上田正昭の情報(うえだまさあき) 歴史学者 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
上田 正昭さんについて調べます
■名前・氏名 |
上田正昭と関係のある人
相沢重明: 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。 逢沢寛: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 1頁。 浅井忠: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 21頁。 石田和外: 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、100頁。 生田萬: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 81頁。 浅井清: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 21頁。 安西正夫: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 69頁。 安藤正純: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名辞典 第5版』株式会社三省堂、2009年、72頁。 郷静子: 『日本人名大辞典』上田正昭他監修、講談社、2001年12月6日、733頁。 池田遥邨: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 87頁。 近藤鶴代: 『日本人名大辞典』上田正昭ほか、講談社、2001年12月、801頁。 灘本昌久: 京都大学文学部在学中は上田正昭の部落史ゼミに参加、部落史を卒業論文のテーマに選ぶ(「高松差別裁判糾弾闘争について」)。 飯田蝶子: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 76頁。 中川以良: 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。 荒木万寿夫: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 60頁。 石井庄八: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 91頁。 相沢重明: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 1頁。 林屋亀次郎: 上田正昭 平山郁夫 西澤潤一 三浦朱門『講談社 日本人名大辞典』講談社、2001年12月6日。 信欣三: 編集委員:上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰(三省堂、2009年) 市川厚一: 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、117頁。 有澤廣巳: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 62頁。 麻田剛立: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 24頁。 大森兵蔵: ^ 上田正昭・西澤潤一・平山郁夫・三浦朱門 監修 『講談社 日本人名大事典』 講談社、2001年12月6日第1刷発行、ISBN 4-06-210800-3、384頁。 本島百合子: 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。 飯田清三: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 75頁。 赤松勇: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰『コンサイス日本人名辞典 第5版』株式会社三省堂、2009年、12頁。 石垣純二: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 92頁。 磯野長蔵: 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、112頁。 石田宥全: 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、101頁。 新木栄吉: ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 58頁。 |
上田正昭の情報まとめ
上田 正昭(うえだ まさあき)さんの誕生日は1927年4月29日です。兵庫出身の歴史学者のようです。
受賞・栄典、研究内容・業績などについてまとめました。卒業に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
上田正昭のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)上田 正昭(うえだ まさあき、1927年4月29日 - 2016年3月13日)は、日本の歴史学者、小幡神社宮司、歌人。専攻は日本古代史。京都大学名誉教授、大阪女子大学名誉教授、西北大学名誉教授。勲二等瑞宝章、修交勲章崇礼章(韓国)、従四位。 1927年、兵庫県城崎郡城崎町(現:豊岡市)で生まれた。中学生時に、小幡神社(京都府亀岡市)の社家・上田家の養子となり、長じて大学時代から同神社宮司を務めた。 中学2年生のとき、発売禁止になっていた津田左右吉の『古事記及び日本書紀の新研究』を教師から借り、学校で習う上代史と学問との違いを感じた。太平洋戦争中の1944年(昭和19年)4月、國學院大學専門部に入り、折口信夫らに師事した。在学中に古書店から津田の著書を入手し、『古事記』・『日本書紀』に対する文献批判に衝撃を受けた。津田と実際に会うことはなかったが、強い影響を受けたという。終戦まで学徒動員で東京石川島造船所などで働いた。 1947年、総合的な文化史を唱えた西田直二郎に憧れて京都帝国大学文学部史学科に入学。しかし、西田は戦時中の戦争協力を理由に公職追放を受けて退職したため、指導を受けることはできなかった。1950年3月、 京都大学文学部史学科を卒業。卒業論文は「日本古代史に於ける氏族系譜の成立に就いて」であった。 卒業後は、高等学校教員を経て、1963年10月に京都大学教養部助教授となった。 1971年3月、京都大学教養部教授に昇格。1978年4月より教養部長(~1979年3月)、1983年4月より京都大学埋蔵文化財研究センター長(~1985年4月)を務めた。京都大学を定年退職し、名誉教授となった。その後は大阪女子大学教授となり、1991年から1997年には大阪女子大学学長を務めた。 歌人としては、2001年歌会始の召人を務めた。2016年3月13日に死去。 アジア史学会会長(1996年 - 2001年) 大阪府立中央図書館名誉館長(1997年) 中国社会科学院学術顧問(2000年) 社叢学会理事長(2002年 -2014年)、名誉顧問(2014年 - ) 財団法人世界人権問題研究センター理事長(1999年 - 2015年) 姫路文学館館長( - 2014年) 京都市学校歴史博物館長( - 2005年) 高麗美術館館長 財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター理事長(2003年 - ) 財団法人京都市生涯学習振興財団理事長 社団法人部落解放・人権研究所顧問 京都生涯教育研究所顧問 財団法人角川文化振興財団理事 NPO法人大阪ワッソ文化交流協会理事 島根県立古代出雲歴史博物館名誉館長(2007年 - ) 受賞・栄典1970年 『日本神話』で毎日出版文化賞 1985年 文部大臣表彰 1992年 『古代伝承史の研究』で江馬賞 1996年 京都市文化功労者、京都府文化財保護審議会委員永年勤続表彰 1997年 大阪文化賞 1998年 福岡アジア文化賞、京都市自治100周年記念功労特別表彰、亀岡市自治功労者 2000年 南方熊楠賞 2001年 京都府文化賞特別功労賞 2003年 勲二等瑞宝章 2004年 八日市市名誉市民 2005年 京都市特別功労賞、亀岡市制50周年記念特別功労表彰 2006年 亀岡市名誉市民 2009年 大韓民国修交勲章崇礼章 2016年 従四位 研究内容・業績日本古代史の第一人者であり、その学問の特徴は、神話学・民俗学などに視野を入れ、広く東アジア的視野点から歴史を究明するところにあった。 古代日本に渡って来た「渡来人」がこの名称で教科書に記載されるようになったのは上田の影響である。上田は1965年(昭和40年)刊の中公新書『帰化人』で、「帰化」は『日本書紀』の用語で、『古事記』『風土記』は「渡来」あるいは同じ意味で「度来」と記すことを指摘し、当時の呼称と実態からは帰化人ではなく渡来人と呼ぶ方がよいと提唱した。このことで右翼からの脅迫を受けたこともあったが、渡来人の用語と理解は急速に定着した。読者の中には当時皇太子だった後の明仁上皇もいた。さらにこの上田の論と共に、「渡来人」に戦後の在日朝鮮人のイメージを投影する金達寿の主張が広まったが、こうした上田らによる「帰化人」から「渡来人」への言い換えについて、古代史学者の関晃は、「渡来」ではただ単に日本に来ただけという意味になり、帰化し日本人の一員となったという意味合いが無くなってしまうため学術用語として不適切であることを指摘し、疑問を投げかけ批判した。 朝鮮関連の発言朝鮮新報によれば、明仁天皇が「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じます」と2001年12月に述べたことが話題となったが、既に1965年、著書でその可能性について指摘していた。当時、右翼団体により「近く天誅を加える」「国賊上田は京大を去れ」などの電話や手紙による嫌がらせを受けた。 歴史教科書への竹島記述について「するべきでない」とし、歴史は事実を正確に記述することが重要で、理念に基づいて歴史を書かなくてはならないと主張した。 八木晃介、水野直樹らと一緒に「朝鮮学校を支える会」の呼びかけ人となっている。 2010年、韓国の国立中央博物館で「檀君の建国神話は、日本の建国神話の母胎」と題した学術会議の前に論文事前公開された際に、日韓の天孫文化には、山頂に降臨する点などをはじめ、共通点や類似点が多いとし、さまざまな事実を検証した結果、百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたという結論に至ったと主張した。また、天孫降臨した峰のクシフルは明確に古代朝鮮語と関連があり、ソホリ峰も朝鮮語のソウル、ソフル、ソブルなど王道の名称から由来したとし、日本語の成立を全部、朝鮮語から解釈しようとする見解には賛成できないが、天孫降臨神話が朝鮮神話と共通の要素があることは誰でも認めざるをえないと主張した。 1974年に好太王碑の拓本を北京で入手し、改竄の跡は無いと述べる。 従来、大陸文化は九州から日本に入ったと考えられてきたが、日本海側の各地域は独自に朝鮮半島との交易ルートがあり、出雲や若狭、能登などとの多元往来論を唱える。 2024/06/23 03:01更新
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ueda masaaki
上田正昭と同じ誕生日4月29日生まれ、同じ兵庫出身の人
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