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田村正和の情報 (たむらまさかず)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月14日】今日誕生日の芸能人・有名人

田村正和の情報(たむらまさかず) 俳優 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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田村 正和さんについて調べます

■名前・氏名
田村 正和
(読み:たむら まさかず)
■職業
俳優
■田村正和の誕生日・生年月日
1943年8月1日 (年齢77歳没)
未年(ひつじ年)、獅子座(しし座)
■出身地・都道府県
京都出身

(昭和18年)1943年生まれの人の年齢早見表

田村正和と同じ1943年生まれの有名人・芸能人

田村正和と同じ8月1日生まれの有名人・芸能人

田村正和と同じ出身地京都府生まれの有名人・芸能人


田村正和と関係のある人

柴田錬三郎: 前述の『おらんだ左近事件帳』第14話の出演の他、田村正和主演の『眠狂四郎』(関西テレビ ・フジテレビ系)第14話・第17話・第26話(最終回)に特別出演と言う形で出演、また、主題歌「孤独」(歌唱:沢竜二)の作詞も手掛けている。


敏いとう: 息子はものまね芸人のたむたむ(田村正和)。


名高達男: 田村正和刀化粧(1989年9月、TBS) - 丸橋忠弥


ヘンリー=デンカー: 2015年にテレビ朝日系列で本作のモチーフを参考にしたドラマが放送された(主演は田村正和)。


八木康夫: 田村正和とは、先輩がキャスティングした『くれない族の反乱』(1984年4月)という作品で初めて一緒に仕事をした。


桜井長一郎: 田村正和


長尾直樹: 麦とホップ「田村正和のシリーズ」、「仲間由紀恵のシリーズ」


寺岡光盛: 田村正和


三谷幸喜: しかし、その成功により、翌1994年には田村正和主演の倒叙ミステリードラマ『古畑任三郎』の脚本を手がけることになる。


小堺一機: また、デビューのきっかけとなったモノマネ芸(萩本欽一・田中邦衛・田村正和など)でも知られている。


平沢彰: ※田村正和


玉生司朗: ※田村正和


林彰太郎: ※田村正和


阪東妻三郎: 5人の子どものうち、長男の田村高廣、三男の田村正和、四男の田村亮の3人は俳優となった。


たむたむ: 田村正和


菅貫太郎: ※田村正和


中村晃子: 多数の映画に出演し、1965年〜1966年は田村正和とコンビで売り出すも、互いに芽が出ずパッとしない存在だったが、その後同年『望郷と掟』『炎と掟』やザ・ドリフターズの映画などに出演。


関根勤: やってる本人、大真面目!」と歌いながら披露する「カマキリ拳法」や、「田村正和拳法」などのシュールかつ特異なネタを編み出した。


柴田錬三郎: 田村正和を役者として高く評価し、「眠狂四郎」の舞台で狂四郎役に抜擢、またTVシリーズ化にあたり、田村を指名、田村を最高の眠狂四郎役者と称賛していた。


赤江珠緒: 『古畑任三郎』- 古畑任三郎(演:田村正和)と、今泉慎太郎(演:西村雅彦)役


田村幸士: 伯父は田村高廣、田村俊磨(田村高廣の元マネージャー、株式会社タムサプライヤ社長)、田村正和


山本麟一: 眠狂四郎(田村正和版) 第26話「狂四郎に明日はない」(1972年)


関口宏: 1985年(昭和60年)、TBSのドラマ『うちの子にかぎって…パート2』(第2話)で、田村正和や横山やすし(2人とも関口宏と同学年)と共演した。俳優の田村正和とは1966年(昭和41年)放送のドラマ「記念樹」以来の共演で、横山やすしとは最初で最後の共演でもあった。


木村元: 田村正和スペシャル 眠狂四郎(4) 雪の夜に私を殺して! 狂四郎を愛し続けた女(1998年、ANB / 東映)


樹木希林: NICOSカード(田村正和と共演)


桑野みゆき: ぜったい多数(1965年・中村登監督、田村正和共演)


八木康夫: 田村正和の起用


荘田優志: “1993年1月、映画「子連れ狼」の試写会に来た巨人・長嶋監督を迎える出演者の(左から)若村麻由美、子役の荘田優志、田村正和さんと原作者の小池氏 - スポニチ Sponichi Annex 芸能”.


横須賀功光: 『子連れ狼 その小さき手に ― 田村正和写真集』1992年12月、集英社


美空ひばり: なお、ワンマンショーの放送からさかのぼること2日前の1月2日には『パパはニュースキャスター』の復活スペシャル第2弾にも田村正和演じる主人公の鏡竜太郎とTBSの廊下で遭遇するワンカットのみではあるが、ゲスト出演。


田村正和の情報まとめ

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田村 正和(たむら まさかず)さんの誕生日は1943年8月1日です。京都出身の俳優のようです。

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人物、作品出演にまつわるエピソードなどについてまとめました。卒業、兄弟、家族、父親、映画、テレビ、ドラマ、結婚、事件、引退、趣味、子役に関する情報もありますね。77歳で亡くなられているようです。

田村正和のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

田村 正和(たむら まさかず、1943年〈昭和18年〉8月1日 - 2021年〈令和3年〉4月3日)は、日本の俳優。京都府京都市右京区太秦生まれ。東京都世田谷区育ち。成城大学経済学部卒業。最終所属は自身の個人事務所である新和事務所。

阪東妻三郎の三男で、長兄の田村高廣、弟の田村亮と共に、「田村三兄弟」と呼ばれるが、実際には次兄の田村俊磨を含め4兄弟である。異母弟に俳優の水上保広。家族は妻(一般人女性)と娘。

父阪東妻三郎が建てた阪妻プロダクションの跡地に建つ東映京都撮影所近くの京都太秦に生まれる。その後同じ京都の嵯峨野に移住した、小学4年生(9歳)の時に父・阪東妻三郎を亡くしが、翌年小学5年生の時に世田谷へ移住。田村は幼い頃、なんとなく父親のしている仕事をしたいと思っており、それを知った父・阪東妻三郎が大変喜んだと語っている。また「僕にあとを継がせたかったんでしょうね、丹下左膳の扮装などを教えてくれました」とも話していた。父とは普通の親子のように手を繋いで町を歩いたり、散歩したり、映画を見に行くこともない関係であったが、丹後の宮津の定宿に毎年夏に行った時だけは一緒に遊んだり、海で泳いだりしたことがとても嬉しかったと語り、演技の影響は特に受けていないが、母から聞いた父の役者としての生き方や姿勢は影響を受けたかもしれないとも語っている。成城学園中学校に進学後、中高時代にはバスケットボール部に所属していた。

1960年、兄・高廣主演の映画『旗本愚連隊』の撮影現場を見学に行った際に勧められて、同映画の端役として出演する。1961年に松竹大船と専属契約し、成城学園高校在学中の9月に映画『永遠の人』で正式なデビューをした。1965年『この声なき叫び』で初の単独主演、また同年には阪東妻三郎十三回忌としてNHKで製作された『破れ太鼓』で4兄弟が初共演を果たす、以降1966年に大学を卒業するまで学業と並行して映画テレビドラマに出演した。この間1963年『花の生涯』からは5年連続でNHKの大河ドラマに出演した。

松竹と専属契約を結んでいた頃、作品を選んで出演を決めたい、台本が出来ないうちに出演を強制されたくないと、年間10本の映画出演の打診を受けたが、そのうち5本を断った。また半ば強制される形で『侠勇の花道 ドス』に出演したことを後悔したという。

1966年には自身が主演する映画『空いっぱいの涙』の主題歌を歌いレコードデビュー、また松竹が田村を大々的に売り出す戦略から、映画『雨の中の二人』にモッズファッションに身を包み主演、大きな話題となったが、同年にはフリーとなるも脇役ばかりが続く。この年の『新吾十番勝負』でテレビ時代劇初主演を果たした。

1968年のホラー時代劇『怪談残酷物語』で時代劇映画初主演を果たす。1969年には『眠狂四郎 卍斬り』に出演、後に眠狂四郎を演じることになるが、この時は狂四郎の命を狙う敵役で出演した。

1970年の『おんな牢秘図』で、一般的な時代劇での初主演を果たした。また9月には以前から交際していた一般人女性と結婚した。映画では田村の個性を活かす様な作品に恵まれずにいたが、同年出演したテレビドラマ『冬の旅』で改めて存在を認識され、人気に火が付いた。以降繊細な二枚目役を中心にテレビドラマでの活躍が目立つようになる。

1972年『新・平家物語』では崇徳天皇を演じたがこれ以降大河ドラマには出演していない。同年テレビ時代劇『眠狂四郎』で茶の間の人気を得た。田村はこの作品に臨むにあたり、「田村正和の代名詞になる程の作品がこれまでに無い気がするので、代表作にしたい」と、撮影のしばらく前から東京の自宅を引き払い、京都に拠点を移すほど意気込んでいたという。『眠狂四郎』、1977年NHK時代劇『鳴門秘帖』では新たな人気を獲得してファン層を広げ、代表作の一つとなり(以降NHKのドラマへの出演はない。)、この作品以外にも、1979年『赤穂浪士』など、陰影の濃い哀愁ムードの風貌は女性ファンを引き付け、「憂愁の貴公子」と呼ばれることもあった。

1978年のテレビ時代劇『若さま侍捕物帳』に出演した際には、これまでと違う役どころに悩んだが(この作品から約4年前に放送された1974年の『度胸時代』でも同様な江戸っ子の役を演じた。)、以降は軽やかで明るい役柄にも挑戦、これまでのイメージとは異なる作品にも出演するようになった。同年の舞台、『東宝二月特別公演 阪妻を偲ぶ』では父妻三郎の代表作である『雄呂血』に出演、久利富平三郎を演じた。

1979年映画『日本の黒幕』(東映)に出演、以降1993年まで映画には出演せず、テレビと舞台のみに出演した。1967年の『無理心中 日本の夏』、1970年の『おんな極悪帖』、1973年の『女囚さそり 701号怨み節』などでは独自の存在感を出したが、田村自身、「僕は実は映画出身。で、映画で失敗してるわけ」などと述べている。伊藤彰彦は「不遇だった映画に早々に見切りをつけ、テレビに軸足を移したことが田村にとって幸いした」と評している。

1983年スペシャル時代劇版『乾いて候』が好評であったため、1984年連続版『乾いて候』が製作され、田村三兄弟が映像作品としては1972年のTV『眠狂四郎』で共演して以来約12年振りに共演して話題となった。また同年『うちの子にかぎって…』に出演し、それまでのイメージを完全に覆す三枚目の役は、田村にとってターニングポイントとなった。ちょっと頼りない優柔不断で生徒に振り回される小学校の先生役が見事にはまり大ヒット。続けて『子供が見てるでしょ!』『パパはニュースキャスター』『パパは年中苦労する』など数々のコメディドラマ父親役で主演した以降はトレンディドラマやホームコメディに多く出演し成功をおさめている。

1988年には田村が気に入っているという『ニューヨーク恋物語』に出演、概して同じ役を長く演じるのを嫌った田村としては珍しく、田村の願いで、2005年にはスペシャル版が製作され、田島雅之を再び演じた。1989年『眠狂四郎 恋しぐれ円月殺法!将軍家、若君乱心の謎を斬る!』で映像作品では約16年振りに眠狂四郎を演じた。

恋愛ものでは元来のキャラクターである二枚目でダンディな男性を演じ続けた一方、1991年の『パパとなっちゃん』の愛する娘に振り回される父親役など幅広い役柄で主演、日曜劇場で連続ドラマになってからは1993年に放送された『カミさんの悪口』に出演して以降、2021年5月までの時点で歴代最多の8作品で主演を務めるなど、テレビドラマ界での主演スターとしての地位を築いた。

1990年には年末時代劇スペシャル『勝海舟』に主演するも、急病のため前半部と終盤のみの出演となり、代役は弟・亮となった。

1993年、映画『子連れ狼 その小さき手に』に小池一夫からの指名を受けて出演、1979年の『日本の黒幕』以来のスクリーン復帰を果たし、アクションよりも、親子愛にテーマを置いた拝一刀を演じた。完成披露試写会には田村がファンである長嶋茂雄も訪れ、会話を交わした。また同映画の写真を使用した自身初の写真集が発売された。

1994年から放送の刑事ドラマ『古畑任三郎』役では「和製『刑事コロンボ』」と言われる新境地を開き、10年以上にわたって演じる当たり役となった 。それまで刑事役は断っていたが、『古畑任三郎』は「普通ではない」刑事が出るドラマで、脚本を面白いと感じたため引き受けた。古畑任三郎役で、ザテレビジョン主催のテレビアカデミー賞第1回主演男優賞を受賞したが、辞退した。その後、『古畑任三郎』第2シーズンと『さよなら、小津先生』の小津南兵役でも同賞を受賞した。

2005年には新橋演舞場で『新・乾いて候 そなたもおなじ野の花か』に出演したが、自分に厳しい田村は、自身が満足のいく出来栄えのものを観客に見せられなくなったとして、以降は舞台に出演することはなかった。2006年、『古畑任三郎ファイナル』シリーズが放送され、自身が主演する古畑任三郎は最後となった(2008年の『古畑中学生 -古畑任三郎、生涯最初の事件』には特別出演している)。

2007年、映画の撮影に時間が掛かること、完成後には舞台挨拶に赴かなくてはならないことを嫌い、映画への出演を極力避けていたが、中山プロデューサーから3年越しのラブコールを受け、またニューヨーク恋物語の製作陣が揃うということもあり、映画『ラストラブ』に出演、14年ぶりの映画出演となった。また同年はスペシャルドラマ『忠臣蔵 音無しの剣』で1998年のスペシャル版『眠狂四郎』以来約10年振りの時代劇出演を果たした。

2009年『そうか、もう君はいないのか』で第49回モンテカルロ・テレビ祭 最優秀男優賞を受賞、「信じられません。私が参加いたしましたこの作品が東京を遠く離れたモンテカルロの地で皆様方のご高覧を拝しただけでも大変光栄なことでございますのに、このような賞を頂けるなんて・・・。実は私事ではありますが、この数年俳優業の難解さと私自身の能力の間で大変悩んでおりました。したがってこのような賞をいただけることが私には全く信じられないことなのです。この度のこの栄えある賞が私のそう長くはない俳優人生においておおいなるエネルギーになってくれることを祈っている次第です」と受賞の喜びを語った。

2010年、これまでも赤穂事件を題材とした作品には何度も出演したが、『忠臣蔵〜その男、大石内蔵助』で父妻三郎も演じたことのある大石内蔵助役を初めて演じた。この頃から仕事を絞っていくようになり、主演ドラマは年に数回あるいは1度程度、またそのほとんどが単発作品となっていた。連続テレビドラマ出演としては2011年に放送された『告発〜国選弁護人』が最後となった。

単発作品では、2008年の『鹿鳴館』以後、テレビ朝日に移籍していた藤田明二演出作に多く主演、また、翌09年の『疑惑』から16年まで、松本清張作品に藤田演出で5作主演するなど、晩年の現代劇作品では清張作品を活動の柱として活躍を見せた。

2018年、父親が作った阪妻プロの跡地に建つ東映京都撮影所で撮影された『眠狂四郎 The Final』に出演。同撮影所には大物俳優もたくさん訪れるが、阪妻の「子息」が来所するとなると、所内の空気がピリピリしたものに一変したという。田村は「狂四郎というのは自分の出生に大変なコンプレックスを持っている男なんですけど、今回少しだけ明るい光が入ってくるような部分もあります」と述べ、円月殺法のシーンだけで3日をかけて撮影され、「『眠狂四郎』は大事な作品です」とも語った。しかし放送前に試写を見た田村は、これではダメだと痛感しオンエアを見る気にもならなかったと2018年4月発売の写真週刊誌『FRIDAY』の取材に語っている。これが俳優業からの引退を示唆するかの様なコメントだったことから、一部のマスコミで引退宣言などと報道された。一方田村とは旧知の仲である八木康夫が、伴一彦らとの対談で田村について「確かにやり切ったとは感じている様だが、報道の内容は正確なものではなく、田村自身は一言も引退とは言っていない、また今後絶対に何かに出演しないと言っている訳でも無い。今の田村と何か新しい作品をやりたい。」と話していたが、当作品が生前最後の出演となった。

2021年2月に風邪をこじらせて検査入院。その後、周囲にはリハビリを行っていると伝えられていたが、同年4月3日午後4時20分、心不全のため、東京都港区の病院で死去、享年78、満77歳没。その死は関係者にも伏せられ、5月18日に訃報が広く報じられたが、マネージャーですらその1週間前まで田村の死を知らされていなかった。訃報は台湾や中国でも大きく報道された。

田村亮は「訃報を聞いて一時的に起きたことが理解できずにいた、兄は幸せな人生を送ったのではないか。」などと追悼のコメントを出した。一般人である兄の俊麿は、半年位前に話した時には元気であり、話振りからまだ役者をやるのだろうと感じた、「最後の瞬間も正和らしい、弟として見事な人生であった。」と述べた。また加藤勝信内閣官房長官(当時)も哀悼のコメントを出した。

人物

父、兄弟、長女

兄弟の中で最も父親と性格が似ていて、字も似ているという。インタビューなどで父について語る時には阪妻さんとの名称を使っていて、名優と言われる父親を持つことに負担を感じることはなく、自分は自分で父は父であり、息子だからと意識はしていないと答えた。

2003年1月14日にNHKで放送された、阪東妻三郎没後50年を偲ぶ番組『駆けよ!バンツマ』では、一般人の次男・登司麿も含めた田村4兄弟が勢ぞろいし、父の思い出について対談する映像が見られた。京都で撮影の際には、父阪東妻三郎と兄高廣の眠る墓を訪ねる。

弟・亮は高廣と正和は慎重で少し神経質なところが似ていると分析。普段からあまり連絡を取り合うことはなく、また正和について「まじめ過ぎる、テレビではプライベートな部分は見せない」とし、兄弟で会っても仕事の話をすることはまず無いと明かしている。最後に直接話をしたのは亡くなる3年程前であったという。

長女は宮田慶三郎孫宮田順次の妻。

役者観 / 仕事に対する姿勢

俳優は白いキャンバスの様であるべきで、特にプライベートなことを知られることはそこに余計な色を付けてしまうことになる、また夢を売る仕事であり、どんな人間かを知られ過ぎると俳優としてマイナスになる、夢を見る余地を残すのがファンや番組を見る人たちへのサービスであると語っていた。

1992年当時「最近の芸能界は俳優、タレント、お笑いなどの境界が曖昧だが、俳優はタレントとは他の方法で仕事をするので、俳優には俳優の訓練が必要だ」と自身の写真集のインタビューで語っている、また自身が志していた芸能界と今の芸能界は大きく異なっていて「せっかく俳優という職業にいるのに、俳優以外の色を付けてしまうのは役を演じる上で損であり、自分はそういうやり方が絶対嫌だ」と語っている。

自らをテレビに育てられた、テレビ俳優だと語っている。また待ち時間が多い映画の現場よりも、テレビドラマの現場の方が向いていると思うと語っている。

有名劇団で鍛えられてきた俳優達に囲まれて自分の力のなさに気づき、劇団で修行することを考えて千田是也や宇野重吉らに会い、劇団を見学した。しかし、こういう場所は自分の居るところではないと思い、別の所に稽古場を借りて先生に来てもらいいろいろと勉強をした。

ほとんどNGを出さない話は有名であるが、その理由は「同じセリフは2度言いたくない」からというもの。

    田村正和の没後、弟・田村亮は「NGを出さないとか台詞は完璧に入っているというのは、役者として当然のこと」と述べつつ、「演技においては完璧主義というのは事実です」とインタビューで語っている。

    「田村チェア」と呼ばれる、自前のデッキチェアを常にロケ現場に持参すると言われ現場では本番直前まで一人で椅子に座って考えをめぐらすことも多く、撮影の合間に共演者とワァワァ楽しく話したりすることは基本的になかった。

    田村は「自らこういう役がやりたいと要望するのではなく、スタッフにこういう役をやらせたいと言われる役者でいたい」と述べていた。

    自らビジネスマンのように毎日決められた場所や時刻にいく仕事よりも、俳優のような自由な仕事の方が自分にはあうと分析していた。

    撮影した映像が現場ですぐにチェック出来るシステムになってからは、1シーンごとに自ら映像をチェック、またよりよい作品にするため後半の俳優生活では撮影時間を朝の8時から夜の22時までの厳守としていた。

    1979年の『赤穂浪士』撮影時には、京都の撮影で3日間、東京で行われるドラマの撮影に4日間と、数か月間無休で働き続け、余りのハードなスケジュールに「雨で撮影が中止になれば休める、雨が降らないかなー。」と仕事熱心な田村としては珍しくぼやく場面があった。その後はじっくり一つの役に取り組みたい、として、出来るだけ掛け持ちでの出演を避けていた(1990年には『ニューヨーク恋物語II 男と女と』および、年末時代劇『勝海舟』を掛け持ちしたことがあった)。

    自分をテレビ俳優であると考えながらも舞台に出演する理由については、「ある種の修行であり、逃げ出したくなる様な気持ちもあるが、生身の自分の姿を観客の人たちに見てもらうことで俳優として少しでも成長出来るのではないか。」と考えているからからだ答えていた。

    時代劇

    時代劇では、月代(さかやき)のある中剃りのカツラを着けることは稀で、ほとんどの作品で総髪のカツラのみを着ける。若い頃の出演作品では中剃りのカツラ姿も見られる。『子連れ狼 その小さき手に』で拝一刀を演じた際には、『ニューヨーク恋物語』の時のような髪型にしたいと、ヘアーエクステンションを着けた。『忠臣蔵〜その男、大石内蔵助』で大石内蔵助を演じた際には珍しく全編通して月代のある中剃りのカツラを着けた。

    自身の殺陣の基礎は、バスケットボールと梅若流の能であると話していた。

    田村は殺陣が好きであると語り、自身の殺陣に関する考えについて、リアルに考えれば一本の刀で、何人も立て続けに人が切れる訳はないので、嘘でいいから見栄えが良く、夢があればいいと思うと述べている。殺陣師林邦史朗は『鳴門秘帖』における田村の立ち回りについて、田村さんの体の線を活かした流動美と様式美に絞り、現代感覚にマッチした、スピードとリアルさをミックスしたモノになったと語っている。また眠狂四郎シリーズで監督を務めたこともある中島貞夫によると田村は、殺陣の最後の「残心」を大切にしていたという。

    時代劇ではそれなりのウソが許され、複雑に考えず出来るので好きであるとした 。

    時代劇の舞台に出演する際には、現代の物が可能な限り目に見えない様に気を配っていた。また現代劇の舞台についてはやりたくないと答えていた。

    趣味・嗜好

    アルマーニの服を好んで着用、休日でも運動のために自転車に乗ったり、毎日30 - 60分ほど散歩をする以外は、ほとんど外出することはなかったといい 、家では部屋にこもり音楽を聴いたり、酒を飲んで過ごすことが多く、専属の美容師も自宅に呼んで、髪を切ってもらっていたという。、外出は少なかったが、サーキットまでF1観戦に赴くことがあり、かなりのカーマニアであった。また緑(自然)が好きで、散歩は自宅近くの緑地公園までのルートが日課であった。軽井沢の別荘にもよく赴いていたという。

    同期の俳優岡崎二朗によると若いころはジェームズ・ディーンに憧れを抱いていたという。好きな俳優としてはマーロン・ブランド。

    趣味はゴルフ、音楽鑑賞 、読書(時代小説を好んで読んでいて、織田信長を演じてみたいと度々語っていた)、映画鑑賞(ロバート・デ・ニーロの出演作品を好み、作品を借りてきてもらったりしていた)。また1970年代より読売ジャイアンツファンであったことでも知られ(1976年当時好きな選手はデービー・ジョンソンと答えていた)、2016年にテレビ朝日のドラマ制作記者会見に出席した際には進行役を務めた同局のアナウンサー・下平さやかの夫が長野久義(巨人、一時期広島東洋カープに在籍していた)であることを知った上で前年(2015年)に不振だった長野を激励する言葉を発し、下平が「夫に伝えておきます」と田村に応じる場面もあった。

    NHKの『ブラタモリ』が好きで視聴していると、『徹子の部屋』(テレビ朝日系)の出演時に明かした。

    子供と接するのが苦手であるが、犬は好きで、犬にはすごくなつかれるとも語っていた。

    プライベートで、他人の前では決して食事をしなかった。また自宅の台所には立つことはなかったという。好きな酒はビール、このほかソフトクリームも好きだと明かしている。

    1977年当時「月に何度か飲みに出かけるが、女の人が居る様な店には行きません」と対談で答えていた。

    黒沢年男は追悼コメントと共に、新幹線の中で約3時間同乗したことがあるが、その間同じ姿勢のままであったとのエピソードを語った。

    交友関係

    『眠狂四郎』の作者・柴田錬三郎とは、柴田が原作のホラー時代劇『怪談残酷物語』で柴田作品に初めて出演、その後田村が『岡っ引どぶ』出演した際、見ていた柴田が田村の着流しや佇まいを気に入り、撮影現場を訪れた柴田と初めて直に会って以降は、田村を息子の様に可愛がり、その端正な佇まいや役者としての姿勢を極めて高く評価し、まるで親子の様に家族ぐるみの付き合いであった、柴田の意向により『眠狂四郎(舞台版)』の主役として抜擢。テレビ版の製作にあたっては、狂四郎役を演じるのが田村ならばと映像化への許可を出し、出演にあたり柴田は田村に無双正宗を贈った 。田村は柴田の葬儀で知らずに泣きじゃくっていたこと、柴田を優しく怖い人、そして子供の様に純粋な心の持ち主であったと回想した。なお柴田は三度、『眠狂四郎』に特別出演をした。また田村を最高の眠狂四郎役者であると称賛した。柴田の実娘によると「ともに頑固で非社交的なところが似ている、柴田が自分の若い日を田村の中に見たのではないかと。」話していた。また田村が『眠狂四郎 The Final』の放送後に柴田の娘に送った手紙には、作品が上手くいかなかった事への謝罪と共に、「おそらくもう仕事はこれが最後になると思う」と記されていたという。

    芸術家の横尾忠則とは『眠狂四郎』の舞台美術を横尾が担当して以来の知り合いで、またご近所でもあったことから、散歩中によく出くわし会話をしたという、また横尾は『話の特集』1976年8月号の表紙の田村のイラストを描いたこともあった。

    かつて松竹を共に背負う事を期待された竹脇無我の死には相当ショックを受けており、2013年2月8日の『徹子の部屋』への出演時には声を詰まらせながら竹脇のエピソードを話している。

    『カミさんの悪口』以降、田村と多く共演している橋爪功は、田村が大変好きであると語り、田村は自分自身の商品としての価値をよくわきまえている人物であると評した。田村のマネージャーから田村の出演作への出演を頼まれると断ることが出来ず、田村が出演するからという理由だけで出演を決めると語っていた。

    父である阪東妻三郎と子役時代に共演経験がある津川雅彦とは、俳優デビュー作『旗本愚連隊』で共演その後も多くの作品での共演、田村の遺作となった2018年放送の『眠狂四郎 The Final』でも共演した。

    同じく時代劇スターを父親にもつ北大路欣也とは幼少の頃からの知り合いで、2010年、『忠臣蔵〜その男、大石内蔵助』で初共演した際、父親にもう少し長く生きていて欲しかった、北大路欣也が羨ましいと語った。

    その他

    1970年代から80年代にかけて俳優貴族と呼ばれていたことがある。また1960年代後半から70年代には「日本のアラン・ドロン」と言われていたこともあり、1983年にドロンについてどう思うかとの質問には『太陽がいっぱい』、『若者のすべて』の頃のドロンはギラギラしていていいと思うが、最近は日本で放送されているCMでしか見ないから解らないと答えている。

    撮影現場などで他の共演者やスタッフたちと群れることがないので気難しいと思われがちだが、マネージャーは「ただあまりにシャイ過ぎるだけで、話をするのも好きで、誰とでも気さくに話す」と話していた。元々京都出身のため、カメラが回っていないところでは関西弁を話しており、共演者に驚かれることも多かった。

    生前に自身の墓を建立していた(いわゆる「寿陵」)。

    コンピューター音痴で、携帯電話も所有していたが、家に置いていた。しかしiPadは活用していた。

    黒柳徹子は、田村らしき人物の車に追突したことがあり、黒柳が「ぶつかりましたか?」と聞くと、その人物は「いいえ」と答えその場を離れた。後日、田村が黒柳の番組に出演した際、黒柳が改めてその事を確認するとそれは田村であった。田村も黒柳がぶつけたと気が付いたが、「騒ぎが大きくなると面倒くさいなと思って黙ってました」と答えた。

    1970年代後半から1980年代半ば頃に田村のマネージャーをしていた男性は、田村の愛車であった高級車をオーバーヒートさせた時も、駅で田村の財布を無くした時も決して田村が怒ることはなかったが、その一方で、「田村正和のマネージャーである自覚を持ってほしい」と、ガムの噛み方や身だしなみを注意されたという。

    1978年、ピンク・レディーのケイが田村のファンであったことから、『ザ・ベストテン』の初放送の回に、同番組内でのピンク・レディーの楽曲1位獲得を祝う為、花束を携えゲスト出演した。

    『ニューヨーク恋物語』の撮影はオールニューヨークロケであったため、田村は夫人を現地に呼び寄せ約3ヵ月間生活した。 『新ニューヨーク恋物語』撮影中、付き添っていた夫人と宿泊者専用のクラブで向かいあって座っていた際、夫人が目で合図をするので振り返ると『刑事コロンボ』を演じる俳優のピーター・フォークがおり、古畑任三郎と刑事コロンボが同じ場所に存在したことにおかしくなり、田村は部屋に帰ると大笑いした。

    作品出演にまつわるエピソード

    『眠狂四郎』に田村が主演することが公になると(同作品には性的描写も多いことから)、そのことを知った数多くの女性ファンたちからテレビ局へ、「田村にあまり変なことをさせないでほしい」という要望が届いた。

    『鳴門秘帖』の徳島ロケの際、地元デパートでサイン会が開催されたが、デパートの1階から6階まで階段に人が溢れ、警察隊が見守る中サイン会が行われた。

    『うちの子にかぎって…』への出演の経緯として、『くれない族の反乱』のプロデューサー八木康夫は、最終回で田村演じる佐伯とその子供が別れるシーンに感動し、これまで無かった田村と子供の組み合わせもアリだと感じて、田村の事務所に『うちの子にかぎって…』への主演での出演を打診した。事務所には断られたが、八木はイメージする赤川次郎原作の『わが子はアイスキャンディー』の映像を持参し田村に直談判に行った。するとたまたまその作品を見て感銘を受けていた田村は、八木からこういう感じの作品にしたいと言われ、出演を了承したという。また田村は、このオファーを断れば再び小学校教師役の依頼は来ないだろうと思ったこと、自分と子供というこれまでに無かった組み合わせでどんな化学反応になるか興味があったことを出演を承諾した理由に挙げた。

    『ニューヨーク恋物語』(1988年)で演じた田島雅之役をとても気に入っている。その20年後の田島雅之をモチーフにしたのが、2007年公開の映画『ラストラブ』である。

    『過ぎし日のセレナーデ』では68歳の人物を演じるにあたり、メークに2時間以上かけて白髪の老人になり、ロケを見かけた人々も田村かどうか解らなかった。また役柄の為に髪を剃り、田村自身はハゲにしてもいい、とも言ったが、そこまで田村にさせるわけにはいかないと、製作陣が反対したため、ハゲ頭については却下となった。

    『子連れ狼 その小さき手に』の拝一刀役のオファーを小池一夫から受けた際、「まったく新しい子連れ狼を…」という申し出に出演を決意した。また大五郎役の少年(荘田優志、公開当時5歳)は顔合わせでは田村に抱かれ笑顔を見せていたが、撮影が始まると田村の迫真の演技に次第に恐れを抱き、田村が近づくと泣き出す様になってしまい、田村がミッキーマウスのお面をかぶり、なだめる羽目になったという。

    刑事ドラマには出演しないとマネージャーが決めており、『古畑任三郎』の最初の出演依頼の際も断ったが、脚本の三谷幸喜から「従来の刑事ドラマとは異なり、ピストルを持たず、アクションも無く、論理的に事件を解決する」と説明を受け、更に第2話の脚本を読み、「これならやってみたい」と出演を決意した。田村は演じるにあたり、衣装が出来る限り刑事らしくならない様に注意したという。三谷によると、初めて田村に自身の作品に出演して欲しいと思ったのは田村が出演したCMを見た時だったという。田村は古畑役について、セリフが多く、緊張感もあり、他の作品の数倍の労力を要するとコメントしていた。古畑役を引き受け演じたことについて田村は、『うちの子にかぎって…』に出演したのと同じ位に「いい判断であった」とし、自身と古畑の似ている点を聞かれ、冗談半分に「可愛いところ」と答えた。また古畑について「事件を解決する時にだけ存在しているが、解決し終えるとこの世界から存在しなくなる。」そういう風に演じたいと話していたという。田村は三谷の脚本に注文を付けることはせず、多少のアドリブを足す程度であった。第3シーズン中には古畑はこれで終わりと宣言していたが、その後も2004年のスペシャル版、2006年のファイナルが製作された。三谷に対して「自分の新たな一面を引き出してくれた」と感謝の意を述べていた。三谷は田村で『インディ・ジョーンズ シリーズ』の様な作品をやりたいと、田村自身に提案したことがあったが、田村は「そんな疲れそうな作品はやりたくない」と即座に拒否したという。また三谷からは、「もし田村が古畑を舞台で演じるのなら、喜んで脚本を書く。」と言われていたが、田村は「観客の前で古畑の様にややこしく、沢山のせりふを話すことは出来ない。」からと舞台化には乗り気でなかった。1996年、古畑の撮影が終わって間もない時期に撮影された『眠狂四郎』のスペシャル版の撮影では、久しぶりの時代劇であり、古畑に慣れてしまったこともあり、狂四郎は古畑の様に動きの多い役ではないから、なかなかセリフが出てこない、つい現代劇のくせで手を動かしたくなると話し、1999年『美しい人』へ出演した際のインタビューでは、第1話の放送を見た田村は、自分でも気が付かないうちにあるシーンの演技に古畑任三郎が入っていた。と感じたと話した。

    『眠狂四郎 The Final』で監督を務めた山下智彦は田村の死後「『この作品で引退を』と田村が最初から考え、京都や時代劇に別れを告げるために出演したのではないかと思う。」と回想した。

2024/06/07 21:56更新

tamura masakazu


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