もしもし情報局 > 1月29日 > 医学者(細菌学)

北里柴三郎の情報 (きたざとしばさぶろう)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【6月26日】今日誕生日の芸能人・有名人

北里柴三郎の情報(きたざとしばさぶろう) 医学者(細菌学) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

北里 柴三郎さんについて調べます

■名前・氏名
北里 柴三郎
(読み:きたざと しばさぶろう)
■職業
医学者(細菌学)
■北里柴三郎の誕生日・生年月日
1853年1月29日 (年齢78歳没)
丑年(うし年)、水瓶座(みずがめ座)
■出身地・都道府県
熊本出身

北里柴三郎と同じ1853年生まれの有名人・芸能人

北里柴三郎と同じ1月29日生まれの有名人・芸能人

北里柴三郎と同じ出身地熊本県生まれの有名人・芸能人


北里柴三郎と関係のある人

上田悠介: 東名阪ネット6『歴史漫才 ヒストリーズ・ジャパン』(2017年7月 - 9月) - 伊藤博文 / 北里柴三郎


パウル=エールリッヒ: また、エールリヒと同じく、ロベルト・コッホの弟子である北里柴三郎が令和6年度(2024年度)上半期に執行が予定される日本銀行券の紙幣改定において千円紙幣の肖像として使用されることが決定し、平成31年(2019年)4月9日に発表された。


塚地武雅: ドキュメンタリードラマ郷土の偉人シリーズ 第31作『日本細菌学の父・北里柴三郎~終始一貫 未来を紡いで~』(2024年1月21日、テレビ熊本)- 主演・北里柴三郎


緒方正規: 同年、北里柴三郎にドイツ留学を勧めて、レフラー宛に紹介状を書いている。


三浦謹之助: 村井弦斎、長岡半太郎、田中館愛橘、鈴木万次郎、芳賀栄次郎、青山胤通、北里柴三郎、浜田玄達、三宅秀、エルヴィン・フォン・ベルツ、ユリウス・スクリバ、ルイ・パスツール ロベルト・コッホ、パウル・エールリヒ、ジャン=マルタン・シャルコー、カール・ゲルハルト、フェリックス・マルシャン、ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョー、ルートヴィヒ・キュルツ、ウィルヘルム・エルブ、竹下勇中将、吉岡弥生、橋本綱常、藤浪鑑、石黒忠悳、長谷川泰、高木兼寛、後藤新平、福田得志、島薗順次郎、高橋忠雄、吉利和、緒方知三郎、勝沼精蔵、村地長考、植松七九郎、西野忠次郎、武谷広、加藤豊治郎、塩谷不二雄、福島東作、井村英二郎


園田あいか: 日本細菌学の父・北里柴三郎~終始一貫 未来を紡いで~(2024年1月21日、テレビ熊本) - 蔵前美幸 役


青山胤通: 1894年、イギリス領香港にて発生していた伝染病の調査のために北里柴三郎らと共に現地へ派遣され、ペストであることを突き止めた。


茨木保: 『北里柴三郎 日本近代医学を築いた肥後もっこす』2022年(講談社)


森山るり: 【5/19(火) 22時00分〜配信】『ニュース女子』 #266(〜国難に学ぼう〜 昭和恐慌 / 阪神淡路大震災・東日本大震災 / 北里柴三郎


エミール=フォン=ベーリング: 受賞に際し、自分だけの功績ではなく、共同研究者の北里柴三郎あっての結果であることを述べたとされる。


渡辺銕蔵: 同年北里柴三郎の長女と結婚。


二谷英明: 怒濤 北里柴三郎の戦い (ゼロックス ザ・スペシャル)(1978年、ANB)


上山明博: 「五年目に成就した『北里柴三郎』」(『脱原発社会をめざす文学者の会・第25号』脱原発社会をめざす文学者の会編・発行,2021年12月所載)


林髞: 『北里柴三郎 日本医学の恩人』偕成社(世界偉人伝全集)1963


大隈重信: また文政一元化の名のもとに内務省の所管であった伝染病研究所の文部省移管を強行、北里柴三郎所長以下部長・研究員は抗議し、全員辞職した(伝染病研究所移管事件)。


中原翔子: 肥後のカミナリ 北里柴三郎(1994年、テレビ熊本)


福澤諭吉: 明治25年(1892年)には、長與專齋の紹介で北里柴三郎を迎えて、伝染病研究所や土筆ヶ岡養生園を森村市左衛門と共に設立していく。


パウル=エールリッヒ: また、先述の通り、北里柴三郎もエールリヒと同様に、ロベルト・コッホの弟子にあたる。


ローベルト=コッホ: 北里研究所には北里柴三郎によってコッホ祠が建立された。


青山胤通: 東京大学医科学研究所の前身である伝染病研究所を東京帝国大学医学部に統合させることを推進し、伝染病研究所の創設者である北里柴三郎と激しく対立した。


福澤諭吉: 晩年の諭吉の主な活動には海軍拡張の必要性を強調する言論を行ったり、男女道徳の一新を企図して『女大学評論 新女大学』を著したり、北里柴三郎の伝染病研究所の設立を援助したりしたことなどが挙げられる。


佐伯矩: 1902年に上京し、内務省伝染病研究所の北里柴三郎のもとで細菌学と毒素化学を学ぶ。


渋沢栄一: 大正2年(1913年)、北里柴三郎の日本結核予防協会に評議員として協力。


上山明博: 「北里柴三郎の『医道論』に学べ─令和日本の新型コロナ対策に足りないもの」(国際情報サイト『新潮社 Foresight(フォーサイト)』新潮社編・発行,2021年12月26日発信)


森鴎外: 次のベルリン(1887年4月16日–翌年7月5日)でも早速、北里柴三郎とともにコッホに会いに行っており、細菌学の入門講座を経てコッホの衛生試験所に入った。


蔵原惟人: ^ 北里柴三郎の妹。


二木謙三: 北里柴三郎に比肩する世界的な細菌学者で、鼠咬症(そこうしょう)スピロヘータの発見、天然免疫学理の証明などの実績を遺した。


ローベルト=コッホ: 北里柴三郎 - 破傷風菌を純粋培養し、血清療法を発見・確立し、ペスト菌を発見した。


秦佐八郎: 1931年(昭和6年)、恩師北里柴三郎博士死去。


秦佐八郎: そして1898年(明治31年)8月に荒木寅三郎の推薦により、単身上京して大日本私立衛生会経営の伝染病研究所に入所、そこで北里柴三郎に学ぶこととなった。


北里柴三郎の情報まとめ

もしもしロボ

北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう)さんの誕生日は1853年1月29日です。熊本出身の医学者(細菌学)のようです。

もしもしロボ

経歴、栄典などについてまとめました。母親、病気、卒業、現在、結婚に関する情報もありますね。78歳で亡くなられているようです。

北里柴三郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう、1853年1月29日〈嘉永5年12月20日〉- 昭和6年〈1931年〉6月13日)は、日本の微生物学者、教育者。位階勲等は、従二位勲一等男爵。

貴族院議員、私立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現・東京大学医科学研究所附属病院)創立者兼運営者、私立北里研究所、北里研究所病院(現・学校法人北里研究所)創立者兼初代所長ならびに北里大学学祖、慶應義塾大学部医学科学長(1920年から慶應義塾大学医学部初代学部長)、慶應医学会初代会長、慶應義塾大学病院初代院長。

「近代日本医学の父」として知られる。1889年(明治22年)に破傷風菌の純粋培養に成功、翌1890年(明治23年)に血清療法を開発、さらに、1894年(明治27年)にペスト菌を発見し、「感染症学の巨星」と呼ばれる。第1回ノーベル生理学・医学賞では、最終候補者(15名のうちの1人)まで選ばれた。

北里柴三郎は肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まれた。父の惟保(これのぶ、1829年 - 1902年)は、熊本藩惣庄屋家北里家の分家の北里家の当主であり、庄屋を務め、温厚篤実、几帳面な性格であった。母の貞(てい、1829年 - 1897年)は豊後森藩士加藤海助の娘で幼少時は江戸で育ち、嫁いでからは庄屋を切りもりした。柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼した。闊達な性質で、柴三郎の指導者としての性格は母親譲りであろうとされる。

柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ、漢学者の伯父から四書五経を教わった。帰宅後は母の実家に預けられ、儒学者・園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした。その後、久留島藩で武道を習いたいと申し出たが、他藩のため許可されず、実家に帰って父に熊本に遊学を願い出た。

1869年(明治2年)、柴三郎は細川藩の藩校時習館に入寮したが翌年7月に廃止になってしまった。その後、一時的に帰郷して地元の小国郷で教師、役所見習として採用されている(1870年8月26日付の辞令の控えが2022年に発見された)。

1871年(明治4年)、藩立の西洋医学所に入学。そこで柴三郎は教師のマンスフェルトに出会い、医学の世界を教えられ、これをきっかけに医学の道に目覚めることになった。マンスフェルトから特別に語学を教わった柴三郎は短期間で語学を習得し、2年目からはマンスフェルトの通訳を務めるようになった。マンスフェルト、職員、生徒の集合写真にはマンスフェルトの横に柴三郎が写っている。

1875年(明治8年)、柴三郎は23歳で上京し、東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学したが、在学中よく教授の論文に口を出していた為、大学側と仲が悪く、何度も留年した。

1883年(明治16年)、柴三郎は医学士となった。在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書いた。演説原稿が残っている。卒業時の成績(この時、31歳)は26名中8位であった。その後、長與專齋が局長であった内務省衛生局へ就職した。

柴三郎は同郷で熊本医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)、ドイツのベルリン大学へ留学した。緒方正規と北里柴三郎は同郷で、熊本医学校では同期であったが、緒方は北里より3年早く東京医学校に入ったので、北里が東京医学校を卒業した時には、緒方は内務省衛生局では上司の立場になっていた。

ドイツでの柴三郎は、コッホととても仲良くなり、コッホに師事して大きな業績を上げた。1887年(明治20年)、石黒忠悳陸軍省医務局長はベルリンを訪問して、柴三郎にペッテンコーファー研究室に移るように指示したが、コッホは石黒と面会し、北里柴三郎という人物の期待の大きさを強調したので、石黒は異動命令を撤回した。

1889年(明治22年)、柴三郎は世界で初めて破傷風菌だけを取り出す「破傷風菌純粋培養法」に成功した。翌年の1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し、世界の医学界を驚嘆させた。さらに「血清療法」という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した。

1890年(明治23年)には血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に「北里柴三郎」の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた柴三郎でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。柴三郎が受賞できなかったのは、ベーリングが単独名でジフテリアについての論文を別に発表していたこと、ノーベル委員会や(選考にあたった)カロリンスカ研究所が柴三郎は実験事実を提供しただけで免疫血清療法のアイディアはベーリング単独で創出したとみなしたこと、賞創設直後の選考でのちのような共同授賞の考え方がまだなかったことなどが要因として挙げられている。柴三郎に対する人種差別を理由とする明確な証拠は見つかっていない。

論文がきっかけで北里柴三郎は欧米各国の研究所、大学から招聘の依頼を数多く受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであるとして、柴三郎はこれらを固辞し、1892年(明治25年)に日本に帰国した。

北里柴三郎はドイツ滞在中に、脚気の病原菌の発見を発表した緒方正規に対し、実験手法の不備を指摘し病原菌発見を否定した。先述の通り緒方は北里の上司だったことがあり、東京大学総長加藤弘之から「師弟の道を解せざる者」と激しい非難を浴びた。森林太郎(森鴎外)からは「識ヲ重ンセントスル余リニ果テハ情ヲ忘レシノミ」と評され、北里は「情を忘れたるものに非ず。私情を制したるものなり」と反論した。緒方とも私生活では良好な関係を保ったものの、これにより母校の東大医学部とは対立することになってしまう。当時の日本では東大以外に伝染病研究ができる場所はなく、東大を敵に回すことは柴三郎自身の日本での研究者生命を危うくすることを意味した。

福澤諭吉は、北里が海外で大きな快挙を成し遂げたのにそれに相応しい研究環境が用意されないことを深く憂いて、全面協力と多大な資金援助を行い、1892年(明治25年)10月に「私立伝染病研究所」を現在の芝公園内に設立、北里をその初代所長とした。この時、福澤諭吉57歳、北里柴三郎40歳である。同年11月には、伝染病研究所は大日本私立衛生会(副会頭は長与専斎、この長与と福沢は適塾では同じ塾生の間柄)の所属となり、年間3600円の財政支援を受けた。

1893年(明治26年)、伝染病研究所が手狭になったので、東京府知事より払い下げられた芝区愛宕町の内務省の用地に移転を計画した。しかし、移転先の地域に住む近隣住民たちや東大初代総長である渡辺洪基らの妨害にあった。彼らは、移転の反対運動を起こし、北里のやっている研究がひどく危険で人体に有害なものであることを声高に叫んだ。そこで、福沢は移転予定地の近くに次男の捨次郎の住居を新築して住まわせた。そして、福澤は「北里の研究は安全です。私の次男が近くに住んでいます。近隣住民の心配はご無用です」と言って、反対運動を静めた。このように、福沢は北里の研究をいつも外野から後方支援した。

帝国議会では衆議院議員の長谷川泰らが中心となり、180人の議員連名で、国が北里の伝染病研究所を財政支援すべきだ、とする声が上がり、国は補助金を伝染病研究所に出して支援し、同所の運営はようやく軌道に乗った。

1894年(明治27年)、北里柴三郎はペストの蔓延していた香港に政府・内務省から調査研究するように派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという大きな業績を上げた。同じ頃、東大も青山胤通を派遣するが、青山は不運にもペストにかかってしまった。この時、東京大学派に属し青山と親交のあった森林太郎は、北里の発見したペスト菌がニセモノであると「鴎外全集~北里と中浜と~」(第三十三巻)の中で批判している。

1899年(明治32年)、「私立伝染病研究所」は、国から寄付を受けて内務省管轄の「国立伝染病研究所」となり、北里は伝染病予防と細菌学に取り組むことになった。

その後、伝染病研究所は研究員が増え、業務範囲も増えて芝区愛宕町の建物では手狭になったので、1902年(明治35年)、東京の白金台に2万坪の土地を購入し、1906年(明治39年)11月、伝染病研究所、血清薬院、痘苗製造所の3機関の入る国立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)の建物が新たに完成した。

北里柴三郎はかねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)、政府は所長の北里柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如、文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した。これには長年の東大の教授陣と北里柴三郎との個人的な確執が背景にあると言われている。しかも、その伝染病研究所は青山胤通(東京帝国大学医科大学校長)が所長を兼任することになるが、北里はこの決定に猛反発し、その時もまだ東大と反目していた為、すぐに所長を辞任した。そして、新たに私費を投じて「私立北里研究所」(現・学校法人北里研究所。北里大学の母体)を設立した。そこで新たに、狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。

福沢諭吉没後の1917年(大正6年)、慶應義塾医学所が廃校になってから37年後、慶應義塾は国から医学科設置を許可され、「慶應義塾大学部医学科」が誕生した。北里柴三郎は福沢による長年の多大なる恩義に報いるため、学長に自ら進んで就任した。新設の医学科の教授陣のメンバーにはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたるスター研究者を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾大学医学部(1920年、大学令により昇格)の発展に尽力した。

明治以降、日本では多くの医師会が設立され、一部は反目し合うなどばらばらの状況であったが、1917年(大正6年)に全国規模の医師会「大日本医師会」が設立され、北里柴三郎はその初代会長に就任した。その後、大日本医師会は、1923年(大正12年)に、医師法に基づく「日本医師会」となり、柴三郎は初代会長としてその組織の運営にあたった。

経歴

1853年(嘉永05年) - 肥後国北里村で代々総庄屋を務めた北里氏の支流の家に生まれる。

1866年(慶応02年) - 熊本に出て、田中司馬(儒者、医学)の塾に入門する。

1869年(明治02年) - 12月、熊本藩の藩校時習館に入寮。学問・武芸に励む。

1871年(明治04年) - 2月、熊本の古城医学所病院に入学。蘭医のコンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトに師事。

1875年(明治08年) - 4月、22歳で東京医学校(1877年、東京大学医学部と改称)に入学する。

1883年(明治16年)

    4月、松尾臣善(第6代日銀総裁)の長女・乕と結婚

    7月、東京大学医学部卒業(予科3年、本科5年の課程を7年半で修了)。

    11月、内務省衛生局に奉職。

    1885年(明治18年) - 11月、ドイツ留学を命じられる。

    1886年(明治19年) - 1月、ドイツベルリン大学のコッホ研究室に入り研究を開始する。

    1889年(明治22年) - ベーリングとともに世界で最初に破傷風菌の純粋培養に成功する。

    1890年(明治23年) - 世界で初めて血清療法を発見し、ジフテリア毒素と破傷風毒素に対する抗血清を開発する。12月、肺結核治療研究のため皇室から金一千円を下賜され、留学期間を1年延長(内務省は休職)。

    1891年(明治24年) - 8月、医学博士の学位を受ける。

    1892年(明治25年) - 10月、日本に戻り福澤諭吉らの援助により芝公園内に設立された「伝染病研究所」の所長に就任する11月、伝染病研究所は大日本私立衛生会の所属になり、年間3600万円の財政支援を受ける。

    1894年(明治27年) - 2月、伝染病研究所が芝区愛宕町に移転、ジフテリア抗血清の製造、これによる治療を開始する。5月には日本政府により香港へ調査派遣され、6月、感染症である腺ペストの病原菌を共同発見した。ほぼ同時に、アレクサンダー・イェルサン(英語版)もペスト菌を発見した。最初、ペスト菌はpasteurella pestis(パスツレラ ペスティス)と呼ばれていたが、今ではYersinia pestis(エルシニア ペスティス)と呼ばれている。

    1899年(明治32年) - 3月、伝染病研究所が国立(内務省)に移管される。4月、北里はそこの所長に就任する。

    1901年(明治34年) - 第1回ノーベル生理学・医学賞の公式候補に選ばれる。

    1906年(明治39年) - 4月、日本連合医学会会頭。9月、帝国学士院会員に任命される。11月、新しい伝染病研究所の建物が東京の白金台に完成し、そこに移転する。

    1908年(明治41年) - 6月、恩師コッホ夫妻を迎える。

    1913年(大正02年) - 日本結核予防協会を設立、副会頭に就任する。

    1914年(大正03年) - 伝染病研究所が突然、内務省から文部省に移管され東京帝国大学に合併されることになる。この時、北里は、この移管に大反対して所長を辞任する。また、志賀潔をはじめとする研究所の職員全員も一斉に辞表を提出した。これは「伝研騒動」といわれる。11月5日に私費を投じて「北里研究所」を設立、初代所長に就任する。

    1915年(大正04年) - 恩賜財団済生会芝病院(現・東京都済生会中央病院)設立とともに初代院長となる。

    1916年(大正05年) - 11月、府県の医師会を統合して「大日本医師会」を設立、会長に就任する。

    1917年(大正06年) - 慶應義塾大学部医学科の創立に尽力し、学長となる(医学科は1920年(大正9年)に医学部となる)。12月26日、貴族院勅選議員に就任。

    1920年(大正09年) - 慶應義塾大学医学部学部長、慶應医学会会長および大学医学部病院の院長となる。

    1923年(大正12年) - 日本医師会を創設。初代会長に就任する。

    1924年(大正13年) - 2月、男爵叙爵。

    1928年(昭和03年) - 5月、医学部長を辞任、顧問就任。

    1931年(昭和06年) - 6月13日5時、脳溢血のため東京・麻布の自宅で死去。享年79(78歳没)。6月17日、青山斎場で葬儀。青山墓地に葬られる。

    栄典

    1899年(明治32年)5月20日 - 正五位

    1904年(明治37年)6月10日 - 従四位

    1909年(明治42年)6月21日 - 正四位

    1914年(大正3年)

      7月10日 - 従三位

      11月30日 - 正三位

      1931年(昭和6年)6月13日 - 従二位

      1892年(明治25年)12月29日 - 勲三等瑞宝章

      1894年(明治27年)10月13日 - 旭日中綬章

      1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等瑞宝章

      1911年(明治44年)8月25日 - 金盃一組

      1919年(大正8年)10月25日 - 旭日重光章

      1920年(大正9年)

        6月11日 - 金盃一組

        12月1日 - 銀盃一組

        1924年(大正13年)2月11日 - 男爵

        1925年(大正14年)1月14日 - 御紋付銀杯

        1928年(昭和3年)11月10日 - 大礼記念章(昭和)

        1931年(昭和6年)

          1月16日 - 御紋付銀盃一組

          6月13日 - 勲一等旭日大綬章

          1909年(明治42年)8月20日 - プロイセン王国:星章附赤鷲第二等勲章

          1910年(明治43年)12月24日 - ノルウェー王国:聖オーラヴ第二等甲級勲章

          1914年(大正3年)5月14日 - フランス共和国:レジオンドヌール勲章コマンドゥール

          1892年(明治25年)5月1日 - プロイセン王国:プロフエッソル

2024/06/18 15:49更新

kitazato shibasaburou


北里柴三郎と同じ誕生日1月29日生まれ、同じ熊本出身の人

横井 時敬(よこい ときよし)
1860年1月29日生まれの有名人 熊本出身

横井 時敬(よこい ときよし/じけい、安政7年1月7日(1860年1月29日) - 1927年11月1日)は、日本の農学者・農業経済学者で、東京帝国大学教授・東京農業大学初代学長である。「稲のことは稲…

久世 由美子(くぜ ゆみこ)
1947年1月29日生まれの有名人 熊本出身

1月29日生まれwiki情報なし(2024/06/16 09:34時点)

水上 清乃(みなかみ きよの)
1972年1月29日生まれの有名人 熊本出身

水上 清乃(みなかみ きよの、1972年1月29日 - )は、熊本放送など、熊本県を中心に活躍するタレント。 1991年、熊本呉服専門店連盟が主催した「92 ミス熊本きものの女王選出大会」でミスに選…


TOPニュース

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去

立憲民主党の蓮舫氏が東京都知事選に出馬

平野紫耀神宮寺勇太岸優太の3人ダンスボーカルグループのNumber_iから新曲「BON」のMV公開。

結婚・離婚・再婚・年の差婚まとめ

元宝塚トップスターの光原エミカが1000万円詐取の疑いで逮捕

超有名女優と結婚した人気歌手が不倫の噂

藤原さくらYouTubeで新曲公開!『初恋のにおい』ショートアニメ

「つばさの党」代表の黒川敦彦ら3人を逮捕


北里柴三郎と近い名前の人

北里 晃一(きたざと こういち)
1958年12月7日生まれの有名人 福岡出身

12月7日生まれwiki情報なし(2024/06/24 10:13時点)

北里 鮎(きたざと あゆ)
7月9日生まれの有名人 熊本出身

北里 鮎(きたざと あゆ、7月9日 - )は、日本の漫画家。熊本県出身。血液型A型。 2017年 - 第4回りぼん新人まんがグランプリにおいて、『トゥナイト ボーイフレンド』で準グランプリを受賞し…

北里深雪(きたざと みゆき)
1931年7月20日生まれの有名人 出身

北里 深雪(きたざと みゆき、1931年7月20日 - )は、日本の元女優、元声優。東京府出身。 聖心女子大学在学時、夏休みの宿題に悩む中で新聞広告を見たことを機に俳優座養成所の門を叩いた。この時…

北里 一郎(きたさと いちろう)
1932年6月18日生まれの有名人 東京出身

北里 一郎(きたさと いちろう、1932年6月18日 - )は、明治製菓株式会社(現:Meiji Seikaファルマ株式会社)最高顧問。工学学士(慶應義塾大学 1955年)。薬学博士(北里大学 199…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
北里柴三郎
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

りんごちゃん_(ものまねタレント) 藤井祐眞 吉成名高 平埜生成 五十嵐カノア 清原翔 大山健司 萩原利久 早瀬憩 浅野典子_(競泳選手)

グループ

asfi アイドルカレッジ ALLOVER Especia 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「北里柴三郎」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました