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瀬越憲作の情報 (せごえけんさく)
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【6月30日】今日誕生日の芸能人・有名人

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瀬越 憲作さんについて調べます

■名前・氏名
瀬越 憲作
(読み:せごえ けんさく)
■職業
囲碁棋士
■瀬越憲作の誕生日・生年月日
1889年5月22日
丑年(うし年)、双子座(ふたご座)
■出身地・都道府県
広島出身

瀬越憲作と同じ1889年生まれの有名人・芸能人

瀬越憲作と同じ5月22日生まれの有名人・芸能人

瀬越憲作と同じ出身地広島県生まれの有名人・芸能人


瀬越憲作と関係のある人

前田陳爾: しかし戦後1948年の呉清源と本因坊薫和の十番碁の際、読売新聞紙上での瀬越憲作と加藤信の対談において、瀬越の「(あの160の手は)前田という男が考えた」という酒席での発言が掲載されてしまい、当時日本棋院理事長だった瀬越は理事長を辞任するという事件に至った。


岩本薫: 1961年に日本棋院理事でもあった永野護が、瀬越憲作、岩本らが、中央会館と別に「国際囲碁連盟」の設立を進めたが、伊予本桃市が、これへの日本棋院の協力に反対する。


橋本宇太郎: 久保松勝喜代八段門を経て、1920年に上京して方円社の瀬越憲作に入門し、1922年入段。


杉内雅男: 1933年に小学校を卒業すると、瀬越憲作に入門を依頼し、瀬越門下の井上一郎四段(当時)の内弟子として、日本棋院院生となる。


柄本明: 呉清源〜極みの棋譜〜(2006年) - 瀬越憲作


呉清源: 敗戦後の1946年に師の瀬越憲作が日華親善のためとして薦めて、呉は中華民国籍としたが、これは連合国の中国(中華民国政権)代表団が呉の日本国籍取り消しを指示したとも、在日華僑により半強制的に手続きをとったとも言われる(夫人はこの時に無国籍状態となってしまっていた)。


呉清源: 呉が噂にたがわぬ腕を持つと分かると、訪中経験もある日本の棋士瀬越憲作と、呉を日本に呼ぶことが相談される。


梶原武雄: 木谷門下の多くの棋士に加え、瀬越憲作門下の曺薫鉉らも参加し、大いに影響を受けた。


本因坊秀哉: この頃には方円社の鈴木為次郎や瀬越憲作も秀哉に迫って来ていた。


杉内雅男: 1800年代生まれの棋士(瀬越憲作など)、1900年代生まれの棋士(多数)、そして2000年代生まれの棋士(大西竜平)との対戦経験を持つ(将棋棋士では加藤一二三が同様の経験を持つ)。


岩本薫: 1945年の東京大空襲による日本棋院焼失時には、自宅を仮事務所にするなどして、瀬越憲作らと日本棋院復興に尽力した。


岸信介: この会社は永野護がプロモートして広島県呉市に工場を建設した会社で、岸が会長、社長が足立正、取締役が永野、藤山愛一郎、津島寿一、三好英之、監査役瀬越憲作であった。


前田陳爾: 大手合が東西対抗形式となった1927年の前期甲組で、初戦で瀬越憲作六段に勝ったのを始めとして6勝2敗で優勝して四段に進む。


本因坊秀哉: 大正初期の囲碁界は、本因坊門、方円社及び裨聖会(雁金準一、鈴木為次郎、瀬越憲作ら)との三派鼎立状態であった。


呉清源: 1928年10月18日 来日し、瀬越憲作名誉九段に入門。


呉清源: 中国福建省出身、日本棋院瀬越憲作名誉九段門下。


菊池康郎: 『圍碁』誌 高段者二子局シリーズ(1952/4-53/2月号) 10-1(○宮下秀洋、○瀬越憲作、○雁金準一、○坂田栄男、○木谷實、○鈴木為次郎、○高川秀格、○橋本宇太郎、○岩本薫、×藤沢朋斎、○藤沢秀行)


賀屋興宣: 広島第一中学校では囲碁棋士の瀬越憲作と同級。


橋本宇太郎: 大阪府出身、瀬越憲作名誉九段門下。


瀬越憲作の情報まとめ

もしもしロボ

瀬越 憲作(せごえ けんさく)さんの誕生日は1889年5月22日です。広島出身の囲碁棋士のようです。

もしもしロボ

代表局、著書などについてまとめました。卒業、父親、引退に関する情報もありますね。

瀬越憲作のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

瀬越 憲作(せごえ けんさく、1889年(明治22年)5月22日 - 1972年(昭和47年)7月27日)は、大正、昭和時代の囲碁棋士。広島県佐伯郡能美村(現広島県江田島市)出身。方円社、日本棋院などに所属、名誉九段。1946年から48年に日本棋院理事長を務めるなど、棋院運営や囲碁普及に大きく貢献した"日本棋院の父"。

父は県会議員も勤めた家で次男として生まれた。育った能美島は昔から囲碁が盛んな土地柄。祖父が本因坊秀元から初段を受けるほどの碁好きで、5歳の時に眼病と耳を患っていた間に、祖父から碁の手ほどきを受け、中学校に入学した頃には、二、三段くらいの人とは互角に戦えるようになっていた。広島一中(現・広島県立国泰寺高校)で賀屋興宣らと同級。1905年(明治38年)の夏休みに、母の郷里の神戸で中根鳳次郎、阿部亀次郎、鴻原義太郎、橋本藤三郎らに三子から二子で指導を受ける。卒業後、県議で父親と親しかった望月圭介に連れられ1909年(明治42年)、20歳で東京へ行き、方円社に入社。当時は坊門(本因坊)と方円社が対立、坊門には当時第一人者本因坊秀哉がいたが、向こう気の強い望月が「どうだ、方円社に入って本因坊を負かしてやらんか」と言うので瀬越もその気になった。成績良好だったため、同年に東京朝日新聞の少壮碁客血戦会に無段ながら高部道平四段と先番で対戦し4目勝ち、『四段と無段の争碁』として喧伝された。同年兵役の為、帰郷に際し鈴木為次郎三段との試験碁に先相先で4勝2敗とし、飛付三段を許され彗星の如く天才青年現ると当時大きな話題となった。

1917年五段。1920年には本因坊秀哉に先の手合まで進む。本因坊門下と方円社の若手棋士による六華会では、会友として研鑽に協力した。1921年(大正10年)、六段に進む。この年雁金準一、鈴木為次郎、高部道平と裨聖会を設立。総互先、持時間制の採用など、封建的な因習を引きずる囲碁界に新風を吹き込んだ。

関東大震災を機に分裂している碁界の合同のため、本因坊派と方円社を握手させ大財閥大倉喜七郎を後援者に1924年(大正13年)の日本棋院設立に尽力する。1926年(大正15年)、推薦により七段に昇進。大手合において1927年から始まった東西対抗戦では東軍の主将となり、西軍主将鈴木為次郎とともに活躍した。1928年秋期大手合では大手合初の八段昇段を目前にするが、この時の高橋重行戦で万年劫問題が発生し、勝敗が一時預かりとなるなど紛糾、この後の宮坂宷二戦を敗れて昇段はならず、また東西対抗戦もこの年で廃止された。1939年からの第1期本因坊戦では最終トーナメントの第4次戦2位などの成績を収める。1942年に鈴木為次郎、加藤信とともに八段に推挙される。1944年には準名人戦出場。

1945年(昭和20年)、太平洋戦争末期の東京大空襲により日本棋院会館が焼失。棋具や記録などを失う。第3期本因坊戦は広島に疎開した瀬越の奔走で、同年8月に広島市郊外で行われた。この第2局は五日市町吉見園(現佐伯区吉見園)で行われ、橋本宇太郎(昭宇)本因坊と挑戦者岩本薫七段の対局中、原爆が炸裂、強烈な爆風に見舞われ市内に残っていた広島支部の関係者は全員死亡、自身も被爆し、三男と甥も犠牲となった。世にいう原爆対局(原爆下の対局)である。後に岩本基金で建てられたシアトルの日本棋院囲碁センターの壁には、原爆投下時の局面がタイル張りで飾られている。

終戦後は岩本らと日本棋院の再建に尽力。1946年(昭和21年)、日本棋院初代理事長に就任。同年4月、大手合を再開、雑誌「棋道」も復刊させる。1948年(昭和23年)に日本棋院会館(港区芝高輪)を開館。しかし同年読売新聞紙上での失言により理事長を辞任。1950年(昭和25年)、岸信介が会長、足立正が取締役(翌年社長)に就任した東洋パルプの監査役となった。

その後も囲碁の発展、国内、国際普及に粉骨。江戸時代の御城碁の棋譜を収めた『御城碁譜』全10巻、『明治碁譜』の編集の他、自ら筆をとった「瀬越囲碁教本」など多数の技術書を著した。1952年全本因坊全八段戦出場。

1955年(昭和30年)に引退、同年鈴木為次郎とともに名誉九段に推される。1958年、棋士で初の紫綬褒章、1966年に勲二等瑞宝章を受章。

1928年の呉清源の来日に尽力し、門下とした。また1919年に満州、中国を訪問、1942年に青木一男の招待で呉清源らとともに訪中、1950年ハワイ棋院に招待されて訪問。1957年の台湾への使節団団長、1960年の日中囲碁交流第1回訪中団団長などを務め、中国と交流した。囲碁の国際化に尽力し、また多くの弟子を育て、日本囲碁界の再建に貢献した。門下に橋本宇太郎、杉内雅男、伊予本桃市、久井敬史、曺薫鉉ら。

80歳になる頃から、目や耳、続いて足腰が弱り、1972年(昭和47年)、83歳で体の衰えを苦に自殺。高齢のため、関係者から「あの年で死ななくても…」と声が上がった。遺書には「からだの具合が悪い。死ぬるより仕方ない」と書かれていた。長男は「碁界に尽くせないなら屍を晒すのと同じで、死んだ方が仕合せだと考えたんだろうと思います」と、弟子の呉清源は「目が不自由になって、素人相手でないと碁が打てなくなり、落ち込まれたんだと思います」と述べた。

1983年にその功績を讃えて銅像(圓鍔勝三作)が作られ、故郷の能美島に贈られた。2009年囲碁殿堂入り。

院社対抗戦 1926年 0-1(×小野田千代太郎)

大手合(甲組)優勝 1927年後期

日中囲碁交流

    1960年 3-1-1

    1909年 飛付三段

    1912年 四段

    1917年 五段

    1921年 六段

    1926年 七段

    1942年 八段

    1955年 名誉九段

    代表局

    「秀哉に迫る」万朝報手合 1920年1月17,27日 本因坊秀哉名人 - 先 瀬越憲作五段

    本因坊秀哉に対抗していた方円社の瀬越憲作と鈴木為次郎は先の手合に迫っていた。序盤の白は、黒の秀策流を防ぐ方針で、白8から12とハサむ布石はよく見られた。黒は15から19で先手を取って黒21に回って足早な布石を目指した。白24のアテコミは黒29のツギを期待したが、省略して黒27と反発され戦いの主導権を黒が握った。この後黒は左辺の白を封鎖して中央を厚くし、上辺に大きな白地を与えたが、中央を制して押し切った。177手まで黒中押勝。

    著書

    『囲碁襲撃戦法』斯文館 1911年

    『少壮碁客決戦録』博文館 1917年

    『新進碁客争覇戦』斯文館 1920年

    『手筋辞典』(呉清源と共著)誠文堂新光社 1971年

    『詰碁辞典』

    『囲碁の力を強くする本』

    『御城碁譜』(八幡恭助、渡邊英夫と共著)御城碁譜整理配布委員会 1950-51年

    『明治碁譜』日本経済新聞社 1959年

    『囲碁百年 1 先番必勝を求めて』平凡社 1968年

    『手筋早わかり』

    『損のないハメ手』

    『碁の形を教える金言集』

    『作戦辞典』

    『手のある地・手のない地』

    『勝負のキメ手』他多数

2024/06/24 20:21更新

segoe kensaku


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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「瀬越憲作」を素材として二次利用しています。

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