釜本邦茂の情報(かまもとくにしげ) サッカー選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


釜本 邦茂さんについて調べます
■名前・氏名 |
釜本邦茂と関係のある人
デットマール=クラマー: 当時のクラマーの教え子には釜本邦茂、杉山隆一らがいた。 吉田義男: 浜村淳・山城新伍・釜本邦茂・元毎日放送アナウンサーの野村啓司は高校の後輩である。 木村和司: 当時のサッカーは『Number』ですら同じ年9月20日号の釜本邦茂引退記念号で初めてサッカー特集が成立するというマイナー状況だった。 大黒将志: 小学1年次より豊中SSに所属し、3年次からは元日本代表FWの釜本邦茂が代表を務めていた釜本FC(ガンバ大阪ジュニアの前身)でもプレー。 宮澤喜一: また共催に向けての重要な局面に於いてもアドバイスを送り、最終的に日韓共催を決断した鳩首会談に長沼、岡野俊一郎、川淵三郎、小倉純二、衛藤征士郎、釜本邦茂と参加し、共催を後押した。 松山吉之: G大阪(当時は松下電器)には、家庭の事情で実家に帰ってきていることを知った高校、大学時代の大先輩の釜本邦茂監督(当時)に「暇なときにボールを蹴りに来い!」と誘われ入団した。 小城得達: 1968年メキシコシティオリンピックで、日本は酸素の薄い高地・メキシコに合わせた省エネ作戦を行い、4DFの後ろにスイーパーを置いて5人ないし6人で守り、釜本邦茂・杉山隆一コンビの速攻を生かす作戦で銅メダルを獲得。 吉村大志郎: ブラジル時代は俊足FWとして得点を重ねていたが、選手の技術水準が低かったというチーム事情から中盤にポジションを移し、同年4月に加入していたセンターフォワードの釜本邦茂とコンビでヤンマーを常勝クラブへと引き上げていった。 岡田武史: 岡田は今大会における目標を「ベスト4入り」と表明していたが、親善試合で結果が出せなかったことから、その目標は「非現実的」だとして国内外のマスコミに酷評され続けた ほか、グループリーグの対戦相手発表を受けて、セルジオ越後や釜本邦茂、杉山茂樹などのサッカー評論家が1勝もせぬままのグループステージ敗退を予想するなど、サポーターやマスコミに渦巻く不信感と低評価の中ワールドカップ本戦に臨んだ。 木村和司: 三度の受賞は釜本邦茂7度に次ぐ杉山隆一と並ぶ史上2位。 三浦知良: また1993年12月にはACミラン主催のチャリティーマッチに招待され、世界選抜のメンバーとして先発出場(この様なチャリティーマッチへの日本人選手の出場は、これまで釜本邦茂、奥寺康彦のみであった。 小城得達: 昭和40年代を代表する名選手の1人であり、釜本邦茂・杉山隆一・宮本輝紀と共に当時のスタープレイヤーの一人。 長沼健: 1984年、日本のサッカー界初の引退試合「釜本邦茂引退試合 ヤンマーディーゼル対日本サッカーリーグ選抜」(国立競技場)開催に尽力。 杉山隆一: 2大スターとして釜本邦茂とよく比較されたが、俊足ドリブルを主体とするプレースタイルのためか故障が多く、トッププレーヤーとしての選手寿命は釜本よりも短かった。 森孝慈: 更に同年度の全国高校サッカー選手権で、釜本邦茂・二村昭雄らを擁する山城高校を破り優勝、当時の高校の全タイトル、高校2冠を達成した。 江藤愼一: 同年の暮れには元サッカー日本代表の釜本邦茂が講演に訪れ、流れで野球場でバッティングをしてみることになった釜本はプロ志望の投手と対戦。 石塚啓次: ヴェルディ時代の1994年、ヒーローインタビューに終始不遜な姿勢で臨み、同郷で高校の先輩にあたる釜本邦茂の話題を振られても「アハハ、よくわかんない」と答え、最後に「僕を出したら優勝出来るんで、よろしくお願いします」と発言、この様子は地上波の生中継でも流れ、顰蹙を買った(後日「テレビを観たお母さんに(電話で)怒られた」として反省もしている)。 奥寺康彦: アジア連盟からは釜本邦茂が推薦されていたが、ドイツとの関係が深い奥寺が選ばれた。 奥寺康彦: (この様な世界選抜のメンバーに選出された日本人選手は釜本邦茂に次いで2人目となった)。 賀川浩: 「釜本邦茂・ストライカーの技術と戦術」(講談社) 加茂周: 1967年、ヤンマーディーゼルサッカー部は釜本邦茂を始めとする多くの新人を迎えるのに合わせるようにスタッフ陣も刷新され、それまで主力選手だった鬼武健二が選手兼監督、加茂がコーチ、安達貞至がマネージャーに転じた。 大西忠生: 紫野高校時代は山城高校の釜本邦茂・二村昭雄と共に「京都三羽ガラス」と称された。 呂比須ワグナー: 2002年10月19日、博多の森球技場でのヴァンフォーレ甲府戦のゴールで、日本リーグ・JFL・Jリーグの合計得点が釜本邦茂の202ゴールを超えて203ゴールとなった。 桑原楽之: 1968年のメキシコシティ五輪の日本代表にも選出され、1次リーグ2戦目の対ブラジル戦では、ブラジルのセンターバックが巨漢のため、釜本邦茂をHBに下げヘディングの強い桑原がFWとして先発出場、桑原が競り合ってこぼれ球を釜本が狙うという作戦を取った。 寺田農: また、釜本邦茂は早稲田大学の後輩である。 三浦知良: 釜本邦茂と共に、国際Aマッチ1試合で6得点の日本代表1試合最多得点記録、通算得点記録(55得点)を持つ(2011年時点)。 江藤慎一: 同年の暮れには元サッカー日本代表の釜本邦茂が講演に訪れ、流れで野球場でバッティングをしてみることになった釜本はプロ志望の投手と対戦。 松波正信: また当時の監督で元日本代表のストライカーだった釜本邦茂から「お前を日本一のFWに育ててやる」と口説かれた事と当時のJリーグを代表するFW永島昭浩がガンバに居た事も入団の決め手となった。 下村幸男: さらに第40回全国高等学校蹴球選手権大会でも好成績を上げ、決勝では釜本邦茂や二村昭雄らを擁する山城高校相手に2-0で勝利に導き二冠を達成した。 澤穂希: 釜本邦茂を超え、男女を通じての代表最多得点記録保持者となった。 |
釜本邦茂の情報まとめ

釜本 邦茂(かまもと くにしげ)さんの誕生日は1944年4月15日です。京都出身のサッカー選手のようです。

引退、テレビ、現在、病気、結婚、事件、父親、母親、兄弟、趣味に関する情報もありますね。去年の情報もありました。釜本邦茂の現在の年齢は80歳のようです。
釜本邦茂のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)釜本 邦茂(かまもと くにしげ、1944年4月15日 - )は、日本(京都府京都市右京区太秦出身)の元サッカー選手、元サッカー指導者、元政治家、実業家。自由民主党所属の元参議院議員(1期)。日本サッカー協会 (JFA) 顧問。現役時代のポジションはフォワード。元日本代表。 日本サッカーリーグでは、251試合出場し、通算202得点(歴代1位)、通算79アシスト(歴代1位)を記録。得点王7回、アシスト王3回、年間優秀11人賞14回、日本年間最優秀選手賞7回受賞(歴代1位)と傑出した活躍を見せた。また、サッカー日本代表として国際Aマッチ76試合75得点(総通算231試合153得点)を記録し、1968年メキシコオリンピックでは、アジア人初の得点王となった。2005年第1回日本サッカー殿堂入り。 日本史上最高のストライカーと称されている。ラモス瑠偉は「体中に筋肉が付いていて、背が高い。ボールがとにかく収まる。そしてシュートは、振りの速さと正確さがすさまじかった。釜本さんを超える日本人センターフォワードが出てこない。」と評した。 右足から繰り出される強力なシュートが最大の武器。特に右45度からのシュートは正確無比 で、そのレベルは恩師のデットマール・クラマー曰く世界最高クラスであった。また、左足からのシュートも右足ほどではないが正確であり、跳躍力を活かしたヘディングシュートも美しく、後に釜本は、自らのシュートについて「5割は右足。左足が3割で、頭が2割」と語っている。即ち、あらゆる形からゴールを奪う事が出来る万能型フォワードであった。右足のシュートは、自身の若い頃に、プレースタイルに惚れ込んでいた往年のポルトガルの名ストライカー・エウゼビオのフィルム映像を幾度も見て分析したことによるものである。映像分析から、エウゼビオはボール保持からシュートに至るまでの一連の動作が自身の動きより1つ少ない事に気づき、そこからシュートフォームを体得する。他、エウゼビオが得点後に大股で跳躍して、握った拳を腰から胸に突き上げる動作をしているが、現役当時の釜本もゴール後にエウゼビオと同じゴールパフォーマンスを行っているのが確認出来る。 対戦相手は釜本の突破と右足からの強烈なシュートを警戒し、それを阻止する事に神経を集中させる。そこで左足のシュートが威力を発揮した。1974年の日本リーグ通算100得点目は左足のトゥキック、1981年11月1日の通算200得点目も左足シュートであった。 また当初は得点能力には秀でたものの、ディフェンスを背負った状態でボールをキープし、そこから反転してシュートへ持ち込む一連の動作に不安が残っていた。この弱点は日本代表コーチのクラマーや、西ドイツ留学当時の恩師、ユップ・デアヴァルといった優れた指導者の下で改善し、「(ペナルティエリア内でディフェンス3人がかりの)マークを受けていても自分にパスを出すべきだ」、「敵が来たら、体でブロックしてシュートを打てばいい」と語るほどディフェンスをかわす動きに自信を付けていった(後述)。 1968年メキシコオリンピックでは7得点を挙げ、得点王に輝き、日本代表の銅メダル獲得にも大きく貢献した。 日本代表では杉山隆一との名コンビで知られた。1964年東京オリンピック当時は「20万ドルの足を持つ男」の異名で呼ばれた杉山の方が有名な存在であったが、後に釜本がストライカーとしての才能を開花させると、杉山はアシスト役に徹する様になった。そしてメキシコ五輪では釜本の記録した7得点のうち4得点は杉山のアシストからの得点であった。 引退するきっかけは自宅において椅子から立ち上がる際テーブルに体を痛打、この時「もう(日常の簡単な動作さえ出来ないのなら)選手は仕舞いやな」と決める。 1984年に引退後、関西テレビのワイドショー番組シュートinサタデーのキャスターを経て、1991年にヤンマークラブの選手・監督で創設された松下電器(後のガンバ大阪)の監督に就任。1995年から2001年まで参議院議員を1期務め、労働政務次官を務めた。現在は日本サッカー協会顧問。2005年第1回日本サッカー殿堂入り。2006年9月より京都文教大学客員教授(文化実践論)。また、京都府のゴルフ場「クラウンヒルズ京都ゴルフクラブ」オーナーに就任した。 太秦小学校と道を挟んだ高台にある長屋に生まれる。小学校に上がるまでは近所の広隆寺の境内が遊び場だった。京都市立太秦小学校 でサッカーを始める。市立蜂ヶ岡中学校3年の時、主将として京阪神三都市大会に出場、同大会にて優勝を果たし、京阪神地域の指導者の注目を集めるようになった。 1960年に京都府立山城高等学校に入学しサッカー部へ入部。森貞雄監督の下でレギュラーの座を掴むと、10月の熊本国民体育大会にて優勝。 1961年に京都府サッカー協会会長の藤田静夫(後の日本サッカー協会会長)の計らいにより大学生以上を対象とした講習会に特別参加。ここで、FIFAコーチ、デットマール・クラマーに会い、薫陶を受ける。 1962年1月には全国高校サッカー選手権にて同校を準優勝に輝く。決勝戦は広島県代表の修道高等学校との対戦となったが、二村昭雄を怪我で欠いた影響もあり2-4で敗れた。 同年4月には高校選手権で戦った森孝慈らと共に日本ユース代表に選出され、第4回アジアユース大会に出場した。 1963年に早稲田大学第二商学部入学。関東大学リーグで優勝を果たし、11得点で得点王。この年を含め4年連続得点王。日本ユース代表主将として第5回アジアユース選手権にも出場。1964年1月、日立製作所(現柏レイソル)を破り天皇杯優勝。1967年1月、天皇杯で東洋工業(後のサンフレッチェ広島)を破り優勝。(以後、天皇杯での大学勢の優勝はない) 早稲田大学を率いて天皇杯制覇、関東リーグ4年連続得点王の実績から多くの企業から誘いを受けた。特に三菱重工(後の浦和レッドダイヤモンズ)からの勧誘は熱心で、大学の同僚の森孝慈が入社を決めた事で三菱入りへ傾いたが、ヤンマーディーゼル(後のセレッソ大阪)の山岡浩二郎サッカー部部長や早大の先輩で関西の実力者、川本泰三の勧めもあり、1967年4月、ヤンマーに入社する事になった。同い年で同期入社の水口洋次は無二の親友。 日本サッカーリーグ、豊田自動織機戦でデビューを飾ると、この試合で初得点を決めた。同年は14得点を挙げたが、古河の木村武夫に1点差で得点王のタイトルを逃した。関西の弱小チームであったヤンマーを釜本の強い個性で牽引していった。また同年5月には日系ブラジル人のネルソン吉村(後に帰化し吉村大志郎と名乗る)が加入。吉村の南米出身者らしい柔軟なボールタッチは目を見張るものがあり、釜本も吉村との練習や試合中で、貪欲に学習した。会社も釜本や吉村を始めとした選手補強や、施設の整備や選手の待遇改善などの支援を積極的に行い、やがてリーグを代表する強豪へと成長していった。1968年には14ゴールを挙げて初の得点王に輝いた。 1969年1月天皇杯で三菱重工を破り、ヤンマー初優勝。決勝ゴールをあげる活躍で初のビッグタイトルをもたらした。
ヤンマーや日本代表での活躍(後述)など順調な成長を見せていた釜本であったが、1970年にウイルス性肝炎を患い選手キャリアを中断、入院生活を余儀なくされた。復帰後も度々故障が続くなどコンディションが完全に回復するまで3年間を有したが、前述の吉村を始めとしたブラジル出身者と、それに刺激され徐々に実力を付けた日本人選手の奮闘もあって1971年には日本リーグと、天皇杯の二冠を獲得した。 そして、病気が完治するとGK西片、DF北村、松村、浜頭、水口、MF吉村、小林、阿部、FW今村、釜本、堀井らの、ほぼ不動のメンバーを擁して1974年、1975年の日本リーグ連覇、1975年の天皇杯制覇に貢献。釜本自身も1974年10月20日の日本リーグ、対三菱戦において通算100得点を達成した。この頃には試合の流れを読んだゲームメイクやチャンスメイクも担当する様になり、また若い頃の様な豪快なプレーだけでなく、相手ディフェンスのマークを一瞬外し、再びゴール前の危険地帯へ飛び込む「消える動き」も身に付けるなど 第2の最盛期を迎えた。 1978年2月、ヤンマーの選手兼任監督に就任、全盛期を支えた選手達が少しずつチームを去る節目の時期でもあった。若手の楚輪博の成長もあって、釜本はゴール前での得点に専念する様になった。そして1981年11月1日の対本田技研戦において通算200得点と201得点を記録。この2得点はいずれも楚輪のアシストから生まれた。 その後、1982年5月20日対マツダ(後のサンフレッチェ広島)戦で右足首アキレス腱断裂。8月11日、練習中に同じ個所を切り選手生活の危機に直面した。そして1年半後の1983年11月3日、日本リーグ対読売クラブ(後の東京ヴェルディ)で復帰を果たし、1984年1月1日の天皇杯決勝、対日産自動車(後の横浜F・マリノス)戦に後半途中出場。これが公式戦最後の試合出場となった。 同年8月25日の「釜本邦茂引退試合」、ヤンマーディーゼル対日本サッカーリーグ選抜戦は、東京・国立霞ヶ丘競技場陸上競技場に6万2千人の観衆を集め行なわれ、更に通路にまでも人で溢れかえった。ゲスト・プレーヤーに往年のスター選手ペレとヴォルフガング・オヴェラートを迎えた試合は、釜本自身が前半15分に得点を決め引退の花道を飾った。試合後の競技場にはサポーターから「釜本コール」が鳴り響いた。日本リーグ通算202得点(ハットトリック13回)、79アシストの数字を残した。 代表レベルでは、高校2年、3年次に日本ユース代表に選出されアジアユース大会に出場。 早稲田大学1年次の1963年には日本B代表に選出され、同年秋に開催されたプレ五輪大会に出場した。 翌1964年に19歳で日本代表に選出されると東南アジア遠征に参加。同年2月21日のタイ空軍戦で代表デビューを飾ると、同25日のスランゴール州選抜戦で代表初得点、3月3日のシンガポール戦で国際Aマッチデビューを飾った。この遠征では5試合出場3得点を記録し、これ以降、日本代表へ定着していった。そして地元日本で開催された東京オリンピックに参加、10月14日の1次リーグ、アルゼンチン五輪代表戦では81分に川淵三郎の同点ゴールをアシスト。日本はベスト8でチェコスロバキア五輪代表に敗退したが、FIFAと日本蹴球協会が主催する敗者トーナメント(大阪トーナメント)に参加。10月20日の5・6位決定戦、ユーゴスラビア五輪代表で1得点を決めたが、釜本自身は消化不良の大会となった。 東京オリンピック当時は技術や駆け引きの面で未熟さを見せていたが、2年後の1966年12月、第5回アジア大会ではエース級に成長し、6得点を挙げ大会3位入賞に貢献した。1967年、ブラジルのパルメイラスを招いて、親善試合を4試合して、1勝3敗という成績であったが、第2戦の1967年6月21日に行われた試合では決勝ゴールを決め、外国プロサッカークラブに対し初勝利を飾った。しかし、その後1967年7月末からの日本代表の南米合宿でパルメイラスと再戦し、他にペルーB代表やブラジル2部のチームと合計6試合、対戦したが1分5敗の成績で釜本は全試合無得点で帰国した。しかし、同年9月から10月に開催されたメキシコオリンピックアジア予選に出場して、9月27日の初戦フィリピン戦のダブルハットトリックで15-0で大勝した。フィリピン戦の6得点は、三浦知良と並び日本代表1試合最多得点記録である(2011年時点。FIFAでは三浦知良の単独記録としている。同30日の台湾戦のハットトリックを含む11得点を挙げる活躍で、本大会出場に貢献した。しかし、傑出した得点能力の一方でボールコントロールや、相手マークを外す動きには依然として問題が残っていた。 翌1968年1月にクラマーの勧めもあり、西ドイツの1.FCザールブリュッケンへ短期留学。後に西ドイツ代表監督を務めるユップ・デアヴァルから指導を受けると、この事が選手としての重要な転機となった。デアヴァルはフィジカルを高める特別なメニューを釜本に課し、それと並行してゲーム形式のトレーニングも行った。またドイツサッカー協会(DFB)の特例により公式戦へも参加するなど貴重な経験を積んだ。そしてダイヤの原石であった釜本は、プロの厳しいトレーニングを受けた3ヶ月の留学の結果、逞しさとボールコントロールのテクニックに秀でた選手へと成長を遂げた。
留学後に日本代表へ合流、オリンピックに向け組まれた親善試合では留学の成果を発揮し、同年6月23日のアーセナルFC戦で豪快なダイビングヘッドから得点を挙げるなど、外国の屈強なディフェンス相手に互角に渡り合った。夏のヨーロッパ遠征を終える頃には日本代表の方向性も「堅守からのカウンター攻撃。釜本のゴール前での決定力を生かす」へと固まる。しかし、日本代表は日本でのアーセナル戦からその欧州遠征でプロのクラブやチェコ五輪代表と対戦して11連敗を記録し、遠征の最後にドイツのアマチュアのレクリングバウゼン選抜チームと対戦してようやく1勝したのみで、遠征のチーム成績は良くなかった。そして同年10月のメキシコ五輪で釜本は7得点2アシストの全得点に絡む活躍。準決勝ではハンガリーに0-5で敗れたが、3位決定戦では地元メキシコを2-0で破り 銅メダルを獲得し、同大会の得点王に輝いた。 メキシコ五輪での成功を受け、次の目標は1970年のFIFAワールドカップ・メキシコ大会出場へと向けられた。メキシコ五輪の後、釜本の元には、西ドイツ・フランス・メキシコ・エクアドルなどからのオファーが相次ぎ、釜本自身は恩師・デットマール・クラマーの母国でもある西ドイツでプレーすることを望んでいたという。しかし、アジア遠征で水に当たり、黄疸がでてしまう。1969年6月16日、日本代表合宿中に倒れ、ウイルス性肝炎と診断され兵庫県西宮市内の病院へ入院。50日後の8月5日に退院するも、医師の許可が下りず10月のメキシコ大会予選は欠場、釜本を欠いた日本代表は予選敗退に終わった。釜本は本来のコンディションを取り戻すのに数年を有し、4年間は試合出場と通院生活が続いた。 1970年3月、日本代表に復帰を果たすが、長年コーチとして代表を指導したクラマーは去り、メキシコ五輪銅メダル獲得に貢献したベテラン選手達は一人また一人と代表を去る中で、リーダーとしての重責を担う様にもなった。1970年12月の第6回アジア大会で4位。1972年7月のムルデカ大会で15得点を挙げ得点王に。日本を3位に導いたものの、1973年5月のFIFAワールドカップ・西ドイツ大会予選、1976年3月のモントリオールオリンピック予選では敗退が続いた。 モントリオールオリンピック予選後に代表引退を決意していたが、二宮寛監督の説得により復帰。そして1976年8月、ムルデカ大会では釜本は二列目に下がり、FWの奥寺康彦とのコンビネーションで新境地を開拓し同大会の準優勝に貢献した。しかし、1977年3月のFIFAワールドカップ・アルゼンチン大会予選ではイスラエル戦前のウォーミングアップ中に肉離れを起こし、それでも怪我を押して出場を続けたが、無得点に終わり、またチームも韓国とイスラエルに競り負け、代表引退を決断、同年9月14日のニューヨーク・コスモス戦を最後に日本代表を引退した。日本代表として1964年から1977年までの13年間に国際Aマッチ76試合75得点(総通算231試合153得点)を記録し、これは現在でも男子による日本代表の国際Aマッチ最多得点記録である。男女を通じては2011年7月1日に澤穂希が78得点目をあげ記録を塗り替えており、釜本本人は「(自分の記録が)まさか女の子に抜かれるとは」とコメントしている。 メキシコ五輪終了後直後の1968年11月6日にリオデジャネイロのマラカナン・スタジアムで開催された、ブラジル対世界選抜の試合に招集。これは世界選抜の監督を務めたクラマーの推薦もあっての実現であったが、釜本は日本代表の仲間と共に帰国する事を選択した。この試合にはブラジルはペレ、ロベルト・リベリーノ。世界選抜にフランツ・ベッケンバウアー、レフ・ヤシンらのスター選手たちが多数出場していた。 その12年後の1980年12月には世界選抜の選手として、スペインで開催されたユニセフ慈善サッカー大会に出場。世界選抜にはヨハン・クライフ、ミシェル・プラティニ、ベルント・シュスターらが参加し、世界選抜の監督は、西ドイツ留学時代の恩師、デアヴァルであった。 前述の西ドイツ留学時代にコーチング講習会を受講。1978年から所属するヤンマーディーゼルの選手兼任監督に就任し1984年まで同サッカー部の指揮を執った。1970年代の黄金時代を共に支えた吉村やジョージ小林らはクラブを去り、世代交代を一任された。就任3年目の1980年に監督として初のリーグ制覇へ導いた。その後1985年2月まで監督を務めた。 ヤンマー退団後は「釜本FC」を設立し大阪を中心にユース年代の育成に携わった(大黒将志も属した釜本FCはガンバ大阪ジュニア・ジュニアユースに移管)。また同時に「釜本サッカー教室」を主催し、少年サッカーの指導の為に全国を駆け回った。1991年2月頃までにかけて東芝一社提供番組などでサッカー指導するというミニコーナーも放映された。 1991年、当時、プロリーグへの参加が内定していた松下電器産業サッカー部(現ガンバ大阪)の監督に就任。1993年Jリーグ開幕時のガンバ大阪監督となる。しかし、エースストライカーの永島昭浩を始めとする古参選手との確執(永島は翌1994年に清水エスパルスへ電撃移籍)や、期待された礒貝洋光・松波正信を育てきれない、松波と同期で自身の山城の後輩石塚啓次獲得に失敗など成績は低迷。1994年、天皇杯終了と同時に、監督を事実上解任され退団した(契約上の退任時期は1995年1月)。 監督としてのJリーグ通算成績は、2シーズンで80試合、31勝49敗。最高位は1993年ニコスステージ(2ndステージ)の6位(10チーム中)となっている(同ステージ7月31日博多の森陸上競技場での初代チャンピオンヴェルディ川崎との公式戦で0-2、相手GK菊池新吉に完封負、追加点となる2失点目は翌日結婚式を控えた三浦知良が記録)。 1996年に日本サッカー協会(JFA)理事に就任。1998年7月にJFA副会長に就任。1999年7月、JFAの2002年強化推進本部長に就任。日本代表のフィリップ・トルシエ監督を評価する立場となり、両者の対立や釜本によるトルシエ解任の意向などがしばしば報道された。2000年7月、労働政務次官就任を理由として2002年強化推進本部長を辞任。その後、参議院選挙での落選後にJFA副会長を辞任したが、2004年7月からJFA副会長に復帰した。 2005年4月、JFA選定の第1回日本サッカー殿堂掲額者として選定される。 2008年7月、JFAの役員改選に伴い副会長を退任、執行部に属さない名誉副会長に就任する事となった。 2009年2月には、サッカーコミュニティサイト『MYFC』が運営を予定しているサッカークラブ・藤枝ネルソンCF(後に藤枝MYFCと改称)の監督に就任することが発表された。ただし本人は「『MYFC』有料化までの暫定監督」「監督と言うよりはスーパーバイザー的役割」 と発言しており、実際の現場での指揮はヘッドコーチの斉藤俊秀が執っている。 2010年7月、JFA名誉副会長を退き顧問となった。2014年に旭日中綬章受章。 2024年現在、新潟県新潟市西区小新のグランセナ新潟FCのスクールマスターを務めている。 早大体育会の先輩で親交が深かった、当時の自民党幹事長の森喜朗にスカウトされ1995年の第17回参議院議員通常選挙では自民党公認(比例名簿登載順位11位)として比例区より立候補し初当選。自民党の同期当選議員に、馳浩、橋本聖子がいる。 当選後は院内の厚生労働委員会に所属し、日本サッカー協会副会長を兼務しながら、2002年W杯の開催準備などに尽力。党内派閥としては清和政策研究会(会長三塚博 - 森 - 小泉純一郎)に所属した。 1998年、日本道路公団の関連会社で、高速道路用プリペイドカード「ハイウェイカード」販売に関する特別背任事件が発覚。一連の不正販売に釜本の妻が経営する会社の関与が明らかになる。 2000年7月4日、第2次森内閣の労働政務次官に就任する(政務担当の内閣官房副長官は同じ派閥の安倍晋三・上野公成)、同年12月6日、内閣改造に伴い労働政務次官を退任。 2001年の第19回参議院議員通常選挙では非拘束名簿式が導入された比例区に自民党公認として立候補したが、小泉フィーバーで自民党が20議席を獲得する大勝の中、自身は党内の個人得票数24位となり、落選。これ以後は政界から退いている。 両親は奈良県の出身。父親は1909年に橿原市の耳成山麓近くに生まれ、母親は1912年に桜井市の三輪山近くで生まれた。釜本家と母方実家の森家は親戚同士で森家は地主だったが、農業を嫌った母親は近郷で暮らす従兄弟の父親が弁護士志望だと知り、持参金を携えて嫁いだ。その後も父親は関西大学で勉強を続けたが弁護士の夢を断念した。母親は「弁護士夫人になるはずやったのにダマされたわ」とこぼしていたという。真偽は定かでないが、女学校で陸上をしていた母親は、日本人女性初の五輪メダリストの人見絹枝と走ったことがあると話していたという。父親は176センチ程あり当時としては大柄であり、母親も160センチ近くあった。父親は若い頃から剣道に励み、京都で警察官を務めていたが、1938年から1942年まで兵役に就き、ノモンハン事件に参加。復員後は幹部候補生から将校となり、陸軍中尉まで進んだ経験を持つ。1943年に京都の太秦に新設された三菱重工京都製作所の青年学校教官に迎えられた。戦後は三菱造船の社員になった。また長兄は学生時代にテニス、次兄は卓球を志した。姉の美佐子は幼少の頃より学業優秀で、成人後は数ヶ国語を操り日本のツアーコンダクターの草分けとなった。この姉をして普段勉強をしない弟が試験前に見せる集中力は抜群であったと語らせている。 サッカーを始めたきっかけになったのは、太秦小学校時代の恩師、池田璋也(元京都紫光クラブの名選手)の「サッカーが上手になればオリンピックもあるし、世界中に行ける。野球だったら日本とアメリカだけだ」という言葉であった。 市立蜂ヶ岡中学校の1年先輩に二村昭雄らがいる。二村とは高校、大学と同じ道へ進み、名コンビとして活躍した。 山城高校の1年先輩に二村昭雄、長岡義一らが、同期には和崎信哉 がいる。 早稲田大学の仲間に松本育夫・野村尊敬・桑田隆幸、森孝慈、大野毅らがいる。 1967年11月19日に和歌山で開催された日本サッカーリーグ、日立本社(現柏レイソル)戦において2人のゴールキーパーを負傷退場させる記録を残した。1人目のゴールキーパー・片伯部延弘は釜本と衝突して負傷退場。交代枠を使い切っていた日立は急遽FWの海野勇が代役を務めた。しかし、その7分後に釜本の強烈なシュートに反応した海野は右手の平に裂傷を負い負傷退場した。その後、日立は3人目のGKにFWの平沢周策を起用したが、今度はオーバーステップの反則を取られ、フリーキックから釜本のヘディングゴールを許した。試合は0-3で日立が完敗を喫する散々な結果となった。 メキシコ五輪の大会合宿中に、ファンにサインをしていた釜本に対し、あるサッカークラブのスカウトが色紙と見せかけて契約書にサインさせようと試み、これに気付いたクラマーコーチが間一髪で阻止する一幕もあった。 メキシコ五輪3位決定戦後のインタビューで欧州の記者から「プロ並の練習をしているのか」と聞かれた釜本は「いや、我々はみんなビジネスマンだ。8時間、会社の仕事をして、その後で練習をしている」と答え記者達はとても信じられない、ウソだろうと言わんばかりの顔をした。 メキシコ五輪終了後直後にリオデジャネイロで開催された、FIFA主催のブラジル代表対世界選抜の試合に招集されたが、日本代表の仲間らと共に帰国する事を選択した。これに対し世界選抜のレフ・ヤシンは釜本の不参加を惜しむコメントを残している。 1972年、ペレの所属するサントスと日本代表が親善試合を行い、多くの観衆が詰掛けた。試合後にジョージ小林が長沼健監督の部屋を尋ね「お客さんがたくさん入った、選手お金要求する」と配当をしつこく要求、「今の体制じゃ、そうはいかない」と長沼が断っても聞き入れないので、釜本を呼んで追い返した。 1984年に、木之本興三によるJSL活性化策の一環として、ポスターでヌード(後ろ向き)を披露した。 阪神タイガースファンとしても知られる。 現役引退後はトーク番組「シュートinサタデー」(関西テレビ制作フジテレビ系)司会やCM「丸大焼肉」「じゅうじゅう亭」(丸大食品)などテレビでも活躍した。 2006年4月19日放送のトリビアの泉で、代表引退の理由は会社で机に脚をぶつけ、止まっているものも避けられないと身体の衰えを感じたためと言う逸話が高橋陽一のイラスト付きで披露された。 釜本の身長は公表179cmだが、実際には181cmだった。これは「大きい=鈍くさい」と思われないよう、わざと身長を小さく称したとのこと。 2014年5月15日付、英国スポーツ専門サイト『Sports MOLE』で、歴代日本代表選手の1位に、釜本邦茂が選ばれた。 京都市立太秦小学校 京都市立蜂ヶ岡中学校 1960年 - 1962年 山城高校 1963年 - 1966年 早稲田大学 1967年 - 1984年 ヤンマーディーゼル(現セレッソ大阪) 日本リーグ通算251試合出場202得点。得点王7回。
天皇杯優勝:2回(1969、1975) 1974年10月、対三菱戦で、リーグ通算100得点を達成。 1978年1月、対三菱戦でリーグ通算150得点を記録。 1981年11月1日、対本田技研戦で2得点。リーグ通算201得点目(238試合)。 1982年5月15日、対日立戦で202得点目をあげる。 JSL選抜チーム(1979年)3試合3得点 日本ユース代表 11試合6得点
日本B代表 6試合0得点 日本代表
アジア競技大会(1966,1970,1974,1978) メキシコシティオリンピック(銅メダル) ミュンヘンオリンピック予選 ワールドカップ西ドイツ大会予選 モントリオールオリンピック予選 ワールドカップアルゼンチン大会予選 国際Aマッチ FIFA 84試合 80得点, JFA 76試合 75得点(1964-1977)
日本サッカー協会 (JFA) とRec.Sport.Soccer Statistics Foundation (RSSSF) は、釜本邦茂(75得点)を最多得点者としている。一方、国際サッカー連盟 (FIFA) は、2009年時点では三浦知良と同数の55得点としていたが、2014年時点では80得点としている これは以下に示す JFA、FIFA 両者の統計方法の違いによる。 JFA - 1988年以前のオリンピック予選および本大会における、プロリーグの存在しない国・地域の、年齢制限のないオリンピック代表チームとの試合は国際Aマッチとする。 FIFA - 1999年に「1908年から1952年にかけて行われた全てのオリンピックの試合は認める(たとえばイギリスのようにプロリーグを有する国々の中でアマチュアチームを派遣したものや、1936年大会のオーストリアは除外)。一方、1960年以降の全てのオリンピック関係の試合が国際Aマッチと認められる訳ではないが、中間部分については更なる分析が行われる」という声明を出し、これを元にした基準を採用している。 なお、RSSSFは「東ヨーロッパとスカンジナビア諸国のサッカー協会はFIFAの声明を却下し、信頼できる各国の協会によって認められた統計方法を持っている。日本も大部分のオリンピックの試合を2015年に公式に認めている」という見解を示し、JFAの記録を追認している。 国際Aマッチ 国際Bマッチ メキシコオリンピック得点王:1968 日本サッカーリーグ
アシスト王3回:1973、1975、1979 年間優秀11人賞14回:1967、1968、1969、1970、1971、1972、1974、1975、1976、1977、1978、1979、1980、1981 日本スポーツ賞1回:1981(サッカー界で初受賞) 日本年間最優秀選手賞7回:1966、1968、1971、1974、1975、1980、1981 日本サッカー殿堂:2005 ムルデカ大会得点王1回:1972 関東大学リーグ得点王4回:1963、1964、1965、1966 『サッカー・ストライカーの技術と戦術』 (講談社、1977年) ASIN B000J8VBYW 『ゴールの軌跡・釜本邦茂自伝』 (趣味と生活、1981年) ASIN B000J7VC1A 『熱いハートを燃やせ・ゴールゲッターの「勝負」哲学』(知識社、1984年) ISBN 4795293023 『釜本のサッカーを始める人のために・カラー図解』(池田書店、1985年) ISBN 4262112039 『サッカーに燃えた日々』(実業之日本社、1985年) ISBN 4408393231 『攻撃サッカー・技術と練習法 (Sports lesson series) 』(成美堂出版、1987年) ISBN 4415012175 『ゴールの軌跡・釜本邦茂自伝』(ベースボール・マガジン社、1995年) ISBN 4583032293 『戦うサッカー 釜本流ストライカーの作り方』(実業之日本社、2001年) ISBN 4408610933 『釜本邦茂の「とってナンボ」のFW論』(宝島社、2006年) ISBN 4796652914 『最前線は蛮族たれ』(集英社、2010年) ISBN 4087205541 「釜本邦茂(1)足のシュートもヘディングシュートもボールを注視した」 - 賀川サッカーライブラリー 「釜本邦茂(2)抜群のヘディングパスと最も美しいキックフォーム 」 - 賀川サッカーライブラリー 「釜本邦茂(3)ボールを叩く力を基礎に着実に力を蓄えた大学時代」 - 賀川サッカーライブラリー 「釜本邦茂(4)単身留学の驚くべき成果ゴール,前で見せる電光石化の動き」 - 賀川サッカーライブラリー 「釜本邦茂(5)相手の脅威となった右足の振りの速さが左の進歩と成功を生む」 - 賀川サッカーライブラリー 「20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(上)」 - 賀川サッカーライブラリー 「20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(中) 」 - 賀川サッカーライブラリー 「20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(下) 」 - 賀川サッカーライブラリー 「20世紀日本の生んだ世界レベルのストライカー 釜本邦茂(続)」 - 賀川サッカーライブラリー 大貫哲義『釜本選手物語』サッカーマガジン1970年7月号から1971年3月号連載 賀川浩『ストライカーの美学・釜本邦茂写真集』東方出版、1985年 後藤健生『日本サッカー史』双葉社、2007年 後藤健生『日本サッカー史・資料編』双葉社、2007年 ^ “Kunishige Kamamoto”. 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久世公堯 板垣正 南野知惠子 田辺哲夫↓ 田沢智治 楢崎泰昌 宮崎秀樹↑ 山東昭子↑↓ 嶋崎均↑↓ 長尾立子↑ 藁科満治 大脇雅子 鈴木和美 川橋幸子 山本正和 及川一夫 山口哲夫 渕上貞雄 松本英一↓ 志苫裕 萱野茂↑ 牛嶋正 続訓弘 大久保直彦 広中和歌子 鶴岡洋 及川順郎 猪熊重二 武田節子 細川護熙↓ 小池百合子↓ 寺澤芳男 武田邦太郎 小島慶三↑ 円より子↑ 立木洋 聴濤弘 吉岡吉典 有働正治 直嶋正行 勝木健司 長谷川清 江本孟紀 青島幸男↓ 山田俊昭↑ 有馬朗人 村上正邦↓ 岡利定↓ 大島慶久 野沢太三 阿南一成 南野知惠子 佐藤昭郎 日出英輔 加納時男 佐々木知子 脇雅史 森田次夫 久世公堯 清水達雄↑ 宮崎秀樹↑ 小宮山洋子↓ 今井澄↓ 円より子 藁科満治 直嶋正行 内藤正光 勝木健司 川橋幸子 長谷川清 高嶋良充 堀利和 江本孟紀↓ 信田邦雄↑ 中島章夫↑ 樋口俊一↑ 立木洋↓ 市田忠義 岩佐恵美 吉岡吉典 池田幹幸 小池晃 林紀子 小泉親司 大門実紀史↑ 鶴岡洋 続訓弘 森本晃司 荒木清寛 風間昶 沢たまき↓ 日笠勝之 千葉国男↑ 泉信也 入沢肇 平野貞夫 渡辺秀央 月原茂皓 福島瑞穂 渕上貞雄 大脇雅子 山本正和 小林正夫 加藤敏幸 内藤正光 家西悟 柳澤光美 直嶋正行 大石正光 白眞勲 那谷屋正義 藤末健三 喜納昌吉 高嶋良充 津田弥太郎 工藤堅太郎 円より子 下田敦子 松岡徹 前田武志 渡辺秀央 竹中平蔵↓ 秋元司 長谷川憲正 脇雅史 西島英利 山谷えり子 中村博彦 泉信也 荻原健司 加納時男 荒井広幸 水落敏栄 佐藤昭郎 南野知惠子 松村祥史 神取忍↑ 浜四津敏子 弘友和夫 谷合正明 荒木清寛 風間昶 浮島とも子 浜田昌良 鰐淵洋子 市田忠義 小池晃 仁比聡平 大門実紀史 福島瑞穂 渕上貞雄 有田芳生 谷亮子 直嶋正行 小林正夫 柳澤光美 石橋通宏 難波奨二 津田弥太郎 那谷屋正義 江崎孝 藤末健三 加藤敏幸 前田武志 田城郁 白眞勲 西村正美 片山さつき 佐藤ゆかり↓ 山谷えり子 髙階恵美子 三原じゅん子 中村博彦↓ 脇雅史 藤井基之 小坂憲次 水落敏栄 宇都隆史 赤石清美 堀内恒夫↑ 阿達雅志↑ 柴田巧 江口克彦 上野宏史↓ 寺田典城 小野次郎 小熊慎司↓ 桜内文城↓ 真山勇一↑ 藤巻幸夫↑↓ 山田太郎↑ 田中茂↑ 秋野公造 長沢広明 横山信一 谷合正明 浜田昌良 荒木清寛 市田忠義 田村智子 大門実紀史 福島瑞穂 吉田忠智 片山虎之助 荒井広幸 徳茂雅之 青山繁晴 片山さつき 中西哲 今井絵理子 足立敏之 山谷えり子 藤木眞也 自見英子 進藤金日子 髙階恵美子↓ 山田宏 藤井基之 阿達雅志 宇都隆史 小川克巳 宮島喜文 水落敏栄 園田修光 竹内功↑ 小林正夫 濱口誠 矢田稚子 有田芳生 川合孝典 難波奨二 江崎孝 那谷屋正義 石橋通宏 藤末健三↓ 白眞勲 田城郁↑ 長沢広明↓ 秋野公造 横山信一 熊野正士 谷合正明 浜田昌良 宮崎勝 竹内真二↑ 市田忠義 田村智子 大門実紀史 岩渕友 武田良介 片山虎之助 渡辺喜美 石井苗子 石井章 福島瑞穂 青木愛 藤井一博 梶原大介 赤松健 長谷川英晴 青山繁晴 片山さつき 足立敏之↓ 自見英子 藤木眞也 山田宏 友納理緒 山谷えり子 井上義行 進藤金日子 今井絵理子 阿達雅志 神谷政幸 越智俊之 小川克巳↑ 石井章 石井苗子 松野明美 中条きよし 猪瀬直樹 金子道仁 串田誠一 青島健太 辻元清美 鬼木誠 古賀千景 柴慎一 村田享子 青木愛 石橋通宏 竹内真二 横山信一 谷合正明 窪田哲也 熊野正士↓ 上田勇 宮崎勝↑ 田村智子↓ 仁比聡平 岩渕友 大門実紀史↑ 竹詰仁 濱口誠 川合孝典 天畠大輔 水道橋博士↓ 大島九州男↑ 神谷宗幣 福島瑞穂 ガーシー▼ 齊藤健一郎↑ 表 話 編 歴 1904: テイラー / ホール 1908: ニールセン 1912: フックス 1920: カールソン 1924: ペトローネ 1928: タラスコーニ 1936: フロッシ 1948: ノルダール / ハンセン 1952: ゼベツ / ミティッチ 1956: ミラノフ / デスーザ / ヴェセリノヴィッチ 1960: ガリッチ 1964: ベネ 1968: 釜本邦茂 1972: デイナ 1976: シャルマッフ 1980: アンドレイエフ 1984: クシュエルブ / デヴェリッチ / ツヴェトコヴィッチ 1988: ロマーリオ 1992: ユスコヴィアク 1996: クレスポ / ベベット 2000: サモラーノ 2004: テベス 2008: ロッシ 2012: ダミアン 2016: ニャブリ / ペーターゼン 2020:リシャルリソン 1996: アーロネス / メダレン / プレチーニャ 2000: 孫雯 2004: プリンツ / クリスチアニ 2008: クリスチアニ 2012: シンクレア 2016: ベーリンガー 2020: ミデマー 表 話 編 歴 61: 長沼健 62: 小沢通宏 63: 八重樫茂生 64: 杉山隆一 65: 小城得達 66: 釜本邦茂 67: 宮本輝紀 68: 釜本邦茂 69: 杉山隆一 70: 小城得達 71: 釜本邦茂 72: 野村六彦 73: 杉山隆一 74: 釜本邦茂 75: 釜本邦茂 76: 永井良和 77: カルバリオ 78: 落合弘 79: 今井敬三 80: 釜本邦茂 81: 釜本邦茂 82: 尾崎加寿夫 83: 木村和司 84: 木村和司 85: 吉田弘 86: 武田修宏 87: 森下申一 88: オスカー 89: 木村和司 90: ラモス瑠偉 91: ラモス瑠偉 92: 三浦知良 93: 三浦知良 94: ペレイラ 95: ストイコビッチ 96: 川口能活 97: 中田英寿 98: 中山雅史 99: 澤登正朗 00: 中村俊輔 01: 柳沢敦 02: 藤田俊哉 03: 久保竜彦 04: 中澤佑二 05: アラウージョ 06: 田中マルクス闘莉王 07: 鈴木啓太 08: 遠藤保仁 09: 小笠原満男 10: 本田圭佑 11: 澤穂希 12: 佐藤寿人 13: 中村俊輔 14: 遠藤保仁 15: 大久保嘉人 16: 中村憲剛 17: 小林悠 18: 大迫勇也 19: 仲川輝人 20: 三笘薫 21: レアンドロ・ダミアン 22: 三笘薫 23: 大迫勇也 表 話 編 歴 65: 野村六彦 66: 小城得達 67: 木村武夫 68: 釜本邦茂 69: 落合弘 70: 釜本邦茂 71: 釜本邦茂 72: 松永章 73: 松永章 74: 釜本邦茂 75: 釜本邦茂 76: 釜本邦茂 77: カルバリオ 78: 釜本邦茂, カルバリオ 79: ラモス 80: 碓井博行 81: 吉田弘 82: 碓井博行 83: ラモス 84: 戸塚哲也 85: 吉田弘 86-87: 松浦敏夫 87-88: 松浦敏夫 88-89: アディウソン 89-90: レナト 90-91: 戸塚哲也, 北澤豪, レナト 91-92: トニーニョ 表 話 編 歴 65: 表彰無し 66: 桑田隆幸 67: 川淵三郎 68: 杉山隆一 69: 杉山隆一 70: 宮本輝紀 71: 杉山隆一 72: 吉村大志郎 73: 釜本邦茂, 田辺暁男 74: 高田一美, ジョージ小林 75: 釜本邦茂, 今村博治, 平沢周策, ジョージ小林 76: 永井良和 77: セイハン比嘉, 古前田充, 安原真一, 永井良和 78: ジャイロ 79: ラモス, 釜本邦茂, ジョージ与那城 80: ジョージ与那城 81: 永井良和, 楚輪博 82: 尾崎加寿夫, 鬼塚忠久 83: ジョージ与那城 84: 木村和司 85: 浅岡朝泰 86-87: 水沼貴史 87-88: 永富浩 88-89: 和田昌裕 89-90: ラモス瑠偉, メシアス 90-91: ラモス瑠偉, ペデルッチ 91-92: ジョルジーニョ 表 話 編 歴 高円宮憲仁親王 釜本邦茂 杉山隆一 平木隆三 宮本征勝 八重樫茂生 横山謙三 森孝慈 宮本輝紀 渡辺正 小城得達 片山洋 鎌田光夫 山口芳忠 松本育夫 吉村大志郎 落合弘 奥寺康彦 永井良和 加藤久 ラモス瑠偉 木村和司 川本泰三 デットマール・クラマー 山田午郎 竹腰重丸 田辺治太郎(第14代) 村形繁明 岩谷俊夫 小野卓爾 賀川太郎 篠島秀雄 竹内悌三 玉井操 鴘田正憲 新田純興 二宮洋一 福島玄一 坪井玄道 内野台嶺 チョウ・ディン 鈴木重義 ウィリアム・ヘーグ 手島志郎 高橋英辰 大谷四郎 丸山義行 賀川浩 大畠襄 浅見俊雄 鈴木良三 クリストファー・マクドナルド 牛木素吉郎 多和健雄 金子勝彦 奈良原武士 ハンス・オフト 高田静夫 諸橋晋六 小沢通宏 野村六彦 松丸貞一 下村幸男 二宮寛 鬼武健二 ジーコ 加茂周 今井恭司 西野朗 岡田武史 佐々木則夫 フィリップ・トルシエ イビチャ・オシム 小嶺忠敏 北山朝徳 綾部美知枝 大澤英雄 セルジオ越後 高橋陽一 アルベルト・ザッケローニ 第11回オリンピック競技大会(1936/ベルリン)日本代表チーム 第19回オリンピック競技大会(1968/メキシコシティ)日本代表チーム FIFA女子ワールドカップドイツ2011 なでしこジャパン(日本女子代表チーム) 今村次吉 深尾隆太郎 高橋龍太郎 野津謙 平井富三郎 藤田静夫 島田秀夫 長沼健 岡野俊一郎 川淵三郎 小倉純二 大仁邦彌 表 話 編 歴 51 古橋廣之進 52 石井庄八 53 山田敬蔵 54 長沢二郎 55 古川勝 56 笹原正三 57 第24回世界卓球選手権日本代表選手団 58 曾根康治 59 山中毅 60 ローマ五輪日本男子体操チーム 61 大日本紡績貝塚女子バレーボールチーム 62 三宅義信 63 田中聡子 64 遠藤幸雄 65 重松森雄 66 深津尚子 67 鈴木惠一 68 君原健二 69 第6回世界柔道選手権大会日本代表選手団 70 西側よしみ、第17回世界体操競技選手権日本代表チーム 71 中山紀子、湯木博恵 72 田口信教、ミュンヘン五輪体操日本男子選手団 73 第8回世界柔道選手権大会日本代表選手団 74 バレーボール全日本女子チーム 75 エベレスト女子登山隊 76 モントリオール五輪バレーボール日本女子チーム 77 河野満 78 山下泰裕 79 藤猪省三 80 瀬古利彦 81 釜本邦茂 82 室伏重信 83 黒岩彰 84 山下泰裕 85 正木嘉美 86 中山竹通 87 小川直也 88 鈴木大地 89 伊藤みどり 90 橋本聖子 91 谷口浩美 92 岩崎恭子 93 浅利純子 94 リレハンメル五輪日本代表複合チーム 95 田村亮子 96 恵本裕子 97 鈴木博美 98 清水宏保 99 篠原信一 00 高橋尚子 01 田村亮子 02–03 北島康介 04 野村忠宏 05 冨田洋之 06 荒川静香 07 吉田沙保里 08 北島康介 09 内村航平 10 吉田沙保里 11 FIFA女子ワールドカップ日本女子代表 12 ロンドン五輪レスリング男女日本代表選手団 13 内村航平 14 羽生結弦 15–16 伊調馨 17 桐生祥秀 18 羽生結弦 19 ラグビー日本代表 20–21 大野将平 22 髙木美帆 表 話 編 歴 1 保坂司 2 片山洋 3 宮本征勝 4 平木隆三 5 山口芳忠 6 鈴木良三 7 上久雄 8 鎌田光夫 9 富沢清司 10 小城得達 11 森孝慈 12 川淵三郎 13 八重樫茂生 14 渡辺正 15 釜本邦茂 16 宮本輝紀 17 継谷昌三 18 杉山隆一 21 横山謙三 監督 長沼健 表 話 編 歴 GK 横山謙三 GK 浜崎昌弘 山口芳忠 上久雄 今西和男 片山洋 宮本輝紀 八重樫茂生 小城得達 松本育夫 釜本邦茂 杉山隆一 渡辺正 宮本征勝 鈴木良三 桑原楽之 森孝慈 木村武夫 監督 長沼健 表 話 編 歴 1 横山謙三 2 片山洋 3 宮本征勝 4 山口芳忠 5 鎌田光夫 6 鈴木良三 7 富沢清司 8 森孝慈 9 小城得達 10 湯口栄蔵 11 八重樫茂生 12 宮本輝紀 13 渡辺正 14 桑原楽之 15 釜本邦茂 16 松本育夫 17 杉山隆一 18 浜崎昌弘 監督 長沼健 表 話 編 歴 GK 横山謙三 GK 船本幸路 菊川凱夫 荒井公三 小城得達 山口芳忠 湯口栄蔵 森孝慈 二村昭雄 木村武夫 釜本邦茂 杉山隆一 宮本輝紀 富沢清司 原正文 小畑穣 近江友介 上田忠彦 川上信夫 高田一美 監督 岡野俊一郎 表 話 編 歴 GK 横山謙三 GK 瀬田龍彦 古田篤良 大仁邦彌 小城得達 川上信夫 石井茂巳 吉村大志郎 平沢周策 高林敏夫 釜本邦茂 渡辺三男 今井敬三 永井良和 落合弘 藤島信雄 荒井公三 西野朗 監督 長沼健 表 話 編 歴 古川能章 1957 - 1966 鬼武健二 1967 - 1977 釜本邦茂 1978 - 1985 三田僥 1985 - 1990 吉村大志郎 1990 - 1993 パウロ・エミリオ 1994 - 1996 楚輪博 1996 レヴィー・クルピ 1997 松木安太郎 1998 レネ・デザイェレ 1999 副島博志 2000 - 2001 ジョアン・カルロス 2001 西村昭宏 2001 - 2003 塚田雄二 2003 ナドベザ・ペーター 2004 フアド・ムズロビッチ 2004 アルベルト・ポボル 2004 小林伸二 2004 - 2006 塚田雄二 2006 都並敏史 2007 貴志俊治 2007 レヴィー・クルピ 2007 - 2011 セルジオ・ソアレス 2012 レヴィー・クルピ 2012 - 2013 ランコ・ポポヴィッチ 2014 マルコ・ペッツァイオリ 2014 大熊裕司 2014 パウロ・アウトゥオリ 2015 大熊清 2015 - 2016 尹晶煥 2017 - 2018 ミゲル・アンヘル・ロティーナ 2019 - 2020 レヴィー・クルピ 2021 小菊昭雄 2021 - 2024 アーサー・パパス 2025 表 話 編 歴 水口洋次 1980 - 1991 釜本邦茂 1991 - 1992 釜本邦茂 1992 - 1994 ジークフリート・ヘルト 1995 ヨジップ・クゼ 1996 - 1997 フリードリッヒ・コンシリア 1997 - 1998 フレデリック・アントネッティ 1998 - 1999 早野宏史 1999 - 2001 竹本一彦 2001 西野朗 2002 - 2011 セホーン 2012 松波正信 2012 長谷川健太 2013 - 2017 レヴィー・クルピ 2018 宮本恒靖 2018 - 2021 松波正信 2021 片野坂知宏 2022 - 2022.7 松田浩 2022.8 - 2022.11 ダニエル・ポヤトス 2023 - 表 話 編 歴 釜本邦茂 2009 斉藤俊秀 2009 - 2013 水島武蔵 2014 大石篤人 2015 - 2018 石﨑信弘 2018 - 2020 倉田安治 2021 - 2021.7 須藤大輔 2021.7 - 表 話 編 歴 春日由三 吉本明光 中山晋平 春日由三 吉川義雄 春日由三 吉川義雄 川村専一 狩野近雄 河上英一 笹本恭彦 明瀬裕 池田太郎 牧定忠 春日由三 吉川義雄 渋沢秀雄 横山隆一 西崎緑 貝谷八百子 田付辰子 メイ牛山 春日由三 吉川義雄 岩田専太郎 勅使河原蒼風 千代の山雅信 小山いと子 吉村公三郎 市川翠穂 マヤ片岡 春日由三 吉川義雄 三國連太郎 小西得郎 栃錦清隆 青木茂高 河上牧子 水木洋子 坂西志保 田村佐紀子 吾妻徳穂 吉川義雄 田中角栄 菊田一夫 若乃花勝治 金田正一 奥むめお 森田たま 細川ちか子 近藤百合子 吉川義雄 横山泰三 水原茂 稲垣浩 朝汐太郎 沢田美喜 杉村春子 戸川エマ 赤堀全子 吉川義雄 木下惠介 大宅壮一 杉浦幸雄 若羽黒朋明 長谷川春子 大濱英子 榊淑子 谷桃子 吉川義雄 秋山登 唐島基智三 柏戸剛 松本幸四郎 中村汀女 田中絹代 秋山ちえ子 江上トミ 長沢泰治 土門拳 高田元三郎 仲代達矢 大鵬幸喜 和田夏十 勅使河原霞 村山リウ 森光子 長沢泰治 工藤昭四郎 東郷青児 森英恵 大山康晴 山内一弘 佐田の山晋松 藤間紫 岡田茉莉子 十返千鶴子 浪花千栄子 長沢泰治 細川隆元 丹羽文雄 實川延若 中西太 栃ノ海晃嘉 飯田蝶子 貞閑晴 新珠三千代 花柳壽輔 佐久間良子 長沢泰治 大林清 北葉山英俊 林与一 古賀忠道 春風亭柳橋 岩下志麻 司葉子 長谷川町子 林美智子 吉屋信子 坂本朝一 円地文子 安達曈子 入江美樹 藤村志保 小絲源太郎 松下幸之助 ファイティング原田 緒形拳 坂本朝一 樫山文枝 五代利矢子 浜美枝 山崎豊子 大佛次郎 尾上菊之助 加藤芳郎 鶴ヶ嶺昭男 中山卯郎 福島慎太郎 木村秀政 西本幸雄 石坂浩二 福原美和 栗原小巻 塩月弥栄子 平岩弓枝 中山卯郎 江夏豊 王馬熙純 榊原仟 鈴木俊一 曽野綾子 高田敏子 藤田弓子 三船敏郎 中山卯郎 浅丘ルリ子 市川海老蔵 今井通子 大谷直子 菅野義丸 佐藤愛子 鶴岡一人 平幹二朗 中道定雄 坂東玉三郎 樋口久子 小林弘 三田佳子 志村喬 武原はん 玉の海正洋 中山律子 仲代達矢 小野田勇 浪花家辰造 大場政夫 宇田川龍男 堀内寿子 大山英子 村山加代子 中山きよ子 樫山文枝 山口果林 高橋信雄 山下迪子 館弘子 石田芳夫 中山紀子 井沢つま 森戸辰男 溝尾正志 花本方美 為久優子 成田和子 桑田たつ子 村上巳里 山下誠 小川善三郎 河野久枝 桑原永子 田中由起子 佐藤太圭子 山田三智穂 大谷豊二 高橋優子 貴ノ花利彰 赤塚洋文 平内義幸 富岡雅寛 山崎勲 平賀輝子 中川時子 加藤稔 池内淳子 中原誠 森英恵 小林桂樹 中村汀女 井上ひさし 中野貴代 神田好武 真木洋子 輪島大士 高橋洋子 生沼スミエ 棟方志功 村上元三 京マチ子 サトウサンペイ 高田ユリ 尾上菊五郎 寺島純子 北の湖敏満 根本良夫 橋本明治 杉村春子 尾上松緑 栗原小巻 堀江謙一 檀ふみ 魁傑將晃 新垣留美子 根本良夫 尾上梅幸 高橋展子 吉永小百合 加藤剛 三林京子 大竹しのぶ 古葉竹識 三重ノ海五郎 池田彌三郎 浅丘ルリ子 中村梅之助 小野清子 村上隆 堤加蓉子 カロリーナ・ピレス・ド・リオ 若三杉壽人 川上哲治 川口幹夫 市川染五郎 上田利治 旭國斗雄 水島新司 川橋幸子 橋田壽賀子 新井春美 竹下景子 川口幹夫 北の湖敏満 岩下志麻 植村直己 八千草薫 安奈淳 森和人 森下洋子 山本浩二 加藤好雄 若山富三郎 ミヤコ蝶々 菅原文太 大原麗子 松本零士 重兼芳子 古葉竹識 多岐川裕美 加藤好雄 松本幸四郎 陳舜臣 佐久間良子 木田勇 向田邦子 島田陽子 鈴木喜久子 角田好雄 渡辺一雄 石毛宏典 古手川祐子 緒形拳 花井幸子 倉本昌弘 森光子 坂田栄男 高橋洋子 秋竜山 澤地久枝 香川宏 生沼スミエ 玉の海梅吉 森英恵 山藤章二 池上季実子 広岡達朗 村松友視 真野響子 滝田栄 橋田壽賀子 前橋汀子 市川猿之助 香川宏 三船敏郎 松本幸四郎 大原麗子 田淵幸一 樋口久子 松坂慶子 田中裕子 隆の里俊英 谷川浩司 林真理子 胡桃沢耕史 宮尾登美子 山口小夜子 役所広司 菊池綜一 江上由美 釜本邦茂 名取裕子 風間杜夫 石井幹子 連城三紀彦 里中満智子 衣笠祥雄 松坂慶子 市川海老蔵 遠藤利男 三田佳子 中村吉右衛門 高野悦子 小池一夫 武原はん ジェームス三木 山口洋子 吉田義男 大地真央 北尾光司 中野正之 森光子 清原和博 森下洋子 雁屋哲 黒柳朝 加藤芳郎 山崎洋子 渡辺謙 加納みゆき 千代の富士貢 吉岡利夫 若尾文子 中井貴一 森瑤子 江藤俊哉 俵万智 逢坂剛 森口祐子 近藤真一 若村麻由美 北勝海信芳 今西陽一郎 三田佳子 片岡孝夫 伊藤京子 森祇晶 浅野温子 安野光雅 伊勢桃代 新井満 山口智子 千代の富士貢 沖清司 千代の富士貢 いしだあゆみ ねじめ正一 小林浩美 中村勘九郎 村崎芙蓉子 西田敏行 石岡瑛子 斎藤雅樹 渡辺梓 沖清司 山本陽子 中村鴈治郎 諏訪内晶子 野田秀樹 コシノジュンコ 渡辺久信 森口祐子 松岡修造 沢口靖子 真田広之 小林由紀子 増井光子 山崎豊子 秋山幸二 芦原すなお 荻野アンナ 若花田勝 貴花田光司 緒形直人 鷲尾いさ子 田中好子 内林達夫 有森裕子 曙太郎 古賀稔彦 富司純子 中田久美 野茂英雄 村上弘明 伊藤みどり 森光子 高橋克彦 松尾武 三田佳子 米長邦雄 市川團十郎 細川直美 筒井道隆 つみきみほ 松原敏春 平瀬真由美 宮尾登美子 川淵三郎 内館牧子 田村亮子 植木等 野村克也 中丸三千繪 古田敦也 ミヤコ蝶々 曙太郎 古橋廣之進 大林素子 松尾武 イチロー 赤井英和 奥野史子 岩下志麻 羽生善治 南井克巳 賀来千香子 川本ゆかり 市川崑 森光子 上田洋一 古田敦也 田村亮子 天海祐希 竹中直人 原辰徳 水谷八重子 中村紘子 ジョージ川口 柳家小さん 大石芳野 上田洋一 有森裕子 川口能活 江角マキコ 仰木彬 清水市代 中村橋之助 森英恵 桂米朝 大石静 周防正行 大橋晴夫 井原正巳 吉永小百合 片岡仁左衛門 伊藤みどり 佐々木主浩 佐藤夕美子 本木雅弘 篠田節子 谷川浩司 吉行あぐり 大橋晴夫 清水宏保 藤原紀香 琴錦功宗 中村玉緒 松平健 俵万智 ジェームス三木 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2025/04/08 02:03更新
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kamamoto kunishige
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