大島渚の情報(おおしまなぎさ) 映画監督 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
大島 渚さんについて調べます
■名前・氏名 |
大島渚と関係のある人
田村孟: 無理心中 日本の夏(1967年、創造社) 監督・大島渚。 山田五郎: ギタリストとしては、漫画家のみうらじゅんと喜国雅彦が率いるロックバンドとして1989年(平成元年)6月に結成された「大島渚」が氣志團万博の2019年開催回に参加した際に和嶋慎治とともに参加している。 実相寺昭雄: 大島渚グループとの親交が深く、劇場用デビュー中篇『宵闇せまれば』の脚本を大島が執筆したほか、田村孟・佐々木守・石堂淑朗といった脚本家と組んだ。 喜国雅彦: 1989年にみうらじゅんなどと組んだバンド大島渚で、ベーシストとしてイカすバンド天国(TBS)に出場。 天野鎮雄: 文学座研究生、大島渚主宰の「創造社」、「山本安英の会」などを経て、1985年(昭和60年)に妻の山田昌と「劇座」を結成。 吉行和子: 1978年、性愛を大胆に扱った大島渚の監督映画『愛の亡霊』に主演して(40歳を過ぎての出演には周囲の反対があった)世間を驚かせ、日本アカデミー賞優秀主演女優賞を受賞。 佐藤忠男: 大島渚の世界 筑摩書房 1973 のち朝日文庫 真鍋理一郎: 日本の夜と霧(1960年、大島渚監督) 御木本伸介: 『柔道一代』終了後には、大島渚が手掛けた唯一の連続テレビドラマ『アジアの曙』に主演。 真鍋理一郎: 太陽の墓場(1960年、大島渚監督) 長部日出雄: 大島渚、永六輔、野坂昭如、筒井康隆、小林信彦らをいち早く評価し、彼らと交友する。 横尾忠則: 1969年 - 主役として出演した大島渚監督の映画『新宿泥棒日記』が公開される。 飯島大介: 「御法度」大島渚監督(1999年) - 谷三十郎 小松方正: この頃大島渚の独立プロ「創造社」に参加、以降大島作品の常連俳優となり、『太陽の墓場』や『絞死刑』、『儀式』などの作品で活躍。 おおくぼ良太: 目蒲線物語(大島渚 篇) ワダ・エミ: その後は勅使河原宏『利休』や大島渚『御法度』のような日本映画だけでなく、メイベル・チャン『宋家の三姉妹』、チャン・イーモウ(張芸謀)『HERO』、ピーター・グリーナウェイ『プロスペローの本』など国内外の著名監督の作品に多数かかわった。 川喜多和子: 国内外の映画関係者より200を超える弔文が寄せられ、淀川長治、工藤夕貴、蓮實重彦、大島渚らにより弔辞が述べられた。 山田洋次: 大島渚、篠田正浩、吉田喜重といった気鋭の新人が松竹ヌーヴェルヴァーグとして活躍していた時代にあって、山田は地味な存在であった。 長谷川和彦: 成島出は、ぴあフィルムフェスティバルで、長谷川と大島渚に「映画監督になれ」と言われ映画監督になり、長谷川のもとで5年間、書生のような生活を送った。 高橋伴明: 大島渚と小山明子夫妻が仲人を務めた。 松井良彦: 大島渚(映画監督) 手塚眞: 成蹊高等学校在学時に初めて制作した8mm映画『FANTASTIC★PARTY』が「日本を記録する8mmフェスティバル」高校生部門特別賞を受賞し、審査委員だった大島渚監督ほか映画人に高く評価される。 小山明子: 夫は映画監督の大島渚。 原將人: 1970年、大島渚監督の『東京戦争戦後秘話』の脚本を佐々木守とともに手がけ、予告編を演出。 中島葵: また大島渚監督の『愛のコリーダ』での「吉蔵の妻役」も代表作である。 大林宣彦: ぴあは1977年12月に「第1回ぴあ展」を開催し、その企画の一つ「20代で出発った作家達」として、バスター・キートンや、ルイス・ブニュエル、ジャン・ヴィゴ、ケン・ラッセル、ロマン・ポランスキー、小津安二郎、稲垣浩、マキノ雅弘、大島渚、若松孝二ら、国内外の46人の映像作家が20代で撮った47本を特集上映した。 伊丹十三: また大島渚や立川談志など古くから伊丹十三を知る人物も、警察が死因を「自殺」と断定した後も「不倫報道ぐらいのことで、あいつは自殺しない」「飛び降り自殺は絶対に選ばない」と話し自殺を否定した。 ピエル=パオロ=パゾリーニ: 日本では1999年に「パゾリーニ映画祭」と題した上映会が開催され、映画監督の大島渚が実行委員長を務めた。 殿山泰司: 独特な風貌や、巧妙な演技から性格、個性派俳優として黒澤明、今村昌平、今井正、大島渚など様々な監督に重用された。 添田唖蝉坊: 日本春歌考 (著・知道/解説・大島渚) |
大島渚の情報まとめ
大島 渚(おおしま なぎさ)さんの誕生日は1932年3月31日です。京都出身の映画監督のようです。
作風、人物などについてまとめました。映画、母親、父親、事件、卒業、退社、結婚、テレビ、ドラマ、解散に関する情報もありますね。80歳で亡くなられているようです。
大島渚のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)大島 渚(おおしま なぎさ、1932年(昭和7年)3月31日 - 2013年(平成25年)1月15日)は、日本の映画監督、脚本家、演出家、著述家。フィクションだけでなくドキュメンタリーも制作した。 妹の大島瑛子は女優・プロデューサーで大島プロダクションの代表を務めた。美術監督の戸田重昌は瑛子の夫で義弟に当たる。妻は女優の小山明子、長男の大島武は東京工芸大学芸術学部教授、次男の大島新はドキュメンタリー作品監督。 1932年(昭和7年)3月31日(木曜日)、岡山県児島郡(現:玉野市)で生まれた。父方は長崎県対馬、先祖は対馬藩士。母親は広島県呉市出身。父親は農林省の水産学者。仕事の関係で瀬戸内海を転々とし、カニやエビの研究をしていた。「渚」という名前もそこから付けられた。6歳の時、農林省の水産試験場の場長をしていた父が死去し、母の実家のある京都市に移住した。 1950年、京都大学法学部に進学。同窓には推理作家の和久峻三、建築学者の上田篤や俳優の辰巳琢郎の父親がいる。在学中は猪木正道に師事した。また、京都府学連委員長として学生運動に携わり、全日本学生自治会総連合米田豊昭委員長とともに京大天皇事件(1951年)や松浦玲が放校処分になった荒神橋事件(1953年)などに関わった。法学部助手試験は不合格となった。その際、猪木には「君に学者は向きませんよ」と諭されたという。また、在学中に劇団「創造座」を創設・主宰し、演劇活動も行っていた。 京都大学卒業後、1954年(昭和29年)に松竹に入社。大船撮影所で大庭秀雄や野村芳太郎などの元で助監督を務めた。1959年(昭和34年)、長編『愛と希望の街』で映画監督としてデビュー。同作のタイトルは当初『鳩を売る少年』であったが、松竹幹部から「題名が暗くて地味」だと指摘され、妥協案として落差を表した『愛と悲しみの街』という改題を提案したが、公開時には本人の知らないうちに『愛と希望の街』へと変更されていた。翌1960年(昭和35年)の『青春残酷物語』や『太陽の墓場』といったヒット作により、篠田正浩や吉田喜重とともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として知られるようになった。しかし、自身はそのように呼ばれることを望まなかったという。 1960年(昭和35年)10月、日米安全保障条約に反対する安保闘争を描いた『日本の夜と霧』を発表。しかし、同作は公開から4日後、松竹によって大島に無断で上映を打ち切られた。大島はこれに猛抗議し、1961年(昭和36年)に同社を退社。同年に大島と同時に松竹を退社した妻で女優の小山明子、大島の助監督でその後脚本家として活動する田村孟、同じく脚本家の石堂淑朗、俳優の小松方正、戸浦六宏の6名で映画製作会社「創造社」を設立した。その後、同社には俳優の渡辺文雄らが加わった。1960年(昭和35年)に小山明子と結婚。 1962年(昭和37年)の『天草四郎時貞』の興行失敗を契機として、テレビの世界にも活動範囲を広げるようになった。1963年(昭和38年)の元日本軍在日韓国人傷痍軍人会を扱ったドキュメンタリー『忘れられた皇軍』は話題となり、翌1964年に脚本を務めたテレビドラマ『青春の深き渕より』は芸術祭文部大臣賞を受賞した。また、60年代には大島渚が南ベトナム軍を取材したTVドキュメンタリーも放映された。戦争の悲惨さを伝える内容だったが、放映後に寄せられた視聴者の声は、よくやったというものが圧倒的に多く、批判的なものは皆無だったという。その他にも『日本映画の百年』(1995年)など20本以上のテレビドラマやドキュメンタリーを手がけた。テレビでの仕事を通じて親交を深めたディレクターの一人に実相寺昭雄がおり、後に映画監督として創造社系の脚本家と多くコンビを組んだ。大阪釜ヶ崎にのりこんで撮影した『太陽の墓場』でも高評価を得た。 1960年代後半には『白昼の通り魔』(1966年)や『忍者武芸帳』(1967年)、『絞死刑』(1968年)、『新宿泥棒日記』(1969年)など政治的・社会的な作品を矢継ぎ早に発表し、国内外での認知度も急速に高まった。1971年(昭和46年)には創造社時代の集大成とも言われる『儀式』を発表。同作はキネマ旬報ベストテンの第1位に選出された。翌1972年(昭和47年)の『夏の妹』の発表後、「創造社」は翌1973年(昭和48年)7月に解散した。その後は映画製作の資金を稼ぐためにテレビ出演などの活動を行った。1975年(昭和50年)、新たに「大島渚プロダクション」を設立。『愛のコリーダ』の製作に着手した。 1976年(昭和51年)、阿部定事件(1936年)を題材に社会の底辺に住む男女の性愛を描いた『愛のコリーダ』を発表。同作は検閲を避けるため、若松孝二とアナトール・ドーマンのプロデュースという日仏合作で製作され、撮影済みのフィルムをフランスへ直送して現像と編集の作業を行い、タイトルクレジットはフランス語で書かれていた。第29回カンヌ国際映画祭の監督週間部門に出品され、ハードコア・ポルノとしての性描写が観客や批評家の間で話題となった。同作は国際的に評価され、シカゴ国際映画祭審査員特別賞や英国映画協会サザーランド杯を受賞したが、日本では映倫によって倫理規定に基づく大幅な修正を受けた。2000年のリバイバル上映の際には修正個所は大幅に減ったものの、前述の映倫規定もあり依然としてボカシ修正が入り、日本では21世紀に入っても、映画館や国内DVDによる無修正完全版の視聴は不可能である(北米盤やフランス盤などの海外盤は問題なく流通しているため日本国内で入手可能)。また、1977年(昭和52年)に同作の脚本や宣伝用スチル写真などを掲載した書籍『愛のコリーダ』が出版された際にはわいせつ物頒布等の罪で起訴された。大島が「刑法175条は憲法違反である」と主張した点は認められなかったものの、1982年、猥褻物とは認められず無罪となった。同年、東映のヤクザ映画大作『日本の黒幕』の監督に抜擢されたが、脚本の最終段階で降板した。 その後は日本国外資本での映画製作が中心となり、1978年(昭和53年)に再び日仏合作による『愛の亡霊』を発表。性的描写は前作よりは抑制されたが、不倫した妻が愛人と共謀して夫殺しに走るという前作と似たストーリーの作品を発表。同作は第31回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。1983年(昭和58年)にはビートたけしや坂本龍一、デヴィッド・ボウイなど異色のキャスティングが話題となった国際的合作『戦場のメリークリスマス』を発表。第36回カンヌ国際映画祭に出品された際にはパルム・ドール最有力候補と目されたが、無冠に終わった。同作で初めて映画音楽を担当した坂本龍一は英国アカデミー賞作曲賞を受賞した。1986年(昭和61年)の『マックス、モン・アムール』では人間とチンパンジーの愛を描いた。同作は主演にシャーロット・ランプリング、脚本にジャン=クロード・カリエール、撮影監督にラウール・クタールを起用し、全編フランスで撮影された。 1980年代後半からは『朝まで生テレビ!』のレギュラーパネリストとなり、テレビ番組のコメンテーターとしても活動した。大島は映画製作の資金捻出が目的ではなく、テレビに出演するのが生き甲斐であると語った。事実、50歳以降の30年間は依頼を受けた2本の映画を監督したのみ(それ以前には24年間で25本の映画を監督しており、その大部分が依頼作品ではなく資金負担をともなう自主企画であった)であり、病身もあって自己資金で映画を製作・監督するような活動は停止していた。その他にも1980年(昭和55年)には日本映画監督協会の理事長に就任し、1996年(平成8年)まで歴任した。 1990年代には早川雪洲とルドルフ・ヴァレンティノの関係を題材にした『ハリウッド・ゼン』の製作に着手。早川役には再び坂本龍一、ヴァレンティノ役にはアントニオ・バンデラスを起用したが、撮影開始直前に資金不足により製作中止となった。その後はBBCの依頼を受け、『キョート、マイ・マザーズ・プレイス』(1991年)や『日本映画の百年』(1995年)といったテレビドキュメンタリーを製作した。また、1995年には第51回ヴェネツィア国際映画祭で審査員を務める等、国際的な活躍を見せた。 1996年(平成8年)1月下旬、10年ぶりの作品となる『御法度』の製作を発表。しかし、同年2月下旬に渡航先のロンドン・ヒースロー空港で脳出血に見舞われた。その後、3年に及ぶリハビリを経て、1999年(平成11年)に『御法度』を完成させた。同作ではビートたけしと崔洋一という二人の映画監督が俳優として出演し、大島は二人に撮影現場でのサポート役を託したと言われている。同作は翌2000年(平成12年)の第53回カンヌ国際映画祭に出品され、第42回ブルーリボン賞では作品賞・監督賞を受賞した。また、1999年12月15日には同作の撮影現場を映したテレビドキュメンタリー『1999 大島渚 映画と生きる』がNHK-BS2にて放映された。 2000年、紫綬褒章を受章。褒章受章は、若き日の大島の思想や生き方とは矛盾していた。2001年(平成13年)6月にはフランス政府よりフランス芸術文化勲章オフィシエ章が授与された。その後、再び病状が悪化し、リハビリ生活に専念した。2006年(平成18年)、映画の著作権問題を問う『映画監督って何だ!』に出演した。また、同年2月26日には同品の披露会見を兼ねた日本映画監督協会の創立70周年祝賀パーティーにも歴代理事長として壇上に上がった。公の場に姿を現すのは4年8ヶ月ぶりであった。2008年(平成20年)7月28日に放映された『テレメンタリー パーちゃんと見つけた宝もの〜大島渚・小山明子の絆〜』や同年8月17日に放映された『田原総一朗ドキュメンタリースペシャル「忘れても、いっしょ…」』において神奈川県鎌倉市の聖テレジア病院で言語症と右半身麻痺のリハビリに励む姿がオンエアされた。 2013年(平成25年)1月15日午後3時25分、神奈川県藤沢市の病院で肺炎により死去。80歳没。戒名は大喝無量居士(だいかつむりょうこじ)。墓所は神奈川県鎌倉市の建長寺回春院。 訃報を受けて坂本龍一や岩井俊二、松尾貴史などが自らのTwitterで大島への追悼の辞を発した。大島と同世代の映画監督であり、同じく松竹ヌーヴェルヴァーグと呼ばれた篠田正浩は「僕と大島は戦友だった」と哀惜の念を語り、田原総一朗は「(大島さんは)頼れる兄貴みたいな存在だった」と語った。『戦場のメリークリスマス』に出演したビートたけしは大島との出会いを「夢のようだった」と語った。また、大島と親交のあった映画監督の帯盛迪彦は大島の訃報にショックを受けたことが影響したのか体調が悪化し、3日後の1月18日に敗血症で死去した。 2019年12月4日、「大島渚賞」の創設が発表された。選考対象は「日本在住で活躍し、過去に3本程度の劇場公開作品がある映画監督」。 作風作品の特徴1960年代から1970年代前半にかけて発表された作品は安保闘争を描いた『日本の夜と霧』(1960年)や死刑制度を扱った『絞死刑』(1968年)、冠婚葬祭を通じて戦後民主主義を総括した『儀式』(1971年)など、その高い社会性や政治性が特徴と言われており、大島は国家権力に侮蔑される人間の屈辱感を描き出し、自身も権力に闘争的に対峙する姿勢を貫いた。 1970年代後半からは検閲への抵抗と、タブーのない芸術作品の創作を目的とした作品としてハードコアポルノの『愛のコリーダ』(1976年)を制作した。また続いて『愛の亡霊』(1978年)を日仏合作で発表した。1980年代以降は『戦場のメリークリスマス』(1983年)や製作中止となった『ハリウッド・ゼン』など国際的合作を製作した。大島はこれらの海外資本での製作理由を「日本には刺激がないから」と述べた。 また、役者を本業としない人物や、ほぼ新人の俳優を多く起用した。その代表例には『戦場のメリークリスマス』に出演した演技力不足のビートたけしや坂本龍一、あるいは『愛のコリーダ』主演の松田暎子が挙げられる。松田英子について大島渚は「心の肌目のキメ細やかさ」が主演採用の理由だと語っている。『無理心中日本の夏』(1967年)ではフーテン族だった桜井啓子を抜擢し、その他にも『日本春歌考』(1967年)では荒木一郎、『新宿泥棒日記』(1967年)では横尾忠則、『帰ってきたヨッパライ』(1968年)ではザ・フォーク・クルセダーズ、『夏の妹』(1972年)では新人の栗田ひろみを起用した。1950年代後半から人気ファッションモデルとして活動していた芳村真理に女優への転向を促したのも大島であった。大島は映画に起用したいタイプとして、一に素人、二に歌手、少し離れてスター、新劇俳優は十番目と著書の中で語っている。 影響大島に影響を受けた映画監督はテオ・アンゲロプロスやベルナルド・ベルトルッチ、アレクサンドル・ソクーロフ、マーティン・スコセッシ、ペドロ・アルモドバル、チェン・カイコー、アン・リーなど世界中に存在する。『戦場のメリークリスマス』に出演し、後に映画監督となった北野武も大島の影響を公言している。 また、ジャン=リュック・ゴダールは『ゴダールの映画史』(1998年)において溝口健二、小津安二郎、勅使河原宏とともに大島を取り上げた。また、ゴダールは本当の意味でのヌーヴェルヴァーグの最初の作品は『青春残酷物語』(1960年)であるとしている。 人物人柄・思想70年代の年末、若松孝二の自宅を訪問した際、大島の帰宅後玄関先に封筒が置かれていたので若松が中を見ると、30万円が入っていたという。このように大島には情に厚い部分と細かい気配りが見られた。 「EXテレビ」において小田実らに対し「ばかやろう」と発言し、話題になったことが複数回ある。 1990年10月23日(火曜日)、結婚30周年パーティーを開いた際、大島は壇上で祝辞を述べる予定だった野坂昭如の名前を読み上げるのを忘れ、何時間も待たされる内に酩酊していた野坂に、祝辞を読み終えた直後に左頬を殴られた。口を切り、眼鏡が吹っ飛んだ大島は持っていたマイクで野坂の頭を2発殴り返して応戦した。後に2人は互いに反省文を書いて送り合った。この乱闘騒ぎについて、妻の小山は「お互いの存在を認め、これまで以上に交流が深まった」、「どちらも大酒飲みで、やりたいことを貫いて生き抜いた。スケールの大きな男たちだった」と述懐した。 京都大学在学中には学生運動を経験し、安保反対と米軍撤退を主張していた。西山事件(1971年)については「言論の自由というような抽象的な問題に立戻ってはいけない。佐藤首相の人間的反応にふりまわされてはいけない。問題は、あくまで佐藤内閣が私たちに何をしたかだ」と述べた。 映画監督には珍しく多くの著作を残している。息子の大島新は「文章も論理的でうまく、小説家や新聞記者になっていてもおかしくない。」として評価している。 2024/06/23 18:49更新
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ooshima nagisa
大島渚と同じ誕生日3月31日生まれ、同じ京都出身の人
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