小川正太郎の情報(おがわしょうたろう) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
小川 正太郎さんについて調べます
■名前・氏名 |
小川正太郎と関係のある人
伊達正男: 1931年春、エース小川正太郎が胸部疾患のため早明戦を最後に戦列を離れ、早大投手陣が火の車になったことを受けて投手に転向。 宮武三郎: この頃の早稲田大学は、宮武を擁する慶応に全く歯が立たたない状況にあったが、和歌山中学時代にエースとして甲子園で覇者となった名投手小川正太郎が入学すると、小川を切り札として真っ向から慶応に対峙、以後早慶の激闘が全国的に注目を浴びるようになった。 嶋清一: 野球への興味は、和歌山出身の小川正太郎の逸話を父から聞かされたことに由来するという。 内村祐之: 藤本定義は自分が見た中で五指に入る左腕投手として、谷口五郎、小川正太郎、金田正一、江夏豊と共に内村を挙げている。 宮武三郎: 加えて当時は、三原修(早大)、小川正太郎(早大)、伊達正男(早大)、伊丹安広(早大)、若林忠志(法大)苅田久徳(法大)、島秀之助(法大)、田部武雄(明大)、松木謙治郎(明大)、菊谷正一(立大)ら多くのスター選手が活躍しており、東京六大学リーグ戦はたいへんな人気を博していた。 小川年安: 1927年、前年春選抜を制した広陵中学(現・広陵高校)の捕手として、春選抜は田部武雄と、夏の選手権は八十川胖とバッテリーを組み、更に打線も山城健三、三浦芳郎、中尾長らを揃えて広陵野球部史上最強チームと言われたが、連覇を狙った春は小川正太郎の和歌山中学に、夏も水原茂らのいた高松商業に決勝で敗れた。 島本義文: 和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)在学中には、「中学球界の麒麟児」と讃えられた小川正太郎とバッテリーを組み、1926~30年の5年間で8度甲子園の全国大会に出場した。 中尾長: しかし、連覇を狙った春の選抜では、大会屈指の好投手小川正太郎擁す和歌山中に、夏の選手権も水原茂らの高松商に決勝で敗れ、広陵中は春夏連続準優勝であった。 田部武雄: この前年度初優勝して「野球王国」広島の礎を築いた広陵は、八十川胖(のち明大、八十川ボーク事件で有名)、小川年安(慶大、阪神)、山城健三(通称:ベーブ山城、立大)、三浦芳郎(明大)、中尾長(明大、セネタース)らを揃えて広陵野球部史上最強チームと言われ、春連覇を狙い田部がエース3番として勝ち進み決勝までいくが、快速球左腕小川正太郎の和歌山中学(和中)の前に敗れた。 石井藤吉郎: 戦前小川正太郎の入学が「再生の神の入来」と言われたが、石井の復活はそれ以上の衝撃・効果を早大にもたらした。 伊達正男: しかし中学時代にマウンドに上った経験があり、高松商業の水原茂や和歌山中学の小川正太郎らと投げ合ったこともあった。 |
小川正太郎の情報まとめ
小川 正太郎(おがわ しょうたろう)さんの誕生日は1910年4月1日です。和歌山出身の野球選手のようです。
関連項目などについてまとめました。結婚、卒業、現在に関する情報もありますね。
小川正太郎のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)小川 正太郎(おがわ しょうたろう、1910年4月1日 - 1980年10月27日)は、大正末期から昭和初期にかけて活躍した日本の野球選手、新聞記者。 当時史上屈指の好投手として、またアマチュア球界の要職を務め、日本の野球人気の高揚に貢献した。 大会初の連続優勝など当時中学球界随一の強豪であった和歌山県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)在学中の5年間で8度甲子園の全国大会に出場した。快速球と「2階から落ちるような」と喩えられたカーブを武器に1926年(大正15年)夏第12回全国中等学校優勝野球大会の準決勝で8連続奪三振を記録。正太郎が達成した この記録は桐光学園・松井裕樹が更新するまで86年間破られなかった。また同大会では2度にわたって「全員奪三振」の大会記録を樹立。翌年1927年の第4回選抜中等学校野球大会でも優勝投手となり、優勝校に褒美として贈られた米国遠征でも1勝3敗1分の成績を収めた。なお、この遠征は日本での県予選と時期が重なったため和歌山中学は二軍を送り出したが、それでも予選を勝ち上がって夏の甲子園に出場を果たした(1927年の第13回全国中等学校優勝野球大会)。1928年の第5回選抜中等学校野球大会も決勝まで勝ち上がり準優勝。小川は「中学球界の麒麟児」と讃えられた。当時のメンバーに小川とバッテリーを組んだ島本義文(のち横浜高工→阪急)がいる。 小川は1929年に早稲田大学に入学(のち政治経済学部に進んだ)。この当時の早稲田は打線に人は得ているものの投手陣の力量が不足、慶應・明治の後塵を拝していた。そのため小川の入学は「再生の神の入来(にゅうらい)」などと救世主的な存在としてもてはやされた。周囲の期待に違わず、小川は初戦となる春季リーグ戦、対法政2回戦で延長12回を17奪三振で完封、華々しいデビューを飾ると、そのまま早稲田のシーズン全7勝中の4勝を挙げ、六大学史上初の全勝対決となった早慶戦でも宮武三郎に投げ勝ち、それまで向かうところ敵無しといわれた慶應の連勝を20で止めた。これにより「早稲田の至宝・小川」と「慶応の超ド級・宮武」が六大学で並び称せられることとなる。小川・宮武の対決は全国の注目を集め、キップを求める徹夜の列を作ったが、このような例は日本野球史上初めてとされる。早稲田はここでは慶應に優勝を譲ったが、秋に再び全勝同士(慶應8勝、早稲田5勝(対立教2回戦と明治戦を残していた)で早慶が激突、再び小川-宮武の対決が全国を沸かせた。試合は早稲田が2勝1敗で勝ち、小川は1回戦・3回戦で勝利投手となった。このように六大学発足以来しばらく戦力不均衡が続いた早慶が小川の加入により実力が拮抗、早慶戦の激闘は新国劇が舞台にした他、「早慶戦、見ましたか?」「早慶と誰が試合をしたんや?」というエンタツ・アチャコの漫才が古典となるなど、空前の国民的な熱狂を煽った。小川・宮武の早慶戦の全国的な熱狂は三原・水原の次代に受け継がれることとなる。 しかし、小川の全盛は短かった。翌年に入ると胸部を患い春のリーグ戦中盤を欠場、1931年も春季リーグ戦に1試合投げたのみで入院し欠場、そのまま神宮の表舞台から姿を消してしまった。突然の離脱には中学時代からの登板過多や早稲田の猛練習による疲労から、また学生結婚をしたからなど諸説ある。リーグ通算19試合登板、13勝2敗。177cmという当時では群を抜く長身を生かして左腕から投げ込む流麗なフォームは「芸術品」といわれ、沢村栄治も手本にしたといわれる。その快速球は前述の実績が示すとおり威力抜群であった。活躍した期間は短かったものの、その足跡は鮮烈そのものであり、戦前の(そして戦後に続く)日本の野球人気を不動のものにした大功労者であった。 卒業後は毎日新聞社に進み大学野球の評論に健筆を揮ったほか、東京六大学野球連盟の記録員を務め、また1949年の日本社会人野球協会設立に参画し、理事・事務局長として社会人球界の発展に貢献した。また1955年から翌年にかけてのプロ・アマの野球規則の合同化にあたって編纂委員を務めた。こうした球界への貢献に対し、没後の1981年に特別表彰で野球殿堂入りした。 2024/06/05 01:30更新
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ogawa syoutarou
小川正太郎と同じ誕生日4月1日生まれ、同じ和歌山出身の人
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