和田誠の情報(わだまこと) イラストレーター 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
和田 誠さんについて調べます
■名前・氏名 |
和田誠と関係のある人
中川昭一: 通訳として中川に同行していた神父の和田誠は中川の最も近くにいたが、報道にあったような非常識な行為を見た記憶はないという。 みうらじゅん: 初期の頃の画風は現在とは全く違い、デビュー前は和田誠を真似た絵だったので、ガロに持ち込みに行った時には渡辺和博に「和田誠って名前変えれば?」と言われた。 草森紳一: 『文化の利用』番町書房〈絶対の宣伝:ナチス・プロパガンダ4〉1978年、全国書誌番号:79026249 和田誠装丁 内藤陳: 和田誠 編著「内藤陳、ヴォードヴィルを語る」『聞いたり聞かれたり』七つ森書館、2013年11月。 大橋正: 和田誠『仕事場対談 和田誠と27人のイラストレーター』pp.10-18(河出書房新社、2001年) 矢吹申彦: 『連句日和』笹公人, 俵万智, 和田誠共著 自由国民社 2015 みなもと太郎: 日本の漫画史に造詣が深く、映画の名ゼリフについての和田誠の作品『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ』(文藝春秋)をもじった漫画評論「お楽しみはこれもなのじゃ 漫画の名セリフ」を『月刊マンガ少年』(朝日ソノラマ)に連載していた。 佐山雅弘: 2001年、和田誠監督の映画『真夜中まで』に出演。 工藤直子: 『密林一きれいなひょうの話』和田誠え 銀河社 1991 上野樹里: 夫はTRICERATOPSの和田唱(和田誠と平野レミの長男)。 渋谷直角: そうした家庭環境で育ったため、和田誠や原田治、湯村輝彦、安西水丸といった80年代に注目されていたイラストレーターの作品に幼少期から触れていた。 澤井信一郎: 麻雀放浪記(1984年)和田誠と共同 忌野清志郎: また、和田誠が企画した「オフ・オフ・マザーグース」というアルバムでは、長男を含め、二人の子供達と一緒に「フェル先生」という曲を歌っている。 糸井重里: 尊敬する人物や影響を受けた人物として藤田元司、和田誠、土屋耕一、横尾忠則といった名前を挙げている。 矢崎泰久: デザイナー和田誠、放送作家永六輔、俳優伊丹十三など、他方面で活躍していた才能をイラストレーター、ライターとして雑誌に起用した。 ビリー=ワイルダー: 現在でもキャメロン・クロウをはじめ、サム・メンデスやロン・ハワードといった若い世代の監督たちからも絶大な支持があり、日本でも立川談志、三谷幸喜、和田誠、杉浦直樹、小堺一機など多くのファンがいる。 鹿賀丈史: そのほか野村芳太郎監督の『疑惑』、和田誠監督の『麻雀放浪記』、角川監督の『キャバレー』などの助演(以上3作の演技でそれぞれ日本アカデミー賞助演男優賞を受賞)、滝田洋二郎監督の『木村家の人びと』、井筒和幸監督の『さすらいのトラブルバスター』などの主演で注目を浴びた。 若山弦蔵: 1981年の『キネマ旬報』に掲載された和田誠との対談でアニメの話題になった際に「僕は絶対出ない」と答えている。 安西水丸: No idea 安西水丸、和田誠 (金の星社 2002年10月) 高平哲郎: ザ・フィフティーズ 最高にゴージャスなアメリカン・スタイル(実業之日本社、1984年8月**和田 誠 (著), 片岡 義男 (著), **共著:和田誠、片岡義男、内藤陳、高平哲郎、わたせせいぞう 笹公人: 『連句遊戯』 和田誠共著(白水社、2010年)ISBN 4560080798 装丁:和田誠。 草森紳一: 『宣伝的人間の研究ヒットラー』番町書房〈絶対の宣伝:ナチス・プロパガンダ2〉1978年、全国書誌番号:79009341 和田誠装丁 草森紳一: 『宣伝的人間の研究ゲッベルス』番町書房〈絶対の宣伝:ナチス・プロパガンダ1〉1978年、全国書誌番号:79004226 和田誠装丁 草森紳一: 『煽動の方法』番町書房〈絶対の宣伝:ナチス・プロパガンダ3〉1978年、全国書誌番号:79014879 和田誠装丁 島田歌穂: 2014年、デビュー40周年記念アルバムとして、レーベルの枠を超えた初の自選オールタイムベスト『MY GRATITUDE』、和田誠監修、島健とのデュオによる初のJazzアルバム『いつか聴いた歌』を同時リリース。『MY GRATITUDE』は宇野亞喜良氏、『いつか聴いた歌』は和田誠氏の書き下ろしジャケットを使用している。 平野レミ: 番組を聴いていたイラストレーターの和田誠が平野に惚れ込み、1972年に出会って10日で結婚(後述)し、一時育児・主婦業に専念した。 和田唱: イラストレーターの和田誠と料理家の平野レミ夫妻の長男で、妻は女優の上野樹里。 工藤直子: 『であってどっきり』和田誠絵 文溪堂 2006 大田垣晴子: 在学中に和田誠の紹介で、雑誌『話の特集』の1992年7月号から、16頁ものイラスト・エッセイ「サンサル」を連載開始。 白坂依志夫: 同世代の若き文化人たち、大江健三郎、石原慎太郎、寺山修司、谷川俊太郎、武満徹、和田誠、伊丹十三らと盛んに交流した。 |
和田誠の情報まとめ
和田 誠(わだ まこと)さんの誕生日は1936年4月10日です。大阪出身のイラストレーターのようです。
人物、名言などについてまとめました。映画、ドラマ、現在、家族、卒業、退社、解散、結婚、テレビに関する情報もありますね。83歳で亡くなられているようです。
和田誠のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)和田 誠(わだ まこと、1936年〈昭和11年〉4月10日 - 2019年〈令和元年〉10月7日)は、日本のイラストレーター、グラフィックデザイナー、エッセイスト、映画監督。大阪府生まれ。 実父は築地小劇場の創立者メンバーの1人で、のち、ラジオドラマを多数演出し「ラジオの神様」と呼ばれた和田精。日劇レビューで演出家を担った山本紫朗は伯父にあたる。 妻は料理愛好家・シャンソン歌手の平野レミ。長男はロックバンド・TRICERATOPSの和田唱で、その妻は上野樹里。次男の和田率は元電通勤務で、現在は母・平野レミの料理サイト「remy」のクリエイティブ・ディレクター。率の妻は和田明日香。 人物父である精が勤務していたJOBK(現在のNHK大阪放送局)の当時の赴任地である大阪市東住吉区で生まれる。1943年(昭和18年)大阪市住吉区長池国民学校(現・大阪市立長池小学校に入学。1945年(昭和20年)、精の失職に伴い3月に一家で精の実家である東京都世田谷区代田に転居。しかし、家族と一人離れて疎開した千葉県で敗戦を迎える。 東京へ戻り世田谷区立代沢小学校3年次に転入し、世田谷区立富士中学校、東京都立千歳高等学校(現・東京都立芦花高等学校)、多摩美術大学図案(現・デザイン)科を卒業。『グレン・ミラー物語』(1954年)を観て、ジェームズ・ステュアートに似顔絵付きのファンレターを出して、返事で絵を褒められたのが絵を職業にしようと決心した理由の一つだという。 1959年(昭和34年)に広告制作プロダクションライトパブリシティにデザイナーとして入社し、同年、日本専売公社が発売予定の新商品の紙巻きたばこ「ハイライト」のパッケージデザインコンペに参加し、24歳の若さで勝ち抜き採用される。同製品のデザインは、1964年開業の東海道新幹線の車体の色を決めるときに配色の参考にされた。 他にも自社のライトパブリシティ及び、社会党のロゴマークを手掛け、キヤノンや東レといった国内有数の企業の広告デザインを長らく担当した後、1968年(昭和43年)退社。 1964年に灘本唯人、宇野亞喜良、山口はるみ、横尾忠則らと東京イラストレーターズ・クラブを結成(70年解散)。 1972年、出会って10日で平野レミと結婚。シャンソン歌手としてテレビで歌うレミを見て、ひと目惚れしたのが始まり。当時レミとラジオ番組で共演していた友人の久米宏に紹介を頼んだところ、久米は「レミさんだけはやめた方がいいと思いますよ」と返したという。1975年に長男・唱、1979年に次男・率が誕生。1978年には渋谷区に事務所、自宅を構えた。 1965年から1995年、矢崎泰久から声をかけられ、雑誌『話の特集』の創刊にかかわり、1995年の休刊までアート・ディレクターをつとめた。 退社後はフリーランスとなり、「週刊文春」の表紙や星新一著作の挿絵などを手掛ける。他、星新一・丸谷才一の一連の作品や村上春樹の『アフターダーク』、三谷幸喜や阿川佐和子作品を始め、数多くの装丁を担当する(この縁もあり、阿川や三谷とは交流があった)。 イラストレーターとしての仕事が知られる一方、『窓ぎわのトットちゃん』など、自身のイラストを用いないデザインも見られる(この縁から黒柳徹子とは交流があり、なかなかテレビ番組に出演しなかったが『徹子の部屋』には出演している)。 通常、書籍のバーコードは裏表紙のカバーに直接印刷されるが、これを嫌い、ISBNの数字のみが表示されたデザインを採り入れている。結果、バーコードは帯に印刷されることが多い。 映画にも造詣が深く、1984年に角川映画として初監督作品である真田広之主演『麻雀放浪記』を手掛け、小泉今日子主演の『快盗ルビイ』など数作品でメガホンをとった。ちなみに、他分野出身の監督が第一、二作連続でキネマ旬報ベストテン入りを果たしたのは唯一である。監督業以外にも『お楽しみはこれからだ』等、映画がテーマのエッセイ集を出している。 1992年、伯父の山本紫朗に国内レビューの黄金時代を取材した内容をまとめた著書『ビギン・ザ・ビギン』をモチーフに、『日劇物語』を映画化する話がもち上がった。脚本を手掛け、クランク・イン寸前まで進んだが、資金不足のため撮影は中止された。 アニメーション作家としての実績もあり、1960年(昭和35年)に久里洋二・柳原良平・真鍋博が「アニメーション三人の会」を結成し、草月ホールで定期的に上映会を行っていた際に、横尾忠則や手塚治虫等と共に参加し、個人制作の作品を発表した。1961年(昭和36年)NHKで放送開始の『みんなのうた』に参加し、初のアニメーション作品『誰も知らない』『ビビディ・バビディ・ブー』『ねこふんじゃった』を始め、他9曲の映像を製作した。また、フジテレビ『ゴールデン洋画劇場』のオープニングタイトルを手掛けている。 2019年10月7日、東京都内の病院にて肺炎のため死去。83歳没。 2020年3月、母校である多摩美術大学に約5万点の資料および作品が寄贈されたことを大学が公表。アーカイヴ展示が行われている。 2021年12月17日、渋谷区立中央図書館に自著や装丁を手掛けた本、蔵書や本棚、打ち合わせに使用されたテーブルや椅子などが寄贈され、図書館4階に「和田誠記念文庫」が開設された。 2022年4月、ジャズなどのレコード365枚が、生前親交のあった作家の村上春樹の関連資料を収蔵する早稲田大学国際文学館(村上春樹ライブラリー)に寄贈された。 名言「人生の博打でいうと、イラストレーターという職業を選んだことかな?当時はまだそういう言葉はなかったけどね。」 2024/06/16 21:34更新
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wada makoto
和田誠と同じ誕生日4月10日生まれ、同じ大阪出身の人
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