作品を撮り終えると、雪洲は『チート』のフランス版リメイクの『フォルフェテュール(フランス語版)』(別名『背信』)(1937年)、再び田中路子と共演した『アジアの嵐(フランス語版)』(1938年)に主演した。

1938年にはフランスで独立プロダクションを旗揚げしようと考え、3本のフランス映画出演で得た収入などから資金を集め、翌1939年にパリのシャンゼリゼ通りに「デモフィルム」という会社を設立した。その第1作はマカオの賭博場を舞台にした悲劇ドラマ『マカオ 賭場地獄(フランス語版)』だったが、撮影中の同年9月に第二次世界大戦が開戦し、翌1940年にはナチス・ドイツがフランスに侵攻し、『マカオ』が完成した頃にはフランス全土が占領されていた。在フランス日本国大使館は在仏日本人の退避勧告を出したが、映画製作に懸命だった雪洲はパリにとどまる決断をした。『マカオ』はナチスの映画検閲を受け、反ナチスの俳優エリッヒ・フォン・シュトロハイムが出演していたために上映許可が下りず、何としても映画を公開させたかった雪洲は、シュトロハイムの出演部分をフランスの俳優に代えて撮り直した。1942年にようやく『マカオ』修正版が完成し、検閲を通過したが、それまでにかかった約3年間の雪洲は無収入で、資金が続かず、デモフィルムはたった1本作っただけで閉鎖された。

1942年、雪洲はナチス占領下のパリに在住していた124人の日本人のひとりだった。戦時下で思うような映画作りができず、日本人が映画に出演するチャンスはなおさらない中、雪洲は必ず映画に出られる時が来ると信じて待ち続けた。雪洲は日本人であるためドイツ軍には同盟国の人間として扱われ、また国際的有名人であるがゆえに、芸術家たちをプロパガンダに利用するナチスに目を付けられたが、雪洲はナチス嫌いで、対独協力にも積極的ではなく、ドイツ軍と一緒にいる写真を撮られそうになるとトイレに隠れるなどして警戒した。1944年にパリは連合軍によって解放されたが、フランスが米英両国とともに宣戦布告した日本との戦争はまだ続いていたため、日本人は連合国側からまだ敵国人と見なされていた。雪洲は同じくパリに滞在していた資産家の薩摩治郎八とともに、対独協力の疑いで投獄された在留日本人の救出に奔走し、そのためにアメリカ軍のジープを運転した。同年にはドイツ軍に検閲された『マカオ』をオリジナル版に戻すため、シュトロハイムの出演部分をつなぎ直して再上映した。

第二次世界大戦後:1945年 - 1967年

1945年に第二次世界大戦が終結し、雪洲は何本かのフランス映画に出演する機会を得たが、それだけでは生活することができず、紙や絹のハンカチに描いた絵を売って食いつないでいた。日本へ帰国しようにも、毎日のように警察に出頭して、釈放された日本人の証言をしなければならなかったため、当局からの許可は下りず、そのうえ日本が敵国であるため手紙を出すこともできなかったという。雪洲の家族を含む日本やハリウッドの人たちは誰も雪洲の消息を知らず、鶴子は夫の行方を探すために努力し、アメリカ軍機関紙『星条旗新聞』の記者に頼んで「パリのセッシュウの行方を捜している」という記事を掲載してもらった。

1948年、雪洲はアメリカの人気スターのハンフリー・ボガートから「映画で共演してほしい」というオファーを電報で受けた。ボガートは自らのプロダクションで製作する新作『東京ジョー(英語版)』(1949年)に、若い頃から憧れた雪洲を出演させたいと望んだが、肝心の雪洲の居所が分からず、配給元のコロンビア ピクチャーズが日本に連絡しても消息はつかめなかったため、「雪洲を見つけたら賞金を出す」という新聞広告を出したところ、パリから雪洲の絵の個展が開かれていたという情報が入ってきたという。『東京ジョー』で雪洲が演じる役柄は、サイレント時代から演じ続けてきた悪役の日本人だったが、雪洲にとってはハリウッドに復帰できるチャンスであったため、このオファーを引き受けた。

連合国の占領下にある当時の日本は、まだ講和条約が締結されておらず、公式には依然として連合国の交戦国となっていたため、政府要人でもない日本人が自由に国を移動することはできず、当然フランス在住の日本人にアメリカ行きの査証は下りなかった。そんな時代にもかかわらず、1948年末に雪洲はパリのアメリカ大使館から特別査証を発給され、特例的に渡米することができた。自伝によると、雪洲はアメリカ大使館へ査証を貰いに行ったところ、担当者に「日本とアメリカは交戦国だから、雪洲の持っている旅券は認められない」と言われたが、大使館はフランス滞在中の雪洲の行動などを綿密に調査していて、その結果何ら悪いところがなかったため、その後アメリカ行きの査証を出してくれたという。鳥海は、雪洲のアメリカ行きが認められた理由として、占領下のパリでドイツ軍に協力しなかったことと、雪洲がハリウッドで築き上げた実績が認められたことを挙げている。

1948年12月31日、雪洲はパリを発ち、年明けの1949年元日にニューヨークに到着した。16年ぶりにアメリカの地を踏んだ雪洲は、日本が3年前までアメリカの交戦国だった事情で、反日感情や人種差別から石でもぶつけられることを覚悟していたが、多くのアメリカ人や映画関係者からは歓迎を受け、『ニューヨーク・タイムズ』も雪洲のハリウッド復帰を大々的に報じた。

『東京ジョー』の撮影中、ボガートは常に雪洲のために気を遣い、演技には決してケチをつけず、雪洲のブランクを忘れさせるように元気づけた。雪洲は自伝で「大へん愉快に仕事をすることができた」と述べている。雪洲は続いて、20世紀フォックス作品『三人帰る(英語版)』(1949年)でクローデット・コルベールと共演し、日本軍の捕虜収容所所長の陸軍大佐を演じた。この演技は高い評価を受け、戦後の代表作『戦場にかける橋』の収容所長役へとつながる役柄となった。

1949年、『三人帰る』の撮影を終えた雪洲は、ちょうどアメリカを訪問していた大映社長の永田雅一に帰国を勧められ、10月に約13年ぶりに日本の土を踏んだ。雪洲は大映と出演契約を結び、伊藤大輔監督の『遥かなり母の国』(1950年)に出演した。日本映画の水準を高めることに意欲を燃やす永田は、雪洲主演で広島市への原子爆弾投下を題材にした日米合作映画『ヒロシマ』を企画していたが、自らの独立プロダクションで作ろうと考えていた雪洲と思惑がすれ違い、実現しなかった。続いて雪洲は、ヴィクトル・ユゴーの代表作を明治時代の日本を舞台に置き換えて映画化した『レ・ミゼラブル あゝ無情』(1950年)で、ジャン・バルジャンに相当する主人公を演じた。

日本に腰を落ち着けた雪洲は、映画以外の分野にも進出した。1952年には「めでたや食品株式会社」の副社長となり、徳川夢声や高峰三枝子などの芸能人を集めて「芸能人のそば屋」を立ち上げた。雪洲は銀座に「早川雪洲の店」、日本橋に「高峰三枝子の店」というように芸能人が1軒店を持つチェーン展開を考えていたが、これが実現することはなかった。1953年の文化の日には、吉川英治、丹羽文雄、久保田万太郎、和田英作、喜多村緑郎、志村喬などの文化人たちとの出資で、日本初の文化人の相互補助機関となる「文化信用組合」を設立し、雪洲が初代会長に就任したが、私生活の女性問題などによりわずか1年で辞めてしまい、組合自体も3年で業務停止となった。

その後も雪洲は日本で映画出演を続け、『悲劇の将軍 山下奉文』(1953年)や『日本敗れず』(1954年)といった戦争映画で本領を発揮した。前者では山下奉文を演じ、その風格ある演技が高く評価された。後者はアメリカ時代の雪洲の弟子だった阿部豊が監督した作品で、雪洲は阿南惟幾がモデルの陸軍軍人を演じ、その演技も高く評価された。雪洲はこれらの作品で、中年の威厳のある容貌を活かした悲劇の軍人役がはまり役となり、その後も貫禄のある役柄を演じることが増えた。1955年には東京ロケが行われ、山口淑子(シャーリー・ヤマグチ)も出演するサミュエル・フラー監督のアメリカ映画『東京暗黒街・竹の家』の警部役で再び国際的な舞台に立ったが、この作品も不正確な日本の描写で批判され、雪洲は『チート』以来付きまとっていた国辱映画俳優の烙印を再び押された。

1956年、雪洲は帝国ホテルに滞在していたイギリスの映画プロデューサーのサム・スピーゲルから、ハリウッドの大作映画『戦場にかける橋』の出演依頼を受けた。雪洲が演じるのは日本軍捕虜収容所所長の斉藤大佐という重要な役であり、監督のデヴィッド・リーンは『悲劇の将軍 山下奉文』を観て雪洲の演技を気に入り、斉藤大佐役は雪洲以外に考えられないと思ったという。スピーゲルから渡された脚本を読んだ雪洲は、ジャングルが舞台で、女優が登場せず、日本人とイギリス人の軍人の男2人が鉄道橋建設をめぐり対立する物語に魅力を感じず、いったんは出演を断ろうとしたが、鶴子に「きっといい映画になる」と言われ、それから何度も脚本を読んで見ると雪洲もだんだんそんな気がしてきて、出演を決心したという。ギャラは最初の10週間で2万ドルだった。アレック・ギネスやウィリアム・ホールデンも出演し、ホールデンは少年時代に雪洲夫妻が暮らしていたグレンギャリ城に新聞を配達していて、その時に俳優をやってみないかと声を掛けていた雪洲との共演が果たされることになった。

雪洲はスリランカの山奥での長期ロケに参加したが、それは困難を極め、娯楽もなく、女もいない男だけの殺伐とした環境と、夜も気温が下がらないほどの蒸し暑さには辟易した。完成した作品は1957年に公開されると好評を博し、興行的にも高い成功を収め、雪洲の演技も「武士道を貫く日本軍人をよく演じた」と批評家に高く評価された。作品は第30回アカデミー賞で作品賞など7部門を受賞し、雪洲も助演男優賞にノミネートされたものの、受賞には至らなかった。また、雪洲は第15回ゴールデングローブ賞の助演男優賞にもノミネートされ、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞では助演男優賞を受賞した。雪洲にとって『戦場にかける橋』は人生最大の評価を受けた作品となり、鳥海が「日本の中高年世代なら、雪洲といえば『戦場にかける橋』を思い出す人が少なくないだろう」と述べているように、多くの人が雪洲のイメージとしてまず頭に思い浮かべるような代表作となった。

『戦場にかける橋』で再び脚光を浴びた雪洲は70歳を超えていたものの、再び国際スターとして活躍し、日本とアメリカを行き来しながら映画テレビ、舞台に出演した。1958年2月から9月までのアメリカの長期間滞在中には、ジェリー・ルイス主演の底抜けシリーズの1本『底抜け慰問屋行ったり来たり』(1958年)に出演し、その次にはオードリー・ヘプバーン主演の『緑の館』(1959年)で先住民の酋長役を演じた。映画以上にテレビへの出演依頼が相次ぎ、1958年に放送された4本のテレビシリーズに出演。そのうち『クラフト・テレビジョン・シアター(英語版)』のエピソード「灼熱の孤島」では、アメリカ兵と無人島にたった2人で睨み合う日本兵を演じて高い評価を受けた。『レッド・スケルトン・ショー(英語版)』のエピソードでも、南太平洋の島に取り残された日本軍の将校を演じ、西部劇の『幌馬車隊』では日本人の侍を演じた。また、この滞在中に雪洲はアメリカでテレビの製作プロダクションを作ることを計画したが、実現はしなかった。アメリカのテレビシリーズには、1963年にも『ルート66』のエピソードで出演し、日本軍の元パイロットを演じた。

1959年には日本で自伝『武者修行世界を行く』を出版し、その記念パーティーには300人を超す著名人が参加した。翌1960年には自身をスターにした恩人であるインスとデミルに捧げた英文自伝『ゼン・ショード・ミー・ザ・ウェイ』を出版した。この年には2本のハリウッド映画に出演して、アメリカで年間の興行成績4位を記録した、ディズニー製作の『スイスファミリーロビンソン』(『南海漂流』)。そしてサイパンの戦いを題材にした『戦場よ永遠に(英語版)』では日本軍司令官役を演じ、妻の鶴子とも久し振りに共演した。この年以降、雪洲はよほど経済的に困りでもしない限り、めったに仕事をしなくなり、出演本数は次第に減少した。当時の雪洲は太平洋テレビジョンに所属し、1964年には独立プロダクションを経営していた経験を買われて同社の芸能局長に就任し、国際市場への進出を念頭に置く会社の方針に沿って、テレビ制作やタレントの養成を担当した。1965年にはNHK大河ドラマの『太閤記』に武田信玄役で出演した。80歳を過ぎた1967年の『純情二重奏』が最後の映画出演、翌1968年の『日本剣客伝』が最後のテレビ出演となった。

私生活

青木鶴子との結婚

雪洲が青木鶴子と出会った経緯については、さまざまな説がある。鳥海によると、1913年に雪洲が舞台『タイフーン』の上演を企画し、英語が話せる日本人俳優を探そうとロサンゼルスの演劇学校を訪れた時に鶴子と知り合い、それからお互いに惹かれ、親しい間柄となったという。中川と野上によると、2人が『タイフーン』以前から在米日本人同士またはロサンゼルスの演劇仲間たちとの親睦会を通して知り合いになっていたという説があるという。鶴子は『婦人公論』1931年1月号で、21歳頃に養父で画家の青木年雄の絵を見るために何度も出入りしていた雪洲と親しくなったと述べている。インスに『タイフーン』の舞台を観るように勧め、雪洲の映画界入りのきっかけを作ったのも鶴子だった。その後、2人は映画での共演が続いたこともあり、急速に距離が縮まり、1914年4月14日にロサンゼルス郡役所に婚姻届を提出し、5月1日に結婚式を挙げた。2人が正式に日本へ婚姻を届け出たのは1920年のことである。

雪洲と鶴子は、1961年に鶴子が亡くなるまで夫婦であり続けた。結婚後も雪洲と鶴子は映画で共演したが、鶴子はスターとして多忙を極める夫を家庭で支えるため、1920年代に実質的に女優を引退した。『戦場よ永遠に(英語版)』(1960年)で30数年振りの夫婦共演を果たすまでに、2人が共演した映画は20本以上を数える。鶴子は常に家庭を守り、雪洲の仕事をあらゆるところから支え、雪洲がどれほど女遊びをしようと、大金を使おうと、結局はそれを許してくれるような人物だった。雪洲の方もそんな鶴子にはあらゆる点で頭が上がらず、誰よりも鶴子を信頼し、尊敬し、女遊びをしても鶴子が死ぬまでは一度も離婚を考えなかった。森岩雄によると、黙り屋の雪洲とおしゃべりで明るい性格の鶴子は、「正反対な性格ゆえ補い合って素晴らしいカップル」だという。結婚記念日には、2人が一緒にいない時は必ず電報で祝い、鶴子の誕生日には毎年のように指輪やネックレスをプレゼントした。2人の間に子供は生まれなかったが、雪洲は愛人との間に3人の子供を産ませており、3人とも鶴子の手で育てられている。

グレンギャリ城での生活

ハリウッドのスターとして絶頂期にいた雪洲夫妻は、結婚以来バンガローで暮らしていたが、1917年にはハリウッドのアーガイル通りとフランクリン通り(英語版)の交差点の一角に、「グレンギャリ城(Castle Glengarry)」(またはアーガイル城)と呼ばれる大きな邸宅を購入した。もともと雪洲は自分で豪邸を建設するつもりだったが、日本人の土地所有を禁じる外国人土地法に阻まれ、やむを得ず売りに出されていたこの邸宅を購入したという。グレンギャリ城はスコットランド風の城のような4階建ての石造りの建物で、32室もの部屋があった。正面玄関は道路から前庭の10段ほどの階段を登ったところにあり、左右には大理石の雌雄のライオン像があった。内装は古い時代の宮殿風で、東洋の壺やペルシア絨毯、イタリアのアンティーク家具など、世界中の調度品や古美術品が置かれた。グレンギャリ城の豪壮さは、当時のハリウッドのスターの豪邸がかすんでしまうほどで、観光バスがわざわざ邸宅の前で停車するほどの名所になったという。

雪洲夫妻は7人の召使いを雇い、ピアース・アローやキャデラックなど4台の車を所有した。運転手は後に写真家して知られる宮武東洋が務めた。また、雪洲の内弟子だった阿部豊や牛山清人、ジョージ・桑(英語版)らがグレンギャリ城に住み込んだ。雪洲はロサンゼルス市長などの名士をグレンギャリ城に招き、数百人が入れる大広間で、少なくとも週に1度は盛大なパーティーを開いた。アメリカ巡業に来ていたオペラ歌手の三浦環を紹介するために、600人以上の招待客を集めてカクテル・パーティーを開いたこともあり、あまりの賑やかさに近くのコンサート会場と勘違いした団体客がやって来たという逸話もある。雪洲夫妻の豪奢な暮らしぶりは、当時のハリウッドのスターの中でも群を抜いており、アメリカの白人の間でも評判になるほどだった。夫妻の私生活はたびたび映画雑誌などで報じられ、まさに一挙手一投足が注目を浴びるようなスター夫婦となった。

雪洲がグレンギャリ城を購入し、豪華なパーティーを開いたのは、当時のアメリカ社会における日本人の立場を反映したものだった。排日ムードが高まっていたアメリカでは、日本人が野蛮で生活程度が低く、社交性も欠けている民族だと認識されていた。こうした背景があり、雪洲は「まわりにいるアメリカ人たちに、日本人もアメリカ人と同じ水準の贅沢な生活をするんだぞ、と見せてやりたかった」ため、豪華な生活をしたと主張している。実際にグレンギャリ城はアメリカに住む日本人の誇りになり、それまでいわれのない差別を受けて肩身の狭い思いをしていた日系人たちは、雪洲の豪華な生活ぶりをねたむより、むしろグレンギャリ城を見て大いに勇気づけられ、雪洲の心意気をわがものとして、道の真ん中を歩くことができるようになったと伝えられている。

グレンギャリ城には、チャールズ・チャップリンやルドルフ・ヴァレンティノといったスターもよく訪れていた。チャップリンは朝、撮影所へ向かう途中にグレンギャリ城に気軽に立ち寄り、コーヒーを飲みにきたという。チャップリンと雪洲は近所の友人であり、生年が近く、天ぷらが大好物だという共通点があった。1949年に『東京ジョー』の撮影で渡米した時には、チャップリンと16年ぶりの対面を果たし、旧交を温めている。一方、ヴァレンティノはグレンギャリ城に遊びに来て、雪洲にダンス、鶴子にイタリア料理を教えたという。ほかにも多くの映画関係者や各種分野の著名人たちが出入りし、日本領事館もグレンギャリ城の応接間を迎賓館がわりに使っていた。

雪洲夫妻はハリウッドを離れる1922年頃までグレンギャリ城で暮らし、ヨーロッパに活動拠点を移したあとの1923年11月に邸宅を売却した。その3年後にグレンギャリ城はユダヤ人に買い取られ、ユダヤ教の寺院の教育本部になったが、のちにハリウッド・フリーウェイ(英語版)が敷地の上を通ることになったため、その建設に伴い取り壊された。その後、ハリウッドの丘の上にある日本料理店「山城(英語版)」が雪洲の邸宅と混同されることがあったが、これはドイツ人絹商人のバーンハイマーが別荘として建設した東洋風建築の建物であり、西洋風建築のグレンギャリ城とは全く関係はない。

家族・女性関係

プレイボーイとして知られ、妻がいながらも幾度となく女性関係を取り沙汰された。息子の早川雪夫によると、鶴子との間に子供ができなかったのは、「ほかの女と遊ぶのに忙しくて、鶴子を愛する時間がなかった」からだという。プレイボーイぶりは、1910年代にハリウッドで活躍していた時分からで、若い女優たちとの火遊びが噂に上り、三浦環ともロマンスを噂されたこともあった。雪洲と2回共演経験のある女優のベッシー・ラヴも、雪洲のことを「女たらし」と呼んでいる。

アメリカの女優ルース・ノーブルとの関係は、単なる女遊びでは済まされない問題となった。ルースは1926年に雪洲が舞台『馬賊の王子』を全米巡業した時に、雪洲の相手役として鶴子が見つけてきた10代のイギリス国籍の新人女優だった。ルースと関係をもち、1929年1月にルースは雪洲との間にできた男児を出産した。その子は雪洲の名を一字とって、雪夫と名付けられたが、ルースは排日感情が激しいアメリカで日本名を付けることは不都合だと考え、出生証明書にはアレキサンダー・ヘイズという名前で記載された。愛人との間に子供ができたことをすぐに鶴子に知らせることができず、後にこれを知った鶴子は離婚も考えたが、雪洲の「雪夫をルースにあずけておくことはできない」という一言で離婚を取りやめ、雪夫を引き取ることにした。雪洲の心もすぐにルースから離れた。

1931年、『龍の娘』の撮影でアメリカに滞在した時、ルースは雪夫を雪洲の養子とすることに承認していたが、わが子への愛情を断ち切ることができなかったこともあり、養子取り戻し訴訟を起こした。約6か月にわたる裁判の末、雪夫の親権は雪洲夫妻にわたり、雪洲がルースに慰謝料を払うことで解決した。翌1932年に雪洲は日本で仕事をするため帰国し、鶴子は雪夫を育てるためアメリカに残ったが、きちんと話をつけたにもかかわらず、ルースから「雪夫を返せ」と執拗に迫られたため、雪夫を連れて帰国した。しかし、その間にも雪洲は新橋の芸者だった17歳のシズという女性と愛人関係になり、大森に家を借りて同棲していた。鶴子と雪夫の帰国後、雪洲は家族3人で渋谷の大きな家で暮らしたが、それからも雪洲は大森の家に通い、自宅と愛人宅を行き来する生活を続けた。また、1932年と1934年には子供を追いかけるようにしてルースが来日し、雪夫との面会を求めた。シズとの間には、1934年(1933年説もある)に長女の令子(よしこ)、1935年に次女の冨士子が生まれた。1936年に雪洲が渡仏したあと、鶴子はシズに頼まれて令子と冨士子を引き取ることになり、戦後に雪洲が帰国するまで女手一つで3人の子供を育てた。

フランス滞在中の雪洲は、『ヨシワラ』で共演した女優の田中路子と恋愛関係になった。路子もプレイガールとして知られ、雪洲と出会った時はドイツ人の富豪ユリウス・マインル2世(ドイツ語版)の妻でありながら、劇作家のカール・ツックマイヤーらと浮名を流していた。雪洲はそんな路子を見て「外国でこれほど自由奔放に生きる日本人女性はいない」と思い、路子の方も外国でも物怖じしない雪洲に強く惹かれた。雪洲は「妻とは別居中」と路子をごまかし、パリ16区で同棲生活を始めた。2人の恋愛はヨーロッパで有名になり、日本でも世紀の不倫として伝えられた。しかし、恋愛観や男女関係の理想についてお互いが正反対の考えを持っていたことや、雪洲と愛人との間に子供がいることを路子が知ったことで、2人の関係は破綻に向かった。さらにルースがパリまで雪洲を追いかけて来て、雪洲を挟んで愛人同士が鉢合わせしたことが決定打となり、路子は雪洲と見切りをつけた。

1949年10月、アメリカを経て日本へ帰国し、鶴子、雪夫、令子、冨士子の家族全員と初めて顔を合わせた。その後、一家は千葉県市川市の大きな借家で暮らし、1953年頃には鶴子に迷惑をかけたお詫びとして、渋谷の初台にある元軍人の邸宅を購入して移住したが、その間にも雪洲と新しい女性との関係が取り沙汰された。1961年にはルースが再び50万ドルを請求する父権認知訴訟を起こしたが、1931年に雪洲夫妻がルースと話をつけた際の書類を鶴子がきちんと保管していたおかげで、訴訟を切り抜けることができた。同年10月、鶴子は急性腹膜炎のため71歳で亡くなり、大きな喪失感に襲われた。

鶴子の没後も、女性に対する興味は旺盛なままだった。鶴子の三回忌が済んだ1964年12月、78歳の雪洲は38歳年下の渡辺黙子(しずこ)と再婚した。黙子は雪州の友人である日本舞踊家の吾妻徳穂の高弟で、吾妻秀穂を名乗っていた。2人は鶴子の生前から関係があり、1959年にはニューヨークの舞台で共演していた。結婚して最初の2年間は渡辺家の事情で別居し、冨士子の家で暮らす雪洲は両親と住む黙子の家とを行き来していたが、それでも黙子の目を盗んで、若い娘とデートを重ねていたという。

息子の雪夫は放送作家となり、雪洲と同じ太平洋テレビジョンに所属し、雪洲が米内光政役で主演した『激浪』などのテレビドラマで脚本を書いた。1980年代に雪夫は渡米し、ロサンゼルスで『羅府新報』などの仕事に関わったあと、1997年からロサンゼルスの日系文芸同人誌『新植林』に雪洲の伝記「ハリウッド・スター伝説 セッシュウ・ハヤカワ〈天国と地獄〉」を連載し、2001年に死去した。長女の令子は女優の道へ進み、大映のニューフェイスなどを経て文学座の研究生となり、1958年には三島由紀夫夫妻の仲人で文学座座員の有馬昌彦と結婚したが、その後離婚を経てニュージーランドに移住した。次女の冨士子は子役として『レ・ミゼラブル あゝ無情』で雪洲と共演し、周囲から女優としての将来を期待されたが、その後は女優をやめてバレリーナの道へ進み、1963年に結婚した。

2024/06/29 10:28更新

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