高田渡の情報(たかだわたる) シンガー ソングライター 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]
高田 渡さんについて調べます
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高田渡と関係のある人
添田唖蝉坊: 1960年代以降、高石ともや、高田渡ら日本のフォークシンガーが唖蝉坊の歌を歌っている。とくに高田渡は、アメリカのフォークソングの曲に唖蝉坊の歌詞を載せるという実験的なことを成し得た。高田渡の弟子であるなぎら健壱は、唖蝉坊の孫弟子にあたる桜井敏雄に入門した。 鈴木慶一: 音楽プロデューサーとしてはPANTA & HAL、野宮真貴、杏里、糸井重里、藤真利子、クリス、原田知世、あがた森魚およびヴァージンVS、ハルメンズ、カーネーション、ISSAY、渡辺美奈代、桐島かれん(高橋幸宏と共同)、cali≠gari、高田渡、ceroなどのアルバムを手がけている。 タナダユキ: 2004年にはフォークシンガーである高田渡のドキュメンタリー『タカダワタル的』の監督を務め、東京国際映画祭で特別招待作品として上映される。 生田敬太郎: 1976年、なぎら健壱が友人たちを集めてレコーディングしたライヴアルバムに、タモリ、友部正人、高田渡、斉藤哲夫、渡辺勝、大塚まさじらと参加。 なぎら健壱: 同じくフォークソング世代でフォークソング好きで吉田拓郎ファンであるTHE ALFEEの坂崎幸之助と『フォーク喫茶ジャンボリー』なる番組を中津川渡(中津川フォークジャンボリーと高田渡が由来)なる喫茶店のマスターと言う設定でやった事がある。 黒沢進: ただし別格だったのが、早川義夫と高田渡だったといい、自著に特に好んでジャックスを取り上げたり、1970年代の所謂URC系フォークに関しても数多くの評論を残したのは、この辺りに由来する。 ハシケン: 高田渡『石』トリビュート(2006年) - 高田渡の「正午」をカバー。 坂庭省悟: この時期から、宮崎勝之、「ウェバリー・ブラザース」(中川イサト、高田渡、坂庭)、「ヒューマン ズー」(きたやまおさむ・平井宏・兼松豊・赤木一孝・松崎博彦・坂庭・進藤了彦・城田)などさまざまなミュージシャンとのセッションを開始する。 友部正人: 西岡恭蔵、大塚まさじらと出会い、高田渡を通して喫茶店に通い古書店で詩集を読む生活をする。 松田幸一: 高田渡 なぎら健壱: 後に五つの赤い風船の西岡たかしや、高田渡に影響を受ける。 小室等: 高田渡 & ヒルトップ・ストリングス・バンド なぎら健壱: 1976年日本青年館での実況録音盤『永遠の絆』は、司会のタモリ、生田敬太郎、大塚まさじ、加川良、斉藤哲夫、シバ、高田渡、よしだよしこ、渡辺勝らが盛り立てた。 忌野清志郎: ただし、いかにドギツイ歌詞の場合も高田渡のように諧謔精神を忘れなかった。 中村とうよう: 1974年1月25日に読売ホールで行われたジャック・エリオットのコンサートに、前座として出演した「アーリー・タイムス・ストリングス・バンド(高田渡、友部正人、加川良)」、なぎら健壱らに対して、中村が「ジャック・エリオットはいいが、前座の◯◯や◯◯はまるでなってない、あんな連中は出すことはない」というようなことを名指しで某雑誌に書いたことに腹を立てた高田渡が、『新譜ジャーナル』に「評論家のセンセイ方は、ボクたちの音楽をいじめることに生き甲斐を感じているんじゃないか」と反論を書いた。それがきっかけで『新譜ジャーナル』にて高田渡との対談を組んだ。 小坂一也: 斎木・徳武コンビは高田渡が歌った1993年のハウスシチューCM「ホントはみんな」の作者でもある。 大津光央: 高田渡が亡くなる直前の札幌でのライブに、前座として同行していた。 三木卓: 「系図」という詩は、高田渡により作曲、歌われ、ボンゾズがカヴァーしている。 高田漣: 1970年代 - 加川良のアルバム『アウト・オブ・マインド』や、吉田拓郎の楽曲「彩たん」の歌詞、フォークシンガーである父・高田渡の『FISHIN ON SUNDAY』などの歌詞や、泣き声などでも登場していた。 いしかわじゅん: 若い時代は、飲み屋兼ライブハウス、「ぐゎらん堂」の常連でもあり、高田渡らとも交際があった。 遠藤賢司: 高田渡、南正人らと東京でアマチュアシンガーとして交流。 友部正人: 実在の人物をモチーフにした楽曲も多く、フォークシンガーでは、田中研二のことを歌った「田中さんとぼく」や豊田勇造のことを歌った「遠来」、高田渡のことを歌った「朝の電話」、その他に詩人である金子光晴のことを歌った「絵はがき」、伝説的漫画雑誌「ガロ」の創始者長井勝一のことを歌った「長井さん」などがある。 坂庭省悟: 高田渡 小池真理子: 一番好きなフォークは高田渡の「自衛隊に入ろう」という。 五十嵐浩晃: 2003年(平成15年)7月、いわみざわ公園野外音楽堂キタオンにて行われた「フォークジャンボリー2003inいわみざわ」にイルカ、座・ジローズ、高田渡、BEGINと共に出演。 山本コウタロー: 1971年、ソルティー・シュガー解散後、高田渡、シバらとともに武蔵野タンポポ団のメンバーとして、第3回全日本フォークジャンボリーに参加。 ボブ=ディラン: ディラン・ファンのフォーク歌手は1960年代から岡林信康、高田渡、加川良などかなりの人数がいた。 遠藤賢司: また、他のミュージシャンのレコーディングにも参加しており、休みの国、高田渡、あがた森魚、かまやつひろしなどの作品でも、彼の演奏や歌を聴くことができる。 鈴木慶一: ライブのみではロウガンズ(泉谷しげる、どんと、高田渡)、大江戸兄弟(友田真吾)、野宮真貴とのユニットなど多数。 南正人: 高田渡、遠藤賢司、真崎義博らと日本語フォーク・ソングのチーム「アゴラ」に参加し、東京を拠点に活動する。 |
高田渡の情報まとめ
高田 渡(たかだ わたる)さんの誕生日は1949年1月1日です。岐阜出身のシンガー ソングライターのようです。
兄弟、事件、引退、結婚、父親、映画に関する情報もありますね。2005年に亡くなられているようです。
高田渡のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)高田 渡(たかだ わたる、1949年〈昭和24年〉1月1日 - 2005年〈平成17年〉4月16日)は、日本のフォークシンガー。 使用楽器はギター、マンドリン、オートハープ。1969年以降の関西フォークムーブメントの中心人物として活躍した。 岐阜県北方町出身、祖父は篤志家として知られ、材木商を営む資産家だったが、美濃の大震災や株の失敗で財を失う。渡は4人兄弟の末子として生まれるが、8歳のときに母が死去。父、高田豊は息子たちを連れて東京へ宛てなく旅立ち、東京都深川の援護施設やアパートで貧困生活を送る。のちに三鷹に落ち着くが、早くに父も亡くなる。中卒であかつき印刷に就職、佐賀県鹿島市の親戚の家での生活、新宿での一人暮らし、東京都立市ヶ谷商業高等学校夜間部への通学などを経て、フォークシンガーとなる。なお、この場合のフォークソングとは、日本の伝統的な民謡の歌手という意味ではない。 ごく初期の頃は詩作もしたが、次第に山之口貘、金子光晴、草野心平、石原吉郎らの現代詩をアメリカの曲にのせる手法を採るようになった。また、添田唖蝉坊や添田知道の明治演歌を自己流に作品化している。「大・ダイジェスト盤 三億円強奪事件の唄」や「自衛隊に入ろう」「東京フォークゲリラの諸君達を語る」「事だよ」など、時事の話題を辛辣に滑稽に取り上げ、皮肉たっぷりの作風は大いに客を惹きつけた。自衛隊は一時、「自衛隊に入ろう」を、本当に自衛隊への入隊を勧誘していると勘違いしていた。しかし時事的で直接的な表現による曲は次第に歌わなくなった。その後は「正面切って自分の主張をぶつけるよりも、自分の日常生活をそのまま歌うことが最高のプロテストソングではないか」と考えるようになり、「生活の柄」「夕暮れ」「仕事さがし」などの楽曲が生まれている。 吃音があり、幼少期は声が自然に出てこなかったが、歌うことにより克服した。また少年期からいくつかの持病があり、病院に通っていた。「人間は、なにかコンプレックスがあると、ほかの方法でそれを乗り越えようとする。その方法というのが僕にとっては歌だったのかもしれない」と著書で語っている。決して偉ぶらず、対等な関係を維持していた。ゆえに高田を師と慕う者は、同時に友人であるとも語る。 ギター演奏の名手であり、マンドリンやバンジョー、オートハープまで弾きこなすが、演奏する楽器の音は、あくまで歌の伴奏であるべきと考えていた。自らが決して恵まれない境遇から出発した人生であり、また覚悟を決めたアーティスト活動だったこともあり、岩井宏や早川義夫など、途中で音楽活動を引退しようとした仲間には、「いま辞めるのは卑怯だ」と喝破した。 加川良は「下宿屋」という曲で、高田の理念や信念を題材として採り上げている。遠藤賢司は自身のブログで、晩年の高田が酒を飲んでステージ上で寝てしまうエピソードを面白半分に採り上げられたことは残念であると綴っている。 1949年、岐阜県本巣郡北方町で生まれる。 1957年、闘病中の母が永眠し、父・高田豊は屋敷を畳み、四人の息子たちを連れて宛てなく東京へ向かう。貧困生活の中、住処を転々とする。 1958年、深川の生活困窮者施設に暮らす。 1959年、豊と兄の努力によって生活保護から自立し、同じく深川のアパートに引っ越す。 1962年、高田家が三鷹に引っ越す。ここが豊にとっての終の住処となり、渡が京都時代を経て再び戻ってくるホームタウンとなる。 1964年、中卒後、あかつき印刷に文選工として就職。民青に所属。社内のバンドでウクレレ担当となり、これが初めて弾いた楽器であった。ソ連に行きたいと考え、日ソ学院に通い、ロシア語を学ぶ。 1966年、音楽評論家の三橋一夫からアメリカ民謡や明治演歌についての教えを受ける。アメリカでフォークソングの勉強をしようと考え、ピート・シーガーに手紙を送り、返事をもらう。その他にも灰田勝彦のバンジョー教室に通ったり、うたごえ喫茶「灯火」で上條恒彦から歌唱指導を受けたりと、着々とフォークシンガーへの道を歩んでいく。当時、高田は「マイフレンド」というノートを唯一の友として、ノートに話しかけるかたちで日記や詩や音楽への考えなどを綴っていた。このノートは、2015年に息子の漣の編集によって出版された。 1967年、父・豊が永眠。両親を喪くし、佐賀の親戚の家に引越した高田は、高校に通いながらフォークシンガーになるための勉強を続けるが、数ヶ月で東京に戻ってくる。新宿若松町で一人暮らしを始め、昼はアルバイト、夜は市ヶ谷商業高校定時制に通いながら、曲作りの日々を送る。ピート・シーガーから再び手紙をもらい、来日した際に面会し、コンサートの招待券を受け取る。 1968年、四谷の野村ビル会議室で初めてフォークシンガーとして歌う。菅沼宏、遠藤賢司、南正人、金子章平(後に音楽プロデューサーとして活動)、真崎義博(ボロディラン)らと東京でアマチュアシンガーの集団「アゴラ」として活動。東京ではまだモダン・フォークのPPM、ブラザーズ・フォアなどをそのまま英語コピーしたカレッジ・フォークが主流の頃、路上や反戦集会で歌を歌っていた彼らは日本語で歌うことを意識して活動していた。同年5月には第1回コンサートを開く。その後、遠藤賢司と高石事務所へ。第3回関西フォークキャンプ(8月9日-11日、京都・山崎「宝寺」)に参加。「自衛隊に入ろう」や「事だよ」を歌い、観客に衝撃を与える。 1969年、フォークソングの潮流の源であった関西に拠点を移す。高石事務所に所属し、京都山科の下宿で暮らす。高石ともや、岡林信康、中川五郎、早川義夫、加川良、岩井宏、ひがしのひとし、古川豪、藤村直樹らと関西フォーク・ムーブメントの中心的存在となる。しかし、カテゴライズされることを嫌い、まったく独自の存在感と主張を貫いた。 高石事務所が運営するURCレコードから五つの赤い風船とのカップリングアルバムでレコードデビュー。そのほか、LPは『汽車が田舎を通るそのとき』、シングルは「大・ダイジェスト版 三億円強奪事件の唄」「転身」「自衛隊に入ろう」と、通算2枚のLPと3枚のシングル盤をリリースし、ライブ活動の仕事も潤沢にあったが、事務所の不正が発覚した際、抗議して契約解除になる。これは高田本人への不正ではなく、五つの赤い風船へのギャラのダンピングであった。フリーになると仕事は激減したが、しばらく京都でアルバイトをしながら活動する。翌年、高石事務所は音楽舎となる。 1970年、第2回全日本フォークジャンボリーでは、ヒッチハイクで東京に来たブルースシンガーのシバや、アート音楽出版にいた加川良をステージに上げ、二人のデビューを手伝っている。このとき、キングレコードの三浦光紀と出会い、東京での再出発に繋がる。 1971年、京都で結婚した妻とともに、父親の終の住処であった東京の三鷹に戻る。キングレコードが新たにつくったレーベルであるベルウッド・レコードから、『ファーストアルバム ごあいさつ』をリリース。また、URCからはお年玉規格シングルとして、西岡たかしとのカップリングで「大ダイジェスト版 三億円強奪事件の唄」の実況録音版を再発表。 シバの紹介で、吉祥寺のカフェ、ぐゎらん堂に入り浸るようになり、友部正人、佐藤GWAN博、林ヒロシ、林亭(佐久間順平・大江田信)らとともに「吉祥寺派フォーク」と呼ばれ、その親分肌の性格から中心人物となる。ぐゎらん堂には、青林堂の初代社長、長井勝一や、詩人の金子光晴も店を訪れている。 1971年の第3回全日本フォークジャンボリーに、ジャグ・バンド「武蔵野タンポポ団」として出演。シバ、中川イサト、山本コウタローらが参加。一度限りの結成のつもりだったが人気に火がつき、その後も旅回りをする。ライブ録音は、『武蔵野タンポポ団の伝説』『もうひとつの伝説』としてベルウッドからリリース。またこのとき、ジャンボリー会場の脇で歌っていたいとうたかおを加川良が見出し、高田に紹介。いとうたかおのデビューに繋がる。 1972年、『系図』では、武蔵野タンポポ団とともにレコーディング。いとうたかおの「あしたはきっと」が収録される。23歳の高田らを撮影したドキュメンタリー映画「吉祥寺発 赤い電車」公開。 1973年、薗田憲一(薗田憲一とディキシーキングス)、柳田ヒロとともに『石』をリリース。 1974年、加川のアルバム『アウト・オブ・マインド』の「子守唄を歌えない親父達のために」にボーカルで参加。 1975年、細野晴臣、中川イサトとのトリオ編成でロサンゼルスで録音。現地で偶然出会ったヴァン・ダイク・パークスや山岸潤史も参加。 1976年、細野、中川らと前年に録音した『FISHIN' ON SUNDAY』をリリース。佐久間順平、テナーバンジョーの小林清、ベースの大庭昌浩との四人編成で活動を始める。なぎら健壱の『さすらいのばくち打ち』『永遠の絆 なぎらけんいちリサイタル LIVE AT 日本青年館』に参加。春一番コンサート、ホーボーズコンサートなどに参加。 1977年、佐久間順平らとのバンドを「ヒルトップ・ストリングスバンド」と命名。フォーライフ・レコードから、小室等のプロデュースにより、『ヴァーボン・ストリート・ブルース』をリリース。 1983年、『ねこのねごと』をリリース。 1986年、ヨーロッパに四十日間ほど旅をする。 1989年、第四回全日本フォークジャンボリーが開催され、アンジー、有頂天、ラフィンノーズらと共演。若い世代の観客たちが唯一、高田にアンコールを求めた。 1980年代には、黎明期から活動しているフォークシンガーの多くは仕事が激減し、副業を持ったりして当座をしのいだ。高田渡も一時、築地の魚市場で働いていた。 1991年、大西功一監督の映画「吉祥寺夢影」に主人公の父親役で出演。 1993年、鈴木慶一のプロデュースにより、アルバム『渡』をリリース。10年ぶりのアルバム。 1997年、市川準監督の映画「東京夜曲」の主題歌に、高田の「さびしいといま」が使われる。これは『渡』に収録されていた楽曲だが、シングルカットもされた。また、小林政広監督の映画「とどかずの町で Northern Song」に出演。小林政広は、かつて林ヒロシという芸名で音楽活動をしており、高田の弟子である。 1998年、『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に出演。井上陽水からのお友達紹介で、高田は鈴木慶一を紹介した。三日後には遠藤賢司(遠藤賢司は曽我部恵一が紹介した)が出演。後日、井上、タモリと銀座酒席をもうける。金城恵子とのデュエットで、「よろん小唄(十九の春) / ラッパ節」をリリース。「Mushroom a Go Go!」に怖とのデュエットで、大瀧詠一のカバーである「それはぼくじゃないよ」に参加。西岡恭蔵の妻で作詞家のKUROのトリビュート盤『KUROちゃんを歌う』に「Good Night」で参加。 1999年、佐渡山豊や大工哲弘とともに、山之口貘の詩を歌った楽曲をまとめたアルバム『貘』をリリース。「やっと貘さんに逢えた様な気がしています」とコメントする。二枚組のライヴアルバム『ベストライブ』をリリース。小林政広の「海賊版=BOOTLEG FILM」の音楽と主題歌を担当。 2000年、友部正人プロデュースの詩の朗読のアルバム『no media1』に、「今日はとても良い日だ」で参加。 2001年、『日本に来た外国詩…。』リリース。佐藤GWAN博のアルバム『星空』に参加。唯一のエッセイ集「バーボン・ストリート・ブルース」を刊行。 2004年、高田の日常とライヴ映像を撮影したドキュメンタリー映画「タカダワタル的」が公開される。『高田渡トリビュート』に1曲のみ参加。このときの「調査節」が最後の録音となる。 2005年4月3日、北海道白糠町でのライブ終了後に倒れ、隣の釧路市内の病院に入院。同月16日午前1時22分、入院先の病院で心不全により死去した。56歳没。葬儀のミサはカトリック吉祥寺教会で執り行われ、筑紫哲也が葬儀委員長を務めた。小金井公会堂で開かれた「高田渡を送る会」では、多くのミュージシャンや俳優、アーティストたちがひとりずつ壇上に上がり、歌を歌ったり思い出を語った。出演者は、シバ、柄本明、高田漣、笑福亭鶴瓶、加川良、なぎら健壱、坂崎幸之助、中山ラビ、井上陽水、遠藤賢司、山崎ハコ、シーナ&ロケッツ、杉田二郎、みなみらんぼう、スズキコージほか多数。 2006年、『高田渡 高田漣 27/03/03』がリリース。 2008年、「タカダワタル的」に続くドキュメンタリー映画「タカダワタル的ゼロ」公開。2001年の大晦日にザ・スズナリで行われた泉谷しげるとのライブ映像が中心となっている。さまざまな時期のライブ録音を収録したアルバム『高田渡、旅の記録 上巻』リリース。 2009年、『高田渡、旅の記録 下巻』がリリース。 2012年、『ゴールデン☆ベスト』が発売され、コアなファンでないリスナーにも高田の歌が届きやすくなる。 高田渡BOX(2004年2月25日、ベルウッド / キングレコード、BZCS-9004/6) タカダワタル的(2004年6月12日、アルタミラミュージック、AM-1001/2) タカダワタル的(追悼愛蔵盤)(2005年4月30日、アルタミラミュージック、AM-1001A) 高田渡アンソロジー(2006年3月29日、avex io、IOCD-40120) ゴールデン☆ベスト(2012年11月28日、ウルトラ・ヴァイヴ、CDSOL-1501) イキテル・ソング〜オールタイム・ベスト〜(2015年4月15日、キングレコード、KICS-3177) Best Live(1999年1月20日、アゲント・コンシピオ、AGCA10014) 高田渡 高田漣 27/03/03(2006年4月12日、Long Happiness、HRAD-00011)- 高田漣と 高田渡、旅の記録 上巻(2008年5月10日、アルタミラミュージック、AM-9/10) 高田渡、旅の記録 下巻(2009年5月20日、アルタミラミュージック、AM-11) ロック・ソサエティ・ウラワ (1973 第2回RSU音楽祭)(2019年12月18日、Super Fuji Discs、FJ-161) 早川義夫「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」(1969年、URC)シャンソン(作詞) 岡林信康「岡林信康コンサート」(1970年、URC) 「春一番コンサート・ライブ!」(1972) 「唖蝉坊は生きている」(1973年、ベルウッド / キングレコード) 岩井宏「30才」(1973年、ベルウッド / キングレコード)小さな歯車に油をさそう(作詞) 加川良「アウト・オブ・マインド」(1974年、ベルウッド / キングレコード)子守唄を歌えない親父達のために(vocal) 小室等「70年9月16日 小室等コンサート」(1975年、ベルウッド / キングレコード) なぎらけんいち
「永遠の絆 なぎらけんいちリサイタル LIVE AT 日本青年館」(1976年、ワーナー・パイオニア) 「1974 HOBO'S CONCERTS ~見えないボールを投げる~」(1976年) さとう宗幸「バラ色の人生」(1976年、自主制作盤) 岡林信康「幻のフォークライブ傑作集 岡林信康ファースト・コンサート ”MOVEMENT”」(1979年、URC / SMS Record)「自衛隊に入ろう」 「ASAKUSA DOWN TOWN FESTIVAL 1982.3.31~4.11」(1982年、ツーパーワンレコード) 「武蔵野フォークジャンボリー'84」(1984) 「武蔵野フォークジャンボリー'85」(1986) 「Mushroom a Go Go!」(1998年、HOREN)それはぼくぢゃないよ(vocal) 「KUROちゃんをうたう」(1998年、ユニバーサルミュージック)Good Night(vocal) 「貘」(1999年、B/C RECORD)(vocal/Guitar/監修) 「no media 1」(2000年、ミディ)今日はとても良い日だ(詩の朗読) 佐藤GWAN博「星空」(2001年、Seals Records) オクノ修「帰ろう」(2001年、Friends Label)ライナーノーツ シバ「シバ、高田渡を歌う」(2003年、Seals Records)ライナーノーツ 「高田渡トリビュート」(2004年 )調査節(vocal) はっぴいえんどBOX(2004年)自転車に乗って(Vocal/Guitar) 佐久間順平「最初の花」(2004年、Ren's records)ライナーノーツ 「春一番ライブ '72」(2004) 「春一番ライブ '73」(2004) 「春一番ライブ '74」(2004) 「春一番ライブ '75/'76」(2004) 「春一番ライブ '77/'78」(2004) 個人的理由 バーボン・ストリート・ブルース(2001年 山と渓谷社 / 2008年 ちくま文庫) マイ・フレンド: 高田渡青春日記 1966-1969(2015年 河出書房新社) 「高田渡(新譜ジャーナル別冊)」(自由国民社) 「高田渡の世界(新譜ジャーナル別冊)」(1974年 自由国民社) 長谷川集平「絵本未満」(1990年 大和書房) ゲッツ板谷「わらしべ偉人伝」(2003年 扶桑社) 「ぐるり 創刊号」(2004年 ビレッジプレス) 「たのしい中央線」(2005年 太田出版) 「酔客万来」(2007年 2012年 酒とつまみ社) 「松本隆対談集 風街茶房 1971-2004」(2017年 立東舎) 新譜ジャーナル 月刊カメラマン 三橋一夫ほか「われらフォーク世代」(1975年 荒地出版社) 友部正人「ジュークボックスに住む詩人 2」(2007年 思潮社) なぎら健壱「日本フォーク私的大全」(1995年 筑摩書房 / 1999年 ちくま文庫) 筑紫哲也「旅の途中―ジャーナリストとしての私をつくった39人との出会い」(2005年 朝日新聞出版) 「アコースティックギターマガジン Vol.27 」(2006年 リットーミュージック) 「高田渡読本(CDジャーナルムック)」(2007年5月 音楽出版社) 本間健彦「高田渡と父・豊の『生活の柄』」(2009年12月 社会評論社) 「こだわり人物伝 2010年2月-3月(NHK知る楽/水)」(2010年1月 NHK出版) 「雲遊天下 121 特集:高田渡と」(2015年 ビレッジプレス) 本間健彦「高田渡と父・豊の『生活の柄』--増補改訂版」(2016年5月 社会評論社) 「雲遊天下 125 特集:高田渡の夜」(2017年 ビレッジプレス) なぎら健壱「高田渡に会いに行く」(2021年 駒草出版) 高田漣「ギターというモノ/ギタリストというヒト プルースト、ベイトソン、ソンタグ、高田渡」(2022年 DU BOOKS) 吉祥寺発・赤い電車(1972年)出演 吉祥寺夢影(1991年)出演 とどかずの町で Northern Song(1997年)出演 海賊版=BOOTLEG FILM(1999年)音楽・主題歌 赤い橋の下のぬるい水(2001年)出演 タカダワタル的(2004年)出演・音楽 フリック(2004年)出演・主題歌 タカダワタル的ゼロ(2008年)出演・音楽 まるでいつもの夜みたいに(2017年)出演・音楽 ^ 高田渡『マイフレンド 高田渡青春日記 1966-1969』(河出書房新社) ^ 本日4月16日は高田渡の命日~彼が生きていたらどんな歌を歌うのだろうニッポン放送NEWS ONLINE 編集部 2018年4月18日配信 2021年12月17日閲覧。 ^ 高田渡 | NHK人物録NHK 2021年12月18日閲覧。 ^ 高田渡『バーボン・ストリート・ブルース』(ちくま文庫) ^ 遠藤賢司ブログ館「名歌手高田渡」) ^ 高田渡『バーボン・ストリート・ブルース』(ちくま文庫)。 ^ ぐるり 創刊号(ビレッジ・プレス) ^ 映画『タカダワタル的ゼロ』 2022年2月8日閲覧 ^ 本間健彦「高田渡と父・豊の『生活の柄』」(社会評論社) ^ 「高田渡氏死去/フォーク歌手」『四国新聞』2005年4月16日。2021年7月23日閲覧。 ^ 高田渡的 2022年2月28日閲覧 ^ 市川準監督映画「東京夜曲」の主題歌。 ^ 金城恵子とのデュエット。 加川良 金子光晴 山之口貘 添田唖蝉坊 添田知道 ブルーグラス 映画『タカダワタル的ゼロ』 映画『タカダワタル的』 goo 映画 @nifty 映画作品情報 高田渡 - NHK人物録 ISNI VIAF WorldCat フランス BnF data アメリカ 日本 CiNii Books CiNii Research MusicBrainz 日本の男性シンガーソングライター 日本のフォークシンガー 日本のカトリック教会の信者 岐阜県出身の人物 東京都立大田桜台高等学校出身の人物 心臓病で死亡した人物 1949年生 2005年没 ウィキデータと異なるNHK人物録ID ISNI識別子が指定されている記事 VIAF識別子が指定されている記事 WorldCat Entities識別子が指定されている記事 BNF識別子が指定されている記事 BNFdata識別子が指定されている記事 LCCN識別子が指定されている記事 NDL識別子が指定されている記事 CINII識別子が指定されている記事 CRID識別子が指定されている記事 MusicBrainz識別子が指定されている記事
2024/11/19 21:54更新
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