人見絹枝の情報(ひとみきぬえ) 陸上競技/短 中距離 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]


人見 絹枝さんについて調べます
■名前・氏名 |
人見絹枝と関係のある人
西田修平: 『知ってるつもり?! 10 心やさしき勝利者たち』(日本テレビ、1993/4、人見絹枝・嘉納治五郎・大江季雄・西田修平・バロン西・ベーブ・ルース・猫田勝敏を所収、ISBN 978-4820393016) 山内リエ: 1947年には走幅跳で人見絹枝が1929年に出した5m91を抜き、日本の女子選手として初めて6mを突破した。 二階堂トクヨ: 人見絹枝とトクヨの出会いは、1924年(大正13年)4月に絹枝が二階堂体操塾に入塾した時である。 有森裕子: 日本女子陸上競技界では、1928年のアムステルダムオリンピック・女子800mで同じく銀メダリストの人見絹枝以来、64年ぶりの五輪メダル獲得である。 リナ=ラトケ: この大会では、日本の人見絹枝との争いを制して800mでの金メダルを獲得、ラトケはここで800mの最初の公認の世界記録2分16秒8を樹立した。 小野みゆき: 「よーいドン」(1982年-1983年) - 人見絹枝 役 比古地朔弥: ライジングガール!~人見絹枝物語~ 塩屋俊: 紅い稲妻 人見絹枝(1992年、TBS):今井兼次 役 吉行あぐり: 日本人女性初のオリンピックメダリスト人見絹枝とは岡山県立第一岡山高等女学校の同級生。 二階堂トクヨ: 3期生には1928年アムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場し、陸上800m走で同じく日本女子史上初となる銀メダルを獲得した人見絹枝が入学した。 志水見千子: 日本女子の五輪トラック競技の4位以内の成績は、1928年アムステルダムオリンピック女子800m銀メダル(2位)の人見絹枝以来、68年ぶりという快挙を達成した。 岡部平太: この頃の岡部について人見絹枝(陸上選手で日本人女性初のオリンピックメダリスト)は、自著「スパイクの跡」の中で、「岡部さんの顔は何回みてもこわい。 増田明美: 日本の女子選手が世界最高記録を出したのは、1927年の人見絹枝(200m)以来55年ぶりであった。 リナ=ラトケ: ^ 人見絹枝、女子陸上八百で銀メダル『大阪毎日新聞』昭和3年8月4日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p42 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) 川原俊夫: 千鶴子は100メートル走で朝鮮全土の女子最速記録を樹立し、アムステルダムオリンピックメダリストの人見絹枝より日本体育大学への推薦を打診された事もあった人物であった。 山内リエ: 織田幹雄は「山内さんは人見絹枝亡き後のわが国女子陸上界が生んだ偉才である。 南部忠平: 在学中スランプに陥り、走幅跳の助走を鍛えようと加賀一郎から助言を得たがうまくいかず、人見絹枝と走幅跳で勝負して1cm差で敗北するなど苦しみを味わった。 千葉真子: なおオリンピック・世界陸上で、日本女子代表がトラック種目でメダルを獲得したのは、1928年に行われたアムステルダムオリンピックで女子800mの人見絹枝が銀メダルを獲得して以来、69年ぶりの快挙だった。 二階堂トクヨ: 養女の美喜子はトクヨの言葉を「奇妙な、しかも穿った形容詞」と表現し、人見絹枝は「叱られながら可笑しくなります」と記している。 塚原直貴: メダル獲得は、日本選手の陸上トラック種目における1928年アムステルダムオリンピックの女子800m銀メダルの人見絹枝以来80年ぶり、男子では史上初のメダル獲得となった。 釜本邦茂: 真偽は定かでないが、女学校で陸上をしていた母親は、日本人女性初の五輪メダリストの人見絹枝と走ったことがあると話していたという。 一の宮あつ子: 小学校時代から陸上競技をはじめ、女学校時代には人見絹枝や加賀一郎のコーチを受け、全国大会にも出場した。 二階堂トクヨ: 日本初の女子オリンピック選手である人見絹枝のほか、8名のオリンピック選手を育てた。 松下由樹: 紅い稲妻 人見絹枝(1992年11月22日、TBS) - 主演・人見絹枝 役 柴山智加: 紅い稲妻 人見絹枝 (1992年11月22日、毎日放送) - 陸上部の女子高生 役 朝原宣治: 日本男子トラック種目のオリンピックでのメダル獲得は史上初(男女通じても1928年アムステルダムオリンピックの女子800m銀メダルの人見絹枝以来80年振り)であった。 渡辺すみ子: “オリパラこぼれ話 人見絹枝の生涯(下) 粉骨砕身、日本の女子スポーツ発展に奔走”. 二階堂トクヨ: そして、人見絹枝との出会いを通して、トクヨはアスリート養成に舵を切っていくのであった。 |
人見絹枝の情報まとめ

人見 絹枝(ひとみ きぬえ)さんの誕生日は1907年1月1日です。岡山出身の陸上競技
短 中距離のようです。

家族、卒業、現在、姉妹、テレビ、ドラマに関する情報もありますね。1931年に亡くなられているようです。
人見絹枝のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)人見 絹枝(ひとみ きぬえ、1907年〈明治40年〉1月1日 - 1931年〈昭和6年〉8月2日)は、日本の陸上競技選手、ジャーナリスト。日本人女性初のオリンピックメダリスト。100m、200m、走幅跳の元世界記録保持者。(100m、200mについては非公認)岡山県御津郡福浜村(現:岡山市南区)出身。 1907年(明治40年)1月1日、岡山県御津郡福浜村福成(現・岡山市南区福成)で人見猪作および岸江の次女として誕生した。人見家はイネとイグサを栽培する裕福な自作農家で、父・母・祖母・姉と人見絹枝の5人家族であった。幼少期は魚とりや鬼ごっこをして遊び、友人は女の子よりも男の子の方が多かった。 1913年(大正2年)4月、福浜村立福浜尋常高等小学校尋常科(現・岡山市立福浜小学校)に入学。小学生になっても「天下取りゲーム」でいつも一番で男児を悔しがらせたり、2階から飛び降りて下校するなど相変わらず活発な少女であった。一方、学業成績も優秀で、特に国語が得意で、クラスでは級長を務めた。6年生の時に担任の先生から短歌を習い、少女雑誌に匿名で投稿するなど、文学的才能を開花させた。1919年(大正8年)に尋常科を卒業した後は高等科に進み、「女子が学問をするなんて」と言われた時代に父・猪作は高等女学校への進学を勧め、倍率3.93倍の岡山県立岡山高等女学校(現・岡山県立岡山操山高校)の入学試験を突破した。 1920年(大正9年)4月、福浜小高等科1年を終え、憧れの岡山県立岡山高等女学校(岡山高女)に入学。当時、大供にあった岡山高女まで毎日1里半(約6 km)の道を徒歩通学した。同年9月に就任した校長の和気昌郎は全人教育を掲げ、「日本女性のたしなみ」として短歌を教える傍らで、生徒をテニスやバレーボールの対外試合に出場させた。入学してすぐの県庭球大会で岡山高女が岡山県女子師範学校(岡山女師、現・岡山大学教育学部)に負けたことに悔しさを覚え、高価なラケットを購入して夜6時まで練習に励んだ。当初家族は人見が日焼けで真っ黒になることに難色を示したが、1921年(大正10年)5月の県庭球大会には父・猪作が応援に駆けつけている。この大会で、人見・浮田ペアは前年岡山高女を破った岡山女師のペアに勝利して優勝旗を持ち帰り、「関西第一の前衛」、「テニスの人見さん」と讃えられた。1923年(大正12年)11月4日、大阪朝日新聞岡山通信部主催の第2回岡山県女子体育大会(岡山女師)に脚気をおして岡山高女代表として出場、走幅跳で4m67の当時日本最高記録(非公認)で優勝した。 1924年(大正13年)4月、二階堂体操塾に入学。塾長の二階堂トクヨから体育の指導を受ける。10月の第3回岡山県女子体育大会(岡山女師)に出場し三段跳で10m33の当時世界最高を記録する(現在非公認)。11月、全日本選手権・陸上競技(明治神宮外苑競技場・以下神宮)に出場。三段跳で10m38、やり投で26m37を記録した。 1925年同塾卒業後、京都市立第一高等女学校(現・京都市立堀川高校)の教員(体操教師)として赴任するが、二階堂からの要請で体操の実技講師として台湾各地を巡回、同年に帰国した。二階堂体操塾の研修生となり、同校の専門学校認可を助ける(同校は翌年財団法人日本女子体育専門学校となる)。10月、大阪体育協会主催第4回陸上競技選手権大会兼明治神宮競技大会近畿予選(大阪市立運動場・以下大阪)に出場、50メートル競走6秒8で優勝した。三段跳で11m62を出し世界最高記録(現在非公認)を更新、11月の第2回明治神宮競技大会(神宮)に出場し、50mは7秒0で優勝、三段跳びでも11m35で優勝する。 1926年4月、大阪毎日新聞社に入社、運動課に配属。その年の東京・大阪朝日新聞社主催四大陸上競技大会-第1回女子競技(神宮)に出場し50mは7秒0で優勝、三段跳は10m76でも優勝した。5月、第2回関東陸上競技選手権大会(神宮)に出場。100mは13秒6で優勝。砲丸投(8ポンド)で9m97の日本新記録を出す。また、大阪毎日新聞社後援第3回日本女子オリンピック大会(美吉野運動競技場・以下美吉野)に非公式参加。走幅跳(5m6)、砲丸投(9m39)、野球投げ(野球のボールの遠投)(25m)を記録。6月、東京日日新聞社主催第2回女子体育大会(神宮)に出場。200mで27秒6の、走幅跳で5m75の日本新記録を出した。模範競技として行われた400mRで寺尾正・文姉妹、松翁俊子を加えた当時最高のメンバーで52秒2の日本新記録を出した。8月、アリス・ミリア主催の第2回国際女子競技大会(ヨーテボリ)に日本人としてただ一人出場し、走幅跳で5m50の世界記録で優勝した。また立ち幅跳びでも2m47で優勝している。円盤投では32m62で2位、100ヤード走は12秒0で3位、60mで5位、250メートル走で6位(やり投と砲丸投は棄権)。個人得点15点を挙げ国際女子スポーツ連盟の名誉賞を授与された。なお、この遠征で初めて国外陸上競技の事情を知り、自分のトレーニングに生かすだけではなく専属コーチや年間を通じてのトレーニングの重要性などを著書を通じて広く後進に伝えた。 1927年4月、谷三三五にコーチを依頼し、5月、東京日日新聞社主催第3回女子体育大会(神宮)に出場。200メートル走で26秒1、立ち幅跳びで2m61の2つの世界最高を記録した(現在非公認)。走幅跳も5m54で優勝、大阪健母会主催・大阪毎日新聞社後援第4回日本女子オリンピック大会(美吉野)に出場。400mは61秒2で優勝したが、50mでは6秒8の同タイムながら橋本靜子(日方高等女学校 現・和歌山県立海南高校)に敗れた。人見にとっては国内の大会で初めての敗戦となった。6月、大阪女子体育研究会主催大阪時事後援第7回大阪女子運動大会(大阪)に出場。100mで12秒4の当時世界タイを記録する。8月、第14回全日本陸上競技選手権大会(現・日本陸上競技選手権大会)(神宮)に出場。50mは6秒7で、100mは12秒8で優勝した。10月、大阪体育協会主催第6回陸上競技選手権大会兼明治神宮体育大会近畿予選(大阪)に出場。50mは6秒5で、100mは12秒4の世界タイで優勝。11月の第4回明治神宮体育大会(神宮)に出場、双生児の寺尾正・文姉妹(府立第一高等女学校(現・東京都立白鷗高校))と接戦の末、50mは6秒4(当時世界タイ記録)で、100mは12秒5で優勝する。 1928年5月、健母会主催第5回日本女子オリンピック大会(美吉野)に出場、400mで59秒00の世界最高記録(非公認)を出した。100メートル走は12秒8で優勝。三種競技(194点)でも優勝し、そのうちの100mでは12秒4の世界最高記録(非公認)を出した。ほかは走高跳(1m43)、やり投(28m89)。第15回全日本陸上競技選手権大会(大阪)に出場。100mで12秒2を出し、走幅跳では5m98を跳び2つの世界記録を更新。6月、第4回インタークラブ選手権(ロンドン)に出場、走幅跳では5m59でイギリスのミュリエル・ガンを破り優勝した。しかし、100ヤード走ハンディキャップレースでは予選落ちとなった。7月、A.A.A.女子選手権大会(ロンドン)に出場、220ヤード走は26秒2で(予選の25秒8は当時世界タイ記録)、やり投は35m96で優勝したものの、100ヤード走、走り幅跳びではガンの前に敗れた。 1928年アムステルダムオリンピックに日本女子選手として初出場し、女子の個人種目全て(100m、800m、円盤投、走高跳)にエントリーした(走幅跳は採用されず、事実上100m一本に絞っていた)。7月30日、100m予選は1着で通過したものの、同日準決勝は12秒8で4着となり決勝進出を逃した。8月1日、800m予選を2分26秒2で通過する。8月2日、800m決勝は2分17秒6でドイツのリナ・ラトケに次ぐ2着となり、日本人女性初のオリンピックメダリスト(銀メダル)となった。8月5日、走高跳の予選に出場するも1m40で予選落ちとなった。 8月、インターナショナル競技会(ベルリン)に出場、走幅跳は5m51で優勝。やり投は36m58で2位、100mは予選落ちしたが、最後の800mは2分23秒9で優勝した。10月、大阪体育協会主催第7回陸上競技選手権大会(大阪)に出場、100mで橋本靜子に2度目の敗戦を喫した(記録計時なし)。橋本の記録は13秒2だった。400mRでは所属チームW.S.C.が53秒2で優勝している。 この後、一旦競技から離れるが翌春練習を再開。競技者として各地に遠征する傍ら、後進の育成、講演会や大会に向けての費用工面に忙殺されてゆくことになった。 1929年4月、第6回日本女子オリンピック大会(美吉野)に出場する。三種競技(217点)で世界最高を記録(100m:12秒4、走高跳:1m45、やり投:32m13)、200mは26秒8で優勝する。80mHの13秒6は番外ながら日本新記録を更新した。5月、東京日日新聞社主催第5回女子体育大会(神宮)に出場し200mで24秒7の世界記録を出した。走幅跳は5m92で優勝、円盤投は34m18の日本新記録で優勝した。8月、国際女子オリンピック出場候補15名と2週間の合宿を行い、10月の日独対抗大阪大会(甲子園競技場)にも出場し100mで12秒4を記録した。朝鮮・日・独対抗競技(京城府)に出場、100mで12秒0、200mで24秒4、走幅跳で6m075を出した(100mと走幅跳は追い風5.8メートルのため非公認の世界記録)。中国・日本・独三国大会(奉天=瀋陽)にオープン参加し100mで12秒0、60mで7秒5を出している。11月、第16回全日本陸上競技選手権大会兼第5回明治神宮体育大会(神宮)に出場しており200mは25秒4で優勝、走幅跳は5m91で優勝、400mRでもL.A.C.チームの一員として51秒6の日本新記録で優勝した。 1930年2月、日本女子スポーツ連盟臨時総会で、国際女子オリンピック大会の遠征費捻出のため全国の女学校に応援袋を置き寄付を募ることを提案し、遠征費は出発の3日前に目標額に達した。5月、第7回日本女子オリンピック大会(美吉野)で三種競技に出場(201点466で優勝。100m:13秒0、走高跳:1m40、やり投:35m27)、国際女子オリンピック大会の代表6名が決定した。谷三三五の下、1ヶ月余合宿を行う。7月、日本女子スポーツ連盟・健母会主催渡欧女子選手送別競技会(大阪)で渡欧選手・女学校選手対抗リレーに出場、渡欧女子選手送別競技会(名古屋・椙山高女)に出場する。走幅跳で5m90を記録し、やり投では37m84の非公認日本新記録を更新した。9月6日、第3回国際女子競技大会(プラハ)に5人の選手を率いて出場(9月8日まで)、走幅跳では5m90で優勝した。三種競技は192点(100m:13秒2、走高跳:1m40、やり投:34m46)で2位、やり投(600g)は3位(37m1)、60mは3位(7秒8)、400mRは4位(52秒0)、100mは準決勝敗退、200mは決勝を棄権した。個人得点13点で2位となり、リレーの1点を加えた日本チームは参加18ヶ国中4位となった。9月7日、8日は雨でその後体調を崩した。9月11日、日本・ポーランド女子対抗競技会(ワルシャワ)に出場する。60m(7秒8)、100m(12秒6)、走高跳(1m40)、走幅跳(5m39)、円盤投(32m19)、やり投(36m55)に出場し日本チームは35点対54点でポーランドに敗れた。9月13日、日・英・独女子競技大会(ベルリン)に出場、100mは12秒4、走幅跳は5m56で優勝した。200mは28秒2で2位、やり投33m90で3位。9月14日はスイス観光し9月16日、パリで休養する。9月20日、日本対ベルギー対抗競技(ブリュッセル)に出場、100m(13秒4)、400mR(53秒4)、円盤投(29m13)、やり投(37m25)は優勝。800mでは2位になる。日本チームは52点対47点でベルギーに勝利した。同日深夜パリに戻るが高熱を出し、9月21日、日本対フランス女子対抗競技(パリ)に出場。走幅跳(5m61)、円盤投(31m19)、やり投(37m44)で優勝する。80m、200m、400mR、走高跳では2位になったが日本チームは38点対46点でフランスに敗れた。ロンドンから海路にて11月6日帰国した。 国際女子オリンピック大会は好成績ではあったが、チームとしても前回大会やオリンピックに比して結果が悪かった。帰途、新聞報道や手紙から日本での反応が冷たいことを知った選手達は深く傷ついた。しかも半月の内に5つの大会が集中し、肉体的にも大きな負担となった。帰国当日岡山の実家で休んだものの、翌日東京に発つ。後に扁桃腺炎になるが、正月までほとんど休みなく新聞社での仕事や募金へのお礼を行った。1931年(昭和6年)3月6日に病臥に伏し、大阪・十三から尼崎市塚口へ引っ越した。3月25日に早朝から喀血し、肋膜炎で大阪帝国大学付属病院(現・大阪大学医学部附属病院)小沢内科に入院する。担当医は岡山出身で、妻は岡山高女の出身であったことから手厚い医療を受けることができた。人見の病室には「軽井直子」という名札が掛けられた。5月31日に見舞いに訪れた二階堂トクヨは一目見て大病であることを見抜き、涙を流し、看護人・藤村蝶に50円を手渡した。その後に世間の煩わしさから避けるため、別館2階へ病室を移された。7月中旬には肺炎を併発し、見舞いに訪れた織田幹雄は変わり果てた姿に絶句したという。7月29日、病室を本館に移し、入院してから初めて「苦しい」、「家に帰りたい」と弱音を吐いた。8月1日18時過ぎに病状が急変し、8月2日午後0時25分、乾酪性肺炎により死去した。24歳没。辞世の詩は、「息も脈も高し されど わが治療の意気さらに高し」。アムステルダムオリンピック800m決勝の日から、ちょうど3年後の日であった。危篤の報を聞き駆けつけた両親は娘の死に目に間に合わず、大阪に向かう途中の姫路駅のラジオ放送で死を知った。師・二階堂トクヨは「スポーツが絹枝を殺したのではなく、絹枝がスポーツに死んだのです」という言葉を『婦人公論』に寄せている。 8月3日、遺体は阿倍野斎場(大阪市営南斎場)にて火葬され、8月5日に大阪毎日新聞社による、神式の告別式が行われた。式には1,000人超の参列者が訪れ、国際女子スポーツ連盟のアリス・ミリアをはじめ世界中から弔電が寄せられた。8月12日には人見家の菩提寺である妙法寺で仏式の葬儀が営まれ千数百人が参列した。法号は「妙法 高徳院妙聲日宏大姉」。付きっきりの看病をしていた藤村家の墓所(青森県八戸市の本覚寺)に骨塔がある。 国際オリンピック委員会(IOC)が公認する記録。 国際陸上競技連盟(IAAF)は女子100メートル走では1934年8月から、女子200mでは1935年8月から、走幅跳では1928年から国際女子スポーツ連盟(FSFI)に代わって世界記録を公認している。 当時FSFIによって世界記録とされたが、現在ではIAAF、IOC共に公認していない参考記録である。 現在まで存続していない種目での世界記録 アムステルダムオリンピックでの800mの記録2分17秒6は当時の世界記録を上回っている。 人見は女学校時代から文学的資質を認められていた。文章が巧みで、海外遠征中でも、また死の床に在っても短歌を詠んだ。 1924年二階堂体操塾に入学した年の身長は五尺六寸(約170cm)、体重は十五貫(約56kg)との新聞記事がある。 走・跳のみならず投擲競技にも非凡な才能を見せた。円盤投げはそれまで全く経験が無かったが現地ヨーテボリで円盤を購入し、1ヶ月余の練習で国際女子競技大会で入賞した。 アムステルダムオリンピックの直前に南部忠平に走幅跳で勝負を申し入れ、1cm差で勝利した。 アムステルダムオリンピック以前、800mを公式の競技会で走ったことはなかったが、有力視された100mで決勝に進めなかったこともあり、未知の距離でも優勝を狙わざるを得なかった。結果2位になったが「何分にも私にとっては初めてなので、これ以上を望むことは不可能です」というコメントを残している。ゴールの際に人見は優勝したドイツのラトケともども失神、決勝参加者9人が全て倒れ込む壮絶なものとなり、これが影響して女子800mは次のロサンゼルスオリンピック(1932年)からメルボルンオリンピック(1956年)まで種目から除外されることになった。 高校野球甲子園大会開会式のプラカードを掲げての入場行進や、勝利校の校歌吹奏、校旗掲揚は人見の発案で1929年の第6回選抜中等学校野球大会から始まった。 人見の死後、第3回国際女子競技大会での活躍を記し建てられた記念碑がプラハ郊外の墓地に現存する。この碑の建設費には、二階堂トクヨの寄付が含まれている。 1992年バルセロナオリンピックで、日本では人見以来の陸上女子メダリストとなった有森裕子は同じ岡山市出身であり、祖母が人見の女学校の後輩だったこともあり、有森は人見を尊敬している。また、有森がバルセロナオリンピックのマラソンで銀メダルを獲得したのは日本時間では人見のメダル獲得と同じ8月2日となり(現地では8月1日)、これらが当時奇縁として紹介された。 当時、国内での女子陸上への偏見は厳しいものであり、それをうかがわせる例がいくつも存在する。
オリンピック出場を決めていた人見の実家にも「人前で太ももをさらすなど日本女性にはあってはならない」「日本女性の個性を破壊する」などといった文面の書簡が送られて来ていたという。それに対して人見は女子陸上競技に関する記事にて「いくらでも罵れ!私はそれを甘んじて受ける。しかし私の後から生まれてくる若い女子選手や、日本女子競技会には指一つ触れさせない」と書いている。 短距離走の日本記録を保持していた寺尾正・文姉妹の実家に出向き、アムステルダムオリンピックへの出場を説得したが、寺尾の家族の意向により、寺尾姉妹の出場は叶わなかった。これも、女子陸上への世間の偏見が一因であると言われている。 人見の没後に発表されたレコードトーキーアニメーション『茶目子の一日』に、生前の人見のフィルム映像が挿入されている。 メダル・トロフィー類は戦時中金属類回収令によりすべて供出されたと考えられていたが、オリンピックの銀メダルは2000年になって発見された。人見の使用していた寝具の中に、隠すようにして仕舞ってあったという。 1964年東京オリンピックの聖火が岡山を通過する際、父・猪作は人見の遺影を抱いて岡山県庁舎で出迎え、「絹枝よ、これがオリンピック聖火だ」と語りかけた。 人見の出身地に近い現在の岡山市南区福浜を通る岡山県道40号岡山港線には人絹道路(じんけんどうろ)という愛称が付与されている。本来は倉敷絹織(現・クラレ)の岡山工場(レーヨンなどの化学繊維、すなわち人絹の製造工場)と岡山市中央部とを接続する輸送路であるがゆえに、この愛称が存在していたのだが、この県道は人見の出身校でもある岡山市立福浜小学校(かつての福浜村立福浜尋常高等小学校)をも沿線に含む事から後に人見の業績を顕彰するための道路とも伝えられるようになった。 岡山県岡山市において1982年より開催されているロードレース大会「山陽女子ロードレース大会」の10kmロードの部には開催当初より「人見絹枝杯」の愛称がつけられている。 人見の母校である二階堂体操塾を受け継ぐ日本女子体育大学では、女子ジュニア陸上競技選手の育成を謳って『人見絹枝杯陸上競技大会』を2003年から毎年開催している。 美容師の草分け・吉行あぐりとは岡山県立第一岡山高等女学校の同級生である。 岡山市は2005年に人見絹枝の功績を記念し、岡山市のスポーツ振興の一環として市に所属する競技団体や選手、各種スポーツチームの活躍を讃える『岡山市人見絹枝スポーツ顕彰事業』を創設、これ以後、その年ごとに顕彰者を選出して表彰式を実施している。 1993年より大阪毎日新聞社の後身毎日新聞社は『毎日スポーツ人賞』を制定しグランプリ受賞者には賞金200万円、その他の受賞者にも賞金100万円と受賞者全員に人見をかたどったブロンズ像が贈られている。 以下絶版 『最新女子陸上競技法』文展堂書店、1926年。(本格的な競技生活に入る前に執筆) - 国立国会図書館デジタルコレクション 『アルス運動講座 -女子競技-』アルス社、1928年。(共書の1編) 『スパイクの跡』平凡社、1929年。(1927年の『婦人の友』掲載の文が下書きになっている。1928年アムステルダムオリンピックまでの自伝にあたる) 『戦ふまで』三省堂、1929年。(内容は『スパイクの跡』と共通する所が多い) 『家庭科学大系』家庭科学大系刊行会、第26回に人見絹枝著『女子と運動競技』を所収、1930年。(共書の1編) 『ゴールに入る』一成社、1931年。(『スパイクの跡』の続編。オリンピック後から1930年の帰国までを綴る) 『婦人公論大学スポーツ編 -陸上競技-』中央公論社、1931年。(共書の1編) 『女子スポーツを語る』人文書房、1931年。(『家庭科学大系 第26回-女子と運動競技-』を単行本化) 以下復刊 『スパイクの跡/ゴールに入る 伝記・人見絹枝 (伝記叢書 154)』(大空社、1995/1、ISBN 978-4872364538) 『女子体育基本文献集. 第11巻』(大空社、1995/1、1926年文展堂書店刊『最新女子陸上競技法』を所収、ISBN 4872369157) 『日本体育基本文献集 : 大正・昭和戦前期. 第33巻』(日本図書センター、1998/12、1931年一成社刊『ゴールに入る』を所収、ISBN 4820558269) 『女子スポーツを語る 女性のみた近代 (006)』(ゆまに書房、2000/7、1931年人文書房刊『女子スポーツを語る』の復刻、ISBN 978-4843300947) 再編集 『炎のスプリンター 人見絹枝自伝』(織田幹雄・戸田純(編集)、山陽新聞社出版局、1983/2、『スパイクの跡』、『ゴールに入る』の主要部分を現代語訳にして再構成したもの) 『人見絹枝 炎のスプリンター (人間の記録 32)』(織田幹雄・戸田純(編集)、日本図書センター、1997/6、1983年山陽新聞出版局刊『炎のスプリンター 人見絹枝自伝』の改題、ISBN 978-4820542735) 知ってるつもり?!(日本テレビ/1990年2月11日)
西田ひかるの痛快人間伝 -Dashing life story-(NHK総合テレビ/1991年11月24日)
その時歴史が動いた (NHK総合テレビ/2004年8月16日)
歴史秘話ヒストリア(NHK総合テレビ/2012年7月4日)
THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜(BS-TBS/2014年6月13日)
英雄たちの選択(NHK BSプレミアム/2016年6月2日)
知恵泉(NHK Eテレ/2019年3月19日)
偉人の年収 How much? (NHK Eテレ/2023年9月4日)
その時歴史が動いた コミック版 感動スポーツ編
栄光なき天才たち
ライジングガール!〜人見絹枝物語〜 『よーいドン』 - 1982年 - 1983年、NHK朝の連続テレビ小説・演:小野みゆき 『紅い稲妻 人見絹枝』 - 1992年、毎日放送・TBS系・毎日新聞創刊120周年記念企画・演:松下由樹 『いだてん〜東京オリムピック噺〜』 - 2019年、NHK大河ドラマ・演:菅原小春 『わが人見絹枝伝抄 詩集』(戸田純(著)、詩の家〈詩の家叢)〉Part 10、1977/6) 『燃え尽きたランナー 人見絹枝の生涯』(小原敏彦(著)、大和書房、1981/2) 『朝やけのランナー みじかい人生を全力疾走した人見絹枝』(真鍋和子(著)、こさかしげる(画)、PHP研究所〈PHPこころのノンフィクション〉28、1984/11、ISBN 978-4569587448) 『栄光なき天才たち 1』(伊藤智義(著)、森田信吾(イラスト)、集英社〈ヤングジャンプ・コミックス〉、1987/11、第7話に『人見絹枝』を所収、ISBN 978-4088614731) 『人見絹枝物語 女子陸上の暁の星(朝日文庫)』(小原敏彦(著)、朝日新聞社、1990/6、ISBN 978-4022605849) 『知ってるつもり?! 10 心やさしき勝利者たち』(日本テレビ、1993/4、人見絹枝・嘉納治五郎・大江季雄・西田修平・バロン西・ベーブ・ルース・猫田勝敏を所収、ISBN 978-4820393016) 『栄光なき天才たち 1』(伊藤智義(著)、森田信吾(イラスト)、集英社〈集英社文庫コミック版〉、1997/5、『人見絹枝』を所収、ISBN 978-4086170925) 『はやての女性ランナー 人見絹枝讃歌』(三沢光男(著)、不昧堂出版、2005/7) 『ライジングガール! 人見絹枝物語』(比古地朔弥(著)、祥伝社〈Feelコミックス〉、2005/8、ISBN 978-4396763640) 『NHK 「その時歴史が動いた」コミック版 感動スポーツ編』(NHK「その時歴史が動いた」取材班(著)、ホーム社〈ホーム社漫画文庫〉、2006/5、『奇跡の銀メダル 人見絹枝 日本女子初メダル獲得の時』西田真基(イラスト)を掲載、ISBN 978-4834273588) 『KINUEは走る 忘れられた孤独のメダリスト』(小原敏彦(著)、健康ジャーナル社、2007/8、ISBN 978-4907838386) 『人見絹枝 : 生誕100年記念誌』(永島惇正(編)、日本女子体育大学、2008/2) 穴水恒雄『人として女として―二階堂トクヨの生き方―』不昧堂書店、2001年5月30日、182頁。ISBN 4-8293-0403-0。 勝場勝子・村山茂代『二階堂を巣立った娘たち―戦前オリンピック選手編―』不昧堂出版、2013年4月18日、171頁。ISBN 978-4-8293-0498-3。 南部忠平『南部忠平自伝』ベースボール・マガジン社〈ほるぷ自伝選集 スポーツに生きる19〉、1981年6月1日、131頁。 全国書誌番号:81046632 吉行和子『老嬢は今日も上機嫌』2008年。ISBN 978-4101345352。 ^ スポーツはおろか、修学旅行への参加も止められるほど症状は重く、当日は試技1回ごとに学校医が聴診器を当てて調子を確認していた。 ^ これ以降、日本の女子選手によるオリンピック陸上競技のメダリストはバルセロナオリンピック(1992年)女子マラソンで有森裕子が銀メダルを獲得するまで64年間、男女を通じたオリンピック陸上競技トラック種目でのメダリストは、北京オリンピック(2008年)男子4×100mリレーで日本チームが銅メダル(北京オリンピックの大会後に1位のジャマイカチームの選手がドーピング違反で失格になったために銀メダルに繰り上がった)を獲得するまで80年間出現せず、トラック種目の銀メダルはリオデジャネイロオリンピック(2016年)男子4×100mリレーで日本チームが獲得するまで88年間出現しなかった。また世界陸上競技選手権大会に枠を広げても千葉真子(当時:旭化成)が1997年アテネ世界陸上競技選手権大会の女子10,000mで銅メダルを獲得するまで、陸上競技のトラック種目に於いて日本女子選手が五輪・世界選手権を通してメダルを獲得する者は出現しなかった。 ^ 自身を励まそうと人見が掲げたものである。 ^ なお、女子800mのオリンピック日本代表となった選手は、2021年8月現在、人見の他には東京オリンピック(1964年)の木崎正子とアテネオリンピック(2004年)の杉森美保の2名のみである。 ^ “12th IAAF World Championships In Athletics: IAAF Statistics Handbook. Berlin 2009.” (pdf). Monte Carlo: IAAF Media & Public Relations Department. pp. Pages 546, 640, 641 (2009年). 2011年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年8月2日閲覧。 ^ 勝場・村山 2013, p. 15. ^ 勝場・村山 2013, pp. 15–16. ^ 勝場・村山 2013, p. 16. ^ 勝場・村山 2013, p. 17. ^ 勝場・村山 2013, pp. 17–18. ^ 勝場・村山 2013, p. 18. ^ 勝場・村山 2013, p. 19. ^ 勝場・村山 2013, pp. 19–20. ^ “北京五輪陸上男子400リレー ジャマイカ選手失格で日本が銀に繰り上げ”. Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. (2018年12月12日). https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2018/12/12/kiji/20181211s00056000495000c.html 2019年6月16日閲覧。 ^ 勝場・村山 2013, p. 81. ^ 勝場・村山 2013, pp. 81–82. ^ 勝場・村山 2013, p. 82. ^ 勝場・村山 2013, pp. 82–83. ^ 勝場・村山 2013, p. 83. ^ 勝場・村山 2013, p. 87. ^ 勝場・村山 2013, pp. 83–84. ^ 勝場・村山 2013, p. 84. ^ 南部 1981, p. 112. ^ 人見絹枝、女子陸上八百で銀メダル『大阪毎日新聞』昭和3年8月4日夕刊(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p42 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年) ^ “甲子園名物、校歌斉唱誕生秘話〜きっかけは女性初の五輪メダリスト”. スポニチ Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2014年8月24日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/08/24/kiji/K20140824008798060.html 2014年8月24日閲覧。 ^ 穴水 2001, p. 23. ^ 「その時歴史が動いた コミック版 感動スポーツ編」より ^ 勝場・村山 2013, p. 85. ^ “第13回人見絹枝杯陸上競技大会を開催” (HTML). 日本女子体育大学 (2019年3月21日). 2019年6月23日閲覧。 ^ 吉行和子 2008, p. 155. ^ “岡山市人見絹枝スポーツ顕彰事業について”. 岡山市人見絹枝スポーツ顕彰. 岡山市 (2010年10月12日). 2022年3月19日閲覧。 ^ “毎日スポーツ人賞2021”. macs.mainichi.co.jp. 2023年12月9日閲覧。 日本陸上競技選手権大会の記録一覧 岡山県出身の人物一覧 日本の夏季オリンピック銀メダル 1928年アムステルダムオリンピックの日本選手団 二階堂トクヨ 谷三三五 木下東作 国際女子スポーツ連盟 山陽女子ロードレース(人見絹枝杯として開催) 毎日スポーツ人賞(受賞者には人見をかたどったブロンズ像が贈られる) 人見絹枝 - Olympic.org (英語) 人見絹枝 - 国際オリンピック委員会 (英語) 人見絹枝 - オリンピックチャンネル 人見絹枝 - Olympedia (英語) 人見絹枝 - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ (英語) 人見絹枝 - 国際陸上競技連盟 (英語) 人見絹枝 - TrackField.brinkster.net (英語) 『人見絹枝』 - コトバンク 『人見 絹枝』 - コトバンク 『人見絹枝杯』 - コトバンク 人見絹枝|近代日本人の肖像 - 国立国会図書館 人見 絹枝:作家別作品リスト - 青空文庫 人見絹枝 - 岡山県立岡山操山高等学校 人見絹枝 - 日本体育協会 人見絹枝(おかやま人物往来) - 岡山県立図書館 表 話 編 歴 25 寺尾文 26 石渡貞子 27 人見絹枝 28 人見絹枝 29 本城はつ 30 湯浅千代 31 渡辺すみ子 32 渡辺すみ子 33 渡辺すみ子 34 服部田鶴子 35 臼井寿美子 36 盛田菊美 37 小宮悦子 38 井戸田きよ子 39 吉野トヨ子 40 吉野トヨ子 41 中止 42 林きぬ子 46 稲葉静子 47 稲葉静子 48 稲葉静子 49 稲葉静子 50 吉川綾子 51 吉川綾子 52 53 岡本貴美子 54 田中みどり 55 田中みどり 56 田中みどり 57 大槻一恵 58 塩尻裕子 59 依田郁子 60 小林祐子 61 依田郁子 62 63 64 宮本悦子 65 仲野雅子 66 助川立子 67 辻下美代子 68 佐藤美保 69 助川立子 70 山田恵子 71 山田恵子 72 山田恵子 73 山田恵子 74 小西恵美子 75 大迫夕起子 76 大迫夕起子 77 小西恵美子 78 山田恵子 79 貝原澄子 80 大迫夕起子 81 磯崎公美 82 小西恵美子 83 小西恵美子 84 小西恵美子 85 小西恵美子 86 小西恵美子 87 江口三佳子 88 原悦子 89 北田敏恵 90 三木まどか 91 92 野村綾子 93 野村綾子 94 北田敏恵 95 北田敏恵 96 北田敏恵 97 吉田香織 98 新井初佳 99 新井初佳 00 新井初佳 01 新井初佳 02 新井初佳 03 新井初佳 04 小島初佳/坂上香織 05 石田智子 06 信岡沙希重 07 髙橋萌木子 08 福島千里 09 髙橋萌木子 10 福島千里 11 福島千里 12 福島千里 13 福島千里 14 福島千里 15 福島千里 16 福島千里 17 市川華菜 18 世古和 19 御家瀬緑 20 兒玉芽生 21 兒玉芽生 22 君嶋愛梨沙 23 君嶋愛梨沙 24 君嶋愛梨沙 *は大会記録 100m 200m 400m 800m 1500m 5000m 10000m 3000mSC 100mH 400mH 表 話 編 歴 28 本城はつ 29 人見絹枝 30 幡丸美代子 31 鹿島一子 32 村岡美枝 33 柴田たか 34 橋本マサヨ 35 平島クリ子 36 盛田菊美 37 井戸田きよ子 38 井戸田きよ子 39 越山富美子 40 越山富美子 41 中止 42 山内リエ 46 稲葉静子 47 稲葉静子 48 稲葉静子 49 稲葉静子 50 岡本貴美子 51 田中みどり 52 53 未実施 54 田中みどり 55 田中みどり 56 田中みどり 57 藤井芳枝 58 依田郁子 59 小林祐子 60 小林祐子 61 伊藤令子 62 伊藤令子 63 64 伊沢まき子 65 辻下美代子 66 辻下美代子 67 辻下美代子 68 伊藤律子 69 伊藤律子 70 山田恵子 71 山田恵子 72 北林裕子 73 北林裕子 74 山田恵子 75 大迫夕起子 76 大迫夕起子 77 小西恵美子 78 小西恵美子 79 貝原澄子 80 大迫夕起子 81 磯崎公美 82 磯崎公美 83 小西恵美子 84 磯崎公美 85 磯崎公美 86 磯崎公美 87 磯崎公美 88 磯崎公美 89 北田敏恵 90 野村綾子 91 92 柿沼和恵 93 高木千晶 94 北田敏恵 95 北田敏恵 96 北田敏恵 97 鈴木智実 98 新井初佳 99 新井初佳 00 新井初佳 01 新井初佳 02 新井初佳 03 新井初佳 04 信岡沙希重 05 信岡沙希重 06 信岡沙希重 07 信岡沙希重 08 信岡沙希重 09 福島千里 10 髙橋萌木子 11 福島千里 12 福島千里 13 福島千里 14 福島千里 15 福島千里 16 福島千里 17 市川華菜 18 福島千里 19 兒玉芽生 20 鶴田玲美 21 兒玉芽生 22 兒玉芽生 23 君嶋愛梨沙 24 君嶋愛梨沙 *は大会記録 100m 200m 400m 800m 1500m 5000m 10000m 3000mSC 100mH 400mH 表 話 編 歴 28 人見絹枝 29 人見絹枝 30 湯浅千代 31 渡辺すみ子 32 渡辺すみ子 33 渡辺すみ子 34 滝野房子 35 井戸田きよ子 36 三輪静子 37 吉野トヨ子 38 吉野トヨ子 39 山内リエ 40 吉野トヨ子 41 中止 42 山内リエ 46 山内リエ 47 山内リエ 48 山内リエ 49 杉村清子 50 杉村清子 51 西田芳子 52 吉川綾子 53 高橋ヨシ江 54 大槻一恵 55 高橋ヨシ江 56 高橋ヨシ江 57 戸崎美希子 58 岸本幸子 59 伊藤文子 60 伊藤文子 61 秋月紀代美 62 ヘルガ・ホフマン(英語版) 63 マリー・ランド 64 岸本幸子 65 藤吉律子 66 香丸恵美子 67 山下博子 68 山下博子 69 山下博子 70 山下博子 71 山下博子 72 山下博子 73 山下博子 74 山下博子 75 小川恵子 76 湶純江 77 湶純江 78 湶純江 79 湶純江 80 高野加寿美 81 奥村仁子 82 中川妙子 83 中川妙子 84 高瀬里美 85 磯貝美奈子 86 磯貝美奈子 87 奥村仁子 88 磯貝美奈子 89 奥村仁子 90 ラリサ・ベレズナヤ(英語版)(7m03)* 91 佐々木あゆみ 92 奥村仁子 93 リリアナ・ナスターゼ(英語版) 94 花岡麻帆 95 長島静代 96 佐々木あゆみ 97 高松仁美 98 高松仁美 99 諏江加奈子 00 花岡麻帆 01 花岡麻帆 02 花岡麻帆 03 池田久美子 04 花岡麻帆 05 池田久美子 06 池田久美子 07 池田久美子 08 桝見咲智子 09 桝見咲智子 10 井村久美子 11 井村久美子 12 岡山沙英子(英語版) 13 岡山沙英子(英語版) 14 五十嵐麻央 15 岡山沙英子(英語版) 16 甲斐好美 17 高良彩花 18 高良彩花 19 秦澄美鈴 20 高良彩花 21 秦澄美鈴 22 秦澄美鈴 23 秦澄美鈴 *は大会記録 走高跳 棒高跳 走幅跳 三段跳 砲丸投 円盤投 ハンマー投 やり投 FAST ISNI VIAF WorldCat ドイツ アメリカ 日本 チェコ CiNii Books CiNii Research ワールドアスレティックス 20世紀のスポーツ選手 日本の女子走幅跳の選手 日本の女子短距離走の選手 日本の女子中距離走の選手 陸上競技日本代表選手 オリンピック陸上競技日本代表選手 日本のオリンピック銀メダリスト 陸上競技のオリンピックメダリスト 陸上競技の元世界記録保持者 大阪毎日新聞社の人物 20世紀日本のジャーナリスト 日本の女性ジャーナリスト スポーツジャーナリスト 女性スポーツライター 日本の中等教育の教員 日本女子体育大学出身の人物 岡山県立岡山操山高等学校出身の人物 岡山県出身のスポーツ選手 岡山市出身の人物 戦前日本の女性 20世紀日本の女性 1907年生 1931年没 雑多な内容を箇条書きした節のある記事 - 2023年5月 ウィキデータにあるIOCプロフィールテンプレート ウィキデータのスポーツ識別子を使用している記事 FAST識別子が指定されている記事 ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 GND識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 NKC識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 IAAF識別子が指定されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ
2025/03/31 17:34更新
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hitomi kinue
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