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野口英世の情報 (のぐちひでよ)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【4月6日】今日誕生日の芸能人・有名人

野口英世の情報(のぐちひでよ) 医学者(細菌学) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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野口 英世さんについて調べます

■名前・氏名
野口 英世
(読み:のぐち ひでよ)
■職業
医学者(細菌学)
■野口英世の誕生日・生年月日
1876年11月9日 (年齢1928年没)
子年(ねずみ年)、蠍座(さそり座)
■出身地・都道府県
福島出身

野口英世と同じ1876年生まれの有名人・芸能人

野口英世と同じ11月9日生まれの有名人・芸能人

野口英世と同じ出身地福島県生まれの有名人・芸能人


野口英世と関係のある人

なすじん: 野口英世に憧れ、退院時には医者になりたいとの夢を語っていたが、幼少の頃から習っていた音楽に没頭するようになり、その道は断念。


谷口維紹: 1985年 - 野口英世記念医学賞


服部幸子: ヒューマン・ダイナモ〜人間発動機 野口英世(斉藤ます子)


中山茂: 「野口英世」(朝日新聞社〈朝日評伝選〉 1978、朝日選書 1989 オンデマンド版2005、岩波同時代ライブラリー(改訂版) 1995)


日沼頼夫: 1981年 野口英世記念医学賞


石田名香雄: 1980年 - 野口英世記念医学賞


高月清: 1983年 - 野口英世記念医学賞、武田医学賞


川合将嗣: ヒューマン・ダイナモ 人間発動機 野口英世(2005年 紀伊国屋サザンシアター 東京ギンガ堂)


君沢ユウキ: 歴史漫才 ヒストリーズ・ジャパン(2017年7月 - 9月、東名阪ネット6) - 源義経、野口英世


小林健: 22「会津若松〜殺人無罪の乗客・チップでもらった野口英世の謎!? 女三人の愛憎が仕組む二つのえん罪!!」(2006年9月16日)


星里もちる: 週刊マンガ日本史第46号『野口英世』(2010年、朝日新聞出版)


松林久吉: 昭和43年(1968年)野口英世記念医学賞受賞。


石田名香雄: 野口英世記念医学賞、日本学士院賞などを受賞。


小柳洋子: 東京ギンガ堂公演 ヒューマン・ダイナモ 人間発動機 野口英世(2005年、紀伊国屋サザンシアター)


纓片達雄: 野口英世の少年時代(1956年)- 英語の先生


遠山清彦: 尊敬する人物は野口英世


今井朋彦: 再びこの地を踏まず−異説・野口英世物語−(2019年9月-10月 地方公演) - 野口英世 役 ※再演


星一: 野口英世やフリッツ・ハーバーのパトロンとしても知られる。


小林由利: 「野口英世」 - 先生の妻 役


審良静男: 2001年11月 - 野口英世記念医学賞 「自然免疫系における病原体認識機構の研究」


真木ひでと: 芸名は野口英世にあやかって野口ヒデトと名乗る。


牛場大蔵: 1971年 - 「実験チフス症の感染と免疫の研究」で野口英世記念医学賞受賞


ムロツヨシ: 天魔さんがゆく 第1話・第2話・第8話(2013年7月15日・22日・9月9日、TBSテレビ) - 落ち武者(木曾ノ道国吉)・野口英世(8話) 役


鉄野正豊: 東京ギンガ堂 野口英世


神戸淳吉: 『野口英世』1980 講談社の子ども伝記


関川秀雄: 1956年、教育映画『川は見ている』、『野口英世の少年時代』(東映教育映画部)、『警視庁物語 追跡七十三時間』(東映)監督。


小林温: 野口英世の恩師・小林栄の親類筋にあたる。


宮脇紀雄: 『野口英世』(偕成社、児童伝記全集) 1957


アニャンゴ: ケニアにて開催されたTICAD Ⅵの式典および野口英世アフリカ賞レセプションパーティーにて演奏。


松岡依都美: 再びこの地を踏まず −異説・野口英世物語−(2018年9-10月 地方公演 演出:西川信廣)- メイジー 役


野口英世の情報まとめ

もしもしロボ

野口 英世(のぐち ひでよ)さんの誕生日は1876年11月9日です。福島出身の医学者(細菌学)のようです。

もしもしロボ

卒業、現在、病気、趣味、母親、結婚、離婚、兄弟、映画、父親に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1928年に亡くなられているようです。

野口英世のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

野口 英世(のぐち ひでよ、1876年〈明治9年〉11月9日 - 1928年〈昭和3年〉5月21日)は、日本の医師、細菌学者。栄典は、正五位・勲二等旭日重光章。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。

福島県耶麻郡三ッ和村(現:耶麻郡猪苗代町) 出身。高等小学校を卒業して上京し、済生学舎(日本医科大学の前身)に通い、医術開業試験に合格して医師となった。渡米してペンシルベニア大学医学部の助手を経て、ロックフェラー医学研究所研究員となった。主に細菌学の研究に従事し、黄熱病や梅毒の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の授賞候補に三度名前が挙がったが、後にその業績の多くが否定された。黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年(昭和3年)5月21日、英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで51歳で死去。

1907年(明治40年) - ペンシルベニア大学名誉修士

1918年(大正7年) - エクアドル陸軍名誉軍医監 名誉大佐、グアヤキル大学名誉教授、キトー大学名誉教授

1920年(大正9年) - サン・マルコス大学名誉教授 名誉医学博士

1921年(大正10年) - ブラウン大学名誉理学博士、エール大学名誉理学博士

1925年(大正14年) - パリ大学名誉医学博士

1913年(大正2年) - 勲三等(スペインの旗 スペイン)、勲三等(デンマークの旗 デンマーク)

1914年(大正3年) - 勲三等(スウェーデンの旗 スウェーデン)

1915年(大正4年) - 勲四等旭日小綬章(日本の旗 日本)

1920年(大正9年) - ジョン・スコット・メダル名誉章(アメリカ合衆国の旗 米国 フィラデルフィア)

1924年(大正13年) - レジオンドヌール勲章(フランスの旗 フランス)

1925年(大正15年)12月15日 - 正五位(日本の旗 日本)

同年 - コーベル賞牌

1928年(昭和3年) - 勲二等旭日重光章(日本の旗 日本)、防疫功労金牌(フランスの旗 フランス)

研究スタイルは膨大な実験から得られるデータ収集を重視した実践派といえる。何百の試験管を用いて数千のスライドを作るといった、気の遠くなるような実験パターンを実行してデータ収集を行った。この特異な研究姿勢から、当時のアメリカ医学界では野口を指して「実験マシーン」「日本人は睡眠を取らない」などと揶揄する声もあったという。この評価は野口本人も少なからず気にしていたようで、1920年に若手の細菌学者に「俺等の様な古い学者は、世の中には要らなくなったのだ」と語り、近代化学の方法を覚えるように指摘している。1919年春、訪米した知人の医師・畑嘉聞に「十分とはいえない段階の論文であっても研究所に急かされ、結果、発表したものが賞賛されて責任が圧し掛かり内心、忸怩たる気持ちになるが、その賞賛の声を発奮材料に研究に打ち込む」といった旨を明かしている。野口は生涯で204編という多数の論文を発表した。うち150編は単名で書かれている。

1911年と1912年にニューヨーク市のロックフェラー医学研究所において、野口はツベルクリン検査のような梅毒の皮膚検査法の開発を試みていた。被験者はニューヨークの診療所と病院から集められた。この実験において、野口はルエチンと呼ばれる梅毒の抽出物を被験者の上腕皮下に注射した。皮膚反応は病気の進行段階やその処置に応じて梅毒患者と健康な被験者との間で差があり、研究がなされた。571人の被験者のうち315人が梅毒患者であった。残りの被験者は「対照群」であり、彼らは梅毒に感染していない孤児や入院患者であった。入院患者は既にマラリア、ハンセン病、結核、肺炎といった様々な梅毒以外の病気の治療歴があった。対照群の残りは健常者であり、ほとんどは2歳から18歳の子供であった。野口と他の医師たちは、この実験について被験者に説明せず、承諾を得ていなかった。当時の批判者(主に生体実験反対運動の人々)は、野口が傷つけられやすい孤児と入院患者の権利を侵害した、と言及した。生体実験反対主義者らの一部には、野口の実験によって子供が梅毒にかかったのではないかとの懸念があった。

これは周知のスキャンダルとなり、メディアがこのことについて議論した。『ライフ』誌の編集者は以下のように指摘した。

かの研究者が患者に対して『あなたの身体に、多かれ少なかれ恐ろしい病気と関連した調合物を注射する許可を頂けますでしょうか?』と聞いていたとしたら、病人らは拒否しただろう。

野口を弁護するため、ロックフェラー研究所のビジネスマネージャーであったジェローム・D・グリーン(英語版)は、この実験に抗議していた反生体実験団体に書簡を送った。グリーンは、野口とその同僚研究者は被験者に投与する前に自分自身で抽出物を試験したので、この投与が梅毒を引き起こす可能性はない、と指摘した。しかしながら、野口自身1913年に無治療状態の梅毒と診断され、野口はロックフェラー病院での梅毒治療を断っている。その当時、グリーンの説明は、実験の重要性と研究中に医者が取っていた配慮を証明するものと見なされた。1912年5月、ニューヨーク児童虐待防止協会はニューヨーク地区検事長に野口に対する告発を求めたが、却下された。

アメリカ合衆国において、被験者を保護するための法律が可決され、人体実験に関して十分なコンセンサスの醸成が成されるようになったのは20世紀後半のことであった。そこに至るまでに、インフォームド・コンセントと患者/被験者の権利に関するより多くの手続きが開発された。

存命中に野口の名を高めた学問上の業績は、進行性麻痺患者の脳内に梅毒病原体を発見した事と、いくつかの感染症の病原体特定および培養である。ただし後者の業績は後に否定された。

現在まで残っている野口の業績のうち最大とされるのは、梅毒スピロヘータを麻痺性痴呆患者の脳と脊髄癆患者の脊髄に発見したことである。当時、すでに麻痺性痴呆と脊髄癆は梅毒の末期症状と考えられていたが、証明はなされていなかった。研究者たちは梅毒患者の脳や脊髄から梅毒スピロヘータを見つけ出そうと試みていたが上手くいかなかった。野口は当時の顕微鏡で数千枚にもおよぶ病理組織標本の観察により、菌がいると考えられていた血管まわりではなく繊維の奥深くでスピロヘータを確認し、神経性疾患と感染症との関連を明らかにした。ひとたび脳のどの部分にスピロヘータがいるのかが分かれば、容易に見つけ出せるようになった。また脊髄からもスピロヘータを発見した。

一方で、のちに否定された研究業績として挙げられるのが病原性梅毒スピロヘータの純粋培養と黄熱病の研究である。急性灰白髄炎(ポリオ、小児麻痺)、狂犬病、黄熱病、トラコーマの病原体発見の業績に関しても、のちにウイルスなどの別の病原体であることが判明していることから否定されており、現代において微生物学の分野で評価できるものは全体の仕事のうちの一部に留まることになる。これは、野口の研究時期において、濾過性病原体としてのウイルスの存在はすでに示唆されており、光学顕微鏡下で観察可能なスピロヘータの研究方法にこだわったこと、培養方法などに技術的限界があったことが考えられる。また、発表された200本あまりの論文の大部分を掲載したJournal of Experimental Medicineは、ロックフェラー医学研究所外の研究者による査読を免れており、フレクスナーの推薦があれば掲載されるなど、査読システムの不備も指摘されている。

野口はまた、ペルー、エクアドル、コロンビアの山間部の風土病であり、サシチョウバエにより媒介されて溶血性貧血による重篤な症状をきたすオロヤ熱と、四肢に数センチに達する疣(イボ)ができるペルー疣が同じ病気であることを証明した。科学史家の中山茂は、これを野口の業績のなかで「2番目に大きな業績として認められている」としている。同じ病気の異なる症状であるという説は、1885年ペルーの医学生ダニエル・カリオン(英語版)が、それまでペルーの医師の間で唱えられてきた説を自らの身体を実験体として示し、以後カリオン病(英語版)と呼ばれるようになったものであり、ペルー国内では認められたものの、アメリカのハーバード大学により否定されていた。野口の業績はカリオンの報告を科学的に証明したもので、その成否についてハーバード大学と大変な議論を経た後に野口の成果が正しいとされた。

他の業績として、渡米後すぐに行った、蛇毒によって引き起こされた溶血性変化に関する研究や、血清学的ヘルペドモナド(HERPETOMONADS)とリーシュマニアの分類(1926年サイエンス誌)がある。

前記の通り、野口はノーベル賞に何度も推薦を受けているが、自身は1926年のノーベル医学・生理学賞に、バクテリオファージ研究者であるフェリックス・デレーユを推薦している。

1902年(明治35年)蛇毒の血清学的研究

1911年(明治44年)梅毒スピロヘータの純粋培養(のちに否定)

1913年(大正2年)梅毒スピロヘータを進行性麻痺・脊髄癆患者の脳病理組織内で発見

1913年(大正2年)小児麻痺病原体特定(のちに否定)

1913年(大正2年)狂犬病病原体特定(のちに否定)

1918年(大正7年)エクアドルの黄熱病病原体特定(のちに否定)。翌年にかけてワクチンの開発を行う。

1926年(大正15年)ペルー疣とオロヤ熱が同じ病気の症状であることを証明

1927年(昭和2年)熱帯リーシュマニア症の研究

1927年(昭和2年)トラコーマ病原体特定(のちに否定)

この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)出典検索: "野口英世" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2019年12月)
野口は日本の旧千円札(E千円券)に採用されていた。
野口英世は農村部の貧しい農家に生まれたが、1歳で左手に障害を背負いながらも独学を通じて医学を心得たほか、生前は細菌学者として世界的な名声を得た。21世紀の現代において、野口を題材にした子供向けの偉人伝が日本国内で多数刊行され、医学研究者としては非常に知名度が高い。2004年には日本銀行券のE号千円札の肖像に選ばれ、2024年の改訂まで20年にわたり発行された。 趣味は浪花節、将棋、囲碁、油絵であった。ニューヨーク州シャンデークン(英語版)には野口自身が設計した別荘があり、油絵の多くはここで描かれた(画家でもある堀市郎に師事)。また野口英世が一度将棋を指すと、相手は野口英世が勝つまで勝負につき合わされたという逸話がある。 アメリカ合衆国・ニューヨークにあるロックフェラー大学の図書館入り口には、ロックフェラーとロシア人彫刻家カニョンコフが制作した野口の胸像がある。この胸像はロックフェラー財団からの贈呈により、福島県の猪苗代町にある野口英世記念館にも設置されている。また長野県佐久市にある川村吾蔵記念館には彫塑家川村吾蔵が制作した野口の胸像がある。さらに東京、上野恩賜公園の国立科学博物館前にも野口の銅像がある。

両親と生家

父の佐代助は酒好きの怠け者であり、野口家の貧困に拍車をかけた人物として、伝記ではもっぱら批判の対象とされることが多い。実際には性格的にむしろ人好きで好印象な人物であったとも言われる。後年、野口が恩師や友人たちを巧妙に説得して再三にわたり多額の負債を重ね「借金の天才」とまで呼ばれたほどの野口の要領の良さ・世渡りの上手さは父から受け継いだ才能であったといわれている。ただし野口は、酒好き放蕩好きな浪費家という佐代助の欠点をも受け継いでいるが、伝記では伏せられることが多い。 母のシカは農作業の傍らで副業として産婆を営むようになる。1899年(明治32年)、産婆の開業について政府による新しい免許制度が創設され、全ての産婆に免許の取得が義務付けられた時、シカは文字の読み書きができなかったが、近所の寺院の住職に頼み込んで一から読み書きを教えてもらい、国家試験に合格、正式な産婆の免許を取得し、生涯に2000件近くの出産に貢献した。野口は渡米後、母親にアメリカの自分の住所が刻印された判子を送っている。これは母親が大変字が下手な事を考慮して送ったものである。前記の通り、野口の母のシカはもともと文字の読み書きができず、正式な産婆の免許を取得するために苦労して一から読み書きを学んだ事情がある。1912年(明治45年/大正元年)にシカが野口に宛てて書いた手紙が1通現存しており、当て字の漢字(「勉強」を「べん京」)が混じったり、会津弁の表現・発音がそのまま出たりした(共通語なら「に」と書く助詞を「さ」、「え」となる箇所を「い(イ)」と書いたり、「写真」を「さしん」と書くなど)文章に、筆記の苦労が窺われる内容となっている。一度の帰国は母親からの手紙に端を発しており、帰国した折には母親とずっと一緒に居たとも伝えられている。 少年期の野口は家を疎ましく思い、死を覚悟するほど家を出たいと願っていた。高野川のほとりでの以下ような口論があった旨、姉の野口イヌの後年の回想にある。イヌ「私は家を出て行くので、長男のお前があの家を継ぎなさい」清作「俺は継ぎたくない。姉さんが婿をとって継いでくれ。あんな希望のない百姓の家などいらない、姉さんにくれてやる。」押し問答を続け、しまいに清作は川に飛び込もうとする。清作「俺が家を継がねばならないなら死ぬ。」(野口英世記念会「野口英世-少年期」) 『姉の語る野口英世の生い立』(非売品)に、1892年4月5日、十五歳の野口は同村の親戚二瓶トメ(おとめ)と結婚して披露宴の様子がある。仲人名、結婚期間の記述はない。離婚後、トメは裏磐梯桧原村に嫁ぎ、六人の子供を生んだ。晩年は桧原小学校の小使いになり、県視学による故人野口の功績の講演を聞いた。

異性関係

野口はクリスチャンであったが、会津若松の書生時代に洗礼を受けた日本基督教団若松栄町教会で出会った6歳年下の女学生・山内ヨネ子に懸想し、幾度も恋文を送る。しかし、女学校校長経由で教会牧師に連絡があり叱責を受ける。その後、東京の済生学舎で、逝去した医師の父の後を継ぐため、順天堂医院で看護婦をしながら女医を目指す山内に再会し学友となり、頭蓋骨を贈呈している。1899年(明治32年)清国に出向く直前には正装し湯島に下宿する山内に会いに行き、また清国より帰国した折には野口と山内の名を刻んだ指輪を贈っている。山内はそれを迷惑と感じたようで、下宿の主婦に依頼して以降の面会を拒否した。その後、山内は1902年(明治35年)に20歳で医師免許を取得、医師森川俊夫と結婚。会津若松で三省堂医院を開業する。野口は山内の従兄弟である菊地良馨経由で山内が結婚したことを知り、「夏の夜に飛び去る星、誰か追うものぞ。君よ、快活に世を送り給え」との一文を菊地に送っている。野口が日本に帰郷した際の記念写真には山内の姿がある。 渡米資金を得るために婚約を交わした斎藤ます子との関係は、渡米後の野口の悩みの種となった。血脇とやりとりされた手紙の中で幾度もこの件に触れており、斎藤ます子に対し「顔も醜く学がない」旨の評がある。血脇は破談を薦めるが、野口は自ら破談にすることはなく、先方から破談されるよう策していた。現代と適齢期の常識が異なり、婚期を逃すことを恐れた斎藤家から幾度も婚約履行の催促が来るのに対し、野口からは数年は研究で帰国できないと宣言する、欧州への留学資金を数千円要求するなど、ずれたやりとりが多く見られる。

血脇守之助との関係

野口は貧乏育ちのためか金銭感覚が鈍く、金遣いが荒かったことが知られる。留学前に血脇からもらった500円という当時としては大金を遊興で使い切ってしまった時には、彼もさすがに呆れてしばらく言葉を失ったといわれる。それでも血脇は野口の才能を信じて金貸しへ行き、彼のために再び留学資金を準備した。このことに野口は感涙したと言われている。 1922年(大正11年)、血脇が訪米した際、野口は大喜びして何日間も朝から夜まで付きっきりで案内してまわった。血脇が講演する時には通訳を買って出て、「私の大恩人の血脇守之助先生です」と紹介し、忙しいスケジュールの中を大統領にまで会わせた。別れ際、血脇は「君が若い頃は色々と世話をしてあげたが、今度は大変世話になった。これでお相子だな」と言ったが、野口は「私はアメリカに長く生活してきましたが、人の恩を忘れるようなことは決してしません。どうか昔のように清作と呼び捨てて下さい。その方が私にとってどんなにありがたいか知れません」と言葉を返した。

医学者として

フレクスナーに渡した履歴書には1893年(明治26年)5月に東京医科大学に入学し3年で卒業とあり、ロックフェラー医学研究所の公式記録にもその旨が記載されている。実際には1893年(明治26年)には会津若松で書生をしており、その後も医術開業試験予備校である済生学舎にも、僅か数か月しか通っていない。またアメリカで出した初論文から一貫して医学博士(M.D.)であることを明示していたが、日本には当時医学博士は数十人程度しかおらず、学歴詐称・肩書詐称の状態であった(もっとも済生学舎は当時、「東京専門学校済生学舎」と称しており、医師免許取得とともに卒業を認定したので、東京専門学校済生学舎の卒業生であること自体は事実である。ただし半年で卒業しているので3年も在籍はしていない。またMDは医師免許と同義語であり、医学博士Ph.D.とは異なる。現在でも日本の医師は、医学士BMBSであっても米国ではMDと称している)。1927年(昭和2年)に友人の堀市郎がアメリカの新聞記者に取材を受けた際に苦学生であったことを説明するために野口が大学を卒業していないことを語ったところ憤慨し、電報で取り消しを求めた。 野口がロックフェラー研究所に勤めていた頃、日本からの留学生と一緒に住んでいた時期がある。1年ほどの月日が経ったある日の夜、野口は留学生に「君もここへ来てから色々と勉強したことだろう。そろそろ論文を発表したらどうだい」と勧めたが、「英語が拙いため書けない」と拒まれてしまう。すると、「それならば、君が日本語で話したことを、僕が英文に直してあげよう」と言って、共同で執筆することにした。完成後、野口は「すぐにポストへ出して来なさい」と申告したが、留学生は「流石にもう遅いから明日にしましょう」と言い返した。これに対して野口は、「それでは駄目だ。今すぐ入れてきなさい。君と同じ研究を誰かがやっているかもしれないんだ。もし1日でも発表が遅れたら、君の発表じゃなくなってしまう。全てが無駄になるんだ」と強く言い聞かせた。留学生は強く感銘を受け、暗い夜道を走って論文を提出し、無事に帰国したという。

在米生活

ニューヨークでの将棋の相手は絵の師でもある写真家の堀市郎であり、囲碁の相手は彫塑家の川村吾蔵があたった。「野口さんが勝ち出すと、堀君が待ったをかけ、三手、四手も遡って最後に堀君が勝つまで待ったをする。2回戦は野口さんが勝つ。それで一勝一敗で夜遅くなり、その翌晩に対戦する。これが幾晩も幾年も続いた」と川村吾蔵が野口英世と堀市郎の将棋の様子を「野口博士との思い出」で綴っている。 1901年(明治34年)、野口が24歳の時に同世代の事業家である星一の計らいでアメリカ・フィラデルフィアに滞在していた前総理大臣伊藤博文の宿舎を訪ね、1時間ほど歓談を行っている。のちにお互いが千円紙幣の肖像に採用されることになる。 台湾医学界の重鎮であった杜聡明が京都大学の学生時代、ニューヨーク、ロックフェラー研究所にいる野口を訪ねた。研究所の食堂で野口と杜が日本語で歓談していると、食堂内に米国人が入ってきた。その途端、野口はさっと会話を日本語から英語に切り替えたという。杜聡明は、「これが真の国際マナーであり、国際人というものか」と感嘆した、と自らの書で野口英世について語っている(「中国名医列伝」・中公新書)。

野口英世語録

    志を得ざれば再び此の地を踏まず(青年期、上京の際、猪苗代の実家の柱に彫りこんだ言葉)

    人生の最大の幸福は一家の和楽である。円満なる親子、兄弟、師弟、友人の愛情に生きるより切なるものはない。

    努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ。

    絶望のどん底にいると想像し、泣き言をいって絶望しているのは、自分の成功を妨げ、そのうえ、心の平安を乱すばかりだ。

    人は能力だけではこの世に立つことはできない。能力と共に徳義を持つことが必要である。

    模倣から出発して独創にまで伸びてゆくのが、日本人の優れた性質である。それは逞しい能力でもある。

    ナポレオンは三時間しか寝なかった(口語)

    偉ぐなるのが敵討(ガタキウ)ちだ(口語)

    教えに来たのではありません。習いに来たのです。(ブラジルを訪れた時)

    自分のやりたいことを一所懸命にやり、それで人を助けることができれば幸せだ。

    私はこの世界に、何事かをなさんがために生まれてきた。

    学問は一種のギャンブルである。

    障害者であることは、学問においては問題にならない。

    名誉のためなら危ない橋でも渡る。

    過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。人生で変えることができるのは、自分と未来だけだ。

    忍耐は苦い。しかし、その実は甘い。(原典フランス語)

    英雄却相親(星一との写真に添え書き)

    人の一生の幸せも、災いも自分から作るもの、周りの人間も、周りの状況も、自分が作り出した影と知るべきである。

    まて己 咲かで散りなば 何が梅(順天堂医院の助手の頃に詠んだもの)

    正直であることが最高の手段だ。

    「偉人伝」としては、戦前からよく取り上げられる人物であった。死去から間もない1930年の雑誌『雄辨』の広告には、「水呑百姓から世界的大学者となった」野口が取り上げられた。

    野口英世記念医学賞 - 財団法人野口英世記念会が優れた医学研究に贈る賞。1957年(昭和32年)創設。

    1979年(昭和54年)、没地のガーナ共和国にて日本の援助により野口記念医学研究所が設立。

    2004年(平成16年)11月1日以降発行されている千円紙幣(日本銀行券E券)の肖像画になっている。

    2004年(平成16年)9月13日、野口英世の出身地に因んで、福島県耶麻郡猪苗代町の「翁島郵便局」が「野口英世の里郵便局」 と改称された。

    野口英世アフリカ賞 - 日本で開催されるアフリカ開発会議で表彰される賞。医学者が主な受賞対象となる。

    野口家

    清太郎━━岩吉==善之助(渡部氏)==佐代助(小檜山氏)━━清作(英世)

    戸田純子(埼玉県立皆野高等学校教諭。戦国時代の連歌師である猪苗代兼載を研究している)によると、父である佐代助の実家「小檜山氏」は、猪苗代兼載にゆかりがある家柄。

    サイモン・フレキス子ル、野口英世、蛇毒ノ血球溶解作用抗細菌溶解作用及毒性ニ就キテ 細菌學雜誌 1902年 1902巻 76号 p.193-222, doi:10.14828/jsb1895.1902.193

    サイモン・フレキス子ル、野口英世、【原著】蛇毒ノ血球溶解作用抗細菌溶解作用及毒性ニ就キテ 順天堂医学 1902年 M35巻 352号 p.259-290, doi:10.14789/pjmj.M35.259

    野口英世、黄熱病病原ニ關スル研究 実験医学雑誌 1919年 3巻 1号 p.59-60, doi:10.3412/jsb1917.3.1_59

    野口英世の伝記は非常に多数出版されている。野口の存命中にすでに日本語の伝記が1つ出ているが、理想化されていたため野口自身は気に入っていなかった。

    野口の死後、フレクスナーが短い評伝を書き、それに刺激されて医師で文筆家のグスタフ・エクスタイン(英語版)が訪日して資料を集めたうえで1931年に「野口英世伝」(原題"Noguchi")を書いた。また野口と交流のあった医学者の奥村鶴吉も1933年に伝記を出版した。多くの伝記はエクスタイン本と奥村本が元となっている。この2冊には私生活のルーズさも書かれている。

    野口が死去した年から多くの伝記が出版され続けているが、前記2冊を例外として立志伝・偉人伝として美化されたものだった。これは戦後もしばらく続き、業績が見直されて人間的な欠点も伝記に書かれるようになるのは1970年頃からである。1980年には多くの1次資料や関係者へのインタビューを元に書かれたイザベル・プレセットによる伝記が出版された。

    野口英世最後のたたかい(中山達郎) - ノンフィクション、2005年。

    野口英世(馬場正男) - ポプラ社の子供向け伝記、1982年。

    野口英世(浜野卓也) - ポプラ社の子供向け伝記、1998年。

    野口英世 - 大日本雄弁会講談社の絵本。

    遠き落日(渡辺淳一) - 小説、1979年。後に映画化、1992年。

    ノグチの母 野口英世物語(新藤兼人) - 小説、1992年。

    人間野口英世(池田貞武) - 小説、1978年。

    帰国(渡辺祐一) - 小説、1983年。

    Dr.NOGUCHI(むつ利之) - 漫画(全17巻)、1994-1997年。

    野口英世の少年時代 - 映画、関川秀雄監督、東映教育映画部製作、1956年。

    この他、児童向けの伝記や学習漫画などにも取り上げられている。

    ^ 野口家は代々貧農の家系であった。清作の母のシカは勤勉で真面目な性格であり、その性格が清作にも受け継がれたと言われる。一方、母の奉公先の二瓶家の紹介で婿入りした父の佐代助は、酒好きの怠け者で野口家の貧困に拍車をかけていたと言われ、清作の放蕩で多額の借金を重ねる悪癖は父親譲りであったとも言われている。しかし、父・佐代助は寺子屋に通って読み書きを習得しており、25年間にわたって逓送人(郵便配達人)を務めていた。また妻のシカは「おとっつあは天神様を背負ってきたんだべ」と言っており、清作の師・小林栄は著書の『博士の父』の中で「多くの人は父(佐代助)が酒飲みで家人に難儀をさせたことを悪く言うが、それではあまりにも気の毒だと思う。父上は決して悪い人ではない。まことにさっぱりとした良い人で無邪気な人である。手先の器用な人で、農業などしても巧者な人であった。」と評している(https://www.minyu-net.com/serial/isei/isei34.html 野口英世の父・佐代助])。

    ^ 当時の医者は内科的漢方医が主流で、農村では医療と法術祈祷の境界も明確ならざる認識にて祈祷師による医学的根拠の薄い民間治療に頼る傾向もあり、大火傷を負った清作の左手を完治させることはほぼ不可能に近い状況で、結果的に彼の指は癒着してしまった。明治政府は新しく医師免許法を敷き西洋医を田舎へ導入しようとしていた段階で、三ッ和村には外科手術が可能な西洋医はいなかった(仮にいたとしても野口家の経済状態では治療費を払うことができなかった可能性が高く、たとえ治療費を払えるだけの経済力があったとしても当時で清作の左手を完全に元通りにできる治療までは医療技術的に殆ど不可能であった事も暗示されている)。

    ^ 当時、義務教育制度はなかったが、小学校の学費は無料で、しかも小学校は野口家の向かい、母のシカが奉公していた二瓶家の敷地内にあり、当主の二瓶橘吾は公式に学務委員を務めていた。当時、多くの学童が一里〜二里の道程を歩いて学校に通っていた状況に鑑みると、清作が勉学を行うには恵まれた環境であったと言える。

    ^ 当時、半数以上の学童が様々な事情で退学していく中、家の手伝いなどで勉強が疎かになり落第したこともあったものの、上級生の時の成績は優秀で小学校卒業時の成績は首席であった。

    ^ ボッコとは会津弁で下駄や雪靴、スキー板の裏に付着する雪の塊のこと。多くの伝記では「てんぼう」(手が棒)と翻訳されて伝わっている。

    ^ 当時、高等小学校に通うことができたのは一部の裕福な家庭の子息だけであったが、小林は清作のために自ら学費を援助しており、当時の清作に対する小林の期待の大きさがうかがえる。また、清作自身も母や小林らの期待によく応え、高等小学校でも体操以外の成績はすべて首席であった。清作は左手が不自由なために、体操だけは苦手であったと言われている。また、現存する清作の4年間の成績表の体操の項目には点数が入っておらず、体操は学業評価の対象ではなかったと考えられる。なお、清作は右手で箸を持ちながら左手で弁当箱を持つことができなかったため、清作が学校に持って行く弁当は箸を使わずに右手だけで食べられるよう、いつも握り飯だったと言われている。

    ^ 清作に15円を全額渡すと即座に放蕩してしまい、学費が払えなくなることが分かったため、血脇は5円ずつ3回に分けて渡すようになったという逸話がある。

    ^ 多くの伝記で、この後期試験の受験者数80人のうち合格者数は4人のみだったとしているが、この数字は奥村鶴吉が1933年に出版した伝記の誤りが広まったもので、実際にはこのときの後期試験の受験者数は1084人、合格者数は224人である。また(野口を含む)済生学舎の在籍者は平均より合格率が高く、約800人の在籍者のうち、この年の春秋2回の後期試験で合わせて391人が合格している。

    ^ 伝染病研究所では学閥により冷遇されており、後に野口が研究所を辞めてアメリカへ渡る原因になったと言われるが、所長の北里柴三郎はその後も野口に対して便宜を図っており、また野口もアメリカから北里に宛てて多くの論文を送っていることから、野口と北里の関係は険悪であったとは考えにくく、この説に疑問を唱える意見もある。もともと、伝染病研究所は北里と帝国大学医学部との対立を発端として設立されており、研究所内における学閥的な風潮はそれほど強くはなかったと思われる。ただし、当時の研究員が平均28歳前後で大学を卒業し入所していた事情を考慮すると、22歳で紹介入所した野口が若輩扱いされていたのは年功序列的に致し方のない面もある。また、野口は当時、研究所勤務と同時に順天堂の雑誌編集と高山高等歯科医学院の講師も継続兼務しており、研究のための十分な時間を確保できず、研究所に在籍した8ヶ月の間に野口は一切研究に関わることはできなかったため、研究所内においては医学者としての実績・評価はない。

    ^ 「当世書生気質」が発刊されたのは1885年(明治18年)であり、当時まだ9歳であった英世の年齢を考慮しても主人公の名前と野口清作との間に直接の関係はない。しかし、逍遙は後に「自分の小説が野口英世の奮起の動機になったと知り、光栄に思う」との旨を語っている。

    ^ 斉藤ます子との結婚を前提とした婚約持参金の他に、小林夫人が内職で作った金、旧友から借りた金など計500円もの大金を渡航費として準備したが、横浜の遊郭でほとんどが使い果たされてしまった。結局、出航直前に血脇が高利貸しから借りた300円の金が渡航費となった。

    ^ ミッチェル博士はもともと彼の父親から受け継いだ蛇毒の研究に生涯をかけて取り組んでいた。

    ^ 同時期に同じ研究室で仕事をしていたハンス・ジンサー(Hans Zinsser)は、野口の方法により繰り返し純粋培養された野口株が病原性を失い、非病原性の梅毒スピロヘータの混入により変成した可能性があると報告した。一方、野口の報告に遅れて単離されたニコルズI株は、純粋培養には失敗したものの病原性を有し、生きた動物の睾丸を介して継代培養されて来た。試験管内でのニコルズI株の培養は、1981年にハワード・フィールドスティールらによって成功が報告され、別のグループによって独立に追試されたが、死んだウサギの睾丸の組織を培地としており、現在でも完全な純粋培養の報告例はない。今日野口株として保存されている標本の遺伝子の型は、病原性のTreponema pallidumではなく、非病原性のTreponema refrigensという別種のものであり、両者ともに1905年にドイツのフリッツ・シャウディン(Fritz Schaudinn)とエーリヒ・ホフマン(Erich Hoffmann)らのグループによって梅毒患者から単離と新種記載を報告された梅毒スピロヘータである。非病原性の梅毒スピロヘータであるTreponema refrigensと、野口本人が1912年に新種記載と純粋培養を報告した別の非病原性の梅毒スピロヘータであるTreponema phagedenis とは、野口の純粋培養の報告と前後して他に5例の純粋培養が報告されており、野口が最初ではない。また一般に非病原性梅毒スピロヘータを含むトレポネマ属は嫌気性細菌であり、野口も病原性梅毒スピロヘータの純粋培養には酸素の完全な除去が必須であると強調し、独自の酸素除去の実験項を含めて論文に報告したが、後に病原性梅毒スピロヘータであるTreponema pallidumがトレポネマ属としては例外的に酸素を必要とする微好気性細菌であることが判明し、フィールドスティールらのニコルズI株の試験管培養も1.5%の酸素濃度下で成功しており、病原性梅毒スピロヘータの培養には酸素濃度のコントロールが重要であった。野口が報告した方法では病原性梅毒スピロヘータの増殖が困難であることから、現在では野口は病原性梅毒スピロヘータの純粋培養には成功していなかったと考えられている。

    ^ 1930年に黄熱ワクチンを完成させ、1951年にその功績でノーベル医学賞を受賞する。

    ^ 野口の業績の中では黄熱病の研究が一般的には有名だが、現在、南アメリカの「黄熱病」で野口が発見したと報告した病原菌「レプトスピラ・イクテロイデス」は、黄熱病と類似した黄疸、発熱をきたすワイル病(黄疸出血性レプトスピラ症)の病原体と同一であることが黄熱病ウイルスの発見およびワクチンの開発によりノーベル賞を受賞したマックス・タイラーにより示された。また死去直前の秘書宛書簡にて英世は黄熱病原が濾過性病原体であることを認めている。1920年の論文 において野口は結論において「しかし、Leptospira icteroidesの発見はさらに他の場所において黄熱の症例の調査によって確認されるまで、その黄熱病の原因としてのその地位は確実に確立されたものと見なすべきものではない」 と述べている。またこの前後にThe journal of experimental medicineにおいて黄熱病の論文を発表している。この中で南アメリカ、アフリカの黄熱病の差異に関する直接的記載は明らかではなく、当時の研究状況などをふまえ、今後野口の黄熱病の業績に関しては科学史上十分に検討され客観的な記載が必要であろう。なおこのレプトスピラは1914年に稲田龍吉によって日本黄疸出血性スピロヘーター症の病原体として発見され1918年のエクアドルにおける野口の発見は正確には南アメリカの黄疸出血性レプトスピラ症の再発見およびワクチンの作製の可能性といえるかもしれない。

    ^ これは野口による唯一のノーベル賞推薦であった。

    ^ 継代培養された野口株からは病原性が喪失していたこと、非病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は前例があること、英世の報告した培養条件である完全無酸素下では病原性梅毒スピロヘータは増殖しないことなどが問題点である。

    ^ 令和6年(2024年)以降発行分に予定されている紙幣刷新により、北里柴三郎に変更されるまで。

    ^ 野口英世記念財団

    ^ 会津若松市 野口英世について

    ^ 仲野徹『生命科学者たちのむこうみずな日常と華麗なる研究 』河出書房新社、2019年

    ^ 『野口英世―21世紀に生きる』日本経済評論社、2004年、p403

    ^ “血脇守之助ちわきもりのすけ ~野口英世の育ての親~”. 我孫子市歯科医師会. 2020年7月31日閲覧。

    ^ “若松栄町教会のあらまし”. 日本基督教団若松栄町教会 (2013年5月3日). 2024年3月20日閲覧。

    ^ 『野口英世―21世紀に生きる』日本経済評論社、2004年、p43-48

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    ^ (a) Fieldsteel, A. H.; Cox, D. L.; Moeckli, R. A. "Cultivation of Virulent Treponema pallidum in Tissue Culture" Infect. Immun. 1981, 32(2), 908-915.(b) Norris, S. J. "In Vitro Cultivation of Treponema pallidum: Independent Confirmation" Infect. Immun. 1982, 36(1), 437-439.

    ^ Noguchi, T. "PURE CULTIVATION OF SPIROCHÆTA PHAGEDENIS (NEW SPECIES), A SPIRAL ORGANISM FOUND IN PHAGEDENIC LESIONS ON HUMAN EXTERNAL GENITALIA" J. Exp. Med. 1912, 16(3), 216-268.

    ^ 『官報』第8302号、明治44年2月27日、pp.672-673

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    ^ 米国各紙が弔詞を掲載『東京日日新聞』昭和3年5月24日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p602)

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    ^ 中山茂『野口英世』岩波書店、1995年、p157、イザベル・R. プレセット『野口英世』1987年、p163

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    ^ 浅倉稔生『フィラデルフィアの野口英世』三修社、1987年、p146

    ^ Lederer, Susan E. Subjected to Science: Human Experimentation in America before the Second World War, Johns Hopkins University Press, 1995/1997 paperback

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    ^ デイヴィッド・ロスマン『医療倫理の夜明け』

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    ^ イザベル・R. プレセット『野口英世』1987年、p160

    ^ 仲野徹『なかのとおるの生命科学者の伝記を読む』学研メディカル秀潤社、2011年

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    ^ LEPTOSPIRA ICTEROIDES AND YELLOW FEVER、アメリカ科学アカデミー紀要PNAS 1920 Mar;6(3):110-1.

    ^ 原文は「But until the finding of Leptospira icteroides is confirmed by the investigation of cases of yellow fever in still other places, its standing as the inciting agent of yellow fever will have to be regarded as not yet certainly established.」

    ^ 『背信の科学者たち』5章、Noguchi and His Patrons

    ^ 1926年 - 1928年サイエンス誌数編を含む17編

    ^ 中山茂『野口英世』岩波書店、1995年、p226

    ^ Hideyo Noguchi - Nomination Database(ノーベル財団)

    ^ 図書館だより 第148号 - 福島県立図書館(2004年8月6日)

    ^ 天野祐吉『嘘八百これでもか!!! -昭和戰前編-』文春文庫ビジュアル版V50-10 ISBN 4-16-810823-6 1994年 P.166-167

    ^ 野口英世記念医学賞

    ^ “感染症の早期封じ込めを目指す:ガーナの野口記念医学研究所に「先端感染症研究センター」が完成”. JICA (2019年). 2020年2月1日閲覧。

    ^ 野口英世の里郵便局

    ^ 戸田純子(埼玉県立皆野高等学校教諭) (2009年10月7日). “野口英世の父・佐代助 ”天才”の血受け継ぐ人物?”. 福島民友. 2018年2月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年2月20日閲覧。

    ^ 中山茂『野口英世』岩波書店、1995年、あとがき

    ^ 『野口英世―21世紀に生きる』日本経済評論社、2004年、p241-p259 『野口英世 知られざる軌跡』1992年、13章

    山本厚子『野口英世 知られざる軌跡 メリー・ロレッタ・ダージズとの出会い』(山手書房新社、1992年) ISBN 4841300430

    飯沼信子『野口英世の妻』(新人物往来社、1992年) ISBN 4404018940

    渡辺淳一『遠き落日』(角川文庫) ISBN 4041307147、ISBN 4041307155

    ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド『背信の科学者たち』 (化学同人、1988年) ISBN 475980160X

      ウイリアム・ブロード、ニコラス・ウェイド『背信の科学者たち』( 講談社、2006年) ISBN 4062575353 - 上の書籍の新書版

      北篤『正伝 野口英世』(翠楊社、1980年) - 伝記的小説

      "Noguchi and His Patrons" by Isabel Rosanoff Plesset, Fairleigh Dickinson Univ Press,(1980年)ISBN 0838623476

      中山茂『野口英世』(朝日新聞社 1978年)1989年に改定、岩波同時代ライブラリー収録1995年

      小桧山六郎『医聖 野口英世を育てた人々』(福島民友新聞社、2008年) ISBN 978-4897577043

      『野口英世―少年期』野口英世記念会 (1980年)

      坪内逍遙『当世書生気質』(岩波文庫) ISBN 978-4003100424

      小泉丹『野口英世 [改稿]』(岩波新書、1939年)

      イザベル・R・プレセット著、翻訳 中井久夫、枡矢好弘『野口英世』(星和書店、1987年2月) ISBN 4791101545

      宮島幹之助「野口英世君逝く」(『細菌學雜誌』1928巻 387号、1928年) p.a1-a3, doi:10.14828/jsb1895.1928.387_a1

        済生学舎

        日本医科大学

        ペンシルベニア大学

        公益財団法人野口英世記念会

        野口英世記念館

        猪苗代氏

        細菌学

        梅毒

        黄熱

        福島県

        火傷

        野口英世青春通り

        小林栄

        渡部鼎

        血脇守之助

        サイモン・フレクスナー

        星一

        石塚三郎

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        長谷川泰

        北里柴三郎

        ジョン・ロックフェラー

        イサム・ノグチ - イサムの父・米次郎と親交があり、若い頃のイサムに芸術の道へ進む事を薦めている。名字は同じだが親戚関係はない [1]。

        岡田満

        藤生金六

        藤沢武夫

        中島知久平

        野口英世記念館

        会津若松市 野口英世

        米国財団法人 野口医学研究所

        野口英世|近代日本人の肖像

        横浜市 野口英世記念公園内 旧細菌検査室

        野口英世の里郵便局

        みんゆうNet 野口英世の父・野口佐代助について

        医学界の発展に人生を捧げた男「野口英世」とはどのような人物? 生涯やエピソード

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        伊藤博文

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        野口英世

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        1876年生

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野口英世と近い名前の人

野口 裕司(のぐち ひろし)
1972年2月25日生まれの有名人 茨城出身

野口 裕司(のぐち ひろし、1972年2月25日 - )は、茨城県出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 1994年に当時ジャパンフットボールリーグ所属の京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)…


野口 恒(のぐち ひさし)
1945年4月12日生まれの有名人 石川出身

『カードビジネス戦争』 野口 恒(のぐちひさし、1945年 - )は日本のジャーナリスト、経済評論家。 フリージャーナリスト。 「ものづくり」、「製造業」から「コンテンツ」、「文化産業」、「ITのト…

野口 均(のぐち ひとし)
1947年6月7日生まれの有名人 埼玉出身

6月7日生まれwiki情報なし(2025/03/30 16:32時点)

野口 征吾(のぐち せいご)
【FLAME】
1984年10月19日生まれの有名人 東京出身

野口 征吾(のぐち せいご、1984年10月19日 - )は、日本の実業家、歌手、俳優。ダンスユニットFLAMEの元メンバー。東京都出身。血液型はA型。ヴィジョンファクトリー、EMALFを経て芸能事務…

野口 幸司(のぐち こうじ)
1970年6月5日生まれの有名人 千葉出身

野口 幸司(のぐち こうじ、1970年6月5日 - )は、千葉県出身の元サッカー選手、指導者、解説者。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。 船橋市立船橋高等学校ではインターハイ2連覇、高校選…

野口 ちえこ(のぐち ちえこ)
1990年10月13日生まれの有名人 東京出身

現在、削除の方針に従って、この項目の一部の版または全体を削除することが審議されています。 削除についての議論は、削除依頼の依頼サブページで行われています。削除の議論中はこのお知らせを除去しないでくださ…


野口 綾子(のぐち あやこ)
1982年4月6日生まれの有名人 埼玉出身

ホリプロ・アナウンス室|野口綾子 野口 綾子(のぐち あやこ、1982年4月6日 - )は、タレントMC、元グラビアアイドル。 事務所はホリプロ(アナウンサーズプロモーション)。埼玉県さいたま市出…

野口 由佳(のぐち ゆか)
1988年1月8日生まれの有名人 埼玉出身

野口 由佳(のぐち ゆか、1988年1月8日 - )は、かつてテンカラットに所属していた日本の元ファッションモデル、女優。 現在は東京・表参道にある美容室『ROI』(ロイ)所属のヘアメイクアップアー…

野口 径(のぐち みちこ)
1981年7月4日生まれの有名人 神奈川出身

野口 径(のぐち みちこ、1981年7月4日 - )は、日本の女優。神奈川県出身。トゥフロント所属。文学座42期生。 銀狼怪奇ファイル〜二つの頭脳を持つ少年〜(1996年、日本テレビ) - 生徒 役…

野口 聖古(のぐち せいこ)
1981年1月13日生まれの有名人 静岡出身

野口 聖古(のぐち せいこ、1981年1月13日 - )は、日本の女優、声優、ナレーター。J.CLIP、リベルタ所属。静岡県出身。 小早川伸木の恋(2006年、フジテレビ) - 仁美 役 がきんちょ…

野口 ふみえ(のぐち ふみえ)
1938年10月13日生まれの有名人 東京出身

野口 ふみえ(のぐち ふみえ、1938年10月13日 - )は、日本の女優。本名、宇野 ふみえ。旧姓名は芸名と同じ。夫は東宝プロデューサーの宇野博之。 東京府(現・東京都) 世田谷区出身。調布高校卒…


野口 早苗(のぐち さなえ)
1963年10月20日生まれの有名人 千葉出身

野口 早苗(のぐち さなえ、1963年10月20日 - )は、日本の女優、声優。千葉県出身。身長162cm。体重47kg。 1982年に円演劇研究所入所。1985年演劇集団 円会員昇格。 木曜ゴー…

野口 かおる(のぐち かおる)
1976年5月6日生まれの有名人 千葉出身

野口 かおる(のぐち かおる、1976年5月6日 - )は、日本の女優・ナレーター。千葉県市川市出身。クリオネ所属。血液型はA型、身長162cm。 大妻中学校・高等学校、早稲田大学教育学部教育学科社…

野口 恵(のぐち めぐみ)
1986年3月24日生まれの有名人 東京出身

野口 恵(のぐち めぐみ、1986年3月24日 - )は、日本のフリーアナウンサー。西日本放送の元アナウンサーで、プロサッカークラブ「東京ヴェルディ1969」のチームスタッフメンバーを務めていた。 …

野口 竜(のぐち りゅう)
1944年1月1日生まれの有名人 福岡出身

野口 竜(のぐち りゅう、1944年〈昭和19年〉1月1日 - 2012年〈平成24年〉1月2日、本名:野口 勝)は日本の漫画家、デザイナー、イラストレーター。別名:野口まさる、久留米東、野口太陽。福…

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この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「野口英世」を素材として二次利用しています。

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