芹沢長介の情報(せりざわちょうすけ) 考古学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
芹沢 長介さんについて調べます
■名前・氏名 |
芹沢長介と関係のある人
後藤勝彦: 「東北地方」『縄文土器大成3―後期』(野口義麿編 芹沢長介・坪井清足監修)、講談社 1981年 土門拳: 弟子には、芹沢長介、八木下弘、三木淳、北沢勉、牧直視、牛尾喜道、藤森武、西川孟、毛利秀之らがいる。 相沢忠洋: 同年初秋、この石器を相沢から見せられた明治大学学部生芹沢長介(当時)は、同大学助教授杉原荘介(当時)に連絡し、黒曜石製の両面調整尖頭器や小形石刃などの石器を見せた。 岡本勇: 1953年から1954年にかけて、八ヶ岳南麓長野県南佐久郡南牧村の矢出川遺跡の発掘調査で日本最初の細石刃を芹沢長介、地元の考古学研究家由井茂也らと共に発見した。 山内清男: 山内は『第二部・東北地方』の刊行準備を進めていたが、準備中に印刷所が企業整理・鉄材回収で閉鎖され、さらに仙台に疎開している間に1945年5月の空襲で写真乾板(大半が未発表)を預けていた夫人の実家(小石川)、土器を保管していた芹沢長介宅・大山史前学研究所(渋谷区)が全焼してしまい、以降の刊行は不可能になってしまった。 芹沢銈介: 息子の芹沢長介は考古学者として活躍し、晩年は東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館の館長を務めた。 土門拳: 芹沢長介と坪井清足がテキストを執筆、福沢一郎が挿画、土門が写真を担当した。 たかしよいち: 『日本原人のなぞ』芹沢長介共著 至誠堂(日本の国ができるまで)1968 相沢忠洋: 1949年(昭和24年)、岩宿で発見した石器が旧石器かどうか鑑定してもらうため、東京へ行き、生涯の師となる芹沢長介(明治大学大学院生、後の東北大学教授)と出会う。 江坂輝弥: 日本考古学小辞典 芹沢長介、坂詰秀一共編 ニュー・サイエンス社 1983.9 直良信夫: しかし鳥居は石器の実物を見たわけではなく、学生だった樋口清之から聞いた印象のみで反論しており、後に芹沢長介が石器であると指摘している。 山内清男: その後、芹沢長介は山内の反論について、シベリアではイサコヴォ期(完新世初頭から新石器時代初頭)までの約4000年の資料が少なく不明瞭であり、中国でも周口店上洞文化から彩文文化までの研究が未発達であることを指摘して、大陸の矢柄研磨器の年代が縄文時代の年代決定の根拠にならないと批判した。 江坂輝弥: 1966年、坂詰秀一、芹沢長介と『考古学ジャーナル』を創刊。 |
芹沢長介の情報まとめ
芹沢 長介(せりざわ ちょうすけ)さんの誕生日は1919年10月21日です。静岡出身の考古学者のようです。
生涯、専門分野などについてまとめました。卒業、事件に関する情報もありますね。
芹沢長介のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)芹沢 長介(せりざわ ちょうすけ、1919年10月21日 - 2006年3月16日)は、日本の考古学者。東北大学名誉教授、東北福祉大学名誉教授。日本の旧石器時代研究の第一人者。 戦前の日本では、縄文時代以前の日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。これを疑問視して、日本に旧石器時代の文化を発見し、その研究において学会をリードしてきた。日本の始源文化の解明に一生を捧げ、特に、1949年には群馬県岩宿遺跡の発掘に携わり、日本に旧石器時代の文化があったことを初めて確信した。その後、1963年に東北大学日本文化研究所助教授に着任すると、大分県の早水台(そうずだい)遺跡、栃木県の星野遺跡などの発掘調査で、前期旧石器時代の存在を確信した。 また、後期旧石器時代から縄文時代への移行を示す証拠を発見して、日本だけでなく、極東アジア地域全体を含めたスケールの中で、始源文化の関連性を明らかにしようとした。 生涯静岡県静岡市出身。父は人間国宝で染色家の芹沢銈介。 明治大学専門部文科地理歴史学科卒業。明治大学大学院修了。この時期約1年間、写真家の土門拳に師事し撮影技術を学んだ。同大教授の杉原荘介と対立し、1963年、東北大学へ赴任し、助教授、1971年、教授。1984年、東北福祉大学教授、のちに名誉教授。1989年からは東北福祉大学内の芹沢銈介美術工芸館(仙台市宮城野区)館長を死去するまで務めた。 2006年3月16日、胸部大動脈瘤破裂のため仙台市の病院で死去、享年86。 『芹沢長介先生追悼 考古・民族・歴史学論叢』(同刊行会編、六一書房、2008年3月)がある。 専門分野
研究概要もとの研究分野は縄文時代だったが、彼は放射性炭素年代測定の結果によって日本列島に相当古くから人間がいた可能性を指摘し、議論を起こしつつあった。そのころ、大学組織に所属せず、在野で研究活動を行っていた相沢忠洋が、従来、人類は生存していないと考えられていた関東ローム層の赤土層(後に岩宿遺跡と名付けられた。)から、幾つもの石器を採集した。芹沢は、相沢から相談を受けると、相沢の採集物を旧石器時代のものと確信して、明治大学の杉原荘介、岡本勇、相沢忠洋などと共に、岩宿遺跡の発掘調査を行った。これを契機として、それまで日本に旧石器時代はないと見なしていた日本考古学界に論争を巻き起こした。 以後、芹沢は、日本における旧石器時代の研究にも尽力し、矢出川遺跡など、他に先駆けて中石器に相当する細石刃を出土する遺跡の調査を行い、さらに、後期旧石器のみならず前期・中期旧石器も存在する可能性があると論じ、積極的に全国の遺跡の調査を推進した。また、「遺物の年代は、層位が型式に優先する」との理論を提唱した。 ただし、前期・中期旧石器に関しては、人工遺物の石器ではなく、自然石の破砕により石器のように見える偽石器であるとする見解も強かった(前期旧石器存否論争)。それに対し芹沢は、石器の使用に伴い生じる石器の小破損痕や磨滅痕を調査し、物証を以て人工遺物であることを検証できないかの視点から、国内初の石器の使用痕研究を推進すると共に、前期・中期旧石器と考えられる石器を出土する遺跡調査を実践した。 しかし、一連の調査の過程において、研究の常道を踏み外したアマチュア研究家による旧石器捏造事件があったことが発覚し、また、このアマチュア研究家が関与した遺跡の多くに捏造が含まれていたことが判明したことから、国内での前期・中期旧石器の調査研究は大きく後退する結果となった。 前期旧石器時代の研究1964年、芹沢は、大分県早水台遺跡の発掘を始めとして、栃木県星野遺跡の調査、群馬県岩宿遺跡の再発掘など、3万年よりも古い層を狙って、日本始源文化の探求を行った。 大型の礫(れき)や剥片を素材とするチョッパー、チョッピング・トゥ―ル、ハンドアックス等を伴う早水台遺跡を約10万年前の石器群とし、大型・小型の珪岩(けいがん、チャート)を用いて尖頭器、彫刻刀、スクレイパーを造る星野遺跡の石器群を約5~8万年前の石器群に位置付けた。日本の前期旧石器時代は、早水台から星野へとの流れが設定できるとした。外国では、前期・中期・後期と3時期に細分するが、日本では中期が不明なので、前期と後期に分けることにし、前期・中期を一括して、前期旧石器時代の石器群と呼んだ。 後期旧石器時代の研究芹沢は、1949年の岩宿遺跡発掘で、日本に旧石器時代の存在が確認された後、1953年頃まで茂呂遺跡、杉久保遺跡、馬場平遺跡、矢出川遺跡等で発掘調査を行い、立川ローム層に含まれる石器文化の編年と、その様相を明らかにした。その後も、磯山遺跡、岩戸遺跡、塩坪遺跡、タチカルシュナイ遺跡、荒屋遺跡、福井洞穴遺跡等を発掘した。 後期旧石器時代では、石斧やナイフを持つ、石刃石器群から、尖頭器を主体とする石器群へ、更には、細石刃(さいせきじん)石器群へ、との変遷を明らかにした。 晩期旧石器時代の研究約1.2~1万年前の時代で、旧石器から縄文時代にかけての過渡的な時期である。芹沢は中石器時代とも呼んだ。九州では細石刃と土器が共存し、本州と四国では、有舌(ゆうぜつ)尖頭器に土器が伴ったり、伴わなかったりする時期でもある。更に、同時期か少し遅れた時期に、局部磨製片刃石斧も出現する。晩期旧石器時代の日本列島は複雑な様相を呈する。 2024/06/25 11:28更新
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serizawa chousuke
芹沢長介と同じ誕生日10月21日生まれ、同じ静岡出身の人
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