月亭可朝の情報(つきていかちょう) 落語家 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
月亭 可朝さんについて調べます
■名前・氏名 |
月亭可朝と関係のある人
横山やすし: 落選直後の事件であったため右翼団体や暴力団とのトラブルが当時盛んに語られており、一方で後に月亭可朝が語ったところによると、浮気相手の人妻にやすしが酔って電話したところ、その人妻の夫が電話に出たためにトラブルとなり暴行されたとしている。 月亭八方: 高校卒業後、一度就職をしたが、たまたま見に行った花月の舞台に2代目桂小米朝(のちの月亭可朝)がいたので、弟子入りを懇願する。 横山ノック: その合間に、立川談志の独演会に月亭可朝と共に楽屋を訪ね、談志から出演を打診されたものの、結局断っている。 ゆうき哲也: 1980年、同じ吉本興業所属芸人のWヤング・中田治雄が借金苦で1979年に自殺したことをきっかけに、月亭可朝・間寛平と共に結城が野球賭博に関与していた事実が明らかになり、3人は略式起訴され、結城は謹慎となった。 月亭方正: 大師匠の月亭可朝は枝雀の兄弟子であるため、芸の世界では枝雀は方正の“大叔父”にあたる。 吉川潮: 『月亭可朝の「ナニワ博打八景(ばくちばっけい)」 金持たしたらあかん奴』竹書房 2008 ぜんじろう: 月亭可朝のコミックソング「嘆きのボイン」のカバーに携わったり、ラジオ番組のヘビーリスナーに、外国人タレントを呼ぶイベント会社の人物がいた関係から、アイス・キューブの前座を務めたりするなど、稀有な経験をしている。 月亭八方: 2018年3月27日に一門によるファイナル公演が催され、4月24日に師匠の月亭可朝のお別れの会の会場となった。 江美早苗: 1971年(昭和46年)1月31日に放送開始し現在もつづく長寿番組『新婚さんいらっしゃい!』の初代司会に満19歳で抜擢され、月亭可朝・桂三枝との3人でスタートを切った。 山崎邦正: 大師匠の月亭可朝は枝雀の兄弟子であるため、芸の世界では枝雀は方正の“大叔父”にあたる。 青田昇: 『サンデー毎日』が1979年10月にWヤングの中田治雄が野球賭博での借金を苦に熱海で自殺した事件を取材していた際に、兵庫県警や月亭可朝など、関係者から青田の名前が出たため、同誌の1979年12月末から翌1980年2月3日号まで、青田の取材を含んだ野球賭博関係の記事を毎週掲載した。 八田竹男: 月亭可朝 - 可朝の弟子たちの命名に際してはすべて「八」ないしカタカナの「ハ」の字を付けている。 結城哲也: 1980年、同じ吉本興業所属芸人のWヤング・中田治雄が借金苦で1979年に自殺したことをきっかけに、月亭可朝・間寛平と共に結城が野球賭博に関与していた事実が明らかになり、3人は略式起訴され、結城は謹慎となった。 |
月亭可朝の情報まとめ
月亭 可朝(つきてい かちょう)さんの誕生日は1938年3月10日です。神奈川出身の落語家のようです。
可朝一門、芸風などについてまとめました。卒業、テレビ、父親、結婚、事件、脱退、兄弟に関する情報もありますね。亡くなられているようです。
月亭可朝のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)初代月亭 可朝(つきてい かちょう、1938年〈昭和13年〉3月10日 - 2018年〈平成30年〉3月28日)は、神奈川県横浜市出身(同県三浦郡葉山町生まれ)の落語家・漫談家。本名は 幕末以来の「月亭」の亭号を名乗り、弟子に月亭八方など、孫弟子に八光や方正などを持ち、「月亭一門」を形成している。定紋は月紋、または桂米朝一門の用いる結び柏。出囃子は「ああそれなのに」または「芸者ワルツ」。 デビュー以降、最初の師匠の事務所であった吉本興業に長年所属し、米朝一門に移ったのちも、一門の多くのように米朝事務所(1974年創立)に所属せず、ケーエープロダクション、スパンキープロダクションを経て、フリーランスとなる。なお、没後の権利関係の管理は、最晩年の落語会をプロデュースしていた有限会社宮岡博英事務所が携わっている。 神奈川県に生まれ、就学前に親の仕事の関係で大阪に移る。 東大阪市立盾津中学校、大阪府立高津高等学校から大阪府立城東工業高等学校に転校し卒業。大学入試に失敗したのちの1958年(1959年とする資料もある)、3代目林家染丸に入門。林家染奴の高座名を与えられ、1959年4月に大阪市にある千日劇場で初舞台を踏んだ。しかし間もなく3代目染丸の元を破門され、1961年、3代目染丸に紹介された3代目桂米朝に再入門。2代目桂小米朝と改名する。この名跡を名乗ることは染奴自らが提案したもので、誰が見ても米朝の身内と分かることと、改名時に相談した占い師に字画がよいと判断されたからである(小が3画、米が6画、朝が12画と倍々になっており、末よろしいと言われた)。この時期までは正統派の古典落語家としてのみ知られていた。 1967年ころ、吉本興業の社長・林正之助は、自社の専属落語家の名前に「小」が付いているのが気に入らないと、該当する芸人に改名を促した。3代目桂小文枝(のちの5代目文枝)は他社に「桂文枝」と名乗る落語家がいないことや、まだこの大名跡を継ぐ時期ではないことを理由に固辞したものの、桂小春団治と小米朝は他社に春団治・米朝がいるため改名を決断した。当初、米朝がいくつかの名を用意したが、小米朝は全て拒否し、「米朝の『朝』のつく名が欲しい」と言った。また、「桂」や「笑福亭」などの上方落語の一般的な亭号も拒否した。結局、小米朝は長年途絶えていた桂派の由緒ある亭号で、幕末から明治にかけて活動した「初代桂文枝四天王」の一人・2代目月亭文都にちなむ亭号「月亭」をいただくことになり、名は尊敬していた8代目三笑亭可楽の「可」と米朝の「朝」を組み合わせ、「初代月亭可朝」に改名した。「可朝」の名は、姓名学に凝っていた3代目林家染語楼が考え出して勧めた、と4代目林家染丸が証言している。1968年4月のなんば花月での襲名披露において、「葬式調アングラ襲名」と銘打ち、舞台上に設けられた「桂小米朝の葬儀会場」で3代目笑福亭仁鶴が読経すると、棺桶の中から可朝が飛び出す、という奇抜な趣向を演じ、これ以降自身のアクの強いキャラクターを押し出すようになっていく。 自作の歌を使った漫談で放送の世界に売り出す。1969年に『歌え! MBSヤングタウン』で披露した、「ベッピンさん」が山道で男に襲われ、それを助けた男がその女を襲い、別の男がそれを助け……という描写を延々と繰り返すだけの『出てきた男』が評判になったので手応えをつかみ、はじめはギターを持たなかったがフォークブームにあやかり、ある公開ラジオ番組の収録に向かう直前、弟子の月亭八方に梅田へギターを5千円で買いに行かせ、即席の歌手になりすました。会場が箕面市のプールであったため、「それにふさわしい歌」として即興で披露したのが『嘆きのボイン』であった(「ボインやでぇ」のフレーズは流行語となった)。「歌笑曲」と称するこれら一連のコミックソングはレコード化され、大ヒットを記録(後述)。お笑い芸人が歌のレコードをリリースする嚆矢となった。 可朝はすぐ、当時の人気番組『ヤングおー!おー!』(MBSテレビ)『11PM』(日本テレビ系・読売テレビ制作分)に相次いでレギュラーに抜擢されるに至った。『ヤングおー!おー!』ではすでに人気を博していた3代目仁鶴・桂三枝より3か月遅れての加入となったため、「君らに追いつくのに3ヶ月もかかった」とうそぶいた。テレビ出演の際の俗に「スッポンメガネ」と称する丸メガネとチョビ髭の風貌に加え、ブレザージャケットとカンカン帽の古風な洋装で知られるようになった。これは父親の服装がモデルだったという。カンカン帽とメガネは和装で落語を演じる際も身につけるようになり、可朝のトレードマークとなった。 可朝のキャラクターや芸は「ナンセンスでアイロニーを含んだ笑い」をまとっていた一方、ときに「卑猥、下劣」と批判された。『11PM』のプロデューサーだった大西信義は可朝の芸と人気について「世相を反映して抵抗の姿勢がありました」と述懐している。また、無類の賭け事好きであるなど、破天荒な私生活(後述)がクローズアップされ、やがて名前が出ただけでも笑いを生むと評される人物になるに至った。交友のあった7代目(自称5代目)立川談志は終生可朝の落語やエンターテナーぶりを評価し、可朝が騒動を起こしマスコミから批判されるたびに擁護し続けていた(後述)。 1970年代、交際していた女性とラブホテルで結婚の約束をしたが、可朝がこの婚約を反故にしたため、婚約者から訴えられる事件が起きた。しかし、裁判所が「ラブホテルで情事の際に行われた婚約は無効である」と判断し、可朝は無罪判決を受けた。 2008年7月1日の「可朝・福團治二人会」により、初めて天満天神繁昌亭の高座に上がり、『住吉駕籠』を演じた。同年8月1日の2回目には、大師匠である4代目桂米團治が得意とした『怪談市川堤』をカンカン帽を脱いで演じ、鬼気迫る高座を見せた。 後述するいわゆる「ストーカー事件」により、桂三枝(後の6代桂文枝)・上方落語協会会長の命で昼席出演は一時謹慎となったが、2009年1月16日の「可朝・福團治二人会」3回目に出演して『餅屋問答』を演じ、繁昌亭への高座復帰となった。その後は不定期出演ながら、昼席の中トリ・大トリも務めていた。 2017年11月には落語家生活60周年記念として、かつてのヒット曲のリメイク版『嘆きのボイン2017/シャッシャッ借金小唄』、新曲入りベストアルバム『ザ・月亭可朝ベスト+新曲』をリリースし、プロモーション活動も行ったが、このころから体調を崩し始める。 2018年3月28日3時28分、急性肺線維症のため兵庫県内の病院で死去。80歳だった。 ブレイク直後の1971年、第9回参議院議員通常選挙では全国区より無所属で立候補した。同選挙に立候補した談志の応援演説が予定されていた日に、気が変わって立候補届を出したという。公職選挙法の規定によって、当時レギュラーだった『新婚さんいらっしゃい!』など多数の番組を降板し、そのまま復帰することはなかった。「一夫多妻制の確立と、風呂屋の男湯と女湯の仕切を外すこと」を公約とするが、落選。当時の選挙戦では選挙カーで高速道路を走りながら演説していた(のちの参院選で落選した島田洋七にも同様の話がある)。 2001年には第19回参議院議員通常選挙に自由連合公認で比例代表区から立候補したが、再度落選。自由連合では政策審議会審議委員を務めた。このほか、大阪市議選にも立候補した経験がある。 可朝一門「月亭一門」と言えば、月亭八方一門を指すことが多く、この項では基本的に、「可朝一門」と記述する。 可朝は、弟子の命名に際してはすべて「八」ないしカタカナの「ハ」の字を付けた。これは、恩人である元・吉本興業社長の八田竹男にちなむものである。吉本脱退後に取った末弟子かつ最後の弟子のみ自分の一字をとって「可林」とした。 しかし、可朝が米朝一門と疎遠になるのと同じように、可朝と八方も疎遠気味となったとされる。可朝は晩年に受けたインタビューで「八方とは4、50年、交流ないで」と語り、顔も見せないのに借金まみれ・行方不明などで自らをネタにする八方に苦言を呈している。一方の八方は米朝の葬儀で会ったのが最後としているが(前述の可朝の発言は米朝死去後のもの)、「月亭の屋号も使用させてもらって感謝しかない」としつつ「好きとか嫌いとかが波のようにきましたね。20年くらい前は大嫌いでしたけど、平らにしたら50点くらいかな」と、師・可朝に対し愛憎入り混じった感情を抱いていたことを明かしている。 孫弟子の八光は父の師匠である可朝に弟子入りするつもりだったが、親子で兄弟弟子になり関係性がややこしくなること、可朝が他事務所へ移籍した後であったため親子での仕事がしづらくなること、「父に面倒を見てもらえばよい」という可朝の考えなどの理由で却下された。 直弟子
月亭ハッピー 月亭ハッチ 月亭可林(月亭方気と同一人物とみられる) 孫弟子(いずれも八方の弟子)
7代目月亭文都 月亭八光 月亭方正(旧芸名・山崎邦正) 月亭八斗 月亭方気 月亭八織 ひ孫弟子
月亭禄遊(遊方の弟子、後に廃業) 月亭天使(7代目文都の弟子) 月亭秀都(7代目文都の弟子) 芸風落語可朝は放送演芸の世界でギター漫談で売り出したが、一方で本格派の古典落語の演じ手でもある。米朝の息子である5代目桂米團治は「最も米朝イズムを受け継いでいらしてましたし『住吉駕籠』も『怪談市川堤』も、まあ米朝によう似てました」「なにより米朝自身が『あいつは、うまいなあ』と、可朝さんの腕を認めてました」と証言している。 得意ネタは『色事根問』『親子酒』『算段の平兵衛』『世帯念仏』『次の御用日』『動物園』『鳥屋坊主』『野ざらし』『坊主茶屋』『秘伝書』『餅屋問答』『夢の酒』など多数。 ただし、マクラには下ネタを振ることも多いほか、以下のようなケレンで高座を沸かせたことがある。 得意の「ほんまにほんまでっせ」のフレーズだけをしゃべり続け爆笑を取るものの、遂にはそれしか言わずに高座を降りてしまった。 出前で注文したうどんを高座で食べてそのまま出番が終わった。 高座で寝転がり本当に寝てしまい、それだけで出番が終わった。 漫談・コミックソングギターのチューニングができず、楽屋に居合わせた芸人に頼んでいる。弾くときもコードは3つしか使っていないという。コードは音楽ショウのザ・ダッシュに教わった。 2024/06/16 05:45更新
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月亭可朝と同じ誕生日3月10日生まれ、同じ神奈川出身の人
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