船木誠勝の情報(ふなきまさかつ) 格闘家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
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船木 誠勝さんについて調べます
■名前・氏名 |
船木誠勝と関係のある人
武藤敬司: このほか同期の船木誠勝は若手時代の武藤が「かったるいよ」が口癖でよく聞いた印象があると述べている。 北岡悟: 2007年8月10日、P's LABで開かれた記者会見で、大晦日にHERO'Sで現役復帰することを表明した船木誠勝との対戦を希望したが、船木にまったく取り合ってもらえなかった。 関根勤: パンクラスでただ一度行われた船木誠勝対鈴木みのる戦も観戦しており、試合評を格闘技雑誌に発表している。 武藤敬司: 全日本に移籍後初となる長期欠場となったが、9月10日、船木誠勝とのシングルマッチで復帰。 千葉真一: 船木誠勝は「千葉真一さんがお亡くなりになられました。 テリー=ファンク: 2014年12月11日、後楽園ホールにて行われた東京愚連隊興行にてマスカラス&船木誠勝と組み、藤原喜明、NOSAWA論外、カズ・ハヤシ組と対戦。 山本小鉄: この様な人格者としての面を持つことから、新日本プロレスを離れて総合格闘技方面に行った前田や、船木誠勝などからも敬われていた。 戸塚純貴: (2019年12月6日、キノフィルムズ) - 船木誠勝 役 桜庭和志: 2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!のメインイベントで7年ぶりに復帰した船木誠勝と対戦し、チキンウィングアームロックで一本勝ちを収める。 柴田勝頼: 船木誠勝&河野真幸組の対戦相手Xとして、桜庭と共に登場し、試合は桜庭が河野からチキンウィングフェイスロックでギブアップ勝ちを収めた。 柴田勝頼: また、船木誠勝とともにチームARMSを発足させたことも明らかにした。 島田弘久: 格闘技のテレビ中継における実況の第一人者で、コロシアム2000ヒクソン・グレイシー対船木誠勝の一戦や多くのボクシング世界戦を実況している。 柴田勝頼: 2006年3月22日、前田日明・船木誠勝らの脱退騒動もあった「BIG MOUTH ILLUSION III」での門馬秀貴戦は、門馬のプロレスへの適応が高かったこともあり(プロレス参戦2戦目であった)、柴田のベストバウトと言われるほど評価が高い。 獣神サンダー・ライガー: 2011年8月27日、ALL TOGETHER 東日本大震災復興支援チャリティープロレスに登場し、かつて新日本の同期だった船木誠勝、佐野巧真とトリオを結成して鈴木みのる&タイチ&青木篤志組と対戦、最後は船木が青木からギブアップを奪い勝利を収めた。 中井光義: 2017年1月、イノキ・ゲノム・フェデレーション(IGF)が開催するNEWへのレギュラー参戦が発表され、4月5日、後楽園大会で船木誠勝と対戦。 垣原賢人: その後、当時U系では数少ない使い手であったニールキックや船木誠勝に影響を受けた掌打といったスピーディな打撃技や、会場を沸かせる若さあふれる小気味いいファイトにより台頭。 双羽黒光司: 北尾の没後、当時控室にいた船木誠勝が動画サイトで舞台裏を証言している。 ロベルト=デュラン: 1992年、日本・東京体育館で船木誠勝と異種格闘技戦。 桜庭和志: 2007年8月28日のHERO'S記者会見において、7月16日の大会で現役復帰を表明していた船木誠勝に「桜庭選手と試合をしてみたい」と対戦要求を受けた。 ロベルト=デュラン: 1992年4月19日に、東京体育館での藤原組の旗揚げ一周年記念興行で船木誠勝と異種格闘技戦を行った。 武藤敬司: 船木誠勝、野上彰も同期生である。 山本宜久: だが、練習後に船木誠勝に殴打され、顎を複雑骨折。 バス=ルッテン: 1994年1月19日、総合格闘技3戦目で船木誠勝と対戦しアンクルホールドで敗れると、グラップリングテクニックの重要性を身をもって知ったルッテンは、オランダへ帰国してからも学べるよう、パンクラス道場での船木らのトレーニングをテープに録画するようになった。 ヒクソン=グレイシー: 日本においては、総合格闘技の試合で高田延彦や船木誠勝など著名なプロレスラー、格闘家を相次いで破った。 藤本京太郎: これを受けて全日本プロレスが京太郎にオファーを出し、同年6月19日の両国国技館大会において船木誠勝との対戦でプロレスデビューを飾った。 セーム=シュルト: 1998年にはパンクラスで1月16日に鈴木みのる、9月14日に船木誠勝から勝利した。 バス=ルッテン: 最初は総合格闘技に順応するのに苦労するが、旗揚げするパンクラスの外国人選手を探すために道場へ視察に来た船木誠勝と鈴木みのるのスカウトを受け、1993年9月21日のパンクラス旗揚げ大会に参戦するチャンスに恵まれると、ルッテンにとって総合格闘技デビュー戦となった試合を、開始わずか43秒で対戦相手の柳澤龍志を秒殺KOして日本のファンに衝撃を与えた。 秋山準: 三冠ベルトは大森、武藤敬司、太陽ケアの挑戦を退け4度の防衛を果たしたが、8月26日、船木誠勝に試合時間4分37秒で敗れて手放した。 大沢樹生: 挑戦は俳優を通じて知り合った船木誠勝の存在が大きかったという。 藤波辰爾: 11月19日、怜於南は藤波のかつての付き人だった船木誠勝を相手にデビューすることが発表された。 |
船木誠勝の情報まとめ
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船木 誠勝(ふなき まさかつ)さんの誕生日は1969年3月13日です。青森出身の格闘家のようです。
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タイトル歴、戦績などについてまとめました。引退、再婚、卒業、現在、退社、解散、脱退に関する情報もありますね。去年の情報もありました。亡くなられているようです。
船木誠勝のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)船木 誠勝(ふなき まさかつ、1969年3月13日 - )は、日本の男性プロレスラー、総合格闘家、俳優、YouTuber。本名および旧リングネーム:船木 優治(ふなき まさはる)。青森県弘前市出身。血液型O型。 新日本プロレスから新生UWFとプロフェッショナルレスリング藤原組を経て、完全実力主義を標榜するパンクラスを設立し、自らエースとして第一線で活躍した。2000年のヒクソン・グレイシー戦をもって引退、芸能活動などを経て2007年に復帰。2009年からはプロレスラーとして活動している。2015年から大阪にパーソナルトレーニングジム「Hybrid Fitness」を開設し現地に移住している。YouTuberとしても活動している。再婚しており、妻は元舞台女優の喜山いづみ。 青森県南津軽郡尾上町(現平川市)生まれ。1984年3月、弘前大学教育学部附属中学校を卒業し、高校入学の前日に一度不合格であった新日本プロレスに入門。同期は武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也、野上彰(現:AKIRA)、森村方則(現:リッキー・フジ)。 1985年3月3日、ヤングライオン杯に出場し北茨城市民体育館で後藤達俊とデビュー戦を行う。ザ・グレート・カブキ(16歳1ヵ月)の記録を塗り替える、当時史上最年少の15歳11か月でデビュー(現在の最年少記録は中嶋勝彦の15歳9か月)。 1986年1月、第1次UWF崩壊後、新日本プロレスにUターン参戦してきた藤原喜明に師事し、試合前のスパーリングパートナーを務める。 伸びのあるドロップキックを武器に前座戦線を沸かせる。新日本と業務提携にあったUWFの若手、安生洋二・中野龍雄組に、野上彰とタッグを組んで臨んだ試合はUWFスタイルと新日本スタイルが融合する好試合となり前座の名物カードとなった。 1987年2月、ヤングライオン杯に出場。快進撃を続けたが橋本真也に敗れリーグ戦敗退。 1987年3月、堀辺正史の元で骨法を学び始める。 1987年8月19日、「サマーナイトフィーバーイン国技館」で行われたIWGPジュニアヘビー級王座決定トーナメントに出場。1回戦で小林邦昭と対戦し善戦するが11分1秒フィッシャーマンズスープレックスでフォール負け。 1988年4月、ヨーロッパ遠征出発。オットー・ワンツのCWAに参加し、4月から12月までの間、オーストリア、ドイツをサーキットする。船木によれば、この遠征の直前に高田延彦・山崎一夫の2人が船木の送別会を開き、その席で船木に「UWF再興」の意向を伝え、船木もその場で新UWFへの参加を決めたという。前田日明と神新二は遠征先を訪れUWF入団のアプローチをしていた。1989年1月からイギリスに渡り、山田恵一と共に活躍する。 1989年4月10日、海外遠征中に週刊プロレス誌上でUWF移籍を船木が宣言。船木の将来を嘱望した新日本が残留説得を試み、船木曰く「再契約金1000万円、さらに試合のギャラも藤波辰爾・長州力と同ランクとする」との提示も受けたが、アントニオ猪木と前田日明、同時期にUWF移籍を表明していた鈴木みのるを交えた四者話し合いの末、新日本プロレスの円満退社、UWF移籍が決定した。ただ猪木は「社長としての義務が合ったので引き留めた」ものの、個人的には当初から移籍を認めるつもりだったという。 1989年5月4日、第二次UWF1周年記念となる大阪球場大会で、共に新生UWFデビューとなる藤原喜明と対戦する。頭突きを使った藤原が一旦反則負けになるが、船木の希望で試合続行されるもヒザ十字固めで敗退。 1989年8月13日、横浜アリーナで高田延彦と対戦。開始早々、掌打と膝蹴りの連打で高田からダウンを奪う。意識朦朧としながらなんとか立ち上がる高田だがファイティングポーズを取ることもできず、レフリーもカウント9で止め、KOの10カウントを入れなかった。のちにUWF疑惑の判定ナンバーワンとなる曰くつきの試合となった。結果は両者ダウンの応酬の末、高田がバックドロップからのキャメルクラッチでギブアップ勝ちした。 1989年9月7日、「U.W.F. FIGHTING BASE」大会よりリングネームを本名から「船木誠勝」に改名。 1989年11月29日、東京ドームにて「U-COSMOS」開催。UWF対世界の格闘家との異種格闘技戦を目玉とし、船木の対戦相手に当時5年間無敗のキックボクシング世界王者モーリス・スミスが予定されていたが、練習中に腕を骨折し代役として鈴木みのるが抜擢される。しかし鈴木はスミスに幾度もダウンを奪われ惨敗を喫する。 1990年4月15日、負傷による長期欠場からの復帰戦となった鈴木みのる戦ではレガースを着用せず試合を行い、グラップリングのみの展開となった。 1990年5月4日、日本武道館で行われた「UWF THE MEMORIAL」で前田日明と初対決。船木はこの試合レガースを着用せず、前田に対し骨法流の掌底とボクシング仕込みのパンチのコンビネーションを見せ前田をダウンさせるなど善戦したが、体力で圧倒する前田が後ろから抱え込んでの片羽絞めでタップアウト勝ち。試合後、しゃがみこむ船木に前田が耳元で語りかけるシーンが見られた。 1990年8月13日、高田延彦と前回と同日同じ会場で再戦。フットワークも軽やかで高田の打撃をパーフェクトにディフェンスし全く寄せ付けず、10分過ぎ、船木の掌打連打から顔面への膝蹴りで高田の目尻が深くカットしたためレフリーストップ。事実上ノックアウト勝ちを収めた。 1990年12月、第2次UWF解散に伴い、藤原喜明、鈴木みのるらと新UWF藤原組の旗揚げに参加。 1992年4月19日、東京体育館での藤原組の旗揚げ一周年記念興行で、プロボクシング世界4階級制覇のロベルト・デュランと異種格闘技戦を行う。2ラウンドにボディブローでダウンしたが、3ラウンドに捕まえ腕固めで勝利。 1992年10月4日、東京ドームでWKA世界ヘビー級王者・モーリス・スミスと異種格闘技戦を行う。4Rにダウンを奪われたが判定により引き分け。 1992年12月、格闘技的な路線を志向し、藤原組を離脱。藤原組離脱後は、どの団体にも所属せず、鈴木みのる、高橋義生らとともに練習を重ねた。 1993年9月21日、東京ベイNKホールでパンクラスを旗揚げ。メインイベントでケン・シャムロックと対戦し、肩固めで一本負け。 1993年11月27日、全日本キックボクシング連盟の興行に出場し異種格闘技ルールでモーリス・スミスと再戦、1Rチョークスリーパーで勝利し雪辱を果たす。 1994年9月1日、ケン・シャムロックにチョークスリーパーで勝利し旗揚げ戦の雪辱を果たす。 1994年10月15日、鈴木みのるにチョークスリーパーで失神KO勝ち。パンクラスにおける両者の唯一となった対戦を制する。 1994年12月16日・17日、初代キング・オブ・パンクラス決定トーナメントのKING OF PANCRASE TOURNAMENTに出場し、準決勝でケン・シャムロックに肩固めで一本負け。 1996年9月7日、キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチで王者のバス・ルッテンに挑戦し、KO負けを喫し王座獲得に失敗した。 1996年12月15日、キング・オブ・パンクラス王座決定トーナメントに出場し、1回戦で近藤有己にチョークスリーパーで一本勝ち、決勝でジェイソン・デルーシアにTKO勝ちを収め、第4代キング・オブ・パンクラシストとなった。 1997年4月27日、キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチで挑戦者の近藤有己と対戦し、腕ひしぎ十字固めで敗北して、王座から陥落した。 1997年12月20日、キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチで王者の近藤有己に挑戦し、アームロックで勝利して、王座獲得に成功した。 1998年4月26日、キング・オブ・パンクラス・タイトルマッチで挑戦者のガイ・メッツァーと対戦し、判定0-3で敗れ王座から陥落した。 1998年10月26日、國奥麒樹真にロストポイント1-0の判定で敗北。掌底での顔面への打撃・レガースを着用するパンクラスルールでの試合はこれが最後となり、以後はUFC参戦やグレイシー一族との対戦を見据えたオープンフィンガーグローブ着用での顔面への打撃・パウンド有りの総合格闘技路線へ移行する。 1998年12月19日、総合格闘技ルール(パンクラチオンマッチ)でジョン・レンケンにマウントパンチ連打による勝利。 1999年3月1日、パンクラス所属選手の長谷川悟史が道場近くのマンションから転落し、骨折に基づく外傷性出血ショックで死去。団体責任者である社長の尾崎允実と船木は事情聴取を受けた。インタビュー記事によると、船木は現場にはおらず、第一報は車の運転中に携帯電話への連絡により知った。 2000年5月26日、「コロシアム2000」でヒクソン・グレイシーと対戦し、パンチによりヒクソンの左眼窩底を骨折させるも、チョークスリーパーで失神負け。試合後に「格闘技は勝負は1回だけなので、失神したら終わりですから。潔く足を洗う決心をしました」と引退を表明。 2000年12月4日、地元青森県で「船木誠勝 引退記念興行」を開催し、全試合終了後に引退セレモニーが開催。藤原喜明、佐山聡、藤波辰爾、山本小鉄、獣神サンダー・ライガー、夢枕獏らがリングに駆けつけ、最後は船木の胴上げが行われた。 引退後もパンクラスの運営や方向性の面で寄与した他、俳優業、HERO'S等の格闘技中継での解説者等で活動。なお、建設現場で働いた経験もある。 2005年9月、前田日明がスーパーバイザーを務めるプロレス団体「ビッグマウス・ラウド」の旗揚げ戦で、リング上から挨拶、全面協力を宣言した。 2006年2月26日、ビッグマウス・ラウドの旗揚げ記念大会・徳島県で開催された興行でビッグマウス・ラウドを脱退。 2007年3月、総合格闘技のできるプロレスラーの育成を目指し柴田勝頼らと「チームARMS」を結成してコーチに就任。 2007年12月31日、K-1 PREMIUM 2007 Dynamite!!で7年ぶりに現役に復帰。メインイベントで桜庭和志と対戦し、チキンウィングアームロックで一本負け。 2008年4月29日、DREAM.2で行われたミドル級グランプリの1回戦で田村潔司と対戦しTKO負け。 2008年9月23日、DREAM.6でかつての弟子ミノワマンと対戦し、踵固めで現役復帰後、初勝利を収めた。 2009年8月30日、全日本プロレスの両国大会でプロレスに復帰。メインイベントで武藤とタッグを組み、蝶野正洋、鈴木みのる組と対戦。8月31日に全日本プロレスと1年契約を締結。 2009年9月26日、鈴木みのるとシングルで対戦し、鈴木のレフェリー暴行により反則勝ち。 2010年1月3日、武藤敬司と組んで、太陽ケア・鈴木みのるが保持する世界タッグ王座に挑戦。26分50秒、交差式かかと固めでケアからギブアップを奪い新王者に輝いた。純粋なプロレスでは生涯初のベルト獲得になる。 2010年3月21日、両国国技館で行われた全日本プロレス「2010プロレスLOVE in 両国 vol.9」で全日本初となる「金網マッチ」で鈴木みのると再戦し、飛びヒザ蹴りでKO勝利。 2010年4月、チャンピオン・カーニバルに初出場。唯一無敗のままリーグ戦を突破し鈴木みのると優勝決定戦を争う。13分37秒、鈴木のスタンディングスリーパーで船木がタップし、鈴木が2年連続2度目の優勝を果たす。 2010年8月30日、全日本プロレスに正式に所属。 2012年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会に出場。24年ぶりに参戦した新日本プロレスで、河野真幸と組んで、永田裕志、井上亘組と対戦したが、試合中に永田の膝蹴りを顔面に喰らい、左頬骨を骨折。治療の為に半年間の長期欠場を余儀なくされた。 2012年6月17日、全日本プロレス「40th Anniversary Year CROSS OVER 2012」の開幕戦となった後楽園ホール大会で復帰。田中稔とのタッグで、武藤敬司&カズ・ハヤシとの復帰戦に臨み、カズを腕を固めてのツームストンパイルドライバーで3カウントを奪い、復帰戦を勝利で飾った 2012年6月29日、全日本プロレスのオフィシャルサイトで新技「変型ツームストンパイルドライバー」の名称が、公募によって「ハイブリッド・ブラスター」に決定したことが発表された。関節技とドライバー技を組み合わせたこと(ハイブリッド=異質のものを組み合わせ一つの目的を成すもの)、及び船木が「ハイブリッドレスラー」と呼ばれていた事により、船木自身が選考した。 2012年7月29日、全日本プロレスの「40th Anniversary Year 2012 JUNIOR HYPER LEAGUE」最終戦で永田裕志とシングルで対戦し、ハイブリッド・ブラスターで勝利 。 2012年8月26日、三冠ヘビー級選手権試合で王者・秋山準を試合時間4分37秒で破り、三冠王座を奪取。 2012年12月16日、RINGSに出場しヴォルク・ハンの引退試合の相手を務め、ロストポイント2-2で15分時間切れ引分け。 2013年1月26日、大田区総合体育館大会において、4度目の三冠防衛戦で曙に勝利した。 2013年6月30日、両国国技館大会を最後に全日本プロレスを退団。 2013年7月10日、WRESTLE-1に所属。 2014年7月6日、佐藤耕平を破り、ZERO1の世界ヘビー級王座を戴冠した。 2015年6月30日、契約満了につきWRESTLE-1を退団。 2015年11月1日、2年4ヶ月ぶりに全日本プロレス弘前大会に参戦し、ケンドー・カシンとタッグを組み諏訪魔&佐藤光留と対戦。自身がハイブリッド・ブラスターにより佐藤から勝利。 年度末、大阪に男性用プライベートジム「HYBRID FITNESS」を開設。トレーナー勤務のため大阪へ移住。 12月27日、DRAGON GATEに参戦。ストーカー市川を相手に対戦し市川がハイブリッド・ブラスターの恐怖に負けたと思いセコンドがタオル投入をして勝利。 2016年3月に勃発したFMW軍対UWF軍全面抗争では、UWF軍の首領としてデスマッチにも出場。 2016年7月24日、超花火プロレス大阪府立体育会館大会で大仁田厚と爆破王選手権試合を行い、1度も被爆することなく勝利。 2016年12月4日、DDTプロレスリングに初参戦。2017年8月22日より松竹芸能所属となる。 2020年8月30日、ノア川崎大会に参戦し、M's allianceに加入。11月22日には丸藤正道とのタッグで杉浦貴・桜庭和志組の保持するGHCタッグ王座に挑戦するも王座戴冠はならなかった。 2022年1月22日、GHCナショナル王座に挑戦し、チャンピオンの拳王から勝利しナショナル王座を戴冠した。試合後、突如として金剛入りを宣言する。セコンドの丸藤と田中将斗に詰め寄られるも、意思は固く金剛入りを果たした。また、この日以降からコスチュームを赤色に変更した。 タイトル歴第4代無差別級キング・オブ・パンクラス王座 第6代無差別級キング・オブ・パンクラス王座 第45代三冠ヘビー級王座 第56代世界タッグ王座 (パートナーは武藤敬司) 2009年世界最強タッグ決定リーグ戦優勝(パートナーは武藤敬司) 第8代GHCナショナル王座 第17代世界ヘビー級王座 第8代、12代レジェンドチャンピオンシップ 第5代爆破王 第59代KO-Dタッグ王座 (パートナーは坂口征夫) 2023年DRAGON CUP優勝(パートナーはLEONA) 敢闘賞(1990年) 技能賞(1993年) 功労賞(2000年) 戦績
異種格闘技戦
プロレスUWF系の試合結果
2024/06/15 06:09更新
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funaki masakatsu
船木誠勝と同じ誕生日3月13日生まれ、同じ青森出身の人
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