秋元不死男の情報(あきもとふじお) 俳人(俳句) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
秋元 不死男さんについて調べます
■名前・氏名 |
秋元不死男と関係のある人
秋元松代: 俳人の秋元不死男は兄。 秋元松代: 松代は七人の兄弟姉妹の次女で、長兄は幼時に病死、次兄は秋元不死男(不二男)、三兄は共産党員から転向して古書店を経営、戦時中の予防拘禁を経て戦後は作家を目指した。 嶋田青峰: 青峰死去の報を受け、弟子の東京三(秋元不死男)は葬儀に馳せ参じたが、その席に俳句の関係者はほとんどなく、近所の住民を除けば、加藤武雄・本間久雄・日高只一らが焼香した程度で弔問者も少なく葬儀は閑散としていた。 山口誓子: 1948年、西東三鬼、秋元不死男らと「天狼」を創刊、のち主宰。 橋本多佳子: 戦後、西東三鬼、平畑静塔、秋元不死男らと出会い、戦後俳壇の女流スターとなってゆく。 嶋田青峰: ABCは秋元地平線、東京三と俳号を変えてきた秋元不死男であった。 西東三鬼: 1946年、栗林一石路、橋本夢道、石橋辰之助、日野草城、秋元不死男ら京大俳句事件および新興俳句弾圧事件の関係者らが結成した新俳句人連盟に1947年6月1日入会、その日は第二回総会の席であったが、三鬼は席上、日本民主主義文化連盟からの脱退を動議、総会は15対14白票1となり、三鬼の動議は否決され、入会当日に三鬼は連盟を脱退、富澤赤黄男らも三鬼に続くという分裂騒動を引き起こした。 |
秋元不死男の情報まとめ
秋元 不死男(あきもと ふじお)さんの誕生日は1901年11月3日です。神奈川出身の俳人(俳句)のようです。
事件、テレビ、母親、卒業、結婚、脱退、ドラマに関する情報もありますね。1977年に亡くなられているようです。
秋元不死男のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)秋元 不死男(あきもと ふじお、1901年11月3日 - 1977年7月25日)は、日本の俳人。神奈川県横浜市出身。本名は不二雄。前号は東京三(ひがし きょうぞう)。別号に秋元地平線。島田青峰に師事し「土上」「天香」に参加。新興俳句運動に加わり、京大俳句事件に連座して投獄される。戦後は「天狼」参加を経て「氷海」を創刊・主宰。劇作家の秋元松代は妹。息子の秋元近史は『しゃぼん玉ホリデー』を手がけたテレビディレクター・プロデューサー。 横浜市中区元町生まれ。漆器の輸出商の次男で、長男は不死男が生まれた日に病没。他に姉一人、弟・妹が二人ずついたが、父は不死男が13歳のときに病没。以後母親が和裁の賃仕事や夜店の行商をして家計を支えた。1916年、横浜市第二日枝小学校高等科を卒業、横浜火災海上保険会社(後のニッセイ同和損害保険)に入社。社内に渋柿派の俳人守能断腸花がおり、俳句を教わったがこのときは長続きせず。勤めに通いながら一時夜間学校にも通い、学業を断念したのちも文芸書を耽読して過ごした。1920年、同人誌「花路」を創刊。この頃白樺派に傾倒、新しき村の第二種会員となる。1927年、同人誌「青い花」を創刊。当時は詩や短編小説を書いていた。 1929年、嶋田的浦が横浜海上火災保険に入社して同僚となり、翌年、的浦に兄・嶋田青峰を紹介され師事、青峰の主宰する「土上」に投句を開始する。1930年7月、「土上」にABCの筆名で「プロレタリア俳句の理解」を発表、『読売新聞』文芸部長の千葉亀雄により評価され、執筆意欲を高めた。その後実作と評論の両面で活躍、「土上」を代表する俳人に成長する。1931年、清水阿喜(清水径子の姉)と結婚。1934年、新興俳句運動に加わり西東三鬼らと交流、新興俳句系の連絡機関「新俳話会」の幹事を務め、戦火想望俳句を作る。1940年、「土上」終刊、三鬼らと「天香」を創刊。1941年、治安維持法違反の名目による新興俳句弾圧事件が始まり、不死男は2月に検挙、1943年2月に保釈されるまで獄中にあった。この検挙により職を失う。 戦後、1946年に平和と民主主義を掲げる新俳句人連盟の創立に関わり、同連盟幹事に就任するが、運営方針を巡って対立が起こり脱退。1947年、俳号を秋元不死男に改め、現代俳句協会設立発起人、のち幹事長を務める。1948年、山口誓子の「天狼」創刊に参加。1949年、「天狼」東京句会を中心にして「氷海」創刊、のち主宰。1956年、古沢太穂、小林康治、飯島草炎らとともに横浜俳話会を発足。1961年、現代俳句協会を脱退、俳人協会設立に参加。1968年、句集『万座』にて第2回蛇笏賞を受賞。1971年、直腸癌の摘出手術を受ける。1976年2月に再入院し、7月25日、入院先で逝去。享年75。忌日は「甘露忌」と呼ばれる。 子を殴(う)ちしながき一瞬天の蝉 鳥わたるこきこきこきと罐切れば へろへろとワンタンすするクリスマス 三月やモナリザを売る石畳 終戦日妻子入れむと風呂洗ふ などが代表句であり、善人性と庶民的ヒューマニズムが作風の基調をなす。その根底には、貧しい一家を支える母を助けながら多感な少年期を過ごした経験がある。山本健吉は「現実的な人間生活に切り込もうとする意欲は、彼の初期からの特徴をなしている。彼の句は素材的で健康で感傷的で単純で重厚だが、詩人的感性は鋭くも深くもないし、抽象的思考は彼のもっとも不得手とするところだ。私は彼の句に、困苦に耐え、しかもちっともねじけなかった暖かい庶民的な感情が流れているゆえに愛するのである」と評している。 戦時下の投獄経験は俳人としての大きな転機をなし、戦後、獄中で紙石盤に書き付けておいた若干の句を含めて獄中吟の連作として発表した。当時獄中吟をまとめた俳人は不死男のみで、俳壇に大きな感銘を与えることとなった。初期から評論においても活躍したが、戦後は1954年に『俳句』誌に発表した「俳句と『もの説』」において、スローガン的な社会性俳句に疑問を投げかけつつ、俳句という形式は「事」ではなく「もの」に執着しなければ崩れてしまうと論じ「俳句もの説」として注目を集める。晩年は飄逸味のあるのびやかな境涯詠を詠んだ。 母親から溺愛され、左翼思想を語りながら家庭内では暴君であったことから、妹の秋元松代からは憎まれていた。 『街』(東京三名義) 三省堂〈俳苑叢刊〉、1940年 『瘤』 作品社、1950年 『万座』 角川書店、1968年 『自選自解秋元不死男句集』 白凰社、1972年 『甘露集』 角川書店、1977年 『秋元不死男全集』(全句集・俳文集) 角川書店、1980年 『季語別秋元不死男全句集』(鷹羽狩行編) 角川書店、2001年 『現代俳句の出発』(東京三名義) 河出書房、1939年 『俳句への招き』 永田書房、1976年 『俳句入門』 角川書店、1977年 『秋元不死男俳文集』 角川書店、1980年 ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 18頁。 ^ 林宏美「港北区ゆかりの俳人 - 秋元不死男」『楽・遊・学』 平成27年3月号、6頁。 ^ 村山古郷 1985, p. 100-104. ^ 三谷昭 1966, p. 130. ^ 「新俳句人聯盟規約 第二十一條」『俳句人』創刊号、1946年11月1日発行、46頁。 ^ 鷹羽狩行 「秋元不死男」 『現代俳句大事典』 10-11頁。 ^ 『定本現代俳句』 425-426頁。 ^ 『永田耕衣 秋元不死男 平畑静塔集』 三橋敏雄解説 372頁。 ^ 二瓶浩明「秋元松代『かさぶた式部考』論--男性憎悪のドラマトゥルギー」『愛知県立芸術大学紀要』第36巻、愛知県立芸術大学、2006年、83-91頁、doi:10.34476/00000149、ISSN 0389-8369、CRID 1390009224895108224。 三谷昭「新興俳句運動の俳誌とその傾向」『俳句』第15巻第10号、角川文化振興財団、1966年9月、127-133頁、ISSN 13425560、CRID 1520854805954976256。 村山古郷『昭和俳壇史』角川書店、1985年。doi:10.11501/12460198。ISBN 4048840665。全国書誌番号:86010727。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/12460198。 山本健吉 『定本 現代俳句』 角川書店、1998年 『永田耕衣 秋元不死男 平畑静塔集』 朝日俳句文庫、1985年 『現代俳句大事典』 三省堂、2005年 根岸町 (横浜市) 現代俳句データベース 秋元不死男の俳句 増殖する俳句歳時記 秋元不死男の句 ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 オランダ IdRef 20世紀日本の俳人 横浜市出身の人物 プロレタリア文学 MS&ADインシュアランスグループの人物 1901年生 1977年没 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NTA識別子が指定されている記事 SUDOC識別子が指定されている記事
2024/11/20 22:08更新
|
akimoto fujio
秋元不死男と同じ誕生日11月3日生まれ、同じ神奈川出身の人
TOPニュース
秋元不死男と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「秋元不死男」を素材として二次利用しています。