渋沢栄一の情報(しぶさわえいいち) 実業家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
渋沢 栄一さんについて調べます
■名前・氏名 |
渋沢栄一と関係のある人
渋澤健: 巨人・渋沢栄一の富を築く100の教え(2007年、講談社BIZ) ISBN 978-4062820523 渋沢敬三: 福祉学者、渋沢栄一記念財団理事、MRAハウス理事。 川上貞奴: 発起人代表の渋沢栄一の祝辞と、貞奴の訪米の経験に基づく日本人女性の地位向上を願うご挨拶を再現。 冨士眞奈美: 幼少期に住んでいた東京の自宅は、渋沢栄一の邸宅の真ん前にあった。 福地源一郎: 明治3年(1870年)、渋沢栄一の紹介で伊藤博文と意気投合して大蔵省に入り、また伊藤とともにアメリカへ渡航し、会計法などを調査して帰国。 増田信行: ^ 岩井良太郎『日本コンツェルン全書3:三菱コンツェルン読本』(1937年、春秋社、国立国会図書館)、渋沢栄一記念財団『渋沢社史データベース』、野村インベスター・リレーションズ『三菱重工業の歴史』、他。 岸信介: 岸は首相在任中ノーベル平和賞候補に推され、有賀長雄、渋沢栄一、賀川豊彦に続いて4人目のノーベル平和賞日本人候補者となった(母親が日本人のクーデンホーフ=カレルギー伯爵は除く)。 高松豊吉: 同年、東京瓦斯株式会社初代社長を務めていた渋沢栄一から懇請されて東京ガスの常務取締役を務め、1909年から1914年まで東京ガス社長に就任して技術指導に当たった。 福地源一郎: 明治27年(1894年)に渋沢栄一が『徳川慶喜公傅』を桜痴に書かせようとしたが、桜痴の多忙と、その後の病気で完結せず、死後に荻野由之によって完成した。 市河三喜: 前妻の晴子(1896年 - 1943年)は穂積陳重と歌子(渋沢栄一長女)の三女で、東京女子高等師範学校を卒業した後、1916年10月に19歳で市河三喜と結婚した。 渋澤健: 渋沢栄一 100の訓言(2010年、日本経済新聞出版社) ISBN 978-4532195533 倉田雲平: “月星ゴム(株)『月星ゴム90年史 : 明治6年創業』(1967.10) - 6”. 公益財団法人 渋沢栄一記念財団. 2021年7月11日閲覧。 徳富蘇峰: また、後藤新平、勝海舟、伊藤博文、森鷗外、渋沢栄一、東条英機、山本五十六、正力松太郎、中曽根康弘とも交遊があった。 蜂須賀茂韶: この間、渋沢栄一と企業を設立。 大佛次郎: 若き日の渋沢栄一をえがく 渋沢敬三: 1925年(大正14年) - 長男・渋沢雅英(渋沢栄一記念財団相談役(初代理事長)、MRAハウス理事)誕生。 柴俊夫: 雄気堂々 若き日の渋沢栄一 (1982年、NHK) - 渋沢喜作 塙保己一: 明治42年(1909年)、井上通泰が文部省の倉庫で『群書類従』の版木を発見し、これを管理・保存する目的で渋沢栄一、芳賀矢一、塙忠雄が温故学会を創設した。 相馬半治: 祝は台湾に純民間の製糖会社を作るのは時期尚早と難色を示すが、小川は民政長官の後藤新平の説得に成功、結果、1906年(明治39年)、渋沢栄一を相談役、小川を取締役社長、相馬を専務として明治製糖が設立された。 渋沢敬三: 1900年(明治33年) - 祖父の渋沢栄一が男爵に叙される。 高松豊吉: 同年、実業家で東京瓦斯株式会社初代社長を務めていた渋沢栄一から懇請されて東京ガスの常務取締役を務め、1909年(明治42年)から1914年(大正3年)まで第二代東京ガス社長に就任した。 三島通庸: なお、2月から4月まで折田の下で学んでいた渋沢栄一の面識を得ている。 井上馨: 仕事上で特に深く関わった人物は渋沢栄一、益田孝、藤田伝三郎、貝島太助、杉孫七郎、杉山茂丸ら多数。 渋沢秀雄: 渋沢栄一の四男として兜町の洋館で生まれる。 水野錬太郎: 神田の共立学校を経て、大学予備門(のちの一髙)に入学、帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を明治25年に卒業、穂積陳重教授の推薦で渋沢栄一の第一銀行に就職するが、明治26年梅謙次郎教授の勧誘により農商務省鉱山局に入る。 平岡熙: 公益財団法人渋沢栄一記念財団. “汽車・自動車製造業|渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図|渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団”. 渋沢栄一関連会社名・団体名変遷図 嘉納治五郎: 1879年(明治12年)7月、渋沢栄一の依頼で渋沢の飛鳥山別荘にて、来日中のグラント前アメリカ大統領の前で、学友・五代竜作を相手に柔術を演武した。 穂積陳重: 1882年(明治15年)、穂積姓に復帰して渋沢栄一の長女歌子と結婚した。 武智健二: 九転十起の男〜浅野総一郎の青春(2006年) - 渋沢栄一 役 アルベール=カーン: ^ 『渋沢栄一 伝記資料』第25巻 目次詳細 1897年10月17日 p.646-647 |
渋沢栄一の情報まとめ
渋沢 栄一(しぶさわ えいいち)さんの誕生日は1840年3月16日です。埼玉出身の実業家のようです。
現在、結婚、兄弟、事件、引退、病気、家族、テレビ、ドラマ、映画、再婚に関する情報もありますね。今年の情報もありました。1931年に亡くなられているようです。
渋沢栄一のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)渋沢 栄一(しぶさわ えいいち、旧字体:澁澤 榮一、1840年3月16日〈天保11年2月13日〉- 1931年〈昭和6年〉11月11日)は、日本の実業家。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。 江戸時代末期に百姓(豪農身分)から武士(一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり、明治政府で官吏となる。民部省を経て直属の上司である井上馨(大蔵大輔)の下で、吉田清成(大蔵少輔)らと共に造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。 井上馨と共に退官後は実業界に転じて実業家の肥田理吉らと日本経済の在り方を論じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった。そのうち企業は約500社 にもおよび、「日本資本主義の父」 、「東の渋沢、西の五代」とも称され、薩摩藩士・五代友厚(才助)と双璧を成した。 同時に、東京養育院、社会福祉協議会等の福祉事業、東京慈恵会、聖路加国際病院等の医療事業、東京大学文学部新聞研究室(現:東京大学大学院情報学環教育部)、商法講習所(現:一橋大学)、大倉商業学校(現:東京経済大学)、高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)等の実業教育、東京女学館などの女子教育、台湾協会学校(現:拓殖大学)の設立、二松學舍(現:二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。また、孔子とその門人の言行録『論語』を基にした道徳経済合一論を論じた。 武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)に渋沢市郎右衛門(1809年 - 1872年) とゑい(1811年 - 1874年)の姉と妹を持つ長男として天保11年(1840年)2月13日に誕生した。 渋沢家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営して米、麦、野菜の生産も手がける百姓だった。原料の買い入れから製造、販売までを担うため、一般的な農家と異なり、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められた。栄一も父と共に信州や上州まで製品の藍玉を売り歩くほか、原料の藍葉の仕入れ調達にも携わった。14歳の頃からは単身で藍葉の仕入れに出かけるようになり、こうした経験がヨーロッパ視察時に、近代的な経済システム、諸制度を理解吸収する素地となり、また後の現実的な合理主義思想の形成にも繋がったともいわれる。 一方で、5歳の頃より父から漢籍の手ほどきを受け、7歳の時には従兄の尾高惇忠の許に通い、『論語』を始め四書五経や『日本外史』を学ぶ。剣術は元川越藩剣術師範で近隣に在郷の大川平兵衛より神道無念流を学んだ。安政3年(1856年)16歳の時、領主代官のいる岡部藩の岡部陣屋で御用金の上納を命じられ、大いに反発したと伝わる。安政5年(1858年)18歳の時、惇忠の妹で従妹にあたる尾高千代(1841〜82)と結婚した。 文久元年(1861年)、江戸に出て海保漁村の門下生となる。また北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。その影響から尊皇攘夷の思想に目覚め、文久3年(1863年)に共に従兄弟である尾高惇忠や渋沢喜作らと、高崎城を乗っ取って武器を奪い、横浜外国人居留地を焼き討ちにしたのち長州藩と連携して幕府を倒すという計画を立てるが、同じく従兄(惇忠の弟)の尾高長七郎の懸命な説得により中止する。 親族に累が及ばぬよう父より勘当を受けた体裁を取り、喜作と連れ立って京都に出るが、八月十八日の政変直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により喜作と共に一橋慶喜に仕えることになる。士分となった栄一は篤太夫、喜作は成一郎の通称を名乗る。当時、慶喜は朝議参与として京都に常駐していた。仕官後、慶喜が朝廷から禁裏御守衛総督を拝命するが、御三卿は自前の兵力を持っていないため兵力調達が急務となり、栄一らが一橋家領内を巡回して農兵の募集で手腕を発揮した。 慶応2年(1866年)12月、主君の慶喜が将軍となったことに伴って幕臣となる。フランスの首都パリで行われる万国博覧会(1867年)に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・清水家当主の徳川昭武の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書を得て、フランスへと渡航する。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。その際に通訳兼案内役として同行していたアレクサンダー・フォン・シーボルトより語学や諸外国事情を学び、シーボルトの案内で各地で先進的な産業・諸制度を見聞すると共に、近代社会のありように感銘を受ける。フランス滞在中に、幕府における役職は御勘定格陸軍付調役から外国奉行支配調役となり、その後開成所奉行支配調役に転じている。パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学する予定であったが、大政奉還に伴い、慶応4年(1868年)5月には新政府から帰国を命じられ、昭武の水戸徳川家相続の件もあり、昭武と共に9月4日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年11月3日(12月16日)に横浜港へ帰国した。 一年半ほどの滞欧中に洋装を整え、当時の日本男子が結っていた髷を切り、送られてきたその写真を見た妻は嘆いたという。渋沢は後年、山高帽をかぶり、それを国産化する日本製帽の操業にも携わり、日本で男性が帽子着用を好む文化の定着に一役買った。この経験を通じ、ヨーロッパ文明に驚き、また、人間平等主義にも感銘を受けた。この見聞した経験が、栄一の人生を大きく変えた。 帰国後、駿府の宝台院(現所在地は静岡市葵区常磐町二丁目)に謹慎していた徳川慶喜と面会し「これからは、お前の道を行きなさい」との言葉を拝受するも旧恩に報いるため、駿府(静岡)に留まり静岡藩に出仕した。静岡ではフランスで学んだ株式会社制度を実践することや、新政府からの借入金返済のために、勘定頭の平岡準に相談し、明治2年(1869年)1月には商法会議所を設立した。この商法会議所では銀行的業務と物産販売を兼ね、小野組で糸店を担う古河市兵衛に取り扱いを依頼することもあった。 1869年(明治2年)10月、明治新政府からの招状が静岡藩庁に届き、栄一は大久保一翁に相談し東京へ向かうと民部省租税正の辞令書を受ける。一度は辞任を決意するも、大隈重信らの説得で11月に出仕する。民部省内に改正掛が置かれると掛長となり、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わった。明治4年(1871年)年7月27日に民部省が大蔵省に統合されることに伴い、芳川顕正紙幣頭の下で大蔵権大丞となり、次いで大蔵大丞となる。1872年(明治5年)には大蔵省三等出仕となり、紙幣寮の頭に就任(同三等出仕は上野景範)。大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と連携して造幣寮の事務に勤しみ、ドイツで印刷された明治通宝(通称「ゲルマン紙幣」)を取り扱ったが、贋札事件の発生も少なくなかった。さらに、同年2月に起きた東京での大火からの再建を大蔵省が主導することとなり、井上馨、東京府参事の三島通庸らとともに煉瓦造りの街並みを計画した。しかし、予算編成を巡って大久保利通や大隈と対立し1873年5月7日、大蔵大輔井上馨や大蔵少輔吉田清成と共同で財政改革意見を建議し、建議書を『日新真事誌』などに掲載して論議を喚起した。明治6年(1873年)5月14日に井上馨と共に退官した。 この間、戊辰戦争を旧幕府側で戦い投獄されていた従兄の渋沢喜作の出獄を引き受け、大蔵省への仕官を世話し養蚕製糸事業調査の名目でヨーロッパ視察に送り出している。同じく戊辰戦争を幕府側で戦った従兄の尾高惇忠には富岡製糸場の初代場長として事業立ち上げを託している。 大蔵省を辞職した栄一は、井上馨やアレクサンダー・フォン・シーボルト、その弟のハインリヒ・フォン・シーボルトの協力も得ながら明治6年(1873年)自ら設立を指導した第一国立銀行(後の第一銀行、第一勧業銀行、現:みずほ銀行)の総監役に就任する。大株主の三井組、小野組の頭取2名の上に立って、日本最初の銀行の創業を担う。明治7年(1874年)に二大株主の一つ小野組が破綻したことで、新銀行は経営危機に陥った。三井組は単独経営を志向するが、栄一は小野組の古河市兵衛の誠実な対応にも助けられ、被害を最小限に留め、三井組による銀行経営の独占を退けた。自ら単独の第一銀行頭取となり、公益に資する民間取引を軸に据えた銀行の路線を確立する。財閥の機関銀行的な運営とは一線を画し、新興の商工業者の創業指導や資金支援を積極的に展開する。 また、栄一は全国に設立された多くの国立銀行の指導、支援を第一国立銀行を通じて行った。明治10年(1877年)、宇和島伊達家を主な出資先とする第二十国立銀行(後、第一銀行と合併)の設立には相談役を引受け、最終的には第一銀行が吸収合併して経営を引き取り、その深川支店を栄一自邸跡地に移した。 明治25年(1892年)、小口の貯蓄を集める貯蓄銀行の制度ができると、栄一はじめ第一銀行役員の出資により東京貯蓄銀行(後の協和銀行、現:りそな銀行)を設立し、栄一は取締役会長を務めた。 栄一の郷里の埼玉では、明治26年(1894年)に熊谷銀行(後、武州銀行、埼玉銀行、現:埼玉りそな銀行)の設立発起人、明治32年(1899年)設立の黒須銀行(後、武州銀行、埼玉銀行、現:埼玉りそな銀行)では顧問役を引受けている。栄一の頭取退任後ではあるが大正8年(1919年)の武州銀行設立にあたり、第一銀行は栄一の甥で娘婿の尾高次郎監査役を初代頭取に送り出し、設立を支援した。その後、武州銀行は栄一が設立を支援した熊谷銀行、黒須銀行を合併している。 半官半民の特殊銀行が開設されるようになると、栄一は明治29年(1896年)に日本勧業銀行(後、第一勧業銀行、現:みずほ銀行)、明治33年(1900年)に日本興業銀行(現:みずほ銀行)、北海道拓殖銀行、いずれにおいても設立委員として開業を指導した。 明治6年(1873年)、栄一は大蔵省在職時から計画を練っていた抄紙会社(現:王子ホールディングス、日本製紙)の設立認可を得て経営を始める。同年、東京府の瓦斯掛(現:東京ガス)の委員となりガス事業を計画。明治8年(1875年)に廻米、生糸貿易の澁澤喜作商店の開業を支援。明治9年(1876年)、平野富二の石川島平野造船所(現:IHI、いすゞ自動車、立飛ホールディングス)に対し個人出資や第一国立銀行の融資で創業を支援。同年、秀英舎(現:大日本印刷)の印刷業創業や、『中外物価新報』(現在の『日本経済新聞』)の創刊を支援した。 明治12年(1879年)に東京海上保険会社(現:東京海上日動火災保険)創立発起人および相談役に就き、保険業創業を支援。明治14年(1881年)に日本鉄道会社(現:東日本旅客鉄道)理事委員となり設立に参画。明治15年(1882年)には倉庫会社・均融会社の設立出願総代、監査役。同年、共同運輸会社の創立発起人となり三菱財閥の日本郵船による海運独占に対抗した(後に両社は合併)。さらに同年には東京電灯会社(現:東京電力ホールディングス)発起人、委員、大阪紡績会社(現:東洋紡)発起人および相談役となった。明治16年(1883年)、工部省深川工作分局の浅野総一郎への払下げによる浅野セメント工場(現:太平洋セメント)創業を支援。明治18年(1885年)、ジャパンブリュワリー(現:キリンホールディングス)設立の理事員を務めた。 明治20年(1887年)、清水組(現:清水建設)の後継者が幼少のため相談役に就き経営にあたる。同年、高峰譲吉の東京人造肥料会社(現:日産化学)の起業を創立委員長として支援したほか、東京製綱会社(現:東京製綱)創立委員、日本煉瓦製造会社理事長、東京ホテル(現:帝国ホテル)発起人総代および理事長、札幌麦酒会社委員長、後に札幌麦酒㈱ 取締役会長(現:サッポロホールディングス)、後に大日本麦酒㈱(現:サッポロホールディングス、アサヒグループホールディングス)設立総会議長 取締役、日本土木会社(現:大成建設)発起人総代、委員長。明治21年(1888年)、古河市兵衛の足尾鉱山組合(現:古河機械金属、古河電気工業、富士通、富士電機、横浜ゴム)の設立を支援。明治25年(1892年)、東京帽子(現:オーベクス)取締役会長。明治28年(1895年)東洋経済新報の創刊を支援、日本精糖(現:大日本明治製糖)発起人および取締役。明治29年(1896年)、汽車製造(現:川崎重工業)創立委員および監査役、浦賀船渠(現:住友重機械工業)相談役、東京建物設立発起人を務めた。 栄一は汽車製造だけでなく、日本鉄道など45の鉄道会社の創立・経営に関わった(小川裕夫『渋沢栄一と鉄道』天夢人)。豊島線(現在の山手線の一部)開業前には、目の前を鉄道が通ることによる騒音を嫌って旧主の慶喜が巣鴨から小石川へ転居する一幕もあった。 明治30年(1897年)、澁澤倉庫部(現:澁澤倉庫)を自邸倉庫を使った家業として創業。 明治31年(1898年)、北海道十勝清水町熊牛地区に開墾を目的とした十勝開墾合資会社を設立。明治39年(1906年)、京阪電気鉄道(現:京阪ホールディングス)創立委員長、帝国劇場会社(現:東宝、東京会館)創立委員長。 明治40年(1909年)、日本皮革(現:ニッピ)発起人、相談役。この他にも多種多様な企業の設立や運営に関わった。 明治10年(1877年)に択善会(後に東京銀行集会所、東京銀行協会に発展)を組織して、銀行経営者の連携により、政府に対して各種の提言を実施。明治11年(1878年)には渋沢喜作、大倉喜八郎、三野村利助、益田孝らの財界人を誘い、東京商法会議所(後に東京商工会議所、日本商工会議所に発展)を設立して会頭に就任し、広く商工業者の輿論を形成して多様な財界活動を展開する。広く資本を集め事業を起こす合本主義の考え方を実践するためには、株式市場の創設が必須と明治11年(1878年)、東京株式取引所を設立。当初は債券取引が中心で、株式を公開する企業が少ない中、第一国立銀行の株式を率先して上場した。 明治7年(1874年)より、生活困窮者救済事業である養育院(現:東京都健康長寿医療センター)の運営に携わり、後に事務長、院長に就いた。幼少年や長期療養者ごとの分院や感化が必要な少年への学校を設置する等、終生この事業に係わり運営に心を砕いた。明治10年(1877年)には、佐野常民が西南戦争の傷病兵を敵味方無く救護する目的で博愛社が創立されると社員となり、後に同社が日本赤十字社と改称されると常議員となり、引き続き運営に関わった。明治17年(1884年)に高松凌雲が生活困窮者に無料で診療治療を行う事業のために設立した同愛社の幹事となり事業に協力した。 明治40年(1907年)東京慈恵医院(現:東京慈恵会)の相談役および委員長となり、財団化に尽力する。明治41年(1908年)、癌研究会(現:がん研究会、がん研有明病院)の設立にも尽力して副総裁となる。同年、中央慈善協会(後の社会福祉協議会)が発会し初代会長となる。 明治8年(1875年)、当時は実学教育に関する意識がまだ薄く、実学教育を実施する機関が無い事から森有礼の興した商業講習私塾を東京会議所が所管する商法講習所(のちに東京商科大学を経て、現在の一橋大学)とし、経営委員として運営を支援した。明治14年(1881年)から明治16年(1883年)まで東京大学において自ら講師として日本財政論を講義した。明治21年(1888年)には、工手学校(現:工学院大学)設立に際しても賛助員となり支援を行い、明治33年(1900年)には大倉喜八郎の大倉商業学校(現:東京経済大学)にも創立委員として協するなど実業教育の充実発展を継続して支援した。 まだ男尊女卑の風が強い当時にあっても女子への高等教育の必要性を唱え、明治20年(1887年)には伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立し、これを母体として東京女学館を設立。明治34年(1901年)の日本女子大学創立においても支援を行った。なお実業界引退後はそれぞれ館長、校長も引き受けている。 その他にも栄一は私学設立・運営への協力にも積極的で、明治21年(1888年)には新島襄の同志社の大学設立の基金の募集や管理に尽力。明治31年(1908年)の早稲田大学の理工系への事業拡大計画に際しても、基金管理委員長として協力した。明治33年(1900年)、台湾協会学校(現:拓殖大学)の学校設立委員会委員に就任、学校設立に尽力し、設立後の明治36年(1903年)には大講堂において学生向けに演説を行った記録がある。明治34年(1901年)に朝鮮に開校した日語学校の関城学堂設立に向けての構想を、大日本海外教育会の有力後援者のひとりとして尽力した。 栄一は国民への娯楽提供や文化・生活水準向上にも意を注いだ。明治23年(1890年)に東京・浅草での「日本パノラマ館」開業を主導した一人であった。また後年、広く利用できる社交の場が必要と東京会館開業(1922年)を後押ししたほか、中流層が都市郊外で自然に触れながら生活できるようにと、パリの凱旋門広場をモデルに放射状・同心円状に区割りした田園調布の開発も進めた。 明治12年(1879年)、前アメリカ合衆国大統領グラント夫妻の訪日に際して東京商法会議所、東京府会に働きかけ、接待委員会を組織。福地源一郎と共同で接待委員総代を務めて歓迎行事を準備し、飛鳥山の自邸(迎賓接待用の別邸)でも歓迎会を実施した。明治14年(1881年)にはハワイ王国のカラカウア王の招待会を飛鳥山邸にて開催した。 明治26年(1893年)、栄一は海外からの賓客に対応するための組織として「貴賓会」を設立して幹事長となる。こうした事業は1912年のジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTB)設立に繋がる。明治31年(1898年)、大韓帝国(韓国)を実地視察、韓国皇帝高宗に謁見。韓国のインフラ整備を支援し近代化を進め、両国間の貿易を通じて、善隣友好関係を結ぼうとの考えから、京釜鉄道、京仁鉄道の敷設に尽力。 明治35年(1902年)に米欧を実地視察し、各地の商工会議所メンバーと交流したほか、セオドア・ルーズベルト米国大統領とも会談。明治36年(1903年)、大隈重信らと共に日印協会の設立に携わる。後に実業界引退後は第三代会長も務めた。明治41年(1908年)、キリスト教系慈善団体の救世軍創設者のウィリアム・ブース来日時には、飛鳥山邸で歓迎午餐会を開いた。 明治42年(1909年)6月6日に数え70歳の古稀に達し、実業界からの引退を表明。第一銀行と東京貯蓄銀行(第一銀行系の貯蓄銀行)を除く61の会社役員を辞任した。銀行経営は後継者の佐々木勇之介が担い、栄一は民間外交や教育、福祉、医療等に軸足を移した。大正5年(1916年)、数え77歳の喜寿には第一銀行頭取も辞任している。その後は社会事業や道徳普及運動、民間外交などに注力していく。 明治42年(1909年)に渡米実業団を組織し団長として、全国の商業会議所会頭を率いて訪米。ウィリアム・タフト大統領と会見する他、3ヵ月かけてアメリカ各地を訪ね、貿易摩擦の解消、相互理解の進展に努めた。明治45年(1912年)にはニューヨーク日本協会協賛会を創立して名誉委員長を引き受けた。同年のアメリカ・カリフォルニア州における外人土地所有禁止法に見られる排日(日本移民排斥)運動などに対し、アメリカ人の対日理解促進のためアメリカ報道機関へ日本のニュースを伝える通信社の設立を提案した。ロイターの障壁は厚かったが、設立した国際通信社は現在の時事通信社、共同通信社の起源となった。 大正2年(1913年)に来日した中華民国国民党党首孫文を民間を代表して出迎える。大正3年(1914年)には、日中経済界の提携のため中国を訪問した。 大正4年(1915年)、パナマ太平洋博覧会のため渡米して各地を歴訪し、ウィルソン大統領と会見した。大正5年(1916年)には日米関係委員会を発足させて常務委員に就任。大正6年(1917年)には日米協会を創立して名誉副会長就任。第一次世界大戦後の大正9年(1920年)には国際連盟協会を創立して会長に就任。大正10年(1921年)、ワシントン軍縮会議出席のため訪米し、ウォレン・ハーディング大統領と会見した。 大正13年(1924年)、栄一はポール・クローデル駐日フランス大使と協力して日仏交流の拠点として日仏会館を発足させ、理事長となる。大正15年(1926年)には日本太平洋問題調査会を創立して評議員会会長となった。昭和2年(1927年)、日本国際児童親善会を設立し、アメリカの人形(青い目の人形)と日本人形(市松人形)を交換し、親善交流を深めることに尽力している。昭和6年(1931年)には中国で起こった水害のために、中華民国水災同情会会長を務め義援金募集に尽力した。 栄一は1926年(大正15年)と1927年(昭和2年)のノーベル平和賞の候補にもなっている。 明治42年(1909年)、栄一は東京商科大学の申酉事件の調停を行い、東京大学への統合から同大学を守り、後援組織としての如水会の名誉会員となる。大正3年(1914年)、高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)の設立に際して評議員として協力、実業教育発展への思いを持ち続けた。 大正8年(1919年)、栄一に『論語』を講じた三島中洲没後、三島が創立した二松学舎の舎長、理事に就任する。大正10年(1921年)私塾 国士舘(現・国士舘大学)の維持委員に就任した。 女子教育についても、大正13年(1924年)に東京女学館館長、昭和6年に(1931年)日本女子大学校長と、創立から関わった2校のトップも引き受けている。 明治44年(1911年)、済生会の寄附金募集世話人、顧問、評議員となり恩賜財団設立に尽力。大正2年(1913年)、北里柴三郎の日本結核予防協会に評議員として協力。大正3年(1914年)、聖路加国際病院の評議会副会長、会計監督に就く。大正9年(1920年)には知的障がい児の保護教育事業を行なう滝乃川学園の理事長に就任した。 大正末から昭和初期にかけて、聖路加国際病院評議会会長を務め、病院の発展のために院長のルドルフ・トイスラーと病院を熱心に支援した。 明治15年(1882年)に8時間労働制や年少者・女子の保護を柱とする工場法制定の検討が始まる。当初、栄一など経営側は「時期尚早」と強く主張していたが、後に必要性を認めて工場法は明治44年(1911年)公布、大正5年(1916年)に施行された。 1900年代当時、アメリカ西海岸では日系移民排斥運動が広がり始めていた。労働者は低賃金の移民が自分たちの賃金低下につながると警戒。アメリカ労働総同盟(AFL)などが、移民排斥運動を組織するようになった。渋沢を含む日米の経済人や有識者は、対応策として日本の労働組合代表が渡米し、アメリカの労働組合代表との話し合いにより、関係改善のきっかけにすることを考え、栄一は友愛会の鈴木文治に渡米を依頼した。鈴木は、これに応じて大正4年(1915年)、吉松貞弥と共に渡米した。 日本政府も、国際労働機関(ILO)にならって労使対話の場をつくり、労働運動の過激化に歯止めをかけようと協調会設立を構想、栄一がその立ち上げを担った。栄一は鈴木文治に協調会の発起人に加わるよう依頼した。鈴木は、参画の条件として、協調会が治安警察法17条(労働者の諸権利の制限)の撤廃と労働組合法の制定を提唱することなどを要求したが、栄一は協調会としてはまとまりそうもないと回答。これにより鈴木は「労働組合抜きの協調主義」と批判して入会を拒絶した。鈴木の批判に個人的に賛同していた栄一は、協調会の改革に着手。当初の理事らを更迭し、労働組合に理解がある人物を招聘した。その中心的な存在は内務官僚であった添田敬一郎で、彼は、約10年にわたって常務理事として協調会の運営を担った。 鈴木文治は、渋沢・添田の改革を評価し、一定の協力関係を持つようになった。協調会本部(後の労働委員会会館にあった)には図書館や会議室が併設され、労働組合が図書館を利用、会議室で大会を開催した。 協調会は、労働問題の調査・研究、労働者教育、人材育成を行うと共に、労使紛争の解決にも関わった。昭和2年 - 3年(1927年 - 1928年)にかけて起きた野田醤油労働争議は鈴木文治や松岡駒吉が指導したが、渋沢は添田と松岡を呼んで解決を促し、協調会の調停で争議は終結した。 明治42年(1909年)5月30日、嘉納治五郎が運営する柔道の総本山・講道館の財団法人化に際し、推されて監事となる。以降、栄一は没するまで終身、講道館監事を務める。 大正6年(1917年)、自然科学の研究機関である理化学研究所(理研)設立に際し設立者総代となる。大正7年(1918年)、旧主慶喜の事績を正確に後世に伝えたいとの思いから『徳川慶喜公傳』を龍門社より刊行。大正7年(1918年)、田園都市株式会社設立(現:東急電鉄)の発起人となり、都市近郊の住宅開発の事業化を後援した。 大正8年(1919年)、労働争議の活発化が想定される中、労使協調を推進するための官民組織として「協調会」を設立し副会長となる。大正12年(1923年)、漢学振興を目的に帝国議会で設立が決議された大東文化協会(現:大東文化大学)の評議員に就任。 栄一は大正12年(1923年)の関東大震災に際し、政府や東京市に臨時対応を献策しつつ、自ら被災者に供給するための食糧を自費で近県から取り寄せ配給を行った。協調会を通じた罹災者収容、炊き出し、災害情報板設置、臨時病院確保等の対策を実行。また救済事業資金調達のため、大震災善後会を結成して義援金集めにも奔走し、栄一と交流のあったアメリカの実業家からも多くの義援金が寄せられた。政府帝都復興審議会の委員にも就き、議論をリードし復興都市計画をまとめる事にも尽力した。 昭和6年(1931年)11月11日、栄一は老衰の為死去した。享年92(91歳没)。 栄一は数カ月前より大腸狭窄症を発症しており、10月には自邸で開腹手術を受けていた。栄一の逝去の報に接し、弔問の客がひきもきらなかったと伝えられている。当日午後には昭和天皇の勅使、香淳皇后と貞明皇太后の使者が差し遣わされた。 14日、通夜に際しても勅使、御使が遣わされ、栄一の事績を称えた御沙汰書が下賜された。栄一の葬儀は15日に青山葬儀場にて執り行われ、飛鳥山邸から青山までの葬送の列を沿道で多くの人が見送った。 法名は泰徳院殿仁智義譲青淵大居士。墓所は谷中霊園渋沢家墓地。 幼名は市三郎、栄二郎、栄次郎もしくは栄治郎。のちに美雄、栄一郎、仁栄、篤太夫、篤太郎などと名乗る。栄一の読みが「ひでかず」とされることもある。尾高惇忠から青淵の号をもらい、生涯用いた。 明治9年(1876年)、居宅を深川区福住町に定め、その後の転居後もここを終生本籍地としており、明治22年(1889年)から同37年(1904年)の15年間にわたり深川区会議員と区会議長を務め、地域の発展に深く意を用いた。 日本で初めての国会開催に先立つ明治23年(1890年)7月の第一回衆議院議員選挙では、栄一本人は立候補していなかったものの人気は高く、東京5区(本所区、深川区)にて94有効票を獲得し、次点となった。一方で、同年9月29日には勅選で貴族院議員に選ばれる事となり、同年12月15日の第1回帝国議会には貴族院議員として貴族院本会議に出席した。しかし、以降は一切議会には出席せず、翌年明治24年(1891年)10月29日 には辞任している。 明治34年(1901年)5月16日、旧知の井上馨に組閣の大命が下った際には、真っ先に大蔵大臣としての入閣を求められたが、これも辞退している。断られた井上は、栄一が蔵相でなければ首相を引き受ける自信がないとして直ちに大命を拝辞、井上内閣は幻に終わっている。 明治19年(1886年)、深川福住町の渋沢邸に寄宿し栄一に私淑する青年達が勉学に努め、成果を発表する場として龍門社が結成されたがやがて栄一の思想に賛同し、栄一を慕う経営者や企業幹部が加入し、昭和初期には数千名の会員組織となった。 栄一は事業活動においても、広く国民全体が豊かになる事を希求し、一部特定の人々の利益を求める閥を成すことを嫌った。「渋沢財閥」という語が使われる事があるが、これは、栄一が死後の一族の財産争いを避けるため、渋沢同族会の資産管理会社として、実業界引退後の大正4年(1915年)に設立した渋沢同族株式会社を、太平洋戦争後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による財閥解体施策の中で、財閥の持株会社として誤認指定した事によるもの。その持株比率の実体は、家業として経営していた渋沢倉庫株の26%以外は、第一銀行株でも3%、他も数パーセントの保有に過ぎず、財閥と言われるようなものではなかった。 公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め事業を推進させるという考え方。広く資本を糾合するという事から、狭義には株式会社制度の意に使われるが、栄一は私益のための資本の集中では無く、公益の追求、より良い社会の実現のために、資本や人材を合わせる事の重要性を説いたものと解される。 栄一は大正5年(1916年)に『論語と算盤』を著し、「道徳経済合一説」という理念を打ち出した。幼少期に学んだ『論語』を拠り所に倫理と利益(=算盤)の両立を掲げ、経済を発展させ、利益を独占するのではなく、国全体を豊かにする為に、富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心がけた。 『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられている。 そして、道徳と離れた欺瞞、不道徳、権謀術数的な商才は、真の商才ではないと言っている。また、同書の次の言葉には、栄一の経営哲学のエッセンスが込められている。 幕末に栄一と同じ観点から備中松山藩の藩政改革にあたった陽明学者・山田方谷の門人で、「義利合一論」(義=倫理・利=利益)を論じた三島中洲と知り合うと、両者は意気投合して栄一は三島と深く交わるようになる。栄一は、三島の死後に彼が創立した二松学舎の経営に深く関わることになる。 また、実業家の肥田理吉(肥田琢司の弟)らと日本経済の在り方を論じた。 英国がアヘン戦争により中国を侵略し、香港を割取したことを書いた「清英近世談」を壮年期に読み、中国の次に日本を攻めるのでは考え、外国を嫌い、外国を学ぶことをしない攘夷派であった。しかし、28歳の時、主君であった徳川慶喜に命じられて、仏蘭西へ行く事となり、その船中で、同僚からタウンゼンド・ハリス(初代米国総領事)の事を詳しく聞く。ハリスは実に武士道的精神により行動していることを知り、アメリカが立派な国であることを覚り、親米派になった。晩年、聖路加国際病院の院長ルドルフ・トイスラー博士と同病院米国評議員のジョン・ウッド博士が栄一の飛鳥山邸である曖依村荘を来訪した際に、栄一はこのことと合わせ親米派になった理由を次にように語っている。 こうして、栄一はハリスのことを知って親米派となり、米国聖公会が設立し運営する聖路加国際病院評議員会長になるなど、米国人への援助を惜しまず、米国と日本の友好のために尽くすこととなった。 幕末期に一橋家に仕官し京都にいた頃、新選組の近藤勇、土方歳三らと在京薩摩藩士と内通している疑惑のあった大沢源次郎の捕縛の件で、接点があったことを自ら語っている。 幕末期に栄一がパリ万博派遣使節の一員として渡欧した際に、同行して語学を教えた通訳は、長崎出島の商館医で多くの蘭学者を育てたシーボルトの長男であり、当時在日英国公使館通訳をしていたアレクサンダー・フォン・シーボルトであった。栄一が日本に帰国後も交友を続け、弟のハインリッヒ・フォン・シーボルトと共に日本赤十字社設立を始め、栄一にたびたび協力をする間柄となった。 明治25年(1892年)12月11日、伊達宗城の病気見舞いの帰り道で、栄一は馬車で兜橋を渡ろうとするところを2人の暴徒に襲われる。暴徒は刀で馬車の窓ガラスを割ったため、栄一もその破片で左手に軽傷を負った。当時、この襲撃は、東京市水道の鉄管に渋沢が「品質や価格においても外国製に利がある」と海外製品を導入を主張したことで、国内の保守派の反感を買ったためとされる。栄一は自分を襲った暴漢2人を「罪を許したい」と語り、1人の暴漢が明治32年(1899年)に出獄したとき(もう1人は獄中にて死亡)、貧窮し困っていることを聞いて、人を介して資金を援助した。 渋沢は妾が当たり前の当時としても異常な好色であり妻妾を含めると総勢17人以上も子供が居た。さらに68歳という高齢で子供を作った。また妻と妾を同居させて世間を賑わせた。 1902年から1904年にかけて、大韓帝国にまだ中央銀行がなかった時代に、第一銀行は在韓支店において第一銀行券を発行していた。その1円、5円、10円券には頭取の栄一の肖像が描かれていた。韓国統監となった伊藤博文は韓国に中央銀行(後の朝鮮銀行)を設立して、中央銀行に発券機能を担わせる施策への転換を図るべく栄一に協力を求め、栄一もそれに応じた。 栄一は明治37年(1904年)の日露戦争開戦に際して、陸軍参謀本部の児玉源太郎から財界としての支援を依頼される。20億円という莫大な戦費の国民経済への影響から当初は難色を示していたが、児玉の話から、ロシア帝国の極東政策の意図を素早く的確に理解し、開戦止む無しとの考えに転換している。 関東大震災後の日本の言論界には、世の風潮が利己的で傲慢になったために、天が罰として自然災害を起こして警鐘を鳴らしたと受け止めるべきであるという、「天譴論」が流行したが、その口火を切ったのは渋沢だった。「天譴論」は腐敗したブルジョアや近代産業文明への批判と平等主義や自然回帰への賛美の思潮ともつながり、一種の流行語ともなった。皆が口にするに至って、かえって不自然さや偽善性を指摘する者も現れ、最初の主唱者渋沢も「天譴だという人は、本当にこれを天譴と思っているのでは無いかも知れませぬ」と苦言を呈するほどになった。 日本を代表する経済人として、また初代紙幣頭(後の印刷局長)として日本銀行券(紙幣)の肖像の候補者として何度も選ばれた。日本銀行券C千円券(1963年11月1日発行開始)では肖像候補として最終選考にまで残ったが、当時は偽造防止のため肖像には髭のある人物を使っていたことから、髭のない渋沢栄一を採用することは難しく採用されることはなかった。この際に作成された候補案のデザインはお札と切手の博物館で展示されている。後に偽造防止の技術が向上し、髭の無い女性も使えるようになったこともあり、令和6年度(2024年度)上半期に執行予定されている紙幣改定により、一万円札に渋沢の肖像が採用されることになった。 韓国では、日本の新一万円札に渋沢栄一の肖像が採用されるというニュースが伝わると、前述のことから韓国マスコミがこぞって否定的な反応を見せた。2019年4月10日の『ハンギョレ新聞』では「日本の新紙幣の人物は経済侵略の張本人」と報じ、日本政府が紙幣の肖像に渋沢栄一を採用したことが韓国人の感情を刺激するだろうと問題視している。この他にも、保守系の『中央日報』で同様に批判的な論調でこれを取り上げた。 栄一の出身地の埼玉県深谷市では、栄一の命月の11月が「渋沢栄一記念月間」に指定され、毎年イベントが催されている。 深谷市内にある煉瓦作りの「誠之堂」(せいしどう)は、渋沢栄一の喜寿祝いにと銀行員らが寄付して建て、東京都世田谷区から移築された。 埼玉県教育委員会が製作し、埼玉県子ども会育成連絡協議会が発行する『彩の国21世紀郷土かるた』の、「に」の札は「日本の産業育てた渋沢翁」となっており、埼玉を代表する歴史上の偉人、畠山重忠、塙保己一を詠んだ札と合わせて、三人札(役札:三枚揃えると10点となる札)とされている。また「え」の札は「栄一も食べたネギ入り煮ぼうとう」となっており、これは深谷ねぎが栄一の故郷の深谷の特産品であることと、煮ぼうとうが埼玉県北部の郷土料理であることにちなんでいる。渋沢は食生活も質素で、帰省の折には煮ぼうとうや野菜の煮物を食べ、普段の朝食はオートミールだった。 埼玉県庁では、栄一の功績にちなみ、健全な企業活動と社会貢献活動に取り組んでいる全国の企業経営者に、「渋沢栄一賞」を授与している。 2021年9月2日、火星と木星の間にある小惑星に渋沢栄一の名前がつけられた。 経営学者のピーター・ドラッカーも栄一の業績について「誰よりも早く1870年代から80年代にかけて、企業と国家の目標、企業のニーズと個人の倫理との関係という本質的な問いを提起した」と高く評価し、「20世紀に日本は経済大国として興隆したが、それは渋沢栄一の思想と業績によるところが大きい」(『マネジメント務め、責任、実践』)と言及している。ドラッカーによれば、「岩崎弥太郎と渋沢栄一の名は、国外では、わずかの日本研究家が知るだけである。しかしながら彼らの偉業は、ロスチャイルド、モルガン、クルップ、ロックフェラーを凌ぐ」(『断絶の時代』)とのことである。 位階 1870年(明治03年)3月20日 - 正七位 1870年(明治03年)8月24日 - 従六位 1871年(明治04年)5月9日 - 正六位 1871年(明治04年)12月12日 - 従五位 1872年(明治05年)10月8日 - 正五位 1888年(明治21年)5月15日 - 従四位 1900年(明治33年)6月20日 - 正四位 1909年(明治42年)6月30日 - 従三位 1919年(大正08年)7月10日 - 正三位 1929年(昭和04年)7月15日 - 従二位 1931年(昭和06年)11月10日 - 正二位 爵位 1900年(明治33年)5月9日 - 男爵 1920年(大正09年)9月8日 - 子爵 勲章等 1888年(明治21年)5月31日 - 金製黄綬褒章 1892年(明治25年)7月19日 - 勲四等瑞宝章(民間人初の叙勲) 1902年(明治35年)2月22日 - 勲三等瑞宝章 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章 1911年(明治44年)8月24日 - 勲一等瑞宝章 1915年(大正04年)11月10日 - 大礼記念章、旭日大綬章 1928年(昭和03年)11月10日 - 旭日桐花大綬章 1930年(昭和05年)5月21日 - 紺綬褒章飾版 12月5日 - 帝都復興記念章 外国勲章 1889年(明治22年)6月8日 - ドイツ帝国:王冠第三等勲章 1905年(明治38年)10月20日 - 大韓帝国:勲一等太極章 1907年(明治40年)12月19日 - フランス:レジオンドヌール勲章コマンドゥール 1915年(大正04年)5月3日 - 支那共和国:一等嘉禾章 1920年(大正09年)2月15日 - ベルギー:王冠第一等勲章 1920年(大正09年)4月15日 - セルブ・クロアート・スロヴェーヌ国:サン・サヴァ第一等勲章 1920年(大正09年)7月28日 - ベルギー:ロワ・アルベール記章 1923年(大正12年)7月3日 - 中華民国:一等大綬宝光嘉禾章 1926年(大正15年)11月12日 - フランス:レジオンドヌール勲章グランクロワ 賞杯等 1877年(明治10年)4月27日 - 銀盃一個 1878年(明治11年)4月30日 - 銀盃一個 8月 - 銀盃一個 1879年(明治12年)12月 - 銀盃一個 1880年(明治13年)4月 - 銀盃一個 12月 - 木杯一組・銀盃一個 1881年(明治14年)3月 - 銀盃一個 9月 - 銀盃一個 1885年(明治18年)10月13日 - 木杯一個 1886年(明治19年)12月7日 - 木杯一組 12月24日 - 木杯一組・木杯一個 1887年(明治20年)12月20日 - 木杯一個 1888年(明治21年)5月31日 - 木杯一組・木杯一個 1890年(明治23年)3月27日 - 木杯一個 4月3日 - 銀盃一組 12月15日 - 木杯一個 1891年(明治24年)7月8日 - 木杯一組 11月30日 - 木杯一組 1892年(明治25年)3月11日 - 木杯一組 6月15日 - 木杯一個 1893年(明治26年)6月6日 - 木杯一組 1894年(明治27年)4月13日 - 木杯一組 4月17日 - 木杯一組 1895年(明治28年)3月1日 - 木杯一個 1896年(明治29年)3月2日 - 銀牌 1897年(明治30年)6月1日 - 銀盃一個 1899年(明治32年)10月24日 - 銀盃一組 12月6日 - 銀盃一組 12月19日 - 木杯一組 1910年(明治43年)1月21日 - 金杯一組 渋沢家は甲斐源氏の逸見氏(もしくは下野源氏の足利氏)の流れを汲み、天正時代に始祖となる渋沢隼人が血洗島村にて帰農したという伝承がある。 江戸末期には、血洗島村には渋沢姓を名乗る家が17軒あった。このため、家の位置によって「中ノ家(なかんち)」「前ノ家」「東ノ家」「古新宅」「新屋敷」などと呼んで区別した。 「中ノ家」:宗家であったが、江戸時代初期の明暦年間には家勢が振るわなくなっていた。栄一の父・市郎右衛門は「東ノ家」の当主2代目渋沢宗助宗休(渋沢儀刑の子である初代渋沢宗助宗安の子)の三男として生まれたが、「中ノ家」に養子として入り家勢を立て直し、栄一が生まれるころには村の中で「東ノ家」に次ぐ富農となっていた。栄一が故郷を出てからは妹の貞子が「中ノ家」を守り、須永家より渋沢市郎を婿養子にむかえ4代目とした。貞子・市郎夫妻の長男元治は栄一長女の歌子の娘である孝子と結婚、東京大学工学部長を経て初代名古屋大学総長となり、次男治太郎が地元に留まり、八基村村長、県会議員を務めた。 「東ノ家」:栄一が生まれる頃には一族で一番繁栄していたため、こちらが本家と呼ばれることもある。栄一の父も、栄一の従兄で論語の師でもある尾高惇忠の母も「東ノ家」出身。フランス文学者の澁澤龍彦(出生名:龍雄)は、3代目渋沢宗助(栄一の父・市郎右衛門の兄)の玄孫。 「新屋敷」:「東ノ家」から江戸時代末期に分家した。2代目となる喜作(成一郎)は、従弟である栄一と共に故郷を出て、将軍徳川慶喜の奥祐筆や彰義隊頭取を務め、明治維新後は実業家として活躍した。 渋沢家(中ノ家) ∴ 渋沢市郎右衛門 ┃ ┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳━━━━━━━┓ ┃ ┃ ┃ 渋沢栄一 渋沢市郎(婿養子) 貞子 ┃ ┃ ┣━━━━┳━━━━━━━┳━━━━━━━┳━━━┳━━┳━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 渋沢篤二 渋沢武之助 渋沢正雄 渋沢秀雄 歌子 琴子 愛子 渋沢元治 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━┳━━━━━┓ ┣━┳━┳━┓ ┣━━━━━┓ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ 渋沢敬三 渋沢信雄 渋沢智雄 女 正一 純子 女 華子 渋沢和男 ┃ ┣━━━━┳━━━━━┓ ┃ ┃ ┃ 渋沢雅英 紀子 黎子 ┃ ┣━━━━┓ ┃ ┃ 雅明 田鶴子 家族・親族">家族・親族
姻族関係系図
テレビドラマ
雄気堂々(城山三郎原作、NHK、1982年、演:滝田栄) 青天を衝け(NHK大河ドラマ、2021年、演:吉沢亮) 歌謡曲
小説
映画
さくら、さくら 〜サムライ化学者・高峰譲吉の生涯〜(2010年、演:松方弘樹) 紅い襷〜富岡製糸場物語〜 (映画、2017年、演:豊原功補) テレビドラマ
天皇の世紀(大佛次郎原作、朝日放送、1971年、演:山本亘) 獅子の時代(NHK大河ドラマ、1980年、演:角野卓造) あさが来た(連続テレビ小説、NHK、2015年、演:三宅裕司) ミュージカル
郵便切手
「日本銀行券3券種の全面刷新」2024年6月19日発行、84円切手10種のうちの1種。 『渋沢栄一伝記資料』〈第1 - 58巻〉(渋沢栄一伝記史料刊行会、1955年 - 1965年) 『渋沢栄一伝記資料』〈別巻第1 - 10巻〉(渋沢青淵記念財団竜門社、1966年 - 1971年) 『渋沢栄一滞仏日記』〈日本史籍協会叢書〉(日本史籍協会、1928年) 述『官板 立会略則』明治4年9月 - 会社の設立にかんする説明 『徳川慶喜公伝(全8巻)』大正7年(1918年)
『渋沢栄一全集』平凡社(全6巻)、1930年 『青淵百話』同文舘、1931年/国書刊行会、1986年
『渋沢栄一「青淵論叢」 道徳経済合一説』鹿島茂編訳、講談社学術文庫、2020年 『渋沢栄一訓言集』渋沢青淵記念財団 竜門社編、国書刊行会、1986年 『雨夜譚 渋沢栄一自伝』岩波文庫(長幸男校注)、1984年、新版2019年 『論語と算盤』(梶山彬編)国書刊行会、1985年/角川ソフィア文庫、2008年 ほか・新版再刊多数 『論語講義』二松学舎大学出版部、1975年/講談社学術文庫(全7巻)、1977年 『渋沢栄一自伝 雨夜譚・青淵回顧録(抄)』角川ソフィア文庫、2020年、井上潤(渋沢史料館館長)解説 『航西日記 パリ万国博見聞録 現代語訳』杉浦譲共著(大江志乃夫訳)講談社学術文庫、2024年 - 新版再刊 竜門社編『青淵先生六十年史 : 一名近世実業発達史』竜門社、1900年 渋沢栄一述 小貫修一郎編著『青淵回顧録』青淵回顧録刊行会、1927年 白石喜太郎 『渋沢栄一翁』(刀江書院、1933年) - Google ブックス
『渋沢翁の面影』(四条書房、1934年) 幸田露伴『渋沢栄一伝』岩波書店、1939年、復刊1986年ほか/岩波文庫、2020年 渋沢秀雄『渋沢栄一』渋沢青淵記念財団竜門社、1951年
『父 渋沢栄一』(実業之日本社(上下)、1959年)。新装・実業之日本社、2019年、同文庫、2020年 『明治を耕した話 父・渋沢栄一』(青蛙房、1977年)。改訂再刊を含め他にも伝記著作がある。 渋沢雅英『太平洋にかける橋―渋沢栄一の生涯』 読売新聞社、1970年/不二出版、2017年 渋沢華子『渋沢栄一、パリ万博へ』国書刊行会、1995年 鮫島純子『祖父・渋沢栄一に学んだこと』文藝春秋、2010年 土屋喬雄『渋沢栄一』吉川弘文館〈人物叢書〉、新装版1989年 木村昌人『渋沢栄一 民間経済外交の創始者』 中公新書、1991年
山本七平『渋沢栄一 近代の創造』PHP研究所、1987年/祥伝社、2009年
鹿島茂『渋沢栄一 I 算盤篇』『- II 論語篇』文藝春秋、2011年/文春文庫(上下)、2013年 見城悌治『渋沢栄一 「道徳」と経済のあいだ 日本経済評論社〈評伝・日本の経済思想〉、2008年 ISBN 9784818820241 東京商工会議所編『渋沢栄一 日本を創った実業人』講談社+α文庫、2008年、ISBN 9784062812351 島田昌和『渋沢栄一 社会企業家の先駆者』 岩波新書、2011年
佐野眞一『渋沢家三代』文春新書、1998年 林田明大『渋沢栄一と陽明学』ワニブックス、2019年。 泉三郎『青年・渋沢栄一の欧州体験』祥伝社新書、2011年 宮本又郎編著『渋沢栄一 日本近代の扉を開いた財界リーダー』PHP研究所、2016年 橘木俊詔『渋沢栄一 変わり身の早さと未来を見抜く眼力』平凡社新書、2020年 武田晴人『渋沢栄一 よく集め、よく施された』ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2021年 大佛次郎『激流 渋沢栄一の若き日』未知谷(新版)、2009年。朝日文庫、2021年 城山三郎『雄気堂々』新潮文庫(上下)、改版2003年 南條範夫『幕府 パリで戦う』光文社文庫、1994年、新版2021年 童門冬二『渋沢栄一 人間の礎』新版・集英社文庫、2019年 津本陽『小説 渋沢栄一』新版・幻冬舎文庫(全2巻)、2007年 山田克郎『渋沢栄一 財界のフロンティア』新装復刊・春陽堂書店、2019年 星亮一『天才渋沢栄一 明治日本を創った逆境に強い男と慶喜』さくら舎、2020年 中村彰彦『むさぼらなかった男 渋沢栄一「士魂商才」の人生秘録』文藝春秋、2021年 北康利『乃公出でずんば 渋沢栄一伝』角川書店、2021年 星野泰視「日本を創った男 〜渋沢栄一 青き日々〜」全7巻(秋田書店『ヤングチャンピオン』連載、2020年14号 - 2023年14号) 町田翠「栄一 〜渋沢栄一伝〜」全4巻 (小学館「月刊!スピリッツ」連載、2020年8月号 - 2022年1月号、ビッグコミックス) ^ 1890年12月15日、第1回帝国議会の貴族院予算委員会に出席すると同時に休暇を願い出て認められている。 ^ 栄一が兼子と結婚した時期については異説がある。穂積歌子の孫の穂積重行は『穂積歌子日記』の文中に「栄一は十五年に妻千代を失い、十八年末頃かね子と再婚した。」と注釈をつけている。鹿島茂もこの注釈をもとに「兼子が1883年(明治16年)1月頃妾の一人として渋沢家に入ったが、その後栄一と兼子との間に続けて3人の子供(内2人は夭逝)ができたこと、さらに栄一が兼子を気に入ったことから、1885年(明治18年)末に正式に結婚したのではないか」と推測している。 ^ 作家の佐野眞一は『渋沢家三代』のなかで「一説には、栄一が生涯になした子は二十人近くにのぼるといわれている」と記している。歴史研究家の河合敦は、栄一が花柳界でも知られた存在だった点を挙げ、「20人の子がいたとされるが、一説には50人」と記している。 ^ 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),朝日日本歴史人物事典,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,知恵蔵mini,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “渋沢栄一とは”. コトバンク. 2021年9月22日閲覧。 ^ 白石喜太郎『渋沢栄一翁』刀江書院、1993年12月、19頁。ASIN B000JAWFUE。 ^ “渋沢栄一ブーム、なお熱く 出身地の埼玉・深谷”. 産経ニュース (2021年12月9日). 2021年12月10日閲覧。 ^ 自由評論(大正8年11月号)中産階級動揺と帝国の危機 ^ 【ニュースの門】渋沢の鉄道 慶喜を動かす『読売新聞』朝刊2021年10月10日(解説面) ^ 「ライフスタイルの革新者 渋沢栄一」『日本経済新聞』朝刊2021年5月23日9-11面 ^ “何故渋沢栄一は、日本資本主義の父と言われるのか”. 渋沢逸品館. 2024年7月4日閲覧。 ^ “渋沢栄一と日本の資本主義”. 東京新聞. 2024年7月4日閲覧。 ^ “「日本資本主義の父」渋沢栄一 ~ その言葉から経営者が学ぶべき教訓とは”. アクサ生命. 2024年7月4日閲覧。 ^ “東の渋沢、西の五代 時代を動かした実業家と奈良”. 奈良県観光局 観光力創造課. 2027年7月11日閲覧。 ^ “五代友厚に“周回遅れ”だった渋沢栄一、負け組からの「逆転の軌跡」”. 週刊ダイヤモンド. 2027年7月11日閲覧。 ^ 橘木俊詔『渋沢栄一』株式会社平凡社、2020年11月。ISBN 4582859593。 ^ “2021年大河ドラマ「青天を衝け」主演は吉沢亮、主人公は渋沢栄一”. ライブドアニュース. 2019年9月9日閲覧。 ^ 世界帝王事典 ^ 『渋沢栄一伝記資料』第1巻(渋沢栄一記念財団) ^ 宮本又郎『渋沢栄一― 日本近代の扉を開いた財界リーダー―』(PHP研究所、2016年) ^ 渋沢栄一と当センターとの関わり 東京都長寿健康医療センター(2021年12月30日閲覧) ^ 大林組プロジェクトチーム「明治の大空間 日本パノラマ館の復元検証」(2021年11月28日閲覧) ^ 木村昌人『渋沢栄一 ―日本のインフラを創った民間経済の巨人―』(筑摩書房、2020年9月10日)155、187頁 ^ “【ボースの遺骨を守ってもう一つの日印交流】(3)日印協会の変遷”. 産経新聞. (2008年9月28日) ^ 『渋沢栄一伝記資料29』渋沢青淵記念財団竜門社編 ^ 見城悌治「渋沢栄一の宗教観と道徳観」 ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』 『第36巻(DK360071k) 本文』 1925年(大正14年)- 1926年(大正15年) ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』 『第36巻(DK360074k) 本文』 1928年(昭和3年) ^ 運動企画局, 連合 (2021年9月30日). “渋沢栄一と労働組合の数奇な関係”. 連合ダイジェスト. 日本労働組合総連合会. 2024年10月3日閲覧。 ^ 小貫修一郎 筆記、渋沢栄一 談『渋沢栄一自叙伝』渋沢翁頌徳会、1938年「生立ちのころ」(1頁)。 ^ 渋沢栄一。本当は「エイイチ」ではなく「ヒデカズ」だった!? 大物は細かいことは気にしない!(2021年10月12日) ^ 衆議院編『衆議院議員総選挙一覧』(衆議院事務局、1912年)p.2 ^ 『官報』第2182号(明治23年10月6日) ^ 『官報』第2503号(明治24年10月31日) ^ 『渋沢栄一伝記資料』第27巻(渋沢栄一記念財団)] ^ 島田昌和「明治後半期における経営者層の啓蒙と組織化―渋沢栄一と龍門社―」『経営論集』10巻1号(2000年12月)所収 ^ 渋沢栄一『論語と算盤』(角川学芸出版、2008年10月25日、ISBN 978-4044090012 )22頁 ^ 渋沢栄一『論語と算盤』(角川学芸出版、 2008年10月25日、 ISBN 978-4044090012 )49頁(一部の漢字を現代語風にひらがなに改めて引用)。 ^ 自由評論(大正8年11月号)中産階級動揺と帝国の危機 ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』 『第36巻(DK360078k) 本文』 1930年(昭和5年)5月21日 ^ デジタル版「実験論語処世談」(35)/渋沢栄一|公益財団法人渋沢栄一記念財団 ^ “渋沢栄一が命狙われた暴漢に金銭支援した深い訳 | リーダーシップ・教養・資格・スキル”. 東洋経済オンライン (2021年11月8日). 2022年2月11日閲覧。 ^ “妻と妾を同居させた渋沢栄一は68歳にして子どもを作り総勢17人以上…今なお政財界に広がる華麗なる家系図”. (2/4). PRESIDENT WOMAN Online(プレジデント ウーマン オンライン) (2024年7月4日). 2024年7月6日閲覧。 ^ 多田井喜生『朝鮮銀行―ある円通貨圏の興亡―』 (PHP新書、2002年2月1日) ^ https://www.ifsa.jp/index.php?Gkodamagentaro ^ 筒井清忠『帝都復興の時代:関東大震災以後』(中央公論新社<中公新書>、2011年、ISBN 9784121100030)pp.114-120 ^ 『新しい日本銀行券及び五百円貨幣を発行します』(HTML)(プレスリリース)財務省、2019年4月9日。https://www.mof.go.jp/policy/currency/bill/20190409.html。2019年4月9日閲覧。 ^ “新紙幣を正式に発表 一万円札の裏は東京駅”. 産経ニュース. 産業経済新聞社. (2019年4月9日). https://www.sankei.com/article/20190409-YFTNXVNIH5OPDDAEJCF6HVJRZE/ 2019年4月9日閲覧。 ^ “「渋沢紙幣」大韓帝国下で発行 韓国メディアは反発”. 日本経済新聞 (2019年4月9日). 2021年3月1日閲覧。 ^ “朝鮮半島に初めて流通した紙幣 描かれた人物は? 蘇る屈辱の歴史”. 北朝鮮ニュース | KWT (2021年6月19日). 2021年6月24日閲覧。 ^ 日本放送協会. “火星と木星の間で発見された小惑星 「渋沢栄一」と命名|NHK 首都圏のニュース”. NHK NEWS WEB. 2021年10月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月3日閲覧。 ^ 國貞克則「あのドラッカー絶賛「渋沢栄一」が凄い真の理由」(東洋経済オンライン(2021年2月13日) ^ 「正四位勲四等男爵渋沢栄一以下十七名勲位進級及初叙ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112538500 ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第2巻 p.359(DK020051k) ^ 『官報』第1475号「叙任及辞令」1888年6月1日。 ^ 『官報』7804号 明治42年7月1日 ^ 『官報』2080号 大正8年7月11日 ^ 『官報』857号 昭和4年11月6日 ^ 『官報』1462号 昭和6年11月12日 ^ 渋沢栄一伝記資料 57巻 p219 ^ 『官報』第2719号「叙任及辞令」1892年7月21日。 ^ 『官報』第5589号「叙任及辞令」1902年2月24日。 ^ 『官報』第7275号「叙任及辞令」1907年9月27日。 ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。 ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。 ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。 ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。 ^ 『官報』第1016号「彙報 - 褒章」1930年5月22日。 ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。 ^ 『官報』第1782号「叙任及辞令」1889年6月10日。 ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第29巻 p.264(DK290086k) ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第29巻 p.264-265(DK290087k) ^ 『官報』第825号「叙任及辞令」1915年5月5日。 ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第57巻 p.211(DK570102k) ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第57巻 p.211-212(DK570103k) ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第57巻 p.212(DK570104k) ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第57巻 p.212(DK570105k) ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第57巻 p.212-215(DK570106k) ^ 『官報』第7977号「叙任及辞令」1910年1月28日。 ^ デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第1巻 p.5-8(DK010001k) ^ 韮塚一三郎「渋沢家本支系図」『埼玉の先人 渋沢栄一』さきたま出版会、1983年。ISBN 4-87891-023-2。「巻末」 ^ “第1巻(DK010009k) 本文”. デジタル版『渋沢栄一伝記資料』. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2021年4月11日閲覧。 ^ “渋沢 千代子”. デジタル版『渋沢栄一伝記資料』. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2021年4月11日閲覧。 ^ “第57巻(DK570022k) 本文”. デジタル版『渋沢栄一伝記資料』. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2021年4月25日閲覧。 ^ “第29巻(DK290005k) 本文”. デジタル版『渋沢栄一伝記資料』. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2021年4月11日閲覧。 ^ 伊藤真希「阪谷芳郎の家庭教育 」、愛知淑徳大学大学院現代社会研究科『現代社会研究科研究報告6』2011年3月4日 ^ “高田利吉談話筆記”. デジタル版『渋沢栄一伝記資料』. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2021年11月28日閲覧。 ^ 鹿島茂『渋沢栄一 論語篇』文藝春秋、2011年1月。 ^ 『明治美人伝』長谷川時雨、1921 ^ 鹿島茂『渋沢栄一 下 論語編』430頁。文春文庫 ISBN 978-4-16-759008-6 ^ 日記に見る雪中行軍の時代 青弓社、2010-08 ^ 佐野眞一『渋沢家三代』文藝春秋〈文春新書〉、1998年、192-195頁。ISBN 4-16-660015-X。 ^ “実は恐るべき性豪…渋沢栄一と北里柴三郎「新札の顔」の意外な共通点”. 週刊現代. (2019年7月30日). https://gendai.media/articles/-/66091?page=4 2021年2月14日閲覧。 ^ 澁澤雅英オーラルヒストリー 澁澤栄一記念財団理事長 政策研究大学院大学 ^ 佐野眞一『渋沢家三代』文春新書 ^ 渋沢正雄 谷中・桜木・上野公園路地裏徹底ツアー ^ “第29巻(DK290014k)本文”. デジタル版『渋沢栄一伝記資料』. 公益財団法人渋沢栄一記念財団. 2021年4月11日閲覧。 ^ https://ameblo.jp/nobu630/entry-12787181954.html ^ 父・渋沢敬三 〔6〕 / 渋沢雅英 渋沢敬三アーカイブ ^ “2021年大河ドラマ「青天を衝け」 製作開始と主演・吉沢亮さんを発表!”. NHK (2019年9月9日). 2019年9月9日閲覧。 ^ “「地方自治法施行60周年記念シリーズ 埼玉県」の発行”. 日本郵便. 2024年6月21日閲覧。 ^ “日本銀行券3券種の全面刷新”. 日本郵便. 2024年6月21日閲覧。 渋沢篤二 穂積陳重 阪谷芳郎 渋沢敬三 渋沢信雄 渋沢智雄 穂積重遠 阪谷希一 渋沢雅英 渋沢田鶴子 旧渋沢邸
古牧温泉 - 渋沢公園内に旧渋沢家住宅(旧渋沢邸)が移築保存されていた。当初深川福住に建てられ、三田綱町を経て現地へ移築保存されていた。清水建設により東京都江東区へ移築された。 旧渋沢家飛鳥山邸(東京都北区) - 現存する晩香廬及び青淵文庫を公開。 竜門社 - 渋沢栄一を慕い、その理念に共鳴した経済人の会員制組織。現在は渋沢栄一記念財団。 渋沢史料館 - 渋沢栄一の生涯と事績に関する博物館。渋沢記念財団が運営。 渋沢財閥 - 本来の意味での財閥では無かったが、戦後の財閥解体で指定を受けることとなった。 澁澤倉庫 - 渋沢栄一が渋沢家の直営事業として自邸施設を使って創業した企業 渋沢栄一記念館 - 生誕地の深谷市北部にある。 誠之堂 - 渋沢栄一の喜寿を記念し第一銀行行員が行員運動施設である清和園内に建設した。深谷市に移築保存されている。 南湖神社 - 栄一が尊崇していた、江戸時代の老中松平定信が祭神。栄一も設立に当たり支援をしている。 本山白雲 - 彫刻家。高村光雲の弟子。渋沢栄一はじめ明治の偉人の銅像作品が多い。 五代友厚 - 明治初期に大阪経済を再興。東の渋沢栄一、西の五代友厚、と言われた。 東京都健康長寿医療センター - 旧養老院長渋沢栄一銅像、および養老院・渋沢記念コーナーがある。 吉田清成 -元薩摩藩士、大蔵省、農商務省役人。書簡等が 吉田清成関係文書として整理されており、栄一との書簡も多く伝わっている。 蜂須賀茂韶 - 渋沢の旧三田綱町邸の近くに本邸があった華族(侯爵)。徳島藩最後の藩主、貴族院議長も務め、旧大名華族の資産の活用にも意を用い、栄一とは鉄道事業、損害保険事業、国際親善、教育等で幅広い交流があった。 瀧川辨三 - 神戸実業界の重鎮。事業活動の他、教育事業等にも取り組んだ。笑山寺に置かれている瀧川辨三の彰功碑は栄一が揮毫。 岩本栄之助 谷中霊園 - 渋沢栄一墓所。 一万円紙幣
渋沢 栄一:作家別作品リスト - 青空文庫 朝日日本歴史人物事典『渋沢栄一』 - コトバンク 渋沢栄一記念財団 渋沢栄一ミュージアム(深谷市サイト内) 見城悌治「渋沢栄一の宗教観と道徳観 ――「帰一協会」をめぐって――」-プリンストン大学 「新1万円札の肖像、精巧なアンドロイドに…手ぶり交えて講義も」『読売新聞』2020年7月1日 渋沢栄一と高峰譲吉 表 話 編 歴 渋沢栄一 1885- 高松豊吉 1909- 久米良作 1914- 石渡敏一 1919- 小池国三 1922- 渡辺勝三郎 1925- 岩崎清七 1927- 井坂孝 1932- 原邦造 1943- 太田半六 1945- 高田五郎 1946- 本田弘敏 1953- 安西浩 1967- 都留勝利 1972- 村上武雄 1976- 渡辺宏 1981- 安西邦夫 1989- 上原英治 1999- 市野紀生 2003- 鳥原光憲 2006- 岡本毅 2010- 広瀬道明 2014- 内田高史 2018- 笹山晋一 2023- 表 話 編 歴 初代 長岡護美 (1903年就任) 第2代 大隈重信 第3代 渋沢栄一 第4代 大隈信常 第5代 一万田尚登 (1952年-1955年) 第6代 櫻内義雄 (1955年-2003年) 第7代 森喜朗 (2003年12月-2022年6月) 第8代 安倍晋三 (2022年6月-2022年7月) 初代 平林博 (2007年6月-2022年6月) 第2代 齋木昭隆 (2022年6月-現在) 谷野作太郎 鈴木修 佐々木幹夫 張富士夫 岡素之 坂根正弘 FAST ISNI VIAF WorldCat ノルウェー フランス BnF data カタルーニャ ドイツ イスラエル アメリカ スウェーデン 日本 チェコ 韓国 オランダ ポーランド CiNii Books CiNii Research ULAN ドイッチェ・ビオグラフィー スイス歴史辞典 IdRef 渋沢栄一 19世紀日本の実業家 20世紀日本の実業家 19世紀日本の政治家 20世紀日本の政治家 19世紀日本の教育者 20世紀日本の教育者 19世紀日本の活動家 20世紀日本の活動家 19世紀日本のノンフィクション作家 20世紀日本のノンフィクション作家 日本の自伝作家 日本の社会福祉活動家 日本の慈善家 幕末の旗本 幕府陸軍の人物 開成所の人物 幕府の外交官僚 徳川慶喜時代の一橋徳川家家中の人物 静岡藩の人物 日本の貿易立国論者 戦前日本の大蔵官僚 日本の銀行家 日本のソーシャライト 日本の子爵 日本の男爵 渋沢子爵家 渋沢家中の家 渋沢財閥 貴族院勅選議員 明治時代の貴族院議員 深川区会議員 衆議院議員総選挙の立候補経験者 日本の企業創立者 みずほフィナンシャルグループの人物 東京ガスの人物 王子製紙の人物 サッポロホールディングスグループの人物 東京海上グループの人物 東洋紡の人物 日産化学の人物 日本の鉄道実業家 秩父鉄道 京阪電気鉄道の人物 日本の海事実業家 東京株式取引所の人物 日本の赤十字の人物 1867年パリ万博に関係した日本の人物 東京地学協会の人物 東邦協会の人物 帝国軍人援護会の幹部 日本のアジア研究史の人物 南洋協会の人物 日印協会の人物 東京商工会議所会頭 一橋大学の人物 二松學舍大学の人物 理化学研究所の人物 アジアの紙幣の人物 日本女子大学学長 日本女子大学の人物 正二位受位者 勲一等旭日桐花大綬章受章者 勲一等旭日大綬章受章者 勲一等瑞宝章受章者 勲三等瑞宝章受章者 勲四等瑞宝章受章者 紺綬褒章受章者 金製黄綬褒章受章者 レジオンドヌール勲章グランクロワ受章者 レジオンドヌール勲章コマンドゥール受章者 太極章受章者 日本の紙幣の人物 谷中霊園に埋葬されている人物 幕末岡部藩の人物 武蔵国の人物 埼玉県出身の人物 1840年生 1931年没 第一勧銀グループの人物 出典のページ番号が要望されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ 2024/11/12 04:49更新
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