河口俊彦の情報(かわぐちとしひこ) 将棋 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png?)
河口 俊彦さんについて調べます
■名前・氏名 |
河口俊彦と関係のある人
大山康晴: 一方、河口俊彦は、毎日新聞社が、朝日新聞社の嘱託棋士であった升田に悪意のある仕打ちをしていたというのは、升田の考えすぎであろう、という趣旨を述べている。 森安秀光: 河口俊彦によると、第43期名人戦挑戦者決定リーグ最終戦で米長に敗れた後、森安は「どうして米長さんは僕をいじめるんだ」と言ったという。 大山康晴: 同じく河口俊彦は、当時の大山に勝てる棋士は関西に存在せず(升田幸三・七段は、昭和18年11月に二度目の召集を受けて出征していた)、そもそも、死にに行く出征棋士に勝とうなどと思う棋士がいる訳もなく、大山が1敗を喫したのは不思議である。 先崎学: 結果こそ行方の圧勝で意地を見せることは出来なかったが、直後に河口俊彦が両者を酒席に誘い、仲直りはできたという。 佐藤大五郎: 昔ながらの豪傑風の「将棋指し」の代表格としてよく河口俊彦の著書などにその言行が引用される。 東公平: 1987年、河口俊彦らと「将棋ペンクラブ」を創設。 大山康晴: 大山が1992年に死去した後、藤井猛が大山の棋譜を徹底的に研究して藤井システムを創案し、それを駆使して1998年度に初タイトルとなる竜王を獲得した際に、藤井の将棋と大山の将棋が酷似していると感じた米長邦雄は、「嫌な者」(大山)が生き返ってきたかのようだ、という趣旨の発言をしたという(河口俊彦による)。 先崎学: 森は河口俊彦に理由を聞かされるまで、何かやらかして師匠の米長に説教されたものと思っていた。 大山康晴: 河口俊彦は、大山も何もしなくても七段に昇段できたはずなのに、あくまでも実力での昇段を望んだのは、真の将棋指しであった大山の人柄を表している、と評している。 塚田正夫: 河口俊彦は、塚田の人柄を下記のように評している。 丸田祐三: 1961年(昭和36年)度の名人戦(大山康晴名人に挑戦して1勝4敗で敗退)の第4局(丸田が勝利)について、記録係を務めた河口俊彦は、序盤・中盤・終盤と完璧な指し回しであり、丸田の強さに瞠目した、と評している。 土佐浩司: 大野八一雄七段や河口俊彦七段らと将棋会館の五階で囲碁を打つこともあった(1995年1月川口篤(当時)「対局日誌」)。 先崎学: 河口俊彦が『将棋マガジン』『将棋世界』で約30年続けた名連載「対局日誌」の終了を受けて、2006年8月号から2008年8月号まで「先崎版・対局日誌」とでも言うべき「千駄ヶ谷市場」を連載していた(2009年1月号より野月浩貴が引き継いだ形で『熱局探訪』の連載を開始している)。 桐山清澄: 代表する得意戦法も挙げにくいので、川口篤(河口俊彦六段・当時)は「桐山将棋を語るのはなかなか難しい。 丸田祐三: 河口俊彦は「不朽の定跡」と評している。 大崎善生: 1991年に『将棋世界』編集長となり、真部一男「将棋論考」、河口俊彦「新・対局日誌」などを企画する。 |
河口俊彦の情報まとめ
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
河口 俊彦(かわぐち としひこ)さんの誕生日は1936年11月23日です。神奈川出身の将棋棋士のようです。
![もしもしロボ](../image/robo_message_s.png)
著述活動、人物などについてまとめました。引退、現在、テレビ、趣味に関する情報もありますね。78歳で亡くなられているようです。
河口俊彦のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)河口 俊彦(かわぐち としひこ、1936年11月23日 - 2015年1月30日)は、将棋棋士。2002年、引退。将棋ライター。神奈川県横須賀市出身。小堀清一九段門下。棋士番号95。 奨励会に16年在籍し、30歳でようやく四段に昇段しプロ棋士となった。これを機に奨励会在籍に年齢制限が設けられたこともあり、長い間最長記録となっていた(奨励会の在籍年数は、1992年に伊藤能が17年という新記録を作りこれを超えた)。 1971年度(第13期)王位戦予選では、当時A級に在位していた加藤一二三を、1975年度(第8回)早指し戦予選では元名人の塚田正夫を、第1回(1982年度)全日プロ2回戦では名人失冠直後で王位のタイトルを有していた中原誠を、それぞれ破る殊勲を挙げた。 河口には棋戦優勝・タイトル挑戦など、卓越した実績はないものの、順位戦では参加10期目となる1976年度(第36期)昇降級リーグ戦4組(現在のC級2組に該当)で8勝2敗(33名中2位)の好成績を収め、41歳の高齢で昇級を決める。以降19期にわたりC級1組に在籍し続けた。 C級1組在籍2期目で迎えた1978年度(第38期)順位戦では、前期からの連続昇級を遂げた谷川浩司に当期順位戦における唯一の黒星を喫させた。 難関と言われた十段戦の予選準決勝まで進んだことが2回ある(第14期、第18期)。 2002年3月に現役を引退し、将棋関係の著述に専念。 2015年1月30日、腹部大動脈瘤のため死去。78歳没。没後、日本将棋連盟より、八段を追贈される。 第4回早指し将棋選手権(1回戦で北村昌男に勝利) 第1回オールスター勝ち抜き戦 第12回早指し将棋選手権(1回戦で丸田祐三に勝利) 第6回名将戦 第3回オールスター勝ち抜き戦 第14回早指し将棋選手権 第31回NHK杯テレビ将棋トーナメント(1回戦で小林健二に勝利) 第8回オールスター勝ち抜き戦 第10回オールスター勝ち抜き戦 第40回NHK杯テレビ将棋トーナメント 著述活動現役棋士時代から将棋観戦記、エッセイなどで活躍。一般に報道されない日々の対局の模様を将棋棋士の生きかたを含めて活き活きと描いた「対局日誌」をペンネーム・川口篤(当時)で「将棋マガジン」誌に1978年2月の創刊号から連載を開始し注目される。その後、いったん連載を中止するが、「将棋世界」誌に1995年1月から「新・対局日誌」として再度掲載、2006年7月号まで30年近くにわたる連載となった。文章は自然でありながら、対局場面や心理描写が的確にかつ詳細に記述されており、連載が長期間続いたことからも分かるとおり、高い評価を得ていた。 1987年、東公平らと「将棋ペンクラブ」を創設。初代会長をつとめた。 棋士や将棋記者からは「老師」と呼ばれることがある。 将棋の著述活動の功績により引退後に将棋大賞(東京記者会賞)を受賞している。また大山康晴と周辺の人物を描いた「大山康晴の晩節」で将棋ペンクラブ大賞を受賞した。 人物趣味は囲碁で、真部一男によると将棋界でもかなりの打ち手とされている。アマチュアの神奈川県代表となったこともある(ちなみに囲碁の強い棋士としては河口、真部の他、花村元司、大山康晴、升田幸三、北村文男(囲碁・将棋双方のプロだった)、丸田祐三、佐藤庄平、二上達也らが挙げられる。現役では土佐浩司の他、囲碁部が結成され活動している)。 観戦していた対局が終了した後に対局者たちと早朝まで酒場ですごす場面が著作に多く描かれているが、本人は下戸で、アルコールは飲めない体質だった。 2024/06/19 15:32更新
|
kawaguchi toshihiko
河口俊彦と同じ誕生日11月23日生まれ、同じ神奈川出身の人
TOPニュース
Hey! Say! JUMPの有岡大貴と松岡茉優が結婚を発表
NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に
King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表
平野紫耀、神宮寺勇太、岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。
元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕
河口俊彦と近い名前の人
話題のアホネイター
![河口俊彦](https://if2.info/geinou/logo/河口俊彦.gif)
最近追加された芸能人・有名人
りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「河口俊彦」を素材として二次利用しています。