川喜多長政の情報(かわきたながまさ) 映画事業家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
川喜多 長政さんについて調べます
■名前・氏名 |
川喜多長政と関係のある人
原節子: 1937年3月12日、原は義兄熊谷久虎や東和の川喜多長政らと共に下関から海路大連に向かった。 川喜多かしこ: 1929年の秋に川喜多長政と結婚し、竹内かしこから川喜多かしことなる ヨーゼフ=ゲッベルス: 1937年には、昨年に日独防共協定を結び同盟国となった日本の映画製作者の川喜多長政と、ドイツの映画製作者アルノルト・ファンクによる合作で、原節子、早川雪洲、ルート・エヴェラー(ドイツ語版)などが主演する映画『新しき土』(ドイツ語題『Die Tochter des Samurai(侍の娘)』)を制作することを許可し、またその制作を支援した。 沢村一樹: 2夜連続ドラマスペシャル・李香蘭(2007年2月11日・12日、テレビ東京) - 川喜多長政 吉永小百合: 1962年3月31日から「ミラノ国際見本市」の中で、4月15日から4月19日まで開催された『ミラノ日本映画見本市』のため、4月10日、清水雅を団長として、川喜多長政、奥山融、そして、他の映画会社各社代表女優の佐久間良子、星由里子らと共に日活代表女優としてイタリアへ出発。 川喜多かしこ: フェリス女学院を卒業後は、1929年1月、英語でタイプライターを打てる女性秘書として、東和商事という貿易会社の川喜多長政に採用された。 藤本真澄: また大御所・栗島すみ子を1956年の『流れる』で18年ぶりに映画出演させたり、森、田中、川喜多長政と共に三船プロダクション設立に尽力、三船敏郎に命令し三船プロの第1回作品『五十万人の遺産』の監督をさせた。 林隆三: さよなら李香蘭(1989年、フジテレビ)- 川喜多長政 役 伊丹十三: 1960年5月11日にスクリプター野上照代より、日本映画界の巨人である川喜多長政・川喜多かしこの娘の川喜多和子を銀座のバーで紹介され、同年7月13日に東京・国際文化会館にて結婚。 和辻哲郎: 和辻夫妻が暮らした練馬の自宅は神奈川県秦野にあった江戸時代後期の民家を移築したもので、1961年に川喜多長政・かしこ夫妻が購入して鎌倉に再移築し、来日した映画関係者を迎える場として使われた。 川喜多かしこ: 夫:川喜多長政 佐久間良子: 1962年(昭和37年)、3月31日からイタリアのミラノで開かれた「ミラノ国際見本市」の中で、4月15日から4月19日まで開催された『ミラノ日本映画見本市』のため、4月10日、清水雅(東宝社長)を団長として、川喜多長政、奥山融、そして、映画会社各社代表女優の吉永小百合(日活)、星由里子(東宝)らとともに東映の代表女優としてイタリアへ出発。 川喜多和子: 父・川喜多長政、母・川喜多かしこの一人娘として聖路加病医院で生まれる。 星由里子: 1962年(昭和37年)3月31日より開かれた「ミラノ国際見本市」の一環である『ミラノ日本映画見本市』(4月15日より同月19日)へ出席するため、4月10日、清水雅(東宝社長)を団長に、川喜多長政、奥山融(奥山和由の父)、他映画会社の代表女優の佐久間良子(東映)、吉永小百合(日活)らと共に東宝代表としてイタリアのミラノへ出発。 |
川喜多長政の情報まとめ
川喜多 長政(かわきた ながまさ)さんの誕生日は1903年4月30日です。東京出身の映画事業家のようです。
映画、結婚、卒業、家族、病気に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1981年に亡くなられているようです。
川喜多長政のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)川喜多 長政(かわきた ながまさ、1903年(明治36年)4月30日 - 1981年(昭和56年)5月24日)は、映画製作者、輸入業者。国際的映画人として、とくにアジアでは絶大な信用を有した。 妻で長政以上の国際的知名度を持つ「日本映画の母」かしこ、娘の和子(伊丹十三の最初の妻、のちにフランス映画社社長の柴田駿と結婚)とともに「川喜多家の三人」として記憶される。 名の長政は、歴史好きの父がアジアに飛躍するようにと山田長政から付けたとされる。今日も川喜多一族の名は財団法人『川喜多記念映画文化財団』として映画界に燦然と輝いている。同法人は、日本映画の芸術文化の発展に甚大なる功績を残した映画人等に対して毎年「川喜多賞」を贈り表彰していることで有名である。 なお、鎌倉市に所在する邸宅跡は改修され、鎌倉市川喜多映画記念館として2010年4月に開館。土地は川喜多家が市に寄付し、市が5億円をかけて記念館を設立、毎年約3000万円の運営費を市が支払い、川喜多財団が運営している。 陸軍大尉川喜多大治郎と妻こうの次男として東京で生まれる。大治郎は陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業し、第四師団野戦砲兵第四連隊の第一中隊長として日露戦争に従軍。負傷しながらも戦死した大隊長の代わりに指揮をとり、激戦を戦い抜き金鵄勲章を授与された。1906年、清国政府の日本政府への要請により、北洋軍官学校(校長は段祺瑞)の高等兵学教官として中国へ赴任する。 大治郎は家族を日本に残していたが、1908年8月1日に北京の知人宅で病気で寝ていた彼を、日本公使館付憲兵4名が襲撃。2名が入口で見張りに立ち、2名が中庭から家の中の大治郎に向けピストルを発射。ガラス窓を突き破った4発の弾丸で大治郎は射殺される。享年33。軍の機密漏洩の嫌疑で逮捕に訪れた憲兵に抵抗し、射殺されたと、発表される。 1922年、長政は都内屈指の進学校である東京府立四中(現、東京都立戸山高等学校)を卒業後、北京大学に学び更にドイツに留学する。帰国後ウーファ (映画会社)の代理人を経て、1928年に「東和商事」(現東宝東和)を設立。その後、同社に入社したタイピストの竹内かしこ(川喜多かしこ)と結婚し、二人で世界中を買い付けに回る。若き長政は日本最大の映画輸入業者として知られるようになった。 1939年、3月に陸軍は長政に日本軍支配地域の映画配給会社の日本側代表を依頼する。日独合作、日中合作映画を製作し配給してきた実績があり、中国語に堪能で、各方面に人脈があったため選ばれたとされる。 長政が大陸に渡る決心をしたのは幾つかの説があり、彼自身は中国との友好の掛け橋となりたいと説明している。また父の死も要因であるとする説もある。また、日独満の協定によりドイツ映画の配給について満州国が独占権を握ったため、これに対抗しようとしたとする説もある。ただ、彼の信条である「中国と日本の映画による友好」の立場で上海にいる以上軍の圧力は避けられず、また中国人からも敵視されるのは覚悟の上での大陸入りといえる。 1939年6月27日に、中華電影股份有限公司(中華電影)が日中合弁で設立されると専務董事の長政は本社を共同租界に置き、映画製作については日本人は入れないとして中国人のプロデューサー張善琨を全面的に信用して彼をトップに据える。 浙江省の生まれ。上海の大学に学んだ後はやくざ社会を経て上海映画界の大立者となったとされる。プロデューサーとしての手腕を見込んだ長政は彼を信頼し、張は上海の主要な映画人を集め川喜多に協力するよう要請。と同時に国民党(重慶)と連絡を取り、上海映画人たちの中国国内での立場を確保している。(日本人に協力した場合は漢奸とされテロの標的とされても仕方のない為。実際に1940年に中華電影の監督がテロに遭って死亡している。)このため日本と中国の板ばさみで中華電影の作品は「比喩的に日本を非難するか」「全くの娯楽作」というものが多いが、娯楽作は庶民を喜ばせた。長政は彼ら上海の中国人の苦渋と屈辱を考え、最後まで保護をした。 1941年、南京の総司令部より中央の国策に沿う映画を撮るように圧力をかけられた長政は何とかやり過ごす。12月8日、上海の租界全域を日本軍が占領したことでより事態は厳しくなるが、中国人スタッフの多くは長政を信頼し上海映画界に残る。 この後、上海映画界の統合団体の役員に名を連ねるが、1944年には張が憲兵に拘束される。何とか釈放させるが、翌年には張は上海を脱出し重慶へ逃げる。軍の上層部では重慶とのパイプとして張の存在を認めていたが、憲兵にはグレーゾーンとして見られていたため脱出したとされる。敗戦後の長政は家族は先に帰らせると上海での残務整理をしていたが、山口淑子が漢奸とされ処刑されると聞くと、この救出に尽力。1946年、大陸を離れ山口と日本へ戻る。 1947年には総司令部より公職追放とされるが、世界中から彼に助けられたユダヤ人や中国人の弁護の声明が出された。1950年には公職へ復帰。これ以降、経営者として辣腕を振るいながら、妻のかしこの世界的な文化事業をバックアップしていく。 ヴェネツィア国際映画祭に、黒澤明監督の『羅生門』を携えて参加し、グランプリを獲得(川喜多記念映画文化財団はこのように紹介しているが、川喜多長政がヴェネツィア映画祭に出席していないことが判明している) 1964年10月28日、藍綬褒章受章 1968年3月28日、フランスからレジオンドヌール勲章シュヴァリエ 1973年11月3日、勲二等瑞宝章受章 イタリアからイタリア共和国功労勲章コンメンダトーレ 1981年5月24日、肝硬変により78歳で逝去。正四位に叙せられ、銀杯一組が賜与された。 張善琨は戦後もアジアの大プロデューサーであったが、東京で客死する。斎場で張を送る長政は「自分(川喜多)は上海にいる時は、いつ、どこで、撃たれて死ぬのかわからないと覚悟していた。そのときは君(張)をはじめ親しい中国の友人たちに護られて葬られるのだと想像していた。その自分が生き残って君を葬ることになるとは」と弔辞を述べたが、多くの参列者はこの二人の会話の意味がわからなかったとされる。1957年の青山斎場での出来事とされる。 ^ 平成24年 6月28日議会全員協議会会議録 鎌倉市議会議事録 ^ “東宝(株)『東宝五十年史』(1982.11)”. 渋沢社史データベース. 渋沢栄一記念財団情報資源センター. 2024年1月13日閲覧。 ^ 東宝 編『東宝75年のあゆみ 1932 - 2007 資料編』(PDF)東宝、2010年4月、220頁。 川喜多記念映画文化財団 鎌倉市川喜多映画記念館 『川喜多長政』 - コトバンク FAST ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data ドイツ アメリカ ドイッチェ・ビオグラフィー 映画関連の人物 20世紀日本の実業家 東京都出身の人物 正四位受位者 勲二等瑞宝章受章者 藍綬褒章受章者 レジオンドヌール勲章シュヴァリエ受章者 イタリア共和国功労勲章受章者 私の履歴書の登場人物 東京都立戸山高等学校出身の人物 東京都区部出身の人物 1903年生 1981年没 2024/11/20 16:58更新
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kawakita nagamasa
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