倉本聰の情報(くらもとそう) 脚本家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
倉本 聰さんについて調べます
■名前・氏名 |
倉本聰と関係のある人
山本麟一: 同地に在住した倉本聰とも交流があった。 是枝裕和: シナリオ文学にも熱中し、ビルの警備や福武書店のバイトを掛け持ちでやりながら、バイト代は倉本聰、向田邦子、山田太一、市川森一のシナリオ集を揃えるのに当てていた。 三倉佳奈: 舞台「オンディーヌを求めて」(2010年11月13日-15日 於・富良野演劇工場、11月20日-21日 於・森ノ宮ピロティホール、11月23日 於・淨るりシアター、11月27日-28日 於・ラフォーレミュージアム六本木、作・演出:倉本聰、富良野GROUP公演) - 久米島愛 役(主演) 与勇輝: 1994年 - 『フォトストーリー ニングル』を倉本聰と出版。 三倉佳奈: 2010年11月、舞台『オンディーヌを求めて』出演のため1ヶ月間倉本聰宅に泊まり込みで稽古を付けてもらっていたが、ある夜、稽古から帰ってきたら炊飯器にご飯が炊かれていた。佳奈曰く「その瞬間、血の気が引きました」とのことだったが、以後、倉本聰にはことあるごとに「俺のごはんを食べた」とニヤリと笑われるようになったとのこと。 鴨下信一: 在学中は倉本聰らとギリシャ悲劇研究会で活動した。 杉田成道: 以後、一貫してドラマ演出に携わり、企画担当の岡田から「いい経験だから」と言われて、1981年(昭和56年)から担当した『北の国から』シリーズでフジテレビの看板ディレクターとなり、この番組で知り合った脚本家の倉本聰を三木のり平とともに師として仰いでいる。 降旗康男: 高倉健主演の任侠映画の大ファンであった倉本聰の熱烈なラブコールもあり、1978年の『冬の華』で東映ヤクザ映画に復帰。 山下澄人: 倉本聰の富良野塾第二期生。 三倉佳奈: 一方で、翌2010年の11月には倉本聰作・演出の二人芝居、富良野GROUP公演2010秋『オンディーヌを求めて』に揃って主演、日本の売れっ子女優・谷村めぐみ(佳奈)とニューヨークで演劇を学ぶ売れない女優・久米島愛(茉奈)を演じている。倉本聰が主宰する富良野GROUPの演劇作品に外部から主演女優を迎えるのは初のことであり、富良野の倉本邸に1ヵ月間滞在して稽古を積み公演に臨んだ。 さだまさし: 「北の国から〜遥かなる大地より〜」を倉本聰と相談しながら1時間で制作したエピソードが度々語られたり、『嵐にしやがれ』(日本テレビ系列)の企画で嵐が作成した詞に15分かけてメロディをつけて「NIF〜 NIKU イン ファイヤー」という楽曲を完成させるなど、即興で楽曲を制作するセンスにも長けている。 萩原健一: 続いて日本テレビ系のテレビドラマ『傷だらけの天使』(1974-75年)、倉本聰脚本の『前略おふくろ様』(1975-76年)と連続してドラマ作品に主演し、後者は続編も制作された。 平原綾香: 主なテレビ出演…2月、フジテレビ「1Hセンス」、4月、BS-TBS「TIME is LIFE〜トキメキの時〜」、5月、TBSテレビ「はなまるマーケット」"はなまるカフェ"、NHK総合「オンガクジェネレーション」、テレビ東京「L4YOU!」、フジテレビ「めざましテレビ マルゼの花道」、テレビ東京「ザ・ミュージック」、日本テレビ「メレンゲの気持ち」、6月、関西テレビ「さんまのまんま」、フジテレビ「僕らの音楽 平原綾香×倉本聰」、テレビ東京「プレミア音楽祭2013」 松岡茉優: 倉本聰×是枝裕和 特別対談 "あのとき"から 〜北の大地とドラマと…(2021年1月23日、北海道放送) 神木隆之介: 2008年、倉本聰が脚本を手掛けたテレビドラマ『風のガーデン』においてサヴァン症候群を持つ白鳥岳役を演じた。 三倉佳奈: 舞台「オンディーヌを求めて」(2010年11月13日-15日 於・富良野演劇工場、11月20日-21日 於・森ノ宮ピロティホール、11月23日 於・淨るりシアター、11月27日-28日 於・ラフォーレミュージアム六本木、作・演出:倉本聰、富良野GROUP公演) - 谷村めぐみ 役(主演) 水の江滝子: スタッフでは倉本聰を気に入って、契約ライターとして日活に招いた。 長谷川和彦: 白井佳夫の企画で倉本聰脚本、萩原健一主演の予定でクランクイン3日前に中止になった映画『純』では、チーフ助監督につく予定だったが、倉本の脚本を「おれたちが撮影現場で直し直し撮っていきゃあ、まあまあ一応の映画にゃ、なるんじゃないの」と発言し、倉本が長谷川を外せないかと打診したが、その後はうちとけて仲良くなった。 山口百恵: 2008年に日本テレビ系で放送されたドラマ『ヒットメーカー 阿久悠物語』では、『スター誕生!』のテレビ予選で百恵に対して阿久が「青春ドラマの妹役のようなものならいいけれど、歌は諦めた方がいいかもしれない」と評したことで、「そのことに傷ついた百恵は作品の提供を阿久に求めなかった」と脚色されているが、あくまでもドラマ上での脚色で、阿久自身は著書『夢を食った男たち』で、前述のオーディションでのエピソードについて記した上で、自身も百恵のファンであることと、百恵の魅力についても倉本聰との対談を差し挟んで語っている。 五月みどり: 1984年にテレビドラマ『昨日、悲別で』(日本テレビ)に主人公の母親役で出演、これは五月が徹子の部屋で最初の離婚による二人の子供とのつらい別れの話をする機会があり、それを自宅見ていて倉本聰が執筆中のドラマの主人公の母親役は「この人しかいない」と思って、直接オファーをもらい、涙を浮かべながら微笑んで、淡々とつらい体験を語る姿が印象的だったという。 東海林のり子: 現役時代の同僚・倉本聰とは親しい。 三倉茉奈: 2010年11月、舞台『オンディーヌを求めて』出演のため1ヶ月間倉本聰宅に泊まり込みで稽古を付けてもらっていたが、ある夜、稽古から帰ってきたら炊飯器にご飯が炊かれていた。佳奈曰く「その瞬間、血の気が引きました」とのことだったが、以後、倉本聰にはことあるごとに「俺のごはんを食べた」とニヤリと笑われるようになったとのこと。 吉田紀子: 2年間のOL生活を過ごすものの脚本家の夢を諦めることができずに、倉本聰の主宰する富良野塾の門をたたく。 中村敏夫: 葬儀・告別式は翌日同所で営まれ、倉本聰が弔辞を述べ、吉岡秀隆、中嶋朋子、岩城滉一など250人が最後の別れを告げた。 平原綾香: 10月、フジテレビ開局50周年記念ドラマ木曜劇場「風のガーデン」脚本:倉本聰)に歌手(氷室茜)役で女優として出演、主題歌「ノクターン」と劇中歌「カンパニュラの恋」「BAMBINA」を歌唱。 吉田紀子: 東京都立大泉高等学校の2年生の時に倉本聰脚本のテレビドラマや倉本著のエッセイに触れて脚本家という職業に興味が湧き、演劇学を学べる明治大学文学部文学科演劇学専攻に進学する。 藤本美貴: 2013年分の球団オフィシャルガイドブックでは、倉本聰・原田雅彦・野々村芳和とともに「北海道ゆかりの著名人」として応援のコメントを出している。 中島貞夫: 在学中は倉本聰・村木良彦らとギリシア悲劇研究会を設立し、日比谷野外音楽堂で公演を開き、大成功を収めた。 大滝秀治: テレビドラマでは、悪役を経て、1970年のドラマ「わが青春のとき」(日本テレビ)で倉本聰作品に初出演。 川谷拓三: 川谷の抜擢は萩原健一の要請だが、原案の倉本聰が中島貞夫と盟友で、中島が川谷と室田日出男の実生活でのエピソードを倉本に伝え、倉本は二人のキャラ設定にそれを活かした。 |
倉本聰の情報まとめ
倉本 聰(くらもと そう)さんの誕生日は1934年12月31日です。東京出身の脚本家のようです。
人物、人間関係などについてまとめました。卒業、テレビ、ドラマ、退社、家族、映画、引退、現在に関する情報もありますね。倉本聰の現在の年齢は89歳のようです。
倉本聰のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)倉本 聰(くらもと そう、1934年12月31日 - )は、日本の脚本家、劇作家、演出家。本名は、山谷 馨(やまや かおる)。東京都渋谷区出身。妻は女優の平木久子(演劇集団 円所属)。父は俳人、日新書院取締役の山谷太郎。祖父は医学博士、日新医学社社長の山谷徳治郎。大伯父は衆議院議員の山谷虎三。 東京大学文学部美学科を卒業後、ニッポン放送を経てフリー。おもにテレビドラマの脚本家として活躍。東京から北海道へと居を移し、『前略おふくろ様』『北の国から』など多くのヒット作を生み出した。主宰した「富良野塾」にて26年間にわたり後進を指導。65歳で紫綬褒章、75歳で旭日小綬章を受章した。1977年(昭和52年)より富良野市に在住。 東京都渋谷区代々木生まれ。 父祖地は岡山県。分家した祖父の代で東京に進出し、家は代々医学雑誌の出版や新薬の販売を手がけてきた。異色の父・山谷太郎は自ら興した自然科学系の出版社を営む傍ら、水原秋桜子門下の俳人でもあった。母は太郎の後妻で、両親はともにクリスチャンだった。 戦時中は山形県上山市や岡山県浅口郡金光町 (現:浅口市 )に疎開。このうち、上山への疎開は政府が実施した学童集団疎開によるもので、都会育ちの倉本は大きなカルチャーショックを受けた。東京に帰りたいと考えた倉本は仮病を使って数か月後には東京に戻ることに成功した。この体験は、『北の国から』の最初の連続シリーズにおいて、純が東京に帰りたがって起こす行動のヒントにしたと記している。 また、金光へは1945年4月から1年間、一家6人で疎開していた。 東京学芸大学附属小金井小学校から麻布中学校・高等学校へ進学。中学時代より加藤道夫に私淑して演劇に夢中になり、2年続けて浪人。東京大学に合格後もほとんど学校に行かず、俳優座のスタジオ劇団「仲間」の文芸部に所属して戯曲を書き始めた。大学2年の時にデビュー作「鹿火」がラジオ(青森放送)で流れ、大学4年の時には新日本放送(現毎日放送)から依頼されたラジオドラマの脚本(牧逸馬原作「この太陽」)を執筆している。 1959年、ニッポン放送に入社。本当はフジテレビが第一志望だったが、この年はフジテレビ・ニッポン放送・文化放送の3局が合同で新卒採用を行っており、気がついたらニッポン放送に回されていたという。局では本名でディレクター・プロデューサーとして勤務する傍ら「倉本聰」のペンネームで脚本家としての活動を行う。『パパ起きて頂だい』(日本テレビ)が脚本家デビュー作。会社に内緒で脚本活動を行なっており、当時は夜10時に会社を出て帰宅してから脚本を書き午前4時頃に就寝、2時間ほどの睡眠で出社する毎日だった。 1963年にニッポン放送を退社。退社のいきさつについて倉本は、後にインタビューで「ニッポン放送には内緒でペンネームを使って脚本家をやっていた負い目から、ニッポン放送で担当していた番組には(脚本家同士として顔見知りである)若手の脚本家ではなくベテランの脚本家ばかり起用していたが、それを上司に咎められたうえ『最近倉本って若手が出てきたから一度会って来い』と命じられ、そろそろ潮時だと思った」と語っている。また他のインタビューでは「(2時間睡眠の生活を)2年も続けると「もたない」と思いました」と語っており、掛け持ちを続けるのは体力的にも限界だったことを示している。岡田茂の自伝では、倉本がニッポン放送のラジオのライターで一生終わりたくない、と東映に籍を置かせて欲しいと中島貞夫を介して岡田に頼んできたと書かれている。 その後、東京でフリーの脚本家となったが、NHK大河ドラマ『勝海舟』制作に際し、脚本家の演出関与の是非をめぐる問題がこじれたことで嫌気がさし、脚本を途中降板。1974年6月、取材を受けた週刊誌『ヤングレディ』の記事がNHKを攻撃する内容に変わっていたので、最終稿まで確認して記事は修正されたが、広告の見出しが「倉本聰氏、『勝海舟』を内部から爆弾発言」と修正されぬまま出てしまったことがきっかけだった。当時の制作局長には軽率を謝罪したが、20 - 30人からつるし上げられたという。その日に千歳空港へ飛び、そのまま北海道札幌市に転居。NHKとはこのあといったん和解して1979年に単発正月ドラマ『年の始めの』を書きおろしたが、演出姿勢に不満を漏らし再び絶縁となる。 1977年、富良野市に移住。 1981年、富良野を舞台にした家族ドラマ『北の国から』で話題を呼ぶ。他に歌志内市、上砂川町を舞台とした『昨日、悲別で』の脚本、富良野を舞台に父子の絆の断絶と再生を描く『優しい時間』の原作など、北海道を舞台とした数々のドラマでも有名。 1986年、監督・脚本を担当した映画『時計 Adieu l'Hiver』が公開される。 若手の俳優と脚本家を養成するために、1984年に、富良野市布礼別にて「富良野塾」を私財を投じて開設し、26年にわたって主宰した。塾生は受講料は無料で2年間共同生活をし、夏季は地元の農協や農家などの協力を得て畑仕事を手伝い塾生自らが生活費を稼ぎ出し、冬季は集中講義などの他、ふらの演劇工場で行われる演劇公演に向けた稽古をおこなうスタイルだった。年一回、原始の日(電気・水道・ガスに頼らない、いわゆる原始生活を体験する行事)を設けるなどのユニークな養成術で知られ、脚本家の友澤晃一(第1期)、吉田紀子(第2期)、田子明弘(第3期)、久松真一(第5期)、俳優の加藤久雅(第4期)、二階堂智(第6期)らを送り出した。また、富良野塾の活動を受け市民によって設立されたNPO法人・ふらの演劇工房にも深く関わり、同市に建てられた劇場・ふらの演劇工場にも大きく貢献している。2005年には、閉鎖された富良野プリンスホテルゴルフコースに植樹して、同地を自然の森に戻そうとするNPO法人・C・C・C富良野自然塾を開設し、その塾長に就任している。富良野塾は、倉本の体力の限界を理由として2010年3月末をもって閉塾することが2007年3月末の卒塾式で発表され、発表どおり2010年に26年の歴史に幕を閉じた。閉塾後は卒塾生を中心に再編された「富良野GROUP」にて全国公演の脚本・演出を手掛け、2016年の『屋根』全国公演を最後に演出から退き脚本に専念する意向を示した。 2010年4月、北海道教育大学旭川校で演劇講座を監修。 2017年の富良野GROUP特別公演『走る』を最後に演劇活動から引退を表明し、脚本制作に専念。3月7日の富良野演劇工場での大千秋楽公演後のカーテンコールに登壇して「今回で私は長い休息に入ろうと思います」と語り、「この演劇工場がある限り、富良野GROUPももう少し何らかの形で皆さんに感動を届けていく仕事をしたいと思っている」として稽古で指導に用いていた鞭を久保隆徳に託している。 2017年4月には、「テレビ局は若者向けのドラマばかり作っているから年寄りは見ても面白くない。だから、ゴールデンタイムに対抗する『シルバータイム』を作ろう」とテレビ局へ働きかけ、テレビ朝日が新設した帯ドラマ枠「帯ドラマ劇場」にて、テレビ全盛期を担った俳優・作家・ミュージシャンなどが入居する老人ホームを舞台に現在のテレビの在り方に対する批判も盛り込んだ『やすらぎの郷』を執筆した。 富良野演劇工場に隣接する民有地に、「北の国から」「倉本聰の人生」「富良野塾」「点描画」など6テーマを掲げた倉本聰の関連資料の展示施設「倉本聰ミュージアム-北の国から-」の開設が構想されている。 かつては山田太一・向田邦子と合わせて「シナリオライター御三家」と呼ばれた。 人物ペンネームの由来は、父祖地の岡山での本家の屋号「蔵本」に、妹の名前「聰子」から一字もらってつけた。 三度の飯よりもたばこ(ラーク・マイルド、パイプ)とコーヒーが好きなことで知られる。18歳の頃から喫煙を始めており、喫煙量は1日に60本から80本と語る。受動喫煙防止を目的に禁煙化の進む昨今の風潮を「禁煙差別」と称して批判しており、受動喫煙防止条例を制定した神奈川県や、生活環境条例により路上喫煙を禁止している千代田区へは足を踏み入れないようにしている。 演劇では、脚本、演出をひとりでこなす。 お香を好んでおり、仕事中はお香を焚く。愛飲している酒の一つに、ジャックダニエルがある。 西田ひかるを好きな余り、愛犬に「西田」という名前をつけている。「メイサ」と名付けた愛犬もいる。 ライフワークとして、森の樹木を題材とした点描画を描いている。ドラマ脚本に携わる中でスタッフとイメージを共有するため劇中のシーンのイメージを絵コンテで描いたことを契機に絵にはまり、デッサンを学んだ後、「影の濃淡を点の密度や強さで出せないか」として点描画へと進む。徹底的な人物描写を得意とする脚本と同様に、樹木1本1本の個性や歴史に着目し、その心の声を独自の表現法により点描画で表す。「森のささやきが聞こえますか 倉本聰の仕事と点描画展」と題した個展を各地で開催している。 今の日本のドラマについては、「幼稚化の極みにある」「大人の鑑賞に堪えうるドラマが無くなった。その原因の一つは、役者がいなくなったこと。もう一つはシナリオが良くないこと」「原作を探す場合も、今の制作者は小説よりもマンガから話を探してくることが多くなった。プロデューサーたちに小説を読み込む能力がなくなり、マンガならばという発想になっている。幼稚な制作者が幼稚なドラマを作っている」と批判している。 『北の国から』終了については、「スタッフが高齢化した」とするフジテレビの説明を「おかしな理由だ。スタッフを替えればいい」と批判している。 人間関係西武鉄道グループオーナーの堤義明とは、麻布中学・高校時代の同級生である。2005年、堤が証券取引法違反に問われた東京地裁公判においては、倉本自ら弁護側証人を申請し出廷した。また、こうした交友関係がもとになって、富良野自然塾などの事業の実現につながっている。 麻布中学・高校時代の同級生に銀座山野楽器の息子が居た縁で、山野楽器店にあった当時まだ高価だったテープレコーダーを自由に使う事が出来た。倉本は友人らと共にそのテープレコーダーを使って音声ドラマ(いわゆるラジオドラマと同じもの)を1本仕上げた。本人曰く「これが人生で最初に作ったドラマである」とのことである。 映画監督中島貞夫とは、東大在学中、ギリシア悲劇研究会にともに所属しており、中島の『くノ一忍法』(1964年)、『旗本やくざ』(1966年)など、初期監督作品の脚本を手がけている。 自身の母の晩年と死をモデルにしたドラマ『りんりんと』への出演がきっかけで、晩年の田中絹代と深い交流を持ち、この交流が『前略おふくろ様』のヒットにつながる。田中の死の直後に彼女が演じる「おふくろ様」の死を描いた『前略おふくろ様』の最終回が放映されて話題となった。 『前略おふくろ様』で主演を務めた萩原健一との出会いについて「目のさめる想いがした。そしてその想いは次第に僕の中で『勝海舟』の岡田以蔵に転化していく。彼と初めて出逢ったことが、僕の中の狂気を安心させ、そうして遂に平和温厚なNHKと衝突してしまう」と語っている。 札幌在住当時に手がけたドラマ『幻の町』に特別出演した北島三郎に頼み込んで、一時期付き人となり巡業に同行した。これはロケ地の小樽で地元民が北島に熱狂する姿を見て「この人気は何なんだ」と関心を持ったことがきっかけだった。巡業中、北島が観衆のどんなリクエストも歌うというコーナーで両者がお互いに遠慮も何もなくやり取りする模様に、自分が今まで庶民ではなく「上から目線」で批評家や業界などに気に入られるような作品を書こうとしていたのではないかという思いに駆られ、「俺は変わろう」と思った気がすると記している。 野沢尚、三谷幸喜と3人で仕事をした際(川、いつか海へ 6つの愛の物語)、企画会議中真剣に討論している倉本と野沢を、三谷が発言せず感心しながら聞いていたところ(三谷はこのような討論をしたことがなかったため)、倉本は三谷に向って「もっと主張しなさい、君は卑怯だ」と言ったことがある。 2024/06/13 21:53更新
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kuramoto sou
倉本聰と同じ誕生日12月31日生まれ、同じ東京出身の人
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