石橋湛山の情報(いしばしたんざん) ジャーナリスト、政治家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
石橋 湛山さんについて調べます
■名前・氏名 |
石橋湛山と関係のある人
細川護煕: ジャーナリスト出身の首相としては石橋湛山以来である。 井出孫六: 『石橋湛山と小国主義』岩波ブックレット、2000 塚田十一郎: その甲斐があってか、石井と石橋湛山との2位・3位連合が成功して石橋政権が発足すると、塚田は政務調査会長として党三役入りするが、あえなく2ヶ月で政権は瓦解。 河野一郎: 鳩山引退後の自由民主党総裁公選では岸信介を支持し、石橋湛山に一敗地にまみれるが、岸内閣成立後は主流派となる。 加藤常太郎: 1956年(昭和31年)の自民党総裁選では、石橋湛山をかつぎ、見事当選させた立役者の1人である。 増田弘: 『侮らず、干渉せず、平伏さず――石橋湛山の対中国外交論』(草思社, 1993年) 吉川洋: また、2019年6月より、日本製鉄社外監査役、同年12月より石橋湛山研究学会世話人も務めている。 宇都宮徳馬: 自民党初期の時代は、鳩山一郎、石橋湛山に師事し、鳩山内閣の退陣を受けて石橋湛山と岸信介とが争った昭和31年の自民党総裁選では石田博英らとともに石橋湛山支援の中心となり、石橋総裁・首相の誕生に貢献した。 平野三郎: この頃から石橋湛山に接近し、石橋が総裁を務める北京・上海日本工業展覧会の副総裁に就任している。 石井光次郎: 鳩山政権の後継を争った自民党総裁選では2位・3位連合の奇策により石橋湛山を統一候補として岸信介を破り、石橋内閣成立の立役者となるも、岸派が主張した「党内融和のために決選投票で対立した岸を石橋内閣の副総理として処遇すべき」との意見に譲歩し、副総理就任を辞退した。 床次竹二郎: また、石橋湛山は「実をいうと床次一派は民政党のガンである。 日野原重明: 1957年、石橋湛山首相が脳梗塞で倒れ入院した際、石橋首相の主治医を務めた。 安倍晋太郎: 1956年(昭和31年)12月23日、石橋湛山内閣が成立。 長谷川慶太郎: 約50年にわたって日本経済の分析を続けており、1981年『世界が日本を見倣う日』で文藝春秋読者賞、1983年に同著で第3回石橋湛山賞(東洋経済新報社後援)を受賞。 渡部恒三: 自由党の石橋湛山の私設秘書となったが、20歳になって初めての選挙である第25回衆議院議員総選挙では、右派社会党書記長であった浅沼稲次郎に投票したという。 池田勇人: 岸反対で共通する石橋支持派の参謀・三木武夫と2、3位連合の政略を立てた仕掛けが成功、石橋湛山が決選投票で岸を僅差で逆転した。 八代尚宏: 『日本的雇用慣行の経済学』(日本経済新聞社)により石橋湛山賞を受賞した。 田中秀征: 君は石橋湛山さんの信望者だろう。田中はリベラルな保守政治家であった石橋湛山を「理想の政治家」に挙げており、石田は石橋内閣で内閣官房長官を務めていた。 椎名悦三郎: 1957年(昭和32年)2月、石橋内閣が石橋湛山首相の病により倒れると第1次岸内閣が組閣された。 原田泰: 2008年 石橋湛山賞を受賞する。 田村茂: 小山展弘: 超党派石橋湛山研究会 事務局長 中谷巌: 1988年 論文「責任国家・日本への選択」で石橋湛山賞 小島直記: 異端の言説・石橋湛山 (新潮社 1978年 東洋経済新報社 2004年) 竹下登: なお、現職内閣総理大臣として、靖国神社に参拝しなかったのは、石橋湛山以来だった。 三木武夫: 総裁選立候補を決意した三木に石橋湛山が後見人役となった。 石田博英: 中外商業新報の編集局長であった小汀利得の紹介で、石橋湛山に私淑する。 久米正雄: 1932年(昭和7年)、石橋湛山の後を継いで鎌倉の町議に立候補しトップ当選した。 清沢洌: 清沢の基本的な立場は、対米関係においては協調路線、国内では反官僚主義・反権威主義、対中関係では「満州経営」への拘泥を戒めるものであって、石橋湛山のいわゆる「小日本主義」と多くの共通点をもっていた。 岸信介: 首班石橋湛山の病気により臨時代理を務め、石橋内閣が総辞職すると後任の内閣総理大臣に指名され、日米安保体制の成立に尽力し、60年安保も乗り切った。 |
石橋湛山の情報まとめ
石橋 湛山(いしばし たんざん)さんの誕生日は1884年9月25日です。東京出身のジャーナリスト、政治家のようです。
現在、兄弟、卒業、結婚、病気、引退、退社、映画、姉妹、事件、解散に関する情報もありますね。去年の情報もありました。1973年に亡くなられているようです。
石橋湛山のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年〈明治17年〉9月25日 - 1973年〈昭和48年〉4月25日)は、日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。 大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(第10・11・12代)、内閣総理大臣(第55代)、郵政大臣(第9代)などを歴任した。内閣総理大臣在任期間は65日であり、日本国憲法下では羽田孜に次いで2番目に短く、日本の憲政史上でも3番目の短さである。 早稲田大学から法学の名誉博士(Doctor of Laws)を贈られた(1957年10月20日授与)。 明治国家のミリタリズム、インペリアリズムは世界の趨勢であったとしても、見落とされてはならないのがデモクラシーの醸成であるとしている。このことに日本人は誇りを覚えよと言っている。 戦前は『東洋経済新報』等の論壇において、国家として正常な政策と見做されることもあった帝国主義を日本にはそぐわないものと見抜き、国際協調を背景とした貿易・科学による経済安定を提唱した。 戦後は「日中米ソ平和同盟」を主張して政界で活躍した。保守合同後初めて本格的に実施された自民党総裁選挙を制して総理総裁となったが、在任2ヵ月弱で発病し、退陣した。退陣後は中華人民共和国との国交正常化に力を尽くした。 湛山の思想は、ヒューマニズム・自由主義であり、在学中、田中王堂のもとでプラグマティズムの影響を受けたことから、”真理とは常に人類の生活の変化と共に変化する、決して千古不磨なものではない”といった語録に見られるように、他を顧みず絶対的な主義に陥ることによる破滅に警鐘を鳴らす。 戦前戦中、帝国主義・軍国主義・ファシズムを批判し、言論の自由を標榜し、市民を中心に据えた徹底的民主主義とリベラリズムを貫き通したと言ってもいいだろう。 実父は身延山久遠寺第81世法主杉田日布である。その関係で、立正大学学長に就任した。 日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男・省三(せいぞう)として生まれる。 実父の湛誓は日蓮宗一致派の初代管長である新居日薩の門下で、現在の東京都港区高輪の承教寺に所在していた当時東京大教院(現・立正大学の前身)の助教補(助手→助教)を務めていた。 母・きんは、江戸城内の畳表一式を請け負うほどの大きな畳問屋・石橋藤左衛門の次女である。石橋家は承教寺の有力な檀家で、東京大教院に在学中の湛誓と親しくしていた。故あって湛山は母方の石橋姓を名乗った。 湛山は3男3女の6人兄弟のうちの長男である。湛山の兄弟では湛誓次男の野澤義郎も湛山と同様に甲府中学・早稲田大学を経て東洋経済新報社に入社し、支局長・監査役を務めている。湛誓三男の湛正は東京大学を卒業し、富士宮一乗寺の住職となっている。 1885年(明治18年)、父・湛誓が郷里山梨県南巨摩郡増穂村(現・同郡富士川町)にある昌福寺の住職へ転じるため、母・きんと共に甲府市稲門(現・甲府市伊勢2丁目)へと転居する。 1889年(明治22年)、甲府市立稲門尋常小学校に入学する。3年生の時に初めて父と同居することになり、稲門から約20 km奥まっている増穂村の小学校に転校した。 1894年(明治27年)、湛誓が静岡市の日蓮宗本山・青龍山本覚寺の住職に転じることになり、山梨県中巨摩郡鏡中条村(旧・同郡若草村 → 若草町、のち南アルプス市に編入)にある長遠寺の住職である望月日謙(後に久遠寺83世法主)に預けられる。以来、実質的な親子の関係は絶たれ、幾度となく手紙を出すが父母からの返事はもらえなかったという。 1895年、日謙に勧められ山梨県立尋常中学校(後の甲府中学、現在の山梨県立甲府第一高等学校)へ進学する。湛山は2年落第し、7年間在籍する。1901年(明治34年)3月には甲府中学校長の幣原坦が退任し、大島正健が赴任する。大島は札幌農学校(現・北海道大学の前身)第1期生としてウィリアム・スミス・クラークの薫陶を受けた人物で、1914年(大正3年)まで甲府中学校長を務めた。湛山は1902年に甲府中学を卒業するため1年のみの薫陶を受けるが、湛山は後に『山梨県立甲府中学同窓会報』において大島との出会いを述懐し、自身の人生観に大きな影響を与えたと記している。晩年に至るまで、湛山の枕元には常に日蓮遺文集と聖書が置かれていたという。在学中は校友会の季刊誌『校友会雑誌』に論文を投稿し、剣道部にも入部した。 『校友会雑誌』は甲府一校百周年記念館資料室に数十冊が所蔵されており、湛山の論文を含む号も現存している。湛山は1900年6月発行の第八号において「石橋坐忘」の筆名で小論「石田三成論」を発表し、以来「石橋省三」「石橋省造」「石橋湛山」などの名で小論を発表している。また、『校友会雑誌』には学術部総会に関する報告も掲載され、湛山が総会において英文朗読・演説、文章の朗読・演説などを行っており、当時から政治・歴史などに関心をもっていたことが確認される。5年生時には同会の理事を務めている。 1902年(明治35年)3月に、山梨県立第一中学校を卒業する。中学を卒業するころに、湛山と改名している。翌月、第一高等学校(現・東京大学教養学部)受験のため上京する。その際に、正則英語学校に通った。しかし同年7月の試験は不合格だった。翌年に再度受験するがまたもや失敗し、早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格し、9月に入学した。こうして、東京での下宿生活が始まった。 早稲田大学を卒業して、さらに1年間研究科で勉強する。1908年(明治41年)12月に、 島村抱月の紹介で毎日新聞社(旧横浜毎日新聞や旧東京横浜毎日新聞で、当時は『東京毎日新聞』を出している。現在の毎日新聞社とは無関係)に入社した。 1909年(明治42年)12月には東京麻布の第1師団・歩兵第3連隊に一年志願兵として入営する。湛山ははじめ社会主義者と誤解され要監視兵の扱いを受けるが、後に誤解が解け上官・将校とも良好な関係を築き、彼らも湛山の「合理性」を評価したという。湛山は伍長に昇進し、1910年(明治43年)12月1日軍曹で予備役編入。湛山は入営中に軍隊の哲学に関心を持ち、社会生活・団体生活への順応性の重視を痛感したという。 1911年(明治44年)1月に東洋経済新報社に入社するが、同年9月に見習士官として再入営し、最終試験を経て1913年(大正2年)1月10日に陸軍歩兵少尉となる。その後1916年夏に半月間の機動演習に召集されている。 1912年(大正元年)11月、東京経済新報社主幹・三浦銕太郎の媒酌で東小松川松江尋常高等小学校の教師・岩井うめ(梅子)と結婚する。うめは福島県二本松出身の教師であった三浦の妻の教え子だった。 湛山は大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として、いち早く「民主主義」を提唱する。また三・一独立運動をはじめとする朝鮮における独立運動に理解を示したり、帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張するなど(小日本主義)、リベラルな言論人として知られる。1924年(大正13年)12月に第5代主幹となり、翌年1月には代表取締役専務(社長制となるのは、1941年以降)に就任する。また同年から1936年(昭和11年)まで鎌倉町議会議員を務めた。 1931年(昭和6年)には東洋経済新報社を中心とした経済倶楽部が創設される。1933年(昭和8年)には経済倶楽部の会員により山梨県南都留郡山中湖村旭日丘に「経済倶楽部山中湖畔山荘同人会(経済村)」が作られ、湛山も山中湖畔に山荘を構え、夏期は同所において執筆活動を行った。 部下の高橋亀吉と共に経済論壇の一翼を担い、金解禁に当たっては1円=金2分(1/5匁・0.75g。旧平価)での金本位制復帰に反対して、実体経済に合わせて通貨価値を落とした上での復帰(新平価解禁)を勝田貞次らと共に主張し、旧平価での復帰や財界整理を主張する池田成彬や堀江帰一、大蔵大臣として金解禁を旧平価で行う井上準之助と論争している。行政では、中央集権・画一主義・官僚主義との訣別を主張した。 日中戦争勃発から敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて長期戦化を戒める論陣を張っている。同誌は署名記事を書くことが困難だった多くのリベラリスト(清沢洌ら)にも匿名での論説の場を提供する。石橋や匿名執筆者の論調は常に冷静な分析に基づいており、かつ婉曲・隠微に読者を啓蒙する特徴を持っていたため、同誌は政府・内務省から常に監視対象にされてインクや紙の配給を大きく制限されたが、廃刊は免れた。 太平洋戦争では、次男和彦が召集され戦死した。また、戦争末期には、連合国の戦後構想に刺激を受け、戦後研究の重要性を石渡荘太郎蔵相に進言し、それにより設立された大蔵省戦時経済特別調査室で経済学者や金融関係者と共に戦後研究を行った。戦時経済特別調査室の資料は 名古屋大学大学院経済学研究科附属国際経済政策研究センター情報資料室のウェブサイト にて閲覧可能である。 敗戦は、印刷工場疎開先の秋田県平鹿郡横手町(現、横手市)で迎えた。湛山は横手町民や秋田市民に講演を試み、連合軍の対日方針と日本経済の見通しについて語り、人心の鼓舞に努め、1945年(昭和20年)8月25日には、論説「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする見解を述べ、小日本主義の復活を唱えた。彼は、貿易の自由さえあれば領土縮小の不利益は克服しうるとし、産業復興計画を立て、それを実行せよと説き、政治面では、五か条の御誓文と欽定憲法に立ち帰れと主張した。10月13日『東洋経済新報社論』で、「靖国神社廃止の議」を論じて靖国神社の廃止を主張した。 東京裁判ではGHQ・検察側が、高橋是清の経済政策が戦争に結びついたと主張したが、それに対し石橋は弁護をした。石橋は、高橋是清の政策はデフレ不況を脱出するための政策であり、軍備拡張にはつながっていない、明治以来の政策と軍備拡張の政策は違うと主張したが、裁判では採用されなかった。 湛山は、自身の経済復興計画の実現のため、戦後、政界入りを決意した。1946年(昭和21年)4月10日に行われた第22回衆議院議員総選挙に際して、日本社会党から誘いを受けるもこれを断り、日本自由党公認で東京都第2区(大選挙区)から立候補した。自らの計画実現に適した政党は鳩山一郎率いる日本自由党であると考えたためであった。湛山はこの選挙に落選するが、同年5月22日に成立した第1次吉田内閣に大蔵大臣として入閣した。 大蔵大臣在任時にはデフレーションを抑えるためのインフレーションを進め、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融金庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進した。 そして戦時補償債務打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題などでGHQと対立する。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品などの経費も含んでいて、日本の国家予算の3分の1を占めている。このあまりの巨額の負担を下げるように、石橋は要求した。アメリカは、諸外国の評判を気にしたことと、以後の統治をスムーズに進行させることを考慮して、日本の負担額を2割削減することとなった。 戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は、国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われ、1947年(昭和22年)に第23回衆議院議員総選挙で静岡2区(中選挙区)から当選したが、公職追放令をもってGHQにより公職追放された。この公職追放は吉田茂が関わっていると云われた。1951年(昭和26年)の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山派の幹部として打倒吉田に動いた。この時期に立正大学から懇請されて、学長に就任した。 1954年(昭和29年)の第1次鳩山内閣で通商産業大臣に就任した。1955年には商工委員会委員長田中角栄のもと、戦後の財閥解体の根拠法令のひとつであった過度経済力集中排除法を、独占禁止法と置き換える形で廃止した。1955年(昭和30年)11月には、日中輸出入組合の結成を支援した。 石橋は中華人民共和国、ソビエト連邦との国交回復などを主張したが、アメリカの猛反発を受ける。アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告してきた。このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言った。 同年11月15日の保守合同により、鳩山の日本民主党と吉田から継承した緒方竹虎の自由党が合同し自由民主党が結成され、これに石橋も参画した。 1956年(昭和31年)10月19日に日本とソビエト連邦が日ソ共同宣言により国交正常化するも、同年11月2日、鳩山首相が辞任を表明。これを受けて同年12月14日に自民党総裁選が実施された。石橋は、さらに中華人民共和国など他の共産圏とも国交正常化することを主張、鳩山派の一部を石橋派として率いて立候補した。石橋のほかにアメリカ追従を主張する岸信介、そして石井光次郎が立候補した。当初は岸優位で、1回投票では岸が1位であったが、石井光次郎と2位・3位連合を組んだ決選投票では石橋派参謀の石田博英の功績もあって、岸に7票差で競り勝って総裁に当選、12月23日に内閣総理大臣に指名された。 しかし、前述のような総裁選であったため岸支持派とのしこりが残り、さらに石橋支持派内部においても閣僚や党役員ポストの空手形乱発が行われ、組閣が難航したため、石橋自身が一時的に多くの閣僚の臨時代理・事務取扱を兼務して発足した(一人内閣)。親中派でもある石橋政権の樹立によって、日本を反共の砦とするために岸を望んでいたアメリカ大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは狼狽したという。「党内融和のために決選投票で対立した岸を石橋内閣の副総理として処遇すべき」との意見が強かったため、石橋内閣成立の立役者だった石井の副総理がなくなり、副総理には岸が就任した。 内閣発足直後に石橋は「全国民を包括する総合的な医療保障」を演説した鳩山の路線を継承して、同年1月8日に国民皆保険を目指すことを閣議決定するなど福祉国家建設、さらに対米自主外交では日中貿易を促進する世界平和の確立などを基本とした「五つの誓い」を掲げ、具体的には経済政策では池田勇人を大蔵大臣に抜擢して「1000億円施策、1000億円減税」を打ち出した。これは当時の予算規模からすれば極めて積極的な予算であり、所得減税の一方で、施策は道路(輸送)・住宅に重点を置いたもので、成長過程の障害除去によりさらなる成長を呼び込むという循環作用を意図した、高度成長期の財政の原型ともいえる予算であったとされる一方で、短期的には過度の景気加熱を呼び込んで景気の早期腰折れの原因ともなった。全国10か所を9日間でまわるという遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いてまわった。同年1月25日、帰京した直後に自宅の風呂場で倒れた。軽い脳梗塞だったが、報道には「遊説中にひいた風邪をこじらせて肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候もある」と発表した。副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸信介がただちに総理臨時代理となったが、2か月の絶対安静が必要との医師の診断を受けて、石橋は「私の政治的良心に従う」と退陣した。1957年(昭和32年)度予算審議という重大案件の中で行政府最高責任者である首相が病気療養を理由に自ら国会に出席して答弁できない状況での辞任表明には、野党でさえ好意的であり、岸の代読による石橋の退陣表明を聞いた日本社会党の浅沼稲次郎書記長は石橋の潔さに感銘を受け、「政治家はかくありたい」と述べたと言う。石橋の首相在任期間は65日で、東久邇宮稔彦王・羽田孜に次ぐ歴代で3番目の短さである。日本国憲法下において、国会で一度も演説や答弁をしないまま退任した唯一の首相にもなった。後任の首相には岸が任命され、居抜き内閣として第1次岸内閣が誕生した。 石橋は昭和初期に『東洋経済新報』で、暴漢に狙撃され「帝国議会」への出席ができなくなった当時の濱口雄幸首相に対して、「議会運営に支障をきたし、潔く退陣すべし」とする、退陣を勧告する社説を書いたことがあった。もし国会に出ることができない自分が首相を続投すれば、当時の社説を読んだ読者を欺く事態になると考えたのである。 幸い脳梗塞の症状は軽く、若干の後遺症は残ったものの、石橋はまもなく政治活動を再開するまでに回復した。 1959年(昭和34年)9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であり、日本政府とは一切関係ないものとする」と牽制されながらも中華人民共和国を訪問した。前首相・衆議院議員とはいえ政府の一員ではない石橋は、訪問してから数日はなかなか首脳と会える目処がつかなかったが、交渉に苦労の末、同月17日周恩来首相との会談が実現した。冷戦構造を打ち破り、日本がその懸け橋となる日中米ソ平和同盟を石橋は主張した。この主張は、まだ国連の代表権を持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意した。周は台湾(中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束した。「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。1960年(昭和35年)、大陸中国との貿易が再開した。この声明が後に日中共同声明に繋がったともいわれる。 その後も少数派閥ながら石橋派の領袖として影響力を持ち、岸が主導した日米安保条約改定には、本会での議決を欠席するなどして、批判的な態度をとり自民党内ハト派の重鎮として活躍した。 1963年の第30回衆議院議員総選挙で自民党は河野一郎の元秘書官の木部佳昭を新たに公認。定数5の選挙区を自民党公認候補者4人が争い、石橋は次点で落選。そのまま政界を引退した。 1966年2月、手足に麻痺を感じ聖路加病院に入院、主治医は日野原重明が務めた。同年11月の自民党幹部・大久保留次郎の葬儀に参列したのを最後に外出記録はない。1968年3月には立正大学学長を退き、一切の社会的活動から引退した。1970年2月にも再び肺炎で聖路加病院に入院し、その後は鎌倉の娘宅や新宿区中落合の自宅で療養することになる。 1967年10月20日に吉田茂が死去し、当時存命中の内閣総理大臣経験者としては最年長となる。 1971年7月にはアメリカ大統領の特使ヘンリー・キッシンジャーが訪中し周恩来と会談すると、米中対話を支持するメッセージを発表している。また、翌1972年7月には田中角栄内閣が成立し日中国交正常化への機運が高まっていたが、田中は訪中3日前の9月22日に中落合の石橋宅を訪れ石橋から周恩来宛の書簡を託されている。田中訪中の結果、日中国交正常化が成立すると、石橋はこれを祝賀するメッセージを発表している。 その後は病状が悪化し、1973年4月25日午前5時に脳梗塞のため東京都内の自宅で死去。享年90(満88歳没)。死去時点で内閣総理大臣経験者としては最年長であった(石橋の死去に伴い最年長は片山哲となる。最古参は東久邇宮稔彦王のまま)。 1884年(明治17年)
1885年(明治18年)
1894年(明治27年)
1895年(明治28年)
1902年(明治35年)
1903年(明治36年)
1904年(明治37年)
1907年(明治40年)
1908年(明治41年)
1909年(明治42年)
12月 - 東京麻布の歩兵第3連隊に入営。 1910年(明治43年)
1911年(明治44年)
9月 - 見習い士官として、3ヶ月の召集を受ける。 1912年(大正元年)
1913年(大正2年)
1916年(大正5年)
1917年(大正6年)
1924年(大正13年)
12月 - 東洋経済新報社第五代主幹に就任。 1925年(大正14年)
1935年(昭和10年)
1940年(昭和15年)
1941年(昭和16年)
1945年(昭和20年)
1946年(昭和21年)
4月 - 戦後初の衆議院議員総選挙に立候補して落選。 5月 - 第1次吉田内閣の大蔵大臣に就任。 1947年(昭和22年)
5月 - GHQにより公職追放となる。 1951年(昭和26年)
1952年(昭和27年)
1953年(昭和28年)
1954年(昭和29年)
12月 - 第1次鳩山内閣の通商産業大臣に就任する。 1956年(昭和31年)
1957年(昭和32年)
2月 - 自由民主党総裁と総理大臣を辞任。 10月 - 早稲田大学より名誉博士号を授与される。 1959年(昭和34年)
1963年(昭和38年)
11月 - 総選挙で落選し、政界を引退。 1964年(昭和39年)
1968年(昭和43年)
1973年(昭和48年)
4月28日 - 池上本門寺で密葬。 5月12日 - 築地本願寺で自民党葬。戒名は、謙徳院殿慈光湛山日省大居士。遺骨は分骨され、一部は日暮里の善性寺、身延山久遠寺に葬られる。 明治天皇と明治時代を記念した明治神宮建設計画に際して。 第一次大戦参戦(ドイツへの開戦)と対支21ケ条要求について 一切を棄つるの覚悟 中央集権から分権主義へ 経済学者の田中秀臣は「石橋湛山の小国主義は、政府・日本銀行の適切な政策運営で日本の潜在成長をサポートしていく、というリフレ政策の立場を基礎にしていた」と指摘している。田中は「『リフレの経済学』は小国主義的であり、自国の政策によって国内の経済・社会問題を解決し、他国を政策に利用せず不干渉で近隣諸国と友好をはかる方策と言える」と指摘している。 日本国憲法と軍隊の在り方を巡る言動は、時代状況によりいくつかの変遷がある。 1946年(昭和21年)3月に「憲法改正草案を評す」で、日本国憲法に関しては憲法九条に該当する草案第二章の戦争放棄を「最早日本は敗戦国でも、四等、五等でもなく、栄誉に輝く世界平和の一等国、予ねて日本に於て唱えられた真実の神国に転ずるものである。之れに勝った痛快事があろうか」と評価した。 だが1950年(昭和25年)ごろからは、自衛軍設置の主張や共産・社会主義との対決姿勢(後に自ら廃稿した「第三次世界大戦と世界国家」)を鮮明にし、政治家としても「反吉田」路線に立ち、憲法改正・再軍備論者として活動した。同時期には「破局的な第三次世界大戦がいやだというなら、そこ(各国の軍備全廃)まで行かなきゃダメだ」と駄目を押し「その場合は国を亡ぼしてもいいという覚悟をしなければとてもできない」(1952東洋経済新報「問われるままに」)と現実と理想のギャップを示しながら、熟慮・覚悟の伴わない理想論を戒めている。一方で私的に記した日記の中でも、1950年の記述で「今日の世界に於て無軍備を誇るのは、病気に満ちた社会に於て医薬を排斥する或種の迷信」と非武装中立の主張を公的な発言以上に辛辣に評してもいる。 1953年の総選挙では、鳩山自由党の政策委員長として政策をまとめて「憲法を国情に適するように改正」「戦争否定の精神は国策として存置するが、戦争発生防止のため自衛軍を組織する」などを明記した。これは後年の「国としての軍備を持たず国際紛争を武力をもって解決していくのではないと、世界に宣言したことは…人類最高の宣言であると信じている。これが少し時勢に早かったというのであれば、修正の箇所だけあとに加える…『九条は現代の世代において論理通りにいかぬので、世界の国々が恒久平和の理想に燃え、同一精神、同一歩調のとれるまで、しばらく停止する』という具合」という主張(1966「中小企業」)にも合致する。 1957年(昭和32年)、首相に就任した翌年の新春特大号の『東洋経済』「石橋湛山大いに語る」では「国連に対して義務を負うということは、軍備ということも考えられる」とし、同時期の「プレスクラブ演説草稿」では「世界の実情から判断して、国の独立安全を保つのに必要な最小限の防衛力はこれを備える国際義務を日本国民は負うものであると信じます」としている。ただし同稿の中で「人類を救わんとするならば、われわれは軍備拡充競争を停止し、戦争を絶滅しなければなりません」と、冷戦の平和解決と軍縮を主張した。 米ソ日中平和同盟を提唱してからは将来の理想を語りながらではあるが、再び平和憲法の意義を強調(「池田外交路線へ望む」)しながら、各国の軍備でなく国際警察軍によって平和を守る「世界連邦」実現への努力を説いている(「日本防衛論」)。 石橋は後年「私の戦争反対論には、理屈の外に、実はこの(軍隊時代の)実弾演習の実感が強く影響していたと思う」「もし世の人が皆戦争をさように身近に考えたら、軽率な戦争論は跡を絶つに違いない」(「湛山回想」)と振り返っている。戦争を嫌悪した湛山だが、彼にとっての軍隊体験は、平和についての思索や公共生活の訓練として実のあるものだったようである。 憲法は国民に義務を負わせるべきか、という議論に関しては、専制独裁に対抗するために主権を抑えようとした「十九世紀の憲法」からの脱却を説き、民主主義国においては国民が権利を持つ以上は義務を自覚しなければいけないと主張した。「義務の規定に周密でない憲法は、真に民主的なものとはいえない」と憲法における義務規定の充実を望んだ。 石橋が首相を退陣した時の潔さは国民に高く評価されることが多いが、弁護士の正木ひろしは「(私的な感情で)公務(首相の地位)を放棄した」と厳しく批判している。そもそも、自民党総裁選で1位優位であった岸信介に対抗する形で2位候補だった石橋と石井光次郎と2位・3位連合を組み1位当選を果たすことで岸総理を阻止して、石橋総理総裁が誕生した経緯があった。しかし、冬場に自身の体調を考慮しない遊説を行ったために風邪を引いて寝込み、絶対安静が必要との医師の診断を受けた石橋は、連合相手であるが閣内に入れていなかった石井を差し置く形で、閣内に副総理格外相として迎えていた岸信介をただちに総理臨時代理として総理総裁を禅譲し、平和裏に岸総理総裁が誕生した。予算審議が目前であるにもかかわらず自身の不考慮が原因で寝込んだことで、重たい責任がある首相として最初の国会で一度も演説や答弁を行うことができないまま首相退陣するという愚行を国民にさらしたあげく、次期総理総裁を当初の連合相手の石井ではなく総裁選のライバルであった岸に渡し、総裁選時の岸総理阻止という理念をも反故にしたというのである。 その後、東洋経済新報社で石橋の『全集』が制作される時に、編集者は全集の月報の執筆を正木に依頼した。かつて石橋の部下でもあったその編集者は、石橋への礼讃一色の記事を集めたのでは、一方の意見に偏らない言論の必要性を唱えて来た石橋の信念に反すると考えたのである。正木が書いた石橋への批判はそのまま掲載された。 縁深い山梨県甲府市には「山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館」がある。 1952年(昭和27年)12月1日から1968年(昭和43年)3月31日まで立正大学の学長を務めている。 1964年(昭和39年)4月29日:勲一等旭日大綬章 1973年(昭和48年)4月25日:叙・従二位、勲一等旭日桐花大綬章追贈 父・日布(日蓮宗僧侶・身延山久遠寺第81世法主)
湛山は、「もし望月師に預けられず、父の下に育てられたら、あるいはその余りに厳格なるに耐えず、しくじっていたかもしれぬ。…望月上人の薫陶を受けえたことは、一生の幸福であった。そうしてくれた父にも深く感謝しなければならない」と『湛山回想』に記している。 母・きん(畳問屋石橋藤左衛門の二女)
妹・とし
弟・義朗
妹・しづ
弟・湛正
妹・とよ
自家(東京都) 妻・うめ(岩井尊記の三女、岩井尊信妹) 長男・湛一(石橋湛山記念財団理事長、三菱銀行員)
孫・久美子(1947年生、王子製紙社長、日本商工会議所会頭などを歴任した足立正の孫・足立正晃の妻) 孫・省三(1949年生、石橋湛山記念財団理事) 長女・歌子(駐メキシコ大使千葉皓の妻、1916年生、うた子とも) 次男・和彦 - クェゼリン島で戦没。 山梨勝之進(海軍大将) 本郷房太郎(陸軍大将) 伊藤忠兵衛 (二代)(伊藤忠財閥二代目当主)など 鈴木幸夫著『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』(1965年)89頁によれば、「長男・湛一が、資産家赤星喜介の娘と結婚してから、その一族たちと、いささか閨閥的な形ができた。一族では、元蔵王鉱業取締役赤星四郎、元千代田火災副社長赤星五郎などが目ぼしい。また、長女の夫、千葉皓が外交官として知られていた。したがって、閨閥と政権の関係をうんぬんするような材料はない。かれの積極的な経済思想と、学識、能力を党内外に買われ、宰相の地位をえたのであって、石橋政権と閨閥は無縁である。」という。 石橋湛山全集(全15巻、全集編纂委員会 編、東洋経済新報社、1970-72年)、別巻『石橋湛山写真譜』(1973年)
石橋湛山評論集 (松尾尊兊 編、岩波文庫、1984年、ISBN 4-00-331681-9/ワイド版1991年、ISBN 4-00-007005-3) 小日本主義-石橋湛山外交論集 (増田弘 編、草思社、1984年5月、ISBN 4-7942-0186-9) 石橋湛山評論選集 (東洋経済新報社、1990年6月、ISBN 4-492-06052-9) リベラリストの警鐘 石橋湛山著作集1-経済論 (長幸男 編、東洋経済新報社、1995年11月、ISBN 4-492-06081-2) エコノミストの面目 石橋湛山著作集2-経済論 (中村隆英 編、東洋経済新報社、1995年11月、ISBN 4-492-06082-0) 大日本主義との闘争 石橋湛山著作集3-政治・外交論 (鴨武彦 編、東洋経済新報社、1996年1月、ISBN 4-492-06083-9) 改造は心から 石橋湛山著作集4-文芸・社会評論 (谷沢永一 編、東洋経済新報社、1995年12月、ISBN 4-492-06084-7) 湛山読本 いまこそ、自由主義、再興せよ。(船橋洋一編、東洋経済新報社、2015年)。論説70編を選び解説。 湛山回想 (岩波文庫(解説長幸男)、1985年12月、ISBN 4-00-331682-7)。初版は毎日新聞社、1951年 湛山座談 (岩波書店〈同時代ライブラリー〉、1994年2月、ISBN 4-00-260173-0) 石橋湛山 湛山回想 (人間の記録47:日本図書センター、1997年12月、ISBN 4-8205-4290-7) 石橋湛山日記 (上下・2巻組、石橋湛一・伊藤隆 編、2001年3月、みすず書房、ISBN 4-622-03676-2)
映画 小説吉田学校(1983年、東宝、演:里木佐甫良) ^ 1956年4月自由民主党総裁選挙は事実上の信任投票であった。 ^ 湛山の『私の履歴書』によれば「幼名は省三(せいぞう)と呼ばれ、愛称はセイチャンであった。“吾れ日に三たび吾が身を省みる”という論語の有名な言から出ている文字である」と述べている。 ^ 湛山の『私の履歴書』によれば、「父が若くして弟子入りした山梨県の昌福寺という日蓮宗の寺院には古くから湛の字を名につけるならわしがあった。父は湛誓と称し、私もこの理由で中学を卒業するころ湛山と改名したのである」という。 ^ 湛山は『湛山回想』の中で、「明治三十五年三月、中学を卒業すると、東京に出た。六月か、七月かにある第一高等学校の入学試験を受けるためであった。…神田錦町の正則英語学校に通った。…ここで私は、入学試験の準備をすることにした。しかし私は、この学校に来てみて驚いた。…大きな教室に、生徒はげたばきのままで雑然と入り込み、出席簿をつけるでもない。人気のある先生の時間には、あふれて、立っている生徒もある。かと思えば、ある先生の時間には、数えるほどしか出席者がない。しかも講義の途中でさっさと持ち物をかたづけて帰って行く生徒もある。いなか者の私は、これでも学校かとあきれたのである。…入学試験準備のための、そのころの学校は回想してみても愉快なものではなかった」と書いている。 ^ 日本国憲法第63条では首相は議院から要求されれば国会に出席しなければならない規定が存在する。 ^ 病気療養していた首相に議会決議してまで国会出席を要請することはしなかった。 ^ 首相として迎えた第26回通常国会の施政方針演説は岸が代読している。 ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰 監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典』(第5版)三省堂、2009年1月、104頁。ISBN 978-4-385-15801-3。 ^ 姜 2014, p. 1. ^ 増田 1995, pp. 3–4. ^ 増田 1995, p. 4. ^ 姜 2014, p. 2. ^ 浅川 2008, p. 30. ^ 浅川 2008, p. 194. ^ 浅川 2008, pp. 30–31. ^ 浅川 2008, p. 15. ^ 浅川 2008, p. 17. ^ 浅川 2008, p. 18. ^ 浅川 2008, p. 19. ^ 増田 1995, p. 9. ^ 姜 2014, p. 31. ^ 「陸軍後備役将校同相当官服役停年名簿. 大正15年4月1日調」 ^ 姜 2014, p. 32. ^ 姜 2014, p. 29. ^ 浅川 2008, p. 79. ^ 理事長挨拶 社団法人 経済倶楽部 ^ 浅川 2008, pp. 79–80. ^ 牧野 & 小堀 2014. ^ 松尾 1984, pp. 310–313. ^ 石橋湛山『石橋湛山評論選集』東洋経済新報社、1990年6月、391-392頁。ISBN 4-492-06052-9。 ^ 麻木, 田村 & 田中 2012, p. 78. ^ 麻木, 田村 & 田中 2012, p. 79. ^ “5-5 総選挙 史料にみる日本の近代”. 国立国会図書館. 2020年8月14日閲覧。 ^ 「過度経済力集中排除法等を廃止する法律(昭和30年7月25日法律第87号)」審議経過 - 国立国会図書館、日本法令索引。審議では同法廃止に懸念を持つ日本社会党田中武夫などからの質疑を受けている。 ^ 昭和32年 - 日本医師会 (PDF) ^ “国民皆保険・皆年金(12)国民皆保険の達成”. 読売新聞. (2013年8月9日). https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20130809-OYTEW62023/ 2016年10月25日閲覧。 ^ 香西泰『高度成長の時代』日本評論社、1981年4月、114頁。全国書誌番号:81022262。 ^ ジー・ビー『総理大臣 全62人の評価と功績』アントレックス〈サプライズbook〉、2020年9月8日、93頁。ASIN B08HMMVKYW。 ^ 鈴村 2023, p. 207. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断』 近代編、吉川弘文館、2010年4月28日、付録「近代有名人の死因一覧」3頁。ISBN 978-4-642-08035-4。 ^ 船橋洋一『21世紀 地政学入門』文藝春秋〈文春新書 1064〉、2016年2月、249頁。ISBN 978-4-16-661064-8。 ^ 田中秀臣『経済政策を歴史に学ぶ』ソフトバンククリエイティブ〈ソフトバンク新書〉、2006年8月、212-213頁。ISBN 4-7973-3655-2。 ^ 「石橋湛山大いに語る」『東洋経済新報』第2759号、1957年1月5日、26-29頁。 ^ 東洋経済昭和21年3月16日号「社論」など ^ 石橋湛山全集編纂委員会, pp. 287, 297. ^ 「復活第1回生存者叙勲201人発表」『読売新聞』1964年4月28日夕刊1面 ^ 「故石橋氏に桐花大綬章」『読売新聞』1974年4月26日夕刊2面 ^ 増田 1995, pp. 4–5. ^ 長谷川ほか 2007, p. 111. ^ 石橋湛山全集編纂委員会 2011, p. 214. ^ 石橋湛山全集編纂委員会 2011, p. 215. ^ 石橋湛山全集編纂委員会 2011, p. 217. ^ 人事興信所 編『人事興信録』 第15版、人事興信所、1948年、イ52。NDLJP:2997934/79。 ^ 竹内正浩『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣』 昭和・平成篇、実業之日本社、2017年7月、頁。ISBN 978-4-408-33718-0。 ^ 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年7月、339頁。ISBN 4-651-70079-9。 ^ https://www.waseda.jp/top/news/67570 ^ https://www.ifsa.jp/index.php?Gishibashitanzan 浅川保『偉大な言論人 石橋湛山』山梨日日新聞社〈山日ライブラリー〉、2008年4月。ISBN 978-4-89710-723-3。 麻木久仁子、田村秀男、田中秀臣『日本建替論 100兆円の余剰資金を動員せよ!』藤原書店、2012年2月。ISBN 978-4-89434-843-1。 石橋湛山全集編纂委員会 編「石橋湛山年譜」『石橋湛山全集』 第15巻 補訂版、東洋経済新報社、2011年7月。ISBN 978-4-492-06171-8。 姜克実 著、日本歴史学会 編『石橋湛山』吉川弘文館〈人物叢書〉、2014年2月。ISBN 9784642052719。 日本経済新聞社『私の履歴書』 第6集(石橋湛山ほか)、日本経済新聞社、1958年、37-96頁。全国書誌番号:58011535。 のち改訂版
増田弘『石橋湛山 リベラリストの真髄』中央公論社〈中公新書〉、1995年5月。ISBN 4-12-101243-7。 松尾尊兊 編『石橋湛山評論集』岩波書店〈岩波文庫〉、1984年8月。ISBN 978-4-0033-1681-8。 小島直記『気概の人 石橋湛山』 東洋経済新報社(新版)、2004年。旧版『異端の言説 石橋湛山』新潮社(上下)、1978年 筒井清忠『石橋湛山 一自由主義政治家の軌跡』 中央公論社〈中公叢書〉、1986年 江宮隆之『政治的良心に従います 石橋湛山の生涯』 河出書房新社、1999年 佐高信『良日本主義の政治家 いま、なぜ石橋湛山か』 東洋経済新報社、1994年
半藤一利『戦う石橋湛山 昭和史に異彩を放つ屈伏なき言論』 東洋経済新報社、2008年(新版)。他に中公文庫、1999年/ちくま文庫、2019年 増田弘『石橋湛山 思想は人間活動の根本・動力なり』 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉、2017年 保阪正康『石橋湛山の65日』東洋経済新報社、2021年 鈴村裕輔『政治家 石橋湛山 見識ある「アマチュア」の信念』中央公論新社〈中公選書〉、2023年9月。ISBN 978-4-12-110141-9。 増田弘『政治家・石橋湛山研究 リベラル保守政治家の軌跡』東洋経済新報社、2023年 増田弘『石橋湛山研究 「小日本主義者」の国際認識』東洋経済新報社、1990年
姜克実 『石橋湛山の戦後 引き継がれゆく小日本主義』 東洋経済新報社、2003年
田中秀征『日本リベラルと石橋湛山 いま政治が必要としていること』 講談社選書メチエ、2004年 長幸男『石橋湛山の経済思想 日本経済思想史研究の視角』 東洋経済新報社、2009年 上田美和『石橋湛山論 言論と行動』吉川弘文館、2012年 松尾尊兊『近代日本と石橋湛山 『東洋経済新報』の人びと』東洋経済新報社、2013年 牧野邦昭、小堀聡「石橋湛山と「戦時経済特別調査室」―名古屋大学所蔵「荒木光太郎文書」より」『自由思想』第135号、2014年、38-54頁、CRID 1522825130143327744。 石橋氏 石橋湛山賞 リフレーション 石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞 三浦銕太郎 石田博英 宇都宮徳馬 松村謙三 三木武夫
石橋湛山賞(東洋経済 WebSite内) - 2008年12月2日時点のアーカイブ 石橋湛山 連載一覧|連載/石橋湛山を語る - 東洋経済新報社 115周年 - ウェイバックマシン(2016年8月18日アーカイブ分) 立正大学 石橋湛山関係文書 | 国立国会図書館 憲政資料室 早稲田人名データベース 石橋湛山 早稲田大学表彰データベース|名誉博士 石橋湛山 - NHK人物録 『石橋湛山』 - コトバンク 「「石橋湛山」の調べ方」(立正大学古書資料館) - レファレンス協同データベース 表 話 編 歴 伊藤博文 黑田淸隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護煕 羽田孜 村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 小沢佐重喜 田村文吉 佐藤栄作 高瀬荘太郎 塚田十一郎 武知勇記 松田竹千代 村上勇 石橋湛山 平井太郎 田中角栄 寺尾豊 植竹春彦 鈴木善幸 小金義照 迫水久常 手島栄 小沢久太郎 古池信三 徳安実蔵 郡祐一 新谷寅三郎 小林武治 河本敏夫 井出一太郎 広瀬正雄 三池信 久野忠治 原田憲 鹿島俊雄 村上勇 福田篤泰 小宮山重四郎 服部安司 白浜仁吉 大西正男 山内一郎 箕輪登 檜垣徳太郎 奥田敬和 左藤恵 佐藤文生 唐沢俊二郎 中山正暉 片岡清一 村岡兼造 大石千八 深谷隆司 関谷勝嗣 渡辺秀央 小泉純一郎 宮澤喜一 神崎武法 日笠勝之 大出俊 井上一成 日野市朗 堀之内久男 自見庄三郎 野田聖子 八代英太 平林鴻三 片山虎之助 竹田儀一 野溝勝 岩本信行 木村小左衛門 木村小左衛門 本多市郎 岡野清豪 岡野清豪 本多市郎 塚田十一郎 西田隆男 川島正次郎 太田正孝 田中伊三次 郡祐一 青木正 愛知揆一 青木正 石原幹市郎 石原幹市郎 山崎巌 周東英雄 安井謙 篠田弘作 早川崇 赤沢正道 吉武恵市 永山忠則 塩見俊二 藤枝泉介 赤沢正道 野田武夫 秋田大助 渡海元三郎 福田一 江﨑真澄 町村金五 福田一 天野公義 小川平二 加藤武徳 渋谷直蔵 後藤田正晴 石破二朗 安孫子藤吉 世耕政隆 山本幸雄 田川誠一 古屋亨 小沢一郎 葉梨信行 梶山静六 坂野重信 渡部恒三 奥田敬和 吹田愰 塩川正十郎 村田敬次郎 佐藤観樹 石井一 野中広務 深谷隆司 倉田寛之 白川勝彦 上杉光弘 西田司 野田毅 保利耕輔 西田司 片山虎之助 後藤田正晴 江﨑真澄 玉置和郎 山下徳夫 高鳥修 金丸三郎 池田行彦 水野清 塩崎潤 佐々木満 岩崎純三 鹿野道彦 石田幸四郎 山口鶴男 江藤隆美 中山正暉 中西績介 武藤嘉文 佐藤孝行 小里貞利 太田誠一 続訓弘 片山虎之助 片山虎之助 麻生太郎 竹中平蔵 菅義偉 増田寛也 鳩山邦夫 佐藤勉 原口一博 片山善博 川端達夫 樽床伸二 新藤義孝 高市早苗 野田聖子 石田真敏 高市早苗 武田良太 金子恭之 寺田稔 松本剛明 鈴木淳司 松本剛明 村上誠一郎 表 話 編 歴 稲垣平太郎 池田勇人 高瀬荘太郎 横尾龍 高橋龍太郎 小笠原三九郎 岡野清豪 愛知揆一 石橋湛山 水田三喜男 前尾繁三郎 高碕達之助 池田勇人 石井光次郎 椎名悦三郎 佐藤栄作 福田一 櫻内義雄 三木武夫 菅野和太郎 椎名悦三郎 大平正芳 宮澤喜一 田中角栄 中曽根康弘 河本敏夫 田中龍夫 江﨑真澄 佐々木義武 田中六助 安倍晋太郎 山中貞則 宇野宗佑 小此木彦三郎 村田敬次郎 渡辺美智雄 田村元 三塚博 梶山静六 松永光 武藤嘉文 中尾栄一 渡部恒三 森喜朗 熊谷弘 畑英次郎 橋本龍太郎 塚原俊平 佐藤信二 堀内光雄 与謝野馨 深谷隆司 平沼赳夫 平沼赳夫 中川昭一 二階俊博 甘利明 二階俊博 直嶋正行 大畠章宏 海江田万里 鉢呂吉雄 枝野幸男 茂木敏充 小渕優子 宮澤洋一 林幹雄 世耕弘成 菅原一秀 梶山弘志 萩生田光一 西村康稔 齋藤健 武藤容治 表 話 編 歴 膳桂之助 石橋湛山 高瀬莊太郎 和田博雄 栗栖赳夫 泉山三六 青木孝義 周東英雄 周東英雄 山崎猛 池田勇人 小笠原三九郎 水田三喜男 岡野清豪 愛知揆一 高碕達之助 高碕達之助 宇田耕一 河野一郎 三木武夫 世耕弘一 菅野和太郎 迫水久常 藤山愛一郎 宮澤喜一 高橋衛 藤山愛一郎 宮澤喜一 菅野和太郎 佐藤一郎 木村俊夫 有田喜一 小坂善太郎 内田常雄 倉成正 福田赳夫 野田卯一 倉成正 宮澤喜一 小坂徳三郎 正示啓次郎 河本敏夫 塩崎潤 河本敏夫 金子一平 平泉渉 近藤鉄雄 中尾栄一 原田憲 愛野興一郎 越智通雄 高原須美子 相澤英之 越智通雄 野田毅 船田元 高鳥修 久保田真苗 寺澤芳男 高村正彦 宮崎勇 田中秀征 麻生太郎 尾身幸次 堺屋太一 額賀福志郎 額賀福志郎 麻生太郎 竹中平蔵 与謝野馨 大田弘子 与謝野馨 林芳正 菅直人 荒井聰 海江田万里 与謝野馨 古川元久 前原誠司 甘利明 石原伸晃 茂木敏充 西村康稔 山際大志郎 後藤茂之 新藤義孝 赤沢亮正 表 話 編 歴 膳桂之助 石橋湛山 高瀬莊太郎 和田博雄 栗栖赳夫 泉山三六 青木孝義 周東英雄 廃止 表 話 編 歴 松平慶永 伊達宗城 大久保利通 大隈重信 佐野常民 松方正義 松方正義 渡辺国武 井上馨 松田正久 西園寺公望 曾禰荒助 阪谷芳郎 桂太郎 山本達雄 若槻禮次郎 高橋是清 武富時敏 寺内正毅 勝田主計 市来乙彦 井上準之助 勝田主計 濱口雄幸 早速整爾 片岡直温 三土忠造 藤井真信 町田忠治 馬場鍈一 結城豊太郎 賀屋興宣 池田成彬 石渡荘太郎 青木一男 櫻内幸雄 河田烈 小倉正恒 賀屋興宣 津島壽一 広瀬豊作 渋沢敬三 石橋湛山 矢野庄太郎 栗栖赳夫 北村徳太郎 泉山三六 大屋晋三 臨時代理 池田勇人 向井忠晴 小笠原三九郎 一万田尚登 佐藤栄作 水田三喜男 田中角栄 福田赳夫 植木庚子郎 愛知揆一 大平正芳 坊秀男 村山達雄 金子一平 竹下登 渡辺美智雄 宮澤喜一 橋本龍太郎 海部俊樹 羽田孜 林義郎 藤井裕久 武村正義 久保亘 三塚博 松永光 宮澤喜一 宮澤喜一 塩川正十郎 谷垣禎一 尾身幸次 額賀福志郎 伊吹文明 中川昭一 与謝野馨 藤井裕久 菅直人 野田佳彦 安住淳 城島光力 麻生太郎 鈴木俊一 加藤勝信 表 話 編 歴 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤栄作 田中角栄 三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曽根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 河野洋平 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 谷垣禎一 菅義偉 岸田文雄 石破茂 表 話 編 歴 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ゼネコン汚職 KK戦争 経世会(金竹小)分裂 嘘つき解散 小選挙区比例代表並立制 自社さ連立政権 阪神・淡路大震災 失われた10年 六大改革と中央省庁再編の決定 保保連合構想 金融国会 ITバブル ブッチホン 五人組 KSD事件 加藤の乱 神の国解散 自公連立政権 聖域なき構造改革 金融再生プログラム 郵政民営化 年金未納問題(政治家の年金未納) 小泉劇場(小泉旋風)と抵抗勢力 日歯連事件(日歯連闇献金事件) 中二階と麻垣康三 美しい国 憲法改正論議(国民投票法) 防衛省昇格 教育基本法改正 価値観外交(自由と繁栄の弧) 再チャレンジ 年金記録問題 フールファイブ 大宏池会構想 参院選惨敗、第一党より転落 麻生包囲網 中宏池会 大連立構想 世界金融危機(リーマン・ショック) 麻生おろし 自民大敗、民主大勝 参院選勝利、改選第一党へ復帰 東日本大震災 三党合意(社会保障と税の一体改革) 結党以来初の総裁再登板 近いうち解散 3年ぶりの政権奪還、自公で2/3確保 アベノミクス 参院選圧勝、ねじれ解消 2020年夏季五輪開催地が東京に決定 国家安全保障会議創設 特定秘密保護法制定 防衛装備移転三原則 地方創生 一億総活躍社会 集団的自衛権の行使容認(平和安全法制) 森友学園問題及び加計学園問題 組織犯罪処罰法改正によるテロ等準備罪新設 都民ファーストの会と三大政党制 憲法改正論議 憲政史上初の皇位継承と令和改元 河井夫妻選挙違反事件 桜を見る会問題 新型コロナウイルス感染症の流行 岸破義信 安倍政権の継承 東北新社役職員による総務省幹部接待問題 2020年東京オリンピック・パラリンピック デジタル庁設置 未来選択選挙 新しい資本主義 ロシアによるウクライナ侵攻への対応 安倍晋三銃撃事件 参院選で改選過半数を獲得 旧統一教会問題 政治資金パーティー収入の裏金問題 自公大敗 石破おろし 宏池会(宏池会系) 宏池会(池田派 → 前尾派 → 大平派 → 鈴木派 → 宮澤派) → 木曜研究会(加藤派 → 小里派 → 谷垣派 → 古賀派に合流×) 、※新財政研究会(堀内派 → 丹羽・古賀派) → 宏池政策研究会(古賀派 → 岸田派 → ×)、※大勇会(河野派) → 為公会(麻生派) → 志公会(麻生派)、※有隣会(谷垣グループ → ×) 平成研究会(木曜研究会系) 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2024/11/15 22:43更新
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ishibashi tanzan
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