横山エンタツの情報(よこやまえんたつ) 漫才師 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
横山 エンタツさんについて調べます
■名前・氏名 |
横山エンタツと関係のある人
高尾光子: 『これは失礼』 : 監督・脚本岡田敬、原作秋田実、主演花菱アチャコ・横山エンタツ、製作提携吉本興業 柳家金語楼: 大阪の横山エンタツ・花菱アチャコが新しい形の漫才を演じると、これに触発され、一門の柳家梧楼と柳家緑朗に高座で掛け合いを演じさせた。 横山ノック: その後、友人であり「北野劇場」に出演していた縁もあり関西テレビプロデューサー・石田正治を介して彼の実父・横山エンタツに再入門、Oスケ・Kスケを逆様にしたKOつまりノックアウト(Knockout)に由来した横山ノックの名で漫才コンビ「横山ノック・アウト」を結成したが、しばらくして解散した。 滝トール: 学生時代から漫才が好きで友人と素人参加の演芸番組などに出演していた、出演した番組では司会だったのが漫画トリオ、審査員が横山エンタツ、花菱アチャコであった。 花菱アチャコ: 1930年、当時吉本興業で総支配人の座にあった林正之助の勧めに従い、横山エンタツとふたたびコンビを組んだ。 海部剛史: 吉本百年物語 笑う門には、大大阪(2012年、なんばグランド花月) - 横山エンタツ 役 中田ダイマル: 当時歌や三味線もこなせたデパートは音曲漫才指向で、ダイマルが憧れた横山エンタツ・花菱アチャコのようなしゃべくり漫才にはまったく関心がなかった。 秋田実: 同年秋に大阪朝日新聞文芸部の白石凡は、横山エンタツ・花菱アチャコのしゃべくり漫才をキタの花月の寄席で見て、前年のコンビ結成以来漫才を自作してきたエンタツによい漫才作者がつけば、さらに新しいマンザイが期待できると考え、その年の暮、藤沢桓夫に紹介されて交流のあった秋田をエンタツに引き合わせる。 中田カウス: 横山エンタツに弟子入りを志願するも「引退している」という理由で断られ、暁伸のもとを訪ねたところ、音楽ショウのあひる艦隊を紹介され、ボーヤとなる。 中田ダイマル: 横山エンタツ・花菱アチャコ、夢路いとし・喜味こいしらの正統派しゃべくり漫才の系譜とは一線を画し、奇抜な着想から作りこんだ奇妙なシチュエーションをもとに緻密な計算の行き届いた展開や構成で笑わせるタイプの天才肌漫才であった。 リーガル万吉: 金語楼は吉本興業の芸人であり、上方・吉本のしゃべくり漫才、横山エンタツ・花菱アチャコの成功を間近で見た。 花菱アチャコ: 菅原家千代丸、横山エンタツ、浮世亭夢丸、千歳家今男とコンビを組む。 中田ラケット: 当時歌や三味線もこなせたデパートは音曲漫才指向で、ダイマルが憧れた横山エンタツ・花菱アチャコのようなしゃべくり漫才にはまったく関心がなかった。 萩原章: 『十六文からす堂 千人悲願』 : 監督 原作山手樹一郎、脚本木下藤吉、撮影平野好美、出演黒川弥太郎、市川春代、横山エンタツ、久保幸江、大友柳太郎 西岡慶子: 1960年頃には吉本ヴァラエティ(現在の吉本新喜劇)に出演しており、横山エンタツ、花菱アチャコ、笑福亭松之助、白木みのるらと共演。 内海突破: 10人目の相方・並木一路とのコンビで、1940年頃から横山エンタツ・花菱アチャコらと並び称される人気者になる。 益田喜頓: 初笑い寛永御前試合 1953年 監督斎藤寅次郎、主演花菱アチャコ、共演江川宇礼雄、光岡早苗、キドシン、森川信、堺駿二、清川虹子、藤間紫、内海突破、横山エンタツ、シミキン、古川ロッパ、川田晴久、小笠原章二郎、伴淳三郎、柳家金語楼、神楽坂はん子 ※新東宝 横山やすし: 見兼ねた横山ノックから、「コンビ別れをしたんか、いっぺん遊びに来い」と誘われ、また、やすし本人もノックの師匠である横山エンタツの漫才が好きで、エンタツから続く漫才の名門屋号「横山」への憧れがあったことから、ノックの内弟子となった。 青芝フック: 最初立原博に師事以降白木みのる、横山エンタツ、にそれぞれに師事し吉本新喜劇の研究生として芸能界に入る。 香川登志緒: 初代中村鴈治郎、初代桂春團治、横山エンタツ・花菱アチャコなどの芸に親しみ、のちに桂米朝から「大阪の笑芸の古い話を聞きたい時は香川さんに」といわせるほどの、笑いについての知識を身につける。 明石家さんま: 「この後二人は横山エンタツ・花菱アチャコとなり漫才を始めました」と言ってサゲたという。 花菱アチャコ: 1919年に一度だけ横山エンタツと座を組み、幕間に「しゃべくり漫才」を試演するが不評に終わり、客からはみかんの皮を投げられるほどであった。 武智豊子: エンタツちょび髭漫遊記 (1952年) 主演横山エンタツ ※宝プロダクション 大崎洋: そのツテを使って杉浦エノスケ(横山エンタツの相方)を紹介してもらい入社にこぎつけた。 中山美保: 夫は横山エンタツの長男で、テレビ制作者の石田正治。 青芝キック: 最初立原博に師事以降白木みのる、横山エンタツ、にそれぞれに師事し吉本新喜劇の研究生として芸能界に入る。 リーガル千太: 金語楼は吉本興業の芸人であり、上方・吉本のしゃべくり漫才、横山エンタツ・花菱アチャコの成功を間近で見た。 チャーリー浜: 1960年に花登筐が主宰する「笑いの王国」に入り(当初は大村崑のそっくりさんとして売り出された)このころに花紀京に出会い花紀の父横山エンタツの自宅に居候で寝食を共にし芸を磨く。 林正之助: 初代桂春團治・横山エンタツ・花菱アチャコ等の多くの芸人を育て上げ、なんば花月、うめだ花月等の劇場もオープンさせるなど、吉本興業を日本最大手の芸能事務所に発展させた。 中田ボタン: 横山エンタツに弟子入りを志願するも「引退している」という理由で断られ、暁伸のもとを訪ねたところ、音楽ショウのあひる艦隊を紹介され、ボーヤとなる。 |
横山エンタツの情報まとめ
横山 エンタツ(よこやま えんたつ)さんの誕生日は1896年4月22日です。兵庫出身の漫才師のようです。
現在、解散、映画、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。今年の情報もありました。1971年に亡くなられているようです。
横山エンタツのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)横山 エンタツ(よこやま エンタツ、本名:石田 正見(いしだ まさみ)、1896年〈明治29年〉4月22日 - 1971年〈昭和46年〉3月21日)は、大正・昭和期の漫才師・俳優。 花菱アチャコとのコンビ(横山エンタツ・花菱アチャコ)によって、それまでの「萬歳」に代わる現在の(全国的に流布した)「しゃべくり漫才」のスタイルを発明し、今につながる漫才の形式の基礎を作った。漫才作家秋田實のよき相談者として上方漫才、喜劇の興隆に大きく貢献した。 「横山」の亭号を名乗る漫才師一門はエンタツを始祖とする。横山ノックらは弟子にあたる(一門については下記)。吉本新喜劇初期の出演者でもある。 兵庫県有馬郡三田町横山で生まれた(長沖一は、その著書『上方笑芸見聞録』の中で姫路としている)。祖父は元藩医で、父も医師であった。近所に軍人が多い環境で、父も軍医になって日露戦争へ出征したため、祖父母のもとに預けられる。終戦後、復員した父は姫路市で医院を開業。それにともない一家は姫路に移り住んだ。 旧制兵庫県立伊丹中学校(現在の兵庫県立伊丹高等学校)を2年で中退し、「馬賊になる」と言って家出。大正の初め頃、ソウル(京城)に住む叔父を頼り朝鮮へ渡ったが、「面倒をみられない」と言われ、叔父宅での居住を断念。その後、職を転々とした(このころ関西大学の夜間部に通ったという説もある)。演歌師に弟子入りしたり、炭坑で働いていたこともあったという。 1914年、新派の「綾田五郎一座」に入り初舞台。役者としての活動をはじめた。満州・大連で新派連鎖劇の一座に入り、旅順、奉天、長春と巡業をしていたとき、座長が裁判官に拘引され一座を解散、残った仲間で満州で小中村千代兵衛の一座に転じたのち、鉄嶺では活動写真巡業隊に入って声色師をやったがうまくいかず、帰国した。その後、時田一瓢一座に入り「 1919年、花菱アチャコと一座を組み、幕間に「しゃべくり漫才」を試演するが、このときは不評に終わった。1922年、本格的に漫才を始める。 東京を拠点に活動をはじめた。1923年夏に横浜の朝日座と契約し漫才、民謡、安来節の芸人らと合流。同年9月、巡業中の横浜の旅館で関東大震災に遭遇し、倒壊した旅館の3階部分から地面へ投げ出され、鼻を骨折するなどの重傷を負ったため、一時帰阪している。 1928年ごろから、「横山エンタツ」を名乗りはじめた。東京・蔵前に住んでいた当時のエンタツの痩せた風貌が、蔵前のランドマークであった東京高等工業学校の煙突を思わせたことから、芸人仲間に「エンタツ(煙突の大阪訛り)」と呼ばれていたことが由来とされる。初期には「円辰」の字を充てていたとも、「横山エントツ」と名乗っていたともされる。1929年に自身の一座を結成し、同年8月31日から漫才師、浪曲師、踊り子など9人を引き連れて半年間アメリカ巡業に出る。興行的に失敗したが、そこで見たチャップリンなどの喜劇に大きな影響を受けた。 1930年に吉本興業に入社。 秋田實の助言で、漫才師として初めて背広姿で舞台に上がった。玉子屋円辰や砂川捨丸に代表されるように、従来の「万才(萬歳から呼び名が変わっていた)」は鼓を脇に持ち、和装であったものを、当時流行し始めた背広姿で、当時人気のあった東京六大学野球からネタをとった『早慶戦』などのネタに代表されるように、サラリーマンの日常会話を思わせる話題選びと展開の形式は画期的で、当初は舞台に出ると「ホンマの万才をやれ」と野次が飛んだというが、やがて、勃興したばかりの中産階級層を中心に人気を博していった。コンビが1934年に東京の新橋演舞場に出演した頃には、漫才は「落語と並ぶ地位を得た」と言われるようになる。 この東京公演の期間中、アチャコが中耳炎を悪化させ、それがもとで大阪に戻って間もなく入院してしまう。そのためエンタツはアチャコとのコンビを解消し、杉浦エノスケと組んだ。その後も舞台でエンタツ・アチャコのコンビが復活することはなかった。エンタツ・アチャコの本格的な活動期間は、のべ3年9か月であった。1941年、エンタツは「爆笑エンタツ劇団」を旗揚げし、全国巡業を開始した。 戦後、エンタツはNHKで『気まぐれショウボート』(1950年 - 1952年)、『エンタツちょびひげ漫遊記』(1952年 - 1953年)、『エンタツの名探偵』(1953年 - 1954年)など、長期にわたってラジオ番組のレギュラーを務めた。これらの番組は東映で映画化され、こちらもヒットとなった。ただし、アチャコの戦後のしたたかな大成功と比較すると見劣りがし、漫才コンビ時代と立場が逆転することとなった。息子である花紀京には「自分には芸の力がない」と弱音を吐いていたこともあったという。 1953年12月24日に千日前グランド劇場改築の杮落し公演で、エンタツはアチャコと久しぶりに客の前で漫才『僕の家庭』を披露した。同演目は1963年にはNHKで放送された「漫才の歴史」の番組『漫才繁盛記』(構成:小林信彦)においても披露された。 エンタツは1969年、大阪市から市民表彰を受けた。1971年に脳梗塞で死去した。74歳没。 中村種春(砂川捨丸の最初の相方。中村春代の師匠)、花菱アチャコ、杉浦エノスケと組んだ。 2本の指でちょび髭を押さえて「ハッハー、照れくさー」と言うのが唯一用いたギャグ。 アメリカ巡業からの帰国後、エンタツはアメリカで見た、店で買い物をしたときに渡される「買い物袋(=紙製のショッピングバッグのこと)」を日本で生産して当てようとし、原料の厚紙を輸入し、職人に作らせてデパートに売り込みに行ったが、「日本には風呂敷があるので不要です」と断られたという(アチャコ談)。 横山ホットブラザーズの「横山」は本名であり、エンタツ一門とは無関係である。 男女4人組の昭和歌謡バンド猫夜叉に「横山エントツ」と名乗る人物がいるが、他のメンバー(全員の芸名が横山姓)も含めてエンタツとは無関係である。 オール阪神・巨人に「二代目エンタツ・アチャコ」を継がせる話が持ち上がったが、本人たちが「畏れ多い」と固辞した。二人はエンタツ・アチャコの物真似を得意としている。 長男は関西テレビの元プロデューサー。長男の妻は吉本新喜劇の中山美保。次男は吉本興業に所属した喜劇俳優の花紀京。 横山ノック 青芝フック(旧名・横山フック(2代目)) 横山アウト 横山エンタ 横山芳子 横山カイジ 他多数 横山やすし 横山プリン 乃木貴寛 旭堂南北 横山なつ吉 横山ひとり 横山ワン・ツー 横山アラン・ドロン 横山トク 横山トンガ 横山たかし・ひろし 横山ひとし 高井ギャラ 横山まさみ - ひろしの弟子 横山アッチ 横山ともや・たきや - たかしの弟子 福助 - たかし・ひろしの弟子を経て、1988年頃、レツゴー三匹の門下に移った。 横山チョップ - ひろしの弟子 ボディビルダー 1936年の公開の「あきれた連中」を皮切りにアチャコとのコンビで多くの映画に出演。 出演シーンは決まって、演技中に突然往年のヒット漫才を始めるというものだった。当時は揶揄されたが現在ではコンビの芸を記録した貴重な資料となっており、「上方漫才黄金時代」のCDボックスで、このとき演じた「早慶戦」が収録された。 東京五人男(1945年 東宝) 幽霊列車(1949年 大映京都) - 藤木 殺陣師段平(1950年 東横映画) - 医者 腰抜け巌流島(1952年 大映京都) - 沢庵和尚 水戸黄門(1957年 東映京都) - 田川大六 野良猫(1958年 東宝(宝塚映画製作)) 『笑ひのプレゼント』櫻書房、1946年12月25日。 岸部一徳(1984年 - 1985年・NHK連続テレビ小説『心はいつもラムネ色』 役名は「横川エンタツ」) オール巨人(1988年・関西テレビ 花王名人劇場『にっぽん笑売人』) 青野敏行(2012年・東海テレビ『鈴子の恋 ミヤコ蝶々女の一代記』) 板尾創路(130R)(2012年・舞台『吉本百年物語 キミとボクから始まった』) 海部剛史(2012年・舞台『吉本百年物語 笑う門には、大大阪』) 大野拓朗(2017年 - 2018年・NHK連続テレビ小説『わろてんか』、役名は「舶来屋キース」) 中川剛(中川家)(2021年 - 2022年・NHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』) 『エンタツの名探偵』(伊勢本史郎作画・香住春吾原作、美育社書店、1954年頃) ^ ただし、後述の映画においてはエンタツ・アチャコのコンビを一部継続している。 ^ ザ・ドリフターズの加藤茶が用いた「加トちゃん、ペッ!」とほぼ同じ動作であるが、これは加藤がエンタツのギャグを改作したわけではない(加藤のは、ちょび髭を付けるのに使用していた糊の力が弱くたびたび剥がれそうになったのを抑えていた仕草が転じたもので偶然の一致)。もともとこの当時のドリフはあくまでミュージシャンであり他のコメディアンのギャグを拝借するようなことはしていなかった。 ^ 横山エンタツ コトバンク - 典拠は『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』、講談社『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』など ^ 現在の三田市横山町(〒669-1534)、南が丘(〒669-1535)。横山駅が所在する。 ^ 小島貞二『漫才世相史 改訂新版』 毎日新聞社、1978年 pp.130-133「震災以前の万才」 - エンタツの著書『漫才読本』(柳香書院、1936年)からの引用。 ^ 小島貞二『漫才世相史 改訂新版』 毎日新聞社、1978年 pp.108-112「医者と坊主の息子」。同資料では、エンタツの出身を「姫路の生まれ」としている ^ 矢野誠一『昭和の演藝 二〇講』p.68 ^ 祖田浩一(編)『昭和人物エピソード事典』(東京堂出版、1990年)pp.305-306 - 典拠は『週刊女性』昭和46年4月10日号 ^ 立川談志ひとり会特典CD「とっておきの二大対談・花菱アチャコ/手塚治虫」 ^ “花紀京さん死去 横山エンタツさん次男 新喜劇全盛期を支える”. スポーツニッポン (2015年8月6日). 2015年8月6日閲覧。 ^ にっぽん笑売人 - テレビドラマデータベース ^ 「おかえりモネ」から「カムカムエヴリバディ」へ! NHK PR(NHKオンライン)、2021年10月22日配信、10月23日閲覧 ^ 画伊勢本史郎、原作香住春吾. “エンタツの名探偵 第1集 犬とダイヤの巻 画 伊勢本史郎 原作 香住春吾 美育社書店 初版本”. オークファン. 2024年8月27日閲覧。 日本映画データベース 横山エンタツ 東西寄席めぐり 「早慶戦」エンタツ・アチャコ - NHK放送史 ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ お笑い芸人 日本の男優 19世紀日本の俳優 20世紀日本の俳優 過去の吉本興業所属者 吉本新喜劇 横山一門 日本の男性コメディアン 関西大学出身の人物 兵庫県出身の人物 1896年生 1971年没 Pages using the JsonConfig extension 書きかけの節のある項目 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事
2024/11/17 20:00更新
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