河野旭輝の情報(こうのあきてる) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
河野 旭輝さんについて調べます
■名前・氏名 |
河野旭輝と関係のある人
柳田真宏: 初出場:1967年6月15日、対南海ホークス11回戦(平和台野球場)、8回裏に河野旭輝の代打で出場 岡嶋博治: その後もレギュラーとして起用されるが、1961年河野旭輝との交換トレードで、阪急ブレーブスへ移籍。 西本幸雄: しかし、岡野は一方で河野旭輝を中心とする有力選手をたびたび自宅に招いて宴席を設けていた。 川藤幸三: 1991年には一軍総合コーチに昇格するが、同年の総合コーチについてもチーフコーチとして河野旭輝がいたために違和感を持たれた。 ロベルト=バルボン: バルボンはこの頃の正遊撃手であった河野旭輝と、守備では二遊間を組んで見事な併殺網を敷き、打撃では一・二番を組んで二人ともよく走って、当時弱かった阪急の看板になった。 水上善雄: 1976年は代走中心だったが、河野旭輝内野守備・走塁コーチの指導により2・3年目と守備固めの出場機会を増やした。 ロベルト=バルボン: 名付け主は阪急時代のチームメイト河野旭輝との記述もあるが、本人は「チームメイトが名前を言いにくそうだったので、自分からチコと呼ばせた」と語っている。 |
河野旭輝の情報まとめ
河野 旭輝(こうの あきてる)さんの誕生日は1935年1月1日です。和歌山出身の野球選手のようです。
現在、引退に関する情報もありますね。2014年に亡くなられているようです。
河野旭輝のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 河野 旭輝(こうの あきてる、1935年1月1日 - 2014年1月25日)は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手(内野手、外野手)・コーチ・監督。 1956年に年間85盗塁を記録し、当時の日本記録を樹立。同年の最多盗塁死29はその後破られていない。セ・パ両リーグで盗塁王を獲得した唯一の人物である。 和歌山工業から松下電器に入社し、1953年の都市対抗にチームとしての初出場を果たす。 1954年に阪急ブレーブスへ入団し、1年目の同年は開幕から二塁手に抜擢され定位置を獲得。2年目の1955年には、前年の首位打者で帰国したラリー・レインズの後継として遊撃手に回り、初めて規定打席(リーグ15位、打率.283)に到達した。3年目の1956年に85盗塁を記録し、盗塁王に輝く。この記録は1972年に後輩・福本豊に抜かされるまで日本記録であった(現在4番目の記録で福本を除けば1番目である)。1957年はロベルト・バルボンと一、二番を組み、56盗塁で2年連続の盗塁王を獲得。河野の後に盗塁王を3度獲得したバルボンは、プレースタイルや日本での生活の手本のほとんどを2歳下の河野に求めていた。バルボンは後年「河野さんは、ボクのティーチャーです。恩人です。河野さん親切にしてくれたから、ボク日本におれたと思うわ、ホンマ」と振り返っている。1958年に本屋敷錦吾の入団で三塁手に回るも、人見武雄との競争に敗れ行き場を失うが、1959年には中堅手にコンバートされ復活した。1961年に岡嶋博治との交換トレードで中日ドラゴンズへ移籍すると、同年にはチャンスメーカーとしてリーグ8位の打率.275を記録し、遊撃手のベストナインを獲得。1962年には再び自慢の俊足で3回目の盗塁王を獲得するが、セ・パ両リーグで盗塁王を獲得したのは河野だけである。1963年も自己最高でリーグ8位の打率.294を記録し、1964年に牧田政彦との交換トレードで阪急へ復帰。阪神に移籍した本屋敷に代わり、2年間はレギュラー遊撃手として活躍するが、1966年に山口富士雄に定位置を譲る。1967年に西鉄ライオンズへ移籍し、同年限りで現役を引退。 引退後は西鉄(1968年 - 1969年一軍打撃コーチ)、ヤクルト(1972年 - 1973年一軍内野守備コーチ, 1984年一軍内野守備・走塁コーチ)、日本ハム(1974年 - 1975年一軍守備・走塁コーチ)、ロッテ(1976年 - 1980年一軍内野守備・走塁コーチ)、阪神(1981年 - 1983年一軍内野守備コーチ, 1985年 - 1986年二軍守備・走塁コーチ→1987年二軍総括守備・走塁コーチ, 1988年・1992年 - 1994年二軍監督, 1989年 - 1991年チーフコーチ)で監督・コーチを歴任。 1回目のヤクルトコーチ就任はヘッドコーチの中西太の推薦で就任した。日本ハムコーチ時の監督は中西だった。ロッテコーチ時代は朝に一番乗りして、遅くまで落合博満の練習に付き合った。最初はノックを打っているが、そのうちグラブを手に実演を始め、後に落合は「打球をさばく一連の動きは、レギュラーを張っているどんな選手よりも美しかった」と絶賛。河野を「守備の師匠」と呼び、講演などでは「河野さんに守備、走塁を基本から学んだ。素晴らしいコーチだった」と語り、著書にも記している。中日監督時代に荒木雅博・井端弘和のコンビを育てたノックは河野流であったが、阪神時代に指導を受けた岡田彰布も河野のノックを懐かしんでいた。水上善雄の派手だが雑であった守備も、雑な部分を徹底的に指導し、徐々に丁寧な捕球が出来るようにした。阪神2軍監督時代コーチだった柏原純一は「コーチとしてイロハを教えてくれる人もいた。2軍監督だった河野旭輝さんと出会えたのも自分の財産になった。コーチなりたての頃は、現役の気分も残っているから、担当外の守備だったり、投手のことにまで口を出したくなる。「こうしたらいい」とか言ってみたくなるんだ。そこを注意してくれたのが河野さんだった。みんなに分からないように呼び出して「言いたいことは分かる。間違ってもいない。」と認めた上で「でも、その場で言っちゃいけない。それぞれ立場もあるんだ。これからは気づいたことがあったら、私に言ってきなさい。」と指導してくれた。社会人として、組織の一員としての心構えを教えてくれた。感謝している。」と述べている。 阪神退団後は社会人軟式野球の強豪である大阪市信用金庫アドバイザーも務めた。 2014年1月25日死去。 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB記録 盗塁王:3回 (1956年、1957年、1962年) ※両リーグでの獲得は史上唯一、5年のブランク受賞は同賞史上最長タイ(他に柴田勲、高橋慶彦、石井琢朗) ベストナイン:1回 (1961年) 初出場:1954年3月27日、対高橋ユニオンズ1回戦(西宮球場) 1000試合出場:1962年9月6日 ※史上77人目 11 (1954年 - 1960年) 12 (1961年 - 1963年、1965年途中 - 1966年) 5 (1964年 - 1965年途中) 9 (1967年) 50 (1968年 - 1969年) 63 (1972年 - 1973年) 62 (1974年 - 1975年) 83 (1976年 - 1980年) 82 (1981年 - 1983年) 67 (1984年) 77 (1985年 - 1987年) 80 (1988年 - 1994年) ^ “OB NEWS Vol.62” (PDF). 公益社団法人全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ) (2014年7月). 2015年7月5日閲覧。 ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、214ページ ^ 日本野球機構 |歴代最高記録 ^ “糸井、阪神でもハッピーになる!両リーグ盗塁王で来季も晴れ舞台へ”. サンスポ. (2016年11月29日). https://www.sanspo.com/article/20161129-GLBFMPJSFZML5C2KRBUGV5QQKE/3/ 2020年2月22日閲覧。 ^ #助っ人列伝 p.181,183 ^ 徳永喜男著『ヤクルトスワローズ球団史』、ベースボールマガジン社、1992年、P207 ^ 【内田雅也の追球】野球人が懐かしむノック 8年前に旅立った河野旭輝さんサンケイスポーツ ^ 中日・大島が達成の250盗塁…竜第1号は唯一の両リーグ盗塁王・河野旭輝「守備の弟子」落合が動きの美しさ絶賛 ^ “水上善雄 長髪に隠されたホンモノの闘志/プロ野球1980年代の名選手 | 野球コラム”. 週刊ベースボール ONLINE (2019年5月30日). 2021年7月31日閲覧。 ^ スポーツニッポン2022年3月26日11版、柏原純一の我が道㉕、引退と同時、フロリダでコーチ修行 文藝春秋(編)『プロ野球意外史 助っ人列伝』文春文庫ビジュアル版、1987年。ISBN 4-16-810806-6。 和歌山県出身の人物一覧 オリックス・バファローズの選手一覧 中日ドラゴンズの選手一覧 埼玉西武ライオンズの選手一覧 個人年度別成績 河野旭輝 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 1950 木塚忠助 1951 木塚忠助 1952 木塚忠助 1953 L.レインズ 1954 鈴木武 1955 森下正夫 1956 河野旭輝 1957 河野旭輝 1958 R.バルボン 1959 R.バルボン 1960 R.バルボン 1961 広瀬叔功 1962 広瀬叔功 1963 広瀬叔功 1964 広瀬叔功 1965 広瀬叔功 1966 山本公士 1967 西田孝之 1968 安井智規 1969 阪本敏三 1970 福本豊 1971 福本豊 1972 福本豊 1973 福本豊 1974 福本豊 1975 福本豊 1976 福本豊 1977 福本豊 1978 福本豊 1979 福本豊 1980 福本豊 1981 福本豊 1982 福本豊 1983 大石大二郎 1984 大石大二郎 1985 松永浩美 1986 西村徳文 1987 西村徳文, 大石第二朗 1988 西村徳文 1989 西村徳文 1990 秋山幸二 1991 大野久 1992 佐々木誠 1993 大石大二郎 1994 佐々木誠 1995 イチロー 1996 村松有人 1997 松井稼頭央 1998 松井稼頭央, 小坂誠 1999 松井稼頭央 2000 小坂誠 2001 井口資仁 2002 谷佳知 2003 井口資仁 2004 川﨑宗則 2005 西岡剛 2006 西岡剛 2007 片岡易之 2008 片岡易之 2009 片岡易之 2010 本多雄一, 片岡易之 2011 本多雄一 2012 聖澤諒 2013 陽岱鋼 2014 西川遥輝 2015 中島卓也 2016 金子侑司, 糸井嘉男 2017 西川遥輝 2018 西川遥輝 2019 金子侑司 2020 周東佑京 2021 源田壮亮, 荻野貴司, 和田康士朗, 西川遥輝 2022 髙部瑛斗 2023 周東佑京, 小深田大翔 2024 周東佑京 表 話 編 歴 1950 金山次郎 1951 土屋五郎 1952 金山次郎 1953 金山次郎 1954 吉田義男 1955 本多逸郎 1956 吉田義男 1957 飯田徳治 1958 岡嶋博治 1959 岡嶋博治 1960 中利夫 1961 近藤和彦 1962 河野旭輝 1963 高木守道 1964 古葉竹識 1965 高木守道 1966 柴田勲 1967 柴田勲 1968 古葉竹識 1969 柴田勲 1970 東条文博 1971 高田繁 1972 柴田勲 1973 高木守道 1974 中塚政幸 1975 大下剛史 1976 衣笠祥雄 1977 柴田勲 1978 柴田勲 1979 高橋慶彦 1980 高橋慶彦 1981 青木実 1982 松本匡史 1983 松本匡史 1984 高木豊 1985 高橋慶彦 1986 屋鋪要, 平野謙 1987 屋鋪要 1988 屋鋪要 1989 正田耕三 1990 緒方耕一, 野村謙二郎 1991 野村謙二郎 1992 飯田哲也 1993 緒方耕一, 石井琢朗 1994 野村謙二郎 1995 緒方孝市 1996 緒方孝市 1997 緒方孝市 1998 石井琢朗 1999 石井琢朗 2000 石井琢朗 2001 赤星憲広 2002 赤星憲広 2003 赤星憲広 2004 赤星憲広 2005 赤星憲広 2006 青木宣親 2007 荒木雅博 2008 福地寿樹 2009 福地寿樹 2010 梵英心 2011 藤村大介 2012 大島洋平 2013 丸佳浩 2014 梶谷隆幸 2015 山田哲人 2016 山田哲人 2017 田中広輔 2018 山田哲人 2019 近本光司 2020 近本光司 2021 中野拓夢 2022 近本光司 2023 近本光司 2024 近本光司 表 話 編 歴 投 権藤博 捕 森昌彦 一 藤本勝巳 二 土屋正孝 三 長嶋茂雄 遊 河野旭輝 外 江藤慎一 / 近藤和彦 / 森永勝治 日本の野球選手 パナソニック野球部及びその前身チームの選手 オリックス・バファローズ及びその前身球団の選手 中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手 埼玉西武ライオンズ及びその前身球団の選手 東京ヤクルトスワローズ関連人物 北海道日本ハムファイターズ関連人物 千葉ロッテマリーンズ関連人物 阪神タイガース関連人物 日本の野球監督 盗塁王 (NPB) 和歌山県立和歌山工業高等学校出身の人物 和歌山県出身の人物 1935年生 2014年没 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/20 14:22更新
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kouno akiteru
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