佐藤千夜子の情報(さとうちやこ) 歌手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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時雨音羽: 『摩天楼』(1929年(昭和4年)8月)[佐々紅華作編曲、歌:佐藤千夜子、伴奏:日本ビクター管絃楽団]、(1929年(昭和4年)8月)[佐々紅華作編曲、三味線:藤本二三吉、小静、秀葉、伴奏:日本ビクター四重奏団] 時雨音羽: 『摩天楼』(1929年(昭和4年)11月)[佐々紅華作曲、歌:佐藤千夜子] 渡久地政信: 塩澤実信「歌に残る“アメリカ占領の影”」『昭和の流行歌物語―佐藤千夜子から笠置シズ子、美空ひばりへ』展望社、2011年。 西條八十: 象徴詩の詩人としてだけではなく、歌謡曲の作詞家としても活躍し、佐藤千夜子が歌ったモダン東京の戯画ともいうべき「東京行進曲」、戦後の民主化の息吹を伝え藤山一郎の躍動感溢れる歌声でヒットした「青い山脈」、中国の異国情緒豊かな美しいメロディー「蘇州夜曲」、古賀政男の故郷風景ともいえる「誰か故郷を想わざる」「ゲイシャ・ワルツ」、村田英雄の男の演歌にして船村メロディーの傑作「王将」など無数のヒットを放った。 中山晋平: 1928年(昭和3年)からは日本ビクターの専属となり、世界的なオペラ歌手・藤原義江、佐藤千夜子の歌唱で『波浮の港』『出船の港』等々の多くのヒット曲を生んだ。1929年(昭和4年)、西條八十とのコンビで作った『東京行進曲』は佐藤千夜子の歌唱で25万枚のレコード売り上げを記録した。 四家文子: とはいえ、四家が契約したビクターは当時、「波浮の港」「東京行進曲」「愛して頂戴」「紅屋の娘」などのヒット曲を連発していた佐藤千夜子がトップ歌手だったので、四家のデビューは小さいものだった。 橘あんり: 素劇 あゝ東京行進曲(佐藤千夜子(幼少期)|四谷文子|他) 塩澤実信: 『昭和の流行歌物語-佐藤千夜子から笠置シズ子、美空ひばりへ』展望社 2011年 時雨音羽: 『しぼむ花びら』(1929年(昭和4年)11月)[佐々紅華作編曲、歌:佐藤千夜子、伴奏:日本ビクター管絃楽団] 古賀政男: その年の暮れには、佐藤千夜子の歌唱とマンドリンオーケストラを率いて、『文のかおり』など自作品をビクターで吹き込んだ。1930年(昭和5年)秋にはビクターで、『影を慕いて』と『日本橋から』を佐藤千夜子の歌唱によって吹き込む。 西條八十: 「この太陽」(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1930年) 結城亮一: 日本初の歌謡曲歌手とされる佐藤千夜子の生涯を描いた『あヽ東京行進曲』が1977年、NHKの朝の連続テレビ小説『いちばん星』(宮内婦貴子脚本)の原作となった。 青江三奈: 佐藤千夜子の世界 (1977年) 時雨音羽: 『鉾をおさめて』(1928年(昭和3年)7月)[中山晋平作曲、歌:藤原義江、ピアノ:シールズ]、(1929年(昭和4年)7月[中山晋平作曲、歌:佐藤千夜子、ピアノ:中山晋平) 西條八十: 「当世銀座節」(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1928年) 時雨音羽: 『君恋し』(1928年(昭和3年)12月)[佐々紅華作曲、歌:二村定一]、(1929年(昭和4年)9月)[佐々紅華作編曲、歌:佐藤千夜子、伴奏:日本ビクター・ジャズ・バンド] 古賀政男: 1928年の秋の定期演奏会は同年春に開館したばかりの明治大学記念館講堂で開催されたが、このとき佐藤千夜子の知遇を得た。 時雨音羽: 『糸はんへ』(1929年(昭和4年)11月)[佐々紅華作編曲、歌:佐藤千夜子、伴奏:日本ビクター管絃楽団] 西條八十: 「愛して頂戴」(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年) 時雨音羽: 『黒ゆりの花』(1929年(昭和4年)9月)[佐々紅華作編曲、歌:佐藤千夜子、伴奏:日本ビクター・ジャズ・バンド] 高瀬春奈: 1977年、連続テレビ小説『いちばん星』でデビューするも、ヒロイン・佐藤千夜子役を体調不良により途中降板。 時雨音羽: 『悲しき踊り子』(1929年(昭和4年)5月)[佐々紅華作編曲、歌:佐藤千夜子、伴奏:日本ビクター・ジャズ・バンド] 塩澤実信: 『昭和のすたるじい流行歌 佐藤千夜子から美空ひばりへ』第三文明社 1991年8月 時雨音羽: 『柿の木坂』(1930年(昭和5年)4月)[佐々紅華作編曲、歌:佐藤千夜子、伴奏:日本ビクター管絃楽団] 結城亮一: 『千夜子レクイエム 歌手第1号佐藤千夜子の取材秘話 TVと舞台劇30年間の衝撃裏面史 千夜子百科』大風印刷出版部 2011 西條八十: 「東京行進曲」(作曲:中山晋平、歌唱:佐藤千夜子、1929年) 鳳蘭: 『東京行進曲』(1990年11月)(佐藤千夜子 役)(東京芸術劇場公演) |
佐藤千夜子の情報まとめ
佐藤 千夜子(さとう ちやこ)さんの誕生日は1897年3月13日です。山形出身の歌手のようです。
テレビ、卒業、映画、引退、家族、現在に関する情報もありますね。1968年に亡くなられているようです。
佐藤千夜子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)佐藤 千夜子(さとう ちやこ、1897年(明治30年)3月13日 - 1968年(昭和43年)12月13日)は、日本初のレコード歌手。本名は佐藤千代。山形県東村山郡天童村(現:天童市)出身。中山晋平の歌謡曲を世に広め、古賀政男の才能を発見したことで、それ以後の日本大衆音楽史の発展に大きな功績がある。華々しくも浮き沈み激しい人生は、結城亮一著「あゝ東京行進曲」(河出書房刊)で詳しく記された。同書をもとにNHK朝の連続テレビ小説「いちばん星」が制作された。 子供の頃から天童教会の日曜学校に通い、伝道師のミス・キルバン (Miss Kirwan) と出会う。天童小学校高等科卒業後、その歌の才能を見抜いたキルバンに連れられて上京。ミッション系である普連土女学校(現:普連土学園)に入学。在学中にオペラを鑑賞し、強い感銘を受け、音楽を志す。 1920年(大正9年)、東京音楽学校(現:東京芸術大学)に入学する。ハンカ・シェルデルップ・ペツォルトとアドルフォ・サルコリに師事した。在学中に作曲家の山田耕筰、中山晋平、詩人の野口雨情らと知り合う。中山、野口と共に「全国歌の旅」に出る。 1925年(大正14年)、ラジオ放送が開始され、ラジオを通して歌うようになる。「青い芒(すすき)」でレコードデビュー。発売元は内外蓄音器(後の太平蓄音器)。 1928年(昭和3年)、中山、野口らと共に行っていた「新民謡・新童話コンサート」から生まれた「波浮の港」を日本ビクターより発売。「波浮の港」は10万枚の大ヒットとなる。同年に「当世銀座節」を発売しヒットする。同年11月25日、佐藤千夜子は明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会に出演、「波浮の港」などを独唱する。このときマンドリンオーケストラに注目する。 1929年(昭和4年)、「東京行進曲」を5月1日に発売。菊池寛原作の同名小説を映画化した作品(主演:夏川静江、入江たか子)の主題歌に用いられ、日本初のタイアップ曲。25万枚以上を売り上げ特大ヒットとなった。全国区のスターとなると共に、自身最大のヒット曲となる。この曲は「歌謡曲」というジャンルを確立した曲でもある。「東京行進曲」のB面曲だった「紅屋の娘」も一世を風靡した。同年、「愛して頂戴」「黒ゆりの花」を発売し、これらもヒットを記録。同年6月、明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会に出演。同演奏会においてギター合奏で初演された「影を慕いて」に注目する。同年12月、ビクターで古賀正男(後の古賀政男)のマンドリン・ギター歌曲をレコード歌謡として「文のかおり」「娘心も」などを吹込む。 1930年(昭和5年)、「唐人お吉の歌(黒船篇)」、「この太陽」を発売。次々とヒットを飛ばす。同年10月20日、ビクターのスタジオで「影を慕いて」と「日本橋から』を吹込む。同年にイタリアのミラノに渡る。理由については、中山との不倫問題を決着させるため、当初から志望していたオペラ歌手になるためなどの説がある。現地ではオペラの勉強の一方で、日本民謡を広めることに尽力する。 1934年(昭和9年)、功績が称えられ、イタリア政府からメダルを授与される。しかし、オペラで名声を得ることはできなかった。同年11月に帰国し、日本国内での復帰を目指すが、若手の台頭などもあり、果たせず終わる。 第二次大戦中は南方戦線の慰問をして回る。山本五十六に前線で兵士が愛唱していた「夜戦部隊の歌」を内地に持ち帰って欲しいと依願されたこともあった。 戦後は全く忘れられた存在となり、事実上芸能界から引退した。 1968年(昭和43年)12月13日、がんのため東京都立大久保病院で死去。享年71。生涯独身で家族はいなかった。クリスチャンだった千夜子の遺骨は地元天童市の共同墓地に埋葬され、そばの壁には佐藤千代の本名で刻まれている。 同じく天童市の天童公園(舞鶴公園) 愛宕沼畔に「佐藤千夜子顕彰碑」がある。 佐藤がかつて出演したラジオ放送劇。1925年7月28日に放送された。NHKアーカイブス(埼玉)で聴くことができるが、同アーカイブスの公開ライブラリー中で最も古いものの1つである。 波浮の港 (1928.1)
当世銀座節 (1928.7)
旅人の唄 (1928.12)
東京行進曲 (1929.6)
紅屋の娘 (1929.6)
愛して頂戴 (1929.7)
黒ゆりの花 (1929.9)
文のかおり (1930.2)
娘心も (1930.3)
唐人お吉の歌(黒船篇) (1930.2)
この太陽 (1930.6)
影を慕いて (1931.1)
日本橋から (1931.1)
^ 同市の佐藤千夜子顕彰館(天童民芸館)は佐藤の生家を再現したものである。天童民芸館は2016年(平成28年)7月をもって閉館し、2020年8月現在、屋根が崩壊し、廃墟同然の状態になっている。 ^ コトバンク. 佐藤 千夜子. ^ “山形県天童市/著名人/佐藤千夜子”. 山形県天童市公式ホームページ. 2022年8月26日閲覧。 ^ 音楽年鑑 1941. 大日本音楽協会 編「佐藤 千夜子」『音楽年鑑 昭和16年度』共益商社書店、1941年、166頁。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1109457/115。 結城亮一『あゝ東京行進曲』 菊池清麿『永遠の歌姫 佐藤千夜子』(東北出版企画) ウィキメディア・コモンズには、佐藤千夜子に関するカテゴリがあります。 ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ 日本 MusicBrainz 19世紀日本の音楽家 20世紀日本の音楽家 19世紀日本の女性 20世紀日本の女性 天童市の歴史 日本の女性歌手 戦前の流行歌手 ビクターエンタテインメントのアーティスト 東京芸術大学出身の人物 山形県出身の人物 癌で亡くなった人物 1897年生 1968年没 2024/11/09 18:01更新
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