金子光晴の情報(かねこみつはる) 詩人 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
金子 光晴さんについて調べます
■名前・氏名 |
金子光晴と関係のある人
鈴村和成: 『金子光晴、ランボーと会う マレー・ジャワ紀行』(弘文堂) 2003 村野四郎: 『近代詩入門講座 第1巻 (詩の歴史)』金子光晴,北川冬彦,伊藤信吉共編 新興出版社 1951 藤田嗣治: また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村、薩摩治郎八、金子光晴、岡田謙三ら日本人とも出会っている。 林髞: 金子光晴やサトウ・ハチローらとも親交を持ち、同人誌への投稿やドイツ詩の紹介を行う。 高田渡: ぐゎらん堂には、青林堂の初代社長、長井勝一や、詩人の金子光晴も店を訪れている。 ギョーム=アポリネール: 浅野晃は、アポリネールは「『アルコール』を出すに及んでまったく独自の詩人となった」とし、さらに金子光晴の言葉を引用して、「フランスの詩はアポリネールでまったく違ってしまった」と評している。 清岡卓行: 編・解説に『金子光晴詩集』(岩波文庫、1991年) 泉本のり子: LOVE 第9回「金子光晴のラブレター Part1」(1991年、CX) 安藤元雄: 日仏会館の文化講座で「泥まみれの詩人—金子光晴」と題して講演。 村野四郎: 『金子光晴詩集』編 旺文社文庫、1974 司修: 1976年 - 『金子光晴全集』の装丁で第7回講談社出版文化賞ブックデザイン賞を受賞 松村彦次郎: 第四回 金子光晴/詩(IL,若葉のうた)(1993.6.21-27)15編の詩。 横光利一: 大正末期から昭和初期のこの頃、芥川龍之介をはじめ、吉行エイスケ、村松梢風、金子光晴などが上海を訪れている。 鈴村和成: 『金子光晴デュオの旅』(野村喜和夫共著、未來社) 2013 嶋岡晨: 『金子光晴論』五月書房 1973 中野孝次: 『近代日本詩人選 20 金子光晴』(筑摩書房) 1983 林髞: また、木々の慶應義塾大学医学部入学後の1922年(大正11年)1月には福士が編集委員、福士門人でもあった金子光晴が編集発行人を務める詩誌『楽園』が創刊され、同年3月刊行の第2号で木々は林家の先祖「林久策」のペンネームで訳詩・散文を発表している。 小倉清三郎: 会員には文化人も多く、坪内逍遥、芥川竜之介、大杉栄、金子光晴、平塚雷鳥、伊藤野枝などがいた。 岡田達也: 『蜜柑とユウウツ ー茨木のり子異聞ー』(2015年、グループる・ばる)- 宮本浩二 / 谷川俊太郎 / 金子光晴 役 平野威馬雄: 金子光晴により「早熟の天才少年」と賞賛された。金子光晴やサトウハチローや林髞(木々高太郎)、吉田一穂たちと共に詩の同人誌『楽園』を発行する。 江森陽弘: 『金子光晴のラブレター』ペップ出版、1981年7月20日。 友部正人: 田村隆一、金子光晴からの影響を受けたという。実在の人物をモチーフにした楽曲も多く、フォークシンガーでは、田中研二のことを歌った「田中さんとぼく」や豊田勇造のことを歌った「遠来」、高田渡のことを歌った「朝の電話」、その他に詩人である金子光晴のことを歌った「絵はがき」、伝説的漫画雑誌「ガロ」の創始者長井勝一のことを歌った「長井さん」などがある。 小林清親: 光線画を継承した井上安治、ポンチ絵や戦争画を描いた田口米作、詩人の金子光晴、30年間に渡って師事した土屋光逸、珍品収集家の三田平凡寺らがいる。 舟崎克彦: 影響を受けた文学者として、谷崎潤一郎、金子光晴、西東三鬼の3人を挙げている。 清岡卓行: イマジネールな都市としての両大戦間のパリを舞台に、藤田嗣治、金子光晴、ロベール・デスノス、岡鹿之助、九鬼周造らの登場する、多中心的かつ壮大な織り物と言うべきこの小説は、堀江敏幸をして「溜息が出るほど美しい」と言わしめた序章をはじめ、随所に鏤められたシュルレアリスムの詩の新訳もひとつの読みどころであり、詩と散文と批評の緊密な綜合が完成の域に達している。 鈴村和成: 2007年から2010年には野村喜和夫とともに、文芸誌「すばる」に「金子光晴デュオの旅」を不定期連載した。 鈴村和成: 『ゆるゆる人生のみつけかた 金子光晴の名言から』(野村喜和夫共著、言視舎) 2014 高田渡: ごく初期の頃は詩作もしたが、次第に山之口貘、金子光晴、草野心平、石原吉郎らの現代詩をアメリカの曲にのせる手法を採るようになった。 |
金子光晴の情報まとめ
金子 光晴(かねこ みつはる)さんの誕生日は1895年12月25日です。愛知出身の詩人のようです。
著作、絵画などについてまとめました。卒業、兄弟、結婚、離婚、病気、父親に関する情報もありますね。去年の情報もありました。亡くなられているようです。
金子光晴のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)金子 光晴(かねこ みつはる、1895年(明治28年)12月25日 - 1975年(昭和50年)6月30日)は、日本の詩人。本名は金子安和(かねこ やすかず)。弟に詩人で小説家の大鹿卓がいる。妻も詩人の森三千代、息子に翻訳家の森乾。 愛知県海東郡越治村(現津島市)生まれ。暁星中学校卒業。早稲田大学高等予科文科、東京美術学校日本画科、慶應義塾大学文学部予科に学ぶも、いずれも中退。 渡欧して西洋の詩を研究し、詩集『こがね虫』(1923年)を刊行。その後世界を放浪して無国籍者の視野を獲得。反権力、反戦の詩を多く残した。作品に『鮫』(1937年)、『落下傘』(1948年)など。
1897年(明治30年) 父が事業に失敗し、名古屋市小市場町(現:中区錦三丁目)に転居する。土建業の清水組名古屋出張所主任だった金子荘太郎の養子となる(正式には6歳のとき)。養母の須美は当時16歳。 1900年(明治33年) 養父が京都出張所主任となったため、京都市上京区に転居。 1902年(明治35年) 4月、金子保和の名で銅駝尋常高等小学校尋常科に入学する。 1906年(明治39年) 養父の東京本店転任にともない、一家は銀座の祖父宅に転居する。4月、泰明尋常高等小学校(現:中央区立泰明小学校)高等科に入学。銀座竹川町(現・銀座7丁目)のキリスト教教会で洗礼志願式を受ける。浮世絵師の小林清親に日本画を習う。 1907年(明治40年) 6月、牛込新小川町に転居し、津久戸尋常小学校(現・新宿区立津久戸小学校に転校する。11月、友人と渡米を企てて家出するが、やがて見つかり連れ戻される。この放浪中の不摂生により体調を崩し、翌年3月まで床に臥せる。 1908年(明治41年) 4月、暁星中学校に入学。初年度は成績優秀だった。漢文学に関心を寄せる。 1909年(明治42年) 夏休みに徒歩で房総半島を横断旅行する。老荘思想や江戸文学に惹かれ、中学の校風に反発し、成績が悪くなる。 1910年(明治43年/15歳) 200日近く学校を休んだため留年となる。現代文学に関心が向かい、小説家を志望する。 1912年(明治45年/大正元年) 同人誌を発行し、級友に回覧する。 1914年(大正3年) 4月、早稲田大学高等予科文科に入学するが、自然主義文学の空気になじめず、オスカー・ワイルドやアルツィバーシェフに影響を受ける。 1915年(大正4年) 2月、早稲田大学を中退。4月に東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学するが8月には退学する。翌9月、慶應義塾大学文学部予科に入学。すさんだ生活を送り、この頃のようすを「人はみな、その頃の僕を狂人あつかいにした」と述べている。肺尖カタルにより、3ヵ月ほど休学。丙種で徴兵検査に合格。 1916年(大正5年) 6月、慶應義塾大学を中退。保泉良弼、良親兄弟と知り合い、触発されて詩作をはじめる。ボードレール、北原白秋、三木露風などの詩を読みふける。7月、石井有二、小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行(2号で休刊)。10月、養父の荘太郎が死去したため、養父と財産を折半し放蕩生活を続ける。 1917年(大正6年) 牛込区赤城元町に転居。岐阜、関西、福江島などへ「目的のない」旅をする。中条辰夫と雑誌『魂の家』を発行(5号で休刊)。 1918年(大正7年) ウォルト・ホイットマン、エドワード・カーペンターに影響を受ける。鉱山の仕事に着手するが失敗する。川路柳虹に印刷会社を紹介してもらい、自費で詩集『赤土の家』の出版を企画する。12月、養父の友人とともにヨーロッパ遊学に旅立つ。 1919年(大正8年) 1月、金子保和の名で処女詩集『赤土の家』(麗文社)を刊行。同月末、イギリスのリバプールに到着する。その後、ロンドン、またベルギーのブリュッセルを訪ね、ブリュッセルでは同行人と別れ一人で郊外に下宿。親日家であり、日本の工芸品のコレクターであったイヴァン・ルパージュの厚遇を得る。西洋美術に触れ、落ち着いた読書の日々を送る。 1920年(大正9年) エミール・ヴェルハーレンの詩に強い影響を受ける。5月、ブリュッセルを離れてパリへ。12月、ロンドンで帰国の船に乗る。 1921年(大正10年) 1月、2年余のヨーロッパ旅行から帰国。同人誌『人間』等に詩を発表する。 1922年(大正11年) 詩誌『楽園』(3号で休刊)の編集に携わる。同人に大山広光、佐藤八郎、平野威馬雄ら。3月、ベルギーで書きためた詩の推敲に着手(後に『こがね蟲』の題名をつける)。同人誌『人間』『嵐』に詩を発表。 1923年(大正12年) 7月、詩集『こがね蟲』出版記念会を開く。出席者に西条八十、吉田一穂、石川淳、室生犀星、福士幸次郎ら。9月、関東大震災に遭い、名古屋の友人の実家に身を寄せる。のちに兵庫の実妹の嫁ぎ先へ。 1924年(大正13年) 1月、東京に戻る。小説家志望の森三千代と知り合い、恋愛関係になる。7月には三千代が妊娠のため東京女子高等師範(現:お茶の水女子大学)を退学。室生犀星の仲人により結婚する。 1925年(大正14年) 3月、長男・乾が誕生する。翻訳で生計を立てるが、困窮した生活が続く。3月、『ブェルハレン詩集』訳(新潮社)。8月、『近代仏蘭西詩集』訳(紅玉堂書店)、モーリス・ルブラン『虎の子』訳(紅玉堂書店、怪盗ルパンシリーズ)を刊行。 1926年(大正15年) 3月、夫婦で上海に1ヵ月ほど滞在し、魯迅らと親交をかわす。 1927年(昭和2年) 国木田虎雄夫妻と上海に行き3ヵ月ほど滞在。横光利一とも合流して交流を深める。この間に三千代が美術評論家の土方定一と恋愛関係に陥る。5月、詩集『鱶沈む』(有明社出版部、森三千代との共著)を刊行。 1928年(昭和3年) 小説『芳蘭』を第1回改造懸賞小説に応募したが、横光利一の支持を得たものの次点となり、これを機に小説から離れる。9月、三千代との関係を打開するため、アジア・ヨーロッパの旅に出発。はじめの3ヵ月ほどは大阪に滞在し、後に長崎から上海に渡る(上海にはこれより5ヶ月に渡って滞在)。 1929年(昭和4年) 上海で風俗画の展覧会を開いて旅費を調達し、香港へ渡る。のちにシンガポールでも風景小品画展を開き、ジャカルタ、ジャワ島へ旅行。11月、一人分のパリまでの旅費が貯まり、三千代を先に旅立たせる。 1930年(昭和5年) 1月、パリで三千代と合流し、額縁造り、旅客の荷箱作り、行商等で生計をつなぐ。のちに金子は「無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやった」と当時の生活について述べている。 1931年(昭和6年) パリを離れ、ブリュッセルのイヴァン・ルパージュのもとへ身を寄せる。日本画の展覧会を開いて旅費を得、三千代を残してシンガポールへ渡る。 1932年(昭和7年) 4ヵ月ほどマレー半島を旅行する。三千代は4月に単身で帰国し、6月には光晴も帰国。実妹の設立した化粧品会社(モンココ洗粉本舗)で働き生活費を得る。 1933年(昭和8年) 山之口貘との交友がはじまる。 1935年(昭和10年) 9月、『文藝』に「鮫」を発表。12月には『中央公論』に「灯台」を発表する。日本の社会体制への批判を込めた詩を次第に発表するようになる。喘息の発作で苦しむことが多くなる。 1937年(昭和12年) 12月、三千代と中国北部を旅行し、日本軍の大陸進出に対する認識を深くする。8月、詩集『鮫』(人文社)を刊行。 1938年(昭和13年) 1月中旬、中国より帰国。3月、吉祥寺に転居する。 1940年(昭和15年) 10月、『マレー蘭印紀行』(山雅房)を刊行。 1941年(昭和16年) 4月、アンリ・フォコニエ『馬来』を訳(昭和書房)。7月、『エムデン最期の日』訳(昭和書房)を刊行。 1943年(昭和18年) 12月、『マライの健ちゃん』(中村書店)を刊行。 1944年(昭和19年) 4月、長男の乾が徴兵検査を受ける。11月、召集令状が届いた乾を戦地に送らせないため、気管支カタルを病んでいた乾を雨の中に立たせたりして発作を誘発しようとした。その結果、召集を免れる。12月、一家で山梨県の山中湖畔に疎開(この頃、後に『落下傘』で発表する作品群を制作)。 1945年(昭和20年) 再度乾に召集令状が届くが、診断書を持って係官と掛け合い、延期させる。 1946年(昭和21年) 3月、疎開先より吉祥寺に戻る。『コスモス』の同人となる。 1948年(昭和23年) 詩人志望の大河内令子と恋愛関係になり、この後三千代との間で、離婚と入籍を繰り返す。4月に詩集『落下傘』(日本未来派発行所)、9月には詩集『蛾』(北斗書院)を刊行。 1949年(昭和24年) 三千代が関節リウマチに罹り、闘病生活を送る。5月に詩集『女たちのエレジー』(創元社)、12月には詩集『鬼の児の唄』(十字屋書店)を刊行。 1950年(昭和25年) 6月、『かえれ湖』(文林社)を刊行。 1951年(昭和26年) 4月に『金子光晴詩集』(創元社)、6月には詩集『アラゴン詩集』訳(創元社)を刊行。 1952年(昭和27年) 5月に詩集『悪の華』(宝文社)、12月には詩集『人間の悲劇』(創元社)を刊行。 1954年(昭和29年) 1月、『人間の悲劇』で第5回読売文学賞を受賞する。6月、『現代詩の鑑賞』(河出書房)を刊行。 1955年(昭和30年) 7月、三千代とともに札幌医大文芸部主催の会で講演する。1月、詩集『非情』(新潮社)を刊行。 1956年(昭和31年) 5月、詩集『水勢』(東京創元社)を刊行。 1957年(昭和32年) 8月、自伝『詩人』(平凡社)を刊行。 1959年(昭和34年) 10月に『日本人について』(春秋社)、12月には『日本の芸術について』(春秋社)を刊行。 1960年(昭和35年) 7月、書肆ユリイカより『金子光晴全集(全5巻)』第1巻を刊行。 1962年(昭和37年) 7月、『屁のような歌』(思潮社)を刊行。 1963年(昭和38年) 3月より1971年の8月まで、『金子光晴全集』第2~第5巻が昭森社より刊行される。7月、山之口貘の葬儀委員長を務める。 1964年(昭和39年) 6月、孫の若葉が生まれる。同人雑誌『あいなめ』に参加し、中心的存在となる。同人には桜井滋人・新谷行などがいる。 1965年(昭和49年) 三千代と3度目の離婚届を提出する。5月に詩集『IL』(勁草書房)、9月には『絶望の精神史』(光文社)を刊行。 1967年(昭和42年) 2月に『日本人の悲劇』(富士書院)、4月に詩集『若葉のうた』(勁草書房)、6月に『定本金子光晴詩集』(筑摩書房)、7月に『ランボオ詩集』(角川書店)を刊行。 1968年(昭和43年) 7月に評論・随筆集『残酷と非情』(川島書店)、10月に詩集『愛情69』(筑摩書房)、12月には『作詩法入門』(久保書店)を刊行。 1969年(昭和44年) 5月、軽い脳溢血により片腕が利かなくなり、2ヵ月ほど河北病院に入院する。10月に詩集『よごれてゐない一日』(あいなめ会)、12月には『金子光晴文学断想』(冬樹社)を刊行。 1971年(昭和46年) 4月、詩集『桜桃梅李』(虎見書房)、5月、『どくろ杯』(中央公論社)、6月、『新雑事秘辛』(濤書房)、『人非人伝』(大光社)、9月、『風流尸解記』(青娥書房)、『金子光晴全集』第5巻(最終巻)を刊行。 1972年(昭和47年) 3月、『風流尸解記』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する。 1973年(昭和48年) 4月、『天邪鬼』(大和書房)を刊行。5月、荻窪のシミズ画廊で金子光晴展を開く。また、雑誌「みづゑ」に、「ベルギーの象徴絵画」というエッセーを寄稿。7月、京都へ旅行。9月、詩集『花とあきビン』(青娥書房)、『愛と詩のものがたり』(サンリオ出版)。10月、『ねむれ巴里』(中央公論社)を刊行。 1974年(昭和49年) 4月、『人よ、寛かなれ』(青娥書房)、『金子光晴自選詩画集』(五月書房)。7月から雑誌『面白半分』の編集長を半年務める。この頃、雑誌『面白半分』で金子の特異なキャラクターが若者に知られ、「エロじいさん」キャラで若者の間の教祖的な存在となる。11月、『西ひがし』(中央公論社)を刊行。解説『平凡社ギャラリー 18 英泉』(平凡社)を刊。 1975年(昭和50年) 1月、『ほりだしもの』(大和書房)。2月より『金子光晴全集』が刊行開始(全15巻、中央公論社、1977年の1月まで)。4月、遺書をしたためる。『金子光晴(日本の詩)』(ぽるぷ出版)。6月30日午前11時30分、気管支喘息による急性心不全により武蔵野市吉祥寺本町の自宅で死去。7月5日、千日谷会堂にて告別式が行われる。 1977年(昭和52年) 6月29日、森三千代が死去。7月に『回想の詩人たち』(冬樹社)、8月『金子光晴下駄ばき対談』(現代書館、新版1995年)、詩集『塵芥』(いんなあとりっぷ社)、『私の詩論』(冬樹社)、9月、『鳥は巣に・六道』(角川書店)。11月、『樹懶』(河出書房新社)、『這えば立て』(大和書房)を刊行。 著作
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kaneko mitsuharu
金子光晴と同じ誕生日12月25日生まれ、同じ愛知出身の人
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