山川静夫アナウンサーの情報(やまかわしずお) アナウンサー/NHK 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
山川 静夫さんについて調べます
■名前・氏名 |
山川静夫と関係のある人
小田島建夫: 高橋圭三が自分の地元の隣の花巻市出身、同じ大学・学部の先輩に山川静夫がいたことにも触発されて、放送界を目指すようになった。 松川洋右: 同期にはスポーツアナウンサーとして知られる向坂松彦、バラエティの司会や『紅白歌合戦』で知られた山川静夫がいる。 志生野温夫: 元NHKアナウンサーの山川静夫は大学時代の同級生である。 戸板康二: 様々なエピソードやこぼれ話を書いた『ちょっといい話』は、逝去直前まで書き続けられて単行本4集と番外『歌舞伎ちょっといい話』(歌舞伎座の筋書に毎月掲載された、その月の演目にまつわるエピソード)の5冊を数える名シリーズとなったが、元々は戸板のほか岡部冬彦や山川静夫らが書き継いだ『オール讀物』の名物コラムのタイトルから書名をとったものである。 長谷川一夫: 」と励まされたので決心がついたという(山川静夫との対談での証言)。 生方恵一: 同期は山川静夫。 向坂松彦: 同期に山川静夫、松川洋右がいる。 大西信行: 1975年、NHKのラジオドラマの脚色を担当した『綱太夫四季』(山川静夫原作)で芸術祭優秀賞受賞。 千昌夫: 同年の紅白では白組司会の山川静夫が「3年続けて同じ曲!」と紹介し笑いを誘ったが、歌手席や客席から「待ってました!」の声が上がり、雰囲気は一層盛り上がった。 高橋圭三: 1953年『NHK紅白歌合戦』の白組司会を9年連続で担当(1961年まで)、これはNHKの後輩アナウンサーの山川静夫に並び連続白組司会の最長記録となっている。 渚あき: NHK-BS2 「山川静夫の“新・華麗なる招待席”」(2003年)ゲスト ちあきなおみ: 「夜へ急ぐ人」は『第28回NHK紅白歌合戦』でも歌われ、紅白の舞台でのちあきの鬼気迫るパフォーマンスが視聴者の度肝を抜き、白組司会の山川静夫は「なんとも気持ちの悪い歌ですねぇ〜」と発言するなど、話題になった。 今福祝: また山川静夫によると、普通のアナウンサーなら批判される放送中のミスが、ユーモラスな伝説として語り継がれるような愛される人柄だったという。 池田政典: 透視する女(2000年)- 山川静夫 役 鈴木健二: 1974年 - 1982年まで9年連続で白組司会を務めた後輩の山川静夫に代わっての抜擢であった。 |
山川静夫の情報まとめ
山川 静夫(やまかわ しずお)さんの誕生日は1933年2月27日です。静岡出身のアナウンサーのようです。
現在、卒業、ドラマ、テレビ、結婚、事件、事故に関する情報もありますね。去年の情報もありました。
山川静夫のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)山川 静夫(やまかわ しずお、1933年〈昭和8年〉2月27日 - )は、日本のフリーアナウンサー、芸能評論家(特に歌舞伎)、エッセイスト。元NHKアナウンサー。 1933年2月27日、現在の静岡県静岡市葵区梅屋町で静岡浅間神社神主の家に生まれた。1951年、静岡県立静岡城内高等学校(当時。現:静岡県立静岡高等学校)卒業。国學院大學文学部卒業。日本の伝統文化に興味があり、國學院大學在学中から歌舞伎の声色が得意で、ニッポン放送の歌舞伎番組に出演していた経験を持つ。中村勘三郎 (17代目)、中村歌右衛門 (6代目)、吉田玉男、吉田簑助など古典芸能の名人たちと親交を深めている。また、義父の飯島忠が安藤鶴夫と育英小学校で同級生であることを通じての親交もあった。 1956年にNHKに入局。青森、仙台、大阪に勤務の後、1968年に東京アナウンス室に配属。前期の担当番組はお父さんはお人好し、女性手帳(大阪制作)、お楽しみグランドホール、ひるのプレゼント、歌のグランド・ショー、お国自慢にしひがしなど。後期はウルトラアイ、トライ&トライ、くらべてみればなどの生活科学番組の司会を15年に渡って担当、体当たりの実験参加が人気を博した。 NHK紅白歌合戦の総合司会や白組司会を務めた。1974年から1982年まで白組司会を9年連続で担当、これは先輩の高橋圭三に並び連続白組司会の最長記録となっている。史上初且つ男性では唯一の昭和・平成の紅白での双方司会経験者であるほか、最後の担当となっている1992年(当時59歳)での総合司会は2005年に当時61歳のみのもんた(同回の事実上の総合司会)に抜かれるまで男性司会者および総合司会の最年長記録となっていた。ただし、第56回は「グループ司会制」となり、司会の役割は決められていなかったため、正式な肩書の総合司会の最年長記録はその後も保持している。 著作も多く、1974年に刊行した『綱太夫四季』が処女作である。同作は1975年にNHKでラジオドラマ化され(脚色:大西信行.演出:上野友夫、主演:森繁久彌)、芸術祭優秀賞受賞。 1972年チーフアナウンサー、チーフアナウンサー(局長級)から1988年理事待遇、1990年に特別主幹(専務理事待遇)職に就任する(理事就任後もテレビ出演時は「アナウンサー」を名乗っていた)が、その後も当時の担当番組だった「くらべてみれば」では司会を続け、1991年と1992年には「国民的番組」の名誉復権をかけて9年ぶりに紅白に総合司会として司会復帰する等、1994年3月(実際、山川は1993年の時点で60歳を迎えていた)に定年退職するまで"NHKの顔"として活躍した。2000年に脳梗塞とそれに伴う失語症、心不全、結腸腫瘍による腸閉塞と相次いで大病に見舞われたが、短期間で復帰。 1991年からは国語審議会委員を務め、また芸能評論家として雑誌・単行本に評論・エッセイを執筆するなど、退職後はブラウン管から一歩離れた立場での活躍が目立っているが、NHK衛星第2において、「山川静夫の華麗なる招待席」「昭和の歌人たち」といった番組の司会を担当し長年に渡り出演してきたほか、2010年には十一代目市川海老蔵(当時。現:十三代目市川團十郎白猿)の結婚披露宴(全2部構成の第1部)の司会を担当した。 大阪放送局勤務時代(1959年 - 1965年)、当時朝日座といった文楽劇場へ通いつめ、文楽を筆頭に歌舞伎、新国劇などの古典芸能に通暁しており、その時親しんだ八代目竹本綱大夫の評伝『綱大夫四季』の他、その後も多数の古典芸能に関する著書がある。 同期にはスポーツアナウンサーとして知られる向坂松彦、ニュースキャスターやナレーターを務めた松川洋右がいる。志生野温夫(元日本テレビアナウンサー)は大学時代の同級生。NHKの採用試験は、志生野と共に受験したが、志生野は4次試験の面接で落第した。また文化放送、フジテレビでアナウンサーを務めた鳥居滋夫は静岡城内高校の同期。 女性手帳(総合) ひるのプレゼント(1970年4月6日 - 1972年3月31日、総合) 歌謡グランドショー 後に歌のゴールデンステージ→歌のグランド・ショーに改題(1972年4月4日 - 1977年12月21日、総合) お国自慢にしひがし(1974年4月4日 - 1976年3月11日、総合) ウルトラアイ(1978年5月8日 - 1986年3月17日、総合) トライ&トライ(1986年4月14日 - 1991年3月18日、総合) くらべてみれば(1991年4月1日 - 1994年3月24日、総合) 山川静夫の華麗なる招待席(1994年10月〈NHK定年退職後〉 - 2008年3月、BS2) NHK紅白歌合戦(総合・ラジオ第1)
第26回(1975年) 第27回(1976年) 第28回(1977年) 第29回(1978年) 第30回(1979年) 第31回(1980年) 第32回(1981年) 第33回(1982年) 総合司会
第24回(1973年) 第42回(1991年) 第43回(1992年) 思い出のメロディー(総合・ラジオ第1)
第10回(1980年8月9日) ヤング歌の祭典(総合・ラジオ第1)
第2回(1976年5月5日) 第3回(1977年5月5日) 邦楽百選(FM) 武蔵坊弁慶(1986年、総合) - ナレーション 腕におぼえあり(1992年、総合) - ナレーション 幕末のスパシーボ(1997年、ナレーション)、他 ラジオ深夜便・にっぽんを味わう 歌舞伎(2011年度 - 2013年度、毎月第2水曜日〈火曜日深夜〉、ラジオ第1・FM) 綱太夫四季 昭和の文楽を生きる 南窓社(1974年) のち岩波現代文庫 爆笑の話術 新星出版社(1974年) 他人のふんどし(1976年) 上方芸人ばなし 日本放送出版協会(1977年) 歌右衛門の疎開 文藝春秋(1980年) のち、岩波現代文庫 ウルトラおじさん頑張る 講談社(1980年) 小説 和田信賢-そうそう、そうなんだよ- 日本放送出版協会(1983年) のち「或るアナウンサーの一生―評伝 和田信賢」として文春文庫、のち「そうそう そうなんだよ ― アナウンサー和田信賢伝」として岩波現代文庫 NHK ウルトラアイ全6巻 山川静夫 (編集), 番組制作グループ (編集) NHK出版 (1983年 - 1984年) 夕空はれて 広池学園出版部(1985年) 歌右衛門の六十年 中村歌右衛門聞書き 岩波新書(1986年) 人の情けの盃を 淡交社(1986年) もっとうまく話したい ダラダラ、マゴマゴにさよならする知恵 ごま書房(1988年) 勘三郎の天気 読売新聞社(1988年) のち文春文庫 名手名言 中央法規出版(1991年) のち文春文庫 山川静夫の歌舞伎十八選 これだけは見てほしい平成の歌舞伎 吉田千秋写真 講談社(1991年) 胸の振子 文藝春秋(1991年) 当世やまとごころ 日本放送出版協会(1992年) オフィス忠臣蔵 文春ネスコ(1994年) 歌舞伎の知恵 演劇出版社(1994年) 文楽の女 吉田簑助の世界 淡交社(1994年) 私のNHK物語-アナウンサー38年 文藝春秋(1994年) のち文庫 短いスピーチほどおあとがよろしいようで ごま書房(1998年) 話せるヒント 思いやりのキャッチボール 日本文芸社(1999年) 歌舞伎のかくし味 淡交社(1999年) 歌舞伎漫筆 岩波書店(2000年) 文楽の男 吉田玉男の世界 吉田玉男 淡交社(2002年) 山川静夫芝居随筆 演劇出版社 2003 花舞台へ帰ってきた。吉田簔助と山川静夫 脳卒中・闘病・リハビリ・復帰の記録 淡交社(2007年) 私の出会えた名優たち 演劇出版社(2007年) 歌舞伎の愉しみ方 岩波新書(2008年) 大向うの人々 歌舞伎座三階人情ばなし 講談社(2009年) 文楽の男 - 初世吉田玉男の世界 淡交社(2016年) 文楽の女 - 吉田簔助の世界 淡交社(2016年) 山川静夫の文楽思い出ばなし 岩波書店(2017年) 私の「紅白歌合戦」物語 文春文庫(2019年) 山川静夫の歌舞伎思い出ばなし 岩波書店(2021年) 『名手名言』で日本エッセイストクラブ賞(1990年) 橋田賞(1994年) 前島密賞(1995年) 徳川夢声市民賞(2005年) 『大向うの人々 歌舞伎座三階人情ばなし』で講談社エッセイ賞(2010年) 古典芸能、とりわけ歌舞伎に対する造詣・関わりが強く、國學院大學在学中には歌舞伎研究会を自ら設立させた。その当時から役者の声まねを得意とし、ラジオの素人参加番組ではその卓越した技芸で常連となっていた。また、先代(17代)中村勘三郎とは私生活でも親交が深く、学生時代には勘三郎は二役を務める舞台などで、特に勘三郎の声まねを得意としていた山川を使い、早替りのための時間稼ぎに山川の声を使い、その間を繋げたことも度々あったという。その声は、勘三郎夫人にも違いが判らなかったほどの出来栄えであった。長男の18代目とも親交があり、彼の訃報に際しては『ニュースウオッチ9』で想い出を語った。 歌番組における「茶化し」を含んだ司会ぶりも当時のNHKアナウンサーの概念からすれば型破りと評されることもあった。特にNHK紅白歌合戦においては、駄洒落やブラックユーモアともとれる言葉を選んで司会をしていた。 1974年の紅白では、ハスキーボイスで知られる森進一には「白組の中で一番声が大きい人」、鼻の穴が大きい北島三郎には「一番鼻の穴が小さい人」、眼の細い五木ひろしには「一番眼が大きい人」とブラックジョークを連発。堺正章とは「私、サカイ」(堺)、「私司会ですが」(山川)という漫才さながらの軽妙なやり取りを見せた。 1975年の紅白では、デビュー曲「赤いランプの終列車」を紅白で初披露することになった春日八郎の紹介の際に、曲名を捩って「紅はこれでお終いです」と紅組メンバーを牽制。 1976年の紅白でのフォーリーブス紹介で「ター坊、マー坊、トシ坊、そして今年の話題の中心人物コーチャン(北公次の愛称「コーちゃん」と同年発覚したロッキード事件で知られるロッキード社コーチャン(英語版)副会長の捩り)。これで紅はコーチャン(降参)でしょう!」 1977年の紅白では、ちあきなおみの「夜へ急ぐ人」に於ける鬼気迫る歌唱に対して「なんとも気持ちの悪い歌ですね~」と牽制した。 1978年の紅白では、出番を終えた桜田淳子を「「しあわせ芝居」にたくさんの拍手をありがとうございます」と労いながらも、「でも、今の拍手はサクラだ(桜田)」と一言。また、庄野真代にも出場曲「飛んでイスタンブール」を捩って「先程の歌は"とんでもないイスタンブール"の間違いでございました。お詫びして訂正したい気持ちでございますが…」とこれまた痛烈な表現で庄野の歌を牽制した。 1980年の紅白では、この年、7年ぶりに紅白に返り咲いた海援隊の「贈る言葉」の曲紹介の際に、海援隊のボーカル・武田鉄矢のことを、彼が主演を務めたTBSドラマ「3年B組金八先生」を捩って「3年白組金八先生」と紹介した。後のNHKでは民放の番組名、商標、固有名詞などに関する取扱いはかなり緩和されているが、まだ当時の段階ではそれらの名称・名詞をアナウンサーや記者が番組の中で用いることは“ご法度”とされていた。その中で既にエース級のアナウンサーとしての地位を確立していた山川があえてその“ご法度”を破る曲紹介を行ったことに対して、当時、放送関係者の間で話題となった。 1981年の紅白のエンディングでは、大トリとして大量の紙吹雪が吹き荒れる中で「風雪ながれ旅」を熱唱した北島三郎のステージにつき「いや〜、最後はサブちゃんの鼻の中に紙吹雪が入るんじゃないかと思いましたが」と感想を述べた。 1992年の紅白では、山川豊の出番の後に設けられたミニコーナーの冒頭で「山川の後は山川ですけれども」と改めて自己紹介。 紅白の白組司会を初めて担当することになった時、先輩の高橋圭三との会食の席で衣装の件で相談をしたところ、「新品の靴ではなく、履きなれた靴を履いて司会に臨みたまえ」とアドバイスされたという。これは「新品の靴」では妙に身構えて司会進行を行ってしまい、普段のアナウンサーとしての実力を発揮できない危険がある、という長年のアナウンサー・司会者生活の中で得たアドバイスであり、この忠言に従って、山川も本番ではあえていつも自身の担当番組で履いている靴で司会を担当し、初担当ながらリラックスして進行に集中することができたと回顧している。 紅白の司会を担当して脂が乗っていた1970年代に、NHK東京アナウンス室メンバーで作る草野球チームに入っていて、三塁手でプレーしていた。 視聴率低下が原因で1982年を以って紅白の白組司会を降板、翌1983年は先輩の鈴木健二に白組司会を譲ることになった。山川はこれに大変ショックを受け、当時山川と鈴木が不仲になったとも伝えられている。1984年の紅白では「総合司会に山川を再登板させる方向でギリギリまで調整されたが、上記の件を理由に山川が固辞し、生方惠一(鈴木の後輩且つ山川の同期)が1982年以来2年ぶりに再登板する運びになった」とも報じられた。 1980年8月16日に発生した、『静岡駅前地下街爆発事故』の際、たまたま静岡の実家へ帰省していた山川が事故の一報を聞いてNHK静岡放送局へ駆けつけ、応援アナとして静岡のスタジオから事故のニュースを伝えた。山川がNHK静岡放送局史「静岡放送局70年のあゆみ」に寄稿した当時の述懐によると、「実家から比較的近所にあった静岡局へ自転車で駆けつけ、警察や消防から入ってくる被害者(死傷者氏名や収容先)の情報を読み上げた」とのことである。この事故では高校時代の同級生夫妻も事故に巻き込まれ命を落としており、その同級生夫妻の氏名も読み上げることとなってしまったという。故郷の放送局でありながらも、一度も勤務経験がなかった静岡局でのこの一連の出来事を、山川は「忘れることができない」とし、犠牲者である同級生との、放送を通じての別れを「運命の皮肉さを思わずにはいられない」とも述べている。 ^ 当時のアナウンス養成主任は木津川辰雄。 ^ “山川 静夫 - Webcat Plus”. webcatplus.nii.ac.jp. 2023年2月24日閲覧。 ^ 『静中・静高同窓会会員名簿』平成15年度(125周年)版 103頁。 ^ 山川静夫 (1980-2). 歌右衛門の疎開「あんつるさんのふるさと」. 文藝春秋. ISBN 9784163354101 ^ 『週刊現代』1985年1月号 どーもくん 山川静夫 - NHK人物録 山川静夫プロフィール - 講師派遣システムブレーン 表 話 編 歴 1951 田辺正晴 1952 田辺正晴 1953(年初)志村正順 1953(年末)北出清五郎 1954 石井鐘三郎 1955 石井鐘三郎 1956 石井鐘三郎 1957 石井鐘三郎 1958 石井鐘三郎 1959 石井鐘三郎 1960 石井鐘三郎 1961 穂坂俊明 1962 石井鐘三郎 1963 石井鐘三郎 1964 石井鐘三郎 1965 石井鐘三郎 1966 石井鐘三郎 1967 北出清五郎 1968 宮田輝 1969 宮田輝 1970 北出清五郎 1971 鈴木文彌 1972 山川静夫 1973 山川静夫 1974 土門正夫、中江陽三 1975 相川浩 1976 相川浩 1977 相川浩 1978 相川浩 1979 中江陽三 1980 中江陽三 1981 生方恵一 1982 生方恵一 1983 タモリ 1984 生方恵一 1985 千田正穂 1986 吉川精一 1987 吉川精一 1988 杉浦圭子 1989 松平定知 1990 松平定知 1991 山川静夫 1992 山川静夫 1993 森田美由紀 1994 宮川泰夫 1995 宮本隆治、草野満代 1996 宮本隆治、草野満代 1997 宮本隆治 1998 宮本隆治 1999 宮本隆治 2000 宮本隆治 2001 三宅民夫 2002 三宅民夫 2003 武内陶子 2004 堀尾正明 2005 みのもんた、山根基世 2006 三宅民夫、黒崎めぐみ 2007 松本和也、住吉美紀 2008 松本和也、小野文惠 2009 阿部渉 2010 阿部渉 2011 阿部渉 2012 有働由美子 2013 有働由美子 2014 有働由美子 2015 黒柳徹子、有働由美子 2016 武田真一 2017 内村光良、桑子真帆 2018 内村光良、桑子真帆 2019 内村光良、和久田麻由子 2020 内村光良、桑子真帆 2021 和久田麻由子 2022 桑子真帆 2023 高瀬耕造 2024 鈴木奈穂子 表 話 編 歴 1951 藤倉修一 1952 藤倉修一 1953(年初)宮田輝 1953(年末)高橋圭三 1954 高橋圭三 1955 高橋圭三 1956 高橋圭三 1957 高橋圭三 1958 高橋圭三 1959 高橋圭三 1960 高橋圭三 1961 高橋圭三 1962 宮田輝 1963 宮田輝 1964 宮田輝 1965 宮田輝 1966 宮田輝 1967 宮田輝 1968 坂本九 1969 坂本九 1970 宮田輝 1971 宮田輝 1972 宮田輝 1973 宮田輝 1974 山川静夫 1975 山川静夫 1976 山川静夫 1977 山川静夫 1978 山川静夫 1979 山川静夫 1980 山川静夫 1981 山川静夫 1982 山川静夫 1983 鈴木健二 1984 鈴木健二 1985 鈴木健二 1986 加山雄三、千田正穂 1987 加山雄三 1988 加山雄三 1989 武田鉄矢 1990 西田敏行 1991 堺正章 1992 堺正章 1993 堺正章 1994 古舘伊知郎 1995 古舘伊知郎 1996 古舘伊知郎 1997 中居正広 1998 中居正広 1999 五代目 中村勘九郎 2000 和泉元彌 2001 阿部渉 2002 阿部渉 2003 阿部渉、高山哲哉 2004 阿部渉 2005 山本耕史 2006 中居正広 2007 笑福亭鶴瓶 2008 中居正広 2009 中居正広 2010 嵐 2011 嵐 2012 嵐 2013 嵐 2014 嵐 2015 井ノ原快彦 2016 相葉雅紀 2017 二宮和也 2018 櫻井翔 2019 櫻井翔 2020 大泉洋 2021 大泉洋 2022 大泉洋 2023 有吉弘行 2024 有吉弘行 表 話 編 歴 第1回 (1985年) 野坂昭如 「我が闘争 こけつまろびつ闇を撃つ」 ・ 沢木耕太郎 「バーボン・ストリート」 第2回 (1986年) 吉行淳之介 「人工水晶体」 ・ 景山民夫 「One fine mess」 第3回 (1987年) 尾辻克彦 「東京路上探険記」 第4回 (1988年) 嵐山光三郎 「素人庖丁記」 第5回 (1989年) 永倉万治 「アニバーサリー・ソング」 第6回 (1990年) 早坂暁 「公園通りの猫たち」 第7回 (1991年) 伊藤礼 「狸ビール」 ・ 須賀敦子 「ミラノ 霧の風景」 第8回 (1992年) 柴田元幸 「生半可な学者」 ・ 出久根達郎 「本のお口よごしですが」 第9回 (1993年) 林望 「林望のイギリス観察辞典」 ・ 和田誠 「銀座界隈ドキドキの日々」 第10回 (1994年) 池内紀 「海山のあいだ」 第11回 (1995年) 東海林さだお 「ブタの丸かじり」 ・ 高島俊男 「本が好き、悪口言うのはもっと好き」 第12回 (1996年) 鹿島茂 「子供より古書が大事と思いたい」 ・ 関容子 「花の脇役」 第13回 (1997年) 米原万里 「魔女の一ダース」 第14回 (1998年) 六嶋由岐子 「ロンドン骨董街の人びと」 第15回 (1999年) 檀ふみ ・ 阿川佐和子 「ああ言えばこう食う」 ・ いとうせいこう 「ボタニカル・ライフ 植物生活」 第16回 (2000年) 四方田犬彦 「モロッコ流謫」 第17回 (2001年) 小池昌代 「屋上への誘惑」 ・ 坪内祐三 「慶応三年生まれ七人の旋毛曲り」 第18回 (2002年) 該当作なし 第19回 (2003年) 到津伸子 「不眠の都市」 ・ 関川夏央 「昭和が明るかった頃」 第20回 (2004年) 荒川洋治 「忘れられる過去」 ・ 酒井順子 「負け犬の遠吠え」 第21回 (2005年) アーサー・ビナード 「日本語ぽこりぽこり」 第22回 (2006年) 野崎歓「赤ちゃん教育」・福田和也「悪女の美食術」 第23回 (2007年) 青山潤「アフリカにょろり旅」・岸本佐知子「ねにもつタイプ」 第24回 (2008年) 立川談春「赤めだか」 第25回 (2009年) 青柳いづみこ「六本指のゴルトベルク」・向井万起男「謎の1セント硬貨」 第26回 (2010年) 長島有里枝「背中の記憶」・山川静夫「大向うの人々 歌舞伎座三階人情ばなし」 第27回 (2011年) 内澤旬子「身体のいいなり」・内田洋子「ジーノの家 イタリア10景」 第28回 (2012年) 平松洋子「野蛮な読書」 第29回 (2013年) 小川恵「銀色の月 小川国夫との日々」・永田和宏「歌に私は泣くだらう 妻・河野裕子 闘病の十年」 第30回 (2014年) 末井昭「自殺」 第31回 (2015年) ジェーン・スー「貴様いつまで女子でいるつもりだ問題」 第32回 (2016年) 横尾忠則「言葉を離れる」 第33回 (2017年) 小泉今日子「黄色いマンション 黒い猫」・穂村弘「鳥肌が」 第34回 (2018年) こだま「ここは、おしまいの地」・高橋順子「夫・車谷長吉」 FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ イスラエル アメリカ 日本 韓国 この項目は、アナウンサーに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(アナウンサーPJ)。 NHKの元職員アナウンサー NHK紅白歌合戦司会者 フリーアナウンサー 20世紀日本の評論家 21世紀日本の評論家 演芸評論家 日本の歌舞伎評論家 20世紀日本の随筆家 21世紀日本の随筆家 日本の司会者 講談社エッセイ賞受賞者 國學院大學出身の人物 静岡県立静岡高等学校出身の人物 静岡市出身の人物 1933年生 存命人物 雑多な内容を箇条書きした節のある記事 - 2019年3月 独自研究の除去が必要な節のある記事/2019年1月-6月 ウィキデータにないNHK人物録ID FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 J9U識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NLK識別子が指定されている記事 すべてのスタブ記事 アナウンサーのスタブ項目
2024/11/21 15:10更新
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