吉田秀和の情報(よしだひでかず) 音楽評論家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
吉田 秀和さんについて調べます
■名前・氏名 |
吉田秀和と関係のある人
武満徹: 1958年に行われた「20世紀音楽研究所」(吉田秀和所長、柴田南雄、入野義朗、諸井誠らのグループ)の作曲コンクールにおいて8つの弦楽器のための「ソン・カリグラフィI」(1958年)が入賞したことがきっかけとなり、1959年に同研究所に参加。 スビャトスラフ=リヒテル: 音楽評論家の吉田秀和は彼のベートーヴェン演奏について、聴き手にベートーヴェンの時代のピアノでこれほどのダイナミクスの大きな演奏が可能だったのかと疑問を抱かせる一方で、ベートーヴェンの創造的想像力の中では確かにこうした響きが鳴っていたに違いないと感じさせる説得力があると述べている。 大田黒元雄: 趣味は野球や相撲や推理小説など幅広く、著書の内容も音楽評論以外に『西洋の汽車』『野球春秋』『ネクタイ談義』『英米探偵小説案内』など多岐にわたり、食道楽としても知られ、吉田秀和から「大正リベラリズムが生んだひとつの典型。 磯村和英: また、2010年に水戸芸術館館長吉田秀和の命により、同館の専属楽団として、庄司紗矢香、佐藤俊介、石坂団十郎、小菅優らと、「新ダヴィッド同盟」を結成した。 青柳いづみこ: 99年『翼のはえた指』で吉田秀和賞受賞、2001年『青柳瑞穂の生涯』で日本エッセイストクラブ賞受賞、09年『六本指のゴルトベルグ』で講談社エッセイ賞受賞。 ゲオルク=ショルティ: 音楽評論家の吉田秀和は、ショルティがウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した交響曲第3番 (ベートーヴェン)の録音の第二楽章について、「こういう音楽を大真面目でやれるというには、何か一種の反知性的な気質か、さもなければ劇場的性格か、あるいは、そういうことを超越した本当に崇高なまでの精神的態度か、何かそういうものが要るのではなかろうか?そうして、ショルティには、この中で劇場的なもの theatrical な効果というものに対する本能が極度に強く発達しているのではなかろうか?」と述べ、次にリヒャルト・シュトラウスの『エレクトラ』の録音を挙げた上で「ショルティほどに、無慚な手つきでこういう響きを引き出している指揮者は、ほかに誰がいるのだろうか?」と、その劇的表現力を評している。 立花隆: 2016年(平成28年)、『武満徹・音楽創造への旅』で吉田秀和賞を受賞した。 堀江敏幸: 吉田秀和賞(2023年- ) 一柳慧: 同年8月に大阪で行われた「二十世紀音楽研究所第4回現代音楽祭」を皮切りに、さまざまな演奏会でケージを代表とするアメリカの前衛音楽および自己の作品を紹介し、音楽評論家吉田秀和をして「ケージ・ショック」と言わしめるほどの衝撃を日本の音楽界に与えた。 井口愛子: 1948年、同年に兄の井口基成、伊藤武雄、齋藤秀雄、吉田秀和らが開設した「子供のための音楽教室」で講師を務める。 小澤征爾: 2013年4月1日、前年死去した吉田秀和の後任として水戸芸術館の2代目館長に就任。 大田黒元雄: 吉田秀和の随筆集『響きと鏡』の中には、吉田が園遊会のような席で、大田黒のことを英語で「日本で最初の音楽批評家」と紹介している場面が出てくる。 小倉朗: このころから柴田南雄、入野義朗、吉田秀和、別宮貞雄、遠山一行らとの交友が始まる。 秋山邦晴: 1991年 第1回吉田秀和賞受賞(著書「エリック・サティ覚え書」により) 池田満寿夫: 土方巽、吉田秀和夫婦、白石かずこ、森茉莉、萩原葉子、澁澤龍彦、ジミー鈴木、西脇順三郎で、大半は1964年に制作された。 黛敏郎: 1957年、3月20日、音楽評論家・吉田秀和を所長に二十世紀音楽研究所を結成。 池田満寿夫: 年長者では詩人・西脇順三郎、森鷗外の娘で作家の森茉莉、音楽評論家・吉田秀和らの名前が挙がる。 井口基成: 1948年、伊藤武雄、齋藤秀雄、吉田秀和と「子供のための音楽教室」を開設。 丸谷才一: 桐朋学園に教師として在籍したことがあるという経緯もあって、音楽評論家の吉田秀和の批評眼や、さまざまな業績と日本音楽会への貢献などを高く評価している。吉田秀和の『ソロモンの歌』『調和の幻想』『このディスクがいい*25選』などの書評を発表し、吉田の文化勲章を祝う会の祝辞で「彼は一時代を導いて、自分のものの考へ方と趣味を文明全体に、文明の重要な部分に浸透させた」と述べ、没時のコメントでは「戦後日本の音楽は吉田秀和の作品である。 黛敏郎: これを仲介した吉田秀和が黛を紹介したことから、『金閣寺』が作曲されることとなった。 |
吉田秀和の情報まとめ
吉田 秀和(よしだ ひでかず)さんの誕生日は1913年9月23日です。東京出身の音楽評論家のようです。
略歴、家族などについてまとめました。現在、父親、卒業、テレビ、家族、結婚に関する情報もありますね。98歳で亡くなられているようです。
吉田秀和のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)吉田 秀和(よしだ ひでかず、1913年(大正2年)9月23日 - 2012年(平成24年)5月22日)は、日本の音楽評論家、随筆家。位階は従三位。 クラシック音楽の豊富な体験・知識をもとに、音楽の持つ魅力や深い洞察をすぐれた感覚的な言葉で表現し、日本の音楽評論において先導的役割を果たす。音楽のみならず文学や美術など幅広い分野にわたる評論活動を続け、日本の音楽評論家としては初の個人全集が刊行されて、第2回大佛次郎賞を受けた。大の相撲好きでもあった。 いわゆるヴィルトゥオーゾには批判的で、ジョルジュ・シフラの1964年の来日演奏や、マルカンドレ・アムランのショパンのエチュードによる練習曲を酷評した。 略歴東京市日本橋区新和泉町(現在の東京都中央区日本橋人形町)で生まれる。 父の秀は和歌山県出身で、外科の開業医だった。母の雪は東京・深川の小間物屋の娘で、青山女学院(現在の青山学院)第1期生だった。4 - 5歳で日本橋区蛎殻町に転居し、母の影響で西洋古典音楽に親しんで育つ。 1922年暮に大森へ移住し、関東大震災の被害を危うく免れる。父親が北海道小樽の病院の院長に就任したため、小学校6年の秋に、一家で小樽に転居した。旧制中学校の小樽市立中学校(現在の小樽市立長橋中学校)で2年生まで伊藤整に英文法と英作文を教わる。このころ、ヴィオラを弾く小林多喜二が吉田家を一、二度来訪し、秀和の母と合奏したことがある。 1930年春、小樽市立中学校を4年で修了する。旧制成城高等学校文科甲類(英語クラス)(現在の成城大学)に入学し寮生活を送るも、同年秋に文科乙類(ドイツ語クラス)に転じ、ドイツ語の師である阿部六郎(阿部次郎の弟)の成城の自宅に同居する(翌1931年1月まで)。このころ中原中也にフランス語の個人教授を受け、それがきっかけで吉田と同居していた高森文夫が中也と親しくなる。 小林秀雄や大岡昇平とも交遊した。小林は後年に到って吉田をライバル視した。同じ鎌倉市に住まいがあったことから吉田が小林宅を訪れた際、出たばかりの自著『本居宣長』を放り投げ「君、出たよ」と吐き捨てるように言ったこともある。吉田自身も威勢の良すぎる断定調の小林の批評には批判的になっていった。 東京帝国大学(現在の東京大学文学部)フランス文学科を1936年に卒業すると、1937年から1938年ごろ、中島健蔵の紹介で帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学)に勤務し、半年足らずフランス語を教えた。同職をやめると自由が丘の姉の家に居候してピアノを弾いたり本を読んだり吉田一穂の家へ遊びに行ったりしていたが、戦局の悪化に伴い遊食生活が困難になり、吉田の紹介で内務省地方局庶務係に勤務し、英独仏語の翻訳に従事する。このとき、大っぴらに職務外の本を広げて私的な仕事をしたこともある。戦時中は井口基成の勧めで内閣情報局所管の日本音楽文化協会に出向し、嘱託待遇でピアノの原料の鋼鉄や鉄筋を音楽産業のために確保することや、音楽家の軍事徴用を止めるよう説得することが職務内容であった。当時、職場で上司に厭戦的な発言をして叱責され、人前で泣いたこともあるという。 戦後は文部省の所属に移されたが、敗戦後の混乱期に「自分の本当にやりたいことをやって死にたい」という思いが募って勤めを辞し、女性雑誌の別冊付録『世界の名曲』に寄稿したことが契機となって音楽評論の道に入る。本格的な評論活動は、『音楽芸術』誌(音楽之友社)の連載『モーツァルト』が始まる1946年以降である。 後進の育成に目を向けると、1948年に斎藤秀雄、井口基成、伊藤武雄、柴田南雄、鈴木乃婦子らと「子供のための音楽教室」を開設し、初代室長に就任した。この私塾は、後の桐朋学園音楽部門の母体となった。柴田南雄らを誘い、1957年、自らは所長となって「二十世紀音楽研究所」を設ける。 西ベルリンの芸術家や文化人の招聘プロジェクトに選ばれ、1967年より同市に1年余り滞在する。招聘期間に市内に住むことだけを条件に、一定の報酬と住居をあてがわれた。この間に多くのコンサートやオペラ、演劇に通い、また東西ドイツのテレビ、ラジオによる音楽番組に接する。 ピアニストのウラディミール・ホロヴィッツが、初来日した際(1983年)は、その演奏を「なるほど、この芸術は、かつては無類の名品だったろうが、今は──最も控えめにいっても──ひびが入ってる。それも一つや二つのひびではない」と評して大きな話題となったが、再来日時(1986年)の演奏は「この人は今も比類のない鍵盤上の魔術師であると共に、この概念そのものがどんなに深く十九世紀的なものかということと、当時の名手大家の何たるかを伝える貴重な存在といわねばならない」と称賛した。 1988年、当時の茨城県水戸市長・佐川一信に乞われて水戸芸術館館長に就任すると、同館の開館(1990年12月)とともに専属楽団として水戸室内管弦楽団を創設する。音楽顧問に招かれた小澤征爾は楽団員を集めた。専属劇団を決めた吉田は、のちに森英恵に同財団理事長を委嘱する。 同じ1990年に「吉田秀和賞」を設立し、音楽・演劇・美術などの各分野で優れた芸術評論を発表した人の顕彰が始まる。 2004年に約30年かけ『吉田秀和全集』は全24巻で完結した。 2012年5月22日、鎌倉市内の自宅で急性心不全のため死去した。98歳没。「お別れ会」を7月5日に水戸芸術館で、7月9日にサントリーホールで行われた。NHK-FMは2012年7月14日放送の『名曲の楽しみ』に生前の録音「ラフマニノフのその音楽と生涯」第27回を用いた。この同シリーズ最終回をもって、事実上、吉田自らの声による放送は最後となった。 家族妻:バルバラ・吉田=クラフト(Barbara Krafft)とは桐朋学園でドイツ語を教えていたことから出会い、1964年に京都で結婚した。妻は日本文化・文学の研究を続けてドイツ語で執筆しており、2003年に死別した。吉田が主に編集し、日本文学評論を没後出版した。 2024/06/07 11:53更新
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yoshida hidekazu
吉田秀和と同じ誕生日9月23日生まれ、同じ東京出身の人
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