福地泡介の情報 (ふくちほうすけ) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]
福地 泡介さんについて調べます
■名前・氏名 |
福地泡介と同じ出身地の人 |
TOPニュース
福地泡介
福地 泡介(ふくち ほうすけ)さんの誕生日は1937年6月1日です。
作風、人物・エピソードなどについてまとめました。解散、趣味、テレビ、映画に関する情報もありますね。現在の年齢は86歳のようです。
福地 泡介(ふくち ほうすけ、1937年6月1日 - 1995年1月5日)は、日本の漫画家、随筆家、アマチュア雀士、放送タレント。福地 泡介(つくりの包の己の部分が巳)の表記も用いた。本名、福地 豊。 岐阜県関市生まれ。生家は刃物製造会社を経営し、志津三郎兼氏の末裔とされる。岐阜県立関高等学校在学中から新聞や雑誌へ漫画の投稿を行い、プロを志して荻原賢次に弟子入りを志願するが断られ、京都で予備校に通いながら浪人生活を送り、早稲田大学法学部に入学。早稲田大学漫画研究会に入部。2年上級にしとうきねおと園山俊二が、1年上級に同い年の東海林さだおがいた(2年生での入部で、福地と同期入部)。1959年、福地・東海林ほか、他校の学生漫画家を加えた4人で「グループ'59」を結成し、一般誌に合作漫画の売り込みを行ったが、ほとんど採用されずにグループは数か月で解散に追い込まれた。 在学中に商事会社に就職し、早大を中退。サラリーマン生活をしながら漫画の持ち込み活動を続け、東京スポーツや雑誌『美しい十代』『週刊漫画サンデー』『週刊漫画TIMES』などに作品を描く。1962年にプロ漫画家として独立。1966年4月、園山とともに「漫画集団」に入団(同期入団に多田ヒロシ、水野良太郎ら)。 1966年より『漫画サンデー』に連載した『ドボン氏』で注目され、人気を得るかたわら、趣味の麻雀の腕を磨き、1975年、雑誌『週刊大衆』主催の麻雀名人戦で古川凱章、5代目三遊亭圓楽らを相手に第6期名人になり、さらに翌年、名人位を防衛し、初の2期連続名人となった。このことで雀士として著名になり、麻雀の攻略法に関連する書籍を複数上梓したほか、麻雀に関するテレビ番組の出演をきっかけに、テレビタレントとしても活動した。 1995年1月、肺炎のため57歳で急逝。1985年から日本経済新聞で連載中だった『ドーモ君』はそのまま終了となった。日本経済新聞では『ドーモ君』終了以降、社会面に4コマ漫画を設けていない。 作風一見投げやりなように描かれた人物造形、空白を多く残した構成、展開を放棄したストーリーによって、ニヒリズムを感じさせる「現実感のない、まったく乾いた世界」を表現し、「キラリと光る現代の虚無」と評された。 「庶民の生活を哀愁あふれる視点で描き、共感を得た」とも評される。 『漫画サンデー』初代編集長の峯島正行は、経歴の近い園山・東海林・福地の作風を比較し、「思索型」の園山・「観察型」の東海林に対して、福地を「精神不在をよそおう(略)無意味な行動の面白さ」を「興味の赴くまま」に描く「行動型」と評し、3人の中で「一番ナンセンスの真髄に近い」とした。 人物・エピソード麻雀を通じて近藤啓太郎、吉行淳之介、五味康祐、五木寛之らの小説家や、ジャーナリストらと交流し、マルチタレントとしての足がかりとなる人脈を広げた。 早い時期からコンピュータグラフィックスに着目し、パソコンのスキルを習得して作品を作っていた。 早大漫研の同志であった東海林さだおとは生涯の親友であり、草野球仲間でもあった。 食事に無頓着で、自炊をしなかったという。好きな料理はラーメンで、その理由は「一杯で食事を済ませられるから」と素っ気ないものだったという。 映画ファンであり、劇場用映画2本の制作に携わった(後述)。 2024/05/17 02:31更新
|
fukuchi housuke
福地泡介と同じ誕生日6月1日生まれの人
福地泡介と近い名前の人
2024年最新カラオケ曲ランキング
『ミュージックジェネレーション』がカラオケランキングを発表
カラオケ夏の曲ランキング(好きな夏うた)
カラオケ店でPayPayや楽天Payなどのキャッシュレス決済は使えるのか
話題のアホネイター
話題の芸能人・有名人
グループ
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「福地泡介」を素材として二次利用しています。