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本多丕道: 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。 平澤貞昭: ^ 「日本官僚制総合事典 1868-2000」『巻末各省入省者年次』 秦郁彦編著、東京大学出版会、2001年 坂信弥: 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。 安藤忠夫: 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。 広田弘毅: 『昭和天皇独白録』をめぐる座談会において、天皇のこの広田への見解が連合軍の広田の心証形成に影響を与え(独白録が記録されたのは1946年〔昭和21年〕3月から4月にかけてである)東京裁判での広田の判決につながったとする可能性を半藤一利と秦郁彦が指摘しているが、伊藤隆と児島襄はその可能性なしとして否定反論している。 橋口隆: 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。 國島文彦: 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。 今井敬: ^ 『日本近現代人物履歴事典』 秦郁彦編著 東京大学出版会 2002年、今井敬(6)東大時代ノンポリ、朝から碁打ち就職、長兄から「鉄がよかろう」 日本経済新聞社「私の履歴書」 2012年9月6日 3:30 三浦辰雄: 秦郁彦編『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、東京大学出版会、2007年。 近衛文麿: 秦郁彦は、「近衛内閣が自発的に展開したパフォーマンスは、国民の戦争熱を煽る華々しい宣伝攻勢と見られてもしかたのないものであった」としている。 津田三蔵: 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。 片山正英: 秦郁彦編『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、東京大学出版会、2007年。 新木栄吉: ^ 秦郁彦『日本近現代人物履歴事典』 栗林忠道: 秦郁彦は下記のように述べている。 田中義一: なぜ、これほど天皇が怒ったかについて釈然としない印象を持つ者も多く、秦郁彦は、日本軍人の関与の証拠はなく、他の犯人の証拠もないとしながら、河本を適当な理由で行政処分に付するといった、田中の上奏文の訳の分からなさを取り上げて、天皇の怒りを買ったのだろうとしている。 荒木万寿夫: 戦前期官僚制研究会 編『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』秦郁彦、1981年。 秩父宮雍仁: 秦郁彦は谷田勇から聞いた話として、秩父宮が村中孝次に同行し北一輝の自宅を訪問していたとしている。 新木栄吉: 秦郁彦『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会) 家永三郎: 秦郁彦は、平泉澄の自伝『悲劇縦走』によると、1934年に東条英機が来訪して平泉史観で国史教育をやりたい、ついては門下の人を教官に迎えたい、と懇請した。 山本弥之助: 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。 半藤一利: 同じく長い付き合いのある秦郁彦や保阪正康との共著も多い。 堀尾輝久: 秦郁彦は、中国の同志たちと一高寮歌さながらに「友の憂いに我は泣き、わが喜びに友は舞う」を実践するのをとがめる気はないが、中国の大学に講義に行ったとき、心安い先生が、「家永さんがうらやましい。 家永三郎: 秦郁彦の講演をまとめた『日本占領秘史』下巻(1977朝日新聞社P102-103)に「戦争中に心ならずも…とその方々はおっしゃるのですが…軍部に迎合したり戦争を礼讃するような論文などを発表した人たちが、今度はアメリカ民主主義の礼讃者あるいは平和主義者に早変わりする。 東條英機: 秦郁彦によると、東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、いわゆる『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであったという。 千田夏光: 1985年に同書の解説を書いた秦郁彦は「著者の千田夏光は1924年生まれ、戦場経験は、新聞記者時代にふとしたきっかけで、このテーマと取り組むようになった。 田中不破三: 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。 前田健治: 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。 福田幸弘: ^ 秦郁彦『昭和史を縦走する』(グラフ社)1984年。 清原邦一: 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。 高橋衛: 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。 |
秦郁彦
秦 郁彦(はた いくひこ)さんの誕生日は1932年12月12日です。山口出身の歴史学者のようです。
研究、主張などについてまとめました。卒業、事件に関する情報もありますね。
秦 郁彦(はた いくひこ、1932年(昭和7年)12月12日 - )は、日本の歴史家、元大蔵官僚。自身の専門は日本近現代史、軍事史とする。拓殖大学教授、千葉大学教授、日本大学法学部教授を歴任。学位は、法学博士(東京大学・1974年)。 山口県防府市生まれ。父は広島県広島市の出身で、小学生までは郁彦の本籍地も広島の爆心地にあった。このため自身は広島出身でもあると述べている。父は鉄道省の技術官吏で、九州の宮崎県、出水(鹿児島県)、若松(福岡県北九州市)の順で機関区長をしたため、小学校を5回転校。太平洋戦争中に広島市に引っ越し、原爆投下の一年前に母の実家がある山口県防府市に移った。父は戦時中に陸軍司政官としてフィリピン北部のカガヤン州における鉄道建設に従事して終戦の1か月前に戦死した。 1951年、山口県多々良学園高校を卒業し、東京大学文科一類入学。進学振分で法学部第3類(政治コース)へ進級。在学中は戦史や、清浦奎吾ら政治家の研究に没頭した。二年次に結核と診断され(後に誤診と判明)一年休学し、巣鴨プリズンに収監中のA級戦犯を含む旧陸海軍軍人百数十人のヒアリングを実施した。当初の指導教官は丸山眞男だったが、この休学で丸山ゼミには入れず、岡義武に学んだ。 1955年の夏に国家公務員6級職採用試験を受験。行政職は採用が少なく、法学部でも第3類(政治コース)であったため、法律職では、終日、法律を勉強してきた連中に太刀打ちできないと考え、経済職を選択。近代経済学を独力で学び、試験に臨んでいた。1956年に東京大学法学部第3類(政治コース)を卒業。将来の転職も考え、通商産業省と自治庁の内定を辞退し、大蔵省に入省した。朝日新聞の入社試験も受けたが、落第した。入省同期に小粥正巳(初代日本政投銀総裁、日本開銀総裁、公取委委員長、大蔵次官)、大橋宗夫(関税局長)など。入省当初は学生時代の戦史研究の延長で出版社の仕事もしており、『別冊知性・秘められた昭和史』(河出書房、1956年)の刊行などに携わった。大蔵省では為替局調査課、中国財務局、名古屋国税局で勤務したほか、経済企画庁経済研究所に出向。大蔵省や経企庁に半ば公認を受け、日本国際政治学会などでの研究活動と二足の草鞋だったと回想している。 1963年にハーバード大学、1964年にコロンビア大学にそれぞれ留学。1965年に防衛庁防衛局に出向し、防衛研修所(防衛研究所)教官、防衛大学校講師を務めた。1969年8月に大蔵省へ復帰して、理財局国有財産総括課長補佐(総括・総務・審査)として沖縄返還の事務を担当。1971年から1976年まで大蔵省財政史室長を務め、叢書「昭和財政史」(「大蔵省財政史室」 編として、東洋経済新報社から上梓された)の編纂責任者となり、自身もそのうちの一巻『アメリカの対日占領政策』を執筆した。財政史室長を最後に大蔵省を退官した。 大蔵省を退官した後の5年間、読売新聞社の嘱託として、公開された外交文書の分析などに協力したこともある。 プリンストン大学大学院客員教授(1977年)、拓殖大学政経学部教授(1980年 - 1994年、依願退職)を経て、1994年に千葉大学法経学部(法政経学部)教授に就任。1997年、千葉大学を定年で退官し、日本大学法学部教授に就任。2002年に日本大学退職後は同大学院法学研究科非常勤講師を2010年まで務めた。 研究軍事史学会の会員でたびたび同会で論文を発表、専攻は、日本の近現代史、第二次世界大戦を中心とする日本の軍事史とする。その他、昭和史に関する著作がある。自らについて「他人からは実証的である、とよく言われる」とする。 日本国際政治学会太平洋戦争原因究明部による共同プロジェクトに参加し、研究の成果は後に『太平洋戦争への道』として出版された。同書は開戦に至る日本外交を描いている。 ジョン・W・ダワー『敗北を抱きしめて』、アルヴィン・D・クックス『ノモンハン』では共同研究者として、献辞で名が挙げられている。 不法な虐殺数を十数万から数十万とする大虐殺存在派と、不法殺害をゼロ乃至殆どないものとする大虐殺否定派(まぼろし派)の間に位置する、虐殺の存在を虐殺数数千から数万のオーダーで認める中間派(矮小化派、限定派とも)の立場に立つ。南京事件については自著『南京事件』において、日本軍の不法行為による犠牲者数を「3.8万-4.2万人」とし、以後も被虐殺者数は約4万人程度と推定している。2007年に出した同著の増補版では、「4万の概数は最高限であること、実数はそれをかなり下まわるであろうことを付言しておきたい」と追記しており、週刊新潮2007年12月27日号では、「だいたい4万人」とコメントしている。 百人斬り競争については、行ったとされる旧日本陸軍少尉が故郷鹿児島県において地元の小学校や中学校で「投降した敵」を斬ったと自ら公言していたことを、名簿を頼りに問合せ4人から回答を得て、1991年に日本大学法学会『政経研究』42巻1号・4号にて発表している。志々目彰証言は「戦意を失って投降した敵を斬」ったと言っている。秦自身が語る捕虜の要件は「リーダーがいて、標識を制服につけていて、公然と兵器を携帯しているのが条件で、国際法上の待遇が受けられます」。 日本軍の慰安所を、当時の国内の公娼制度が戦地へ持ち込まれたものだとする。「慰安婦の強制連行」については、長年の調査にも関わらず見つかっていない以上、これを裏づける資料(公文書)は存在しないと考えるべきだとする。慰安婦を(性)奴隷と呼ぶ事についても否定的で、見解が対立する吉見義明らと論争した。 慰安婦について「狭義の強制性」を否定した安倍晋三首相の国会答弁には、批判的だった。 1999年、『慰安婦と戦場の性』を出版した。英語版は、『Comfort Women and Sex in the Battle Zone』のタイトルで、2018年にHamilton Booksより出版された。 2014年、政府による河野談話検証チームのメンバーとなる。 アメリカのマグロウヒル社の教科書の、慰安婦に関する記述の訂正を求める声明を発表した日本の歴史家グループの一人。 戦時中、済州島(現韓国)において慰安婦の強制連行が行われたとするいわゆる「吉田証言」について1992年に現地調査を行い、吉田証言を「信ぴょう性が極めて疑わしい」と結論づけた。 秦の調査結果は産経新聞 (1992年4月30日付)に発表され、雑誌『正論』(同年6月号)にも掲載された。これ以降、それまで吉田に好意的だった朝日新聞も、吉田証言を取り上げなくなった。 主張昭和天皇が靖国神社に参拝しないようになった理由は「A級戦犯合祀」であると主張して、首相・三木武夫の「私的参拝発言」原因説を唱える岡崎久彦、渡部昇一、櫻井よしこらを『諸君!』誌上や産経新聞「正論」欄で批判している。 2006年7月に日本経済新聞社紙上で、昭和天皇がA級戦犯の靖国神社合祀に強い不快感を示した記述が含まれる富田メモの存在が報道された。秦はこの真偽を評価する研究委員会委員をつとめ、このメモが本物であると認定した。 2024/05/24 19:10更新
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hata ikuhiko
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