松本重治の情報 (まつもとしげはる) 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、出身地]
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加藤秀俊: 1971年(昭和46年)から1974年(昭和49年)にかけては今西錦司に誘われ、東レがスポンサーの「環境問題研究会」に藤井隆、東畑精一、松本重治らと参加。 本間長世: チャールズ・ビーアド, メアリ・ビーアド, ウィリアム・ビーアド『アメリカ合衆国史』(松本重治らと共訳、岩波書店, 1964年) ジョージ=ケナン: 『アメリカ外交の基本問題』(松本重治編、岩波書店、1965年) 汪兆銘: その中心となったのは、当初、国民政府外交部アジア局日本課長の董道寧、南満州鉄道南京事務所長の西義顕、同盟通信社上海支局長の松本重治らであった。 中江利忠: しかし日本のビッグ・リンカーといわれる元国際文化会館理事長・同盟通信社常務理事松本重治の又従兄弟に当たることから元首相松方正義公爵一族に連なり(一族に元共同通信社専務理事松方三郎がいる)、朝日新聞社の上野社主家とも親戚で、元首相吉田茂の側近で終戦連絡中央事務局次長、東北電力会長などを歴任した白洲次郎や白洲の岳父樺山愛輔伯爵(元国際通信社社長)、元同盟通信社社長岩永裕吉(息子の岩永信吉は元共同通信社常務理事)、元東京帝国大学総長長與又郎男爵(息子の長與道夫は元共同通信社常務理事)、元首相犬養毅(孫の犬養康彦は元共同通信社社長)、元外相芳沢謙吉、元朝日新聞社副社長(第4次・第5次吉田内閣副総理・自由党総裁・自由民主党総裁代行委員)緒方竹虎らとも遠縁に当たる「華麗なる一族」ぶりなどから、本社採用同様の扱いを受け、「朝日のプリンス」として早くから社長候補に擬せられた。 松本重太郎: 枩蔵の妻は松方正義の四女光子で、その子がジャーナリストの松本重治である。 中江利忠: ^ 中江利忠「アンクル・松本」財団法人国際文化会館『追想 松本重治』刊行委員会編『追想 松本重治』1990年。 松方幸次郎: 四男二女あり、長女・花子は松本重治夫人。 槇有恒: 有恒をリーダーとするパーティーの一行は松方三郎、松本重治の上流階級の子弟からなる秩父宮サロンであり、山岳界の学閥系はこれを濫觴とする。 磯部勉: 憲法はまだか(1996年、NHK) - 松本重治 近衛文麿: 5月には現地日本軍が徐州を占領しており、7月には尾崎秀実・松本重治・犬養健・西園寺公一・影佐禎昭らの工作により、中国国民党左派の有力者である汪兆銘に接近して、国民党から和平派を切り崩す工作を開始し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した。 浦松佐美太郎: ジャーナリストとしては日本太平洋問題調査会に参加し、1929年京都で開かれた「太平洋会議」(太平洋問題調査会の国際会議)の後、その争点を検討する「東京政治経済研究所」を蠟山政道・松本重治・牛場友彦らとともに設立し、近衛文麿の外交問題ブレインを形成した。 槇文彦: 妻・松本操(松本重治の長女。 八木沼純子: 子沢山だった曽祖父・松方正義の子孫は約600人おり、その中には松本重治、エドウィン・ライシャワー元駐日アメリカ合衆国特命全権大使、白洲次郎、松方三郎、牛場信彦、牛場友彦、松方正熊、井上保次郎、遠縁には大久保利通、牧野伸顕、麻生太賀吉、麻生太郎、福沢諭吉、小沢征爾、芦田均、柳原前光、柳原白蓮、堤清二、木内みどり、水野成夫、近藤廉平、吉田茂などがいる。 徳間康快: 同盟通信を退いた松本重治の民報で社会部次長となるが1948年に倒産。 森永悠希: われ、晩節を汚さず〜新夫婦善哉〜(2003年1月25日、NHK BShi) - 松本重治 役 デービッド=リースマン: 松本重治編『現代文明と人間性』(朝日新聞社, 1962年) デービッド=リースマン: 松本重治編『現代文明論』(みすず書房, 1969年) 矢吹晋: 1976年3月、国際文化会館会員(松本重治理事長の推薦による。松本重治『上海時代』はアジア経済研究所若手グループのヒアリング会「隋園の会」から生まれた) 。 |
松本重治
松本 重治(まつもと しげはる)さんの誕生日は1899年10月2日です。大阪出身のジャーナリストのようです。
評価、家族などについてまとめました。母親、卒業、趣味、事件、結婚、家族に関する情報もありますね。
松本 重治(まつもと しげはる、1899年〈明治32年〉10月2日 - 1989年〈平成元年〉1月10日)は、日本のジャーナリスト。 財団法人国際文化会館の設立に尽力して自ら理事長に就いたほか、1952年から16年間にわたりアメリカ学会の会長を務め、地域研究の振興に努めた。 1899年10月2日、大阪市堂島に九州電気軌道社長の父・松本枩蔵、母・光子の子として生まれる。光子は松方正義の四女。松本重太郎の跡を継いだ養嫡子の枩蔵は九州電気軌道会社の重役(のち社長)となり生活の大半を九州で過ごした。重治は小学校、中学校時代を母親とともに神戸にすごす。 神戸一中卒業。 1917年 - 第一高等学校に入学。 1920年 - 東京帝国大学法学部入学。 1923年 - 大学院に進学。 1924年 - イェール大学に留学。 1925年 - ウィスコンシン大学に留学。 1926年 - ジュネーヴ大学に留学。 1927年 - 帰国。東京帝国大学高木教授のヘボン講座助手。 1932年 - 「東京政治経済研究所」創設。「新聞聯合社」(のちの同盟通信社)入社。 1939年 - 同盟通信社編集局長。 1943年 - 同盟通信社常務理事。 1945年 - 同盟通信社を退職。「民報」社を設立、社長兼主筆。 1947年 - 公職追放の処分を受ける。アメリカ学会を創設。 1951年 - ジョン・ロックフェラー3世と再会。 1952年 - 国際文化会館(東京都港区六本木)専務理事。 1965年 - 国際文化会館理事長。 1969年 - 勲一等瑞宝章を受章。 1976年 - 文化功労者。 1989年 - 没。国際文化会館葬が行われた。 評価アメリカ研究の泰斗高木八尺を生涯の師と仰ぎ、戦後は国際文化交流のプログラムと世界的な知識人達を招待する民間の知的交流機関を運営。会館に一生を捧げた彼は自らを「宿屋のオヤジ」と呼び、趣味のパイプを咥えた姿で世界中のブレインの信用を集めた。親日派とされた歴史家のアーノルド・J・トインビー、ロックフェラー財団のジョン・ロックフェラー3世は松本を無二の親友とよび、会館の運営に協力している。文化交流と若者の道を拓くためフルブライト委員会やユネスコ国内委員会の委員、国立西洋美術館評議員にもなったが、吉田茂、鳩山一郎、池田勇人からの、駐米大使、駐英大使、国連大使の公職は断っている。吉田茂に白洲次郎の大臣就任を諮問された際には「言葉の足りない奴だから」と仲の良かった後輩の廟堂入りも止めさせた程に、誰に対しても遠慮はしなかった。 坊ちゃん気質で、会った人間の人柄で惚れる(反面、嫌う癖もある)為に、戦前は近衛文麿に協力している。近衛自身が心ならずも周囲の波に押し流される時でさえ、この友情だけは動かなかった。上海の総領事に記者が質問をした際、「君たちの仲間である松本君に聞きなさい」と語ったとされる程に、中国の要人・ジャーナリスト・学者との深い交流を持ち、この事が西安事件の独占スクープとして世界を激震させる要因となる。1930年の京都における第3回太平洋会議以来、新渡戸稲造の薫陶を受けていた。 著書に『上海時代 ジャーナリストの回想』(全3巻、中公新書、1974~1975年)、『近衛時代』(全2巻、中公新書、1986~1987年)がある。昭和史の生き証人ではあるが、歴史学者から「日米開戦に関する近衛の役割を「救済」する事を通じて、自己の歴史的役割を正当化しようとするもの」という批判がある。父方の祖父松本重太郎を生涯を通じて敬愛した。母方の祖父は松方正義。叔父の松方幸次郎は幼少より重治を可愛がり、重治は幸次郎の娘の花子と結婚している。この為、「松方コレクション」の散逸には心を痛めている。 家族父の松本枩蔵は松本重太郎の養子。旧姓は井上枩蔵といい、明治の実業家・井上保次郎の弟で、アメリカ遊学後、実子のなかった重太郎の跡取りとなったが、九州電気軌道専務・社長時代に空手形濫発により巨額を不正に得ていたことが1930年に発覚した(松本事件)。母の光子は明治の元勲松方正義の娘。妻の花子は松方正義の三男幸次郎の娘であり、母方の祖父は九鬼隆義。娘の操は槙文彦の妻。息子の洋(ひろし)は日本道路公団、国際開発センターに勤務ののち、国際文化会館専務理事。 2024/05/23 16:49更新
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matsumoto shigeharu
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