もしもし情報局 > 1941年 > 12月9日 > 歌手

高石ともやの情報 (たかいしともや)
芸能人・有名人Wiki検索(誕生日、出身地)

【11月22日】今日誕生日の芸能人・有名人

高石ともやの情報(たかいしともや) 歌手 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア
もしもしロボ

高石 ともやさんについて調べます

■名前・氏名
高石 ともや
(読み:たかいし ともや)
■職業
歌手
■高石ともやの誕生日・生年月日
1941年12月9日 (年齢2024年没)
巳年(へび年)、射手座(いて座)
■出身地・都道府県
北海道出身

(昭和16年)1941年生まれの人の年齢早見表

高石ともやと同じ1941年生まれの有名人・芸能人

高石ともやと同じ12月9日生まれの有名人・芸能人

高石ともやと同じ出身地北海道生まれの有名人・芸能人


高石ともやと関係のある人

岡林信康: ギターを始めたのは、高石ともやがきっかけではなく、浪人していた頃友達がギターを置かしてくれと持って来たのを、その友達に「ギターにはコードっていうのがあって、コードはこうやって弾くんだよ」と教えてもらい、これでグループサウンズの歌なんかができるんだぞって言われ、弾き語りをしたり、作曲をしたりしたと言う。加山雄三に影響を受けてギター始めたっていうのは格好悪いから、いちいち訂正はしていないが、本格的にやり始めたのは高石ともやを聴いてから。


有森裕子: 「自分で自分をほめたい」という言葉はフォーク歌手高石ともやが書いた詩の一節を引用したもので、この詩を初めて聞いたとき涙を流して感動し、いつかこの言葉を言いたいと暖めていたもので、その年の流行語大賞に選ばれた。


木田高介: また、田宮二郎が国際線旅客機の機長に扮して一世を風靡したTBS系テレビドラマ「白い滑走路」の音楽を担当したり、渥美清が主演した読売テレビ制作テレビドラマ「こんな男でよかったら」(渥美清自身の歌唱)の同名主題歌の作曲を高石ともやと共に担当し、アレンジも手掛けた。


山際淳司: 大学在学中、『別冊経済評論』1972年5月号に『高石ともやの歌(フォーク)と心(ハート)』と『言語と感性』の2本のルポを発表し文筆活動を開始。


道上洋三: また、シンガーソングライターの高石ともやとも、長年にわたって交流を続けている。


南正人: 他出演者に高石ともや、岡林信康、中川五郎、豊田勇造、中山ラビなど。


坂庭省悟: 「クライマックス」解散後、真面目に大学に行こうと決心するも、1973年、城田が参加していた「高石ともや&ザ・ナターシャー・セブン」に参加。


添田唖蝉坊: 1960年代以降、高石ともや、高田渡ら日本のフォークシンガーが唖蝉坊の歌を歌っている。


道上洋三: しかし、レギュラーゲストである高石ともやの勧めで、1981年12月に130名のリスナーとホノルルマラソンへ出場。


サンプラザ中野くん: 『サンプラザ中野のオールナイトニッポン』で高石ともやの「受験生ブルース」を流した際、「8年も行ってる大学生」という歌詞に反応して「悪かったな!」と毒づいたことがある。


木田高介: 高石ともやとザ・ナターシャー・セブンに、アレンジャーとして応援参加の後、レコード会社の方針により1975年から正式メンバーとなる。


中川五郎: ゲストで来ていた高石ともやの歌に衝撃を受けた。


坂庭省悟: 1998年、17年振りに「高石ともや&ザ・ナターシャー・セブン」再会。


城田じゅんじ: 高石ともやとザ・ナターシャー・セブンの元メンバーとして、全国に名を知られるようになった。


岡林信康: 当時、岡林とともに高石ともや、高田渡、加川良、五つの赤い風船なども活躍し、プロテスト・フォーク、反戦フォークが若者の間でブームとなった。


遠藤賢司: 1968年8月、京都・山崎の宝寺で開催された「第3回フォークキャンプ」に初めて参加し、高石ともや、五つの赤い風船、加川良、ザ・フォーク・クルセダーズ、関西フォークの人々と知り合う。


坂庭省悟: 「高石ともや&ザ・ナターシャー・セブン」時代に坂庭賢享名義で、きたやま作詞の「戦争を知らない子供たち‘83」に曲をつけ、フォークス在籍時にシングル版を自主制作。


江越哲也: 高石ともやに影響を受け、高校時代からフォークバンドを結成して熊本県内で人気を得る。


吉田拓郎: 中川五郎は「1970年代に入ってフォーク・ソングが変わっていって、もちろん高石ともやさん、岡林信康さんとかの時代から乱暴な言い方をすれば吉田拓郎さんとかが出現して、井上陽水さん、かぐや姫とかフォーク・ソングがかなり違うものになって、呼び方もニューミュージックみたいになったりした。


諸口あきら: 諸口自身も、高石ともやの主宰で毎年7月の祇園祭の時期に開かれる「京都宵々山コンサート」に、歌手として出演することが恒例になっていた。


坂庭省悟: 高石ともや、杉田二郎、はしだのりひこらとともに関西フォークシンガーの旗手的な役割をなした。


高田渡: 高石ともや、岡林信康、中川五郎、早川義夫、加川良、岩井宏、ひがしのひとし、古川豪、藤村直樹らと関西フォーク・ムーブメントの中心的存在となる。


岡林信康: 熱心なキリスト教信者であったが、実家の教会の不良少女の扱い(お祈りをさせないなど)に疑問を感じ「脱出」、その後社会主義運動に身を投じる中で、高石ともやに出会いギターを始める。


井上陽水: この当時の陽水をよく知る高石ともやは、陽水の印象を「ギター1本で客ひとりひとりをねじ伏せるような歌だった。


玉井タエ: 作詞・作曲:高石ともや


高石ともやの情報まとめ

もしもしロボ

高石 ともや(たかいし ともや)さんの誕生日は1941年12月9日です。北海道出身の歌手のようです。

もしもしロボ

結婚、卒業、現在、引退、テレビ、映画、家族に関する情報もありますね。今年の情報もありました。2024年に亡くなられているようです。

高石ともやのプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

高石 ともや(たかいし ともや、高石 友也とも、本名・尻石 友也〈しりいし ともや〉、1941年〈昭和16年〉12月9日 - 2024年〈令和6年〉8月17日)は、日本のフォークシンガー。代表作は「受験生ブルース」。

1960年代後半の日本のフォークソングの創世期以来、2020年代まで現役フォークシンガーとして活動し、また、マラソンランナーとしても活躍した。

1960年代後半、全国各地でメッセージ・フォークを歌い、「受験生ブルース」などの話題作も発表。1970年代に入り、ブルーグラスやトラディショナル・フォーク、日本の民謡などを歌い始める。ザ・ナターシャー・セブンとして活動の他、宵々山コンサートを始める。

使用する楽器は、ギター、フィドル、バンジョー、ハーモニカ、オートハープ、ベース、ドブロ・ギター、マンドリン、トロンボーン、ボーラン(アイリッシュドラム)と多彩。

TVでは1980年代、NHK(中部地方)の番組「北陸東海」において、高石が東海・北陸7県を旅する「高石ともやの味な旅」に出演していた(なお番組出演者は後年、安田文吉(文さんの味な旅)を経て河島英五(英五のろまんちすと紀行)へと引き継がれている)。

ランナーとしても活躍し、国内外のマラソンやトライアスロンの大会にも数多く参加している。ホノルルマラソンには、第5回の1977年(36歳)の初参加以来、毎年連続出場している。

また、日本初のトライアスロン大会(第一回全日本トライアスロン皆生大会)にて優勝を飾っているほか、トランス・アメリカフットレース(アメリカ大陸横断レース)の第二回大会に参加し日本人初の完走者となっている。

1967年結婚。一女一男あり。長く京都市に在住。

琵琶湖ジョギングコンサートを27年続けていた。

2012年7月、これから先20年走るために、狭窄症の手術を受ける。手術は40歳の時の胆石の手術以来で2回目。2回とも北山修の勧めで手術することになった。

2024年8月17日、膵がんのため、京都市内の病院で死去した。82歳没。

1941年12月9日、北海道空知管内の雨竜郡雨竜町に生まれる。家業は鮮魚店。無類の音楽好きだった兄の影響を受け、小学生のころはジャズファンで、中学では内緒で兄のギターをいじっている内に、ギターの魅力にとりつかれた。北海道滝川高等学校に入学してからはスチール・ギターに熱中、同級生3人でハワイアン・バンドをつくった(マヒナスターズものをやっていたが、歌はダメだった)。二年生のときに吹奏楽部ができた際は真っ先に参加。高校卒業後、キリスト教に興味があったことと経済的な理由で、1960年に立教大学文学部日本文学科に入学(6年目に卒論「落語と落語家-その流れ」を、教授が毛筆で書いたら”優”をやるという理由で、全文毛筆で書き上げた)。学費を稼ぐため、新潟県赤倉スキー場や釜ヶ崎で土木作業員、エレベーターボーイ、氷の配達、屋台のラーメン屋、印刷屋、夜警、スキーのコーチ、家庭教師、清掃員などをやりつつ、ピート・シーガーやボブ・ディランらの歌を訳しフォークソングを歌い始める。1966年7月の大阪YMCAキャンプで初めて人前で歌い、1966年9月19日の大阪労音フォーク・ソング愛好会のコンサートが初ステージ。

1966年10月10日、アート・プロモーション主催のコンサート「第2回フォーク・フォーク・フォーク」に飛び入りで参加し、ここで秦政明に見出される。秦は高石を自宅に居候させ、マネジメントとプロモーションを始めた。

1966年11月頃より「高石友也」の名で活動を開始。各地の労働組合や学校のイベント、労音、反戦集会、などに出演し、社会運動の支援者やシンパを増やしていくかのように、高石とフォークソングを日本各地に広めていった。また、1966年12月20日、シングル「かごの鳥ブルース」でレコードデビュー。1967年4月28日、最初の「高石友也リサイタル」を毎日ホール(大阪)で開催する。同年7月29日、京都・高雄での第1回フォークキャンプに参加。

1967年9月、秦は『高石音楽事務所』(1970年1月に『音楽舎』に社名変更したが、これは事務所が呼び屋として海外から外タレなどの興行を打つとき、高石の名前があることで、商業ベースに走ると思われることを、高石が嫌がったためとされる)を開設。より本格的に高石のマネジメントを行う。また、イベントやコンサートの企画や開催、新たなアーティストの発掘を始めた。この高石事務所には、岡林信康、五つの赤い風船、中川五郎ら、関西フォーク陣の他、東京で活動していた高田渡、遠藤賢司、ジャックスも所属し、その中心人物であった高石は、フォークソング、関西フォーク、アングラ・フォークの元祖、旗手などとも呼ばれるようになる。

ボブ・ディランの「ノース・カントリー・ブルース」に、中川五郎が受験生を題材にした替え歌をのせて、中川自身のコンサートで歌っていた「受験生ブルース」に、高石が新たな曲を付けて、高石もコンサートで取り上げた。高石の「受験生ブルース」が1968年2月25日にレコード化されると、累計で90万枚の大ヒット。広く名が知られるようになる。

しかし、1969年12月7日 の冬眠コンサート(大阪・フェスティバルホール) を最後に、一旦、音楽活動を停止する。この背景には、過度なイベントやコンサートに追われ、また、反戦活動・学生運動と共にあったメッセージ・フォークを歌う者としての存在への疲弊感があったといわれる。

そして高石事務所も、1970年1月1日に音楽舎と社名を変更する。

高石は、フォークソングの原点を探し始める。1969年12月16日、福井県遠敷郡名田庄村(現在の大飯郡おおい町)に移り住み、年が明けた1月7日、一人アメリカへと渡る。アメリカを旅をする中、自然を基盤とした生活に目覚める。同年5月17日に帰国の後、音楽活動を再開。ブルーグラスやトラディショナル・フォーク、日本の民謡、あるいは自身の生活を歌い、特に野外でのコンサート活動を中心として全国各地を廻り始める。

1971年1月30日に「バックステップ・カントリーバンド」を結成。同年2月28日に「ザ・ナターシャー・セブン」と改名する。ザ・ナターシャー・セブンとしての活動は1984年頃まで続いた。また、1973年から永六輔らと始めた「宵々山コンサート」は京都の夏の風物詩となった。1977年からはヒューマン ズーに参加。

名田庄村には1982年まで住み、その後は京都市に移る。しかしスタイルは変わらず、今もフォークソングを歌い続けている。

1982年のホテルニュージャパンの火災でザ・ナターシャー・セブンを影で支えた榊原詩朗が死去し、心痛で引退も考えたという。

A面

想い出の赤いヤッケ

明日は知れない

白い傘

生きのこり

俺らの空は鉄板だ

かごの鳥ブルース

一人の手

B面

冷たい雨

小さな箱

死んだ女の子

学校で何を習ったの

死んだ男の残したものは

チューインガム一つ

ボーナス・トラック

かごの鳥ブルース(シングル・バージョン)

恋のノンキ節

想い出の赤いヤッケ(シングル・バージョン)

白い傘(シングル・バージョン)

A面

坊や大きくならないで

お捨てメリンダ

竹田の子守唄

ハッシュ・リトル・ベビィ

血まみれの鳩

明日なき世界

B面

ランブリン・ボーイ

北の国へ

労務者とは云え

おいで僕のベッドに

ときは流れる

青年は荒野をめざす

もしも平和になったなら

ボーナス・トラック

死んだ男の残したものは(その1)(シングル・バージョン)

死んだ男の残したものは(その2)(シングル・バージョン)

おいで僕のベッドへ(オーケストラ・バージョン)

イムジン河

A面

時代は変る

旅立つ人

お父帰れや

受験生ブルース

のんき節

橋を作ったのはこの俺だ

想い出の赤いヤッケ

B面

死んだ男の残したものは

明日は知れない

北の国へ

冷たい雨

白い傘

竹田の子守唄

かごの鳥ブルース

A面

坊や大きくならないで

小さな箱

ランブリン・ボーイ

学校で何を習ったの

労務者とは云え

お捨てメリンダ

もしも平和になったなら

B面

明日なき世界

生きのこり

ときは流れる

血まみれの鳩

一人の手

チューインガム一つ

俺らの空は鉄板だ

※ 全作詞:鵬風太郎、全作曲・編曲:宇野誠一郎。

A面

張子の虎

賛成・反対

東風の吹く国

きちんと物を考えよう

流れる水

青年は午前9時の太陽だ

B面

梨の実をかじる歌

重い荷物と軽い荷物

上手なピアニスト

フェニックスは火から生れる

調査なくして発言権なし

毛沢東と話してみたい

たづるさん

君よそよ風になれ

私を待つ人がいる

春を待つ少女

そのままでそのままで

はじまりの日に

君はランナー

長い道

オレンジの木

NAMES ネイムズ

野の花の歌が聞こえますか

想い出の赤いヤッケ

拝啓 大統領殿

受験生ブルース

死んだ男の残したものは

ちっちゃな箱

わらぶきの屋根

陽気にゆこう

おひさまソング(田舎ぐらし)

私の子どもたちへ

黒い機関車チューチュー

ホノルル・モーニング・ラン

私に人生といえるものがあるなら

八ヶ岳

サイド・バイ・サイド

長い道(Long Way)

十字架に帰ろう

西園小学校校歌

母は年老いて

さあ、お祭りだ!

川よ

ヘイ・ミスター・キム

We Shall Overcome 勝利を我らに

マイ・ランブリン・ボーイ

ロンドンデリーの歌

ネイムズ

野の花のうたが聞こえますか

旅の途中

※ 高石ともやとザ・サファリンゲール名義

川よ

父の唄

あわてなさんな

リール

春を待つ少女

ひとりぼっちの裸の子ども

イマジン

私の子どもたちへ

ジグ(Jig)

初恋

じゃあね

Ondo-よさぶら(音頭与三郎)

ワクワク

シアトルへ行こう

谷間の虹

ホノルル・モーニング・ラン

孤独のマラソン・ランナー

長距離ランナー

サマー・タイム・ドリーム

君はランナー

自分をほめてやろう

蝉しぐれ

エイド・ステーション

グット・ディ・フォー・ユー

長い道

かけのぼれ夢よ

君よそよ風になれ

山青く海青く

花ざかり

衣更え

行く人来る人

蓮華合掌

仲よく仲よく

明日香を横切って

訪ねよう

不空羂索

宇治・花ものがたり

山深く上醍醐

水の音

石山詣

三井寺の鐘 Gone On

静かなり

それぞれの秋・清水

捨ててこそ・空也さん

姉・三・六角

革堂の屋根

全山紅葉

亀岡・涅槃像

Now & Here すべてよし

信仰・観光・健康

安産祈願

紅紫の九輪草

陽だまりの縁側

ラスト・サムライたちは

美人観音

若狭路

ひとつの船に

檜皮葺

平成開眼

旅の終り

もう一歩

水は頑張らない(水のものがたり)

Run River Run!(いび川マラソン・テーマ曲)

※ 1968年1月12日 大阪 サンケイホール実況より~

A面

受験生ブルース

あの人の日曜日

お父帰れや

とび職ぐらし

のんき節

時代は変る

想い出の赤いヤッケ

B面

一人の手

旅立つ人

あるおっさん云いはった

拝啓大統領

橋を作ったのはこの俺だ

新しい日

We Shall Overcome 勝利を我らに

ボーナス・トラック

受験生ブルース(シングル・バージョン)

友よ

北の国へ(シングル・バージョン)

主婦のブルース

A面

明日は知れない

浪速子守唄

白い傘

ベトナムの空

ジョニーの凱旋

のんき節

かあちゃんごらんよ

B面

Little Boxes

What Did You Lean In School Today

We Shall Overcome

チューインガム一つ

よいとまけの唄

C面

Blowin' In The Wind

The House Of The Rising Sun

The Times They Are A-Changin'

死んだ女の子

旅立つ人

D面

俺らの空は鉄板だ

シャボン玉

死んだ男の残したものは

One Man'S Hands

We Shal Overcome

※ 1968年12月24日大阪・サンケイホールでの、高石友也第3回リサイタルの模様を収録。

A面

友よ~風に吹かれて~友よ

俺らの空は鉄板だ

ハタ織のブルース

女工哀史

現代節

B面

受験生ブルース (NORTH CUNTRY BLUES)

炭鉱町ブルース (NORTH CUNTRY BLUES)

殺し屋のブルース

ベトナムの空

ホー・ホー・ホーチミン

もしも平和になったら

坊や大きくならないで

C面

想いでの赤いヤッケ

ランブリング・ボーイ (MY RAMBLING’ BOY)

北の国へ

旅立つ人

おいでよ僕のベッドに (COME TO MY BEDSIDE MY DARLING)

主婦のブルース

D面

戦争は知らない

拝啓大統領殿

腰まで泥まみれ (BIG MUDDY)

シャボン玉

友よ

こんな男でよかったら(歌唱:渥美清、1973年 - よみうりテレビ、作曲)

札幌市立西園小学校

大阪府立八尾北高等学校

クラーク記念国際高等学校

名古屋河合塾学園

トライデントコンピュータ専門学校大阪

大和郡山市郡山東保育園園歌

宇陀市立菟田野小学校

バラエティー生活笑百科(2011年8月6日・2013年6月22日、NHK総合)

おはようパーソナリティ道上洋三です(朝日放送ラジオ)常連ゲスト

日本列島ズバリリクエスト(京都放送)

MBSチャチャヤング(MBSラジオ)

ハロー!ナショナルショウルーム(MBSラジオ)

高石ともや 風の季節(文化放送)

高石ともやのジョギング・ジョッキー(文化放送)

ポプソン・フリーダム・ストリート〜高石ともやグッドライフグッドフィーリング〜(文化放送)

『気分はいつもトライアスロン : 高石ともや・running・book1』〈ランナーズ・ブックス〉、ランナーズ、1986年10月1日。

『高石ともやの挑戦 気分は陽気なウルトラマン 高石ともや・running・book 2』ランナーズ(1989年)

『さあ、陽気にゆこう フォーク・ソング年代記』大月書店(1993年)

『Song of the runner アメリカ横断マラソン64日の物語』紫翠会出版(1994年)

『さあ、陽気にゆこう 2』ナナ・コーポレート・コミュニケーション(2002年)

高石友也、岡林信康、中川五郎『フォークは未来をひらく : 民衆がつくる民衆のうた』〈新報新書〉、社会新報、1969年4月30日。

^ 高石がまだデビューする前、アルバイト先のスキー場のロッジの主人から想い出の赤いヤッケを教わった。慶應義塾大学山岳部の菊池平三郎作詞、三沢聖彦作曲。

^ 第2回高石友也リサイタル(1968年1月12日、大阪サンケイホール)のライブ。

^ 第3回高石友也リサイタル(1968年12月24日、大阪サンケイホール)のライブ。

^ 映画『笑え』(2009年/太田真博)の主題歌。

^ サロマ湖100kmウルトラマラソンのテーマ曲。

^ ABCラジオ「おはようパーソナリティ道上洋三です」25周年記念として作られたCD。

^ 高石が道上洋三に贈り、道上が歌っている。

^ “【速報】高石ともやさん死去、82歳 フォーク歌手「受験生ブルース」 |文化|地域のニュース|京都新聞”. 京都新聞 (2024年8月18日). 2024年8月18日閲覧。

^ 公式サイトによれば、2019年現在、43回連続出場している。高石ともやの主な大会出場歴

^ 「週刊読売」読売新聞社発行、1969年6/13号、P18

^ 「週刊読売」読売新聞社発行、1969年6/13号、P19

^ 「日本フォーク私的大全」なぎら健壱著、筑摩書房、1995年9月25日、19頁

^ 富澤一誠『フォーク名曲事典300曲〜「バラが咲いた」から「悪女」まで誕生秘話〜』ヤマハミュージックメディア、2007年、33頁。ISBN 978-4-636-82548-0

永六輔

三上寛

諸口あきら 

北海道出身の人物一覧

ミュージシャン一覧

有森裕子

宵々山コンサート

高石ともやのページ

高石ともやさん応援ページ 小さな箱

URC History:1960年代の高石の活動記録が掲載されている

家族を語る】高石ともやさん(1)今でも、ふわっと奥さんがそばにいるよう(1-4ページ) - MSN産経west - ウェイバックマシン(2012年2月19日アーカイブ分) 

VIAF

日本

MusicBrainz

    2

    3

    この項目は、歌手に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:音楽/PJ芸能人)。

    日本の男性シンガーソングライター

    日本のギタリスト

    日本のマンドリン奏者

    バンジョー奏者

    日本のフォークシンガー

    ブルーグラス

    立教大学出身の人物

    北海道滝川高等学校出身の人物

    北海道出身の人物

    1941年生

    2024年

    膵癌で亡くなった人物

    Pages using the JsonConfig extension

    ISBNマジックリンクを使用しているページ

    VIAF識別子が指定されている記事

    NDL識別子が指定されている記事

    MusicBrainz識別子が指定されている記事

    すべてのスタブ記事

    歌手に関するスタブ

2024/11/21 18:41更新

takaishi tomoya


高石ともやと同じ誕生日12月9日生まれ、同じ北海道出身の人

白川 のぞみ(しらかわ のぞみ)
1999年12月9日生まれの有名人 北海道出身

白川 のぞみ(しらかわ のぞみ、1999年12月9日 - )は、日本のグラビアアイドル、タレント 。北海道出身。 北海道在住時に自撮り等をTwitterに上げていたところ、声を掛けられてデビューに至…

安彦 良和(やすひこ よしかず)
1947年12月9日生まれの有名人 北海道出身

安彦 良和(やすひこ よしかず、1947年12月9日 - )は、日本の漫画家、アニメーター、キャラクターデザイナー、アニメ監督、イラストレーター、小説家。北海道紋別郡遠軽町出身。埼玉県所沢市在住。 …

本郷 新(ほんごう しん)
1905年12月9日生まれの有名人 北海道出身

本郷 新(ほんごう しん 、1905年(明治38年)12月9日 - 1980年(昭和55年)2月13日)は、日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。息子は俳優の本郷淳、義娘(息子の妻)は柳川慶子。孫は…

倉橋 ルイ子(くらはし るいこ)
1959年12月9日生まれの有名人 北海道出身

ポリドール・レコード1981年-1984年 東芝EMI1986年-1988年 vap1991年-1992年 倉橋 ルイ子(くらはし るいこ、1959年12月9日 - )は、北海道三笠市幾春別出身の歌…

神保 貴宏(じんぼ たかひろ)
1986年12月9日生まれの有名人 北海道出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 神保 貴宏(じんぼ たかひろ、1986年12月9日 - )は、北海道苫小牧市出身の元プロ野球選手(外野手)。右投右打。プロでは育成選手…


TOPニュース

動画を見るだけで10万円稼げる!?

闇バイトに引っかからない方法

Hey! Say! JUMPの有岡大貴松岡茉優が結婚を発表

令和6年6月6日に66歳になった人は?

藤原さくら、ライブ活動休止を発表

サッカー日本代表の堂安律が一般女性と結婚を発表

NHK大河ドラマ「光る君へ」で松下洸平がペラペラの宋語で話題に

King&Prince永瀬廉が右耳負傷の為一時活動休止を発表

いくよくるよの今くるよさん、膵がんの為死去


高石ともやと近い名前の人


高石 太(たかいし ふとし)
1948年10月4日生まれの有名人 愛媛出身

高石 太(たかいし ふとし、1948年〈昭和23年〉10月4日 - 2020年〈令和2年〉1月31日)は、元吉本新喜劇、松竹新喜劇の座員、元漫才師。本名は鈴木 雄偉。愛媛県出身。貝塚高校普通科卒業。 …

高井 信(たかい しん)
1957年7月27日生まれの有名人 愛知出身

高井 信(たかい しん、1957年7月27日 - )は、日本の小説家、SF作家である。名古屋市出身。東京理科大学理学部応用物理学科卒業。日本SF作家クラブ、日本推理作家協会会員。 高校時代からSFフ…

高井 俊輔(たかい しゅんすけ)
1981年9月29日生まれの有名人 静岡出身

高井俊輔(たかい しゅんすけ、1981年9月29日 - )は、東京都を拠点に活動するシンガーソングライター。静岡県浜松市生まれ。血液型O型。早稲田大学人間科学部卒業。Street Music Reco…

高石 勝男(たかいし かつお)
1906年10月14日生まれの有名人 大阪出身

高石 勝男(たかいし かつお、1906年(明治39年)10月14日 - 1966年(昭和41年)4月13日)は、日本の競泳選手。元日本水泳連盟会長。1928年アムステルダムオリンピックにおいて800m…

髙石 あかり(たかいし あかり)
2002年12月19日生まれの有名人 宮崎出身

髙石 あかり(たかいし あかり、2002年12月19日 - )は、日本の女優。宮崎県出身。エイベックス・マネジメント・エージェンシー所属。 2014年に行われたavex主催のキッズコンテスト『キラッ…

注目の芸能人・有名人【ランキング】
話題のアホネイター
高石ともや
  • Google+でシェア
  • はてなブックマークに追加
  • LINEでシェア

最近追加された芸能人・有名人

こっちのけんと 斎藤元彦 松島かのん 澤繁実 小野寺紘毅 桜井誠_(活動家) 安野貴博 ジャンボ松田 後藤輝樹 石丸幸人

グループ

Kis-My-Ft2 GReeeeN タッキー&翼 ベイビーレイズ やるせなす THE ポッシボー TEAM★NACS ももクロ 新選組リアン 東京女子流 

▲ページトップに戻る

この記事は、クリエイティブ・コモンズ・表示・継承ライセンス3.0のもとで公表されたウィキペディアの項目「高石ともや」を素材として二次利用しています。

twitterはじめました