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木村 和司さんについて調べます
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木村和司と関係のある人
狩野健太: しかし、2010年に中村俊輔がチームに復帰したことでポジション争いが激化し、この年に就任した木村和司は狩野をメンバーから外すことが多くなり、2011年も木村が指揮を執ったため、狩野の出番は更に限られた。 松田直樹: これに対して前年現役引退し、チームで長らく10番を背負ってきた『元祖ミスターマリノス』こと木村和司は、「マリノスの10番も軽くなったもんだ」と発言している が、あくまでも松田がまだチームを背負うような立場でない新人で、なおかつ「10番」のイメージには似合わないDFであることに冗談めかして触れたものである。 石崎信弘: 県立広島工業高校時代は河内勝幸、金田喜稔、楚輪博、木村和司、猿沢茂、室野哲雄らと共に全国高校選手権ベスト4を経験した。 水沼貴史: 1995年7月30日に木村和司の引退試合に出場、この試合は水沼にとっても事実上の引退試合となり、翌日には正式に引退を表明した。 水沼貴史: 主戦場の右ウイングには日本代表の木村和司がいたが、加茂周監督が木村を攻撃的MFにコンバートし、水沼が右ウイングのポジションでレギュラーを獲得、1983年、1985年の天皇杯優勝を始め、1988-89、1989-90シーズンの2年連続三冠に貢献するなど、金田喜稔、木村和司らと共に日産の黄金期を築いた。 早野宏史: 中央大学時代の後輩金田喜稔、その金田の高校時代の後輩木村和司とともに、当時日産ターボトリオと称される。 アデマール=ペレイラ=マリーニョ: しかし翌1983年からは、若手の多かったチームの模範、まとめ役として、金田喜稔、木村和司、水沼貴史、柱谷幸一らと共に日産の黄金時代の基礎を築き、2度の天皇杯優勝(1983年、1985年)に貢献。 松田直樹: 8月8日の通夜、翌日の葬儀・告別式には中田英寿、川口能活、中山雅史、小野伸二、曽ヶ端準、安永聡太郎、佐藤由紀彦、城彰二、秋田豊、楢﨑正剛、前園真聖、三都主アレサンドロ、松本所属選手(木島良輔など)、横浜FM所属選手全員(中村俊輔、中澤佑二など)、木村和司、トルシエ、岡田武史、西野朗など多くの関係者やサポーターなどが参列し、故人を悼んだ。 山田隆裕: 日産でもドリブルを武器に早々にほぼレギュラーポジションを掴む活躍を見せ、木村和司がスタメンに居ない時は10番を与えられた。 松田直樹: 12月4日の最終節後の退団セレモニーでは社長の嘉悦朗と監督の木村和司の挨拶はサポーターの松田のチャントでかき消され、セレモニー後のスタジアムには数千人のサポーターが6時間以上座りこんだ。 森島寛晃: 尊敬する人物として、広島出身の同郷人であり、大河FCの先輩でもある木村和司を挙げており、1994年の天皇杯準決勝で、当時、横浜マリノス所属の木村と初めて対戦した。 吉田光範: 相手チームにはジャン・ティガナなどがおり、味方には木村和司、金田喜稔、加藤久などがいた。 森健兒: 日本体育協会は「アマチュアスポーツの統括団体」を謳っており、日本体育協会の加盟団体である日本サッカー協会に所属する選手たちがプロだなんてとんでもない、と大変な抵抗を受けたが、奥寺康彦と木村和司が日本人で国内最初のプロ選手になり、以降、JSL所属の選手が次々プロ選手になった。 大下容子: 吉田拓郎、木村和司、森島寛晃の実家が近所にあった。 田坂和昭: 木村和司、森島寛晃を生んだ広島の少年サッカークラブ、広島大河フットボールクラブの出身。 小笠原満男: 小学生時代に木村和司の映像を繰り返し見て練習を積み、実際にビデオテープがすり切れたという逸話がある。 森孝慈: このゴールの直後に木村和司のフリーキックで1ゴールしたものの、1-2でホームでの敗戦を喫するとソウルでの第2戦も0-1で敗れ、ワールドカップ出場まであと一歩まで迫ったが韓国に敗れた。 柱谷幸一: 1983年には日本サッカーリーグの日産自動車サッカー部に所属し、当時国内三冠を達成し最強と言われたクラブの主力として木村和司や水沼貴史らと共に活躍。 水沼宏太: 1995年、5歳当時、木村和司の引退試合に父である貴史に連れられ、マリノスのユニフォームを着て三ツ沢球技場のピッチに立った。 岡田武史: その後、代表監督に就任した石井義信は、チームの軸として加藤、岡田、木村和司を念頭に置いていたが、すでに代表チームでプレーするモチベーションを失っていた岡田は誘いを断り古河でのプレーに専念するようになった。 長澤和明: 1978年からは日本代表に選出されたが、同じポジションに木村和司が存在したため9試合出場に留まっている。 河合竜二: 2010年、木村和司が新監督に就任するとこれまでと一転して出場機会が激減し河合にとっては苦しいシーズンとなる。 下村幸男: 若いタレントが少なかったとはいえ、木村和司や川勝良一らを代表に初抜擢した。 山口素弘: 1997年のフランスW杯アジア最終予選第3戦、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場で行われた韓国戦でのループシュートは、1985年の木村和司のメキシコW杯アジア最終予選対韓国戦のフリーキックと並び、伝説と称されている。 森孝慈: この当時の代表チームは守備の加藤久、左サイドバックの都並敏史、右サイドバックの松木安太郎、中盤の木村和司、前線の原博実、水沼貴史ら、職人気質の個性派を擁し、強い結束力を持ち合わせたことから森ファミリーと呼ばれた。 加茂周: またウィングだった木村和司をMFとして、MFだったロペスをFWに起用し覚醒させるなど、選手の適材適所を見抜きコンバートさせる眼にも長けていた。 加茂周: クラブを日本サッカーリーグの常勝軍団にし、木村和司、水沼貴史、金田喜稔などが輩出した。 福西崇史: 2010年元日のNHKの天皇杯中継に出演し、2010年より木村和司の後任としてNHKの解説者として活動することが発表された。 森孝慈: 試行錯誤の末、フォワードの軸は空中戦が強い原博実を据えて柱谷幸一と組ませて、所属クラブで攻撃的MFにコンバートされていた木村和司を司令塔に、金田喜稔(後に水沼貴史)を絡ませた日産勢を攻撃の柱にする布陣で挑むが、肝心のロサンゼルスオリンピック最終予選では連敗を重ね敗退した。 樋口靖洋: 2010年から古巣の横浜F・マリノスにコーチとして復帰し、木村和司監督の下でトップチームを指導した。 |
木村和司の情報まとめ
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木村 和司(きむら かずし)さんの誕生日は1958年7月19日です。広島出身のサッカー選手のようです。
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人物・プレースタイル、エピソードなどについてまとめました。卒業、引退、現在、テレビに関する情報もありますね。木村和司の現在の年齢は65歳のようです。
木村和司のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)木村 和司(きむら かずし、1958年7月19日 - )は、広島県広島市南区出身の元プロサッカー選手、サッカー解説者、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー(攻撃的MF)、フォワード(ウイング)。元日本代表。 日本サッカー協会公認S級ライセンス所持。国際Aマッチ6試合連続ゴールは日本代表連続得点記録(2020年時点)。 広島大河FC から県立広島工業高校(通称:県工)に進学。攻撃的サッカーで名を馳せた県工の中心選手として1975年度の高校選手権でベスト4の成績を残した。 1977年、明治大学二部政治経済学部へ入学し、サッカー部に所属。同期には佐々木則夫がいる。明治在学中に日本代表に抜擢されるほど注目された。当時の代表監督・渡辺正と同郷でもあったため、大学卒業後は新日本製鐵サッカー部入りが確実とされた。他にも読売からオファーが有り、読売入りに傾いていたが、日産自動車サッカー部の加茂周監督と面会したことで、1981年(昭和56年)に高校の先輩・金田喜稔も所属していた、日産へ入団した。 日産では社員として、サッカー以外の時間はデスクワークなどをこなしていた。1981年4月5日の富士通戦でデビューを飾った。加入後やや伸び悩んだが、1983年に当時日産の監督であった加茂周により、右ウイングから攻撃的MFにコンバートされると大きく成長を遂げた。また、チームも優勝を逃したものの、前年度の8位から2位へと躍進、1同シーズンの天皇杯決勝ではゴールチャンスを演出し、ヤンマーを2-0と破り初タイトルを獲得した。1986年(昭和61年)、当時のプロサッカー選手登録制度「スペシャル・ライセンス・プレーヤー」の第1号選手となる。「奥寺(康彦)さんがプロのまま日本リーグに戻ってくるなら、わしもプロにしてくれ」と木村自ら名乗り出たものだった。年俸は1200万円。しかしこの頃から不調に陥り精彩を欠くようになり、日本代表からも外れた。1986年1月1日の天皇杯決勝、フジタ工業戦では先制ゴールを決め、チームに優勝をもたらした 。日産の日本リーグ・JSLカップ・天皇杯の三冠達成、木村自身も復調し、1988-89シーズン、11節の全日空戦では、木村としては珍しいヘディングでのゴールを決め(自身の決めたゴールで最も印象に残るゴールとしている 。)、日産は前期無敗となる11連勝を達成した 、同年のJSLオールスターサッカーでは1ゴールを決め、PK戦でもPKを成功させて大会MVPを受賞した。1989年の日本リーグ年間最優秀選手賞に5年ぶりに返り咲き健在をアピールしたが、日本代表に再び招集されることはなかった。1990年、日本サッカーリーグ25周年を記念して開催されたバイエルン・ミュンヘンとの親善試合では、日本選抜としてクラウス・アウゲンターラーをかわして先制ゴールを挙げた。同年のJSLカップ決勝、古河電工戦ではチームの3点目を決めて優勝に貢献した。 1991年、これまでレギュラーを務めてきたが、前期でチームは低迷したため、後期のリーグ戦ではオスカー監督がチームのテコ入れを図るため、ベンチスタートにさせることもあった。清水監督が就任すると再びレギュラーに返り咲き、1992年元旦、第71回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝の読売戦では、延長戦に入りこぼれ球をペナルティーエリア外からのボレーシュートで決めて、これが決勝点となった。1993年元旦、第72回天皇杯全日本サッカー選手権大会決勝の読売戦では、1点目の水沼のゴールのきっかけを作ると、延長戦ではCKで神野卓哉の決勝ゴールをアシストした。 1993年、Jリーグ発足に伴って横浜マリノス(現:横浜F・マリノス)と契約。「ミスター・マリノス」と呼ばれた。Jリーグ開幕戦となったヴェルディ川崎戦では先発フル出場、ショートコーナーからエヴァートンの同点ゴールをアシスト、更にディアスの決勝ゴールの起点となった。6月30日の浦和レッズ戦で巧みなループシュートから、Jリーグ初ゴールにしてJリーグでは唯一のゴールを決めた。7月17日にはJリーグオールスターサッカーに7番を着用して先発出場、スルーパスで三浦知良のゴールをアシストした。後期の開幕戦となったヴェルディ戦では、スルーパスでディアスのゴールをアシストして3-0で勝利、(当時拮抗した試合が多かった両チームの対戦としては)記録的大勝に貢献した。この年、ベンチスタートになることもあったが、年間を通じてパスやFKから多くのアシストを決めた。翌1994年11月5日のサンフレッチェ広島戦で63分から出場、その後もベンチ入りはするも、この試合がリーグ戦での最後の試合出場となった。天皇杯では準決勝まで勝ち上がり、準決勝のセレッソ大阪戦に先発出場(大きな見せ場を作れないまま、85分に山田隆裕との交代となった。)、1-2と破れ、これが現役最後の公式戦となった。同年12月27日、ひらめいたという理由で現役引退を発表した。引退会見では引退という表現を嫌い、卒業という言葉を用いた。「もっとサッカーが上手くなりたいです」という言葉を残し、その飽くなき向上心は記者・ファンに強い印象を残した。1995年7月30日、三ツ沢公園球技場でライバルチームであったヴェルディ川崎(現役選手やジョージ与那城らOBからなる)との引退試合が開催された。 1979年(昭和54年)、明治大学2年で日本代表入りすると、同年5月27日のフィオレンティーナとのフレンドリーマッチで先発出場、初出場を果たし、以降代表チームの常連となった。1982年1月20日のゼロックス・スーパーサッカー、ディエゴ・マラドーナを擁したボカ・ジュニアーズ戦では直接FKからゴールを奪った。1983年(昭和58年)のロサンゼルス五輪予選前までは、右ウイングのスペシャリストとしてプレーしたが、所属クラブと同様に攻撃的MFとなり、攻撃の核となって80年代半ばの日本代表を支えた。1984年、アウエー韓国で開催された第12回の日韓定期戦では直接FKで得点を挙げ、アウエーの地では初となる日韓戦の勝利に貢献した。 1985年2月23日メキシコW杯アジア1次予選では、第1戦シンガポール戦で1ゴールを決めた(CKから直接ゴールを挙げた)。4月30日に平壌で開催された北朝鮮戦では、相手選手との競り合いで脳震盪を起こし、口からは泡を出すなど、約40分間意識が戻らず、救急車で病院に運ばれ入院した。5月18日の第4戦シンガポール戦から、同年10月26日メキシコW杯アジア最終予選第1戦韓国戦まで、1985年の1年間だけで国際Aマッチ6試合連続ゴールを成し遂げた。これは未だに日本代表連続得点記録である(2011年時点)。1987年(昭和62年)のソウル五輪予選前に、プレー振りが低調であったため、石井義信監督は悩んだ末に木村を外す決断を下した。 1989年には5年ぶりに日本リーグの年間最優秀選手賞に返り咲くなど復調したが、代表に召集されることはかった。1993年にドーハで開催されたワールドカップアジア最終予選時、代表監督を務めていたハンス・オフトはラモス瑠偉の控えとして招集を検討していたが、実際に選出される事はなかった。ラモス瑠偉は仮にワールドカップ出場権を得られても代表引退を考えていたこともあり、出場権を得れば、オフトが自分の代わりにワールドカップ本大会のメンバーに木村を招集するだろうと考えていた。しかし、出場権を得られなかったことを前述の理由もあり謝罪したという。 引退後は指導者をめざし、1997年(平成9年)にS級ライセンスを取得。2001年(平成13年)にはフットサル日本代表の監督を務めた。また、夫人とともに有限会社シュートを設立し(夫人が社長)、サッカーの解説業(主にNHK BS1「Jリーグ」解説)やサッカースクールなどの運営を行った。2007年(平成19年)には横河武蔵野FCのスーパーバイザーを務めた。 2010年(平成22年)シーズンより横浜FMの監督に就任。自身初の監督業挑戦となった。1年目は8位に留まり、2年目の2011年(平成23年)はシーズン中旬まで優勝争いをしていたが秋に入ってから失速し5位に終わる。同年12月29日の天皇杯準決勝で敗れ翌年のACL出場が消滅し、翌12月30日に解任された。 一方で2011年のリーグ戦5位という成績は横浜FMが最後に優勝した2004年以降では最高の成績で、賞金圏内は2007年以来4年ぶりであったが、後半戦の失速を立て直せなかったことや、結果に拘るために守備的なサッカーをしたことが「内容がない」と判断され解任となった。その後、うつに襲われるようになったという。 2012年よりサッカー解説者として活動しており、NHK BS1「プレミアリーグ」で「ゲスト解説」扱いで務めており、2014年から正式に専属解説に復帰した。 2015年1月に体調不良を訴え、脳梗塞で病院に運ばれたことが、同年3月になって公表された。同年8月、NHKBS1 ドイツ・ブンデスリーガ開幕節「ドルトムント×メンヘングラートバッハ」の解説より復帰した。 2020年9月10日、これまでの日本サッカー界への功績が評価され、日本サッカー殿堂入りすることが発表された。 人物・プレースタイル高校や大学、日産加入当初はウインガーとしてプレーしていたが、1983年(昭和58年)に同じウイングを専門とする水沼貴史の入団をきっかけに、加茂周監督によって攻撃的MFにコンバート。以降、ゲームメーカーとして中盤に君臨し日産黄金時代を築く原動力となった。ラモス瑠偉らと共に日本サッカー冬の時代を支えた選手の一人であり、「日産の背番号10といえば木村和司」と言わしめ、80年代半ばには日産のみならず、「日本の10番といえば木村和司」、当時の代表は「木村のチーム」とまで言わしめた程の存在であった。1983年(昭和58年)、1984年(昭和59年)、二年連続日本年間最優秀選手賞(フットボーラー・オブ・ザ・イヤー)、さらに1989年も同賞受賞。三度の受賞は釜本邦茂7度に次ぐ杉山隆一と並ぶ史上2位。1984年アシスト王、アシスト数12はJSL記録。 現役時代はフリーキックの名手として知られた。自由自在にボールをコントロールできるフリーキックは、いまだかつて日本人プレイヤーが見せたことのないものだった。その正確なボールコントロールと鋭い変化から「魔術師」の異名で呼ばれ、日本リーグ、国際試合で数々の名場面を作り上げた。特に1985年(昭和60年)、ワールドカップメキシコ大会最終予選のホーム韓国戦、試合には敗れワールドカップに出場できなかったものの、40メートル手前からみせたフリーキックは、80年代の日本サッカーにおける屈指の名シーンとして伝説化しており、現在でもサッカー番組でフリーキックが特集される際には、必ずといっていいほど紹介されている。高橋陽一は、日本代表の試合で「パッと頭に浮かぶのは、あの木村和司さんの直接フリーキック」と述べている。出身地の広島を拠点とする中国新聞では「フリーキック自由自在」というコラムを設けていた。フリーキックを蹴り始めるきっかけは、テレビでブラジル代表のペレやリベリーノ、ジーコがFKで直接ゴールに放り込むのを見て、大学在籍時に、遊びとして練習に励んだ。足の甲は蹴り過ぎで変型しているという。もともと高校時代はウイングだったため、センタリング(クロス)は、インフロント(足甲の内側)部分を多用する事もあり、それがFKに生かされた。当時の日本にはまだ、FKを直接決める事で有名な選手はいなかった。1980年代当時、芸術的なフリーキックは世界のサッカーでは目にしても、日本サッカーでは、フリーキックが話題になることは、ほとんどなかった。本格的に練習し始めたのは日産に入ってからで、チームが特注で作ってくれた鉄骨を組み合わせたものにネットをつけた簡単な壁を置いて練習した。練習相手に選んだのが新人だった松永成立。最初はヘタでどこに蹴っても入っていたが、練習してるうち段々松永が上手くなって、両方がいろいろ考え始めて上達していく相乗効果があったという。冗談で「シゲ(松永)はワシとしょっちゅう練習していたから日本代表に入れたんだ」とよく言った。 エピソード木村が代表のスター選手だった1984年(昭和59年)夏、佐山一郎は雑誌『Number』からの依頼で木村にインタビューを申し込んだ。日産の広報の担当者にそれを話すと、サッカーの専門誌以外から取材が来たのは初めてと驚かれた。当時のサッカーは『Number』ですら同じ年9月20日号の釜本邦茂引退記念号で初めてサッカー特集が成立するというマイナー状況だった。「大丈夫ですか、慣れていないから喋んないかもしれませんよ」と言われインタビューをすると、実際木村はほとんど喋らず、答えたあとに意味不明の笑いが漏れだすのにも驚嘆した。しかし会うたび喋るのがうまくなったという。 明治大学時代の同期生であるサッカー日本女子代表監督の佐々木則夫とは、同じ寮で過ごした仲間であり今でも親交が深い。なでしこジャパンが初優勝を決めたワールドカップ決勝戦の試合も、その日は直前に自身が指揮する横浜F・マリノスの試合があったにも関わらず、試合後にほぼ徹夜でテレビ観戦しており、なでしこジャパンと佐々木にも「ホントにすごい。たいしたもんよ。世界一だからな。日本一とは違うよ。涙も出てきて感動した。ただ、眠い」と祝福のコメントをした。 1986年、奥寺康彦と共にスペシャル・ライセンス・プレーヤー第1号となるが、西ドイツ帰りの奥寺の年俸4000万円に対して木村の年俸は1200万円であった。この時は各メディアに報じられ世間の関心も高かったが、某運動部記者が木村に「1200万円では少なすぎて夢がない。嘘でもいいから4000万円と言ってくれないかな」というと、木村は「嘘はつきたくない」と拒否。しかし記者がしつこく押し問答が続いた後、折衷案として4000万円と1200万円の間を取る格好で2400万円で落ち着いた。翌日の新聞紙上には木村の年俸は「2400万円」と大々的に報じられた。 木村の夫人は、サッカーファンが多くはなかった1960年代、日本サッカーリーグ(JSL)創設の頃からのサッカーの追っかけで、まだ原宿の岸記念体育会館の小さな一室にあったサッカー協会(JFA)に、全日本(日本代表)の勝利を祈り千羽鶴を持ってきたり、よく遊びに来ていた一人だったという。 「ラグビーは紳士がやる野蛮なスポーツ、サッカーは野蛮人がやる紳士的なスポーツ」という発言を『Number』誌上に残している。 かつての自身のブログ「木村和司のちょこっと、言うちゃろうか。」で、「60年、70年代はガマさんの時代やな、80年代はワシや。90年代はスケールダウンしてカズ、ラモスあたりかの。2000年はまだいないんよな。80年代のワシはかなりイワシテいたのぅ。」と話して物議を醸したことがある。 マリノス監督時には広島弁を交えたコメントが話題となった。監督就任時のコメント「わしが何とかしちゃる」のメッセージ入りTシャツや「和」のロゴ入りTシャツが商品化されよく売れた。また木村がよく使う言葉で「相手を翻弄する」という意味合いを持つ「ちゃぶる」もグッズ化の計画が上がり、Jリーグ日本人監督のグッズが次々と誕生するのは異例の事態であった。 2024/06/07 16:13更新
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kimura kazushi
木村和司と同じ誕生日7月19日生まれ、同じ広島出身の人
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