土井たか子の情報(本名:土井多賀子) 政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
土井 たか子さんについて調べます
■名前・氏名 |
土井たか子と関係のある人
高木義明: 2002年10月22日、北朝鮮による拉致事件に関連して、安倍晋三内閣官房副長官が民主党の菅直人幹事長、社会民主党の土井たか子党首を「間抜けな議員」と呼んだことについて、民主党は安倍に陳謝するよう衆議院議院運営委員会で求めた。 吉武輝子: また1986年12月16日に評論家樋口恵子とともに「土井たか子を支える会」を結成、翌87年1月20日には「土井委員長を囲む会」の代表に篠原一とともに選ばれた。 高田敏江: 元社会民主党党首の土井たか子など、知己も多い。 市川房枝: 1972年(昭和47年)の沖縄返還密約問題に対しては、「情を通じ」という発表のみを重視し、日本社会党の土井たか子、佐々木静子、田中寿美子らとともに「蓮見さん問題を考える会」を結成した。 三木武夫: 12月20日には土井たか子社会党委員長により、衆議院本会議の席で追悼演説が行われた。 堀之内久男: (日本社会党の)土井たか子委員長は結婚もしていない。 山口鶴男: しかし2000年に中選挙区で長くしのぎを削った小渕恵三が死去したため、群馬県第5区での立候補を土井たか子社民党党首から要請され、引退を撤回して群馬5区から社民党公認で出馬したが、小渕の次女・小渕優子に10万票以上の大差をつけられ敗北。 奥野誠亮: 1993年の第40回衆議院議員総選挙後に自民党が結党以来初めて政権から下野することが確定すると、非自民・非共産連立参加諸党は従来の慣行を覆して比較第一党の自民党ではなく連立側から元日本社会党委員長の土井たか子を衆議院議長に擁立することを決定。 伊藤茂: 1986年、土井たか子委員長の下で政策審議会長に就任。 堂本暁子: 市川房枝を取材しだしたが、彼女が亡くなり追悼番組をつくっているころ、土井たか子に3年ごとに3回9年間口説かれ、1989年(平成元年)の第15回参議院議員通常選挙に日本社会党公認で比例区から出馬し、初当選を果たした。 志苫裕: 党内では土井たか子の側近として知られ、1994年に細川内閣が提出した小選挙区比例代表並立制を柱とする政治改革関連法案に反対票を投じ、「党員権100日停止」の処分を受けたことがある。 辻元清美: 代々木公園でビラまきをしているとき、反核運動の集会で同じくビラまきをしていた土井たか子に強烈な印象を受ける。 花岡信昭: 論壇誌WiLL2006年5月号に寄稿した「拉致実行犯辛光洙釈放を嘆願した“社民党名誉党首”」と題する記事において花岡は、「土井たか子は朝鮮半島出身で本名は『李高順』である」と社民党の土井元衆議院議員に対する在日認定を行った上で、「そのことが土井の拉致事件を見る目を曇らせたのか、すべて知った上で政治的演技をしていたのか」と論じ、祖国・北朝鮮の利益を図るために日本の利益を蔑ろにしたのだと土井を婉曲的に糾弾した。 田邊誠: 1993年、細川護熙連立政権が誕生すると、連合の山岸章会長は、田邊を衆議院議長に推したが、新生党の小沢一郎らは左派の発言力封じのために、土井たか子を衆議院議長に推し、田邊議長は実現しなかった。 阿部知子: しかし、土井たか子・渕上貞雄・福島・保坂・辻元らは経済制裁に強硬に反対。 小沢遼子: 浜田卓二郎・松永光・山口敏夫・土屋義彦ら自民党所属埼玉県輩出議員や、土井たか子元社会党委員長を厳しく評論。 小池百合子: 翌1993年、第40回衆議院議員総選挙に日本新党公認で鞍替え立候補し、旧兵庫2区(定数5)において日本社会党元委員長の土井たか子に次ぐ得票数2位で当選した。 保坂展人: 1996年10月4日、社会民主党は「土井たか子を支える会」メンバーから3人を衆議院選挙の候補として擁立することを決定。 嶋崎譲: 1986年(昭和61年) - 衆参同日選後の9月委員長選で土井たか子新委員長が選出され政審会長を退任(後任に伊藤茂が内定。 石橋政嗣: その後、後継の土井たか子委員長に対して中道政党との連携を強めるよう進言し、土井もこの路線を基本的には継承したが、党内の左派や市民活動派には公民への反発もあった。 小渕恵三: この事業に関しては政敵の菅直人や土井たか子からも高い評価を受けるなどし、外相としての評価を高めたことが、次期首相就任へとつながっていった。 岩垂寿喜男: 1993年の第40回衆議院議員総選挙では、日本労働組合総連合会会長山岸章らの意向により左派外しの選別推薦が行われ、岩垂や土井たか子、上田哲らは連合から推薦を得られなかった。 山原健二郎: 1993年の与野党逆転により衆議院議長選挙で全会一致の慣例が破られた際、共産党の議長候補として立候補した(投票の結果、日本社会党の土井たか子が選出された)。 三木睦子: 『戦争で得たものは憲法だけだ 憲法行脚の思想』(2006年、七つ森書館)共著:香山リカ、姜尚中、斎藤貴男、土井たか子、城山三郎、森永卓郎、佐高信ほか 福島瑞穂: 野党の女性議員では1994年の土井たか子以来。 城山三郎: お別れの会には、中曽根康弘、小泉純一郎、河野洋平、土井たか子、五木寛之らが出席した。 石井登志郎: 前回総選挙まで、民主党は兵庫7区に候補を擁立せず、社会民主党の土井たか子を推薦してきたが、2003年の第43回衆議院議員総選挙での土井の敗北を理由に民主党は選挙協力を打ち切った。 山本政弘: 一方で1983年から1991年まで石橋政嗣、土井たか子両委員長の下、社会党副委員長を務め、マルクス・レーニン主義から西欧社会民主主義に近い現実路線への転換を主導した。 降矢敬義: 1989年4月の消費税導入直後、宇野宗佑首相のスキャンダル、土井たか子に代表されるマドンナブームで、自民党に逆風が吹く中で行なわれた参議院選挙に落選。 矢野絢也: 1987年(昭和62年)、首相指名選挙において、社会党委員長の土井たか子を内閣総理大臣指名統一候補として推薦した。 |
土井たか子の情報まとめ
土井 たか子(本名:土井 多賀子)さんの誕生日は1928年11月30日です。京都出身の政治家のようです。
父親、母親、卒業、事件、解散、引退、結婚、家族、映画、趣味、テレビに関する情報もありますね。去年の情報もありました。2014年に亡くなられているようです。
土井たか子のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)土井 たか子(本名:土井 多賀子、どい たかこ、1928年〈昭和3年〉11月30日 - 2014年〈平成26年〉9月20日)は、日本の政治家。 衆議院議員(12期)、日本社会党委員長(第10代)、衆議院議長(第68代)、社会民主党党首(第2代)を歴任し、日本初の女性の衆議院議長、日本初の女性の政党党首を務めた。 兵庫県神戸市林田区(現・長田区)出身。父親は広島県出身の開業医、母親は京都府の出身。1935年、神戸市須磨尋常高等小学校(現・神戸市立西須磨小学校)に入学。父親の友人の家に寄宿しての越境入学で、電車で通学した。 1941年、兵庫県立第三神戸高等女学校に入学。1945年に卒業。同年3月17日の神戸大空襲に見舞われ、焼け出される。1945年、旧制京都女子専門学校支那語科に入学。1949年に卒業。1949年より1954年まで、京都女子専門学校を前身とする京都女子大学で講師。 同志社大学で憲法学者の田畑忍が行なった講演「平和主義と憲法九条」に感動し、1949年に同志社大学法学部3年に編入学、田畑の指導を受ける。1951年、同志社大学卒業。1956年、同志社大学大学院法学研究科修士課程を修了。1958年から1970年まで同志社大学にて、1963年から1969年まで関西学院大学にて、1967年から1969年まで聖和女子大学にて講師を務めた。専攻は憲法学であった。 1965年頃、KBS京都で日曜日の夜15分間、時事問題を取り上げて論評する番組に出演し、京都新聞主筆の加藤茂生とパーソナリティーを務めた。また、毎日放送の『女性の広場―明日へのくらし』のレギュラーとして土曜日を担当した。 1965年、神戸市職員労組の推薦と神戸市議会社会党議員団の提案を受け、神戸市の人事委員会(3人)の委員に選出された。全国で初めての女性委員となった。 1968年12月初め、日本社会党委員長の成田知巳から電話を受け、衆議院議員選挙・旧兵庫2区への出馬を求められる。続いて県議の魚谷時太郎が支部の意向を受けて土井の家を日参するようになった。それまで社会党などから京都市長選挙や参院選への出馬を促されていた田畑忍は、断り続ける一方で、社会党に対し「機会があれば、弟子の中から誰か必ず出す」と約束していた。土井は、その「誰か」がめぐりめぐって自分に回ってきたのだ、と思ったという。 1969年1月、関西学院大学での講義を終え、三宮へ向かう電車の中で隣の人が読んでいる新聞に目をやって、土井は驚く。そこには「立候補決意か?」という見出しの脇に、土井の名前が書いてあった。もとより出馬する意思のなかった土井は新聞社に抗議の電話を入れ、翌日、神戸市人事委員の辞表を出すために市役所へ宮崎辰雄助役を訪ねた。市長の原口忠次郎はこのとき海外主張中であった。「あのような記事が一度出ると、周りの方々に迷惑がかかる」と土井が理由を伝えると、宮崎は「それはあなたらしいが、誰も本当に出るなんて思ってませんよ。それに、勝てっこない。そんなあほなこと、あなたがやるはずがない。辞表をしまったらどうです」と答えた。この返事が土井の心に火をつけた。「宮崎さん、その気のなかった私ですが、たった今、立とうと決めました。辞表を受け取っていただきます」と言って部屋をあとにした。同年2月、社会党は党大会で旧兵庫2区の公認候補に現職の堀昌雄と新人の土井の2人を決定した。 同年12月27日に投票が行われた第32回衆議院議員総選挙は2日間にわたって開票が行われた。旧兵庫2区(定数5)は4人目まで当確が決まったあと、残り1議席をめぐって半日、民社党現職の山下栄二と土井のあいだで、500票差、1000票差のシーソーゲームが続いた。社会党はこの年の選挙で最低の90議席に落ち込むが、土井はその最後の90番目にすべりこみ、初当選を果たした。山下との差は約1400票差であった。 1980年には国会で性差別法に的を絞り、政府を追及。「男女雇用差別」「女性のみ必修の家庭科」「父系しか認めない国籍法」などに関して質問を行う。 社会党新人代議士として初当選同期であった横路孝弘が北海道知事に就任した直後の1983年9月、田中寿美子の後任として日本社会党副委員長に就任する。 1986年、衆参同日選挙の惨敗を受けて石橋政嗣委員長が引責辞任すると、同年9月、副委員長から昇格し第10代社会党委員長に就任。党史上初の女性の委員長であり、憲政史上でも初の女性党首であった。書記長は山口鶴男。前・石橋体制の末期に階級政党からの脱皮と国民政党への指向をうたう「日本社会党の新宣言」が難航の末に採択されたばかりでそのしこりもあり、従来の社会党委員長同様に党内の左右対立をまとめる党運営が求められた。しかし、土井のはっきりした物言いのキャラクターが主婦層からの好感を獲得し、土井の立場を後押しした。 時の首相は、改憲論者として知られる中曽根康弘であったが、土井は護憲・軍縮を掲げてこれに対抗。しかし中曽根は改憲の動きには出ないものの、社会党が堅持を強く求めていた防衛費1%枠を撤廃している。一方で内閣が提出した売上税法案に対しては社公民および社民連の4党統一組織を構築して抵抗、その間に行われた参議院岩手補選と第11回統一地方選挙で勝利し、廃案に追い込んでいる。中曽根から政権を引き継いだ竹下登は消費税導入を強行するが、土井は消費税導入およびリクルート事件を激しく追及、宮澤喜一大蔵大臣を辞任させ、そして竹下内閣を退陣に追い込む。 1989年の第15回参院選では、消費税・リクルート事件の追及の際に強化された社公民路線を基礎とし、連合の会候補を3党が推薦するといった選挙協力体制を構築する。結果、社会党が改選議席の倍以上を獲得し、改選分では社会党が第一党、総議席では自民党が過半数割れの比較第一党という結果となる。これは土井の個人的人気に支えられた面が大きく、「土井ブーム(おたかさんブーム)」と評された(新人女性議員の当選が目立った点からは「マドンナブーム〈旋風〉」とも呼ばれた)。この時の土井の「山が動いた」は名文句として有名になった(与謝野晶子の詩「そぞろごと」冒頭「山の動く日来たる」をふまえている)。 選挙後も社公民路線を維持し、与野党が逆転した参議院での主導権を握る。その皮切りとして女性初の参議院内閣首班指名を受けた(衆議院の優越により、首相には衆議院で指名された自民党総裁の海部俊樹が41年ぶりの両院協議会〈不一致〉を経て就任)。また、消費税廃止公約が参院選大勝の要因であったこともあり、消費税廃止法案を社会党・公明党・連合の会・民社党の4党で提出し、12月11日、参議院で可決させた(衆議院で廃案)。 1990年の第39回総選挙で、土井は180人の候補者を擁立する計画を立てたものの、中選挙区制で目標を満たすには複数候補の擁立が必須になることから、2人目を立てる対象になった選挙区の現職候補や、他の野党などから強い反発が起きた。また資金難から勧誘した人物と条件が折り合わないことも多く、実際の候補者は149人に留まった(他に無所属として推薦7、公認漏れ3)。それでも総選挙の結果、社会党は136議席(他、追加公認3で139議席)と51議席増やした。しかし、自民党も275議席(他、追加公認11で286議席)と安定多数を維持した。さらに、野党内での社会党の一人勝ちに公明党と民社党は距離を置き、両党は連合政権協議を打ち切り、自公民路線に舵を切った。そのため、前回の参議院内閣首班指名の際と参議院の構成はほぼ変わっていないにも拘らず、両党が決選投票で棄権したため、今度は海部が参議院でも首班指名を受けることとなった。労働組合などに基盤を持たない土井に対して、選挙後ただちに水曜会の田辺誠を委員長に担ごうとする土井降ろしが始まる。1991年の第12回統一地方選挙で社会党は大敗し、それを口実にした攻撃に土井は委員長を引責辞任した。 1993年に行われた第40回総選挙で社会党は議席半減の惨敗をしたものの、自身は旧兵庫2区で再選。 総選挙後に細川護煕を首班とする非自民・非共産連立政権の枠組みが固まると、両院で過半数を確保している連立与党は土井を衆議院議長に推すことを決定、衆参通じて女性初の議長となることが固まった。しかし、帝国議会時代より議長は比較第一党から出すという伝統が続いていたため、野党に転落した自民党は議長ポストを要求し、通常は全会一致で議長が選出されるところを、異例の競合投票によって選出されることとなった。結局、数に勝る連立与党の票により土井が選出されたものの、当選後の議長挨拶の際に自民党から激しく野次が飛ぶという波乱のスタートとなった。 土井は議員指名には従来慣行の「君付け」に代わり「さん付け」を用いた。しかし後任の議長らはいずれも「君付け」を用い、衆議院でのこの試みは土井一代のものに終わった。また議長席の位置が諸外国の議会と比べても高すぎると主張し、議長席の位置を低くするべきであると述べた。 1994年1月、与党社会党一部議員の造反による政治改革4法案の参議院での否決を受け、細川首相と河野洋平自民党総裁の会談を斡旋する。この席で、造反した社会党議員らのより望まない方向(小選挙区選出議員の比率割増)での合意がなされ、両院協議会を経て両院で可決・成立となった。この顛末について、支持者からは「土井の失策」という声が上がった。 1994年8月27日、中華人民共和国天津の「抗日殉難烈士記念館」を訪問。 1995年6月、自社さ連立政権下で、「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(終戦50年決議)案が上程される。従来はこの種の決議は全会一致でなされるところであるが、与野党の右派・左派議員らが正反対の理由でこれに反対し、結局6月9日に、半数近くの議員が退席し、少数の議員が反対する中、在職議員数の半数に満たない数の議員の賛成で可決されるという異例の事態となった。この議事運営に対して野党は土井議長・鯨岡副議長不信任案を提出するが、否決された。 1996年9月、衆議院解散により退任。 1994年に自由民主党と新党さきがけとの連立政権を組んだものの、翌年の第17回参院選で惨敗したことを受け、1996年に社会党は社会民主党に改称する。同年、社民党とさきがけの議員を糾合する新党として旧・民主党が発足するが、いわゆる「排除の論理」によって土井や村山富市党首らは新党への参加を拒否される。半数以上の議員を民主党に引き抜かれた社民党は、党首を村山から土井に交代させて同年の第41回総選挙に臨むが、議席は解散前の30議席から15議席へと半減。しかし選挙敗北の責任は問われず、むしろ土井の党の大黒柱としての地位が強化される形となった。1998年、社民党は連立与党を離脱した。 1999年10月、中国での建国50周年記念の軍事パレードに参加した。 2000年に社会主義インターナショナルの副議長に就任し、2008年まで務める。 2001年に増元照明が当時の荒川区議斎藤裕子に宛てた手紙によると、 土井に拉致問題に協力をお願いするメールを出し、本人に直接会って返事をお願いしたが返事をもらえなかった、としている。 2002年3月に辻元清美秘書給与流用事件で詐欺の指南役をかばったことから、土井事務所の政策秘書・五島昌子(日本革命的共産主義者同盟)の関与が取りざたされる。2003年7月に辻元清美や五島秘書ら4人が詐欺容疑で逮捕された。 2002年10月、北朝鮮による日本人拉致問題が明らかになり、それまで社民党が北朝鮮との友好や「過去の清算」を重視するあまり、拉致事件を追及するどころかこれに目をつむり、北朝鮮側を擁護してきたとの批判が強まる中、土井は北朝鮮から「拉致という事実はない」と言われ続けてきたので、追及を十分にできなかったと釈明し謝罪した。さらに土井は、党の公式サイトで北朝鮮による日本人拉致事件を「拉致は創作された事件」と主張した論文(月刊社会民主1997年7月号)を事件が明るみに出た後も、削除せず掲載し続けていたことについても謝罪した。これを受けて拉致被害者の親族らは、北朝鮮と太いパイプのあった土井に何度か拉致被害を相談に行ったが結局無視された経験があるため(拉致被害者はその後、自民党議員に相談するようになる)、「日本の政治家なのに日本国民の生命より北朝鮮側に気をつかっていたのではないか」「(謝罪は)今さら遅過ぎる」と述べた。 さらに1989年7月、韓国の民主化運動で逮捕された在日韓国人政治犯29名の釈放を求めるという趣旨の要望書が、当時の土井を含めて日本社会党・公明党・社会民主連合・無所属の議員133名の署名とともに韓国政府へ提出された。このとき釈放要望対象となった政治犯29名の中に、辛光洙や拉致共犯者などが複数含まれていたため、2002年10月19日、当時官房副長官であった安倍晋三は土井を名指しで「極めてマヌケな議員」と評した。また日本共産党も土井を激しく批判した。 土井は秘書を介して、慰安婦像設立を目指して活動していた当時の挺対協の代表である尹貞玉に対して頻繁に活動費として金銭授与を行なっていたとされる。 2003年、静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている。しかしこれとは反対に、土井の選挙区近くへの建設が計画され、市民団体を中心に反対運動が繰り広げられたものの建設された神戸空港の建設には「地元経済への貢献」などを理由に賛成している。 北朝鮮による日本人拉致問題に対する言動をはじめとする過去の北朝鮮寄りの姿勢や、朝鮮総連との親密な関係など、朝鮮半島政策をめぐって「親北」の立場を貫いてきたことを一因に社民党を孤立させ、没落へと追い込んだ戦犯と評され、2003年の第43回総選挙では自民党の大前繁雄に小選挙区で初めて敗北を喫した。比例復活により辛うじて落選は免れたが、同年11月13日に党勢衰退の責任を取り党首を辞任した。 2005年の第44回総選挙で社民党は比例近畿ブロックに5人擁立。土井は選挙区には立候補せず、比例区の登載順位5位で立候補し、落選した。落選後のインタビューでは引退を強く否定したため、再立候補すると見られていたが、参議院議員転身も取り沙汰された中での2007年7月の第21回通常選挙は不出馬。さらに2008年10月、第45回総選挙にも立候補しない意向を表明し、事実上政界から引退した。ただし、政治活動は続ける意思を示した。 2009年、体調を崩し、郷里の神戸市に移り住んだ。2010年1月末、1990年12月に自らの呼び掛けで設立し代表理事を務めていた「アジア人権基金」が、その役割を終えたとして活動を終了した。 2014年9月20日、肺炎で死去。85歳没。 自衛隊廃止論者であり、「自衛隊は憲法違反だ、即刻廃止せよ」と長年に渡り声高に主張し続け各メディアもそれに追随していたが、自社さ連立政権で政権与党になり「自衛隊合憲、日米安保堅持」と社会党の政策が転換されて以後は、公の場で土井が自衛隊を非難することはなくなった。 選択的夫婦別姓制度導入を支持していた。その理由として、「結婚をするほとんどの女性が改姓をしている現状は、太平洋戦争後、新たに憲法が制定され、民法の家族編の大改正で家制度がなくなったとはいえ、未だに男性血統重視の『イエ』意識が根強くあることの表れ」だからだと述べている。 昭和天皇が崩御され平成が始まると自分の年齢を元号で計算するのがめんどうだとの理由で福島瑞穂、辻元清美と一緒に元号廃止を訴えた。土井、福島、辻元の三人は日本の女性国会議員の代名詞のように三人一組でメディアやニュース映像で頻繁に登場した。 同志社大学在学中に見た映画『若き日のリンカン』に感動し、弁護士になろうと思った時期もあったという。映画『評決』で弁護士を演じたポール・ニューマンのファンだった。 趣味はパチンコとカラオケ。第15回参院選の選挙中に報道関係者をパチンコ屋に集め自身がパチンコをしている姿を撮らせた。メディアはこぞって土井を「おたかさん」、「庶民派」などと褒め称え、パチンコをギャンブルと指摘し非難する声は皆無だった。 歌唱にも秀で、チャリティー合唱団である神楽坂女声合唱団にも所属していた。 テレビ番組の『笑っていいとも』では、横山やすしから紹介されて「テレフォンショッキング」に出演した。同コーナーに政治家が出演したのはこれが初。 土井演じる駄菓子屋の店主が、若い女性客から「このお菓子マズイから他のお菓子に取り替えてくれない?」と理不尽な要求をされたことに対して、「変えさせないよ。憲法9条変えさせないよ」と答えるCMがあった。 当時の女性としては長身で168cmあった。 2001年に増元照明が当時の荒川区議斎藤裕子に宛てた手紙によると、土井、大脇、辻元などの社民党議員たちに拉致問題に協力をお願いするメールを出したが誰からも返事は貰えず、土井本人には直接会って返事をお願いしたが返事をもらえなかったとして、これが国民の声を聞く政党の姿勢か、と批判している。辛光洙や金吉旭らによって宮崎市で拉致された原敕晁の兄も、弟を拉致したことを辛光洙自身が1985年に自供しているのに「社会党の土井たか子さんなどは、北朝鮮は紳士的な国だというような意味の発言をされていました」と述べ、政治家に対する無力感があったと当時を回顧している。 百田尚樹は土井の死後8日後にツイッターで土井について「彼女は拉致などない!と断言したばかりか、拉致被害者の家族の情報を北朝鮮に流した疑惑もある」としたうえで「まさしく売国奴だった」と断じて物議を醸した。そのツイッターに寄せられた批判に対して百田は「政治家は死ねば批判から免れるというのか」と述べた。 鳩山由紀夫は2003年の社民党秘書給与流用について、土井の「秘書がやったこと」との主張に対して、逮捕された4名の社民党関係者内の中心人物で土井党首の秘書である五島昌子が事件発覚で辞職した辻元清美前議員など新人議員の指南役として秘書給与の流用などの詐欺行為も教えてた上に、そもそも秘書が犯した罪は政治家が罰を受けるべきだと土井は無責任だと批判している。さらに逮捕された五島秘書は土井党首と同等の力を持っていることは、社民党外でも周知なレベルであったことから無責任な言い訳せずに辞職すべきと批判した。 中曽根康弘は、土井のことを「非常に生一本な、理念を重んずる、そして真一文字に進んでいく、立派な社会党の党首だと、そういう風に敬意を表していましたね」と評価している。 佐藤優によれば象徴天皇制を積極的に支持する立場であったという。土井は「尊皇家」であったとし、「私は共和制論者ではありません」と発言していたとエッセイの中で書いている。 花岡信昭は、北朝鮮による日本人拉致事件に対し、土井と社民党の対応を批判する文章の中で、「(土井は)在日朝鮮人で本名は李高順」と、一部インターネット掲示板上でのみ流布していた虚偽の情報をあたかも真実であるかのように書き、「このこと(出自)が土井氏の拉致事件を見る目を曇らせたのか」と結論付けた。これに対して土井は「記述は事実でなく、土井本人への取材もないまま虚偽を書いたものであり、信用や名誉などを毀損された」ことを理由として、報道を行った月刊誌『WiLL』発行元のワックや編集長花田紀凱らに慰謝料1000万円と新聞への謝罪広告掲載を求めて提訴。ワック側は誤報を認め、土井に対し謝罪の意を表したが、条件面で折り合わず、判決にまで持ち込まれた。被告側は一審判決直前に発売された『WiLL』2008年11月号で誤報を認めた謝罪広告を掲載した。同年11月13日、神戸地裁尼崎支部(裁判長:竹中邦夫)は「明らかに虚偽で原告の名誉感情、人格的利益を侵害する」として、ワックや花田らに慰謝料200万円を支払うよう命じる判決を出した。2009年4月、大阪高裁も一審判決を支持し、ワックや花田からの控訴を棄却した。同年9月29日、最高裁判所第三小法廷(裁判長:田原睦夫)は、被告側の上告を棄却することを決定し、土井の勝訴が確定した。 日朝友好議員連盟 恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟(最高顧問) 『「国籍」を考える』時事通信社、1984年2月1日。ISBN 4-7887-8403-3。 『We love憲法』すくらむ社、1985年5月3日。 『土井たか子マイウェイ』出帆新社、1987年2月10日。 『政治とわたし』日本社会党中央本部機関紙局、1987年2月16日。 『土井たか子 憲法講義 人間が人間らしく生きていくために』リヨン社、1988年5月。ISBN 4-576-88042-X。 『山の動く日 : 土井たか子政論集』すずさわ書店、1989年10月15日。ISBN 4-7954-0533-6。 『せいいっぱい―土井たか子半自伝』朝日新聞社、1993年12月5日。ISBN 978-4022567062。 『21世紀の平和構想 核も不信もないアジアを』社会民主党全国連合、2001年。ISBN 978-4890890187。 『こんなに損していた日本人―社会党がやると日本はこうなる』(1989年、青春出版社) 共著:上田哲、伊藤茂 『ODA改革―カナダ議会からの提言と日本の現状』(1990年、社会思想社) 共著:吉村慶一、村井吉敬 『三木「政治改革」試案とは何か』(1993年、岩波ブックレット) 共著:鯨岡兵輔、田英夫、國弘正雄 『憲法に男女平等起草秘話』(1996年4月、岩波ブックレット) 共著:ベアテ・シロタ・ゴードン ISBN 4-00-003340-9 『ラディカルに「平和」を問う』(2005年、法律文化社) 共著:小田実、加藤周一、木戸衛一 『戦争で得たものは憲法だけだ 憲法行脚の思想』(2006年、七つ森書館) 共著:香山リカ、姜尚中、斎藤貴男、辛淑玉、城山三郎、森永卓郎、佐高信ほか 『護憲派の一分』(2007年、角川書店) 共著:佐高信 『君、殺したまうことなかれ 憲法行脚の思想2』(2007年、七つ森書館) 共著:澤地久枝、香山リカ、姜尚中、斎藤貴男、佐高信、高橋哲哉ほか 『「やるっきゃない!」吉武輝子が聞く土井たか子の人生』(2009年11月、パド・ウィメンズ・オフィス) 共著:吉武輝子 『アジア・ヒューマンライツ―アジア人権基金の歩み』(2010年、梨の木舎) 共著:村井吉敬 『全裸監督 シーズン2』(2021年6月、Netflix、演:駒塚由衣) ^ 学校法人京都女子学園『京女の歴史』,「京都女子専門学校/東山三校の発展」に「「女子大学」の名称をつけることは認められなかったとはいえ、(中略)当時全国に10指にも満たなかった女子の最高学府であり、女性初の衆議院議長となった土井たか子氏や作家の山崎豊子氏をはじめ、女性の社会進出に貢献する人材を輩出していった」とある。土井卒業後の1949年4月より京都女子大学。 ^ 民社党は参議院で土井が選出された時も棄権。また日本共産党も、土井が選出された時は決選投票で土井に投票したが、この時は棄権を選んだ。 ^ 後に、土井と同じ女性の山東昭子参議院議長(当時)も「さん」付けを用いた。 ^ 当時の事務所の構成は政策秘書:五島昌子、第一秘書:今井真理、第二秘書:友松信也。 ^ ヤマンバギャル風の女性2人 ^ 土井 1993, pp. 152–153. ^ 田中章『土井たか子 人間・思想・政策』(1989年、東京出版)15頁 ^ 土井 1993, p. 156. ^ 早野透「独占 土井たか子さんインタビュー 『刺客とあのときのマドンナは全然違います』」 『週刊朝日』2005年10月14日、136頁。 ^ 『やるっきゃない! 吉武輝子が聞く土井たか子の人生』(2009年、パドウィメンズオフィス) ^ 土井 1993, p. 179. ^ 土井 1993, p. 180. ^ 土井 1993, pp. 47–49. ^ 土井 1993, pp. 183–184. ^ 土井 1993, pp. 186–187. ^ TBS NEWS (2021年5月3日). “憲政史上初の女性党首・土井たか子さんインタビュー(1987年新春対談)”. 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保坂展人『あたたかい人間のことばで伝えたい 3メートルの距離から見た土井たか子』(1990年4月、リヨン社) ISBN 4-576-90027-7 板垣英憲『土井たか子の挑戦 希望の革命』(1993年11月、ディーエイチシー) ISBN 4-88724-004-X 岡崎宏美『国会に窓はない 土井たか子さんへの訣別宣言』(1998年6月、教育史料出版会) ISBN 4-87652-341-X 国正武重 『日本政治の一証言──社会党と土井たか子の時代』(2021年9月、ArsLonga)ISBN 978-4-910677-00-2 土井ブーム 小池百合子-中選挙区時代のライバルであり、大物女性政治家として比較される場合も多い。土井の初当選を果たした選挙で小池の実父が落選したという因縁もある。 憲政史上初の女性党首・土井たか子さんインタビュー(1987年新春対談) - YouTube(TBS NEWS) 表 話 編 歴 中島信行 星亨 楠本正隆 鳩山和夫 片岡健吉 河野広中 松田正久 杉田定一 長谷場純孝 大岡育造 長谷場純孝 奥繁三郎 島田三郎 大岡育造 奥繁三郎 粕谷義三 森田茂 元田肇 川原茂輔 堀切善兵衛 藤沢幾之輔 中村啓次郎 秋田清 浜田国松 富田幸次郎 小山松寿 田子一民 岡田忠彦 島田俊雄 樋貝詮三 山崎猛 松岡駒吉 幣原喜重郎 林讓治 大野伴睦 堤康次郎 松永東 益谷秀次 星島二郎 加藤鐐五郎 清瀬一郎 船田中 山口喜久一郎 綾部健太郎 石井光次郎 松田竹千代 船田中 中村梅吉 前尾繁三郎 保利茂 灘尾弘吉 福田一 福永健司 坂田道太 原健三郎 田村元 櫻内義雄 土井たか子 伊藤宗一郎 綿貫民輔 河野洋平 横路孝弘 伊吹文明 町村信孝 大島理森 細田博之 額賀福志郎 議院 衆議院 貴族院 参議院 表 話 編 歴 原健三郎 米窪満亮 中村俊夫 山下栄二 後藤悦治 原健三郎 井之口政雄 塩田賀四郎 吉田吉太郎 米窪満亮 山下栄二 原健三郎 富田健治 永田亮一 山口丈太郎 山口丈太郎 永田亮一 山下栄二 原健三郎 富田健治 山口丈太郎 山下栄二 永田亮一 原健三郎 前田房之助 原健三郎 富田健治 堀昌雄 山下栄二 永田亮一 原健三郎 山口丈太郎 富田健治 永田亮一 堀昌雄 原健三郎 堀昌雄 山下栄二 永田亮一 山口丈太郎 原健三郎 岡本富夫 堀昌雄 永田亮一 山下栄二 原健三郎 岡本富夫 永田亮一 堀昌雄 土井たか子 原健三郎 岡本富夫 木下元二 土井たか子 堀昌雄 永田亮一 刀祢館正也 岡本富夫 土井たか子 原健三郎 原健三郎 岡本富夫 堀昌雄 土井たか子 木下元二 永田亮一 原健三郎 土井たか子 岡本富夫 堀昌雄 岡本富夫 原健三郎 土井たか子 堀昌雄 藤木洋子 原健三郎 冬柴鐵三 土井たか子 鴻池祥肇 堀昌雄 土井たか子 鴻池祥肇 冬柴鐵三 堀昌雄 原健三郎 土井たか子 小池百合子 宮本一三 冬柴鐵三 原健三郎 表 話 編 歴 石井一 砂田圭佑 盛山正仁 井戸正枝 盛山正仁 井坂信彦 盛山正仁 井坂信彦 赤羽一嘉 向山好一 赤羽一嘉 土肥隆一 関芳弘 土肥隆一 関芳弘 井上喜一 高橋昭一 藤井比早之 谷洋一 谷公一 梶原康弘 谷公一 小池百合子 市村浩一郎 木挽司 市村浩一郎 大串正樹 市村浩一郎 桜井周 土井たか子 大前繁雄 石井登志郎 山田賢司 冬柴鐵三 田中康夫 中野洋昌 宮本一三 西村康稔 塩田晋 渡海紀三朗 岡田康裕 渡海紀三朗 戸井田徹 松本剛明 戸井田徹 松本剛明 河本三郎 山口壯 河本三郎 山口壯 表 話 編 歴 池坊保子 近江巳記夫 久保哲司 赤松正雄 西博義 山本孝史 佐藤茂樹 吉田治 鍵田節哉 旭道山和泰 田野瀬良太郎 奥山茂彦 砂田圭佑 目片信 谷畑孝 柳本卓治 阪上善秀 原健三郎 野田実† 中山正暉 奥谷通↑ 東中光雄 穀田恵二 石井郁子 藤田スミ 辻第一 藤木洋子 家西悟 肥田美代子 井上一成 前原誠司 山元勉 辻元清美 中川智子 高市早苗 柳本卓治 阪上善秀 西野陽 奥谷通↓ 林省之介 砂田圭佑 北川知克↑ 山井和則 山元勉 鍵田節哉 家西悟 肥田美代子 玉置一弥 中村哲治 池坊保子 西博義 山名靖英 久保哲司↓ 赤松正雄 佐藤茂樹↑ 穀田恵二 石井郁子 吉井英勝 藤木洋子 大幡基夫 西村眞悟 塩田晋 中塚一宏 中川智子 北川れん子 植田至紀 玉置一弥 石井一 梶原康弘 泉房穂 奥村展三 稲見哲男 樽井良和 室井邦彦 中川治 岸本健 辻恵 柳本卓治 森岡正宏 小池百合子 北川知克 西田猛 中山泰秀 小西理 宇野治 滝実 池坊保子 赤松正雄 西博義 佐藤茂樹 山名靖英 石井郁子 穀田恵二 吉井英勝 土井たか子 近藤三津枝 井脇ノブ子 柳本卓治 宇野治 清水鴻一郎 山本朋広 井沢京子 鍵田忠兵衛↓ 松浪健四郎 藤井勇治 矢野隆司 泉原保二↑ 西村眞悟 松本剛明 北神圭朗 川端達夫 土肥隆一 山口壯 市村浩一郎 藤村修 奥村展三 池坊保子 赤松正雄 佐藤茂樹 西博義 石井郁子 穀田恵二 吉井英勝 辻元清美 滝実 大西孝典 小原舞 玉置公良 室井秀子 熊谷貞俊 浜本宏 渡辺義彦 河上満栄↓ 松岡広隆 豊田潤多郎 樋口俊一 近藤三津枝 柳本卓治 高市早苗 竹本直一 石田真敏 松浪健太 伊吹文明 谷公一 谷畑孝 池坊保子 西博義 佐藤茂樹 竹内譲 赤松正雄 穀田恵二 吉井英勝 宮本岳志 服部良一 東国原英夫↓ 西村眞悟 阪口直人 三木圭恵 三宅博 上西小百合 林原由佳 岩永裕貴 新原秀人 杉田水脈 清水鴻一郎↑ 門博文 竹本直一 中山泰秀 大塚高司 安藤裕 小林茂樹 原田憲治 竹内譲 浮島とも子 樋口尚也 濱村進 泉健太 三日月大造↓ 辻元清美 川端達夫↑ 穀田恵二 宮本岳志 井坂信彦 畠中光成 村上史好 長尾敬 大西宏幸 神谷昇 安藤裕 谷川とむ 岡下昌平 門博文 大隈和英 盛山正仁 小沢鋭仁 足立康史 木下智彦 吉村洋文↓ 浦野靖人 上西小百合 松浪健太 伊東信久 椎木保↑ 竹内譲 浮島とも子 樋口尚也 濱村進 泉健太↓ 川端達夫 田島一成 平野博文 北神圭朗↑ 穀田恵二 宮本岳志 清水忠史 堀内照文 奥野信亮 神谷昇 佐藤ゆかり 木村弥生 岡下昌平 谷川とむ 門博文 大隈和英 繁本護 森夏枝 井上英孝 谷畑孝↓ 足立康史 浦野靖人 美延映夫↑ 森山浩行 桜井周 村上史好 尾辻かな子 長尾秀樹 竹内譲 浮島とも子 濱村進 鰐淵洋子 樽床伸二↓ 井上一徳 山井和則 馬淵澄夫↑ 穀田恵二 宮本岳志↓ 清水忠史↑ 三木圭恵 和田有一朗 住吉寛紀 掘井健智 堀場幸子 遠藤良太 一谷勇一郎 前川清成↓ 池畑浩太朗 赤木正幸 中嶋秀樹↑ 奥野信亮 柳本顕 大串正樹 小林茂樹 田中英之 宗清皇一 盛山正仁 谷川とむ 竹内譲 浮島とも子 鰐淵洋子 桜井周 森山浩行 徳永久志 穀田恵二 宮本岳志 斎藤アレックス 大石晃子 林佑美 三木圭恵 徳安淳子 池畑浩太朗 市村浩一郎 和田有一朗 阿部圭史 小寺裕雄 石田真敏 大岡敏孝 大串正樹 小林茂樹 島田智明 森山浩行 橋本慧悟 岡田悟 尾辻かな子 竹内譲 浮島智子 鰐淵洋子 向山好一 平岩征樹 辰巳孝太郎 堀川朗子 大石晃子 八幡愛 北野裕子 島田洋一 表 話 編 歴 片山哲 左派:鈴木茂三郎 右派:河上丈太郎 鈴木茂三郎 浅沼稲次郎 河上丈太郎 佐々木更三 勝間田清一 成田知巳 飛鳥田一雄 石橋政嗣 土井たか子 田邊誠 山花貞夫 村山富市 村山富市 土井たか子 福島瑞穂 吉田忠智 又市征治 福島瑞穂 党首:福島瑞穂 副党首兼国会対策委員長兼政策審議会長:新垣邦男 副党首:大椿裕子 幹事長兼選挙対策委員長:服部良一 新垣邦男 福島瑞穂 大椿裕子 社共共闘(革新統一) 社公連合政権構想 社公民路線 社会党シャドーキャビネット 非自民・非共産連立政権 自社さ連立政権 連合・五党協議会 民社国連立政権 野党共闘 社会革新党 労働者農民党 社会党再建全国連絡会 民社党 社会民主連合 新党護憲リベラル 新社会党 民主党 (日本 1996-1998) 民主党 (日本 1998-2016) 民進党 立憲民主党 (2017-2020) 国民民主党 (2018-2020) 立憲民主党 (2020-) 国民民主党 (2020-) 社会党再建全国連絡会 協同党 労働者農民党 沖縄社会党 左社綱領 日本における社会主義への道 日本社会党の新宣言 森戸・稲村論争 社会党右派 社会党左派 社会党再統一 55年体制 三井三池争議 砂川事件 石炭政策転換闘争 安保闘争 浅沼稲次郎暗殺事件 三里塚闘争 土井ブーム 消費税廃止法案 PKO協力法 非自民・非共産連立政権 自社さ連立政権 社民党へ改組、そして少数政党へ転落 民社国連立政権 普天間基地移設問題 社会主義 社会民主主義 日本型社会民主主義 非武装中立 憲法9条 社会主義協会 社会党再建全国連絡会 日本社会主義青年同盟 日本民主教育政治連盟 対共産圏補完外交 連合の会 日本社会党の派閥 社会主義インターナショナル 社会新報(社会タイムス) オール沖縄 立憲フォーラム 労働者運動資料室 革新自治体 日本対外文化協会 全国労働組合連絡協議会 日本労働組合総連合会 日本労働組合総評議会 部落解放同盟 全日本農民組合連合会 原水爆禁止日本国民会議 平和フォーラム 安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合 九条の会 立憲民主党 日本共産党 れいわ新選組 新社会党 沖縄社会大衆党 緑の党グリーンズジャパン 全国市民政治ネットワーク Category:社会民主党 Category:日本社会党 表 話 編 歴 ジェーン・コンドン(『タイム』フリー記者) 渡辺和博(イラストレーター) 近藤道生(博報堂生活総合研究所社長) 慶應義塾大学体育会 雁屋哲 清原和博、工藤公康、渡辺久信 伊丹十三、宮本信子 安部譲二 ニコライ・ソロビエフ(駐日ソビエト連邦大使) 若尾文子 河本和子(弁護士) 堀田かつひこ、土井たか子 三上遵太郎(松下電器産業電化研究所所長) トーマス・リード(『ワシントン・ポスト』東京支局記者) FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ イスラエル アメリカ 日本 韓国 CiNii Books CiNii Research ドイッチェ・ビオグラフィー 土井たか子 20世紀日本の政治家 21世紀日本の政治家 20世紀の女性政治家 21世紀の女性政治家 20世紀日本の法学者 21世紀日本の法学者 日本の女性政治家 衆議院議長 女性衆議院議員 兵庫県選出の衆議院議員 比例近畿ブロック選出の衆議院議員 昭和時代戦後の衆議院議員 平成時代の衆議院議員 社会民主党の衆議院議員 日本社会党の衆議院議員 日本社会党委員長 日本の女性法学者 日本の社会主義フェミニスト 日本の憲法学者 私の履歴書の登場人物 京都女子大学出身の人物 同志社大学出身の人物 神戸市出身の人物 1928年生 2014年没 Pages using the JsonConfig extension 2024/11/20 11:03更新
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本名:土井 多賀子
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