宇佐美徹也の情報(うさみてつや) スポーツライター 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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山内以九士: 山内は目の前の試合のスコアを付けながら、ラジオで流れる他の試合のスコアを付けることもおこなった(宇佐美徹也は自分にはできなかったと述べている)。 成田昇: ^ 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑 <昭和11年 - 平成4年>』講談社、1993年、p.716 一言多十: ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」637ページ 一言多十: 宇佐美徹也著の「日本プロ野球記録大鑑」では「日本プロ野球5指に入る変わった名前の選手」として挙げられている。 福本豊: 1試合の最多記録は5盗塁(1972年5月3日・パ・リーグ記録)だが、4盗塁以上が9回、3盗塁以上は40回あり、宇佐美徹也は「ご立派の一言に尽きる」と評している。 西本聖: スポーツライター宇佐美徹也の著書によると、1981年はゴロアウト406に対して飛球アウトは198で、GO/AOは2.05を記録している。 寺田雷太: ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」128ページ 福間納: この時、プロ野球記録の調査研究で知られた宇佐美徹也は安藤統男監督に手紙を書き「稲尾の記録は400イニング以上投げて作られた中身のある記録。 松井信勝: ^ 宇佐美徹也著『プロ野球記録大鑑』 丸山完二: ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」615ページ 松村憲章: 1971年、二軍のイースタン・リーグでのロッテオリオンズ戦で、100m走日本記録保持者のプロ野球選手として名を馳せた飯島秀雄のプロ野球唯一の打席の対戦相手となり、飯島を三球三振に仕留めたとする文献があるが、宇佐美徹也は著書で飯島の相手投手は成田昇であると記載している。 佐藤竹秀: ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」474ページ 王貞治: 55本塁打のうち24本は飛距離400フィート(約122m)以上という大リーグの球場でも十分にスタンド中段に届く大型ホームランであり、決して球場の狭さに助けられた記録ではない、と宇佐美徹也は評価している。 長崎慶一: そのことについて、「個人タイトルのためにペナントレースの帰趨を左右した」として強い批判が広がり、特に宇佐美徹也は、この時の大洋の采配を敗退行為と批判している。 古賀正明: ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」805ページ 広瀬叔功: パ・リーグの記録部で勤務していた宇佐美徹也も、広瀬の盗塁について「さっと滑り込んで送球が届いたときにはベース上、すっくと立ち上がっている姿に何度ほれぼれしたことか」と賛辞を贈っている。 掛布雅之: ただし、これに関してプロ野球記録の調査・分析で知られた宇佐美徹也は「ほかに特にうまい選手がなく恵まれた感じが強い」と記している。 田尾安志: 「田尾の敬遠だけでは故意に失点させたとはいえず、敗退行為には当たらない」「過去の全打席敬遠の試合との整合性を考慮すると、特定の試合だけを敗退行為として認めるわけにはいかない」などと反論されて抗議は退けられたが、一段落した後も、世論は大洋の行為に疑問を投げかけ、宇佐美徹也は自身の著書『 飯島秀雄: 宇佐美徹也は、野球に対する知識の不足に加え、初年度に7度の故障で3ヶ月も出場できなかったことを挙げて「脚がもろ過ぎて野球という激しい競技には不向き」と評した。 山内以九士: 裕福な家庭で育ったためかわがままな一面があり、宇佐美徹也は山内死去時の追悼文で「仕事以外のことでは勝手気まま、何から何までめんどうをみてやらなければできない人だっただけに、しゃくにさわっておこったり、やめたくなって泣いたりしたこともあった」と記した。 櫟信平: ^ 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年、pp.492-496 野村収: ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」813ページ 林直明: ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」637ページ 広瀬叔功: 当時、パ・リーグ記録部に勤務していた宇佐美徹也は広瀬について、「塁間をスルスルと滑るようなトカゲを思わせる走塁に、当時のネット裏では『大変な選手が出てきたものだ』と異常な興奮に包まれたのを覚えている」と語っている。 安藤統男: 福間納が中継ぎで登板を重ね、稲尾和久の持っていたシーズン登板記録の78試合に迫るところに来ていたが、プロ野球記録の調査研究で知られた宇佐美徹也は安藤に手紙を書いて、「形だけの記録の更新」を思いとどまるよう懇請したという。 山内以九士: 『ベースボール・レディ・レコナー』が刊行された1954年には千葉功が、1956年には宇佐美徹也が、それぞれ「弟子入り」してパ・リーグ記録部で働き始めた。 岡村隆則: ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」410ページ 山内一弘: 宇佐美徹也は著書『プロ野球記録大鑑〈昭和11年‐平成4年〉』(講談社、1993年)において、死球の少ない打者として、中暁生・近藤昭仁とともに山内の名を挙げ、前記のミケンズから受けた死球の際に「当てられる方がヘタなのさ」とコメントした逸話を紹介している。 成田昇: 宇佐美徹也によると、1971年6月25日のイースタン・リーグのロッテオリオンズ戦で、打席に立った飯島秀雄(代走専門選手としてプロ入り)から三振を奪っている。 菅原勝矢: ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」844ページ |
宇佐美徹也の情報まとめ
宇佐美 徹也(うさみ てつや)さんの誕生日は1933年1月29日です。栃木出身のスポーツライターのようです。
卒業、病気に関する情報もありますね。去年の情報もありました。2009年に亡くなられているようです。
宇佐美徹也のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)宇佐美 徹也(うさみ てつや、1933年1月29日 - 2009年5月17日)は、日本のスポーツライター。 少年時代から野球の記録に魅いられ、実戦に近いカードゲームを考案し、その記録集計に熱中する。栃木県立佐野高等学校卒業後、一般企業に就職するが、野球記録に対する情熱が断ちがたく、パシフィック・リーグの記録部長だった山内以九士のもとを訪れ、内弟子として修業。実力を認められて、1956年にパ・リーグ記録部に採用される。 1964年、山内が定年退職したのを機に自身もパ・リーグを退職し、報知新聞社に入社。記録部長・編集委員を歴任。1977年、それまで収集・分析したデータの集大成として『プロ野球記録大鑑』(講談社)を刊行。以後、同書の増補改訂版など多くのプロ野球記録に関する書籍を執筆し、山内や千葉功と並んで「記録の神様」とも称される。 1988年、日本野球機構コミッショナー事務局入り。BISデータ本部初代室長に就任。従来の手集計による公式記録をコンピュータで集計するシステムの構築に尽力した。宇佐美自身は元々コンピュータが嫌いで、「それが元で報知新聞社も定年であっさり辞めた」のだが、BISデータ本部でコンピュータを使った仕事に携わる中でその威力に感服して愛着が湧くようになったと語っている。1994年にBISデータ本部室長を辞任後もコミッショナー事務局に留まり、1998年に退職。 1978年より、毎年実業之日本社から『プロ野球全記録』を発行していたが、2004年版を最後に病気療養のため、発行していなかった。 2009年5月17日、急性呼吸不全のため死去。76歳没 。 いち早くセーブ記録に着目し、メジャーリーグを参考に日本独自のセーブルールを考案。1974年に日本プロ野球の公式記録に導入されるきっかけとなった。ただし、後年に連続セーブの記録のためにセーブのつかない場面での登板を回避するリリーフ投手の姿勢を痛烈に批判している。 数字の上で従来の記録を上回っても内実が伴わない記録や、「作為的に狙って作られた記録」「自チーム選手にタイトルを取らせるためのライバル選手への敬遠」等に批判的であった。例えば、首位打者争いの際、終盤の消化試合で打率1位と2位の選手が所属するチームが対戦する時「試合の勝敗も無視して打率1位の自軍選手を出場させず打率2位の相手選手を強引に全打席敬遠」という首位打者狙いの戦法については「(タイトルを)何としてでもとりたいし、とらせてやりたい気持ちもわからないではない。しかし、プロ野球選手は入場料を払って見に来たお客さんに最高のプレイを見せる義務がある。休んでまでタイトルを取ろうとする選手など減俸ものだし、休ませたりする監督など最低でどちらもプロとはいえない。そもそも折角の見せ場を自ら摘み取るようなことをして果たして興行といえるのか、そのような行為を『温情』という言葉で美化しているマスコミに至っては何をか言わんやだ」と切り捨て、その結果として生まれた松永浩美の11打席連続四球や、落合博満の1試合6四球のような記録に対しては「先人たちが汗と努力で築き上げた偉大な記録がこのような形で作られたものに取って変わられてしまうのは何とも悲しい限り」と著書で述べている。特に勝敗がセ・リーグ優勝チームを左右する試合でもあった1982年10月18日の大洋対中日戦で、大洋ベンチが打率1位の長崎啓二を出場させず、打率2位の中日・田尾安志を勝敗を度外視する形で全打席敬遠したことについては「明らかに敗退行為に当たり、マスコミやコミッショナーもこの事を殆ど問題提起しなかったのは不思議でならない」「巨人はこの試合の取り消し、再試合を要求するべきだった」と痛烈に批判している。 他方で、以下のように作為的に狙っていない記録(あくまで必要に駆られてリリーフとして多用されたにすぎない)にもたびたび現場介入して作為的な記録不達成を要求し、それを実現させてきた。 1984年に阪神タイガースの福間納が、1961年に稲尾和久が作ったシーズン登板記録(78試合)を上回りそうになった際、部下の記者が書いた記録更新の可能性の記事を、話題にすれば選手もその気になってしまうという理由で独断でボツにし、さらに阪神の監督だった安藤統男に「稲尾の記録は400イニング以上を投げて作られたもので、中継ぎ登板だけで形だけの記録を作るべきではない」「42勝をあげた鉄腕・稲尾と4勝の福間を登板回数だけで比べるのは記録ではない。そんなものにこだわるなら、自分はもう記録記者をやめようと思う」という趣旨の手紙を送っている。安藤は、宇佐美の申し出を理解し、その結果、86試合消化時点で60試合(70%の試合に登板)だった福間の登板数は、残り44試合で17登板(同39%)に激減し、稲尾に1試合少ないセ・リーグ記録(当時)の77試合となった。宇佐美は、「稲尾の大記録はこうして守られた。大乗的見地に立って判断を下した安藤監督のファインプレーというべきだろう」と評し、「内容の伴った記録で正々堂々挑戦させる姿勢をうち出してほしいものだ」と締めくくっている。 また、野村克也が阪神の監督を務めていた頃の2000年、伊藤敦規がやはり上記の稲尾の記録に迫ったとき、「稲尾は内容が違う。ワンポイントで最多登板なんて、やめてくれないか」と野村に要求し、野村はそれを受け容れた。実際に、同年の伊藤は、103試合消化時点で58試合(56%の試合に登板)に登板していたが、残り33試合で13登板(同39%)に激減し、最終的に71試合登板に留まった。 2001年に広島東洋カープの菊地原毅がやはり稲尾の記録に迫ったときは、広島の山本浩二監督の自宅宛に「稲尾の記録は日本野球の宝として、絶対に守っていきたいものです。……どうか菊地原投手と、もう一度じっくり話し合ってください」と手紙を書いて同様の要求をした。これに対して、広島球団は、記録の有無にかかわらず試合に勝つためにやっている旨の返答書を送った。結局、菊地原はシーズン最多登板記録のタイ記録を記録したものの、記録更新とはならなかった。その際宇佐美は、「ただ数で並んだだけで、稲尾と比べればお話にならない」と断じた。 以上の件は、いずれも稲尾和久の記録を守るための要求であるが、稲尾のためというよりも自分の理想とする記録観に基づくものであり、現に稲尾がロッテ監督を務めていた1986年に荘勝雄が9試合連続セーブポイントのパ・リーグ記録を作った際、「本塁打2本打たれてもセーブがつく、こんなのは本当はセーブとはいえない」「セーブなどというのは本当は一打同点とか逆転とかいう場面を切り抜けたものでなければ価値はない」として、3点リードで1イニングを投げてセーブのついた荘の起用法に対して、稲尾に抗議の手紙を送っている。 なお、稲尾の記録は2005年に藤川球児が更新したが、宇佐美は1978年以来毎年刊行していたプロ野球全記録をその年から病気療養を理由として刊行しなくなっており、藤川の記録更新の際もコメントや逸話は特に残っていない。 以上のような宇佐美の行為に対してスポーツライターの広尾晃は「1ジャーナリストの意見が、グランド内の采配に影響を与えたとすれば、これも大きな『作為』だ」と、そのダブルスタンダードを批判し、「いかに内容が違っていたとしても、表面上の数字でのみカウントすべきものだ」と述べている。ほか、ルポライターの高川武将も「登板させずに記録を守れ、という行為は常軌を逸しているようにも見える」と述べている。 また宇佐美は、記録については作られた環境(同時代の他の選手からどれだけ突出していたか等)を考慮して評価すべきであるとの立場を取った。この観点からアメリカ・メジャーリーグで1961年にロジャー・マリスがベーブ・ルースの持つシーズン本塁打記録を上回った際に当時のフォード・フリックコミッショナーが、試合数の違いを理由に両方を併記した措置を「名裁定」と評価していた。他方で上記の登板数について稲尾の記録は140試合制のときで、福間の記録は130試合制、菊地原の記録は135試合制で引き分け再試合1試合であるが、これに関しては特に言及がない。 プロ野球記録大鑑 (講談社、1977年・1979年・1993年) ON記録の世界 (読売新聞社、1983年) プロ野球データブック'84 (講談社文庫、1984年) プロ野球データブック (講談社文庫、1985年) プロ野球記録・奇録・きろく (文春文庫、1987年) プロ野球データブック 最新版 (講談社文庫、1995年) ジャイアンツデータワールド('98) (読売新聞社、1998年) 宇佐美徹也の記録 巨人軍65年 (説話社、2000年) 野球スコアと記録のつけ方 (成美堂出版、2001年) プロ野球全記録 (実業之日本社、1978年 - 2004年) ^ 千葉功(1935-2021)は元プロ野球公式記録員、元パ・リーグ記録部長。著書に『プロ野球記録史』(ベースボールマガジン社、1982年)、『プロ野球記録の手帖』(ベースボールマガジン社、2001年)などがある。 ^ この試合で中日が勝つか引き分ければ中日、大洋が勝てばすでに全日程を終了していた巨人の優勝が決まることになっていた。 ^ 『プロ野球記録大鑑』(1993年版)前書きより。 ^ 宇佐美徹也『上原の悔し涙に何を見た』183頁 ^ 広尾晃 (2012年10月23日). “宇佐美徹也氏が問題にした「作為」-5|野球史”. 野球の記録で話したい. 2023年10月10日閲覧。 ^ 朝日新聞1999年10月17日朝刊4面 ^ 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』761頁 ^ 蛭間豊章 (2009年5月23日). “野村克也監督の宇佐美徹也さんへの思い出(特別版)”. ブログ報知(スポーツ報知). 蛭間豊章記者の「Baseball inside」. 報知新聞社. 2009年7月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月10日閲覧。 ^ 宇佐美徹也『上原の悔し涙に何を見た』203頁 ^ 宇佐美徹也『上原の悔し涙に何を見た』178-180頁 ^ 宇佐美徹也『上原の悔し涙に何を見た』181頁 ^ 宇佐美徹也『上原の悔し涙に何を見た』199-200頁 ^ たまさぶろ (2014年1月20日). “【プロ野球】殿堂入りすべきは「記録の神様」 故・宇佐美徹也氏”. SPREAD. Neo Sports. 2023年10月10日閲覧。 栃木県出身の人物一覧 VIAF 日本 スポーツライター 日本野球史学者 読売新聞グループの人物 報知新聞社の人物 日本野球機構の人物 日本の新聞編集者 栃木県出身の人物 1933年生 2009年没 2024/11/20 16:26更新
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