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渋沢栄一の情報 (しぶさわえいいち)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月18日】今日誕生日の芸能人・有名人

渋沢栄一の情報(しぶさわえいいち) 実業家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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渋沢 栄一さんについて調べます

■名前・氏名
渋沢 栄一
(読み:しぶさわ えいいち)
■職業
実業家
■渋沢栄一の誕生日・生年月日
1840年3月16日 (年齢91歳没)
子年(ねずみ年)、魚座(うお座)
■出身地・都道府県
埼玉出身

渋沢栄一と同じ1840年生まれの有名人・芸能人

渋沢栄一と同じ3月16日生まれの有名人・芸能人

渋沢栄一と同じ出身地埼玉県生まれの有名人・芸能人


渋沢栄一と関係のある人

柴俊夫: 雄気堂々 若き日の渋沢栄一 (1982年、NHK) - 渋沢喜作


松下砂稚子: 雄気堂々・若き日の渋沢栄一(1982年、NHK)


三島通庸: 5月、織田完之らが進める千葉県の印旛沼開削計画のために設立された大明会の発起人の一人として、渋沢栄一らとともに名を連ねた。


大佛次郎: 若き日の渋沢栄一をえがく


岸信介: 岸は首相在任中ノーベル平和賞候補に推され、有賀長雄、渋沢栄一、賀川豊彦に続いて4人目のノーベル平和賞日本人候補者となった(母親が日本人のクーデンホーフ=カレルギー伯爵は除く)。


大倉喜八郎: この時、東京府知事・楠本正隆の要請で渋沢栄一も肝煎となり、以後50年に及ぶ親交を持つ。


渋沢敬三: 1925年(大正14年) - 長男・渋沢雅英(渋沢栄一記念財団相談役(初代理事長)、MRAハウス理事)誕生。


倉田雲平: “月星ゴム(株)『月星ゴム90年史 : 明治6年創業』(1967.10) - 2”. 公益財団法人 渋沢栄一記念財団. 2021年7月11日閲覧。


鳥羽博道: 深谷市出身の渋沢栄一を顕彰するため、2020年7月より渋沢栄一記念館で公開されている渋沢栄一アンドロイドの開発などの費用(約4,000万円)を寄贈した。


藤居寛: このほか財団法人日本交通公社評議員、学校法人杏林学園評議員、財団法人渋沢栄一記念財団評議員、米国財団法人国際平和文化センター名誉特別講師等も務めた。


長谷川一夫: 昭和初期に小林一三、渋沢栄一に呼ばれ、「洋楽が入った歌舞伎調の芝居をやってほしい」と頼まれ、結成したのが新演伎座である。


高峰譲吉: 高峰は当初、東京人造肥料会社の株主であった渋沢栄一に止めるように言われ、渡米を渋っていたが、益田孝の強い勧めもあって、渡米を決意する。


童門冬二: 『渋沢栄一人間の礎』経済界 1991 のち学陽書房人物文庫 


大久保利通: 渋沢栄一


大江志乃夫: 渋沢栄一・杉浦譲共著「航西日記 パリ万国博見聞録」-『世界ノンフィクション全集14』(筑摩書房)1962/改訂新版・講談社学術文庫、2024。


イヲリ: 33歳の決断で有名企業500社を育てた渋沢栄一の折れない心を作る33の教え(2021年)


奥野宣之: 『抄訳 渋沢栄一 『至誠と努力』』 実業之日本社


成瀬仁蔵: 1912年(明治45年)6月、渋沢栄一、森村市左衛門、姉崎正治らと共に帰一協会を設立する。


渋澤健: 公益財団法人渋沢栄一記念財団非常勤理事、日本医療政策機構理事、認定NPO法人健康医療評価研究機構理事、日本ファンドレイジング協会理事、日印協会評議員などを歴任した。


三島通庸: なお、2月から4月まで折田の下で学んでいた渋沢栄一の面識を得ている。


諸井三郎: また、恒平は実業家渋沢栄一・尾高惇忠の縁者であり、さらに実業家尾高次郎の孫の会計学者諸井勝之助が貫一の婿養子となっており、三郎は作曲家・指揮者の尾高尚忠・惇忠・忠明一家とも縁戚関係にある。


平野富二: この改組は渋沢栄一の支援も受け、渋沢も経営陣に加わった。


芳賀矢一: 穂積と尾高は共に渋沢栄一の孫である。


平岡凞: 公益財団法人渋沢栄一記念財団. “汽車・自動車製造業|渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団”. 渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図


白井悠介: 明治東亰恋伽(渋沢栄一


諸井虔: 祖父 諸井恒平(実業家・秩父セメント創業者) - 恒平の母・佐久が実業家渋沢栄一のおばにあたり渋沢家の出身。


板垣退助: — 渋沢栄一著『徳川慶喜公傳(4)』267-268頁


尾高忠明: 2021年:尾高の曾祖父渋沢栄一がが主人公の大河ドラマ「青天を衝け」のテーマ曲の指揮を担当する。


田口卯吉: 尺振八の私立共立学舎に入学し、翌明治5年(1872年)に大蔵大輔井上馨と渋沢栄一が人材育成機関として構想した大蔵省翻訳局が発足し、乙骨や尺が登用されると島田とともに応募し上等生徒となる。


水野錬太郎: 神田の共立学校を経て、大学予備門(のちの一髙)に入学、帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を明治25年に卒業、穂積陳重教授の推薦で渋沢栄一の第一銀行に就職するが、明治26年梅謙次郎教授の勧誘により農商務省鉱山局に入る。


渋沢栄一の情報まとめ

もしもしロボ

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち)さんの誕生日は1840年3月16日です。埼玉出身の実業家のようです。

もしもしロボ

名前、人物と思想などについてまとめました。結婚、兄弟、事件、現在、引退に関する情報もありますね。91歳で亡くなられているようです。

渋沢栄一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体:澁澤 榮一、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)は、日本の実業家。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。

江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり、明治政府では官僚も務めた。民部省を経て直属の上司である大蔵大輔と井上馨の下で大蔵少輔、吉田清成らと共に造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。

井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった。そのうち企業は約500社 にもおよび、「日本資本主義の父」 と称され、実業家の肥田理吉(肥田琢司の弟)らと日本経済の在り方を論じた。

同時に東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会、聖路加国際病院等の医療事業、東京大学文学部新聞研究室(現:東京大学大学院情報学環教育部)、商法講習所(現:一橋大学)、大倉商業学校(現:東京経済大学)、高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)等の実業教育、東京女学館などの女子教育、台湾協会学校(現:拓殖大学)の設立、二松學舍(現:二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。また『論語と算盤』の言葉に代表されるその道徳経済合一の思想でも広く知られている。

武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)に渋沢市郎右衛門(1809年 - 1872年) とゑい(1811年 - 1874年)の姉と妹を持つ長男として天保11年(1840年)2月13日に誕生した。

渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営して米、麦、野菜の生産も手がける百姓だった。原料の買い入れから製造、販売までを担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。栄一も父と共に信州や上州まで製品の藍玉を売り歩くほか、原料の藍葉の仕入れ調達にも携わった。14歳の頃からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、こうした経験がヨーロッパ視察時に、近代的な経済システム、諸制度を理解吸収する素地となり、また後の現実的な合理主義思想の形成にも繋がったともいわれる。

一方で、5歳の頃より父から漢籍の手ほどきを受け、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、『論語』を始め四書五経や『日本外史』を学ぶ。剣術は元川越藩剣術師範で近隣に在郷の大川平兵衛より神道無念流を学んだ。安政3年(1856年)16歳の時、領主代官のいる岡部藩の岡部陣屋で御用金の上納を命じられ、大いに反発したと伝わる。安政5年(1858年)18歳の時、惇忠の妹で従妹にあたる尾高千代(1841〜82)と結婚した。

文久元年(1861年)、江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、文久3年(1863年)に共に従兄弟である尾高惇忠や渋沢喜作らと、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州藩と連携して幕府を倒すという計画を立てるが、同じく従兄(惇忠の弟)の尾高長七郎の懸命な説得により中止する。

親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取り、喜作と連れ立って京都に出るが、八月十八日の政変直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により喜作と共に一橋慶喜に仕えることになる。士分となった栄一は篤太夫、喜作は成一郎の通称を名乗る。当時、慶喜は朝議参与として京都に常駐していた。仕官後、慶喜が朝廷から禁裏御守衛総督を拝命するが、御三卿は自前の兵力を持っていないため兵力調達が急務となり、栄一らが一橋家領内を巡回して農兵の募集で手腕を発揮した。

慶応2年(1866年)12月、主君の慶喜が将軍となったことに伴って幕臣となる。フランスの首都パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・清水家当主の徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。その際に通訳兼案内役として同行していたアレクサンダー・フォン・シーボルトより語学や諸外国事情を学び、シーボルトの案内で各地で先進的な産業・諸制度を見聞すると共に、近代社会のありように感銘を受ける。フランス滞在中に、幕府における役職は御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じている。パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学する予定であったが、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、昭武の水戸徳川家相続の件もあり、昭武と共に9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港へ帰国した。

一年半ほどの滞欧中に洋装を整え、当時の日本男子が結っていた髷を切り、送られてきたその写真を見た妻は嘆いたという。渋沢は後年、山高帽をかぶり、それを国産化する日本製帽の操業にも携わり、日本で男性が帽子着用を好む文化の定着に一役買った。この経験を通じ、ヨーロッパ文明に驚き、また、人間平等主義にも感銘を受けた。この見聞した経験が、栄一の人生を大きく変えた。

帰国後、駿府の宝台院(現所在地は静岡市葵区常磐町二丁目)に謹慎していた徳川慶喜と面会し「これからは、お前の道を行きなさい」との言葉を拝受するも旧恩に報いるため、駿府(静岡)に留まり静岡藩に出仕した。静岡ではフランスで学んだ株式会社制度を実践することや、新政府からの借入金返済のために、勘定頭の平岡準に相談し、明治2年(1869年)1月には商法会議所を設立した。この商法会議所では銀行的業務と物産販売を兼ね、小野組で糸店を担う古河市兵衛に取り扱いを依頼することもあった。

1869年(明治2年)10月、明治新政府からの招状が静岡藩庁に届き、栄一は大久保一翁に相談し東京へ向かうと民部省租税正の辞令書を受ける。一度は辞任を決意するも、大隈重信らの説得で11月に出仕する。民部省内に改正掛が置かれると掛長となり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。明治4年(1871年)年7月27日に民部省が大蔵省に統合されることに伴い、芳川顕正紙幣頭の下で大蔵権大丞となり、次いで大蔵大丞となる。1872年(明治5年)には大蔵省三等出仕となり、紙幣寮の頭に就任(同三等出仕は上野景範)。大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と連携して造幣寮の事務に勤しみ、ドイツで印刷された明治通宝(通称「ゲルマン紙幣」)を取り扱ったが、贋札事件の発生も少なくなかった。さらに、同年2月に起きた東京での大火からの再建を大蔵省が主導することとなり、井上馨、東京府参事の三島通庸らとともに煉瓦造りの街並みを計画した。しかし、予算編成を巡って大久保利通や大隈と対立し1873年5月7日、大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と共同で財政改革意見を建議し、建議書を『日新真事誌』などに掲載して論議を喚起した。明治6年(1873年)5月14日に井上馨と共に退官した。

この間、戊辰戦争を旧幕府側で戦い投獄されていた従兄の渋沢喜作の出獄を引き受け、大蔵省への仕官を世話し養蚕製糸事業調査の名目でヨーロッパ視察に送り出している。同じく戊辰戦争を幕府側で戦った従兄の尾高惇忠には富岡製糸場の初代場長として事業立ち上げを託している。

大蔵省を辞職した栄一は、井上馨やアレクサンダー・フォン・シーボルト、その弟のハインリヒ・フォン・シーボルトの協力も得ながら明治6年(1873年)自ら設立を指導した第一国立銀行(後の第一銀行、第一勧業銀行、現:みずほ銀行)の総監役に就任する。大株主の三井組、小野組の頭取2名の上に立って、日本最初の銀行の創業を担う。明治7年(1874年)に二大株主の一つ小野組が破綻したことで、新銀行は経営危機に陥った。三井組は単独経営を志向するが、栄一は小野組の古河市兵衛の誠実な対応にも助けられ、被害を最小限に留め、三井組による銀行経営の独占を退けた。自ら単独の第一銀行頭取となり、公益に資する民間取引を軸に据えた銀行の路線を確立する。財閥の機関銀行的な運営とは一線を画し、新興の商工業者の創業指導や資金支援を積極的に展開する。

また、栄一は全国に設立された多くの国立銀行の指導、支援を第一国立銀行を通じて行った。明治10年(1877年)、宇和島伊達家を主な出資先とする第二十国立銀行(後、第一銀行と合併)の設立には相談役を引受け、最終的には第一銀行が吸収合併して経営を引き取り、その深川支店を栄一自邸跡地に移した。

明治25年(1892年)、小口の貯蓄を集める貯蓄銀行の制度ができると、栄一はじめ第一銀行役員の出資により東京貯蓄銀行(後の協和銀行、現:りそな銀行)を設立し、栄一は取締役会長を務めた。

栄一の郷里の埼玉では、明治26年(1894年)に熊谷銀行(後、武州銀行、埼玉銀行、現:埼玉りそな銀行)の設立発起人、明治32年(1899年)設立の黒須銀行(後、武州銀行、埼玉銀行、現:埼玉りそな銀行)では顧問役を引受けている。栄一の頭取退任後ではあるが大正8年(1919年)の武州銀行設立にあたり、第一銀行は栄一の甥で娘婿の尾高次郎監査役を初代頭取に送り出し、設立を支援した。その後、武州銀行は栄一が設立を支援した熊谷銀行、黒須銀行を合併している。

半官半民の特殊銀行が開設されるようになると、栄一は明治29年(1896年)に日本勧業銀行(後、第一勧業銀行、現:みずほ銀行)、明治33年(1900年)に日本興業銀行(現:みずほ銀行)、北海道拓殖銀行、いずれにおいても設立委員として開業を指導した。

明治6年(1873年)、栄一は大蔵省在職時から計画を練っていた抄紙会社(現:王子ホールディングス、日本製紙)の設立認可を得て経営を始める。同年、東京府の瓦斯掛(現:東京ガス)の委員となりガス事業を計画。明治8年(1875年)に廻米、生糸貿易の澁澤喜作商店の開業を支援。明治9年(1876年)、平野富二の石川島平野造船所(現:IHI、いすゞ自動車、立飛ホールディングス)に対し個人出資や第一国立銀行の融資で創業を支援。同年、秀英舎(現:大日本印刷)の印刷業創業や、『中外物価新報』(現在の『日本経済新聞』)の創刊を支援した。

明治12年(1879年)に東京海上保険会社(現:東京海上日動火災保険)創立発起人および相談役に就き、保険業創業を支援。明治14年(1881年)に日本鉄道会社(現:東日本旅客鉄道)理事委員となり設立に参画。明治15年(1882年)には倉庫会社・均融会社の設立出願総代、監査役。同年、共同運輸会社の創立発起人となり三菱財閥の日本郵船による海運独占に対抗した(後に両社は合併)。さらに同年には東京電灯会社(現:東京電力ホールディングス)発起人、委員、大阪紡績会社(現:東洋紡)発起人および相談役となった。明治16年(1883年)、工部省深川工作分局の浅野総一郎への払下げによる浅野セメント工場(現:太平洋セメント)創業を支援。明治18年(1885年)、ジャパンブリュワリー(現:キリンホールディングス)設立の理事員を務めた。

明治20年(1887年)、清水組(現:清水建設)の後継者が幼少のため相談役に就き経営にあたる。同年、高峰譲吉の東京人造肥料会社(現:日産化学)の起業を創立委員長として支援したほか、東京製綱会社(現:東京製綱)創立委員、日本煉瓦製造会社理事長、東京ホテル(現:帝国ホテル)発起人総代および理事長、札幌麦酒会社委員長、後に札幌麦酒㈱ 取締役会長(現:サッポロホールディングス)、後に大日本麦酒㈱(現:サッポロホールディングス、アサヒグループホールディングス)設立総会議長 取締役、日本土木会社(現:大成建設)発起人総代、委員長。明治21年(1888年)、古河市兵衛の足尾鉱山組合(現:古河機械金属、古河電気工業、富士通、富士電機、横浜ゴム)の設立を支援。明治25年(1892年)、東京帽子(現:オーベクス)取締役会長。明治28年(1895年)東洋経済新報の創刊を支援、日本精糖(現:大日本明治製糖)発起人および取締役。明治29年(1896年)、汽車製造(現:川崎重工業)創立委員および監査役、浦賀船渠(現:住友重機械工業)相談役、東京建物設立発起人を務めた。

栄一は汽車製造だけでなく、日本鉄道など45の鉄道会社の創立・経営に関わった(小川裕夫『渋沢栄一と鉄道』天夢人)。豊島線(現在の山手線の一部)開業前には、目の前を鉄道が通ることによる騒音を嫌って旧主の慶喜が巣鴨から小石川へ転居する一幕もあった。

明治30年(1897年)、澁澤倉庫部(現:澁澤倉庫)を自邸倉庫を使った家業として創業。

明治31年(1898年)、北海道十勝清水町熊牛地区に開墾を目的とした十勝開墾合資会社を設立。明治39年(1906年)、京阪電気鉄道(現:京阪ホールディングス)創立委員長、帝国劇場会社(現:東宝、東京会館)創立委員長。

明治40年(1909年)、日本皮革(現:ニッピ)発起人、相談役。この他にも多種多様な企業の設立や運営に関わった。

明治10年(1877年)に択善会(後に東京銀行集会所、東京銀行協会に発展)を組織して、銀行経営者の連携により、政府に対して各種の提言を実施。明治11年(1878年)には渋沢喜作、大倉喜八郎、三野村利助、益田孝らの財界人を誘い、東京商法会議所(後に東京商工会議所、日本商工会議所に発展)を設立して会頭に就任し、広く商工業者の輿論を形成して多様な財界活動を展開する。広く資本を集め事業を起こす合本主義の考え方を実践するためには、株式市場の創設が必須と明治11年(1878年)、東京株式取引所を設立。当初は債券取引が中心で、株式を公開する企業が少ない中、第一国立銀行の株式を率先して上場した。

明治7年(1874年)より、生活困窮者救済事業である養育院(現:東京都健康長寿医療センター)の運営に携わり、後に事務長、院長に就いた。幼少年や長期療養者ごとの分院や感化が必要な少年への学校を設置する等、終生この事業に係わり運営に心を砕いた。明治10年(1877年)には、佐野常民が西南戦争の傷病兵を敵味方無く救護する目的で博愛社が創立されると社員となり、後に同社が日本赤十字社と改称されると常議員となり、引き続き運営に関わった。明治17年(1884年)に高松凌雲が生活困窮者に無料で診療治療を行う事業のために設立した同愛社の幹事となり事業に協力した。

明治40年(1907年)東京慈恵医院(現:東京慈恵会)の相談役および委員長となり、財団化に尽力する。明治41年(1908年)、癌研究会(現:がん研究会、がん研有明病院)の設立にも尽力して副総裁となる。

明治8年(1875年)、当時は実学教育に関する意識がまだ薄く、実学教育を実施する機関が無い事から森有礼の興した商業講習私塾を東京会議所が所管する商法講習所(のちに東京商科大学を経て、現在の一橋大学)とし、経営委員として運営を支援した。明治14年(1881年)から明治16年(1883年)まで東京大学において自ら講師として日本財政論を講義した。明治21年(1888年)には、工手学校(現:工学院大学)設立に際しても賛助員となり支援を行い、明治33年(1900年)には大倉喜八郎の大倉商業学校(現:東京経済大学)にも創立委員として協するなど実業教育の充実発展を継続して支援した。

まだ男尊女卑の風が強い当時にあっても女子への高等教育の必要性を唱え、明治20年(1887年)には伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立し、これを母体として東京女学館を設立。明治34年(1901年)の日本女子大学創立においても支援を行った。なお実業界引退後はそれぞれ館長、校長も引き受けている。

その他にも栄一は私学設立・運営への協力にも積極的で、明治21年(1888年)には新島襄の同志社の大学設立の基金の募集や管理に尽力。明治31年(1908年)の早稲田大学の理工系への事業拡大計画に際しても、基金管理委員長として協力した。明治33年(1900年)、台湾協会学校(現:拓殖大学)の学校設立委員会委員に就任、学校設立に尽力し、設立後の明治36年(1903年)には大講堂において学生向けに演説を行った記録がある。明治34年(1901年)に朝鮮に開校した日語学校の関城学堂設立に向けての構想を、大日本海外教育会の有力後援者のひとりとして尽力した。

また初代根津嘉一郎が大正11年(1922年)に旧制武蔵高等学校(現・武蔵大学、武蔵高等学校中学校)を創立したのは、先述に述べた渡米実業団への参加を通して、アメリカの実業家が積極的に私財を公共事業に投じる姿勢から、「社会から得た利益は社会に還元する義務がある」と確信したからという。

栄一は国民への娯楽提供や文化・生活水準向上にも意を注いだ。明治23年(1890年)に東京・浅草での「日本パノラマ館」開業を主導した一人であった。また後年、広く利用できる社交の場が必要と東京会館開業(1922年)を後押ししたほか、中流層が都市郊外で自然に触れながら生活できるようにと、パリの凱旋門広場をモデルに放射状・同心円状に区割りした田園調布の開発も進めた。

明治12年(1879年)、前アメリカ合衆国大統領グラント夫妻の訪日に際して東京商法会議所、東京府会に働きかけ、接待委員会を組織。福地源一郎と共同で接待委員総代を務めて歓迎行事を準備し、飛鳥山の自邸(迎賓接待用の別邸)でも歓迎会を実施した。明治14年(1881年)にはハワイ王国のカラカウア王の招待会を飛鳥山邸にて開催した。

明治26年(1893年)、栄一は海外からの賓客に対応するための組織として「貴賓会」を設立して幹事長となる。こうした事業は1912年のジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTB)設立に繋がる。明治31年(1898年)、大韓帝国(韓国)を実地視察、韓国皇帝高宗に謁見。韓国のインフラ整備を支援し近代化を進め、両国間の貿易を通じて、善隣友好関係を結ぼうとの考えから、京釜鉄道、京仁鉄道の敷設に尽力。

明治35年(1902年)に米欧を実地視察し、各地の商工会議所メンバーと交流したほか、セオドア・ルーズベルト米国大統領とも会談。明治36年(1903年)、大隈重信らと共に日印協会の設立に携わる。後に実業界引退後は第三代会長も務めた。明治41年(1908年)、キリスト教系慈善団体の救世軍創設者のウィリアム・ブース来日時には、飛鳥山邸で歓迎午餐会を開いた。

明治42年(1909年)6月6日に数え70歳の古稀に達し、実業界からの引退を表明。第一銀行と東京貯蓄銀行(第一銀行系の貯蓄銀行)を除く61の会社役員を辞任した。銀行経営は後継者の佐々木勇之介が担い、栄一は民間外交や教育、福祉、医療等に軸足を移した。大正5年(1916年)、数え77歳の喜寿には第一銀行頭取も辞任している。その後は社会事業や道徳普及運動、民間外交などに注力していく。1912年には帰一協会の発起人の一人となった。

明治42年(1909年)に渡米実業団を組織し団長として、全国の商業会議所会頭を率いて訪米。ウィリアム・タフト大統領と会見する他、3ヵ月かけてアメリカ各地を訪ね、貿易摩擦の解消、相互理解の進展に努めた。明治45年(1912年)にはニューヨーク日本協会協賛会を創立して名誉委員長を引き受けた。同年のアメリカ・カリフォルニア州における外人土地所有禁止法に見られる排日(日本移民排斥)運動などに対し、アメリカ人の対日理解促進のためアメリカ報道機関へ日本のニュースを伝える通信社の設立を提案した。ロイターの障壁は厚かったが、設立した国際通信社は現在の時事通信社、共同通信社の起源となった。

大正2年(1913年)に来日した中華民国国民党党首孫文を民間を代表して出迎える。大正3年(1914年)には、日中経済界の提携のため中国を訪問した。

大正4年(1915年)、パナマ太平洋博覧会のため渡米して各地を歴訪し、ウィルソン大統領と会見した。大正5年(1916年)には日米関係委員会を発足させて常務委員に就任。大正6年(1917年)には日米協会を創立して名誉副会長就任。第一次世界大戦後の大正9年(1920年)には国際連盟協会を創立して会長に就任。大正10年(1921年)、ワシントン軍縮会議出席のため訪米し、ウォレン・ハーディング大統領と会見した。

大正13年(1924年)、栄一はポール・クローデル駐日フランス大使と協力して日仏交流の拠点として日仏会館を発足させ、理事長となる。大正15年(1926年)には日本太平洋問題調査会を創立して評議員会会長となった。昭和2年(1927年)、日本国際児童親善会を設立し、アメリカの人形(青い目の人形)と日本人形(市松人形)を交換し、親善交流を深めることに尽力している。昭和6年(1931年)には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金募集に尽力した。

栄一は1926年(大正15年)と1927年(昭和2年)のノーベル平和賞の候補にもなっている。

明治42年(1909年)、栄一は東京商科大学の申酉事件の調停を行い、東京大学への統合から同大学を守り、後援組織としての如水会の名誉会員となる。大正3年(1914年)、高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)の設立に際して評議員として協力、実業教育発展への思いを持ち続けた。

大正8年(1919年)、栄一に『論語』を講じた三島中洲没後、三島が創立した二松学舎の舎長、理事に就任する。大正10年(1921年)私塾 国士舘(現・国士舘大学)の維持委員に就任した。

女子教育についても、大正13年(1924年)に東京女学館館長、昭和6年に(1931年)日本女子大学校長と、創立から関わった2校のトップも引き受けている。

明治44年(1911年)、済生会の寄附金募集世話人、顧問、評議員となり恩賜財団設立に尽力。大正2年(1913年)、北里柴三郎の日本結核予防協会に評議員として協力。大正3年(1914年)、聖路加国際病院の評議会副会長、会計監督に就く。大正9年(1920年)には知的障がい児の保護教育事業を行なう滝乃川学園の理事長に就任した。

大正末から昭和初期にかけて、聖路加国際病院評議会会長を務め、病院の発展のために院長のルドルフ・トイスラーと病院を熱心に支援した。

明治42年(1909年)5月30日、嘉納治五郎が運営する柔道の総本山・講道館の財団法人化に際し、推されて監事となる。以降、栄一は没するまで終身、講道館監事を務める。

大正6年(1917年)、自然科学の研究機関である理化学研究所(理研)設立に際し設立者総代となる。大正7年(1918年)、旧主慶喜の事績を正確に後世に伝えたいとの思いから『徳川慶喜公傳』を龍門社より刊行。大正7年(1918年)、田園都市株式会社設立(現:東急電鉄)の発起人となり、都市近郊の住宅開発の事業化を後援した。

大正8年(1919年)、労働争議の活発化が想定される中、労使協調を推進するための官民組織として「協調会」を設立し副会長となる。大正12年(1923年)、漢学振興を目的に帝国議会で設立が決議された大東文化協会(現:大東文化大学)の評議員に就任。

栄一は大正12年(1923年)の関東大震災に際し、政府や東京市に臨時対応を献策しつつ、自ら被災者に供給するための食糧を自費で近県から取り寄せ配給を行った。協調会を通じた罹災者収容、炊き出し、災害情報板設置、臨時病院確保等の対策を実行。また救済事業資金調達のため、大震災善後会を結成して義援金集めにも奔走し、栄一と交流のあったアメリカの実業家からも多くの義援金が寄せられた。政府帝都復興審議会の委員にも就き、議論をリードし復興都市計画をまとめる事にも尽力した。

昭和6年(1931年)11月11日、栄一は老衰の為死去した。享年92(91歳没)。

栄一は数カ月前より大腸狭窄症を発症しており、10月には自邸で開腹手術を受けていた。栄一の逝去の報に接し、弔問の客がひきもきらなかったと伝えられている。当日午後には昭和天皇の勅使、香淳皇后と貞明皇太后の使者が差し遣わされた。

14日、通夜に際しても勅使、御使が遣わされ、栄一の事績を称えた御沙汰書が下賜された。栄一の葬儀は15日に青山葬儀場にて執り行われ、飛鳥山邸から青山までの葬送の列を沿道で多くの人が見送った。

法名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。墓所は谷中霊園渋沢家墓地。

名前

幼名は市三郎、栄二郎、栄次郎もしくは栄治郎。のちに美雄、栄一郎、仁栄、篤太夫、篤太郎などと名乗る。栄一の読みが「ひでかず」とされることもある。尾高惇忠から青淵の号をもらい、生涯用いた。

人物と思想

議員活動と政治との関わり

日本における郵船商船規則の旗 日本の政治家
渋沢 栄一(澁澤 榮一)
しぶさわ えいいち
生年月日 1840年3月16日
出生地 日本、武蔵国榛沢郡血洗島村(現・埼玉県深谷市血洗島)
没年月日 (1931-11-11) 1931年11月11日(91歳没)
称号 正二位帝都復興記念章紺綬褒章従二位旭日桐花大綬章正三位旭日大綬章大礼記念章一等嘉禾章勲一等瑞宝章従三位勲三等瑞宝章正四位王冠第三等勲章勲四等瑞宝章金製黄綬褒章従四位正五位従五位正六位従六位正七位
配偶者 渋沢千代渋沢兼子
子女 長女・穂積歌子次女・阪谷琴子次男・渋沢篤二五男・渋沢武之助六男・渋沢正雄七男・渋沢秀雄養子・渋沢平九郎
親族 娘婿・穂積陳重(枢密院議長)娘婿・阪谷芳郎(大蔵大臣)娘婿・大川平三郎(貴族院議員)孫・穂積重遠(貴族院議員)孫・穂積真六郎(参議院議員)孫・阪谷希一(貴族院議員)孫・渋沢敬三(大蔵大臣)孫婿・石黒忠篤(農商大臣)孫婿・中村貫之(貴族院議員)孫婿・壬生基泰(貴族院議員)来孫・橋本岳(衆議院議員)

日本における郵船商船規則の旗 貴族院議員
在任期間 1890年9月29日 - 1891年10月29日

深川区会議長

深川区会議員
在任期間 1889年 - 1904年
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明治9年(1876年)、居宅を深川区福住町に定め、その後の転居後もここを終生本籍地としており、明治22年(1889年)から同37年(1904年)の15年間にわたり深川区会議員と区会議長を務め、地域の発展に深く意を用いた。

日本で初めての国会開催に先立つ明治23年(1890年)7月の第一回衆議院議員選挙では、栄一本人は立候補していなかったものの人気は高く、東京5区(本所区、深川区)にて94有効票を獲得し、次点となった。一方で、同年9月29日には勅選で貴族院議員に選ばれる事となり、同年12月15日の第1回帝国議会には貴族院議員として貴族院本会議に出席した。しかし、以降は一切議会には出席せず、翌年明治24年(1891年)10月29日 には辞任している。

明治34年(1901年)5月16日、旧知の井上馨に組閣の大命が下った際には、真っ先に大蔵大臣としての入閣を求められたが、これも辞退している。断られた井上は、栄一が蔵相でなければ首相を引き受ける自信がないとして直ちに大命を拝辞、井上内閣は幻に終わっている。

龍門社

明治19年(1886年)、深川福住町の渋沢邸に寄宿し栄一に私淑する青年達が勉学に努め、成果を発表する場として龍門社が結成されたがやがて栄一の思想に賛同し、栄一を慕う経営者や企業幹部が加入し、昭和初期には数千名の会員組織となった。

財閥解体と「渋沢財閥」

栄一は事業活動においても、広く国民全体が豊かになる事を希求し、一部特定の人々の利益を求める閥を成すことを嫌った。「渋沢財閥」という語が使われる事があるが、これは、栄一が死後の一族の財産争いを避けるため、渋沢同族会の資産管理会社として、実業界引退後の大正4年(1915年)に設立した渋沢同族株式会社を、太平洋戦争後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による財閥解体施策の中で、財閥の持株会社として誤認指定した事によるもの。その持株比率の実体は、家業として経営していた渋沢倉庫株の26%以外は、第一銀行株でも3%、他も数パーセントの保有に過ぎず、財閥と言われるようなものではなかった。

合本主義

公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め事業を推進させるという考え方。広く資本を糾合するという事から、狭義には株式会社制度の意に使われるが、栄一は私益のための資本の集中では無く、公益の追求、より良い社会の実現のために、資本や人材を合わせる事の重要性を説いたものと解される。

道徳経済合一説

栄一は大正5年(1916年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益(=算盤)の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。 『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。

そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言っている。また、同書の次の言葉には、栄一の経営哲学のエッセンスが込められている。

幕末に栄一と同じ観点から備中松山藩の藩政改革にあたった陽明学者・山田方谷の門人で、「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中洲と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は、三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。

外国排斥論者から親米派へ

英国がアヘン戦争により中国を侵略し、香港を割取したことを書いた「清英近世談」を壮年期に読み、中国の次に日本を攻めるのでは考え、外国を嫌い、外国を学ぶことをしない攘夷派であった。しかし、28歳の時、主君であった徳川慶喜に命じられて、仏蘭西へ行く事となり、その船中で、同僚からタウンゼンド・ハリス(初代米国総領事)の事を詳しく聞く。ハリスは実に武士道的精神により行動していることを知り、アメリカが立派な国であることを覚り、親米派になった。晩年、聖路加国際病院の院長ルドルフ・トイスラー博士と同病院米国評議員のジョン・ウッド博士が栄一の飛鳥山邸である曖依村荘を来訪した際に、栄一はこのことと合わせ親米派になった理由を次にように語っている。

こうして、栄一はハリスのことを知って親米派となり、米国聖公会が設立し運営する聖路加国際病院評議員会長になるなど、米国人への援助を惜しまず、米国と日本の友好のために尽くすこととなった。

2024/06/17 19:36更新

shibusawa eiichi


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