手島右卿の情報(てしまゆうけい) 書家(書道) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
手島 右卿さんについて調べます
■名前・氏名 |
手島右卿と関係のある人
柿沼康二: 5歳より筆を持ち、父・柿沼翠流をはじめ、手島右卿、上松一條に師事。 辻桃子: 2007年、第十一句集『龍宮』により第2回手島右卿賞特別賞受賞。 柿沼康二: 受賞歴として第4回手島右卿賞、第6回国井誠海賞、独立書展特選、独立書人団50周年記念賞、毎日書道展/毎日賞(2回)など。 加藤郁乎: 第1回(1998年度)手島泰六 『手島右卿論』 井上有一: 1958年に開かれたブリュッセル万国博覧会「近代美術の50年展」に手島右卿とともに日本を代表する書家として作品を出展する。 片岡鶴太郎: 2015年3月、書家として第10回手島右卿賞を受賞した(作品「夜」)。 金子鴎亭: 比田井天来の周囲には、後に前衛書を率いた上田桑鳩や比田井南谷、少字数書を提唱した手島右卿などがおり、新しい書表現について議論が交わされていた。 |
手島右卿の情報まとめ
手島 右卿(てしま ゆうけい)さんの誕生日は1901年11月3日です。高知出身の書家(書道)のようです。
1987年に亡くなられているようです。
手島右卿のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)手島 右卿(てしま ゆうけい、1901年(明治34年)11月3日 - 1987年(昭和62年)3月27日)は、日本の書家、文化功労者。高知県安芸町(現安芸市)出身。本名・南海巍(なみき)。ニックネームは「ライオンの右卿」。 妻は仮名書家の手島小華、長弟と次弟は、いずれも書家の高松慕真と南不乗。 1915年(大正4年)、川谷尚亭の門をたたき、師逝去の後は1935年(昭和10年)に上京、比田井天来の門下となる。その後、大日本書道院第1回展では天来の単独審査を手伝うなど、次第に頭角を現し、以後日展の参事や審査員、文部省指導書編集委員などを歴任。 常々、「書は人間の霊知の所産である」として、東洋的な精神性と現代感覚を融合した「象書」を創始。空海などの古法を基に確立された小字数書の能書家である。1958年(昭和33年)、ブリュッセル万国博覧会「近代美術の50年展」に日本代表として富岡鉄斎、梅原龍三郎、井上有一とともに指定出品された「抱牛」は、最高殊勲金星を受け、一躍世界の注目を集め、書道芸術の国際的評価を高めるきっかけとなる。1985年(昭和60年)、中国・北京革命歴史博物館にて「日本手島右卿書法展」を開催、観客11万人を動員。 専修大学教授、日本書道専門学校初代校長。高知県名誉文化賞、安芸市名誉市民、文化功労者。片山子鶴など多くの弟子が書家として活躍する。 1901年(明治34年)高知県安芸郡安芸町(現安芸市)に生まれる。本名、南海巍(なみき) 1915年(大正4年)川谷尚亭の門に入る。 1933年(昭和8年)南海書道会を興し、競書誌「南海書聖」を主宰する。 1935年(昭和10年)上京。比田井天来の門に入る。書道芸術社同人に推される。 1937年(昭和12年)第1回大日本書道院展で特別賞を受賞。同院参事、審査員、書学院教授に任じられる。 1939年(昭和14年)蒼龍社を結成する。「尚亭先生書話集」を編集発刊する。 1942年(昭和17年)興亜書道展審査のため南京へ出張。 1946年(昭和21年)終戦後直ちに書壇再建運動に奔走。(財)日本書道美術院結成に参画、理事企画部長となる。 1947年(昭和22年)書道芸術院結成。総務理事となる。 1948年(昭和23年)毎日新聞社主催第1回日本総合書芸展(現毎日書道展)が開かれ、運営委員、審査員となる。第4回日展に第五科「書」が新設され、委嘱出品。 1950年(昭和25年)日本書作院結成。副会長に推される。第6回日展審査員。 1951年(昭和26年)(社)日本書道連盟設立。理事となる。 1952年(昭和27年)独立書道会(現独立書人団)を結成。代表となる。 1955年(昭和30年)欧州巡回「墨の芸術展」と、翌年のアメリカ巡回展に出品。 1957年(昭和32年)朝日新聞社主催第1回「現代書道二十人展」に依嘱出品(以降連続出品)、サンパウロ・ビエンナーレ展に日本代表書家として、初めて参加出品。 1958年(昭和33年)ブリュッセル万国博覧会「近代美術の五十年展」に日本代表として特別指定出品。最高殊勲金星を受賞。 1959年(昭和34年)「右卿臨書集成」を発刊する。 1961年(昭和36年)訪中書道使節として、中国各地を歴訪。 1966年(昭和41年)専修大学に文学部が新設され、初代教授に就任。日本書道専門学校を創設して、初代校長となる。 1967年(昭和42年)東京三越本店で個展開催。同展に対し、翌年書道界初の「毎日芸術賞」が贈られる。 1969年(昭和44年)ベルギー国主催「右卿とその一門展」開催。外務省第1回訪欧文化使節団長として渡欧。高知県安芸市名誉市民に推挙される。 1970年(昭和45年)講談社刊「現代書事典」の「少字数・象書篇」を監修。日本万国博覧会(大阪)世界美術館に「飛」を指定出品する。 1971年(昭和46年)毎日新聞社主催による「書業五十年手島右卿自選展」を東京で、翌年大阪で開催。 1973年(昭和48年)東京で「手島右卿名筆展」を、続いて翌年愛知と高知で個展を開催。 1975年(昭和50年)パリで「右卿とその一門展」を開催。外務省第2回訪欧文化使節団長として渡欧。 1976年(昭和51年)東京で「右卿新作小品展」を開催。勲三等旭日中綬章を受ける。 1981年(昭和56年)静岡で「巨匠手島右卿書作展」を開催。 1982年(昭和57年)アメリカ、ミネソタ州セントポール、イリノイ州エバンストンで「手島右卿とその一門展」を開催。文化功労者顕彰を受ける。 1985年(昭和60年)中国、北京革命歴史博物館中央大正庁で日本人として初の「日本手島右卿書法展」を開催。 1987年(昭和62年)鎌倉市で没する(享年85)。墓所は八王子市の富士見台霊園。
一度決めたら曲げない土佐いごっそうの気質だった。 シャツのボタンを自分で止められないなど一見不器用だが、筆を持つとその筆が魔物のように動きだす。普段は激昂しやすいが、生み出される作品は繊細かつ緻密であり、弟子たちや周りもそのギャップに魅了された。 無類の酒好きとして知られる。朝まで飲み歩くこともしばしばで、家計は常に火の車であった。 気性が大変荒く、相手が誰であろうと意に沿わぬことははっきりと主張した。豊道春海などとも議論を交わし、口喧嘩に発展することもあったという。春海も右卿の実力を認め、1971年(昭和46年)、豊道春海賞を贈った。右卿は最初は断ったが、春海の遺言であることを知り、これを受賞した。 「書は音楽でもある」と発言したことで有名。 空海に心酔し、空海の書法を好んで研究した。 筆の数は他の大家と比べると少なく、20本ほどの良質の筆を生涯大切に使用した。 右卿臨書集成 全11巻 白亜書林、1956-1957 右卿唐詩帖 五禾書房、1958 手島右卿 筑摩書房、1971(現代書道教室) 手島右卿書法 尚学図書、1980 臨書のすすめ 日貿出版社、1986 手島右卿臨書集 巻1-2 西東書房、1987 不滅の書人手島右卿と語る 駒井鵞静 雄山閣出版、1989 手島右卿大観 全10巻 独立書人団、1997 手島右卿大観 別巻 1-2 独立書人団、2000 手島右卿大観 第2期 第11-20巻 独立書人団、1998-1999 手島右卿大観 第3期 第21-30巻 独立書人団、1999-2000 ^ “創立者 手島右卿|作品・右卿語録・略年譜”. www.dokuritsu.or.jp. 公益財団法人 独立書人団. 2022年4月29日閲覧。 ^ “手島右卿”. www.city.aki.kochi.jp. 安芸市立歴史民俗資料館. 2022年4月29日閲覧。 手島泰六『右卿幻夢』中野出版企画、1993年 手島泰六『右卿復活』高知新聞社、1998年 手島泰六『右卿外伝』高知新聞社、2004年 書展 日本の漢字書家一覧 『手島右卿』 - コトバンク (公財)独立書人団 日本書道専門学校 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research IdRef この項目は、美術家・芸術家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:美術/PJ:美術)。 日本の能書家 文化功労者 専修大学の教員 高知県出身の人物 勲三等旭日中綬章受章者 1901年生 1987年没 2024/11/26 07:16更新
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teshima yuukei
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