中野浩一の情報(なかのこういち) 競輪 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
中野 浩一さんについて調べます
■名前・氏名 |
中野浩一と関係のある人
町田浩徳: いつみても波瀾万丈(大学2年生の時に中野浩一がゲスト出演した際に放送された再現ドラマパートに出演[1]。 松本整: 中野浩一でさえ、高松宮記念杯競輪の開催直前に聞かされた程度であった。 宮本孝男: 日本競輪学校第35期生で、同期には中野浩一らがいる。 阿部良二: ところで阿部の代役として同年の世界選に出場したのが中野浩一。 内田慶: 2008年に開催された全プロ大会(奈良競輪場)で、上述の通り、個人追い抜き6連覇を達成したが、5連覇を達成した前年までとは違って内容が悪く、2位の飯島規之を辛くも退けた形となったことから、レース後の優勝インタビューの途中でマイクを差し向けられた、解説の中野浩一が激怒。 荒谷知穂: 中野浩一のK-ファン 加古川クエ: 中野浩一のK-ファン(広島ホームテレビ) - 『めざせMC』コーナー 滝澤正光: 滝澤がデビューした当時の競輪界は中野浩一の全盛期で、同じ九州の井上茂徳と共に特別競輪(現在のGI)のタイトルを分け合う状態が続いていた。 滝澤正光: 1980年代から1990年代にかけ、中野浩一、井上茂徳らとともに競輪黄金時代の一翼を担った。 吉岡稔真: その走りは当時ブームのF1から「F1先行」の異名を取り、同年に引退した中野浩一の後継者として注目された。 石田雄彦: したがって、吉田はダッシュに優れてはいたものの末が持たないという特徴があり(中野浩一とよく似たタイプといえる)、対して石田はダッシュはイマイチだが、一度スピードに乗せてしまうと後続はなかなか抜けないという走り方だった。 黄金井光良: 自身の談によると、A級1班の地位をキープできなくなったのは、1976年の立川競輪場でのレースで、当時A級5班だった中野浩一のマークについたものの、中野の踏み出しに全く対応できず、その後ズルズルと後退していったことに起因していると述べている。 伊東勤: 大の競輪好きで、監督として日本一を果たした2004年には中野浩一のラジオ番組『中野浩一のフリートーク』にもゲスト出演、ライオンズの選手にも競輪好きの輪が広がっているというエピソードを話した。 神山雄一郎: ちなみにこのときの世界選の模様をNHKで解説していた中野浩一は「ゴリネリに遠慮せず自分から一気にスパートをかけていれば勝てた」と悔しがっていた。 植松仁: 中野浩一『競輪選手になるには』ぺりかん社〈なるにはBOOKS 122〉、2004年。 田中一徳: この時競輪選手のスカウト活動に訪れていた中野浩一には「ゴムまりのような肉体で競輪選手向きの体つき」として注目された。 中村あずさ: 関口宏の東京フレンドパークII (1995年1月9日、TBS) - 中野浩一と来園 谷津田陽一: 高松宮杯決勝では、2センターで中野浩一の捲りを金網スレスレまで押し上げた岩崎誠一(2着失格)のプレーがあったとはいえ、見事GI初制覇を果し、続くオールスター競輪(千葉競輪場)決勝でも、直線で一気に伸びて優勝を果し特別競輪連覇を成し遂げた。 東山紀之: 他に、真田広之、川合俊一、中野浩一、川平慈英、哀川翔、澤穂希、トラヴィス・ペインらとも親交がある。 荒川秀之助: 中野浩一である。 木村郁美: 中野浩一のスーパートーク(1997年) 菅田順和: 1983年、第26回オールスター競輪(平※当時)決勝において、逃げる堂田将治の後で滝澤正光と中野浩一が競りとなり、菅田は滝沢の番手でレースを進めていたが、最終バックで捲りを仕掛けてきた中野の後ろに切り替えてその番手に入り込み、直線で中野を差して特別競輪(現在のGI)を制覇した。 ダニエル=モレロン: この記録は中野浩一の世界選手権プロ・スプリント10連覇に匹敵するものであり、後にモレロン対中野という、「夢の対決」が実現することになる。 俵信之: 函館大谷高等学校在学中から自転車競技ジュニア世界選手権のスプリント種目に出場し、競輪選手としてデビュー後の1986年には、世界選手権自転車競技大会のスプリント種目に初出場し、中野浩一・松井英幸に次いで3位に入賞。 菅田順和: 1976年、イタリア・レッチェで開催された世界自転車選手権、プロ・スクラッチ(現在はスプリント)の3位決定戦で、中野浩一をストレートで下し銅メダル。1977年、ベネズエラ・サンクリストバルで開催された世界選手権のプロ・スクラッチ決勝で中野浩一に敗れたものの銀メダル獲得。 ダニエル=モレロン: それは、1980年の世界自転車選手権が地元フランスのブザンソンで開催されることが決まっていたが、プロスプリント3連覇中の中野浩一を倒せるのは、モレロンしかいないと目されたからであり、モレロンもフランス自転車界のたっての希望を受け入れ、プロ選手として36歳で現役復帰を果たすことになった。 藤巻清志: ところで、上述の藤巻がクラーク以下の前団を一旦は飲み込んだケイリンの決勝戦について、開催地フランスのマスコミがこぞって、「信じられない!」、「ナカノ(中野浩一)以外の日本人選手もこんなにすごかったのか!」という驚嘆の声を上げ、優勝したクラークよりも、敗れた藤巻に大きな賞賛記事を提供することになった。 井上茂徳: これは同じ九州で福岡出身の中野浩一、吉岡稔真も成し遂げられなかった偉業であり、後に滝澤正光・神山雄一郎・新田祐大が井上に続く事となる。 蔵間龍也: (中野浩一、角盈男も同席、バーテンダーのトミーズ雅が宥めていた。 小久保尚美: 1987年1月、中野浩一と結婚。 |
中野浩一の情報まとめ
中野 浩一(なかの こういち)さんの誕生日は1955年11月14日です。福岡出身の競輪のようです。
現在、家族、卒業、引退、テレビ、ドラマ、趣味に関する情報もありますね。今年の情報もありました。中野浩一の現在の年齢は69歳のようです。
中野浩一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)中野 浩一(なかの こういち、ラテン文字表記:Koichi Nakano。1955年11月14日 - )は元競輪選手・自転車競技選手。競輪選手登録番号8959。日本競輪学校(当時。以下、競輪学校)第35期生。現在は公益財団法人JKA顧問、競輪解説者、日刊スポーツ競輪担当評論家、公益財団法人日本自転車競技連盟理事(元副会長)、スポーツコメンテーター・タレント((株)アルカンシェル、業務提携は浅井企画所属)。 家族は尚美夫人。 2006年春に全ての公営競技及び競輪選手出身者では初の紫綬褒章受章。血液型B型、身長172 cm、体重85 kg。 世界選手権個人スプリント (UCI Track Cycling World Championships – Men's sprint) 10連覇、特別競輪12勝(GP1勝、GI11勝)、賞金王6回(歴代最多)を達成している。 中野浩一博物館は地元、久留米競輪場内に設置されている。 福岡県久留米市出身。両親はともに元競輪選手。両親は既に他界している。 福岡県立八女工業高等学校では陸上競技を行っており、高校2年のとき、1972年に開催された山形インターハイ・400メートルリレー走の第3走者として優勝に貢献。高校3年春に右太ももの肉離れで陸上競技での大学進学を断念。高校卒業後の進路としては、祖父が中学校の校長をしていたことから体育教諭への道や、プロ野球選手から転身した尾崎将司に倣ってプロゴルファーになる希望を持っていた。そんな中、当時競輪選手だった父・光仁から、一度トラックレーサーに乗ってみないかと奬められ、正味3か月程度の練習の末、競輪学校第35期生試験に合格した。 1975年に競輪学校を卒業。「35期の三羽烏」と謳われる。同年5月3日に久留米競輪場でデビュー。その後、デビュー戦を含めて18戦無敗の記録を作った。当初「九州のハヤブサ」というニックネームが付けられた。当時、中野に対抗するためフラワーラインのグループが形成され、全国規模に拡大。最終的には九州勢VSフラワーの戦いへと移行した。 その象徴が宮杯での岩崎誠一の過度の牽制であり、競輪祭での吉井秀仁の発言(決勝戦終了後、中野に対し、「ザマーミロ、あー気持ちいい」と言った)だった。1978年には競輪祭を制し、特別競輪10回目の出場にして初めての優勝を飾った。そして1980年に、日本の全てのプロスポーツ選手として初めて年間賞金獲得額1億円突破を達成したアスリートである。その後、1981年の日本選手権競輪を制し、高倉登以来となる史上2人目の特別競輪3連覇を達成。1983年には史上最多の6回目の賞金王の座に就いた他、1985年に開始されたKEIRINグランプリを制し、同レースの初代優勝者となった。 とりわけ最盛期ともいうべき、1970年代後半から1980年代前半にかけての中野の強さは驚異的であり、特に「浩一ダッシュ」と称された捲りは非常に鋭く、400mバンクを1周程度しか逃げ切れる力がない先行選手だと簡単に捲られていた。なお、競技で使ったトラックレーサーはナガサワレーシングサイクル(長澤義明)製造。 当時は全てのプロのスポーツ選手はオリンピックに出場出来なかったため、一方で1976年に初めて世界自転車選手権に参戦し、プロ・スクラッチ(現 スプリント)で4位に入った。翌1977年、準決勝で当時同種目連覇中だったジョン=ミカエル・ニコルソンを破ると、決勝では前年の3位決定戦でストレート負けを喫した菅田順和を逆にストレートで下し、日本人選手として初めて同大会の優勝者となった。それ以降は毎年この種目で優勝し続け、1986年までに10連覇を達成(詳細は後述)。 ただ中野は競輪主催団体の方針による後援が受けられたからとはいえ、世界、それも全てアウェイのスポーツ大会において日本人が毎年出場していた例そのものが少なかった頃の活躍だっただけに、現在海外で活躍し続ける日本人スポーツ選手の先駆者パイオニアとなった。不世出のアスリートであり、日本のスポーツ選手の中で、ヨーロッパやオセアニア、南米では特に有名である。 国内でも常にトップクラスで活躍し続け、1983年競輪祭で滝澤正光を捲って優勝したのを最後に、異例の長きにわたった競輪競走第一人者の座は降りたが、1988年には通算賞金獲得額10億円を突破。しかし、1992年に特別競輪の中で最後まで優勝できなかった高松宮杯競輪(現在の高松宮記念杯競輪)の決勝戦2着を最後に引退した。獲得賞金総額は13億1916万2077円。 引退後は、スポーツコメンテーター、日刊スポーツ専属の評論家として活動。特別競輪開催期間中は日刊スポーツの競輪面で、前日のレースの振り返りと当日のレース予想をコラムで述べている。ただ、引退した現在でもJKA競輪関係者の立場であるため車券の購入や(アナウンスとして)レースの出目の予想をする事は、JKAの競輪関係者の車券購入を禁止した自転車競技法第10条に抵触するため行わず、コラムでも主に技術論や選手心理、勝因敗因について語るのみであり、レース予想についても「●●が引っ張っていくだろう」「▲▲が抜け出せば■■にもチャンスがある」程度の展開予想に留まっている。 現役時代からアートネイチャーのCMに出演していた関係から、一時は自転車のロードレースチーム「チームアートネイチャー」の監督も務めていた。しかしアートネイチャーとの契約が切れたこともあり2005年に自毛植毛No.1のシェアを誇るアイランドタワークリニック にて自毛植毛手術を受けた。カツラは使用していない。 競輪がオリンピック自転車競技の「ケイリン」として正式種目に採用された2000年のシドニーオリンピックでは、競技の解説を務めるかたわら、自転車国際連盟から10連覇のリスペクトにより強いオファーを受け、ケイリンでは全レース先導誘導員を務めた。 2006年51歳で春の紫綬褒章を公営競技の選手、及び競輪選手として初めて受章。競輪選手としての現役時代の活躍とともに、世界選手権プロスプリント10連覇が高く評価された。中野は「現役時代に一生懸命取り組んできたことが評価されて光栄に思います。今回の受賞は自分だけの名誉ではなく、業界の後押しもあってのこと。これからも熱い思いでファンに愛される競輪のお手伝いができれば」と喜びを語った。現在、現役時の本拠地であった久留米競輪場では彼の功績を称え毎年、記念競輪を「中野カップレース」と名づけて開催している。 2011年4月より、日本自転車競技連盟強化委員長に就任。2013年7月より同連盟副会長。競輪選手養成所名誉教授。 となったが、2015年1月に松本整の日本代表監督解任に関する訴訟への発言により、副会長および代表理事を辞任して理事に退いた。2016年10月より強化委員長を再任されている 2021年の東京オリンピックでは、競技の解説を務めた。 2023年、日本自転車競技連盟理事を退任し、JCF選手強化スーパーバイザーに就任。 2024年のパリオリンピックでも、競技の解説を務めた。 賞金王(66,139,600円) 賞金王(82,385,200円) 賞金王(92,186,200円) 賞金王(111,410,600円。日本プロスポーツ選手史上初の年間獲得賞金1億円突破) 賞金王(107,685,711円) 賞金王(109,093,600円。史上最多の6回目の座に就く) KEIRINグランプリ(立川競輪場。初代優勝者) 年間賞金王 6回 通算出走回数 1236回中1着666回 優勝回数 169 記念競輪最多優勝 116回 連続決勝進出記録 62場所(1979年7月7日 - 1982年3月1日) 1985年……優勝 1986年……3着 1987年……2着 1988年……5着 1989年……中止 1990年……2着 UCI Track Cycling World Championships – Men's sprint 1990年、前橋の開催において、日本自転車関係者のたっての希望により、中野はケイリンへの出場を果たすも予選で敗退した。 1991年、ドイツ・シュトゥットガルト大会にもケイリンで参加したが、決勝5着。そして、これが中野が参加した最後の世界選手権となった。 以下は、2008年11月22日にNHK衛星第一放送で放送されたスポーツ大陸の、「世界を変えた“浩一ダッシュ”〜自転車 中野浩一〜」を参考に記した。 途中までは中団に位置し、残り数百メートルあたりで全力ダッシュをかけて一番前に出て、そのままゴールまで先頭を維持し続ける「捲り」という走りを最も得意とした。スプリントV10はこの走り方により成し遂げた面が大きい(浩一ダッシュとも言われた)。高橋健二は浩一ダッシュを「一瞬の爆発力。ピストの走路に中野がダッシュすると、タイヤのスリップ跡が付いた」と評している。 浩一ダッシュの秘密が、競輪学校の教材に残されている。中野の場合、踏み込む時には大きく力が加わっているが、その後は全く力が加わっていない。一流選手でも力が残る人が多いのとは対照的に、中野の切り替えの見事さが際立っている。ペダルは両足で漕ぐが、右足で下向きの力を掛けている時に左足の力も残っていると、ギアを回転させる力を殺してしまうのだ。中野が高速でペダルを踏んでも絶妙なタイミングで切り替えができたのは、実は陸上競技をしていた時の練習の賜物で「踵がお尻に当たるような、足を出す時に早く巻き込むというようなイメージで、陸上練習をやっていたのが、逆に役に立っているのかなと思う。僕の自転車に乗ってる姿を見て、なんか自転車の上で走ってるようだねっていう人もいた」と述懐している。 競輪競走においてダッシュは2通りある。一つは、いわゆるスタンディングと呼ばれる全くスピードに乗っていない状態からの踏み出しで0発進と呼ばれ、長塚智広が世界有数の能力を持っている。もう一つは、ある程度スピードに乗った状態からの急加速であり、吉岡稔真のF1ダッシュ(ラジオの題名)が有名である。通常、この2つはあまり同居せず、長塚は並のS1選手であり、吉岡は常に踏み出しで遅れをとっていたが、中野はこの2つのダッシュ力においてどちらも輪界トップであったことが驚異的な成績につながることになった。なお、ダッシュ力の持続は数百メートルの範囲であり、競輪以外での中・長距離走は苦手であることを現役時代から公言している。 中野の速さのもう一つの秘密は、自転車のフレームにあった。他の選手は通常、結構ハンドルにしがみついて乗るフォームになる。それに対して、中野は全速力で走る時も、腰をサドルに乗せたままペダルを漕ぐ。しかし腰を浮かせて前に行ったほうが、ペダルに力を掛けやすい。そこで、中野の自転車を製作していた長澤義明は、その走り方の特長を最大限に生かそうと考えた。フレームの形を変え、サドルの位置を前に2cmずらした。これなら安定して強い力で漕げる。さらに中野のパワーに負けないように、フレームのパイプを肉厚にした。重くはなるが、力が逃げない。安定したペダリングで強い踏み込みができるこのフレームは、中野が世界で勝った後、わずか3年でスタンダードになっていた。 競輪競走1236走中9着は僅か4回で、うち一回は落車後の再乗車によるものである。自身も「9着を取らない」ことを相当意識しており、不利な状況でもできる限りの力を尽くしたと後のインタビューで答えている。 本人曰く根は練習嫌いであったという。しかし練習嫌いゆえに効率的な練習ができ、必要以上に肉体を酷使せずに疲労による怪我をせずに済んだと語っている。また、競輪学校時代と、その後プロになってからしばらくの間は、必死に練習したとも言っている。 明日につっ走れ(1977年世界選手権金銀制覇記念盤。菅田順和が歌う「男なら」との両A面) 花が散る前に(作詞:小沢忍/作曲:石坂まさを、1981年発売) 愛のRhapsody(NAOMIとデュエット、アートネイチャーCMソング、カップリング曲は日本自転車振興会イメージソング「トキメキは消せない」、1997年12月10日発売) 世界一の青春―ペダルに賭けた男の意地が爆発(1981年、講談社) 気分はいつもブッチギリ―自分へのチャレンジなくしてトップはない!(1984年、日本文芸社) 中野浩一のスポーツを撃つ!!―熱きインタビュー、トッププレーヤー12人 ロマンを探れ、感動を語れ(1993年、日刊スポーツ出版社) 中野浩一の競輪へ行こう。―今だから話せる選手から見た競輪のすべて(1999年、ゴマブックス) 競輪選手になるには(2004年、ぺりかん社、なるにはBOOKSシリーズの一つ) 中野浩一監修 競輪王:1994年11月18日発売。ココナッツジャパンエンターテイメントより販売。スーパーファミコン用ソフト。 「青春 PARTⅡ」(1979年) - 斉藤忠行 役 解説者
夏季オリンピック・自転車競技(1996年アトランタオリンピックより) 世界選手権自転車競技大会トラックレース (NHK) UCIトラックワールドカップ (NHK) ツール・ド・フランス中継(フジテレビ → SKY SPORTS)- 1992年〜2000年?(現在のJ SPORTS cycle road raceの前身) レギュラー番組
風にタッチ(テレビ東京) 気分走快(テレビ東京) THE FACE アスリートの詩(テレビ東京) ミラクルC(テレビ東京) 中野浩一のK-ファン(広島ホームテレビ) 中野浩一の釣り一番(九州朝日放送) 中野浩一のフリートーク(TBSラジオ) サンデー強啓 本日発売(TBSラジオ) 新春ドラマスペシャル / 女たちの森(フジテレビ)- 1987年1月1日 本気の競輪TV(Kドリームス、2018年 - ) アイランドタワークリニック福岡 (Al-Vision) 日清食品 はかたんもんらーめん(1986年) 鈴木日本堂「トクホンチール」「トクホンダッシュ」 Alpen・SPORTS DEPO「アルペンIGNIO電動ハイブリッド自転車」商品CM(実際に商品に乗って出演しており、CM自体も実況と解説が声のみであるものの出演していることから、自転車競技のテレビ中継の一部分を思わせる構成となっている) メガネのイタガキ ACジャパン(当時の団体名は公共広告機構) - 阪神・淡路大震災の際はスポンサーのCM自粛により頻繁に流れた。 このほか、エキシビションマッチではあるが、1979年に西宮競輪場で開催された全日本プロ選手権自転車競技大会(全プロ大会)でアントン・トカシュが、同じく全プロ大会において、1984年に向日町競輪場で中武克雄(当時、島野工業所属)が破ったケースがある(トカシュ、中武のケースは共に、1本勝負)。 プロ入り前の段階では、後にモスクワオリンピックで「幻の日本代表」となる長義和と非公式にスプリントで対決したことがあり、その際は長が勝ったという。 ちなみに、中野を破った選手はいずれもアマチュアの選手であった。ただし、グランプリ・ド・パリ以外のレースは非公式である。 1990年の前橋の世界選手権では、自身がケイリンに出場することになっていたにもかかわらず、ケイリン以外の種目について、NHKテレビ中継の解説を行った。尚、競輪中継では出場する全ての選手に君づけをする。 オールスター競輪ファン投票第1位回数13回は歴代最多。また、1981年から1991年まで11年連続で同第1位となっている。 1992年の国際競輪グランプリ、寛仁親王牌(当時は非特別競輪扱い)で4戦連続吉岡にじかマークしながらも、吉岡についていくのが精一杯だった。西王座戦で吉岡は敗退。吉岡不在となった同年6月4日の第43回高松宮杯競輪決勝戦では、往時を彷彿させる2センター捲りを敢行して滝澤正光に迫るも、わずかに及ばず2着。翌6月5日、NHK朝7時のニュースで引退が報じられた。そして後日引退記者会見を行い、17年間の競走生活にピリオドを打った。2021年の本人へのインタビュー「中野浩一が選ぶ「時空を超えたオールスター競輪9人」」では、中野・吉岡・滝澤以外に、神山雄一郎・井上茂徳・坂本勉・村上義弘・新田祐大・脇本雄太の名を挙げた。 フランスのダニエル モレロンは、臨時コーチとしてしばし来日した際、スプリントのイロハを中野に伝授しており、中野にとって、実質的に師匠のような存在でもあった。1980年にモレロンがプロ選手として現役復帰し、世界選の準決勝で対戦することになったが、後日、「一度現役を退いた選手に絶対に勝たせてはならない。完膚なきまでに打ちのめす。」という気持ちを持って挑んだことを述懐した中野は、小細工抜きに、1、2本目と、いずれも先行策に打って出たところ、モレロンは中野に全く歯が立たず、ストレート負けを喫し完敗。大会終了後、「中野に教えることはもう何もない。」という言葉を残し、現役を引退した。そして、モレロンを破ったことにより、フランス人は「ムッシュ・ナカノ」と称して、中野に多大な敬意を払うようになった。 モレロン引退後の宿命のライバルといえば、ゴードン・シングルトンであったが、死闘を演じて6連覇を達成した1982年の世界選のときよりも、決勝でストレート勝ちを収めて5連覇を達成した1981年のときのほうがシングルトンは強かったと、6連覇達成後の記者会見で言明し、報道陣をびっくりさせた。その理由として、「去年(1981年)は、力で自分(中野本人)を倒しにいっていたことを感じたから、正直、勝つのに苦労した。しかし今年(1982年)は、自分を倒したいというよりも、世界選で勝ちたいという姿勢がありありと見えた。確かに内容的には今年のほうが苦戦したように見えるが、仮に3本目を対戦することになったとしても、絶対に負けないという自信があった。」と述べている。 中野が世界選手権で初優勝した同日に、王貞治がホームラン世界記録に並ぶ755本目を打ち、翌日のスポーツ紙の一面は王の記事ばかりで、中野の快挙はほんの小さな扱いだった。翌年の世界選手権で中野は連覇を達成したが、帰国した日の一面は、またしても王の800号が扱われ、世間の注目を集められなかった。したがって当時、王に対するライバル心はあったようだ。その時、中野は「世界選手権で連覇し続けようになった」という。 人前で涙をほとんど見せたことがなかったが、世界選手権で10連覇したときと、引退記者会見のときにはうれし涙を浮かべた。引退記者会見の際には、「今日が一番うれしい。世界選手権で初めて優勝したときは数名程度にすぎなかったのに、今日、こんなに大勢の記者の人たち(およそ約300名ほどいた)が来てくれるとは思わなかったから。」と述べた。 プロポーズの言葉は「パンツ洗ってください」。 2008年8月8日、NHKラジオの北京オリンピック開会式中継にゲスト出演した際、高所恐怖症であることを増田明美に再三突っ込まれた。 北京オリンピック・ケイリン決勝では、残りあと1周付近より中山貴雄アナの実況を遮り、「永井、詰めろ!」、「永井行け!」等と再三再四絶叫。しかしその後、スポーツ新聞等に、「(興奮した自分が恥ずかしくて)決勝のときの実況中継は二度と見たくない。」と述べた。 同姓同名の競輪選手(福岡47期・選手登録番号10234)が存在し、しかもホームバンクは同じく久留米競輪場。その選手のニックネームは「にせもん」 とのこと。本家の倍の長さの選手生活を送り2016年7月8日付で引退した。 黄金井光良が、41歳の年齢で迎えた1976年の立川競輪場のレースで、当時A級5班 だった中野が単騎であったことからそのマークについたところ、勝負どころで中野の踏み出しに全くついていけず、その後ズルズルと後退してしまった。当時黄金井はA級1班 だったが、このレースを境に自分はもう、トップクラスの選手としてやっていくのはムリだと感じたという。 10枚所持していたマイヨ・アルカンシエルを一部知人に譲ったりしたため、現在は手元にほとんど残っていないらしい(本人談)。 現役の競輪選手として、日本競輪選手養成所(当時は競輪学校)で最初に合宿練習を行ったのは、久保千代志と中野である。 松本整は、自ら懇願して中野と一緒に合宿練習するようになったことを契機に、中野を自身の師匠のような存在として捉え、自身の引退のことについても、身内以外では、中野だけにしか事前に話していなかったことを告白している。 「ミスター・赤ヘル」こと山本浩二と親交が長い。 1985年のオールスター競輪では、全ての競走において、マイヨ・アルカンシエルを着用して出走した。また、同年の競輪祭初戦でも同様に着用して出走した。 日本名輪会において発足時からの会員であったが、現在は公務優先のため退会している。 「赤い隼」と呼ばれたこともあるほど赤色が好きで、レーサーのフレームはずっと赤としており、また3番車(赤いヘルメットに赤い上着)になることにこだわりを持っていた。最後のレース、グランドスラムを賭けた高松宮杯決勝レースも3番車であった。 『タモリ倶楽部』のコーナー「空耳アワー」に、空耳役者として出演したことがある。 趣味は選手時代から麻雀で麻雀番組常連になるなどかなりの腕前である。先輩選手と卓を囲んでいる内に腕が上達したという。 ^ 「スプリントの皇帝」と呼ばれた男 中野浩一とは MoreCADENCE 2021年1月17日 ^ 『中野浩一氏紫綬褒章受章を祝う会』盛大に催される 競輪選手出身者として初の受章!, (2006年9月20日号), Web週間レース ^ シクリスムエコー No.128 2006年04月号, 日本自転車競技連盟, 16ページ ^ 中野浩一, 浅井企画 ^ 【あの時・中野浩一V10の軌跡】(1)大会まであと100日、肋骨5本骨折の重傷 スポーツ報知 ^ 【あの時・中野浩一V10の軌跡】(2)負傷、プレッシャーを吹き飛ばし「終止符」 スポーツ報知 ^ 【あの時・中野浩一V10の軌跡】(3)世界初挑戦は3位決定戦で敗退 スポーツ報知 ^ 【あの時・中野浩一V10の軌跡】(4)今も語り草 82年シングルトンとの戦い スポーツ報知 ^ 【あの時・中野浩一V10の軌跡】(5)ヒーローに託された競輪のイメージアップ スポーツ報知 ^ ビジネス哲学研究会『ビジネスに活かす一流選手の言葉』 ^ 西日本新聞. “九州アマ列伝5 八女工高 中野浩一”. 2005年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年10月21日閲覧。 ^ 中野浩一(競輪解説者)<前編>「親父の背中をみて育った」 SPORTS COMMUNICATIONS ^ 中野浩一のオレにまかせろ!! Question & Answer 関自競 ^ <還暦攻めの銀輪 大津在住の競輪選手 井狩さん, 2012/04/09 11:41, 京都新聞 ^ 柿原恒介 あとぴナビ/スペシャルインタビュー, あとぴナビ ^ 月刊競輪2004年8月号 「今だから言えることVol.4 吉井秀仁」 ^ 自転車フレーム職人 長沢義明さん(65) “黄金比”の骨格 銀輪支える : 地域 , 2013年08月03日, 読売新聞 ^ 年間総売上額、5兆7500億円! 公営ギャンブル巻き返す, 1987/12/25 朝日新聞夕刊 ^ 選手通算成績|KEIRIN.JP ^ 自転車競技法(昭和二十三年法律第二百九号)第十条 - e-Gov法令検索 ^ 中野と同じく日刊スポーツ専属の競輪評論家である山口幸二は、子息の星矢・拳矢が現役の競輪選手であるため間接的には競輪関係者に当たるものの、指導する立場にはないため中野とは異なり、記者と同様にレースごとに◎○▲×の印を打って出目の予想を行っている(但し子息が出走するレースについては予想は控えている)。 ^ 選手引退後も競技団体の関係者であるため、自身が名を成した競技で予想行為に制限が掛かっている著名人には、競艇の植木通彦、地方競馬の佐々木竹見、中央競馬の岡部幸雄などがいる。 ^ チェブロ・アートネイチャー - 第2回ツアー・オブ・ジャパン公式サイト ^ [1] ^ 中野浩一の"自分の髪"体験記 ^ 中野浩一氏に紫綬褒章、競輪選手出身で初, 2006/4/28/09:53, 日刊スポーツ ^ [2] ^ (公財)日本自転車競技連盟からのご報告 - 2015年1月16日 ^ 中野浩一氏、東京五輪へ向け選手強化委員長に復帰 - 日刊スポーツ・2016年10月4日 ^ 中野浩一氏が日本自転車競技連盟(JCF)選手強化スーパーバイザーに就任株式会社八重洲出版 2023.08.12 ^ 2021年版 競輪年間記録集 ^ 過去91〜105 我が中野浩一 ^ 当時発行されていた自転車競技マガジンの中野浩一V10物語によると、帯同していたメカニシャンの長澤義明(中野が使用していた自転車のビルダーでもある)が、「しっかりしろ!まだ負けたわけではあるまい!」と鼓舞しつつ、朦朧としている中野にビンタを見舞い、それで漸く中野の意識が少しずつ回復したと述べられている ^ この再戦1本目について、中野はレース内容すら全く覚えていないということを、後にミラクルCなどのテレビ番組で言明している ^ 第5回 レジェンド中野浩一 BS日テレ 「パンサーの「競輪、はじめました。」」 ^ 「中野浩一が語る 世界選手権10連覇秘話 2連覇後編 」YouTube 日刊スポーツ競輪部 ^ 『競輪文化「働く者のスポーツ」の社会史』(古川岳志、青弓社、2018年)p.124 ^ 中野浩一が選ぶ「時空を超えたオールスター競輪9人」 - netkeirin、2021年8月7日 ^ 参考文献:中野浩一の心はいつもブッチギリ(KKベストセラーズ) ^ 週間レース1992年7月5日号より ^ 1986年の婚約記者会見上での話 ^ オンエア中のやりとりの中での話 ^ 一例として、2008年に行われたふるさとダービー福井決勝戦中継において同様の話をしていた。 ^ 選手プロフィール ^ 【競輪】中野浩一がついに引退!「ニセモノ」とやじられ35年 デイリースポーツ2016年7月10日付 ^ 当時の競輪の選手ランク付けは、A級5班、B級2班制となっていた。 ^ 競輪選手全体で120名しかいなかった ^ 2000年3月1日付東京新聞 ^ 世界選手権トークショー@NHK - Honk de Bonk 2010年5月1日付記事 ^ 今だからいえること Vol.1 ^ 「伝説」競輪界の鉄人・松本整 - 日刊スポーツ(大阪版)2008年10月15日〜10月18日、10月21日〜10月25日 ^ 【172】〜【181】我が中野浩一 の【178】 ^ 井上和巳のバンクのつぶやき - 月刊競輪WEB(KEIRIN.JP)・2016年7月1日 ^ 空耳アワーアップデート - 98年3月13日 我が世界V10男・中野浩一【1】〜【150】 我が世界V10男・中野浩一【151】〜【230=完】 選手通算成績 - KEIRIN.JP 浅井企画 所属タレントプロフィール 中野浩一 オフィシャルブログ 「輪 ワッ 和」 - Ameba Blog プロフィール - Cycling Archives(英語) 表 話 編 歴 1968 西城正三 1969 読売ジャイアンツ 1970 大鵬幸喜 1971 長嶋茂雄 1972 松本勝明 1973 沢村忠 1974 王貞治 1975 広島東洋カープ 1976 王貞治 1977 王貞治 1978 ヤクルトスワローズ 1979 具志堅用高 1980 具志堅用高 1981 中野浩一 1982 落合博満 1983 広岡達朗 1984 衣笠祥雄 1985 ランディ・バース 1986 落合博満 1987 岡本綾子 1988 千代の富士貢 1989 千代の富士貢 1990 野茂英雄 1991 辰吉丈一郎 1992 貴花田光司 1993 三浦知良 1994 イチロー 1995 イチロー 1996 尾崎将司 1997 中田英寿 1998 佐々木主浩 1999 松坂大輔 2000 松井秀喜 2001 イチロー 2002 FIFAワールドカップ日本代表 2003 松井秀喜 2004 朝青龍明徳 2005 朝青龍明徳 2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 2007 浦和レッドダイヤモンズ 2008 石川遼 2009 石川遼 2010 白鵬翔 2011 FIFA女子ワールドカップ日本女子代表 2012 阿部慎之助 2013 田中将大 2014 錦織圭 2015 ラグビー日本代表 2016 大谷翔平 2017 福岡ソフトバンクホークス 2018 大谷翔平 2022 井上尚弥 2023 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表 表 話 編 歴 95 ロベール・プロタン 96 ポール・ブリヨン 97 ヴィリー・アレント 98 A.バンカー・ジョージ 99 ウォルター・テイラー・マーシャル 00 エドモン・ジャクラン 01 トーワルド・エレガード 02 トーワルド・エレガード 03 トーワルド・エレガード 04 イヴァー・ローソン 05 ガブリエル・プレン 06 トーワルド・エレガード 07 エミール・フリオル 08 トーワルド・エレガード 09 ヴィクトル・デュプレ 10 エミール・フリオル 11 トーワルド・エレガード 12 フランク・クラマー 13 ヴァルター・リュット 20 ロバート・スピアース 1921–24: ピート・ムスコプス 25 エルネスト・カウフマン 26 ピート・ムスコプス 27–30 リュシアン・ミシャール 31 ウィリー・ファルク・ハンセン 32–37 ジェフ・シェーレン 38 アリー・ファンフリート 39 決勝戦未実施 46 ヤン・デルクセン 47 ジェフ・シェーレン 48 アリー・ファンフリート 49–51 レジナルド・ハリス 52 オスカル・プラットナー 53 アリー・ファンフリート 54 レジナルド・ハリス 55–56 アントニオ・マスペス 57 ヤン・デルクセン 58 ミシェル・ルソー 59–62 アントニオ・マスペス 63 サンテ・ガイアルドーニ 64 アントニオ・マスペス 65–66 ジュゼッペ・ベゲット 67 パトリック・セルキュ 68 ジュゼッペ・ベゲット 69 パトリック・セルキュ 70 ゴードン・ジョンソン 71 レイン・ルヴェサイン 72–73 ロベルト・ファン・ランケル 74 ペダー・ペダーセン 75–76 ジョン=ミカエル・ニコルソン 77–86 中野浩一 87 俵信之 88 ステファン・ペイト 89 クラウディオ・ゴリネッリ 90 ミカエル・ヒュープナー 91 1位選手失格につき空位 92 ミカエル・ヒュープナー 93 ゲリー・ネイワンド 94 マーティ・ノースタイン 95 ダリン・ヒル 96–98 フロリアン・ルソー 00 ヤン・ファンアイデン 01 アルノー・トゥルナン 02 ショーン・イーディ 03 ローラン・ガネ 04 テオ・ボス 05 レネ・ウォルフ 06 テオ・ボス 07 テオ・ボス 08 クリス・ホイ 09 グレゴリー・ボジェ 10 グレゴリー・ボジェ 11 ジェイソン・ケニー 12: グレゴリー・ボジェ 13: シュテファン・ベティヒャー 14: フランソワ・ペルヴィス 15: グレゴリー・ボジェ 16: ジェイソン・ケニー 17: デニス・ドミトリエフ 2018: マシュー・グレーツァー 2019–21: ハリー・ラブレイセン 表 話 編 歴 85 中野浩一 86 井上茂徳 87 滝澤正光 88 井上茂徳 89 中止 90 坂本勉 91 鈴木誠 92 吉岡稔真 93 滝澤正光 94 井上茂徳 95 吉岡稔真 96 小橋正義 97 山田裕仁 98 山口幸二 99 太田真一 00 児玉広志 01 伏見俊昭 02 山田裕仁 03 山田裕仁 04 小野俊之 05 加藤慎平 06 有坂直樹 07 伏見俊昭 08 井上昌己 09 海老根恵太 10 村上博幸 11 山口幸二 12 村上義弘 13 金子貴志 14 武田豊樹 15 浅井康太 16 村上義弘 17 浅井康太 18 三谷竜生 19 佐藤慎太郎 20 和田健太郎 21 古性優作 22 脇本雄太 23 松浦悠士 表 話 編 歴 49・第1回(甲規格):横田隆雄 (乙規格):横田隆雄 49・第2回(甲規格):横田隆雄 (乙規格):小林源吉 50 宮本義春 51・第4回 山本清治 51・第5回 高倉登 52・第6回 高倉登 52・第7回 宮本義春 53 中井光雄 54 松本勝明 55 松本勝明 56 坂本昌仁 57 佐藤喜知夫 58 吉田実 59 石田雄彦 60 吉田実 61 開催中止 63 西地清一 64・第17回 笹田伸二 64・第18回 石田雄彦 65 笹田伸二 66 宮路雄資 67 平間誠記 68 吉川多喜夫 70・第23回 工藤元司郎 70・第24回 荒川秀之助 72 河内剛 73 阿部道 74 田中博 75 高橋健二 76 新井正昭 77 小池和博 78 藤巻清志 79 山口健治 80 吉井秀仁 81 中野浩一 82 中里光典 83 井上茂徳 84 滝澤正光 85 清嶋彰一 86 滝澤正光 87 清嶋彰一 88 滝澤正光 89 小川博美 90 俵信之 91 坂巻正巳 92 吉岡稔真 93 海田和裕 94 小橋正義 95 小橋正義 96 吉岡稔真 97 濱口高彰 98 吉岡稔真 99 神山雄一郎 00 岡部芳幸 01 稲村成浩 02 山田裕仁 03 山田裕仁 04 伏見俊昭 05 鈴木誠 06 吉岡稔真 07 有坂直樹 08 渡邉晴智 09 武田豊樹 10 村上博幸 11 村上義弘 12 成田和也 13 村上義弘 14 村上義弘 15 新田祐大 16・第69回 村上義弘 16・第70回 中川誠一郎 17 三谷竜生 18 三谷竜生 19 脇本雄太
21 松浦悠士 22 脇本雄太 23 山口拳矢 24 平原康多 1949・第1回-1949・第2回 後藤欣一 1950・第3回-1954・第9回 河内正一 1955・第10回 杉井正義 1949・第2回-1950・第3回 高木ミナエ 1951・第4回 黒田智子 1951・第5回 渋谷小夜子 1952・第6回 田中和子 1952・第7回 水野信子 1953・第8回 有江美和子 1954・第9回-1955・第10回 田中和子 1956・第11回 畑田美千代 表 話 編 歴 56 石田雄彦 57 西村公佑 58 戸上守 59 中井光雄 60 吉田実 61 吉田実 62 平間誠記 63 高原永伍 64 高原永伍 65 白鳥伸雄 66 木村実成 67 竹野暢勇 68 伊藤繁 69 田中博 72 稲村雅士 73 福島正幸 74 阿部道 75 加藤善行 76 藤巻昇 77 谷津田陽一 78 天野康博 79 中野浩一 80 中野浩一 81 井上茂徳 82 松村信定 83 菅田順和 84 吉井秀仁 85 高橋健二 86 伊藤豊明 87 滝澤正光 88 中野浩一 89 坂本勉 90 滝澤正光 91 坂本勉 92 松本整 93 神山雄一郎 94 出口眞浩 95 高橋光宏 96 児玉広志 97 神山雄一郎 98 山口幸二 99 神山雄一郎 00 児玉広志 01 伏見俊昭 02 松本整 03 村上義弘 04 神山雄一郎 05 神山雄一郎 06 井上昌己 07 飯嶋則之 08 伏見俊昭 09 武田豊樹 10 山崎芳仁 11 浅井康太 12 山崎芳仁 13 後閑信一 14 武田豊樹 15 新田祐大 16 岩津裕介 17 渡邉一成 18 脇本雄太 19 新田祐大 20 松浦悠士 21 古性優作 22 脇本雄太 23 眞杉匠 24 古性優作 表 話 編 歴 51 山本清治 53 山地正 55 石田雄彦 58 戸上守 63 高原永伍 64 高原永伍 65 加藤晶 66 吉川多喜夫 67 平間誠記 68 伊藤繁 69 高原永伍 70 福島正幸 71 阿部道 72 班目秀雄 73 福島正幸 74 福島正幸 75 桜井久昭 76 阿部良二 77 藤巻清志 78 中野浩一 79 吉井秀仁 80 中野浩一 81 中野浩一 82 井上茂徳 83 中野浩一 84 井上茂徳 85 井上茂徳 86 山口健治 87 中野浩一 88 山口健治 89 波潟和男 90 滝澤正光 91 小橋正義 92 吉岡稔真 93 吉岡稔真 94 吉岡稔真 95 神山雄一郎 96 神山雄一郎 97 神山雄一郎 98 加倉正義 99 小倉竜二 00 神山雄一郎 02 山田裕仁 03 山田裕仁 04 小橋正義 05 後閑信一 06 小倉竜二 07 山崎芳仁 08 井上昌己 09・第50回 山崎芳仁 09・第51回 平原康多 10 海老根恵太 11 長塚智広 12 武田豊樹 13 金子貴志 14 平原康多 15 武田豊樹 16 平原康多 17 新田祐大 18 浅井康太 19 松浦悠士 20 郡司浩平 21 吉田拓矢 22 新山響平 23 眞杉匠 51 木本登美子 53 立川玉子 55 田中和子 表 話 編 歴 85 佐々木昭彦 86 井上茂徳 87 滝澤正光 88 中野浩一 89 中野浩一 90 井上茂徳 91 鈴木誠 92 梶應弘樹 93 高木隆弘 94 高橋光宏 95 神山雄一郎 96 海田和裕 97 児玉広志 98 山田裕仁 99 吉岡稔真 00 金古将人 01 濱口高彰 02 村上義弘 03 佐藤慎太郎 04 内林久徳 05 加藤慎平 06 合志正臣 07 山崎芳仁 08 三宅伸 09 山崎芳仁 10 佐藤友和 11 伏見俊昭 13 平原康多 14 村上博幸 15 山崎芳仁 16 渡邉一成 17 平原康多 18 新田祐大 19 中川誠一郎 20 清水裕友 21 郡司浩平 22 古性優作 23 古性優作 24 郡司浩平 表 話 編 歴 63 高原永伍 64 木村実成 65 野寺英男 66 松本秀房 67 福島正幸 68 藤巻昇 69 班目秀雄 70 荒川秀之助 71 山藤浩三 72 藤巻清志 73 国持一洋 74 渡辺孝夫 75 岩崎誠一 76 中野浩一 77 菅田順和 78 吉井秀仁 79 木村一利 80 亀川修一 81 北村徹 82 峰重龍一 83 小磯伸一 84 小門洋一 85 山田英伸 86 俵信之 87 鈴木誠 88 長谷部純也 89 神山雄一郎 90 紫原政文 91 高木隆弘 92 児玉広志 93 澤田義和 94 横田努 95 金山栄治 96 太田真一 97 手島慶介 98 齋藤登志信 99 吉村和之 00 加藤慎平 01 荒井崇博 02 渡部哲男 03 岡田征陽 04 海老根恵太 05 山崎芳仁 06 金成和幸 07 菊地圭尚 08 飯野祐太 09 神山拓弥 10 深谷知広 11 柴田竜史 12 松岡篤哉 13 猪俣康一 14 近藤龍徳 15 野口大誠 16 渡邉雄太 17 鈴木竜士 18 太田竜馬 19 松本貴治 20 松井宏佑 21 小原佑太 22 菊池岳仁 23 太田海也 表 話 編 歴 1972: 荒川秀之助 (1) 0073: 阿部道 0074: 阿部道 0075: 阿部道 (3) 0076: 藤巻昇 0077: 中野浩一 0078: 中野浩一 0079: 藤巻昇 1980: 藤巻昇 (3) 0081: 中野浩一 0082: 中野浩一 0083: 中野浩一 0084: 中野浩一 0085: 中野浩一 0086: 中野浩一 0087: 中野浩一 0088: 中野浩一 0089: 中野浩一 1990: 中野浩一 0091: 中野浩一 (13) 0092: 吉岡稔真 0093: 吉岡稔真 0094: 吉岡稔真 0095: 吉岡稔真 0096: 吉岡稔真 0097: 神山雄一郎 0098: 吉岡稔真 0099: 神山雄一郎 2000: 神山雄一郎 0001: 吉岡稔真 0002: 神山雄一郎 (4) 0003: 吉岡稔真 0004: 吉岡稔真 0005: 武田豊樹 (1) 0006: 吉岡稔真 (10) 0007: 小嶋敬二 0008: 小嶋敬二 (2) 0009: 伏見俊昭 (1) 2010: 村上義弘 0011: 村上義弘 0012: 深谷知広 0013: 村上義弘 (3) 0014: 深谷知広 0015: 深谷知広 (3) 0016: 新田祐大 0017: 平原康多 0018: 新田祐大 (2) 0019: 脇本雄太 2020: 脇本雄太 0021: 平原康多 0022: 平原康多 (3) 0023: 脇本雄太 (3) 0024: 古性優作 (1) 表 話 編 歴 60 - 62 石田雄彦 63 白鳥伸雄 64 石田雄彦 65 高原永伍 66 - 67 平間誠記 68 伊藤繁 69 高原永伍 70 福島正幸 71 荒川秀之助 72 福島正幸 73 - 74 阿部道 75 福島正幸 76 藤巻昇 77 - 79 中野浩一 80 - 81 中野浩一 82 井上茂徳 83 中野浩一 84 井上茂徳 85 - 88 滝澤正光(うち87*) 89 坂本勉 90 滝澤正光 91 鈴木誠* 92 吉岡稔真* 93 神山雄一郎 94 吉岡稔真 95 神山雄一郎 96 吉岡稔真 97 - 99 神山雄一郎 00 神山雄一郎 01 伏見俊昭* 02 - 03 山田裕仁** 04 小野俊之* 05 加藤慎平* 06 山崎芳仁 07 小嶋敬二 08 井上昌己* 09 海老根恵太* 10 村上博幸* 11 山口幸二* 12 武田豊樹 13 金子貴志* 14 武田豊樹* 15 新田祐大 16 村上義弘* 17 新田祐大 18 三谷竜生* 19 佐藤慎太郎* 20 脇本雄太 21 古性優作* 22 脇本雄太* 23 古性優作 60 加古政子 61 福島秀代 62 中村金子 12 加瀬加奈子 13 石井寛子 14 - 15 小林優香(うち15*) 16 梶田舞* 17 石井寛子* 18 - 20 児玉碧衣*** 21 高木真備* 22 柳原真緒* 23 佐藤水菜* 表 話 編 歴 松本勝明(1981-2021) 中野浩一(1984-) 高原永伍(1991-2024) 滝澤正光(2010年から所長、2007-) 表 話 編 歴 山本清治 宮本義春 阿部道 藤巻昇 荒木実 山口健治 吉井秀仁 井上茂徳 伊藤豊明 滝澤正光 佐々木昭彦 鈴木誠 坂本勉 小橋正義 濱口高彰 後閑信一 高木真備* 古田泰久 石田雄彦 白鳥伸雄 吉田実 戸上守 加藤晶 竹野暢勇 松本勝明 中井光雄 高原永伍 福島正幸 中野浩一 表 話 編 歴 青山俊雄 阿見201 内田岳志 おさる カズマ・スパーキン 車だん吉 剛州 小堺一機 小林よしひさ 坂本ちゃん 清水昭博 しゅくはじめ 関根勤 タカガキ 萩本欽一
ハグてっぺい 原沢侑高 平子悟 松本秀樹 見栄晴 三宅克幸 横山真史 相良柚月 綾乃琴莉 荒木里都 飯田あすか 泉田珠華 伊東愛 稲村亜美 今井久美子 右手愛美 江島波瑠 榎木さりな 円城寺あや 逢坂由委子 大寶智子
岡元あつこ 奥村茉実 カンナ 小西ゆりな 杉本愛里 関根麻里 瀬間彩海 丹丹ミホ 葉山レイコ 宗清万里子
八鍬乃々 安井南 我妻三輪子 相澤隼人 阿雅佐 池田陽子 宇佐元恭一 梅澤友里香 及川眠子 岡野あつこ 奥田健次 小倉朋子 皆藤慎太郎 鍵屋一 樺沢紫苑 カピパラ 京師美佳 熊本マリ
小早川毅彦 小林智子 齋藤剛 桜井奈々 関根眞一 大至 竹内洋子 谷英子 玉城ちはる 所英男 富田隆 ナイル善己 永田雅一 中田喜之 中野浩一 舩山陽司 松峯寿美 本村健太郎 森詩絵里 安井まみ子 吉田友佳 赤にしん
尾辻裕次郎 アモーン
田村元樹 あらぽん あんこ 安心安全
ようちゃん 石出奈々子 井上ポイント イワイガワ
岩井ジョニ男 インデペンデンスデイ
内藤正浩 ヴィレッジ
坪井信也 うーうーう 上木恋愛研究所
キューティー上木 うみのいえ
まさえ おおぞらモード
長山竜一郎 小笠原ジャスティン おちもり
越智悠介 オテンキ
のり 小野寺ジャスティン 蒲田キック・パンチ
近藤新之介 元祖いちごちゃん
ハイパーペロちゃん キウイノート
たいせい キャイ〜ン
天野ひろゆき グリーンランプ
中村元紀 犬一 こまたつ さとなかほがらか じゅんご スパローズ
ずん
やす デイエノボル でっかい!くぼた とんたくと
ノンタクトしゅん ドドん
安田義孝 どぶろっく
江口直人 中根すあま 中村愛 流れ星☆
たきうえ にゅ〜くれ〜ぷ
でび ニレンジャー ぬえ
溝部弦 パキオ / 小笠原ミニ大 畑めぐみ 花香よしあき 鼻矢印永井 はなる ハニカムズ
しょうへい フルスイングバント
おいどん 牧野ステテコ マジメニマフィン
ちばけん マリオネットブラザーズ
肉汁 三日月三太郎 ミスター大冒険。
井福一礼 みほとけ 森一弥 もりせいじゅ ラヴィンラフィン
辻秀一郎 リクロジー ろまんす
すえひろ 天野慎也 有川周壱 池澤亮太 植竹英次 小山協子 柏田眞志 金子明弘 北野克哉 楠野一郎 國廣淨晃 大悟法弘一 高垣雄海 舘川範雄 中井まろやか 旧所属タレント
浅井音楽出版 株式会社俺
萩本欽一(浅井企画・佐藤企画業務提携) あさりど
川本成 飯野雅彦 押田佐代子 カンカラ
入山学 杉林功 酒井一磨 田中謙次 羽賀奈美 山田真以 大岩賞介 詩村博史 鈴木しゅんじ 永井準 鶴間政行 益子強 君塚良一 荒木美子 金沢達也 旧所属タレント アンブラスモア ビヨルリンク パリアッチ 表 話 編 歴 逸見太郎 片岡安祐美 神山大和 伽代子 児玉陽子 高橋真美 Take2
深沢邦之 徳光正行 西方裕之 西山浩司 萩本欽一
はしのえみ 三丘翔太 増田惠子
森末慎二 旧所属タレント 浅井企画 萩本企画 茨城ゴールデンゴールズ GERASIX
旧所属タレント 浅井良二 ASAI RED ROSE VIAF WorldCat ドイツ 日本 CiNii Books CiNii Research 中野浩一 日本の男子自転車選手 競輪選手 陸上競技出身の競輪選手 世界選手権自転車競技大会トラックレース優勝者 KEIRINグランプリ優勝者 日本選手権競輪優勝者 全日本選抜競輪優勝者 オールスター競輪優勝者 日本の自転車競技指導者 日本競輪学校教諭 元選手の競輪評論家 自転車競技解説者 日本の男子短距離走の選手 スポーツに関する日本のギネス世界記録保持者 紫綬褒章受章者 日本のラジオパーソナリティ 浅井企画 競輪のイメージキャラクター 福岡県出身のスポーツ選手 1955年生 存命人物 外部リンクがリンク切れになっている記事/2019年1月 2024/11/17 05:18更新
|
nakano kouichi
中野浩一と同じ誕生日11月14日生まれ、同じ福岡出身の人
TOPニュース
中野浩一と近い名前の人
話題のアホネイター
この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「中野浩一」を素材として二次利用しています。