藤井淳志の情報(ふじいあつし) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
藤井 淳志さんについて調べます
■名前・氏名 |
藤井淳志と関係のある人
平田良介: 藤井淳志、小池正晃、新人の野本圭と外野のポジションを争うことになると思われたが、シーズンが始まると代打でも結果が残せず、4月15日に二軍に降格した。 石橋康太: 愛称は「ジャガ(ジャガイモが由来で、名付け親は中日ドラゴンズの先輩であえる藤井淳志)」、「バッシー(学生時代に主に女子から)」、「イシコウ(学生時代に主に男子から)」。 大瀬良大地: しかし終盤では打ち込まれるケースが目立ちシーズン最終戦の10月7日の対中日戦(マツダスタジアム)では8回に登板したがアンダーソン・エルナンデス、藤井淳志に適時打を打たれると、代わった中崎も投手若松駿太に適時打を許すなど3失点を喫し敗戦投手となり、この試合に敗戦したことでチームは3年連続のクライマックスシリーズ進出を逃したため、試合後ベンチで号泣した。 上田佳範: 落合は2006年シーズンの右翼のポジションを守備の上田、打力の井上一樹、強肩新人・藤井淳志(NTT西日本)の3選手で競わせる方針であった。 福留孝介: シーズンに入ってからは開幕は5番で起用されるものの、前を打つ2番藤井淳志、3番井端弘和の不調もあり、3番に昇格。 蔵本英智: 2009年は、藤井淳志や新人の野本圭らの台頭もあり、開幕を二軍で迎えたが4月21日に一軍登録され、その日の対阪神タイガース戦で6番・右翼手で初出場を果たした。 小池正晃: 開幕一軍を果たすも当初は藤井淳志、新人の野本圭らの台頭で先発ではなく、代打や代走、守備固めとしての起用が多かった。 アレックス=オチョア: 2006年は藤井淳志らの台頭や福留の広い守備範囲を生かすために左翼手へコンバートされるも、シーズン終盤に再び中堅手に戻る。 落合英二: 2009年6月30日の対阪神タイガース戦の6回裏、一死満塁で藤井淳志が打席に立った際、ホームランバッターというわけでもなく、さらにそれまでのシーズンで藤井は満塁の場面の打率が7打席1安打と良くなかったにもかかわらず「藤井が颯爽とベースを回る姿が見える」と予言。 山井大介: 10月13日のヤクルト戦(バンテリンドーム)で同じく引退する藤井淳志と共に引退試合が行われた。 中野栄一: なお、この試合では藤井淳志もユニフォームを忘れ、同じブルペン捕手の三輪敬司のユニフォームを借用し、練習に参加している。 永川勝浩: 2014年8月29日の中日ドラゴンズ戦にて3点リードの延長11回裏に登板し、藤井淳志に2ランを打たれながら1回2失点とし、2010年3月26日の対ドラゴンズ戦以来、4年ぶりのセーブを挙げた。 井上一樹: 2006年は、外野手としてはレギュラーの座を英智や藤井淳志などと争う立場にあったが、8月15日の対広島東洋カープ戦(広島市民球場)では、NPB史上411人目の一軍公式戦通算1000試合出場を達成した。 伊東昂大: 初奪三振:同上、8回裏に藤井淳志から空振り三振 新井良太: 結局、選手登録はされず、アリゾナ・ダイヤモンドバックスのアカデミーでの練習試合に出場して通算8打数3安打4四死球と、選手登録されて出場した藤井淳志や前田章宏に比べて低いものであった。 前田章宏: オフに、ドミニカ・ウィンターリーグに野手として新井良太、藤井淳志と共に派遣されて、「エストレージャス・デル・オリエンテ」に所属。 藤井梨央: 藤井淳志のファン。 三輪敬司: また試合に出場はしなかったが、2016年7月5日の広島戦では藤井淳志がユニフォームを忘れたため、三輪のユニフォームを着てベンチ入りしていた。 岸田護: なお、同僚の山崎隆広、藤井淳志、齊藤信介、脇谷亮太らもこの時指名されプロ入りした。 |
藤井淳志の情報まとめ
藤井 淳志(ふじい あつし)さんの誕生日は1981年5月20日です。愛知出身の野球選手のようです。
選手としての特徴、人物などについてまとめました。結婚、引退、家族、テレビに関する情報もありますね。藤井淳志の現在の年齢は43歳のようです。
藤井淳志のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 藤井 淳志(ふじい あつし、1981年5月20日 - )は、愛知県豊橋市出身の元プロ野球選手(外野手、右投両打)、野球解説者、実業家 地元で公立の豊橋東高等学校から、一般入試で筑波大学へ進学。入学後には、4年からスイッチヒッターに挑戦して2003年首都大学野球春季1部リーグで打率.340、50打数17安打6打点と個人打撃成績7位の成績を残す。 NTT西日本へ進み、2005年の都市対抗野球では2回戦で日産自動車の高崎健太郎から本塁打を放つがコールド負け。秋の日本選手権でプロでも同僚となる齊藤信介や岸田護、脇谷亮太らのメンバーで準優勝。野球W杯で社会人で編成された日本代表に選出。2005年度大学生・社会人ドラフト会議にて中日ドラゴンズから3位指名を受け、入団。 2006年シーズンは、上田佳範、井上一樹、英智らと外野のポジションを争い、オープン戦の活躍により「2番・中堅手」として開幕スタメンを果たした(チームとして福留孝介以来7年ぶりの新人の開幕スタメン)開幕2戦目でプロ初安打を記録し守備では山﨑浩司の左中間に抜けそうな当たりをダイビングキャッチするというファインプレーをみせた。しかし5試合目からはスタメンを外れ、以後は主に守備固め・代走として出場した。北海道日本ハムファイターズとの日本シリーズでは第4戦の8回裏中堅の守備固めで日本シリーズ初出場。 2007年シーズンからは、右打席に専念。春季キャンプにおいて、ほぼ毎日3時間かけ、1562スイングと荒行を成し遂げるも、落合博満監督は「これから毎日だよ。足りなけりゃ4時間でも5時間でもいい。長くなってくるよ。限界? 限界なんてあるか」と発言。藤井の目標は「総合アップさせたい。1日1600スイングで鍛える」であった。前年のシーズンよりもスタメンの機会が増え、プロ初打点も記録。また、ナゴヤドームで初本塁打を右打席で逆方向に放った。守備固めや代走での出場も含め前年のシーズンより出場機会が増えた。 2008年シーズンは、4度の二軍落ちを経験するなど出番に恵まれなかった。同年のシーズンオフに野手として初めてドミニカ共和国のウィンターリーグに新井良太、前田章宏とともに派遣された。リセイ・タイガースに所属し、終盤に登録され、3打数1安打の成績であった。ウィンターリーグを機にスイッチヒッターへ再転向。 2009年シーズンは、5月に一般女性と結婚。オープン戦で好成績を残し、好調のまま迎えた公式戦では開幕直後の6試合で4本塁打とそれまでのシーズンにおける自身の通算本塁打数を更新した。6月30日の対阪神タイガース戦では、3点差をひっくり返す、プロ入り初の逆転満塁本塁打を放った。9月6日の対横浜ベイスターズ戦(新潟)で和田一浩と交錯し、骨折する大けがを負い、戦列を離れた。結局、規定打席には8打席届かなかったが.299、10本塁打、49打点と自己最高の成績を残し、シーズンを通してほぼ中堅手のポジションで先発出場した。10月17日、東京ヤクルトスワローズとのクライマックスシリーズ第1ステージ初戦にスタメン出場し、3安打と戦力として復帰。しかしチームはクライマックスシリーズ第2ステージで敗退する。 2010年シーズンは、ディオニス・セサル、大島洋平、野本圭、堂上剛裕らによる厳しいポジション争奪戦になったが、夏以降にはスタメンの機会が増えた。8月21日対ヤクルト戦(ナゴヤドーム)では、2打数1安打1四球で決勝のホームを踏み、守備では2補殺と大活躍でお立ち台にも上がった。しかし、飛躍した前年のシーズンと比べ、出場機会は減り、大きく成績を落とした。 2011年シーズンは、開幕を二軍で迎えた。何度か一軍へ上がったがその度に二軍落ちし、一軍定着はできなかった。プロ入りして最低の20試合の出場に留まった。ポストシーズンでは一軍登録され、福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズでは右翼手として2試合にスタメン出場した。 2012年シーズンは、開幕一軍でシーズンを迎え、7月8日の対横浜DeNAベイスターズ戦(ナゴヤドーム)延長10回裏、満塁の場面でライト前に自身初のサヨナラ打を放った。この日のヒーローインタビューで、4月1日に長男が誕生したことを明かした。 2013年シーズンは、オープン戦から本塁打を放つなど開幕一軍を果たし、出場機会が少ないながらも5月には補殺数で両リーグトップに立った。8月中旬には「1番・中堅手」で定着し、8月の月間打率.378、4本塁打と活躍したが9月1日に故障し、戦線離脱。最終的に規定打席には到達しなかったが4年ぶりに100試合以上に出場し、打率.303を記録した。 2014年シーズンは、開幕二軍スタートで迎える。4月6日に一軍へ昇格されるが、5月3日に二軍へ降格。6月15日に再び一軍へ昇格されると、その後も一軍に帯同し、8月5日には、自身初となるサヨナラ本塁打を故郷・豊橋で放った。8月29日には8回と11回にいずれも左打席でプロ初の1試合2本塁打を放った。 2015年シーズンは、自身の誕生日でもある5月20日の対広島東洋カープ戦にて逆転3点本塁打を放ち、前年のシーズンに引き続き、故郷・豊橋で大活躍した。さらに7月12日の対広島戦(ナゴヤドーム)では延長12回にサヨナラ本塁打を放つなど得点圏打率.405と勝負強さを発揮し、自身最多となる118試合に出場し、打率.295、6本塁打、45打点を記録した。この年に初めて国内FA権を取得したが行使せず残留を表明。10月1日に第2子となる次男が誕生。 2016年シーズンは、開幕スタメンを勝ち取り、マルチヒットを記録。87試合に出場し、7月11日の対DeNA戦(横浜スタジアム)では自身2本目となる満塁本塁打を放った。この年シーズン途中に海外FA権を取得したが、残留を表明した。 2017年シーズンは、9月24日の本拠地・ナゴヤドーム最終戦での森野将彦の引退試合でサヨナラ打を記録した。自己最多となる128試合に出場し、打率.265、6本塁打、42打点を残したが、またも規定打席には届かなかった。 2018年シーズンは、主に代打として起用され、7月29日に対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)にてプロ通算1000試合出場を達成。 2019年シーズンは、主に代打などで61試合に出場したが、打率.220に終わった。 2020年シーズンは、開幕を二軍で迎えると一軍へ昇格することなく、シーズンを終え、プロ入り初の一軍出場なしに終わる。シーズンオフには同年のシーズンより2年契約を結んでいたことを明かした。 2021年シーズンは、9月29日時点で一軍出場なしに球団を通して現役引退を発表。10月13日のヤクルト戦(バンテリンドーム)で同じく現役を引退する山井大介とともに引退試合が行われた。自身は「1番・右翼手」として先発出場(1打席限定)。1回裏に相手投手・サイスニードの外角一杯の直球に手が出ず、見逃し三振に終わった。ここで同僚の堂上直倫から花束をもらい、ファンの大きな拍手と共にベンチに降りた。試合後の引退セレモニーでは関係者やファンに感謝を伝え、自身の家族と同僚の大島洋平や祖父江大輔から花束を受け取り、背番号と同じ4度胴上げされ、現役生活に幕を下ろした。 2022年からは中京テレビ放送・J SPORTS(CBCテレビ制作分)・東海ラジオ(ゲスト)の野球解説者・CBCテレビの副音声解説者・東海ラジオのコメンテーターを務める。 選手としての特徴スイッチヒッターである。50メートル走5秒8、遠投125メートル。(鉄砲肩と言うように、一般には肩が強いと言われるが、本人は英智同様、むしろ手首が強いためと語っている) ただし、送球のコントロールに難があった。 人物
入団時、入場曲を中日スポーツで公募し、THE BLUE HEARTSの『TRAIN-TRAIN』に決めた(後に変更)。その後、2008年まではカウボーイビバップのOP『Tank!』を、2009年は当初はTHE BLUE HEARTSの『キスして欲しい』だったが、通常時は『キスして欲しい』、チャンス時は『Tank!』の併用使用となった。2011年からはチャンス時も含め常にTHE BLUE HEARTSの『キスして欲しい』を入場曲として使用していた。 右打席と左打席では違うタイプのバットを使用している。左打席に使用しているバットは、元同僚の新井良太と同じタイプのものである。2009年には好調な藤井にあやかりたいと荒木雅博が藤井のバットを使うことがあり、10月18日のヤクルトとのクライマックスシリーズで荒木が藤井のバットで決勝適時打を放ったときに「ナイスバット」と冷やかしたが、「こっちだよ、こっち」と荒木は自らの腕を指して反論した。なお、荒木はこの決勝打以来、暫くこのバットを使い続けた。 ファンサービスの精神が旺盛で、優勝時のビールかけでは、前面スーツ姿の背中丸出しや、イカのような形をしたフランクフルトのかぶり物で登場、テレビを通じてファンを楽しませた。2011年シーズン開始前の応援テレビ番組では青木宣親、シーズン終了後の豊橋イトーヨーカー堂トークショーではアレックス・ラミレスなど、他球団選手の物真似をして会場を沸かせるなど、物真似で多くのファンを楽しませる愉快なキャラクターを持っている。2012年ファン感謝デーの障害物リレーでは、突然チームメイトの中田亮二を相手に相撲して先輩の貫禄で勝利、満員の観客を沸かせた。2013年関西テレビの番組(プロ野球を2013倍楽しくするテレビ)に出演したとき、司会者から「美容師さんですか??」と突っ込まれるほどお洒落でスマートな野球選手であった。 非常に引き締まった体格だったようで現役時代は体脂肪率が5%ともいわれた。 2024/06/15 12:36更新
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fujii atsushi
藤井淳志と同じ誕生日5月20日生まれ、同じ愛知出身の人
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