田宮虎彦の情報(たみやとらひこ) 作家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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田宮 虎彦さんについて調べます
■名前・氏名 |
田宮虎彦と関係のある人
田宮堅二: 父は小説家の田宮虎彦。 円地文子: 同月片岡鉄兵、荒木巍の紹介で、『日暦』同人となり、高見順や大谷藤子、渋川驍、新田潤、矢田津世子、田宮虎彦らを知った。 森本薫: 森本が田宮虎彦らと創刊した同人誌「部屋」に執筆した『一家風』が、1934年(昭和9年)に小山祐士と田中千禾夫の目に入り、雑誌「新思潮」に発表した『わが家』は岩田豊雄の演出により築地座で初演され、森本は劇作家としての地歩を固めた。 新藤兼人: 足摺岬(1954年5月18日公開、吉村公三郎監督、近代映画協会・北星)※原作:田宮虎彦 今江祥智: 田宮虎彦、堀辰雄、桑原武夫などを扱った内容。 小田島雄志: 若子の姉の平林千代は、作家・田宮虎彦の妻。 依田義賢: 1957年 - 異母兄弟 原作田宮虎彦、監督・家城巳代治 花森安治: 神戸市立雲中小学校の同級に田宮虎彦がいた。 新藤兼人: 銀心中(1956年)原作:田宮虎彦 種村季弘: 『女性自身』編集部を経て書籍部で単行本の編集にあたり、手塚治虫、田宮虎彦、結城昌治、梶山季之たちを担当。 織田作之助: 1931年に第三高等学校(新制京都大学教養部の前身)文科甲類に合格、田宮虎彦、白崎礼三、瀬川健一郎などと知り合う。 中尾彬: テレビ文学館(1989年、NHK)田宮虎彦『足摺岬』を朗読 |
田宮虎彦の情報まとめ
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田宮 虎彦(たみや とらひこ)さんの誕生日は1911年8月5日です。東京出身の作家のようです。
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家族、『愛のかたみ』批判などについてまとめました。父親、卒業、退社、解散、映画、結婚、家族に関する情報もありますね。
田宮虎彦のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)田宮 虎彦(たみや とらひこ、1911年8月5日 - 1988年4月9日)は、日本の昭和期の小説家。『足摺岬』や『絵本』など希望の無い時代の孤独な知識人の暗い青春を描いた半自伝的作品や、弱者に対するしみじみとした愛情に支えられた独特のリアリズム小説を発表し、戦後高い評価を受けた。『落城』『霧の中』などの歴史物でも知られる。 東京生まれ、神戸市に育つ。船員である父親の都合で転居を繰り返し、兵庫県立第一神戸中学校から第三高等学校に進学し、1933年に卒業。三高では彼の入学年度から保証教授制度により学生の管理が厳しくなったが「別に不自由な制度とは思わず、実に自由に遊び呆けて、三高生活に突入していった」と自ら明るい学生生活を振り返っている。同期生に青山光二、森本薫らがおり、文芸部の先輩に西口克己、文芸部長に林久男、担任に山本修二、桑原武夫(講師)がいた。 東京帝国大学文学部国文学科在学中から、同人誌『日暦』に参加し、小説「無花果」などを発表した。『帝国大学新聞』の編集部員として三高出身の作家を訪ね歩き、武田麟太郎や丸山薫宅には足しげく通い、詩や小説を読んでもらった。大学卒業後都新聞に入社するも『人民文庫』研究会の無届集会により逮捕され同社退社。『人民文庫』には1936年の創刊とともに参加していたが、治安維持法により度重なる発禁処分を受けた人民文庫は廃刊。「沈没しようとしていた船からいち早く脱出した鼠」と古澤元は自主解散派だった田宮を評した。その後、女学校教師などをしながら小説修業を続ける。1938年に外務省系列の国際映画協会で知り合った平林千代と職場結婚。1947年に『世界文化』に発表した「霧の中」で注目され、小説家生活に入る。精力的に作品を発表し、1951年『絵本』で毎日出版文化賞を受ける。 1956年11月、妻を胃癌で喪って悲嘆に暮れる。1957年、亡妻との往復書簡が『愛のかたみ』の題名で光文社から刊行されベストセラーとなり多くの日本人が感動した。しかし、『群像』1957年10月号で平野謙が「誰かが言わねばならぬ──『愛のかたみ』批判」で夫婦観や文学観を「変態的」と評論した。田宮は反論することなく自ら同書を絶版とし、次第に執筆活動から遠ざかっていった。1980年7月には小田切秀雄がカルチャーセンターの講義で「平野謙さんから聞いた話」として、田宮のことを「『愛のかたみ』の印税で女と遊んでいた」と発言。これに対し、田宮は『新潮』1980年10月号に小文「トルストイとスターリン」を発表し、抗議した。 晩年はハンセン氏病の療養所の医師をしていた義弟の葬儀をきっかけにハンセン氏病の偏見をなくすために長編の雑誌連載をしたいと丸四年をかけて全国13カ所の国立療養所を取材したが実現しなかった。 1988年1月に脳梗塞で倒れ日産玉川病院にて療養、右半身不随になり、リハビリを経て3月末に退院。同年4月9日午前9時15分頃、同居人である旧友の子息の不在中に東京都港区北青山2丁目のマンション11階ベランダから投身自殺を図る。その後東京女子医科大学病院へ搬送されたが、午前10時前に死亡が確認された。脳梗塞が再発し手がしびれて思い通りに執筆できなくなったため命を絶つとの遺書が残されていた。享年77。墓所は多磨霊園にある。 家族父・ 昂之‐ 外国定期航路船機関長 妻・千代 - 旧姓:平林。東京女子大学英文科卒。胃癌により40歳で没。田宮から「千代がいたから『霧の中』のような小説が書けるようになった」と聞いた青山光二は、平野謙、埴谷雄高、佐々木基一と田宮家を訪ねた際、千代が出した紅茶がどれも同じ分量、同じ色合いで茶滓のかけらもないのを見て、「白いカップに映えたきれいな紅茶の色こそが田宮の結婚生活の幸福の色だった」とのちに述べている。 長男・田宮兵衛 - 気候学者で帝京平成大学教授、 次男・田宮堅二 - トランペット奏者で桐朋学園大学教授。 相婿・小田島雄志 - 妻の妹・若子の夫 『愛のかたみ』批判妻を喪った翌年、追悼文と妻との往復書簡をまとめた『愛のかたみ』(1957年)を出版すると、平野謙は『群像』に「誰かが言わねばならぬ──『愛のかたみ』批判」を発表した。平野は本書に収録された田宮夫妻の甘いやりとりに「こういう特殊な、不自然な、変態的な書物が、なにか普遍的な、正常な、純愛ふうの物語として、世に受け入れられているらしい事実に、黙っていられぬ気がし」て、理解を絶するものだと激しく批判し、妻を亡くした世の夫たちと同様に、田宮の気持ちの中にも妻からの解放感が隠されているはずだと推論し、さらには田宮の『絵本』『菊坂』は二流小説であり、『足摺岬』は三流だとまで書いた。 これに対し、田宮は沈黙したままだったが、1980年に小田切秀雄が平野から聞いた話として田宮は『愛のかたみ』の印税で女と遊んでいたとカルチャーセンターで話した際には同年の『新潮』に「トルストイとスターリン」の小文を発表し、自身は平野からも小田切からも事実を確かめる問い合わせを受けておらず、とはいえ二人は無責任な話をする人とは思えないから話を心にとめておくだけにしたが、スターリンの悪辣な捏造工作によって陥れられ、粛清され犠牲となったソ連共産党の古参党員を思い出したと書き綴った。 2024/06/23 10:12更新
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tamiya torahiko
田宮虎彦と同じ誕生日8月5日生まれ、同じ東京出身の人
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