濱田庄司の情報(はまだしょうじ) 陶芸家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
濱田 庄司さんについて調べます
■名前・氏名 |
濱田庄司と関係のある人
島岡達三: 「益子焼の中興の祖」である濱田庄司に師事し、「縄文象嵌技法」を考案し、陶芸:民芸陶器の重要無形文化財技術保持者(人間国宝)となった。 河井寛次郎: 1914年、東京高等工業学校卒業後は、京都市陶磁器試験場に入所し、東京高等工業学校の後輩でもある濱田庄司とともに1万種以上の釉薬の研究や、中国陶磁など過去の陶磁の模倣や研究も行った。 志賀直哉: 1952年(昭和27年)、古希を迎えた直哉は柳宗悦、濱田庄司と念願のヨーロッパ旅行に出発する。 近藤悠三: 当時、河井寛次郎と濱田庄司が東京高等工業を卒業して技手として陶磁を研究しており、悠三は濱田から窯業科学などを学んだ。 島岡達三: 東京工業大学の前身であった東京高等工業学校の先輩であった濱田庄司に学生の時分から益子に直接出向いて弟子入りを志願し認められた。 楠部彌弌: 濱田庄司 田村耕一: 1950年(昭和25年) 濱田庄司の推薦を受け、益子の栃木県窯業指導所技官となる。 バーナード=リーチ: 1952年5月から長期の欧州旅行中の柳宗悦・濱田庄司と再会、帰途同行し1953年2月に再来日した。 島岡達三: そして益子焼について、「濱田庄司という雲の上の大将」がいて、あとは皆、気ままに作陶活動をしている、と評した。 志賀直哉: 遺骨は濱田庄司制作の骨壺に納められ青山霊園に葬られたが、1980年(昭和55年)に盗難に遭って行方不明となっている。 島岡達三: しかしもともと美的な才能があったから進んだ道ではなかったため、どうしようかと思案した末に、学んだ科学的知識を生かせる釉薬に特色を持つことを思い立ち、また東工大在学中に日本民藝館を訪れ、濱田庄司や河井寛次郎の作品に触れ民芸の美に目覚め、また柳宗悦の民芸論に触れ鼓舞され,美的才能が無くとも優れた作品を生み出す事が出来る「民芸陶工の道」へと進むことを決意した。 柳宗悦: 1952年(昭和27年)5月から、毎日新聞社の後援を得て国際工芸家会議に列席のため志賀直哉、濱田庄司、梅原龍三郎らとヨーロッパ・北米の周遊旅行を行った(志賀と梅原は体調不良などで8月に切り上げ帰国)、翌53年(昭和28年)2月に再会したバーナード・リーチ(18年ぶりに来日)を伴い帰国した。 バーナード=リーチ: またこの頃、リーチたちのもとを訪れた陶芸家の濱田庄司と友人になり、1920年に濱田とともにイギリスのセント・アイヴスで日本の伝統的な登り窯を開き、1922年には「リーチ・ポタリー」(Leach Pottery)という名の窯を開いた。 河井寛次郎: 1924年、イギリスから帰国した濱田庄司に現地で収集した雑器・スリップウェアを見せられ、濱田から柳を紹介されその民芸理論に深く共感し実用的な陶器制作を新たな目標とした。 柳宗悦: 民衆の暮らしのなかから生まれた美の世界を紹介するため、1925年(大正14年)から「民藝」の言葉を用い、翌年、陶芸家の富本憲吉、濱田庄司、河井寛次郎の四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表した。 島岡達三: 初期の島岡は濱田と似たような釉薬、そして登り窯を使い作品を作っていたため自ずと「濱田庄司のコピー」が作られていた。 田村耕一: 翌年新匠工芸会展に出品、昭和25年(1950年)には濱田庄司の勧めで栃木県窯業指導所(現在の「栃木県産業技術センター 窯業技術支援センター」)技官となり、ココ工芸の結成に参加、のち生活工芸集団結成に加わった。 柳宗悦: 陶芸家の濱田庄司との交友もこの地ではじまる。 |
濱田庄司の情報まとめ
濱田 庄司(はまだ しょうじ)さんの誕生日は1894年12月9日です。神奈川出身の陶芸家のようです。
現在、卒業、姉妹に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1978年に亡くなられているようです。
濱田庄司のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年(明治27年)12月9日 - 1978年(昭和53年)1月5日、本名象二)は、主に昭和に活躍した日本の陶芸家。民藝運動の中心的な活動家の一人であり、栃木県益子町に定住し、益子焼の中興の祖となった。 長男の濱田琉司は毎日新聞社記者。次男の濱田晋作、三男の濱田篤哉、孫(晋作の次男)の濱田友緒はいずれも陶芸家、四男の濱田能生は硝子工芸家。 神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市)溝ノ口で、濱田久三の子として母の実家である太田医院 で生まれる。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1913年(大正2年)、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に入学、板谷波山に師事し、窯業の基礎科学面を学ぶ。1期上の各務鑛三とは生涯交友を持った。1916年(大正5年)同校を卒業後は、2年先輩の河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。またこの頃、柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチの知遇を得る。 1920年(大正9年)、イギリスに帰国するリーチに同行、共同してコーンウォール州セント・アイヴスに築窯する。1923年(大正12年)にはロンドンで個展を開催、成功する。1924年(大正13年)帰国、しばらくは沖縄・壺屋窯などで学び、1930年(昭和5年)からは、それまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町で作陶を開始する。ほとんど手轆轤のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様を得意とした 戦後、1947年(昭和22年)、益子町に昭和天皇の戦後巡幸があり、天皇に益子焼の特質について奏上する機会を得る。1952年(昭和27年)から翌53年(昭和28年)2月に柳宗悦と長期の訪欧旅行を行いリーチと再会し共に帰国した。 1955年(昭和30年)2月15日には第1回の重要無形文化財保持者(人間国宝)(工芸技術部門陶芸民芸陶器)に認定。また1964年(昭和39年)に紫綬褒章、1968年(昭和43年)には文化功労者・文化勲章を受章する。 柳宗悦の同志として民藝運動の興隆にあたり、1961年(昭和36年)5月の柳の没後は、日本民藝館・第2代館長に就任した、1970年大阪万博の日本民芸館パビリオンの名誉館長を経て、1972年春に新装開館した大阪日本民藝館の初代館長にも就任し、1974年(昭和49年)には松方三郎の後任で日本民藝協会会長を兼務した。なお各・後任は柳宗理(宗悦の長男)が就いた。 最晩年の1977年(昭和52年)4月には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館。 1978年(昭和53年)1月益子にて没。享年83。従三位と銀杯一組を没後追賜された墓所は川崎市の宗隆寺。 明石庄作 阿部祐工 大塚邦紀:大誠窯 岡佐久良 大山隆 奥田康博 木村一郎 金城次郎 小滝悦郎 島岡達三 須藤政雄 須藤武雄:日向窯 瀧田項一 田代誠 濱田喜四郎 濱田篤哉 濱田晋作 藤井佐知 村田元 『世界の民芸』(芹沢銈介・外村吉之介・菅野喜勝(写真)共著)(朝日新聞社、1972年/日本図書センター、2012年) 『無尽蔵』(朝日新聞社、1974年/講談社文芸文庫、2000年) 『窯にまかせて』(日本経済新聞出版局、1976年/日本図書センター〈人間の記録〉、1997年) 青山二郎編『濱田庄司陶器集』工政會出版部、1933年4月。 NCID BA69287789。国立国会図書館サーチ:R100000002-I000000770500, R100000001-I1422001493891。 :「国会図書館デジタルコレクション 個人向けデジタル化資料送信サービス」で閲覧可。|『浜田庄司陶器集』- 国立国会図書館デジタルコレクション 水尾比呂志編・解説『近代日本の陶匠 濱田庄司 京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った』講談社〈カルチャーブックス 66〉、1992年11月。ISBN 9784061980549。 丸山茂樹『陶匠濱田庄司 青春轆轤』(里文出版、2007年) ISBN 9784898062746 丸山茂樹『柳宗悦・河井寛次郎・濱田庄司の民芸なくらし』(社会評論社、2015年) 坂井基樹・竹見洋一郎・則武優『理想の暮らしを求めて 濱田庄司スタイル』美術出版社、2011年7月、162頁。ISBN 9784568103960。 誠文堂新光社 編『スリップウェア Slipware 英国から日本へ受け継がれた民藝のうつわ その意匠と現代に伝わる制作技法』誠文堂新光社、2016年1月、19-21,138,142-144,164-165,229,236頁。ISBN 9784416615980。 志賀直邦『民藝の歴史』(ちくま学芸文庫、2016年5月) ISBN 9784480097347 小林真理『至高の名陶を訪ねる 陶芸の美』株式会社芸術新聞社、2022年8月、16-17頁。ISBN 9784875866503。 那覇市立壷屋焼物博物館 編『民藝と壺屋焼 その影響と現在 那覇市立壺屋焼物博物館開館20周年記念/河井寛次郎・濱田庄司来沖100周年記念 平成30年度那覇市立壺屋焼物博物館特別展』那覇市立壷屋焼物博物館、2018年11月23日、3,7,31,40-50,53-56,64,66,77-80,82頁。 NCID BB2783655X。国立国会図書館サーチ:R100000002-I029537572, R100000001-I31111120254084, R100000001-I46111111816570。 :展覧会カタログ/会期・会場: 2018年11月3日-12月27日 那覇市立壺屋焼物博物館3階企画展示室 ^ 母方祖父の太田東海は種痘所設立者83名の一人、東海の叔母は手塚光照夫人で子孫が手塚治虫である。 ^ 約一年半ほど師事を受けた経験もあり、濱田庄司の影響を受けた。 ^ “人間国宝濱田庄司の妻和枝さんが47年前に漬けた梅”. 真岡新聞. 2023年5月21日閲覧。 ^ 『大衆人事録 第23版 東日本篇』「はの部」P562 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年5月21日、 国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。 ^ 「下野新聞」2007年(平成19年)7月8日付 21面「審美の蔵 県内美術家収集品から 25」「ガラス工芸家 濱田能生さん」「縄文土器のかけら」 ^ お別れ : その便り、2023年4月23日閲覧。 ^ 濱田琉司 - 国立国会図書館サーチ ^ 各務鑛三 かがみ こうぞう東京工業大学130年史 ^ 没後も窯元・濱田窯として引き継がれ、濱田晋作と濱田友緒の陶芸家としての仕事と職人による窯ものと呼ばれる普段使いの器の制作が行われている(『浜田窯』)。 ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、424頁。ISBN 978-4-487-74410-7。 ^ “民藝協会のあゆみ 昭和20年〜昭和39年(1945年~1964年)”. 日本民芸協会. 2023年9月30日閲覧。 ^ 「官報」昭和53年1月18日 水曜日 本紙15302号「濱田 象二」「従三位に叙する」「銀杯一組を賜る」(一月五日) ^ 「官報」昭和53年1月18日 水曜日 本紙15302号「故 濱田 象二」「特旨を以て位記を追賜せられる」(一月十三日) ^ 「下野新聞」2007年(平成19年)5月26日付 4面「私の生きた刻」「陶芸家 島岡達三さん 7」「濱田庄司」「大事な人時に教え受けた」 ^ 下野新聞社 1984, p. 130. ^ 「下野新聞」1989年(平成元年)1月16日付 14面「新・陶源境」「大山 隆(益子)」「塩釉使い 刷目の作風」 ^ 下野新聞社 1984, p. 133. ^ 下野新聞社 1984, p. 135. ^ 公益財団法人 濱田庄司記念益子参考館 ^ スリップウェア,誠文堂新光社 2016, p. 164-165. ^ 藤井佐知 作品集 ^ 藤井佐知 作品集 - 藤井佐知(旧名 幸子) バーナード・リーチ 柳宗悦 河井寛次郎 富本憲吉 佐久間藤太郎 合田好道 民藝運動 益子陶芸美術館 益子焼 |
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