宇野光雄の情報(うのみつお) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
宇野 光雄さんについて調べます
■名前・氏名 |
宇野光雄と関係のある人
西本幸雄: 西本の入部前に引退した上級生の一人に宇野光雄がいる。 岩下守道: 1950年夏に宇野光雄二軍監督の勧めで一塁手へ転向、さらに郷里の先輩で大洋の監督であった中島治康に野手転向の報告を行った際に勧められて、左打者になる。 王貞治: この日宇野光雄監督の国鉄スワローズとの開幕戦で高卒新人ながら7番・一塁で先発出場を果たし、しかも相手投手はすでに大投手であった金田正一であった。 高屋俊夫: 監督が宇野光雄から砂押邦信に交代した1961年にはイースタン・リーグで最多勝を獲得したが、一軍で登板することはなくこの年限りで引退した。 手塚明治: しかし、同年10月以降肩の故障が癒えた宇野光雄にレギュラーを奪われ、以降は徐々に出場機会を減らした。 松田清: 入団後は肩の故障のため一塁手に転向していたが、2年目の1950年夏、二軍の東北・北海道遠征のある試合で岩下守道が連投で疲労困憊しストライクが入らず、見かねた松田は宇野光雄二軍監督にリリーフを申し出て好投。 藤本英雄: 投手復帰に向けた練習をしていた頃、同じく肩を痛めて二軍にいた宇野光雄とキャッチボールをしていたところ、藤本の投げたボールがぱっと右へ切れたことを宇野が指摘。 砂押邦信: 1960年からは国鉄スワローズ一軍コーチとなり、同年11月26日に宇野光雄の後を継いで監督に就任。 根来広光: その後は宇野光雄監督からの打診により、高校・社会人でそれぞれ短期間経験した捕手に転向することとなった。 南村侑広: 1952年と1953年は宇野光雄とともに主に5番または6番を打って、2年連続で外野手のベストナインを獲得し、1952年には打率.315でリーグ4位につけている。 川本徳三: 当時の巨人打線は千葉茂、川上哲治、青田昇、与那嶺要、宇野光雄という強力打線であり、この時の好投で自信を掴んだ。 須藤豊: 1960年の大洋との日本シリーズでも1打席のみの出場に留まり、1961年からは就任した宇野光雄監督との間に確執を生じていた。 葛城隆雄: 1962年は宇野光雄監督の意向で、矢頭高雄とポジションを交換し右翼手に回る。 西本幸雄: 西本の次になった監督は、同年にセ・リーグで国鉄を最下位にしてクビになっていた宇野光雄であり、永田が宇野を選んだ理由は「元巨人の選手(知名度がある)」だったからであった。 島谷勇雄: この逸話は当時の金田が監督の宇野光雄をも凌ぐ発言権を有していた事実を示すものとされる一方で、佐々木重徳ら同僚からは「金田の勝利に対する執念の凄まじさ」と肯定的に評する向きもあった。 矢頭高雄: 1962年には強肩を活かそうという宇野光雄監督の意向で、葛城隆雄とポジションを交換し三塁手に回る。 星野仙一: 監督1年目の退場は宇野光雄、金田正一、ジョー・ルーツに次いで4人目。 宮崎要: 大学時代は名二塁手として、飯島滋弥・大館盈六・宇野光雄とともに100万ドル内野陣を形成。 田中義雄: 宇野光雄監督の片腕として手腕を発揮。 |
宇野光雄の情報まとめ
宇野 光雄(うの みつお)さんの誕生日は1917年4月10日です。和歌山出身の野球選手のようです。
卒業、引退、テレビ、現在に関する情報もありますね。1994年に亡くなられているようです。
宇野光雄のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 宇野 光雄(うの みつお、1917年4月10日 - 1994年4月17日)は、愛知県名古屋市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。 旧制和歌山中学では春の選抜に4年連続出場し、1933年はベスト4、1934年はベスト8まで進出。1936年には優秀選手賞になるなど、走攻守揃った三塁手として名を馳せた。このように和歌山中学は強豪校であったが、宇野の学年7人が卒業を前に引退すると部員が5人だけになってしまい、その状況で入部した4年生の一人が西本幸雄であった。 中学卒業後の1937年に慶應義塾大学へ進学すると、戦前の黄金期に中心選手として活躍。飯島滋弥・宮崎要・大館盈六と共に「100万ドルの内野陣」と謳われた。また、この頃の野球のマネージャーに後の読売ジャイアンツのオーナーとなる正力亨がいた。東京六大学リーグでは通算90試合に出場し331打数79安打、0本塁打、打率.239を記録。卒業後の1946年には1年だけ母校・慶大の監督に就任して、戦後初のリーグでは5戦全勝で優勝を飾り、大島信雄・別当薫・加藤進を卒業生として送り出した。 退任後は藤倉電線を経て、1947年に三原脩監督の熱心な勧誘を受けて読売ジャイアンツへ入団するが、肩を故障してしまう。療養中の1948年には同じく肩を壊して調整していた藤本英雄とのキャッチボールの際に、藤本の投げたボールがスライド回転することに気付き、これが藤本のスライダー習得のきっかけとなった。結局、宇野の肩は治らず1948年シーズン途中で巨人を退団。巨人退団後は新東宝に入社して、一時は山田五十鈴の付き人も務めた。最初は山田が歩く3歩後ろを、宇野が化粧鞄を持って歩いていたが、だんだん距離が縮まり、終いには並んで歩くようになった。また、巨人在籍時には往年の強肩が見る影もなく衰えてしまっていたことについて、恋多き女、山田五十鈴にかわいがられたら、肩も腰も吸い取られてしまうだろう、との噂があったという。 1950年に豊富なキャリアを評価されて巨人に二軍監督として復帰するが、少ない選手数の中で練習の手伝いをしているうちに肩の故障が回復し、シーズン終盤に選手として復帰。39試合に出場して打率3割を記録 すると、1951年からは手塚明治に替わってレギュラー三塁手となる。青田昇・川上哲治と共にクリーンアップを打ち、リーグ10位の打率.303を記録。1952年は5番の南村不可止に次いで6番打者を務め、リーグ11位の打率.290をマークする。1953年にはハワイから来日していきなり.340の高打率を挙げた柏枝文治に押されて出場試合数が減り、同年限りで国鉄スワローズへ移籍。宇野は守備力を高く評価された三塁手であっただけに、後任の柏枝・岩本堯・広岡達朗らでは宇野が抜けた穴を埋められず、長嶋茂雄が入団するまで巨人は三塁手に苦労したといわれる。移籍については、1954年春の明石キャンプで水原茂監督から通告されたが、宇野は悔しさのあまり非常に荒れた。一方で宇野の指導者としての能力を期待していた巨人は国鉄に対して、巨人では監督を(選手としての)完全生え抜きのOBに限定する内規を定めているため、移籍させると巨人の監督候補から外れることを考慮して、将来国鉄で監督に就任させるように条件を付けたという。後年宇野はこのトレードは水原の温情だったのだろう、としみじみ語っていた。 国鉄ではコーチ兼任の傍ら、4番打者としてリーグ12位の打率.291を記録し、ベストナインのタイトルを獲得。また、宇野は巨人戦で打率.338を記録したが、チームも同年4月4日から6月20日まで巨人相手に8連勝し、宇野の闘志が国鉄に乗り移ったといわれた。1955年まで4番・三塁手を務め、1956年に国鉄の選手兼任監督に就任。宇野は巨人に対して非常に闘志を燃やして集中攻撃し、巨人対国鉄戦は毎試合のように大熱戦が展開される看板カードとなった。特に同年の国鉄は対巨人戦11勝13敗と健闘し、チーム設立以来初めて4位に浮上させる。別府キャンプで鍛え上げた鵜飼勝美を巨人戦の4番に起用し、5番に起用した佐々木重徳も巨人戦になると打った。創立1年目の1950年が3勝、2年目の1951年が4勝の対戦成績を11勝まで押し上げたが、同年限りで現役を引退。 引退後の1957年からは監督専任となり、1950年代後半の国鉄はエース・金田正一の最盛期であったが、4年連続4位と巨人・阪神・中日の三強の壁をどうしても崩すことができなかった。1959年の勝率.492を最高に一度もAクラス・勝率5割を達成できないまま、最下位に転落した1960年限りで監督を解任。監督が交代を告げる前に降板したことはおろか、監督が交代を告げる前にマウンドにのぼったこともあった金田とは、感情的対立があったという。 1961年からは中学の後輩である西本の辞任を受けて大毎オリオンズ監督を務め、成績は就任前のリーグ優勝から2年連続4位に終わり、1962年限りで解任。永田雅一オーナーからオーナー室から采配について宇野に直接電話が来ることがあり、当時大毎の選手・コーチであった杉下茂は「野球好きで何度も球場に訪れていたが、口出すのは参った。ベンチにいると、オーナー室から宇野光雄監督のところに電話が来るんだ。采配について直接電話だよ。私も苦笑いするしかなかった。」 と述べている。1961年7月25日の東映戦(駒澤)で、代打に須藤豊を送ろうとした際、「なーんだ、スーしかおらんのか。仕方ねぇなあー、そんならお前行けや」と配慮のない言葉を吐いてしまい、激怒した須藤から「監督なら、誰が残っているかくらいしっかり覚えときや!」とベンチ内で怒鳴りつけられた。同年オフに須藤は土居章助との交換トレードで巨人に移籍した。大毎監督退任後はラジオ関東「バッチリナイター」解説者(1963年 - 1968年)を経て、慶大・巨人の先輩である水原の下で中日のヘッドコーチ(1969年 - 1970年)を務めた。 中日コーチ退任後は千葉テレビ「CTCダイナミックナイター」(1971年)・東京12チャンネル「○曜ナイター」(1971年 - 1976年)・日本短波放送「たんぱストレートナイター」で解説者を務め、解説業の傍ら、1972年からは東京都立川市でドイツ風ビアホールレストラン「バイエルン」を経営した。開店前の昼過ぎには「よーし、今日は臨時休業だ!みんな帰っていいぞ」と言って、一人だけ残った店員がテーブルと椅子を片付けてボールを転がすと、ボールを掴んだその一瞬、宇野は左手首を捻った。倒れてもグラブからボールがこぼれないようにロックをかけ、妙技の一端を見せていた。神宮の早慶戦で母校・慶大を応援する際、ネット裏席ではなく、学生席で後輩達と肩を組み「若き血」を歌っていた。 1994年4月17日に多発性骨髄腫のため死去。77歳没。 野球帽をあみだ被りにして、ひょうひょうとした仕草で、おとぼけのウーやんのニックネームで呼ばれた。一方で、実際のプレーは頭脳的で、相手の気持ちを読んだ駆け引きに秀でていた。 故障により肩が万全でなかったため、三塁守備では浅い守備位置を取っていた。一方で、ボールを決して恐れず、千葉茂によると水原と宇野がゴロの打球から逃げたのを決して見たことがなかったという。また打席でも、内角の投球に対して、避けるふりをしながらダブダブに着用したユニホームの袖に擦らせて、死球を稼ぐことを得意とした。 打撃では、高めの速球を左中間に持って行く、ストレート打ちの名手だった。 ある年の契約更改で、球団代表から片手を広げて「これだけアップでどうかね」と言われて、てっきり5万円アップと思い込んだ宇野は契約書に印鑑を押す。しかし、帰宅して確認すると、片手のアップはわずか5千円であったという。 ベストナイン:1回 (三塁手部門:1954年) オールスターゲーム出場:2回 (1953年、1954年) 29 (1947年 - 1948年) 40 (1950年 - 同年途中) 10 (1950年途中 - 1953年、1962年途中 - 同年終了) 1 (1954年 - 1955年) 30 (1956年 - 1962年途中) 61 (1969年) 67 (1970年) ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、85ページ ^ 『巨人軍の男たち』114頁 ^ 『ジャイアンツ栄光の70年』45頁 ^ 山本暢俊『嶋清一 戦火に散った伝説の左腕』彩流社、2007年、99頁 ^ 『ジャイアンツ栄光の70年』45頁 ^ 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』205頁 ^ 『巨人軍の男たち』115頁 ^ “「殺してやる!」と水原茂に飛びついた宇野光雄の思い出”. 東スポweb. (2020年1月25日). https://www.tokyo-sports.co.jp/articles/-/179288 2020年2月21日閲覧。 ^ 『日本プロ野球トレード大鑑』81頁 ^ 徳永喜男『ヤクルトスワローズ球団史・1992年度版』ベースボール・マガジン社、1992年12月 ^ 『プロ野球データ事典』172頁 ^ 『プロ野球データ事典』176頁 ^ 週刊ベースボール60周年記念企画【週ベ60周年記念企画142】『川上監督の考えた三つの人事~主将、あと一人のコーチ、トレード問題』【1960年12月28日号】週刊ベースボール ^ 【金田正一監督】「長嶋巨人と日本一を争うのがワシの夢や」 - 2014.6.29 ^ 徳永喜男著『ヤクルトスワローズ球団史』ベースボールマガジン社、P108 ^ 週刊ベースボール60周年記念企画 阪急・西本幸雄監督就任/週べ1962年11月26日号【243】週刊ベースボール ^ 杉下茂著『伝えるII:プロ野球 努力の神様たち』(中日新聞社、2013年11月)ISBN 9784806206590、207-208頁 ^ 「土佐のいごっそう、監督を怒鳴る」Sponichi Annex職業野球人 第2回 須藤豊 ^ 週刊文春昭和48年4月9日号「グラウンドを去ってから 名選手がたどった人生の明暗」 ^ 宇野 光雄とは - コトバンク ^ 『巨人軍の男たち』116頁 ^ 『猛牛一代』327頁 ^ 『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』177頁 『ジャイアンツ栄光の70年』ベースボールマガジン社、2004年 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボールマガジン社、2001年 坂本邦夫『プロ野球データ事典』PHP研究所、2001年 千葉茂『巨人軍の男たち』東京スポーツ新聞社、1984年 千葉茂『猛牛一代』恒文社、1977年 『報知グラフ 別冊 巨人軍栄光の40年』報知新聞社、1974年 『ジャイアンツ栄光の70年』ベースボールマガジン社、2004年 愛知県出身の人物一覧 慶應義塾大学の人物一覧 読売ジャイアンツの選手一覧 東京ヤクルトスワローズの選手一覧 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧 日比谷高野球部(戦前戦後の時期、コーチに出向いていた) 個人年度別成績 宇野光雄 - NPB.jp 日本野球機構 表 話 編 歴 投 杉下茂 捕 広田順 一 西沢道夫 二 箱田弘志 三 宇野光雄 遊 広岡達朗 外 与那嶺要 / 渡辺博之 / 杉山悟 表 話 編 歴 西垣徳雄 1950 - 1953 藤田宗一 1954 - 1955 宇野光雄 1956 - 1960 砂押邦信 1961 - 1962 浜崎真二 1963 林義一 1964 - 1965 砂押邦信 1965 飯田徳治 1966 - 1967 別所毅彦 1968 - 1970 三原脩 1971 - 1973 荒川博 1974 - 1976 広岡達朗 1976 - 1979 武上四郎 1980 - 1984 土橋正幸 1984 - 1986 関根潤三 1987 - 1989 野村克也 1990 - 1998 若松勉 1999 - 2005 古田敦也 2006 - 2007 高田繁 2008 - 2010 小川淳司 2011 - 2014 真中満 2015 - 2017 小川淳司 2018 - 2019 髙津臣吾 2020 - 現在 表 話 編 歴 湯浅禎夫 1950 - 1952 別当薫 1952 若林忠志 1953 別当薫 1954 - 1959 西本幸雄 1960 宇野光雄 1961 - 1962 本堂保次 1963 - 1965 田丸仁 1966 戸倉勝城 1967 濃人渉 1967 - 1971 大沢啓二 1971 - 1972 金田正一 1973 - 1978 山内一弘 1979 - 1981 山本一義 1982 - 1983 稲尾和久 1984 - 1986 有藤道世 1987 - 1989 金田正一 1990 - 1991 八木沢荘六 1992 - 1994 ボビー・バレンタイン 1995 江尻亮 1996 近藤昭仁 1997 - 1998 山本功児 1999 - 2003 ボビー・バレンタイン 2004 - 2009 西村徳文 2010 - 2012 伊東勤 2013 - 2017 井口資仁 2018 - 2022 吉井理人 2023 - 現在 日本の野球選手 和歌山県立桐蔭高等学校出身の野球選手 慶應義塾大学野球部の選手 全藤倉及びその前身チームの選手 読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手 東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の監督 東京ヤクルトスワローズ及びその前身球団の監督 中日ドラゴンズ関連人物 名古屋市出身の人物 野球解説者 ラジオNIKKEIの人物 癌で亡くなった人物 1917年生 1994年没 出典のページ番号が要望されている記事 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目 ウィキデータにある日本野球機構選手識別子
2024/11/12 15:29更新
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