花菱アチャコの情報(はなびしあちゃこ) 漫才師 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
花菱 アチャコさんについて調べます
■名前・氏名 |
花菱アチャコと関係のある人
西岡慶子: 1960年頃には吉本ヴァラエティ(現在の吉本新喜劇)に出演しており、横山エンタツ、花菱アチャコ、笑福亭松之助、白木みのるらと共演。 滝トール: 学生時代から漫才が好きで友人と素人参加の演芸番組などに出演していた、出演した番組では司会だったのが漫画トリオ、審査員が横山エンタツ、花菱アチャコであった。 中邨秀雄: 1955年5月、吉本興業に入社し、駆け出し時代は人気漫才師の花菱アチャコ、大村崑などのマネージャーを務めた。 麻丘めぐみ: 初舞台は梅田コマ劇場で、花菱アチャコや森光子らとの共演だった。 西川のりお: その後相方の脱退で1970年11月、「横中バック・ケース」を結成し、横中バックとして売れない下積み時代を過ごす(名前の由来は横山エンタツ・花菱アチャコの<横>、中田ダイマル・ラケットの<中>を足して屋号にした)。 坂田利夫: このオーディションでは最初は不合格だったが、花菱アチャコから「あの子は何か持っている」と推挙されて、一転して入ることが出来た。 柳家金語楼: 大阪の横山エンタツ・花菱アチャコが新しい形の漫才を演じると、これに触発され、一門の柳家梧楼と柳家緑朗に高座で掛け合いを演じさせた。 益田喜頓: 仇討珍剣法 1954年 監督斎藤寅次郎、主演花菱アチャコ、共演木戸新太郎、伴淳三郎、南悠子、浦島歌女 ※宝塚映画、配給東宝 澤田隆治: 「近鉄金曜劇場・芸の虫 花菱アチャコ、曾我廼家五郎の芸道ものがたり」 浪花千栄子: その富久に請われて、NHKラジオの『アチャコ青春手帖』(1952年)に花菱アチャコの母親役として出演し人気を博した。 明石家さんま: 「この後二人は横山エンタツ・花菱アチャコとなり漫才を始めました」と言ってサゲたという。 浪花千栄子: 花菱アチャコの母親役。 岡八朗: 1959年(昭和34年)、花菱アチャコの推薦で吉本新喜劇に入団(第1期)。 中田ラケット: 横山エンタツ・花菱アチャコ、夢路いとし・喜味こいしらの正統派しゃべくり漫才の系譜とは一線を画し、奇抜な着想から作りこんだ奇妙なシチュエーションをもとに緻密な計算の行き届いた展開や構成で笑わせるタイプの天才肌漫才であった。 益田喜頓: おどろき一家 1949年 監督斎藤寅次郎、原作阿木翁助、音楽古関裕而、主演入江たか子、共演利根はる恵、清川虹子、美空ひばり、花菱アチャコ、古川ロッパ、木戸新太郎、渡辺篤、清川玉枝、杉山美子 ※太泉映画、配給東京映画配給 リーガル千太: 金語楼は吉本興業の芸人であり、上方・吉本のしゃべくり漫才、横山エンタツ・花菱アチャコの成功を間近で見た。 益田喜頓: 初笑い寛永御前試合 1953年 監督斎藤寅次郎、主演花菱アチャコ、共演江川宇礼雄、光岡早苗、キドシン、森川信、堺駿二、清川虹子、藤間紫、内海突破、横山エンタツ、シミキン、古川ロッパ、川田晴久、小笠原章二郎、伴淳三郎、柳家金語楼、神楽坂はん子 ※新東宝 内海突破: 10人目の相方・並木一路とのコンビで、1940年頃から横山エンタツ・花菱アチャコらと並び称される人気者になる。 岡八朗: 花菱アチャコに師事、師匠の薦めで1959年(昭和34年)4月に吉本新喜劇へ第1期生として入団。 花紀京: 父の相方であった花菱アチャコを尊敬し、芸論について「何も知りまへん。 香川登志緒: 初代中村鴈治郎、初代桂春團治、横山エンタツ・花菱アチャコなどの芸に親しみ、のちに桂米朝から「大阪の笑芸の古い話を聞きたい時は香川さんに」といわせるほどの、笑いについての知識を身につける。 大沢浄二: 花菱アチャコ アチャコの応援歌 浪花千栄子: 花菱アチャコ、浪花千栄子のコンビによる上方人情ドラマ。 川上のぼる: 花菱アチャコ 秋田実: 同年秋に大阪朝日新聞文芸部の白石凡は、横山エンタツ・花菱アチャコのしゃべくり漫才をキタの花月の寄席で見て、前年のコンビ結成以来漫才を自作してきたエンタツによい漫才作者がつけば、さらに新しいマンザイが期待できると考え、その年の暮、藤沢桓夫に紹介されて交流のあった秋田をエンタツに引き合わせる。 高尾光子: 『これは失礼』 : 監督・脚本岡田敬、原作秋田実、主演花菱アチャコ・横山エンタツ、製作提携吉本興業 帯谷孝史: 「これはいよいよアカンなあ」と花菱アチャコのもとへ行き弟子入りを志願。 白山雅一: 花菱アチャコ 佐伯秀男: 『アジャパー天国』 : 監督斎藤寅次郎、原作サトウハチロー、脚本八住利雄、助監督曲谷守平、主演花菱アチャコ・伴淳三郎、製作・配給新東宝、1953年4月15日公開 - 出演、84分の上映用プリントをNFCが所蔵 長沖一: その後は帝塚山学院大学の教授・文学部長、帝塚山学院短期大学の学長などをしながら、1952年には花菱アチャコと浪花千栄子の『アチャコ青春手帖』、1954年からはラジオドラマ『お父さんはお人好し』等の台本を手がける。 |
花菱アチャコの情報まとめ
花菱 アチャコ(はなびし あちゃこ)さんの誕生日は1897年7月10日です。福井出身の漫才師のようです。
事件、映画、テレビ、現在、ドラマに関する情報もありますね。1974年に亡くなられているようです。
花菱アチャコのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)花菱 アチャコ(はなびし あちゃこ、1897年〈明治30年〉7月10日 - 1974年〈昭和49年〉7月25日)は、大正・昭和期の漫才師、俳優である。本名:藤木 徳郎。福井県勝山市出身。 生家は法沢寺という寺院であった。幼くして両親とともに大阪に移り住む。父は仏壇職人になった。移住後、アチャコは奉公に出るなどしていたが、遊芸に興味を持ち、1913年に15歳で新派の山田九州男(山田五十鈴の父)の一座に入って「東明幸四郎」と名乗り、千日前敷島倶楽部で初舞台を踏む。1914年、神戸の喜劇一座「鬼笑会」に入り、漫才に転向。このとき「花菱アチャコ」を名乗る。芸名のうち、亭号の「花菱」は、生家の家紋が由来である。「アチャコ」の由来について、アチャコが決まって説明していたのは「鬼笑会」時代に先輩役者からつけられたあだ名「アーチョン」が転じた、というものである。幕切れに拍子木を打つ際に上手くいかず、先輩役者の「アッ!」の掛け声の合図で「チョン!」と打つようになったことからついた名という。これには異説もあり、マメな性格で「あちゃこちゃする」からアチャコとなったとも、長崎県の工芸品・古賀人形の一種「あちゃさん」にアチャコの顔が酷似していたためともされる。なお、「コ」の字がつくために、名乗り始めたころはよく女性と間違われたという。徴兵検査を受ける頃には、奈良瓦堂町の中井座に在籍していた。 1919年に一度だけ横山エンタツと座を組み、幕間に「しゃべくり漫才」を試演するが不評に終わり、客からはみかんの皮を投げられるほどであった。 1925年、吉本興業に入社する。1930年、当時吉本興業で総支配人の座にあった林正之助の勧めに従い、横山エンタツとふたたびコンビを組んだ。当時人気のあった東京六大学野球をネタにした『早慶戦』(水原茂リンゴ事件)などの「しゃべくり漫才」で人気を博す。1934年、中耳炎にかかり入院、その間にエンタツは林正之助等との相談の上でコンビを解消する。エンタツは杉浦エノスケと組む。退院後は舞台では千歳家今男とのコンビを復活させたが、映画では引き続きエンタツ・アチャコのコンビを継続した。一方で「アチャコ劇団」を旗揚げし、全国を巡業する。 第二次世界大戦終結後、吉本興業は一時演芸部門から撤退し全所属芸人との専属契約を解除するが、唯一の例外として専属契約継続を認められた。これは、1939年の新興キネマによる吉本所属芸人の引き抜き騒動の際、アチャコも新興から契約金として当時としては大金である500円を既に受け取っていたが、林正之助に一喝されてそれを新興に返し、吉本からも「(吉本はアチャコの)面倒を一生みる」と一筆取っていたためである。結局この契約はアチャコが亡くなるまで継続されることになる。 戦後間もない時期には、長谷川一夫の『銭形平次捕物帳』など、映画の時代劇等でバイプレーヤーとしても活躍している。 1950年、産業界のアメリカ視察団に同行、船で渡米する。同年12月11日帰国。 1952年に長沖一原作のラジオ番組『アチャコ青春手帖』が大ヒット作となり映画化された。後番組で『アチャコほろにが物語 波を枕に』を経て、引き続き浪花千栄子と共演した『お父さんはお人好し』が人気を博し、これも映画化された。1959年に吉本興業が演芸部門を再開させると、吉本の一枚看板として吉本バラエティの初期を支えた。 テレビが日本の家庭に普及しつつあった高度成長期に「滅茶苦茶でごじゃりまするがな」「さいなもうー…」の台詞で一世を風靡。 1953年12月24日に千日グランドの杮落しでエンタツと久しぶりに客の前で「僕の家庭」を披露、1963年にはNHKで放映された「漫才の歴史」の番組「漫才繁盛記」(構成:小林信彦)においても披露したが、ブランクを感じさせない名コンビぶりを発揮した。 1974年7月25日、直腸癌のため死去。77歳没。戒名は阿茶好院花徳朗法大居士。 弟子には、粋曲漫談ののれん太郎、漫談の鶴乃一声、三五郎、岡八朗、石川大介(付き人)、石川寿子(付き人)、西川花助(付き人)などがいる。 かつて、実質の孫弟子(岡八朗の弟子)「オール阪神・巨人」に「二代目エンタツ・アチャコ」を継がせるという話があったが、オール阪神・巨人側が「おそれ多い」と断った。 孫のアチャマゴ久利(藤木久利)はレゲエミュージシャンで、「アチャコ一座」というバンドを結成して活動している。また、大阪市中央区高麗橋に、1952年からアチャコの妻が経営していた店は現在(2014年)はアチャマゴがたこ焼き屋「ACHAKO」として経営中。 菅原家千代丸、横山エンタツ、浮世亭夢丸、千歳家今男とコンビを組む。 『遊芸稼人 アチャコ泣き笑い半生記』アート出版、1970年。 藤本義一『大いなる笑魂』文藝春秋、1977年。 のち文春文庫 竹本浩三『オモロイやつら』文春新書、2002年。 「第2章 花菱アチャコ」 角野卓造(1984-1985年・NHK連続テレビ小説『心はいつもラムネ色』) - 役名は「金菱アチャコ」 オール阪神(1988年・関西テレビ 花王名人劇場『にっぽん笑売人』) 沢田研二(1998年・舞台『FINAL ACT むちゃくちゃでごじゃりまするがな』) 桂茶がま(2012年・東海テレビ『鈴子の恋 ミヤコ蝶々女の一代記』) 中川礼二(中川家)
(2021-2022年・NHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』) 北山雅康(2012年・舞台『吉本百年物語 笑う門には、大大阪』) 藤原光博(リットン調査団)(2012年・舞台『吉本百年物語 わらわし隊、大陸を行く』) 兵動大樹(矢野・兵動)(2012年・舞台『吉本百年物語 焼け跡、青春手帖』) 前野朋哉(2017-2018年・NHK連続テレビ小説『わろてんか』) - 役名は「潮アサリ」 塚地武雅(ドランクドラゴン)(2020-2021年・NHK連続テレビ小説『おちょやん』) - 役名は「花車当郎」 ^ 祖田浩一(編)『昭和人物エピソード事典』(東京堂出版、1990年)p.227 ^ 上方笑芸見聞録, p. 72. ^ 「技術的には大差ない 米天然色写真視察の西村氏帰国」『日本経済新聞』昭和25年12月12日3面 ^ にっぽん笑売人 - テレビドラマデータベース ^ 「おかえりモネ」から「カムカムエヴリバディ」へ! NHK PR(NHKオンライン)、2021年10月22日配信、10月23日閲覧 長沖一『上方笑芸見聞録』九芸出版、1978年。 日本映画データベース 花菱アチャコ 東西寄席めぐり 「早慶戦」 エンタツ・アチャコ - NHK放送史 この項目は、俳優(男優・女優)に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:映画/PJ芸能人)。 ISNI VIAF WorldCat ドイツ 日本 お笑い芸人 日本の男優 19世紀日本の俳優 20世紀日本の俳優 過去の吉本興業所属者 吉本新喜劇 日本の男性コメディアン 福井県出身の人物 大腸癌で亡くなった人物 1897年生 1974年没 2024/11/20 17:36更新
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