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藤波辰爾の情報 (ふじなみたつみ)
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藤波 辰爾さんについて調べます

■名前・氏名
藤波 辰爾
(ふじなみ たつみ)
■職業
格闘家
プロレス
■藤波辰爾の誕生日・生年月日
1953年12月28日 (年齢70歳)
巳年(へび年)、山羊座(やぎ座)
■出身地・都道府県
大分出身

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藤波辰爾と関係のある人

ビンス=マクマホン・シニア: そのため新間はマクマホンを非常に大切な存在と思っており、マクマホン夫妻を日本に招待した時(藤波辰爾がMSGに出場する2年ほど前)、新間が来日していた夫妻が宿泊する京王プラザホテルを尋ねたら手違いなのか部屋が普通のツインルームだったので、ホテル側に新間は「新日本の大事なお客さんを、何でこんな部屋に入れるんだ!スイートを取れ!」と怒鳴ってスイートルームを用意させたという逸話がある。


佐々木健介: 2002年11月、鈴木みのる戦を巡る交渉の過程で会社への不信感を理由に新日プロを退団(10月の東京ドーム大会寸前に退団を発表したため、「妨害行為」として藤波辰爾社長や永田裕志ら選手から激しい批判を浴びた)。


田上明: 12月7日の有明コロシアム大会にて田上の引退試合が行われ、歴代の付き人である平柳・森嶋猛・杉浦貴と組み天龍源一郎・藤波辰爾・井上雅央・志賀賢太郎組と対戦し「オレが田上」で井上からフォールを奪い、有終の美を飾った。


棚橋弘至: 7月31日、初出場を果たすG1 CLIMAX開幕を前に藤波辰爾に師事を仰ぎ、ドラゴン殺法を伝授されると、G1公式リーグ戦では越中詩郎、健介から殊勲の勝利を挙げた。


佐山聡: 2010年10月20日、藤波辰爾、長州力と共に新イベント「レジェンド・ザ・プロレスリング」を2011年1月10日に後楽園ホールで旗揚げすることを発表した。


ミスター・ポーゴ: 国プロ崩壊後は古巣の新日にもスポット参戦しており、1986年7月25日に秋田県立体育館ではケンドー・ナガサキとのコンビでIWGPタッグ王座に挑戦した(王者組は藤波辰爾・木村健悟組)。


松沢成文: 2016年12月5日、新著『始動!江戸城天守閣再建計画』出版記念講演会&シンポジウムを開催し、松沢と親交の深く、城好きで有名なプロレスラーの藤波辰爾が参加した。


西村修: これを契機に、藤波辰爾ら元新日本プロレスのフリー選手や田中秀和とともに新団体、進化し続ける現代のプロレスにアンチテーゼを投げかけた原点回帰論をテーマにした「無我ワールド・プロレスリング」を設立。


日野聡: プロレスラーの藤波辰爾とは小さいころからの知り合いで、日野自身もプロレス好きである。


船木誠勝: 船木の将来を嘱望した新日本が残留説得を試み、船木曰く「再契約金1000万円、さらに試合のギャラも藤波辰爾・長州力と同ランクとする」との提示も受けたが、アントニオ猪木と前田日明、同時期にUWF移籍を表明していた鈴木みのるを交えた四者話し合いの末、新日本プロレスの円満退社、UWF移籍が決定した。


リード=フレアー: 武藤敬司とタッグを組み、藤波辰爾 & 真田聖也組と対戦するが敗れた。


ジャイアント馬場: 2月2日、自宅で密葬が行われ、全日本の各選手・スタッフ、弔問に訪れた新日本プロレス社長(当時)の坂口征二と藤波辰爾などに見送られ、その後桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。


スタン=ハンセン: 藤波辰爾曰く、ハンセンのラリアットの威力を例えるなら、布をグルグル巻きにしたバットでフルスイングされるようなもの。


南海龍太郎: 廃業から2年後の1990年(平成2年)、再び来日し、新日本プロレスの藤波辰爾が結成したドラゴンボンバーズに参加する。


小笠原慎之介: プロレス団体WWEの大ファンであり、特に藤波辰爾を敬愛している。


オカダ・カズチカ: 3月1日、日本武道館での旗揚げ記念日第七試合メインイベントで、棚橋弘至、藤波辰爾と組み、鈴木みのる、ザック・セイバーJr.、藤原喜明と対戦し、レインメーカーで鈴木から勝利。


高見山大五郎: プロレスラーの藤波辰爾とは現役時代から親交があり、新日本プロレスの会場にもよく観戦に訪れていた。


柴田勝久: その後は藤波辰爾が主宰していたドラディションのリングでレフェリーを担当している。


アントニオ小猪木: 2011年12月29日、『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「第2回細かすぎて伝わらないモノマネ紅白合戦」の混合戦にユリオカ超特Q(藤波辰爾)、ストロングスタイル・糸賀清和(蝶野正洋)、ガリットチュウ・福島善成(スタン・ハンセン)、山田カントリー・浅井優(ジャイアント馬場)、古賀シュウ(神取忍)と「昭和プロレスバトルロイヤル編」で出場。


天龍源一郎: 反選手会同盟と熱戦を繰り広げ、12月14日に越中詩郎を、1993年になると1月に長州力、2月に木村健吾、6月と8月に橋本真也、9月に蝶野正洋、同じく9月に馳浩、12月に藤波辰爾を全てシングルマッチで破った。


ヒロ斉藤: その後、無我がドラディションへ改名するが藤波辰爾と同行し、今もなおレジェンドレスラーの一人としてリングに上がり続ける。


小野寺昭憲: 2012年、プロレスラー・藤波辰爾のデビュー40周年記念オフィシャルドキュメンタリー「最後の飛龍 藤波辰爾」の監督・脚本・撮影・編集を務めた。


棚橋弘至: 5月12日、後楽園ホールで行われたドラディションに初参戦し、藤波辰爾デビュー50周年記念大会のメインイベントに出場し勝利。


田口隆祐: 1月4日、東京・東京ドーム「バンドリ!Presents WRESTLE KINGDOM 14 in 東京ドーム」2連戦の初日、第1試合獣神サンダー・ライガー引退試合Iにて、獣神サンダー・ライガー&藤波辰爾&ザ・グレート・サスケ&タイガーマスクwithエル・サムライvs佐野直喜&大谷晋二郎&高岩竜一&田口隆祐with小林邦昭が行われた。


グレート小鹿: ターゲットは猪木・藤波辰爾・山本小鉄であったとされるが、その際に猪木と山本は不在で、藤波は奥の部屋に隠れていたため事なきを得ている。


ハルク=ホーガン: 翌年1月には藤波辰爾とも対戦した。


ミスター雁之助: 2018年04月15日、ガッツワールド解散興行でミスター雁之助引退試合を行い、雁之助は影山道雄と組み藤波辰爾&ヒロ斉藤戦にて二度目の引退を迎えた。


谷津嘉章: 11月30日の引退試合では維新力とのタッグで、藤波辰爾&初代タイガーマスク組と対戦。


上田晋也: また藤波辰爾がスーパー・ストロング・マシンに対して『お前平田だろ』発言をした1985年5月17日熊本大会も会場に見に来ていた)。


竹村豪氏: 海外での総合格闘家を志し渡航計画を立てていた23歳の時、藤波辰爾が立ち上げた「無我」が大阪に道場を設立した事を知り、入門テストを受験し合格。


藤波辰爾

もしもしロボ

藤波 辰爾(ふじなみ たつみ)さんの誕生日は1953年12月28日です。大分出身の格闘家
プロレスのようです。

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得意技、タイトル歴などについてまとめました。卒業、引退、現在、事件、家族に関する情報もありますね。去年の情報もありました。藤波辰爾の現在の年齢は70歳のようです。

藤波 辰爾(ふじなみ たつみ、本名: 藤波 辰巳、1953年12月28日 - )は、日本の男性プロレスラー。YouTuber。大分県東国東郡武蔵町(のちの国東市)出身。ニックネームは「ドラゴン」。血液型O型。プロレス活動はドラディション、芸能活動はカートプロモーション所属。長男は藤波怜於南。

第77代NWA世界ヘビー級王者。日本人2人目のWWE殿堂入りレスラー。海外武者修行時のリングネームは、アメリカではドクター・フジナミ、メキシコではドクトル・フヒナミおよびリング・フヒナミとしていた。

1953年12月28日、大分県国東郡に生まれる。中学時代は陸上競技を行っていた。この頃にアントニオ猪木に憧れ、プロレスラーを目指す。

中学卒業後、地元の自動車整備工場に就職したが、プロレスへの夢を断ち切れず、1970年に別府温泉へ湯治に来ていた同郷である日本プロレス所属のプロレスラー北沢幹之に直談判し、北沢から同年6月16日に日本プロレスの興行が行われる山口県下関市へ行くように言われ、そのまま巡業について行った後に、日本プロレス幹部と面談を行うために上京して日本プロレスに入門。憧れていた猪木の弟子となる。入門同期には佐藤昭雄、キラー・カーンなどがいる。

北沢幹之のはからいにより猪木の付き人となり1971年5月9日にデビュー。デビュー戦の相手は北沢が務めた。当時の猪木が「いつでもどこでも俺のことを見ている」と言うほど猪木につきっきりであり、猪木は妻の倍賞美津子より藤波の方が自分のことを分かってくれていると評していた。

中学時代は家に帰ると夕食前に汁かけご飯をどんぶり3杯食べる大食漢であったが、プロレス入りした途端緊張と威圧感で食事が喉を通らなくなるなど苦難を経験した。

アントニオ猪木が日本プロレスを除名された翌日の1971年12月14日、木戸修と共に日本プロレスを退団し、夜逃げ同然で日本プロレス事務所の近くの猪木後援会事務所に身を寄せる。日本プロレスによる猪木除名会見の当日、藤波は記者席の後部におり、翌日の新聞で記者席の後部にいた藤波の姿が掲載され、それを見た猪木が藤波を誘ったという。

1972年、猪木が興した新日本プロレスに旗揚げより参加。3月6日に大田区体育館で行われた旗揚げ戦では第1試合に出場するもエル・フリオッソに敗退、3月16日の浜田広秋(後のグラン浜田)のデビュー戦で初勝利を挙げる。以降、相次いでデビューした関川哲夫、荒川真、栗栖正伸、藤原喜明らを相手に勝利を重ね、若手のリーダー格となった。

1974年、若手の登龍門たるカール・ゴッチ杯を制した(決勝の相手は小沢正志)。1975年6月、初の海外修行で木戸修と共に西ドイツへ遠征、グスタル・カイザーのプロモーションで対戦したホースト・ホフマンには子供扱いされたという。その後アメリカへ渡り、フロリダのカール・ゴッチのもとで再修行。木戸の帰国後、1976年よりドクター・フジナミのリングネームでジム・クロケット・ジュニア主宰のNWAミッドアトランティック地区をサーキット。ベビーフェイスのポジションで前座試合に出場し、ロニー・ガービン、ボリス・マレンコ、ジン・アンダーソン、ザ・モンゴルズ、ジャック・グレイ、ミシェル・デュボア、クラッシャー・ブラックウェル、ラリー・シャープ、ダグ・サマーズ、アンジェロ・ポッフォ、ラニー・ポッフォ、そしてランディ・ポッフォこと若手時代のランディ・サベージなどと対戦。タッグマッチでは、後に新日本のリングで対戦する同世代のトニー・アトラスやラリー・ズビスコと組み、さらにはダン・ミラー、レッド・バスチェン、ビル・ドロモなどベテラン選手のパートナーにも起用された。その後、ドクトル・フヒナミとしてメキシコに転戦、当初はルード扱いだったが、後にテクニコに転向してからはリング・フヒナミと名乗った。

1978年1月23日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてカルロス・ホセ・エストラーダを初公開のドラゴン・スープレックスで破り、WWWF(WWF)ジュニアヘビー級王座を獲得。凱旋帰国を果たすが、海外遠征でブレイクしたため、藤波は日本には帰りたくなかったという。

3月3日の凱旋帰国第一戦では、マスクド・カナディアン(ロディ・パイパー)を相手に同じくドラゴン・スープレックスで勝利。以降、ドラゴン・ロケットなど当時としては斬新だった飛び技、引き締まった肉体と端正なマスク、そしてゴッチ仕込みのテクニックで「ドラゴン・ブーム」を巻き起こし、従来のプロレスファンに加えて女性や子供のファンからの支持も獲得、腰痛の悪化で低迷していたストロング小林を抜いて猪木と坂口征二に次ぐ新日本プロレスNo.3の座に就いた。王座は1979年10月に剛竜馬に奪取されるも2日後に奪回しており、1981年10月にヘビー級転向のために返上するまで、通算52回に渡って防衛。チャボ・ゲレロ、カネック、ダイナマイト・キッド、木村健吾などをライバルに、日本のプロレス界に「ジュニアヘビー級」というジャンルを定着させた。

WWFジュニアヘビー級王者として日本のみならず海外でも防衛戦を行い、ロサンゼルスでは素顔のロディ・パイパーをはじめ、エル・ゴリアス、スキップ・ヤング、トム・プリチャード、ニューヨークでは前王者エストラーダやジョニー・ロッズ、メキシコではレイ・メンドーサやエル・ソリタリオなどの挑戦を退けている。1980年2月1日にはダブルタイトルマッチにてスティーブ・カーンを破り、NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得、ジュニアヘビー級の二冠王となった。同年4月には国際プロレスの阿修羅・原、1981年7月には当時のNWA世界ジュニアヘビー級王者レス・ソントンを相手にWWF王座の防衛に成功するなど、名実ともにジュニアヘビー級の第一人者となった。

また、春に開催されていたMSGシリーズにも出場して、猪木や坂口をはじめ、アンドレ・ザ・ジャイアント、スタン・ハンセン、ダスティ・ローデスらスーパーヘビー級の大物外国人とも対戦。公式リーグ戦ではニコリ・ボルコフ、バグジー・マグロー、ボビー・ダンカン、サージェント・スローターなど、体格差のある巨漢選手からクラッチ技でフォールを奪っている。1981年6月8日にはマディソン・スクエア・ガーデンにおいて、アメリカ修行中だった谷津嘉章と組み、ザ・ムーンドッグス(レックス&スポット)が保持していたWWFタッグ王座に挑戦した。

1981年12月、地元の大分における同年10月16日のスティーブ・トラビスとの防衛戦を最後に、ヘビー級転向のためWWFジュニアヘビー級王座を返上。翌1982年1月より「飛龍十番勝負」が始まる。ボブ・バックランド、ハルク・ホーガン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジェシー・ベンチュラ、ディック・マードックらと闘うも、十番を消化することなく、中途で終わることになった。

しかしながら、海外遠征中の同年8月30日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでジノ・ブリットを破りWWFインターナショナル・ヘビー級王座を獲得。ヘビー級のチャンピオンベルトを手土産に凱旋帰国、9月21日に大阪府立体育館にてマスクド・スーパースターを逆さ押さえ込みで破り、初防衛に成功した。この一戦で新間寿が仕掛けたサプライズとして当時婚約中であった妻がリングに上がって観客から拍手を受けた。

この年の10月、長州力との抗争が始まり、さらに長州率いる維新軍との軍団抗争で新日本に黄金期をもたらす。長州との一連のシングルマッチは「名勝負数え歌」と呼ばれ、1983年4月3日のWWFインターナショナル・ヘビー級タイトルマッチは同年のプロレス大賞ベストバウトを獲得した。同年のWWF遠征では、5月16日にロチェスターにてレイ・スティーブンス、翌17日にシラキュースにてザ・デストロイヤーと対戦し、それぞれ勝利を収めている。

しかし、同年8月のタイガーマスクの引退、さらに翌年1984年にはUWF旗揚げによる前田日明らの離脱、年末の長州ら維新軍団の離脱と、新日本プロレスは危機的な状態に陥る。一時は藤波の離脱も噂されたが残留し、以降は猪木、坂口、木村、星野勘太郎らと共に新日本の低迷期を支えた。1985年5月24日には木村と組んでWWFインターナショナル・タッグ王座を獲得。WWFインターのシングルとタッグの二冠に輝き、6月11日には東京体育館にてホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦した。インターナショナル・ヘビー級王座も、カウボーイ・ボブ・オートン、アドリアン・アドニス、ジミー・スヌーカなどを相手に防衛していたが、WWFとの業務提携終了に伴い、1985年10月末でWWFインターのシングルとタッグ両王座を返上。しかし12月12日のIWGPタッグリーグ優勝戦では、師匠の猪木からドラゴン・スープレックスで初のフォール勝ちを達成。初代IWGPタッグ王座を木村とのコンビで獲得し、その年の「プロレス大賞」でMVPを獲得した。

1986年1月からUWF勢が新日本プロレスとの業務提携により参戦。UWF勢のキック攻撃を藤波は真正面から受け止め、6月12日の大阪城ホールにおけるIWGP公式リーグ戦での前田との試合は、前田の大車輪キックで大流血になりながらも名勝負を展開した(結果は両者KOによる引き分け)。この試合は同年のプロレス大賞ベストバウトを獲得、前田は「無人島に流れ着いたと思ったら仲間がいた。そしてその仲間とこれから大きな国を作っていく、そんな心境です」と藤波に賛辞を送った。だが藤波の額にはその時の傷が残り、現在も消えずに残っている。

同年8月にはアメリカ南部のNWAのメジャーテリトリーにも遠征しており、フロリダのCWFでは木村と組んでファビュラス・ワンズ、ダラスのWCCWではクリス・アダムスと対戦した。

1987年4月には長州らジャパンプロレスの残党が新日本にUターン。猪木、坂口、マサ斎藤らナウ・リーダーと、藤波、長州、前田らニュー・リーダーの抗争が展開されるも、その後の前田の長州蹴撃による離脱、二度に渡るファンの暴動事件などで、再び新日本の人気は陰りを見せ始めた。

1988年4月22日、沖縄県立奥武山公園体育館での試合終了後、いつまでもメインを張り続け後進に譲ろうとしない猪木に対して現状改革を訴え、決意の表れとして頭を丸めようとする(が、前髪にハサミを入れたところで猪木に制止される)。この行動は前年に天龍源一郎が全日本プロレスで起こした天龍革命に対して「飛龍革命」と呼ばれた。

5月8日、有明コロシアムでIWGPヘビー級王座をビッグバン・ベイダーとの王座決定戦の末に獲得。

8月8日には、猪木が挑戦者として藤波に挑む形で、横浜文化体育館でIWGPヘビー級の防衛戦を行い、60分フルタイムの名勝負の末引き分ける。試合後、猪木が藤波の腰にIWGPのベルトを巻いた。

以後、新日本プロレスのエースとなり、10月15日にアメリカのオレゴン州ポートランドにてザ・グラップラーからNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を、12月9日には後楽園ホールでケリー・フォン・エリックからWCWA世界ヘビー級王座を奪取し、日米に渡る三冠王となった(後に両王座は返上)。これと同時期に、IWGPヘビー級のベルトを携えてアメリカなどを転戦、海外でもIWGPヘビー級王座の防衛戦を行っている(当時、猪木が提唱していた「世界戦略」に対して、「藤波流世界戦略」とも呼ばれた)。

1989年6月22日、長野県・佐久市総合体育館におけるベイダーとのシングルマッチで腰を負傷。7月3日、青森市民体育館を最後に、椎間板ヘルニアで1年3か月間に及ぶ長期欠場となった。その間、帝拳ジムでボクシングの練習にも取り組んだ。当時のプロレス界では興業ポスターに掲載されている選手は欠場が許されず、もし欠場したら会社側がプロモーターからの値引きに応じなければならなかったため、これが原因で腰の負傷が悪化したと本人は振り返っている。また、飛龍革命で散々揉めた猪木が自分の都合で選挙活動に藤波を駆り出したことなども、本人は後に苦笑いしながら振り返っている。ヘルニアは酷い時になるとほぼ寝たきりになるほど悪化。正確には、立った状態から寝床に付く行為もできないほど痛みが甚だしかったため、ソファーの一番柔らかいところにそっと腰を掛けて夜はそこで毛布を掛けて寝ていたという。痛みで意識がもうろうとしていた時が睡眠時間であったというほど睡眠にも障害が出るほどであり、数m先のトイレに行くのにも夫人の力を借りざるを得なかった。その状態が半年ほど続いたため、このときについて本人は自伝に「自殺を考えるほどであった」と記述している。その痛みは、最終的に筋肉を鍛え直すリハビリで克服しており、それを行ってから2ヶ月で復活したことについては本人も「本当に信じられない」と驚いていた。

1990年9月30日、神奈川県・横浜アリーナにおいて越中詩郎とのエキシビション・マッチで復帰。リングネームを「藤波辰巳」から「藤波辰爾」へ改名。

この頃、プロレス界での部屋別制度を提唱、「ドラゴンボンバーズ」を結成(メンバーは越中、獣神サンダー・ライガー、飯塚孝之、ブラック・キャット、南海龍、ワイリー・テイラー)したが、軌道に乗ることはなかった。

同年12月26日、浜松アリーナで長州を破りIWGPヘビー級王者になった。

翌1991年3月21日、東京ドームでリック・フレアーをグラウンド・コブラで破りNWA世界ヘビー級王者となったが、WCW側からのクレームもあり正式なNWA世界王者とカウントされるかどうかは議論が分かれていた。ただしNWAの公式サイトには、歴代チャンピオンとして藤波の名前がある。また、後にWWE殿堂入りした際、WWEから「元NWA世界ヘビー級王者」として紹介され、WCWを買収したWWEから王座戴冠の事実を追認される形になった。本人はフレアー戦でベルトを奪取していなければWWE殿堂入りは無かったかもしれないと後に2017年のインタビューで振り返っている。

1992年7月11日、オーストリアのグラーツにてボブ・オートン・ジュニアを破り、オットー・ワンツ主宰のキャッチ・レスリング・アソシエーションが認定するCWAインターコンチネンタル・ヘビー級王座を獲得。

1993年8月7日、両国国技館で馳浩を破りG1 CLIMAX優勝。

その年1月から参戦し、新日本勢を連破していた天龍源一郎と9月26日大阪城ホールで初対決。セコンドの馳の介入にクレームを付ける天龍の虚をついてグラウンド・コブラで勝利した。

1994年4月4日、広島グリーンアリーナで橋本真也のIWGPヘビー級王座に挑戦。橋本の爆殺キックで蹴りまくられながらも逆転のグラウンド・コブラで王座を奪取。

1995年以降、闘魂三銃士の台頭もあり、藤波は徐々に第一戦から退くようになる。

1995年10月27日、クラシックなプロ・レスリングを復活させるため独立興行「無我」を旗揚げ。イギリスのビリー・ライレージムと提携。

1998年4月4日の猪木引退・東京ドーム興行で佐々木健介を数年ぶりに見せるジャーマン・スープレックスで破りIWGPヘビー級王座を獲得。師の引退に花を添えた。

1999年に坂口征二の後を継ぎ新日本プロレス社長に就任。しかし在任中に長州、橋本、武藤敬司、佐々木など主力選手の退団が相次ぎ、折からの総合格闘技ブームや新設されたNOAHの盛況もあって苦しい経営を迫られた。また、会社の経営状況を把握出来ていなかったり発言の趣旨が二転三転することが多かったりと、藤波自身も経営者として問題があった。優柔不断な面があったことから「こんにゃく社長」とも称された。

2003年から社長業の多忙と胆石の治療で長期欠場に入り、近い将来の引退を宣言をする。しかし胆石は手術で完治し、結局2004年に社長を辞任、副会長に就任し、2005年3月26日には2年3か月ぶりに復帰し、引退カウントダウンを撤回し、現役にこだわるようになる。

同5月のドーム大会でジャンボ鶴田の付き人を務めたことのあるNOAHの三沢光晴とタッグを組み、「楽しかった。次は三沢選手と戦いたい」と話した。また、同年のG1 CLIMAXにも久々に出場した。川田利明との初対決が実現する(敗れる)。試合後に川田から握手をし、川田は「試合後の握手は嫌いだが、レスラーになったきっかけの一人であるから」とコメントを残す。

2006年6月30日付けで新日本プロレスを退団。その際に社員に挨拶に回ったが、ことごとく無視された、とインタビューで当時の様子を語った。

元新日本プロレスで藤波の愛弟子である西村修と田中秀和リングアナウンサーの新団体「無我ワールド・プロレスリング」の旗揚げ戦で第1試合に出場した。その後、無我の代表取締役に就任。2007年1月28日には約30年ぶりにグラン浜田と対戦した。6月1日には師匠の猪木と1年振りに会談したことが明らかとなり、その席で猪木が旗揚げするイノキ・ゲノム・フェデレーションへの協力を表明した。9月9日、NOAH日本武道館で、三沢との夢のタッグ戦が実現(三沢、潮崎vs藤波、西村)。パートナーの西村が潮崎に足四の字で勝利。

2008年、団体名を『ドラディション』に変更した。西村が無我の商標権を持ったまま団体を離脱したことが理由である。

ドラディションと並行しつつ、2010年10月20日、長州や初代タイガーマスクと共に新イベント「レジェンド・ザ・プロレスリング」を2011年1月10日に後楽園ホールで旗揚げすることを発表した。また、藤波と長州の1997年8月10日以来となる一騎討ちも決まった。

2012年4月20日、「藤波辰爾デビュー40周年・ファイナル 〜40th. ANNIVERSARY FINAL〜」を後楽園ホールで開催、元新日本プロレスの藤原喜明やウルティモ・ドラゴンなどが参戦、メインでは長州&初代タイガーマスクと組み、蝶野正洋&ヒロ斎藤&AKIRAのTEAM 2000と対戦、リングアナは田中秀和、レフェリーは北沢幹之が務め、サプライズゲストとして前田および師匠の猪木が来場した。また、同大会の模様や藤波本人、及び有名選手のインタビューを交えた初のオフィシャルドキュメンタリーDVD「最後の飛龍 藤波辰爾」を自らの事務所シーホースコーポレーションより発売した。

2012年4月20日の大会終了直前に長男の藤波怜於南がプロレス入りを直訴したが、直ぐには結論を出せないと承諾を保留にした。その後承諾し、ランカシャースタイルを習得させる為に旧ビリー・ライレージムことアスプルオリンピック・レスリングクラブに武者修行に出し、帰国後はデビューを目指しU.W.F.スネークピットジャパンで修行中。その後怜於南は2013年5月29日のドラディション後楽園ホール大会のエキシビジョンマッチでプレデビュー戦を行った。

11月19日、怜於南は藤波のかつての付き人だった船木誠勝を相手にデビューすることが発表された。その本格デビューを前に、怜於南は自らのリングネームを『LEONA』とすることを発表。将来的には本名の藤波怜於南で戦う意思があることも明らかにしている。

そのデビュー戦等を含んだDVD「藤波辰爾還暦記念 藤波怜於南デビュー記念 藤波辰爾×LEONA BEST BOUT 2012 - 2013」が発売されている。

2015年3月、WWEホール・オブ・フェームに迎えられた(インダクターはフレアー)。日本人では猪木に続き2人目の殿堂入りである。

2015年9月、全く足が動かなくなるほどの腰椎のヘルニアと狭窄症により手術を受けた。手術は神経をいじるものであったため腰に多少のしびれが残った。1989年の負傷で同様の症状が表れたが、その時は腰にメスを入れたら選手生命が終わる時代であったため多少自分で運動して周りの筋肉で保護しながら騙し騙しやっていた。毎試合前に痛み止めの座薬を投与していたことも明かされた。

2017年4月にデビュー45周年記念大会を後楽園、博多、大阪で開催。10月27日には東京・後楽園ホールで、29日には大阪・ATCホールで大会を開催。藤波はこの大会に関して「いまのドラディションは試合数が限られている。自分が団体を率いて試合するのは、通常の大会をやっても意味がない。自分がやる大会はファンがいまのプロレスとは違った思い、違った楽しみを抱いてくれる大会。それをいちばん意識してます」と専門誌の記事上で答えている。事実、29日大会では、ミル・マスカラスや長州など従前では考えられないメンバーでトリオを組んでいる。長州は今までオファーしても「時間をください」と保留していたが、今回はカードを言ったら異論を言わず「やる」と答えた。このシリーズでは、かつて名勝負を繰り広げたベイダーを日本に呼び、試合を行った。当時のベイダーは心臓病で余命2年の宣告を受けており、実際、この試合から1年余りで急死してしまうことになった。

2018年6月、田村和宏とタッグを組んでプロレスリングHEAT-UPのユニバーサルタッグ王座を獲得。

2020年1月4日、古巣である新日本プロレスの東京ドーム大会にライガーの引退試合のパートナーとして久々の出場。ライガー、ザ・グレート・サスケ、4代目タイガーマスクとタッグを組み、佐野直喜、大谷晋二郎、高岩竜一、田口隆祐組と戦った。

2021年9月17日、プロレスリングHEAT-UPとどろきアリーナ大会でTAMURAが保持するHEAT-UPユニバーサル王座及びPWL WORLD CHAMPION王座に挑戦し、TAMURAをコブラツイストで下して23年ぶりにシングル王座を奪取した。

2022年1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会の第0試合 『KOPW 2022』進出権争奪戦ニュージャパンランボーに出場。5月1日の福岡PayPayドーム大会第1試合に参戦する予定だったが、コロナウイルスに感染したことにより欠場(代わりにX=越中詩郎が出場)。同年10月1日にアントニオ猪木が死去し、ドラディション公式サイトや自身のTwitterに追悼コメントを発表し、HEAT-UPとどろきアリーナ大会で試合に出場、猪木の得意技でもあったコブラツイストで勝利をあげ天に指を突き上げた。試合後のインタビューでは我慢していたものの大号泣した。翌2日、家族で弔問に行き、許可を得て猪木の顔や頭に約50年ぶりに触れ、付き人時代を思い出し懐かしんだ。

2023年2月27日、大分合同新聞が主催する豊の国かぼす大使であったが、新潟県南魚沼市交流大使に任命されたことをSNSで報告した。

得意技

ブルース・リーを彷彿させる絞られた筋骨隆々な肉体・スピーディーで華々しいファイトスタイルや、自らのキャッチフレーズであるドラゴンの名を冠した多くのオリジナル技(通称ドラゴン殺法)は、後世のプロレスラー、特に現在まで続くジュニアヘビー級のファイトスタイルに多大な影響を及ぼした。また、猪木の卍固めや長州のサソリ固めなど、いわゆる「掟破り」を使用し試合を演出した。

タイトル歴

NWA世界ヘビー級王座:1回

NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座:2回

NWAパシフィック・ノースウェスト・ヘビー級王座:1回

IWGPヘビー級王座:6回

IWGPタッグ王座:5回(w / 木村健悟×4、西村修×1)

カール・ゴッチ杯争奪リーグ戦:1回

MSGタッグ・リーグ戦:1回(w / アントニオ猪木)

ジャパンカップ争奪タッグ・リーグ戦:1回(w / 木村健吾)

G1 CLIMAX:1回

SG TAG LEAGUE:1回(w / ビッグバン・ベイダー)

WWFインターナショナル・ヘビー級王座:2回

WWFインターナショナル・タッグ王座:1回(w / 木村健吾)

WWWFジュニアヘビー級王座 / WWFジュニアヘビー級王座:2回

WWE殿堂:2015年度

WCWA世界ヘビー級王座:1回

CWAインターコンチネンタル・ヘビー級王座:1回

UWA世界ヘビー級王座:1回

KO-Dタッグ王座:1回(w / MIKAMI)

HEAT-UPユニバーサルタッグ王座:1回(w / TAMURA)

HEAT-UPユニバーサル王座:1回

PWL WORLD CHAMPION王座:1回

新人賞(1974年)

最高殊勲選手賞(1978年)

技能賞(1979年)

殊勲賞(1980年)

最優秀タッグチーム賞(w / アントニオ猪木)(1981年)

殊勲賞(1982年)

年間最高試合賞(藤波辰巳 vs 長州力、4月3日・蔵前国技館 = WWFインターナショナル・ヘビー級選手権試合)(1983年)

敢闘賞(1984年)

最優秀選手賞 MVP(1985年)

年間最高試合賞(前田日明 vs 藤波辰巳、6月12日・大阪城ホール = IWGPリーグ戦)(1986年)

殊勲賞(1987年)

殊勲賞(1988年)

2024/05/25 07:15更新

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