谷本稔の情報(たにもとみのる) 野球選手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
谷本 稔さんについて調べます
■名前・氏名 |
谷本稔と関係のある人
西本幸雄: ここで大洋は先発・権藤正利をあきらめ、アンダーハンドのエース秋山登を投入し、山内一弘を敬遠させ、次の谷本稔と勝負する作戦に出た。 醍醐猛夫: 1959年には打撃不振もあって谷本稔に正捕手の座を奪われるが、8月22日の南海戦(夕張鹿谷)で杉浦忠の連勝を12でストップさせると、9月30日の近鉄戦(後楽園)では5回裏に後藤修ー村田康一バッテリーから初盗塁を決める。 須藤豊: 同年7月25日の東映戦(駒沢)で左腕の橋詰文男が救援登板してきたため、宇野は右の代打を探すが、谷本稔・小森・上条皇裕を使ってしまった後で、須藤のみが残っていた。 吉田英司: 1962年には一軍に上がり、谷本稔の控えながら3試合に先発マスクを被る。 福塚勝哉: その後は谷本稔・醍醐猛夫に次ぐ三番手捕手として起用され、1961年には51試合に出場。 牧勝彦: しかし翌1964年は成績が落ち、オフに谷本稔とのトレードで東京オリオンズに移籍。 保坂幸永: 同年は谷本稔とレギュラーを争い7月から正捕手に定着、87試合に先発出場を果たす。 炭谷銀仁朗: 2006年は、キャンプから頭角を現し、オープン戦で2本塁打、5割近い盗塁阻止率を記録したため、谷繁元信以来17年ぶりとなる高卒新人捕手の開幕一軍入り、3月25日の対オリックス・バファローズ戦で谷本稔以来51年ぶりとなる高卒新人捕手の開幕戦スタメンデビュー、飯田幸夫以来40年ぶりとなるパ・リーグ高卒新人開幕スタメンまで果たした。 横谷総一: 担当スカウトは谷本稔で、上記の実績を背景に「走・攻・守の三拍子が揃った野手」として評価されていたことから、阪神への入団を機に内野手へ転向した。 沼澤康一郎: 同年は自己最多の90試合出場で41試合に先発マスクを被るが、1957年は醍醐猛夫が新入団、1958年には谷本稔の移籍入団もあり出場機会が減少。 久代義明: 「野村克也二世」の呼び声が高かったが、辻佳紀・辻恭彦・山本哲也・谷本稔とライバル捕手が多く出場機会には恵まれなかった。 松川虎生: これは1955年の谷本稔(大映)、2006年の炭谷銀仁朗(西武)に次ぐ史上3人目の高卒新人捕手開幕スタメン、球団でも1955年の榎本喜八、1965年の山崎裕之、2019年の藤原恭大以来史上4人目となる高卒新人開幕スタメンとなった。高卒新人捕手が出場しての開幕白星は1955年の大映・谷本稔以来、史上2人目。 |
谷本稔の情報まとめ
谷本 稔(たにもと みのる)さんの誕生日は1937年2月1日です。愛媛出身の野球選手のようです。
父親、母親、引退、兄弟に関する情報もありますね。去年の情報もありました。2010年に亡くなられているようです。
谷本稔のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)■プロジェクト:野球選手 ■テンプレート 谷本 稔(たにもと みのる、1937年2月1日 - 2010年)は、愛媛県八幡浜市出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ・監督。 八幡浜高校1年次の1952年に板前であった父親を亡くし、「母親を楽にするために」と大学進学を諦めてプロを志す。3年次の1954年に行われた夏の甲子園県予選では打率.660と打ちまくったが、準々決勝で宇和島東高に惜敗。1955年、高校の監督が藤本定義監督の兄であった事から大映スターズに入団。1年目の同年は3月27日の東映戦(駒澤)に捕手で開幕戦スタメンデビューを果たすが、これは日本プロ野球史上初の「高卒ルーキー捕手の開幕戦スタメンデビュー」であり、2006年の炭谷銀仁朗(西武)まで51年間出なかったという非常に稀な出来事でもあった。この年は74試合に先発マスクを被るが、2年目の1956年は保坂幸永らの控えに回る。高橋ユニオンズと合併して「大映ユニオンズ」となった1957年には定位置を奪還し、球団合併によって1958年に大毎オリオンズへ移籍。醍醐猛夫とのポジション争いに競り勝って1959年から正捕手として活躍し、規定打席には届かなかったものの、初の2桁となる10本塁打・打率.276を記録。1960年には10年ぶり2度目のリーグ優勝に貢献し、大洋との日本シリーズでは全4戦に5~6番打者として起用されて15打数3安打に終わる一方、10月12日の第2戦(川崎)でのスクイズプレイ失敗が西本幸雄監督と永田雅一オーナーの対立を招き、西本が解任される事態にまで発展するなど必ずしも順風満帆とは言い難い面もあった。同年と1963年にはオールスター出場を果たし、1961年には2度目の2桁となる10本塁打を記録。1963年には自己最多の137試合に出場して打率.285と活躍するが、1964年には醍醐に正捕手の座を譲る。1965年に牧勝彦とのトレードで阪神タイガースへ移籍し、6月17日のサンケイ戦(甲子園)で1000試合出場を達成。阪神では辻佳紀の控え捕手に留まり、1967年にはブルペンコーチ兼任となる。1968年引退。 引退後は阪神で二軍バッテリーコーチ(1969年 - 1974年)、一軍バッテリーコーチ(1979年 - 1981年)、二軍監督(1982年)、関西・四国地区担当スカウト(1975年 - 1978年、1983年 - 2000年)を歴任し、スカウト時代には嶋田章弘・宗彦兄弟や藤川球児などを担当。1985年のドラフト1位の弟・章弘はプロ注目の甲子園のスターであったが、それだけでなく上背が無く注目されていなかった兄・宗彦も同時に獲得したのは谷本の嶋田家に対する配慮と、外観にとらわれずに宗彦の才能を見出した眼力によるものであった。1999年のドラフト1位の藤川は必ずしも球は速くなく体の線が細い投手であったが、球持ちがよくて回転のいい球を投げる事で推した。 大毎(毎日大映オリオンズ)は、1964年に東京(東京オリオンズ)に球団名を変更 1000試合出場:1965年6月17日 ※史上96人目 オールスターゲーム出場:2回 (1960年、1963年) 44(1955年 - 1956年) 32(1957年) 30(1958年) 20(1959年 - 1960年) 27(1961年 - 1964年) 22(1965年 - 1966年) 53(1967年 - 1969年) 66(1970年) 77(1971年 - 1974年) 83(1979年 - 1981年) 70(1982年) ^ 谷本 稔(阪神タイガース) 個人年度別成績 NPB.jp ^ 門屋駿介 (2022年5月12日). “元祖・高卒新人開幕マスクは愛媛県人!? ロッテ・松川から67年前の偉業”. 愛媛新聞ONLINE. https://www.ehime-np.co.jp/article/news202205120014 2023年4月22日閲覧。 ^ 西本忠成著「見るより面白いタイガースの本―トラキチが知らなかったトラキチ事典 (プレイブックス)」1985年10月、ISBN 441301393X 愛媛県出身の人物一覧 大映ユニオンズの選手一覧 千葉ロッテマリーンズの選手一覧 阪神タイガースの選手一覧 日本の野球選手 大映ユニオンズ及びその前身球団の選手 千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 NPBオールスターゲーム選出選手 日本の野球監督 愛媛県出身の人物 1937年生 2010年没 ISBNマジックリンクを使用しているページ 野球に関する記事 プロジェクト人物伝項目
2024/11/22 00:17更新
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tanimoto minoru
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