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井上陽水の情報 (いのうえようすい)
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【6月17日】今日誕生日の芸能人・有名人

井上陽水の情報(いのうえようすい) シンガー ソングライター 芸能人・有名人Wiki検索[誕生日、年齢、出身地、星座]

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井上 陽水さんについて調べます

■名前・氏名
井上 陽水
(読み:いのうえ ようすい)
■職業
シンガー ソングライター
■井上陽水の誕生日・生年月日
1948年8月30日 (年齢75歳)
子年(ねずみ年)、乙女座(おとめ座)
■出身地・都道府県
福岡出身

(昭和23年)1948年生まれの人の年齢早見表

井上陽水と同じ1948年生まれの有名人・芸能人

井上陽水と同じ8月30日生まれの有名人・芸能人

井上陽水と同じ出身地福岡県生まれの有名人・芸能人


井上陽水と関係のある人

安田裕美: 井上陽水のデビュー当時を支えたバック・ギタリストとして有名。


塩川達也: 『Make-up Shadow』井上陽水(2007年)


美久月千晴: スタジオ・ミュージシャンとして、aiko、井上陽水、今井美樹、岩瀬敬吾、河内淳貴、桑田佳祐、吉川晃司、新山詩織、浜田省吾、一青窈、福山雅治他、数多くのライブ・サポート/レコーディングに参加。


矢口高雄: 井上陽水の大ファンである。


原田真二: この公演を皮切りに9月15日の大阪府立体育会館まで全国六都市12ヶ所で行ったアリーナツアーも、井上陽水がやって以来のもの。


依布サラサ: 父はシンガーソングライターの井上陽水


水谷豊: 1977年「はーばーらいと」(作詞:松本隆、作曲:井上陽水)で歌手デビュー。


松本隆: AMERICAN LINE(作曲:井上陽水


玉置浩二: 1981年、井上陽水のバックバンドとして上京し、1983年まで陽水の全国ツアーに帯同。


伊藤咲子: ※原曲歌唱:井上陽水


中西智代梨: ものまねのレパートリーは、井上陽水、アントニオ猪木、鳥、ハンガー、高級な美術館に飾ってある高級な壺、甲子園球場のサイレンなど。


山口優: アニメ『トライガン』劇伴、井上陽水等のバックバンドで知られるギタリスト、元ティポグラフィカの今堀恒雄は義弟にあたる。


斎藤有太: 井上陽水、渡辺美里、奥田民生、藤井フミヤ、大橋卓弥、氷室京介、OKAMOTO'S、住岡梨奈、 トータス松本、 土岐麻子、 ゆず、GLAY、沢田研二などのアーティストのサポートを務める。


渡嘉敷祐一: 井上陽水


操上和美: 広告写真以外に、井上陽水のCDジャケットやツアーパンフレットの撮影も手掛けている。


来生たかお: 井上陽水、小椋佳に続く第三の新人として、キティレコードからデビューした当時、若者の音楽はまだフォークソング色が濃く、ジーパンにスティール弦アコースティックギター一本というスタイルの歌手も多かった中、ピアノで歌う男性シンガーは珍しかった。


藤井丈司: プロデューサー/編曲家として、井上陽水、ゴスペラーズ、TEI TOWA、仲井戸麗市、Spiral Life、NOKKO等、幅広いジャンルでの作品を手がける。


渡辺宙明: 好きなミュージシャンに、井上陽水、松任谷由実、竹内まりや、山下達郎を挙げている。


えのきどいちろう: 「井上陽水全発言」


後藤正文: 小学生のころはサザンオールスターズ、井上陽水、マイケル・ジャクソンなどをカー・ステレオで聴いていた。


武田鉄矢: 荒井由実、小椋佳、吉田拓郎、井上陽水..といった主流がテレビに出るのを拒否していたんです。


多賀英典: 音楽ディレクター・プロデューサーとして、小椋佳 や井上陽水を手がけ、黒盤(アナログレコード)総生産数1位から5位中3枚のアルバムを叩き込んだ伝説のプロデューサー。特に井上陽水に対する影響は大きく、楽曲「心もよう」の曲名は多賀が命名したものである。


斉藤由貴: 作詞・作曲:井上陽水/編曲:崎谷健次郎


ゴリけん: しばらく井上陽水や海援隊を輩出したライブ喫茶照和でネタを披露していたが、音楽家以外が照和でライブをするのは初めてであった。


長谷邦夫: 他に1974年、井上陽水『氷の世界』収録曲「桜三月散歩道」(元来は『まんがNo.1』の付録のソノシートのために作成された曲)の作詞で日本作詩大賞LP賞を受賞した。


川原ひろし: 中学生に入るとアコースティックギターを始めて吉田拓郎や井上陽水をコピーしたり作曲もするようになる。


吉田拓郎: 1975年5月に、高額納税者番付1974年度納税分で、歌手部門にフォークシンガーとして井上陽水とともに初のランク入りとなった(拓郎5位、陽水7位)。


西川進: そのような強烈で個性の強いギターが印象的だが、いきものがかり、アンジェラ・アキ、井上陽水から堂本剛のサポートまで、そのプレイスタイルは幅広い。


芦川よしみ: ※原曲歌唱:井上陽水


薬師丸ひろ子: コンサートのパンフレットには、井上陽水、竹内まりや、中島みゆき、松任谷由実(掲載順)からの祝福のメッセージが掲載されている。


井上陽水の情報まとめ

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井上 陽水(いのうえ ようすい)さんの誕生日は1948年8月30日です。福岡出身のシンガー ソングライターのようです。

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経歴、交流関係などについてまとめました。現在、卒業、兄弟、結婚、姉妹、映画、テレビ、離婚、退社、事件、再婚、家族、ドラマに関する情報もありますね。井上陽水の現在の年齢は75歳のようです。

井上陽水のプロフィール Wikipedia(ウィキペディア)

井上 陽水(いのうえ ようすい、1948年〈昭和23年〉8月30日 - )は、日本のシンガーソングライター。本名は、表記は同じで読みが「いのうえ あきみ」。旧芸名:アンドレ・カンドレ。福岡県嘉穂郡幸袋町(現:福岡県飯塚市幸袋)生まれ・福岡県田川郡糸田町育ち。高知県出身。血液型はAB型。身長180cm。

1969年に「アンドレ・カンドレ」としてデビュー。1971年に本名の井上陽水として再デビュー。1970年代には吉田拓郎と並んでフォーク、ニュー・ミュージック界を牽引。その後も現在に至るまで第一線で活躍を続ける、日本を代表するシンガー・ソングライターの一人。2人目の妻・石川セリとの間に1男2女をもうける。長女は作詞家・歌手の依布サラサ(本名・井上ニサ)。

本名は『あきみ』と読むが、吉田拓郎を意識したレコード会社が『拓郎(たくろう)のように陽水(ようすい)にしよう』と言い出し、本人は『そうですか』と受け入れた。

経歴

生い立ち

1948年(昭和23年)8月30日、福岡県田川郡糸田町中糸田に生まれる。本籍地は高知県幡多郡佐賀町で、佐賀町町役場に提出された出生届には「陽水」の下に「あきみ」と振り仮名が付いている。

父は高知県幡多郡佐賀町(現:黒潮町)出身の元軍医井上 若水(いのうえ わかみ、-1972年6月) 。若水の幼少期の井上家は大きな網元で広い山林を持つ資産家であった。しかし不漁続きとなり、昭和初期には没落。若水は子供ながら一人神戸へ旅立ち、キリスト教の伝道関係の職に就き勉強を続ける。苦学の末に高等専門学校卒業の資格を得る。その後、神戸で金属工芸の技術者として働くが、やがて朝鮮総督府に勤務する兄から人手の足りない福祉・医療関係の仕事に誘われ、1940年に朝鮮(京城(現在のソウル))へ渡る。ここでの経験がのちに開業歯科医の免許取得に役立つ。間もなく、同じ歯科医を兄弟・親戚に持つ母・フジと知り合い結婚。南下してくるソ連軍から逃れるため、フジはやっとの思いで先に帰国。開業歯科医をしていたフジの兄の地元の福岡県直方市にたどり着く。追って父が引き揚げる。若水は引き揚げ後は炭鉱で働いていたが、陽水が生まれてまもなく、フジの兄の意見も参考に隣接する糸田町で歯科医院を開業する。兄弟姉妹は姉1人、妹1人。

1953年、糸田町に引っ越す。田川は何も縁のない土地で、ずっと"よそ者"意識があったという。糸田小学校、糸田中学校、西田川高校と進学。

小学校時代、子供会や婦人会の集まりで歌わせられることが多々あり、当時から歌がうまいと褒められていた。またこの頃から、8歳上の姉の影響でプラターズやエルヴィス・プレスリーなど洋楽を聴くようになり、ヒットパレード系のラジオに熱中するようになる。

1963年、中学3年の時に小島正雄のラジオ番組で紹介された「プリーズ・プリーズ・ミー」に衝撃を受け、以降ビートルズに熱中する。高校時代はビートルズ狂いと周りから呼ばれ、数人の仲間と一日中歌いまくり、休日には(当時出始めの)オープンリールのテープレコーダーでその歌を録音するなど、ビートルズ漬けの生活を送っており、仲間内のみならず町内でも生粋の音楽狂として名が知られていた。

家業を継いで歯科医になることを期待されていたため、1967年、九州歯科大学を受験するも失敗し、予備校に通い始める。この年は小倉育英館に通ったが、翌年には九州英数学舘に変える。二浪目の1969年「帰って来たヨッパライ」(ザ・フォーク・クルセダーズ)を深夜放送で聞き、自らも高校時代に歌を録音する際に同じような早回しテクニックで遊んでいた経験 から、「これなら自分にもできる」「音楽でひとやま当てたい」と思ったのが曲を作り始めたきっかけ。ギターを見よう見まねで始める。1968年、再度の受験にも失敗する。1969年、3度目の受験に失敗し、大学進学を諦めた。その後「東京で勉強して大学入学を目指す。」と父に伝え上京するが歌手となるための活動に専念し、受験活動は行っていなかった。

アンドレ・カンドレ時代

1969年、RKB毎日放送のラジオ番組『スマッシュ!!11』が放送開始される。この番組には視聴者が作った音楽を流すコーナーがあり、それを知った陽水は12弦ギターを使って「カンドレ・マンドレ」を自宅録音(テープレコーダーを二つ使った多重録音の擬似弾き語り)し、4月16日、テープをRKB毎日に持ち込む。『スマッシュ!!11』のディレクターの野見山実は、録音を聴きすっかり興奮した。陽気だが何か寂しげなところがあり、その発想に驚嘆した。このとき陽水は「マンドレ」という芸名を考えていたが、野見山が難色を示し(「マン」が女性器を連想させるという理由で)芸名は「アンドレ・カンドレ」に決まる。「カンドレ・マンドレ」は『スマッシュ!!11』で放送され、数多くのリクエストを受け、中には「生の声を聴きたい」というものもあった。ただしリクエストの大半は、陽水が友人(主に浪人仲間)にはがきを配ってリクエストを出すよう指令したためのものだったという。野見山は彼らとの比較で、陽水の曲には非常に高度なものが内在していることに気付き、その将来性を買ってCBSソニーの中曽根晧二宛に手紙で送るとともに、新聞記者にも陽水に対する考えを隠すことなく話した。中曽根の反応は早く、当時としては異色な面白さだとして、発売を急いだ。当時、CBSソニーはカルメン・マキの「時には母のない子のように」のヒットの余勢をかって、さらなる一発を狙っていた。躊躇していては他社に取られる恐れがあったため、会社側は中曽根にすぐに福岡へ迎えに行くよう指示した。両親は陽水の上京には反対したが、陽水の強い信念に父は「1曲吹き込んだら帰ってくるんだな。音楽がダメでもお前には別の生きる道がある」と伝えた。

放送後、RKBのスタッフからホリプロを紹介され、1969年7月初旬にレコーディングのため福岡市から上京。「カンドレ・マンドレ」を改めてレコーディングし、同年9月1日、CBSソニー(現:ソニー・ミュージックレコーズ)からアンドレ・カンドレとして同曲でデビュー。演奏は六文銭、編曲は小室等が担当したが、ほとんど注目されず、続く「ビューティフル・ワンダフル・バーズ」も、松山猛と加藤和彦から楽曲提供を受けた「花にさえ、鳥にさえ」(1970年)も不振に終わり、シングル3枚でアンドレ・カンドレとしての活動は終わることになった。以後、ポリドール移籍までの間は、本人も語ろうとしない空白の1年間となる。当時は、麻雀とパチンコに明け暮れており、仕事はあっても月2日位であったと後に語っている。

ビートルズ狂いの経緯もあり、本人は自らをフォーク歌手とは全く思っていなかったが、当時一般には「ギターを持って歌う歌手はフォーク歌手」として認識されていたため、フォーク歌手的な扱いを受けることが多く、営業先で嫌な目にあうことがしばしばあり、これが後にホリプロから独立する遠因になった。

アンドレ・カンドレ時代に知り合った小室等、安田裕美(六文銭のギタリスト)、星勝(モップスのギタリスト)、RCサクセションの忌野清志郎などとは以後長く深い交際になる。特に小室等からボブ・ディランを薦められ、以降の作詞に強い影響を受けた。

当時の映像として1970年公開の、和田アキ子主演映画『女番長 野良猫ロック』にモップスなどホリプロのアーティストと共に出演。「カンドレ・マンドレ」を歌うシーンがある(ただし、レコード音源に合わせて歌う、いわゆる「リップシンク」)。

この当時の陽水をよく知る高石ともやは、陽水の印象を「ギター1本で客ひとりひとりをねじ伏せるような歌だった。彼の言葉はとても鋭く、近づけないような雰囲気だった。演奏している背中を見ると、なんだか切なかったことを覚えている」と語っている。

ポリドール時代

1971年、ポリドール・レコードのディレクター多賀英典に誘われて移籍し、初のアルバム『断絶』のレコーディングを始める。このアルバムの製作開始に合わせて名前を変えることになり、マネジメントの指揮を執った奥田義行が本名を聞くと「井上アキミ」というので、どんな字かと思ったら「陽水」と書くという。奥田は吉田拓郎を意識し、「拓郎がその二文字で若者にインパクトを与えている。だったら下の名前の「陽水」の2文字で対抗、強調していこう」と戦略を立てた。

吉田拓郎の生活派ソングというべきフォークがもてはやされるに至り、翌1972年3月1日、芸名を井上陽水(ようすい)と改め、シングル「人生が二度あれば」で再デビューを果たす。「人生が二度あれば」を編曲した星勝は、以後しばらく、陽水の作品の大部分を編曲することになる。5月に「傘がない」が収録された初アルバム『断絶』がリリースされる。陽水が売れ始めたのは、このアルバム『断絶』から。陽水自身は売れた理由について『陽水ライヴ もどり道』ジャケット内自筆年表で、「おりからのフォークブームでなんとなく浮上」と書いている。「傘がない」は虚無的な当時の若者の真情を表現しているとして注目された。『深夜放送ファン』1973年11月号の『陽水ライヴ もどり道』のレコード評には「その実力を認められるべくして認められた井上陽水は今年もっとも注目された歌い手で、そしてもっともレコード・セールスにおいて売れた歌い手だ。かつて岡林信康がその精神的な意味で若者の心に重く存在したように、また吉田拓郎がヤングのオピニオン・リーダーとして存在したように、今、井上陽水はそのセンチメンタルな世界をひっさげ<どうしようもない時代>に生き続けなければわれわれに慰みを与えてくれている」と書かれている。

その年の12月には2ndアルバム『センチメンタル』をリリース。また陽水がお客の前で本格的なライブを演ったのはこの1972年の大晦日、「渋谷ジァン・ジァン」と「青い森」が初めてで、ライブ活動を主戦場にしていた他のフォークシンガーに比べると、先のCBSソニーという大手レコード会社で一旦デビュー後に、別の大手から再デビュー等と合わせ、当時としては異色の経歴だった。このライブの陽水のギャラは1ステージ5,000円だった。

翌1973年3月のシングルで東宝『放課後』の主題歌「夢の中へ」が初のヒット(オリコン17位、以下売り上げ順位はすべてオリコン)となり、同年7月には初のライブアルバム『陽水ライヴ もどり道』がリリースに至る。人気上昇の切り口となった「夢の中へ」は、自身が「みんなで歌えるように作った」とコメントしているとおり、単純で明るく、親しみやすい曲である。中川右介はこの曲がようやくヒットするまでの陽水は低迷していたと指摘している。そして、同年9月にはシングル「心もよう」をリリース。これもスマッシュ・ヒットとなる。

そして、同年12月にアルバム『氷の世界』をリリース。当アルバムは100週以上BEST10に留まるなどロングセールスを続け、発売から2年後の1975年8月に日本レコード史上初のLP販売100万枚突破の金字塔を打ち立てた。オリコンのLPチャートでは5度も1位に返り咲くという記録も持っており、陽水は第一期の黄金時代を迎える。

この間、『二色の独楽』や『断絶』などの過去アルバムもチャートの上位を独占するなど、それまでのシングル・レコードを寄せ集めたアルバムではなく、吉田拓郎や小椋佳などとともに、シンガーソングライターによる良質なアルバム中心の時代に移行する先駆けとなった。

ポリドール時代には理由は諸説あるが殆どテレビに出演せず、外見が一般の目に触れる機会はレコードのジャケット写真がもっとも多くを占めていた。シングル「人生が二度あれば」からアルバム『氷の世界』までのジャケットでは、髪型がアフロヘアー、サングラスはなしで写っている。しかし『氷の世界』のインナースリーブにある写真の一枚ではサングラスをかけており、サングラスなしの写真は1975年のシングル「御免」以降、著書『綺麗ごと』のために撮られたものなど少数の例外を除き見られなくなる。テレビ拒否の理由について多賀は、1975年1月22日付けの日刊スポーツの取材に答え、「拒否しているわけではありません。学芸会でないものが出来ればという条件付きでです」と述べ、当の陽水は「積極的に出ていけるような広い心を持ちたいです」などと話し、芸能週刊誌をたくさん読み漁って、「自分のことがどう書かれているか興味深い」などと話した。

1974年1月17日、熊本県出身の女性と結婚する。これを機に中野南台の四畳半アパートから、世田谷三軒茶屋の3DKのマンションに引っ越す。

1974年は5枚のアルバムだけで売り上げ150万枚、金額にして34億1,000万円(オリジナルコンフィデンス誌調べ)を売り上げ、年収は3~4億円と推定された。"テレビ嫌い"とも評され、歌謡番組からワイドショーから相当数の出演交渉を全て断っていたが、陽水名となって初めてのテレビ出演とされる1974年12月に東京12チャンネル(テレビ東京)で陽水、小椋佳、遠藤賢司の3人のコンサート実況がフィルム構成で放送されている。この年大晦日の第16回日本レコード大賞は、日本レコード大賞を森進一の「襟裳岬」が受賞したため、作曲者の吉田拓郎が授賞式にジーンズで登壇し物議を醸したが、陽水も企画賞を受賞していたが欠席した。

1975年、陽水・吉田拓郎・泉谷しげる・小室等が中心となって、フォーライフ・レコードを発起する。また、後に結婚する石川セリと出会う。

フォーライフ時代:大麻取締法違反容疑で逮捕〜第二次陽水ブームまで

1976年2月、離婚。同年にフォーライフからリリースした『招待状のないショー』は9週連続1位を獲得。1977年、石川のアルバム『気まぐれ』に「ダンスはうまく踊れない」ほか2曲を提供する。「ダンスはうまく踊れない」は、陽水の部屋に遊びに来たセリの目の前で30分ほどで作られたという。

1977年9月10日、大麻所持容疑で逮捕され、「自分は酒が飲めないので、くつろぐためにマリファナを吸った」と自供した。9月22日に保釈され、10月11日には懲役8か月、執行猶予2年の判決を受ける。この逮捕に関して、当時朝日新聞記者だった筑紫哲也が、「マリファナは日本では違法であるが、これと絡めて井上陽水の歌まで否定する一部の意見は間違っている」と発言し、擁護を行っている。この時はまだ互いに親交こそなかったが、のちに筑紫がテレビに進出し、初のメインキャスターを務めた『日曜夕刊!こちらデスク』の最終回(1982年9月26日)では陽水がゲスト出演し持ち歌を3曲歌唱、報道番組では異例の全編生歌で番組を締めくくった。筑紫は初めて番組を持つことになった時、『傘がない』の「テレビではわが国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべってる」というくだりが頭に浮かんだ、と回想している。その後、1989年に筑紫が新聞社を退社してスタートした『筑紫哲也 NEWS23』では、筑紫からの要請で初代のオープニングとエンディング曲(『最後のニュース』)を陽水が担当した。

1978年7月、上記の事件後(執行猶予中)にリリースされたアルバム『"white"』はオリコンチャートの3位を獲得した。

1978年8月30日、30歳の誕生日に石川と再婚、同年12月16日には長男が産まれている。

1979年のアルバム『スニーカーダンサー』では高中正義が5曲の編曲を務め、1980年のアルバム『EVERY NIGHT』では星勝が編曲から外れるなど、この時期にはサウンドが大きな転換を遂げている。さらに1981年のアルバム『あやしい夜をまって』から編曲に加わった川島裕二、その後BANANAなどの名義で陽水の作品に多数携わり、星勝と並んで重要な位置を占めるようになる。上述の通りセールスは伸びなかったが、この時期の作品には「なぜか上海」「海へ来なさい」「ジェラシー」「とまどうペリカン」「カナリア」「リバーサイドホテル」など、その後のライブやコンピレーション作品で頻繁に取り上げられる楽曲が多数含まれている。

1981年1月、『ばらえてい テレビファソラシド』にゲスト出演。7月『夜のヒットスタジオ』に「ジェラシー」で出演。8月『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」コーナーに「ジェラシー」で出演。

1982年、バックバンドを務めていた安全地帯がデビューし、1983年には自身作詞による「ワインレッドの心」をヒットさせる。さらに1984年には安全地帯に歌詞を提供した「恋の予感」、中森明菜に歌詞と曲を提供した「飾りじゃないのよ涙は」、そして自身の「いっそセレナーデ」がヒットする。12月10日付のチャートでは「飾りじゃ〜」が2位、「恋の予感」が3位、「いっそ〜」が4位と、陽水の手がけた作品が上位を占める。同月21日にはこれらのヒット曲をはじめとする提供曲を、自身が自ら歌ったアルバム『9.5カラット』がリリースされ、翌1985年にかけてヒットする。『9.5カラット』は1985年のアルバム年間売り上げ1位を獲得し、陽水にとっては『氷の世界』以来自身2作目のミリオンセラーとなる。このヒットにより第27回日本レコード大賞で作曲賞とアルバム賞を獲得する。

1986年8月にはライブアルバム『クラムチャウダー』がリリースされ、9月には同じ題名のライブビデオも発売される。さらに8月20日から2日間、安全地帯とのジョイントで「STARDUST RENDEZ-VOUS」と題したコンサートを明治神宮野球場で行う。このコンサートで「夏の終りのハーモニー」を初披露、6万人の聴衆を動員しテレビ中継のほか、ライブアルバム、ライブビデオにも収録された。

フォーライフ時代:タイアップによるシングルヒット〜『九段』まで

1988年9月1日、日産自動車より新発売されたセフィーロ(初代・A31型)のCMに「今夜、私に」を提供。陽水自身も出演し、アドリブで「みなさん、お元気ですか?……失礼しまーす」と声を出す。ところがこのCMが公開されて間もなく、病床に臥した昭和天皇が危篤になったため、声はカットされた。いしいひさいちは団欒中の家族に、窓を開けた陽水が「皆さんお元気ですか」と言うと一気にしらける、イラク軍の捕虜にこのCMを見せた途端、それまで騒がしかった捕虜たちが脱力しておとなしくなる、という作品を描いている。それから間もない10月、フジテレビ系のドラマ『ニューヨーク恋物語』の主題歌に使われた「リバーサイドホテル」がヒットする(11位)。「リバーサイドホテル」は1982年に発表されていた作品だが、リリースから6年を隔ててのヒットとなった。

翌1990年から1991年にかけて、映画『少年時代』の主題歌として作られた「少年時代」(作曲は平井夏美との共作)がヒットする。リリース直後は穏やかなチャートアクションだったが、1991年、ソニーのビデオカメラ「ハンディカム・CCD-TR105」のCMに使われてから売上を伸ばし、ロングセラーとなった。当初は藤子不二雄Aの作詞という話であったが、出来上がってみると藤子の歌詞はまったく使われていなかった。陽水は「安孫子さん の心をもらった」とコメントしており、藤子不二雄Aもイメージ通りの曲だとして出来栄えに満足した。実際に使われなかったオリジナルの歌詞全文は藤子不二雄Aの著書に何度か記載されている。

1993年、フジテレビ系のドラマ『素晴らしきかな人生』の主題歌に使われた「Make-up Shadow」(2007年にはトヨタ・ブレイドのTVCFソングとしても使われた)がオリコン最高2位、売上80万枚超のヒットを記録。第35回日本レコード大賞の金賞を受賞する。

このころからリリースのペースが落ち始める。1994年にアルバム『永遠のシュール』を発表してから、次のアルバム『九段』(1998年)までには3年半のブランクがある。また、この時期はコンサートも少なく、1994年末から1999年9月までのおよそ5年間は全国ツアーを一度も行っていない。

1996年、PUFFYのデビュー曲として歌詞を提供した「アジアの純真」がヒットする。「アジアの純真」の作曲は、以前から交流のあった奥田民生(1994年には「月ひとしずく」(小泉今日子)を共作している)。同じく陽水作詞、民生作曲でPUFFYに提供した「渚にまつわるエトセトラ」もヒットする。続いて「井上陽水奥田民生」というアーティスト名で1997年にリリースしたシングル「ありがとう」、アルバム『ショッピング』はこれらのヒットを受けたものといえよう。「ありがとう」はリリース同年にサッポロビール「黒ラベル」のCMに使われたことも手伝ってオリコン最高2位、売上約25万枚のヒットを記録。

『GOLDEN BEST』のミリオンセラー〜その後

1999年、アンドレ・カンドレとしてのデビューから30周年になることを記念して、2枚組のベスト・アルバム『GOLDEN BEST』がリリースされる。『GOLDEN BEST』は自身3作目のミリオンセラーとなった後も売上を伸ばし続ける。このヒットを受け、『GOLDEN BEST』のリリースからちょうど1年後には「裏ベスト」として『GOLDEN BAD』、『GOLDEN BEST』の売上が200万枚を突破した2003年にはその記念として『GOLDEN BEST SUPER』が発売される。

2001年、「コーヒー・ルンバ」「花の首飾り」のカバーがヒット。これに続いてリリースしたカバーアルバム『UNITED COVER』は80万枚を売るヒットとなり、その期間のライヴ映像はDVD『UNITED TOUR』として発売される。

2002年には4年振りの新作『カシス』と、ジャズ・アレンジを施したセルフカバー・アルバム『Blue Selection』をリリース。1999年から2006年までに、2004年を除いて毎年全国ツアーを開催した。

2006年にはツアーの合間を縫って制作された4年振りの新作『LOVE COMPLEX』をリリース。翌年はツアーの他、「井上陽水奥田民生」としてシングル「パラレル・ラブ」、アルバム『ダブルドライブ』を発表。2008年もツアー活動を行いつつ、ベスト・アルバム『弾き語りパッション』と『BEST BALLADE』の2作を発表している。2009年にはデビュー40周年を迎え、12月には15年振りとなる日本武道館公演を行い、その模様を収録したDVD『40th Special Thanks Live in 武道館』をリリース。翌2010年には4年半振りとなるオリジナル・アルバム「魔力」をリリースしている。

2014〜2015年「井上陽水 氷の世界ツアー」を行う。40年前に発売されたアルバム「氷の世界」を全曲歌う、という内容のツアーだった。

2015年、40年ぶりにポリドールの流れを組むユニバーサル・ミュージックに復帰することが発表された。 2022年現在までにはユニバーサル・ミュージックからアルバム「UNITED COVER 2」とシングル「care」を発売している。

2019年に、歌手活動50周年記念ツアーを敢行して以降は、表立った音楽活動を行っておらず、2020年10月に公式ホームページにビデオメッセージを公開したのを最後に公の場での活動も行なっていない。東京都内の事務所等も引き払い、2020年11月頃からは福岡市内に居住している。また、代表を務めてきた個人事務所の「キャンプ」と「ファイヤー音楽出版」の代表取締役は2021年末に辞任し、長男に譲っている。

交流関係

文壇との交際が広い。文壇を含む文化人との交流は麻雀がきっかけ。1976年に『青空ふたり旅』として出版された五木寛之との対談をきっかけに、まず「話の特集」の矢崎泰久がベトナムに行く時の壮行麻雀大会に五木に連れて行かれ、そこで矢崎、ばばこういち、阿佐田哲也に会い、この後、長谷川和彦と知り合い、長谷川に近代麻雀に出ないかと誘われて田村光昭に会い、その繋がりで長門裕之、黒鉄ヒロシ、畑正憲らと知り合った。

世代的に上の人との付き合いが多い理由について、「吉田拓郎なんかは、自分がリーダーシップを取って周りの人間を引っ張っていくタイプでしょう。僕はそういうの不得意なんです。高校時代、タテ関係が希薄で女性も多い弓道部にいたせいかもしれないけど、下の世代に対する訓練ができていないんですよ」と、40代のころは話していた。同年代およびそれ以下との交流として、沢木耕太郎は歌詞集『ラインダンス』に、村上龍は『綺麗ごと』に寄稿し、町田康は「新しい恋」を作詞している。活動分野は違ってくるが、三谷幸喜は『You Are The Top〜今宵の君』の劇中歌である「You are the top」を作詞している。

また、同郷のタモリとはタモリのオールナイトニッポンにゲスト出演した事をきっかけに親しくなり、「テレフォンショッキング」には計11回、また「ミュージックステーション」、「タモリ倶楽部」、「ヨルタモリ」などにも、前述の通り殆どテレビに出演しないものの「タモリさんの番組なら」としてゲスト出演がある。さらに「ブラタモリ」のテーマ曲に「MAP」「女神」「瞬き」と書き下ろし曲を提供している。

水谷豊にも多くの楽曲を提供したが、初対面のレコーディングの際はほとんど会話が無かったという。それにもかかわらず「今日家に来ない?」と持ちかけ、水谷はその不思議な雰囲気に戸惑いながらも応諾する。翌日、水谷は勧められるまま、鰻丼を食べたり近所の公園でキャッチボールをしたという。

2024/06/14 00:43更新

inoue yousui


井上陽水と同じ誕生日8月30日生まれ、同じ福岡出身の人

いのけん(いのけん)
1989年8月30日生まれの有名人 福岡出身

いのけん(1989年8月30日 - )は、日本のお笑いタレントである。太田プロダクション所属。 福岡県北九州市出身。北九州市立湯川中学校、福岡県立小倉南高等学校卒業、専門学校東京アナウンス学院芸能…

財前 光希(ざいぜん みつき)
1993年8月30日生まれの有名人 福岡出身

財前 光希(ざいぜん みつき、1993年8月30日 - )は、日本の女優、ファッションモデル。熊本県出身。SPACE AGENCY所属。身長160cm。 出演 テレビ番組 ポカリスエット ブカツの…

福田 夏央(ふくだ なお)
1999年8月30日生まれの有名人 福岡出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 福田 夏央(ふくだ なお、1999年8月30日 - )は、福岡県福岡市出身のプロ野球選手(投手)。 福岡市立壱岐小学校4年生のとき…

池﨑 理人(いけざき りひと)
【INI】
2001年8月30日生まれの有名人 福岡出身

池﨑 理人(いけざき りひと、2001年〈平成13年〉8月30日 - )は、日本のアイドル。男性アイドルグループ・INIのメンバー。福岡県北九州市出身。LAPONEエンタテインメント所属。愛称は理人、…


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井上陽水と近い名前の人

井上 麻美_(タレント)(いのうえ まみ)
1975年5月5日生まれの有名人 福岡出身

井上 麻美(いのうえ まみ、1975年5月5日 - )は、日本のアイドル、タレント。福岡県久留米市出身。堀越高等学校卒業。 身長155cm、体重40kg、バスト76cm、ウエスト56cm、ヒップ83c…

井上 貴博_(アナウンサー)(いのうえ たかひろ)
1984年8月7日生まれの有名人 東京出身

井上 貴博(いのうえ たかひろ、1984年8月7日 - )は、TBSテレビのアナウンサー。 東京都出身で、慶應義塾幼稚舎・慶應義塾普通部・慶應義塾高等学校・慶應義塾大学経済学部経済学科へ進学。普通…

井上 貴博_(政治家)(いのうえ たかひろ)
1962年4月2日生まれの有名人 福岡出身

井上 貴博(いのうえ たかひろ、1962年〈昭和37年〉4月2日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(4期)、自由民主党副幹事長。 福岡県議会議員(3期)、財務大臣補佐官、財務大臣政務官)、財務副大…

井上 純一_(俳優)(いのうえ じゅんいち)
1958年8月14日生まれの有名人 東京出身

井上 純一(いのうえ じゅんいち、1958年8月14日 - )は、日本の俳優、声優。また、かつてジャニーズ事務所に所属し、男性アイドルグループ・ジュニア・スペシャルの元メンバー。 東京都世田谷区代田…

井上 純一_(スピードスケート選手)(いのうえ じゅんいち)
1971年12月26日生まれの有名人 埼玉出身

井上 純一(いのうえ じゅんいち、1971年12月26日 - )は、日本のスピードスケート選手。埼玉県秩父市出身。 中学1年からスピードスケートを本格的にはじめ、県立秩父農工高校3年時にインターハイ…

井上 由美子_(脚本家)(いのうえ ゆみこ)
1961年6月24日生まれの有名人 兵庫出身

井上 由美子(いのうえ ゆみこ、1961年 - )は、日本の脚本家。兵庫県神戸市出身。 立命館大学文学部中国文学専攻卒業。卒論では阮籍を扱った。テレビ東京に入社するが、希望していたドラマ制作に携わ…

井上 由美子_(演歌歌手)(いのうえ ゆみこ)
1976年9月10日生まれの有名人 大阪出身

井上 由美子(いのうえ ゆみこ、本名:井上 由美、1976年9月10日 - )は、日本の女性演歌歌手。大阪府藤井寺市出身。身長146cm、血液型A型。所属レコード会社はキングレコード。所属事務所はアル…

井上 昌己_(歌手)(いのうえ しょうこ)
1969年7月21日生まれの有名人 愛媛出身

井上 昌己(いのうえ しょうこ、1969年7月21日 - )は、日本の女性歌手、シンガーソングライター、ラジオパーソナリティー。本名同じ。愛媛県八幡浜市出身。愛媛県立八幡浜高等学校、日本大学文理学部卒…

井上 昌己_(競輪選手)(いのうえ まさき)
1979年7月25日生まれの有名人 長崎出身

井上 昌己(いのうえ まさき 1979年7月25日 - )は、日本の競輪選手、自転車競技選手。長崎県長崎市出身。日本競輪選手会長崎支部所属、ホームバンクは佐世保競輪場。日本競輪学校(当時。以下、競輪学…

井上 登_(野球)(いのうえ のぼる)
1934年5月26日生まれの有名人 愛知出身

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート 井上 登(いのうえ のぼる、1934年5月26日 - 2012年5月5日)は、愛知県宝飯郡三谷町(現・蒲郡市)出身のプロ野球選手(内…

井上 登_(裁判官)(いのうえ のぼる)
1885年4月10日生まれの有名人 千葉出身

井上 登(いのうえ のぼり、1885年〈明治18年〉4月10日 - 1971年〈昭和46年〉7月26日)は、日本の最高裁判所判事。千葉県出身。 井上義行の息子として生まれる。1913年(大正2年)…

井上 和雄_(経済学者)(いのうえ かずお)
1939年4月28日生まれの有名人 北海道出身

井上 和雄(いのうえ かずお、1939年4月28日 - )は、日本の経済学者、音楽評論家,神戸商船大学名誉教授。 北海道生まれ。神戸大学大学院経済研究科博士課程中退。大阪府立大学教養部助手、同経済学…

井上 和雄_(政治家)(いのうえ かずお)
1952年4月24日生まれの有名人 東京出身

井上 和雄(いのうえ かずお、1952年4月24日 - )は、日本の政治家、国際開発コンサルタント。地域政党「自由を守る会」特別顧問。元衆議院議員(2期)。 東京都文京区生まれ。1965年に東京教…

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